元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌

 (最新見直し2008.5.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2008.5.14日 れんだいこ拝


 「元ソ連外交官が語る 「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌」。
 ※ ある方から提供された資料です。ハザール系ユダヤ人とロシア人の知られざる関係に
ついて詳しく説明されています。これはもはや「ユダヤ人の悲史」ではなく、ロシア人の視点
から語られた「ロシア人の悲史」ですね…興味のある方は参考までにどうぞ。
 ── 1993年夏 ──

 旧ソ連時代、駐日ソ連大使館に勤務する外交官だったアレキサンドル・イワノフ氏は、199
3年夏に日本を訪問しました。そして全国各地で講演を行い、これまでのロシアでは何が起
きていたのか、今のロシアで何が起きているのか、そもそもロシアの「ユダヤ問題」とは何で
あるかについて、熱を込めて語りました。

 イワノフ氏はモスクワ大学を卒業し東京大学大学院を修了した、日本事情にも詳しいロシ
ア人外交専門家です。彼の講演には、私たち日本人がおよそ耳にすることのなかった驚くべ
き内容が数多く含まれていました。彼は私たち日本人に、知られざるハザール系ユダヤ人
とロシア人の戦いの歴史を余すことなく語ってくれたのであります。以下は、彼が行った講演
内容の一部をまとめたものです。(各イメージ画像とキャプションは当館が独自に追加)

 「ハザール王国」は7世紀にハザール人によってカスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた
巨大国家である。9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ないユダヤ人以外
のユダヤ教国家となった。
第1章
ロシア vs ハザール王国
第2章
「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった
第3章
ハザール王室直系の子孫
ラーザリ・カガノビッチの暗躍
第4章
ロシアの文化・宗教を徹底的に
破壊したハザール系ユダヤ人
第5章
第二次世界大戦の勃発と
ロシア人の英雄ジューコフ元帥の活躍
第6章
スターリンとジューコフ元帥の反乱
第7章
ソ連崩壊の舞台裏
~ロシア人とユダヤ人の民族闘争が原因~
おまけ
スターリンとカガノビッチについて

■第1章:ロシア vs ハザール王国
■ロシア人はハザール王国と戦った
 6世紀後半、中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のちにハザ
ール(英語で「Khazar」、カザールともいう)王国を形成するハザール人である。一方、当時
はロシアもまだ帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着し
ていた。

 6世紀から8世紀にかけて、ハザール人はカスピ海の北方に進出すると、ロシア人とたび
たび衝突するようになった。ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にして、カスピ海
の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イティルでは当時、ロシア
人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。

 8世紀に入り、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール人は、王から奴
隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはユダヤ国家になった(799~80
9年頃)。そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。現在、世界のユダヤ
人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の子孫である。
 8世紀末、キリスト教を国教とするビザンチン帝国(東ローマ帝国)とイスラム教を国教とす
るイスラム帝国は、ハザール王国をはさむ形で政治的にも宗教的にも対立していた。そのた
めハザール王国は次第に両国の宗教的な干渉を受けるようになり、どちらの宗教に改宗して
も国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。ふつう国が瀕死の状態にな
った時には、どちらか強い方の勢力を選んでしかるべきだが、ハザール王国のオバデア王は
こともあろうに国民まとめてユダヤ教に改宗させてしまったのである。
 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は次第に悪い結果を生み出していった。もとも
とハザール王国は人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王オ
バデアによるユダヤ教への改宗は国を統一するどころか、なんとか支配階級のハザール人
によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。ハザール王国の
ユダヤ教への改宗後、ハザール人の貴族同士の間ではユダヤ教を受容する王国中心部の
グループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そし
てついに835年頃から内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると反乱者の一部は皆
殺しにされ、一部はハザール国外に逃れたのである。


 ※ この事件は反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。国外に
逃亡した反乱分子(カバール・ハザール人)の一部はマジャール人(現在のハンガリー人の
祖)と合流し、指導者層となってハザールの影響を及ぼすことになる。
 8世紀から9世紀にかけて、キエフ大公国のロシア人とハザール王国は数回にわたって戦
争をしたが、965年、ついにロシア人がハザール王国を制圧した。そして、首都イティルをほ
とんど壊滅させてしまった。それ以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることは
なかった。

黒海沿岸に位置するハザール王国はビザンチン帝国とキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の
通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール王国の存在は、
ビザンチン帝国の国庫にとってもキエフ大公国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。

※ 9世紀末頃からロシア人の艦隊がカスピ海沿岸に進出するようになり、913年には800隻から
なるキエフ大公国の大艦隊とハザール王国との間で激しい武力衝突が発生した。この戦いによって
ロシア人たちはカスピ海に足場を築くことができた。その後965年にはキエフ大公国の
スビャトスラフ1世がハザール王国の北方への防衛拠点である「サルケル砦」を
陥落し、ハザール王国の首都イティルにも甚大な被害を与えた。

■ハザール王国の滅亡 ─ ロシア領内に逃げ込んだ改宗ユダヤ教徒たち
13世紀に入ると、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させた。ユダヤ教徒ハザール人、すなわちアシュケナジー・ユダヤ人たちはロシアが近かったので、その多くがロシア領内に逃げ込んだ。

1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡

※ 朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の
遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国
という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、
報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、
カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」

ロシアのユダヤ教徒ハザール人たちは、すでに12世紀に、ロシア国家の中でロシアに対する陰謀を画策するようになっていた。そして1174年、彼らはロシアの最も有名な皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。

当時のロシアは多くの国々の集合体だったので、それぞれの国の皇帝が集まり会議が行われた。その結果、彼らはロシアにいるユダヤ教徒ハザール人を弾圧することに決定した。そして、多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されることになったのである。

■ポーランドへ移ったハザール系ユダヤ人

ヨーロッパの歴史を振り返ると18世紀の末、1772年から3回にわたって、ポーランド分割が行われている。ポーランドは3つに分けられ、当時の強国であったロシア帝国はポーランド領の一部を自らの領土内に組み込んだ。ところがそのポーランドに、ハザール系ユダヤ人たちが「国家内国家」を形成していたのである。

大規模なユダヤ・コミュニティは、15世紀まではスペインの中にあった。もっとも、このスペインにいたユダヤ人は、そのほとんどすべてが聖書でいう本当のユダヤ人、すなわちスファラディ・ユダヤ人であった。1492年、スペイン政府がスファラディ・ユダヤ人を国外に追放したことによって、スペインの中のユダヤ国家は消滅した。スペインを追われたスファラディ・ユダヤ人たちは主に、北アフリカ、オランダ、イギリスなどへ渡って行った。

一方、ロシアから追放されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーランドに移っていた。そのため、15世紀にはユダヤ教徒ハザール人たちの政府はポーランドの中に設けられていたといってもよい。

15世紀の終わりから16世紀にかけて、ポーランドのユダヤ人たちはポーランド人よりも強大な力をもつようになっていた。彼らは実際、ポーランドの国内に自分たちの政府、自分たちの国会、自分たちの教会などをつくっていた。

一般のポーランド人たちはもちろんのこと、ポーランド政府でさえも、そうしたユダヤ人たちの「国家内国家」に対しては、一切手をつけることができない状態にあった。

■ポーランド分割でロシアへ入ったハザール系ユダヤ人

ロシアは18世紀の終わりに、こうしたユダヤ人の「国家内国家」が存在するポーランドの領土の一部を自国の領土としたのであった。領土を得たのはよかったが、領土とともにユダヤ人の政府をも取り込んでしまったのである。このときにロシアは、きわめて危険な毒を飲み込むことになってしまった。

こうして、18世紀からロシア国家の内部には、再びユダヤ問題が生じるようになったのである。

ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。それは、ロシアにとってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからである。ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複雑さがある。

その当時、ロシアに入ったハザール系ユダヤ人は300万人ぐらいであった。そのほとんどがロシアの西側、すなわちウクライナ、西白ロシア、あるいは旧ポーランド領に住んでいた者たちである。

それでも、ユダヤ問題は18世紀には、まだそれほど大きな問題ではなかった。19世紀の終わり頃から、ロシアのユダヤ人たちは熱心に革命運動に参加するようになった。革命運動を指導していた政党、社会民主党や社会革命党などのリーダーおよび活動家たちは、ほとんどすべてがハザール系ユダヤ人であった。

■ロシアに対し復讐心を抱くハザール系ユダヤ人

古来からロシア人は戦闘的、革命的な要素をもたない民族であった。一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化であった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。

ユダヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史と古い歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となっていた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出してくる。

ユダヤ人は過去の歴史の中に生きているといってもよいだろう。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させたことをよく覚えている。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール人にとって最も重要な課題であった。

当時のロシアの知識人の中には、すでにそうしたユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、ドストエフスキーの著作を読むと、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ずユダヤ革命が起きる」と断言していた。

しかしロシア政府は、そうした動きをまったく感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずにユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。


■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった
■日露戦争を画策したハザール系ユダヤ人の狙い

1904年、日露戦争が勃発した。日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際のところである。日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかもしれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけるユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。

日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。

アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。

アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ

※ ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えた

こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。

このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。

ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を
進めたピョートル・ストルイピン首相

しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相はユダヤ人に暗殺されてしまった。

ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前でピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。

ドミトリー・ボグロフ

※ ストルイピン首相を暗殺したユダヤ人で、
事件後、軍事法廷にかけられて絞首刑に処せられた

ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。

その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシアの経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。

■ユダヤ人が担ったロシア10月革命


ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。1917年11月7日(ロシア歴では10月25日)の「10月革命」である。

この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。

南ウクライナ生まれのユダヤ人
レオン・トロツキー(本名ブロンシュタイン)

※ 10代の頃より革命運動に従事し、最初の逮捕と亡命後、
第一次ロシア革命で指導的役割を果たす。後にレーニンの右腕となり、
レーニン率いる暴力革命派(ボルシェヴィキ)と共闘、「赤軍」の創設者および
指揮官として活躍する。1924年にレーニンが死去すると、スターリンが
台頭しトロツキーと対立。政治力に長けたスターリンが勝利すると、
トロツキーは追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。

そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。

10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。

それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。

10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。

レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。ソ連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。そして、政府のトップ・クラスの人々はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったのである。

レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。

■ユダヤ人の間の激烈な闘争 ─ 欧米からやって来た革命家 vs ロシアにいたシオニスト


その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、革命家たちはユダヤ教を信奉しない。

もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。

 


白ロシア・ミンスクの前線でのシオニスト兵の会議(1918年)

 

10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。

1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。

レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。

 


↑1920年2月8日付のロンドンの『イラストレイテッド・サンデー・ヘラルド』紙に
掲載された「シオニズム 対 ボルシェヴィズム:ユダヤ人の魂のための闘争」という社説

驚くべきことにこの記事を書いたのは、かの有名なチャーチル(後のイギリス首相)である。
古くからユダヤ人の知り合いを多く持ち、親ユダヤ主義者であったチャーチル(シオニズム運動に
感銘を受けてイギリス政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家である)は、この記事の中で
ロシア革命におけるユダヤ人の役割について言及し、「共産主義は文明の転覆のための世界的な
革命的陰謀であり、この陰謀は無神論的国際ユダヤ人によって導かれた」と書いている。


 
イギリスのウィンストン・チャーチル首相


■第3章:ハザール王室直系の子孫ラーザリ・カガノビッチの暗躍


■スターリンを操ったモンスター、カガノビッチの正体


10月革命以降、特に1920~1930年代に、ユダヤ人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。それはまさしく、8世紀~10世紀ごろに栄えたハザール王国の再現であった。

ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。スターリンは傀儡であり、ユダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支配者であった。

 

 
第2代ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン(本名ジュガシビリ)

 

それは誰か。世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッチである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付しているが、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。

カガン(可汗)とはハザール人たちの言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。ハザール王国もハザール・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。

ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのである。

 


ハザール王室直系の子孫だった
ラーザリ・カガノビッチ(ユダヤ人)

※ ウクライナのキエフ近郊のユダヤ人家庭の出身で、
スターリンの腹心として経済政策の多くを監督した。頑強な
無神論者として知られ、ロシア正教の「救世主ハリストス大聖堂」の
爆破をはじめ、数多くのキリスト教会や歴史的建造物の破壊活動を主導し、
ウクライナにおいては悪名高い人為的大飢饉「ホロドモール」を引き起こした
責任者としても知られる。また、1930年代後半のスターリンの「大粛清」に
おいても中心的な役割を果たし、180を超える粛清リストに個人的に署名して
数万人を死に追いやったとされる。彼はスターリンの命令を実行する上で、
その冷酷無比ゆえに「鉄のラーザリ」というあだ名で呼ばれていた。

 

スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記にすぎなかった。しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべての政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎなかった。

ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行うビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国の再現であった。

一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。

 

■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した


カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党によったのではない。共産党も表向きの形式にすぎなかった。実際には裏の組織があった。それが国家保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた。

国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)とのハーフで、南コーカサスのグルジア出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザール国家を支配していったのであった。

 


ソ連国内の秘密警察組織の長官
ラヴレンチー・ベリヤ

※ 彼はカガノビッチの従兄弟であり、悪名高い
「カチンの森の虐殺」の主犯であり、シベリア抑留など
外国人捕虜を收容する収容所を管轄する最高責任者でもあった



↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域

※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は
 5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれるが、
ベリヤはスターリンと同じく南コーカサスのグルジア出身の政治家であった

※ ちなみに南コーカサスはハザール王国の南部に接していた地域である

 

またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」という新しいシステムをつくった。ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』には、このシステムについて詳しく述べられている。各収容所の所長は9割がユダヤ人だった。収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。

 

■家族全員処刑されたロマノフ王朝一家の悲劇


革命が成功すると、ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。そのためにはロシアの「頭」を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえば天皇であるように、ロシアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。

 


第14代ロシア皇帝ニコライ2世
(最後のロマノフ王朝一家)

※ 皇后の前に皇太子アレクセイ、皇帝の 
右に四女アナスタシア。夫妻の後ろ左から、
三女マリア、次女タチアーナ、長女オリガ。

 

ユダヤ人はまず当時のツアー、ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。革命の翌1918年7月、ユダヤ人はウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフスク)のある家の地下室で、ツアーとその家族をすべて銃殺に処した。

そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は暗殺された、国家は破壊された」と書かれていた。私(イワノフ)はそのサインを自分の目ではっきりと見ている。

エリツィン大統領は当時、その町の第一書記だったが、このエリツィンの命令によって、ツアーが殺害された家は完全に破壊されてしまった。今はもう誰もこのサインを見ることはできない。家も壁も残されていないからである。


■第4章:ロシアの文化・宗教を徹底的に破壊したハザール系ユダヤ人


■革命によってロシアの頭脳が全て国外に流出


ロシアの「頭」はこうして切り落とされた。では彼らの次の目標は何か。その次に彼らは何をしなければならなかったのだろうか。

ロシアの伝統、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を殺すこと、それが彼らの次の課題であった。が、ロシアの貴族はそのとき、幸か不幸かほとんどが国外に亡命していた。少なくとも300万人の貴族がアメリカやヨーロッパなどに脱出したが、彼らはいわばロシアの頭脳ともいえる人々だった。

要するに、革命によってロシアの頭脳が全て国外に流出してしまったのである。

アメリカには世界でも有数の技術を発見した学者たちが多くいる。あまり知られていないことだが、それらの学者たちの中にはロシア人が最も多いのである。少なくとも彼らロシア人が20%を占めている。

たとえばヘリコプターの発明者のシコルスキー、ノーベル賞をもらった経済学者ワシリー・レオンツェフ、また作曲家のラフマニノフなど、挙げていけばきりがないほどだ。ロシアの頭脳はほとんどアメリカに行ってしまったのであった。アメリカは革命によってロシアの頭脳を獲得したのである。

優秀な実業家、デミドフ、ストロガノフ、エリセエフなども外国に行ってしまった。ロシアはユダヤのために優秀な実業家たちをすべて失ってしまった。ロシア人の「頭」の代わりにユダヤ人の「頭」が、ロシアの体、すなわちロシア人の国家の上に乗せられたのである。

 

■ロシアの農業システムもロシア正教会も徹底的に破壊された


さらにロシアの古い伝統、習慣、文化をもっているのは誰か。農民である。彼らは個人の農地をもっていた地主であった。しかしユダヤ人は革命を推し進めるためには、農業システムを破壊しなければならないとして、各地にコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)をつくっていった。その結果、ロシアの農業システムがすべて破壊されたのである。

こうして、文化人も、優秀な実業家も、伝統的な農民もロシアからいなくなった。全部ユダヤ人のやったことである。またロシア正教もほとんど壊滅の状態にまで弾圧された。ロシア正教はロシア人にとって最も神聖な宗教である。少なくとも1000年の歴史をもっており、ロシア人に大きな精神的影響を与え続けてきた。しかし革命後、ユダヤ人はロシア正教会の90%を破壊してしまったのである。

共産主義にとって“宗教はアヘン”だった。アルメニア教会の寺院も数多く破壊された。しかし、シナゴーグ(ユダヤ教会)だけは無傷であった。

 


ロシア正教会

 

ロシアでは10~11世紀にかけて、ロシアの伝統的な建築技法によって美しい多くの教会が建てられた。今では12世紀に建てられた教会が、わずかに破壊されずに残っているが、古い教会のほとんどがユダヤ人によって破壊されてしまった。破壊されたものの中には、建物以外に絵画や9~11世紀のイコンもたくさんあった。

こうした破壊はロシアにとっては耐えがたい残酷なる悲劇であった。

 

 


■第5章:第二次世界大戦の勃発とロシア人の英雄ジューコフ元帥の活躍


■大戦前に軍幹部と知識人を粛清したハザール系ユダヤ人


第二次世界大戦が始まる前に、ユダヤ人たちはもう一つの陰謀を企てていた。

それはロシア軍隊の幹部たちを粛清することだった。少なくともその当時、約3万人の将軍や将軍クラス、大佐クラスの軍人が殺された。彼らはちょうど第二次世界大戦が起こる1、2年前に殺されたのである。

ユダヤ人たちはヒトラーからの侵略の脅威を感じなかったのだろうか。ロシアを外敵から守る必要がありながら、なぜ優秀な軍人を殺すことに躊躇しなかったのだろうか。

彼らにとっての問題は国外ではなく国内にあったからである。ロシア人の将軍や大佐などが赤軍を指導し、反ユダヤ感情が高まってきたために、ユダヤ人たちは危険を感じて軍隊の幹部たちを殺した。

実に第二次世界大戦が起こる直前のことであった。それら将軍の中にはユダヤ人も交じっていたが、ユダヤ人であろうとも、不穏な動きを一掃するためには無差別に殺されていったのであった。

 

■ナチス・ドイツとの闘い ─ ソ連を勝利に導いたジューコフ元帥


戦争が始まった。優れた司令官をすでに失っていたロシア軍は、はじめの1、2年間は敗北を重ね、モスクワまで撤退して敵を迎え撃つ戦法をとることにした。そして、後のモスクワ戦線では激烈な戦闘の結果、最終的にロシアが勝利を収めたのだが、そのときには、ようやく世代交代がなされ、次世代の優秀な軍人たちが指揮をとっていた。

それらの指令官の中でも、最も優れた司令官がジューコフ元帥だった。

 


 1941年6月、ヒトラー率いるドイツ軍は「独ソ不可侵条約」を破って、
突如「バルバロッサ作戦」と呼ばれるソ連侵攻作戦を開始した

※ この独ソ戦はロシアでは「大祖国戦争」と呼ばれている



ソ連軍を指揮したロシア人の英雄
ゲオルギー・ジューコフ元帥

 

1941年10月、ドイツ軍はモスクワ大攻撃を開始した。それに対して、その年の12月、ジューコフ元帥の率いるロシア軍が大反撃を行ったのである。これをロシアではモスクワの大祖国戦争という。翌年のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)での大規模な市街戦は1943年2月まで続いたが、ついにドイツ軍は降伏し、ロシア軍の勝利の第一歩が印された。

ジューコフ元帥の果たした役割は、すべての戦争において最も大きいものだった。

 

  

   

   

ソ連西部の都市「スターリングラード」の戦いで、ソ連軍はドイツ軍に
決定的な打撃を与え、以後の戦局に大きな影響を及ぼした。
 (この戦いは第二次世界大戦の決定的な転機となった)。


 
(左)激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに翻ったソ連の国旗(1945年4月末)
(右)勝利を祝ってブランデンブルク門の前で踊りながら歓喜するソ連兵たち

 

戦争が終わると、急速にロシア人の民族的自覚が高まっていった。ドイツとの戦争で勝利を勝ち取ったからである。ユダヤ人はロシアを恐れた。

危機を感じたユダヤ人は1948年、ロシア人に対して攻撃を開始した。優秀な政治家たちを次々と裁判に送り、ロシア人知識階級を殺していったのである。カガノビッチがそれらの指揮をとっていたが、スターリンもそれに同調していた。

 


■第6章:スターリンとジューコフ元帥の反乱


■ユダヤから離れて暗殺されたスターリン


スターリンはその頃からユダヤ人のやり方に反発するようになった。スターリンの妻はカガノビッチの妹であり、その前のスターリンの2番目の妻も同じくユダヤ人だった。それにもかかわらず、スターリンはユダヤ人に対抗していった。

戦争の勝利で自らのイメージが上がったこともあり、ユダヤの横暴なやり方に我慢できなくなって、反ユダヤの態度をとりはじめたのであった。1949年から亡くなる1953年までの間、スターリンは実際にそうした行動をとり続けていった。

スターリンの身辺には常にベリヤがいた。ベリヤは国家保安省のリーダーであり、スターリンと同じくグルジア人だったが、ユダヤとのハーフであった。ベリヤは終始スターリンの見張りを怠らず、スターリンの行動をすべてカガノビッチに報告していた。そのため、スターリンはベリヤに隠れて密かに反ユダヤの陰謀を画策していった。

1952年、「医者事件」が起こった。「医者事件」とは、1948年、ユダヤ人の医者たちが多くのロシア人の新生児、それも男児を毒殺した事件である。そのときに殺された男児の数はかなりの数に上った。とくに大都会のレニングラード、モスクワ、キエフなどで多くの男児が殺された。

なぜユダヤ人たちはこのような暴挙をやるのか、このまま多くの男児が殺されるならば、いったいどのようなことになるのか──。

スターリンは1952年、この事件に関係した医者をすべて逮捕し、ユダヤ人自身がつくった収容所に送って、その半数を殺したのであった。

スターリンはさらに大きな反ユダヤのプランをもっていた。シベリアの極東地方にビロビジャンというユダヤ人の自治州があったが、彼は大都会からすべてのユダヤ人を集めて、シベリアのビロビジャンに送ろうとしたのである。

だが、それが実行に移される前に、彼はベリヤによって暗殺された。1953年3月のことであった。

極東地方に存在するビロビジャン「ユダヤ人自治州」(黄色に塗られた地域↑)

 

スターリンは自然死であるという説があるが、実際はそうではなかった。ユダヤ人による暗殺であった。ベリヤによってスターリンは殺されたのである。スターリンの息子ワシーリーは空軍の将校だったが、彼はこの事実をよく知っていた。彼は隣人にこの経緯をすべて話している。しかしワシーリーもまもなく暗殺されてしまった。

 

■ソ連の全権を握ったカガノビッチ


ユダヤ人は強大な力をもっている。彼らは世界的な規模で力をもっており、ユダヤ民族が不利な状態になったときには一致して攻撃に出ることができる。スターリンは強力な独裁者といわれたが、その実は彼らに操られたロボットであり、自ら独裁者ぶりを発揮したとたんにユダヤによって暗殺されたのである。

スターリンが亡くなった後、ベリヤはカガノビッチの真の右腕になった。この2人はスターリンが暗殺されてから約3ヶ月間、実質的にロシアを支配していた。この間、彼らは何をやろうとしていたのだろうか。それは、ソ連の分裂への策謀であった。ベリヤが逮捕されて後に、こうした計画のあったことが発覚している。

 


スターリンが暗殺されてから実質的に
ロシアを支配したハザールの王カガノビッチ

 

今から40年前の1953年、カガノビッチは当時のソ連の全権を掌握した。このとき、ロシアは本当のユダヤ国家になってしまったのである。

ロシアのユダヤ人とアメリカのユダヤ人たちはこうした事態を大いに喜んだ。なぜならば、ロシアのユダヤ人もアメリカのユダヤ人も、いずれもアシュケナジー・ユダヤ人という同胞であり、すっきりと手を組むことができるからだった。

ユダヤ人たちはソ連とアメリカという2つのユダヤ国家が力を合わせれば、全世界を支配できると考えた。当時の誰がこのような陰謀を阻止できただろうか。

その当時、国家保安省のエージェントはあらゆるところにいた。そして、密告が制度として国民の義務となっていた。当時のロシア人は、こうしたユダヤのネットワークには、何らの抵抗するすべをもたなかった。

 

■ユダヤ権力を壊滅させたジューコフ元帥


しかし奇跡が起こった。第二次世界大戦におけるファシズムとの戦争で勝利をもたらしたジューコフ元帥が、1953年にユダヤとの戦いでも勝利を収めたのである。

スターリンが暗殺されてから約3ヶ月後の1953年6月26日、モスクワ郊外でジューコフ元帥は陸上演習を行っていた。この演習の途中で、ジューコフ元帥は突然、自ら戦車部隊二個師団を率いてモスクワ市内に入り、国家保安省本部に向かって進撃を始めたのである。国家保安省はこの動きをまったく感知していなかった。そのため、ジューコフはあっという間に国家保安省本部の占拠に成功することができたのであった。

 


カガノビッチとベリヤを逮捕した
ゲオルギー・ジューコフ元帥

 

ジューコフ元帥はまずベリヤを逮捕した。そしてその後にカガノビッチらを逮捕した。

これはまったく異例の事態であった。ロシア人の民族性からすると、こうした過激な反発行動に出ることはあり得ないことであった。しかしジューコフは、誰にも相談せずに、自らの判断で直ちに戦車部隊二個師団を動かし、モスクワに入って国家保安省本部を乗っ取ったのである。

そのときからロシアは新政府となり、ユダヤ人は国家保安省や軍隊の司令部を含めて、あらゆる組織から追放された。少なくとも1960年まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃されたのである。

 

 

ようやく、ロシアをロシア人が指導するところとなった。一時的にではあったものの、明らかにロシア人の勝利であった。このとき1953年から、1985年にゴルバチョフが書記長となり、翌年にペレストロイカ(改革)が始まるまでの間、ロシア国内にハザール国家は存在することがなかったのである。ユダヤ人たちはそのままロシアに住んではいたが、もはやユダヤ人たちが「国家内国家」をつくるようなことはなかった。

第5代ソ連最高指導者ブレジネフの時代(1964~82年)はロシア人にとって歴史上非常に安定した時代であったといえる。ユダヤ人たちはこの時代を「停滞」時代という。革命が起きていなかったので、彼らにとっては「停滞」と呼ぶにふさわしい時代なのである。

 

 


■第7章:ソ連崩壊の舞台裏 ─ ロシア人とユダヤ人の民族闘争が原因


■1991年8月のクーデターは「ユダヤ第2革命」だった


共産主義体制崩壊後のロシアの政治を、日本では、改革派(民主系)と保守派(旧共産党系)の対立を軸にしたものとしてとらえ、そこに中間派系、民族派系などの諸派が絡んだ政争の流れとして見ている。しかし、本当の問題は「民族闘争」なのである。ロシア人とユダヤ人の対決、それがロシアで起きていることの根本にあることである。

 

1991年8月、世界を揺るがしたソ連のクーデターはあっけない失敗に終わった。しかしその結果起きたことは、紛れもない革命だった。これはユダヤ人によるクーデターであり、「ユダヤ第2革命」と呼ぶべきものだった。過激派のユダヤ人たちは、穏健なゴルバチョフ政権を倒して自らが政権を握ろうとしたのである。

クーデター失敗後、エリツィン・グループが政権を握ったが、エリツィン大統領を取り巻くロシア政府高官のほとんどがユダヤ人であった。

エリツィンはユダヤ人の妻を持つが、彼自身は純粋のロシア人である。しかし彼は頭が悪く、しかもアルコール中毒である。彼は使われているロボットにすぎない。彼の補佐官は80%がユダヤ人であり、彼の補佐官の中には20人のアメリカ人がいた。そのアメリカ人の中でも指導的な役割を果たしているのは、ジェフリー・サックスというハーバード大学の教授であり、もちろんユダヤ人である。

ロシア国内のユダヤ人たちは、8月クーデターでロシア政府内の実権を握ったことを幸いに、次に海外のユダヤ人と相呼応して、ロシア経済を支配下に置こうとした。そのため、欧米の、中でもアメリカのユダヤ資本が怒涛のようにロシアになだれ込むことになったのである。

エリツィンと取り巻きのユダヤ人たちは、8月クーデター以後、急進的な市場開放路線を議会で承認させると、ガイダル政権を発足させた。そして年末の連邦崩壊・CISの形成を経るや、一気に市場開放、価格自由化というショック療法を実行に移したのである。その結果ロシアでは、国際派ユダヤ人による猛烈な「ゴールド・ラッシュ」が起きた。

1991年8月クーデター以後しばらくの間、ニューヨークからモスクワ行きの飛行機は、ほとんどユダヤ人たちに占められていた。

 

■やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう


8月クーデターで、彼らユダヤ人たちは再びロシアの権力を握ったと思っているだろう。しかし、70年余年前の10月革命のときとは、その事態には根本的な違いがあることに彼らは気付いていない。

ユダヤ人たちは1917年10月革命当時には大きな力をもっていた。しかし今日のロシアのユダヤ人たちには力がない。彼らは二度目の革命を起こしたが、今日のロシア人は75年前のロシア人とは異なっている。当時のロシアは農業国家であった。多くの農民たちは読み書きができなかった。しかし今は違う。共産主義時代に受けた教育レベルは非常に高いものである。ロシア人の年輩者もそして若い人たちも、ますますユダヤ問題がわかってきている。そして愛国心の高まりとともに、ユダヤ人に反発する行動をとるようになり始めているのである。

ユダヤ人はモスクワやサンクト・ペテルブルグ、キエフなどの大都会では力があるが、農民や労働者の中にはユダヤ人はほとんどいない。これは喜ばしいことである。さらに、ユダヤ人たちの影響はまだ地方にまでは及んでいない。ロシアの地方には本当のロシアが残っている。

ロシア人たちの反発は、ロシア人によるユダヤからの解放運動として、すでに地方に広がりはじめている。ロシア人たちは必ず自分たちのロシア人のリーダーを選ぶだろう。

以前ゴルバチョフはペレストロイカは地方からの革命ではなく「上からの革命」であると言った。しかしこれは「革命」というよりは反ロシア的な陰謀であった。決して下からの解放運動、革命ではなかった。

私たちロシア人はすでに革命の歴史をもっている。最初の10月革命、これは明らかにユダヤ革命だった。そしてまた、2年前の1991年8月にあった革命も、ユダヤ革命であった。ロシア人たちはユダヤ革命はもう十分だと思っている。我らはもうこれに我慢できない。ロシアのユダヤ人たちは、ロシアにおいて悪質なことをやってきたし、今もやっている。しかし彼らはすでにやりすぎている。

今後、ロシア人とユダヤ人との闘いは、もっと激しくなっていくにちがいない。やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう。私(イワノフ)は固く信じている。〈後略〉


── 1993年夏 ──


■おまけ情報:スターリンとカガノビッチについて


●ノンフィクション作家の広瀬隆氏が書いた大著『赤い楯』(集英社)には、スターリンとカガノビッチについての興味深い記述がある。該当する部分を一部抜粋して載せておきたい。

※ 各イメージ画像とキャプションは当館が独自に追加

 


『赤い楯』広瀬隆著(集英社)

 

「ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、全ての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。

ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはユダヤ人リトヴィノフ外相と連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノビッチという男であった。〈中略〉」

 

 
(左)ラーザリ・カガノビッチとスターリン

「カガノビッチは1893年、キエフの貧しいユダヤ人労働者の家に生まれ、スターリンの側近として1930年代には終始、ソ連でナンバー2の地位にあった。1925年には、ウクライナ共産党の第一書記となり、ウクライナ共産党リーダーの粛清を行った。1928年から中央委員会の書記となり、ウクライナなど各地にスターリンの代理人として赴き、何百万人という農民とその家族を死と流刑に追いやる恐怖活動を指導した。

キリスト教会など重要な古い建築を無慈悲に破壊し、1930年代後半の粛清においては、逮捕と流刑を自ら実践し、航空産業大臣であった実兄ミハイルにも冷淡で、ミハイルはベリヤによる処刑の決定を聞いて自殺した。〈中略〉」

(右)スターリン政権の外交を担当したユダヤ人
 マクシム・リトヴィノフ(本名フィンケルシュタイン)

(左)現在のウクライナの地図 (右)ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

↑左右の地図を見比べてもらえれば分かるように、現在のウクライナの首都キエフを含む
東半分はかつてハザール王国の領域であった。※ ちなみに右の地図に記されている
ヴォルゴグラード(旧名スターリングラード)は、ハザール王国の時代に
ヴォルガ交易路の拠点として成立し繁栄した都市であり、現在の
ロシアにおいても重要な産業都市となっている。

 

「カガノビッチの本名は、その人名録にKogam(コーガン)と書かれているが、西ヨーロッパの資料ではKagan(カガン)となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノビッチ(Kaganovich)と変えたのである。

粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分かる限りモイシェ、ユーリイ、ローザの少なくても合計4人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男4人は、スターリン政権の中で「カガノビッチ王国」と呼ばれるほど権力を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、5ヶ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。

その中で、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノビッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第3の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノビッチだったからである。〈中略〉

……そして第3の妻であるユダヤ人、ローザ・カガノビッチと翌年スターリンが結婚したのである。彼女をスターリンに紹介したのが、ナチスと組んだモロトフ外相(リトヴィノフの後任)で、モロトフは情報委員会(後年のKGB)の議長をつとめ、自ら秘密警察のトップに立った男である。〈中略〉」

 

 
(左)ラーザリの実の妹ローザ・カガノビッチ
(右)ヴャチェスラフ・モロトフ(妻がユダヤ人)

 

「モロトフは大量テロの組織には極めて積極的に参加した。1935年にソ連人民委員会会議に入っていた25の人民委員のうち、弾圧の時代に非業の死を遂げなかったのは、ミヤコン、ウォロシーロフ、カガノビッチ、リトヴィノフ、それに当のモロトフだけであった。ウクライナにおける虐殺キャンペーンの主席指揮官と指導者はモロトフとカガノビッチであった。

モロトフはユダヤ人反ファシズム委員会のほとんど全メンバーの逮捕など、戦後の全ての弾圧に責任を負い、その犠牲者となったのがモロトフ自身の妻ポリーナ・ジェムチュージナである。彼女はユダヤ人で、イスラエルに姉妹と甥が住んでいた。

第二次大戦後にモロトフは解任されたが、スターリンの死後に再び外相に任命され、妻ポリーナも釈放されるという時代に入ったところで、今度は1957年、フルシチョフとの衝突によって完膚なき敗北を喫し、モロトフの政治的履歴は事実上終わりを告げた。1984年にモロトフの復党願いを積極的に支持したのが(イスラエル建国を承認した)グロムイコであった。〈中略〉」

 

 
(左)モロトフとスターリン (右)スターリンの娘スヴェトラーナ

※ スターリンの娘スヴェトラーナは22歳も年上のユダヤ人の 
映画監督に恋をし、大学2年生の時にユダヤ人と学生結婚した。
3度目の結婚相手はラーザリ・カガノビッチの息子だった。

 

「……しかしカガン家には、6番目の子供が存在したことを示唆する重大な事実が、フランスの文献に書かれている。その名をニコラといい、これが彼ら兄弟の暗い秘密を握っていた人物である。この男はカガノビッチではなく、父親アブラハム・カガンの姓をそのまま継いでニコラ・カガンといった。ウクライナの粛清者ラーザリの5つ年下で、モスクワに生まれ、のちフランスに帰化したフランス人だったのである。

表面上は、ソ連から派遣されたフランス駐在の銀行高官とされていたが、実は次のような履歴を持っていた。

先ほどのフランスの〈二百家族の大系図〉の一番上に示したように、ニコラは“赤い楯”の投資銀行として全世界に勢力を張る「セリグマン銀行」のオーナーで、共同経営者は勿論セリグマン一族であった。本書上巻タイタニック号の沈没で〈系図8〉に登場したのがこの一族のアメリカ移民である。カガンはそのフランス家とパートナーの関係を結び、トップの座にいた。

しかし、彼ら“赤い楯”のマーチャント・バンカーには鉄則があり、少なくともこの当時は“一族以外は絶対にオーナーになれなかった”のである。では、ニコラ・カガンはなぜオーナーになることができたのであろうか。その答えは、ニコラ・カガン当人がロスチャイルド一族であった、と推測するほかないであろう。」

「ウクライナの農民数百万人の虐殺の手掛かりを求めて、カガンもしくはコーガンという人物を全世界の歴史上の記録で探したところ、注意を惹く二家族が見つかった。これを〈二百家族の大系図〉でカガノビッチの右に示すが、そのひとつは、ロシア支配者ギンズブルグ家と結婚したカガン家で、これはアメリカに渡ってユダヤ教で高位のラビ一族となっていた。もうひとつはカガンの息子がアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、まぎれもなくヘルガ・ロスチャイルドと結婚している一族であった。

仮にこれが全て同じ家族だとすれば、ソ連(ロシア)とフランスとアルゼンチンを結ぶキー・ワードが存在することになる。その共通項は、穀物の他にないであろう。実名で言えば、ロシアの穀物をウクライナのオデッサから独占的に買い付けてきたフランスの穀物商社「ルイ=ドレフュス商会」である。これがアルゼンチンに進出して、のちに現代アメリカで世界第4位の穀物商社になったことはすでに述べた通り、穀物業界の常識でもある。

では「セリグマン銀行」と「ルイ=ドレフュス商会」の関係を調べてみよう。〈二百家族の大系図〉では2枚目右下の位置になるが、その穀物商社一族であるフランス・ルイ=ドレフュスという女性がアルゼンチンのブレノスアイレスで誕生し、彼女がフランスのヌーヴェル・ヴォーグ時代に二枚目として登場した男優ジャック・シャリエと結婚したのである。『アンネの日記』の舞台に立っているところをマルセル・カルネに認められたシャリエは、『危険な曲り角』でパスカル・プティと共演して映画デビューし、『熱い手』『今晩おひま?』『禁じられた肉体』など、題名から想像される作品群に次々と主演した。このルイ=ドレフュスと結婚する前にシャリエの妻だったのが、神がアダムと共に創った女ブリジッド・バルドーである。〈中略〉」


「……この家系の元をたどってゆくと、そちこちに危険な曲り角はあるが、ロシアのロスチャイルド=ギンズブルグ家を通って、ウクライナの粛清者カガノビッチ=スターリン一族のパートナー、問題のセリグマン家に達する系図を見なければならない。これがフランス“二百家族”の秘密であった。

そして穀物商社と「セリグマン銀行」についての関係は、いま説明した血族関係をそのまま金融界にも反映し、正確な全体像を描いてきた。つまり「セリグマン銀行」は「ルイ・ヒュルス銀行」と合併したのち、1968年に問題の穀物商社「ルイ=ドレフュス商会」に吸収合併されたのである。こうしてスターリンの使者としてフランスとソ連のあいだを行き来したニコラ・カガンは、まぎれもなく穀物商社の代理人だったことが明らかになる。」

 

 
『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 ─ スターリンの農業集団化と飢饉テロ』

ホロコーストと並ぶ世紀の大虐殺「ホロドモール」により、最終的に700万以上の
ウクライナ人が餓死した。これは全ウクライナ人口の2割が殺されたことを意味した。ソ連政府は
この事件をずっと否定し隠蔽し続け、世界に公式に認知されるのはずっとあと1970年代以降である。

※「ホロドモール」とはウクライナ語で「飢饉(ホロド)」で「苦死(モール)」させることを意味する。


    
栄養失調に陥った子供たちは満足な医療も受けられないまま息を引き取っていった


 
(左)ホロドモールによるウクライナの人口減少を示した地図(1933年)
(右)ウクライナのアーティストが制作したホロドモールのポスター

 

「結局、ウクライナで数百万人の農民が飢えたまま枯れ木のように死んでゆき、数百万人が収容所に送られていった時、そこには『屋根の上のバイオリン弾き』の主人公テヴィエのようなユダヤ人の農民も大量に含まれていたはずだが、当時についての数々の資料が示すように、クレムリンにはロールス・ロイス、キャデラック、リンカーンなど西側世界の最高級車がずらりと並び、指導者は美食家ぞろいで、ボルシチに鴨や鹿など、豪華な食事をたらふく食べていた。

ある者はスターリンことグルジア人ジュガシビリ、ある者はカガノビッチことユダヤ人カガン、ある者はリトヴィノフことユダヤ人フィンケルシュタイン、ある者はモロトフことスクリャービンたちであった。……〈後略〉」


以上、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)より

── 当館作成の関連ファイル ──

ハザール王国とユダヤ人 ~ハザール系ユダヤ人について~ 

スターリンによるウクライナ人大虐殺「ホロドモール」の悲劇 

栄華を極める世界最大最強のロスチャイルド財閥 

ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史 


 これより以降は、「ロマノフ王朝」に記す。





(私論.私見)