元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌 |
(最新見直し2008.5.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2008.5.14日 れんだいこ拝 |
「元ソ連外交官が語る 「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌」。
|
■第1章:ロシア vs ハザール王国 |
■ロシア人はハザール王国と戦った |
6世紀後半、中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のちにハザ ール(英語で「Khazar」、カザールともいう)王国を形成するハザール人である。一方、当時 はロシアもまだ帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着し ていた。 6世紀から8世紀にかけて、ハザール人はカスピ海の北方に進出すると、ロシア人とたび |
8世紀に入り、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール人は、王から奴 隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはユダヤ国家になった(799~80 9年頃)。そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。現在、世界のユダヤ 人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の子孫である。 |
8世紀末、キリスト教を国教とするビザンチン帝国(東ローマ帝国)とイスラム教を国教とす るイスラム帝国は、ハザール王国をはさむ形で政治的にも宗教的にも対立していた。そのた めハザール王国は次第に両国の宗教的な干渉を受けるようになり、どちらの宗教に改宗して も国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。ふつう国が瀕死の状態にな った時には、どちらか強い方の勢力を選んでしかるべきだが、ハザール王国のオバデア王は こともあろうに国民まとめてユダヤ教に改宗させてしまったのである。 |
しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は次第に悪い結果を生み出していった。もとも とハザール王国は人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王オ バデアによるユダヤ教への改宗は国を統一するどころか、なんとか支配階級のハザール人 によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。ハザール王国の ユダヤ教への改宗後、ハザール人の貴族同士の間ではユダヤ教を受容する王国中心部の グループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そし てついに835年頃から内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると反乱者の一部は皆 殺しにされ、一部はハザール国外に逃れたのである。 ※ この事件は反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。国外に 逃亡した反乱分子(カバール・ハザール人)の一部はマジャール人(現在のハンガリー人の 祖)と合流し、指導者層となってハザールの影響を及ぼすことになる。 |
8世紀から9世紀にかけて、キエフ大公国のロシア人とハザール王国は数回にわたって戦 争をしたが、965年、ついにロシア人がハザール王国を制圧した。そして、首都イティルをほ とんど壊滅させてしまった。それ以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることは なかった。 |
黒海沿岸に位置するハザール王国はビザンチン帝国とキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の ※ 9世紀末頃からロシア人の艦隊がカスピ海沿岸に進出するようになり、913年には800隻から |
■ハザール王国の滅亡 ─ ロシア領内に逃げ込んだ改宗ユダヤ教徒たち |
13世紀に入ると、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させた。ユダヤ教徒ハザール人、すなわちアシュケナジー・ユダヤ人たちはロシアが近かったので、その多くがロシア領内に逃げ込んだ。 |
1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡 ※ 朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。 「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の |
ロシアのユダヤ教徒ハザール人たちは、すでに12世紀に、ロシア国家の中でロシアに対する陰謀を画策するようになっていた。そして1174年、彼らはロシアの最も有名な皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。 当時のロシアは多くの国々の集合体だったので、それぞれの国の皇帝が集まり会議が行われた。その結果、彼らはロシアにいるユダヤ教徒ハザール人を弾圧することに決定した。そして、多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されることになったのである。 |
■ポーランドへ移ったハザール系ユダヤ人 |
ヨーロッパの歴史を振り返ると18世紀の末、1772年から3回にわたって、ポーランド分割が行われている。ポーランドは3つに分けられ、当時の強国であったロシア帝国はポーランド領の一部を自らの領土内に組み込んだ。ところがそのポーランドに、ハザール系ユダヤ人たちが「国家内国家」を形成していたのである。 大規模なユダヤ・コミュニティは、15世紀まではスペインの中にあった。もっとも、このスペインにいたユダヤ人は、そのほとんどすべてが聖書でいう本当のユダヤ人、すなわちスファラディ・ユダヤ人であった。1492年、スペイン政府がスファラディ・ユダヤ人を国外に追放したことによって、スペインの中のユダヤ国家は消滅した。スペインを追われたスファラディ・ユダヤ人たちは主に、北アフリカ、オランダ、イギリスなどへ渡って行った。 |
一方、ロシアから追放されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーランドに移っていた。そのため、15世紀にはユダヤ教徒ハザール人たちの政府はポーランドの中に設けられていたといってもよい。 15世紀の終わりから16世紀にかけて、ポーランドのユダヤ人たちはポーランド人よりも強大な力をもつようになっていた。彼らは実際、ポーランドの国内に自分たちの政府、自分たちの国会、自分たちの教会などをつくっていた。 一般のポーランド人たちはもちろんのこと、ポーランド政府でさえも、そうしたユダヤ人たちの「国家内国家」に対しては、一切手をつけることができない状態にあった。 |
■ポーランド分割でロシアへ入ったハザール系ユダヤ人 |
ロシアは18世紀の終わりに、こうしたユダヤ人の「国家内国家」が存在するポーランドの領土の一部を自国の領土としたのであった。領土を得たのはよかったが、領土とともにユダヤ人の政府をも取り込んでしまったのである。このときにロシアは、きわめて危険な毒を飲み込むことになってしまった。 こうして、18世紀からロシア国家の内部には、再びユダヤ問題が生じるようになったのである。 |
ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。それは、ロシアにとってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからである。ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複雑さがある。 その当時、ロシアに入ったハザール系ユダヤ人は300万人ぐらいであった。そのほとんどがロシアの西側、すなわちウクライナ、西白ロシア、あるいは旧ポーランド領に住んでいた者たちである。 それでも、ユダヤ問題は18世紀には、まだそれほど大きな問題ではなかった。19世紀の終わり頃から、ロシアのユダヤ人たちは熱心に革命運動に参加するようになった。革命運動を指導していた政党、社会民主党や社会革命党などのリーダーおよび活動家たちは、ほとんどすべてがハザール系ユダヤ人であった。 |
■ロシアに対し復讐心を抱くハザール系ユダヤ人 |
古来からロシア人は戦闘的、革命的な要素をもたない民族であった。一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化であった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。 ユダヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史と古い歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となっていた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出してくる。 ユダヤ人は過去の歴史の中に生きているといってもよいだろう。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させたことをよく覚えている。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール人にとって最も重要な課題であった。 |
◆ 当時のロシアの知識人の中には、すでにそうしたユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、ドストエフスキーの著作を読むと、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ずユダヤ革命が起きる」と断言していた。 しかしロシア政府は、そうした動きをまったく感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずにユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。 |
■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった |
■日露戦争を画策したハザール系ユダヤ人の狙い |
1904年、日露戦争が勃発した。日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際のところである。日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかもしれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけるユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。 日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。 |
アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。 |
アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった ※ ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えた |
こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。 このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。 |
ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を 進めたピョートル・ストルイピン首相 |
しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相はユダヤ人に暗殺されてしまった。 ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前でピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。 |
ドミトリー・ボグロフ ※ ストルイピン首相を暗殺したユダヤ人で、 |
ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。 その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシアの経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。 |
■ユダヤ人が担ったロシア10月革命
この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。 |
南ウクライナ生まれのユダヤ人 ※ 10代の頃より革命運動に従事し、最初の逮捕と亡命後、 |
そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。 10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。 |
それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。 10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。 |
レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。ソ連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。そして、政府のトップ・クラスの人々はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったのである。 レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。 |
■ユダヤ人の間の激烈な闘争 ─ 欧米からやって来た革命家 vs ロシアにいたシオニスト
もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。
10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。 1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。 レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。
驚くべきことにこの記事を書いたのは、かの有名なチャーチル(後のイギリス首相)である。
|
■第3章:ハザール王室直系の子孫ラーザリ・カガノビッチの暗躍
ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。スターリンは傀儡であり、ユダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支配者であった。
それは誰か。世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッチである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付しているが、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。 カガン(可汗)とはハザール人たちの言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。ハザール王国もハザール・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。 ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのである。
※ ウクライナのキエフ近郊のユダヤ人家庭の出身で、
スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記にすぎなかった。しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべての政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎなかった。 ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行うビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国の再現であった。 一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。
■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した
国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)とのハーフで、南コーカサスのグルジア出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザール国家を支配していったのであった。
※ 彼はカガノビッチの従兄弟であり、悪名高い
※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は ※ ちなみに南コーカサスはハザール王国の南部に接していた地域である
またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」という新しいシステムをつくった。ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』には、このシステムについて詳しく述べられている。各収容所の所長は9割がユダヤ人だった。収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。
■家族全員処刑されたロマノフ王朝一家の悲劇
※ 皇后の前に皇太子アレクセイ、皇帝の
ユダヤ人はまず当時のツアー、ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。革命の翌1918年7月、ユダヤ人はウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフスク)のある家の地下室で、ツアーとその家族をすべて銃殺に処した。 そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は暗殺された、国家は破壊された」と書かれていた。私(イワノフ)はそのサインを自分の目ではっきりと見ている。 エリツィン大統領は当時、その町の第一書記だったが、このエリツィンの命令によって、ツアーが殺害された家は完全に破壊されてしまった。今はもう誰もこのサインを見ることはできない。家も壁も残されていないからである。 |
■第5章:第二次世界大戦の勃発とロシア人の英雄ジューコフ元帥の活躍
それはロシア軍隊の幹部たちを粛清することだった。少なくともその当時、約3万人の将軍や将軍クラス、大佐クラスの軍人が殺された。彼らはちょうど第二次世界大戦が起こる1、2年前に殺されたのである。 ユダヤ人たちはヒトラーからの侵略の脅威を感じなかったのだろうか。ロシアを外敵から守る必要がありながら、なぜ優秀な軍人を殺すことに躊躇しなかったのだろうか。 彼らにとっての問題は国外ではなく国内にあったからである。ロシア人の将軍や大佐などが赤軍を指導し、反ユダヤ感情が高まってきたために、ユダヤ人たちは危険を感じて軍隊の幹部たちを殺した。 実に第二次世界大戦が起こる直前のことであった。それら将軍の中にはユダヤ人も交じっていたが、ユダヤ人であろうとも、不穏な動きを一掃するためには無差別に殺されていったのであった。
■ナチス・ドイツとの闘い ─ ソ連を勝利に導いたジューコフ元帥
それらの指令官の中でも、最も優れた司令官がジューコフ元帥だった。
※ この独ソ戦はロシアでは「大祖国戦争」と呼ばれている
1941年10月、ドイツ軍はモスクワ大攻撃を開始した。それに対して、その年の12月、ジューコフ元帥の率いるロシア軍が大反撃を行ったのである。これをロシアではモスクワの大祖国戦争という。翌年のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)での大規模な市街戦は1943年2月まで続いたが、ついにドイツ軍は降伏し、ロシア軍の勝利の第一歩が印された。 ジューコフ元帥の果たした役割は、すべての戦争において最も大きいものだった。
ソ連西部の都市「スターリングラード」の戦いで、ソ連軍はドイツ軍に
戦争が終わると、急速にロシア人の民族的自覚が高まっていった。ドイツとの戦争で勝利を勝ち取ったからである。ユダヤ人はロシアを恐れた。 危機を感じたユダヤ人は1948年、ロシア人に対して攻撃を開始した。優秀な政治家たちを次々と裁判に送り、ロシア人知識階級を殺していったのである。カガノビッチがそれらの指揮をとっていたが、スターリンもそれに同調していた。
|
■第7章:ソ連崩壊の舞台裏 ─ ロシア人とユダヤ人の民族闘争が原因
|
1991年8月、世界を揺るがしたソ連のクーデターはあっけない失敗に終わった。しかしその結果起きたことは、紛れもない革命だった。これはユダヤ人によるクーデターであり、「ユダヤ第2革命」と呼ぶべきものだった。過激派のユダヤ人たちは、穏健なゴルバチョフ政権を倒して自らが政権を握ろうとしたのである。 クーデター失敗後、エリツィン・グループが政権を握ったが、エリツィン大統領を取り巻くロシア政府高官のほとんどがユダヤ人であった。 エリツィンはユダヤ人の妻を持つが、彼自身は純粋のロシア人である。しかし彼は頭が悪く、しかもアルコール中毒である。彼は使われているロボットにすぎない。彼の補佐官は80%がユダヤ人であり、彼の補佐官の中には20人のアメリカ人がいた。そのアメリカ人の中でも指導的な役割を果たしているのは、ジェフリー・サックスというハーバード大学の教授であり、もちろんユダヤ人である。 |
ロシア国内のユダヤ人たちは、8月クーデターでロシア政府内の実権を握ったことを幸いに、次に海外のユダヤ人と相呼応して、ロシア経済を支配下に置こうとした。そのため、欧米の、中でもアメリカのユダヤ資本が怒涛のようにロシアになだれ込むことになったのである。 エリツィンと取り巻きのユダヤ人たちは、8月クーデター以後、急進的な市場開放路線を議会で承認させると、ガイダル政権を発足させた。そして年末の連邦崩壊・CISの形成を経るや、一気に市場開放、価格自由化というショック療法を実行に移したのである。その結果ロシアでは、国際派ユダヤ人による猛烈な「ゴールド・ラッシュ」が起きた。 1991年8月クーデター以後しばらくの間、ニューヨークからモスクワ行きの飛行機は、ほとんどユダヤ人たちに占められていた。
■やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう
ユダヤ人たちは1917年10月革命当時には大きな力をもっていた。しかし今日のロシアのユダヤ人たちには力がない。彼らは二度目の革命を起こしたが、今日のロシア人は75年前のロシア人とは異なっている。当時のロシアは農業国家であった。多くの農民たちは読み書きができなかった。しかし今は違う。共産主義時代に受けた教育レベルは非常に高いものである。ロシア人の年輩者もそして若い人たちも、ますますユダヤ問題がわかってきている。そして愛国心の高まりとともに、ユダヤ人に反発する行動をとるようになり始めているのである。 ユダヤ人はモスクワやサンクト・ペテルブルグ、キエフなどの大都会では力があるが、農民や労働者の中にはユダヤ人はほとんどいない。これは喜ばしいことである。さらに、ユダヤ人たちの影響はまだ地方にまでは及んでいない。ロシアの地方には本当のロシアが残っている。 ロシア人たちの反発は、ロシア人によるユダヤからの解放運動として、すでに地方に広がりはじめている。ロシア人たちは必ず自分たちのロシア人のリーダーを選ぶだろう。 以前ゴルバチョフはペレストロイカは地方からの革命ではなく「上からの革命」であると言った。しかしこれは「革命」というよりは反ロシア的な陰謀であった。決して下からの解放運動、革命ではなかった。 私たちロシア人はすでに革命の歴史をもっている。最初の10月革命、これは明らかにユダヤ革命だった。そしてまた、2年前の1991年8月にあった革命も、ユダヤ革命であった。ロシア人たちはユダヤ革命はもう十分だと思っている。我らはもうこれに我慢できない。ロシアのユダヤ人たちは、ロシアにおいて悪質なことをやってきたし、今もやっている。しかし彼らはすでにやりすぎている。 今後、ロシア人とユダヤ人との闘いは、もっと激しくなっていくにちがいない。やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう。私(イワノフ)は固く信じている。〈後略〉
|
■おまけ情報:スターリンとカガノビッチについて
※ 各イメージ画像とキャプションは当館が独自に追加
「ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、全ての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはユダヤ人リトヴィノフ外相と連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノビッチという男であった。〈中略〉」
|
「カガノビッチは1893年、キエフの貧しいユダヤ人労働者の家に生まれ、スターリンの側近として1930年代には終始、ソ連でナンバー2の地位にあった。1925年には、ウクライナ共産党の第一書記となり、ウクライナ共産党リーダーの粛清を行った。1928年から中央委員会の書記となり、ウクライナなど各地にスターリンの代理人として赴き、何百万人という農民とその家族を死と流刑に追いやる恐怖活動を指導した。 キリスト教会など重要な古い建築を無慈悲に破壊し、1930年代後半の粛清においては、逮捕と流刑を自ら実践し、航空産業大臣であった実兄ミハイルにも冷淡で、ミハイルはベリヤによる処刑の決定を聞いて自殺した。〈中略〉」 |
(右)スターリン政権の外交を担当したユダヤ人 |
(左)現在のウクライナの地図 (右)ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所) ↑左右の地図を見比べてもらえれば分かるように、現在のウクライナの首都キエフを含む
「カガノビッチの本名は、その人名録にKogam(コーガン)と書かれているが、西ヨーロッパの資料ではKagan(カガン)となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノビッチ(Kaganovich)と変えたのである。 粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分かる限りモイシェ、ユーリイ、ローザの少なくても合計4人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男4人は、スターリン政権の中で「カガノビッチ王国」と呼ばれるほど権力を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、5ヶ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。 その中で、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノビッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第3の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノビッチだったからである。〈中略〉 ……そして第3の妻であるユダヤ人、ローザ・カガノビッチと翌年スターリンが結婚したのである。彼女をスターリンに紹介したのが、ナチスと組んだモロトフ外相(リトヴィノフの後任)で、モロトフは情報委員会(後年のKGB)の議長をつとめ、自ら秘密警察のトップに立った男である。〈中略〉」
「モロトフは大量テロの組織には極めて積極的に参加した。1935年にソ連人民委員会会議に入っていた25の人民委員のうち、弾圧の時代に非業の死を遂げなかったのは、ミヤコン、ウォロシーロフ、カガノビッチ、リトヴィノフ、それに当のモロトフだけであった。ウクライナにおける虐殺キャンペーンの主席指揮官と指導者はモロトフとカガノビッチであった。 モロトフはユダヤ人反ファシズム委員会のほとんど全メンバーの逮捕など、戦後の全ての弾圧に責任を負い、その犠牲者となったのがモロトフ自身の妻ポリーナ・ジェムチュージナである。彼女はユダヤ人で、イスラエルに姉妹と甥が住んでいた。 第二次大戦後にモロトフは解任されたが、スターリンの死後に再び外相に任命され、妻ポリーナも釈放されるという時代に入ったところで、今度は1957年、フルシチョフとの衝突によって完膚なき敗北を喫し、モロトフの政治的履歴は事実上終わりを告げた。1984年にモロトフの復党願いを積極的に支持したのが(イスラエル建国を承認した)グロムイコであった。〈中略〉」
※ スターリンの娘スヴェトラーナは22歳も年上のユダヤ人の
「……しかしカガン家には、6番目の子供が存在したことを示唆する重大な事実が、フランスの文献に書かれている。その名をニコラといい、これが彼ら兄弟の暗い秘密を握っていた人物である。この男はカガノビッチではなく、父親アブラハム・カガンの姓をそのまま継いでニコラ・カガンといった。ウクライナの粛清者ラーザリの5つ年下で、モスクワに生まれ、のちフランスに帰化したフランス人だったのである。 表面上は、ソ連から派遣されたフランス駐在の銀行高官とされていたが、実は次のような履歴を持っていた。 先ほどのフランスの〈二百家族の大系図〉の一番上に示したように、ニコラは“赤い楯”の投資銀行として全世界に勢力を張る「セリグマン銀行」のオーナーで、共同経営者は勿論セリグマン一族であった。本書上巻タイタニック号の沈没で〈系図8〉に登場したのがこの一族のアメリカ移民である。カガンはそのフランス家とパートナーの関係を結び、トップの座にいた。 しかし、彼ら“赤い楯”のマーチャント・バンカーには鉄則があり、少なくともこの当時は“一族以外は絶対にオーナーになれなかった”のである。では、ニコラ・カガンはなぜオーナーになることができたのであろうか。その答えは、ニコラ・カガン当人がロスチャイルド一族であった、と推測するほかないであろう。」 |
「ウクライナの農民数百万人の虐殺の手掛かりを求めて、カガンもしくはコーガンという人物を全世界の歴史上の記録で探したところ、注意を惹く二家族が見つかった。これを〈二百家族の大系図〉でカガノビッチの右に示すが、そのひとつは、ロシア支配者ギンズブルグ家と結婚したカガン家で、これはアメリカに渡ってユダヤ教で高位のラビ一族となっていた。もうひとつはカガンの息子がアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、まぎれもなくヘルガ・ロスチャイルドと結婚している一族であった。 仮にこれが全て同じ家族だとすれば、ソ連(ロシア)とフランスとアルゼンチンを結ぶキー・ワードが存在することになる。その共通項は、穀物の他にないであろう。実名で言えば、ロシアの穀物をウクライナのオデッサから独占的に買い付けてきたフランスの穀物商社「ルイ=ドレフュス商会」である。これがアルゼンチンに進出して、のちに現代アメリカで世界第4位の穀物商社になったことはすでに述べた通り、穀物業界の常識でもある。 では「セリグマン銀行」と「ルイ=ドレフュス商会」の関係を調べてみよう。〈二百家族の大系図〉では2枚目右下の位置になるが、その穀物商社一族であるフランス・ルイ=ドレフュスという女性がアルゼンチンのブレノスアイレスで誕生し、彼女がフランスのヌーヴェル・ヴォーグ時代に二枚目として登場した男優ジャック・シャリエと結婚したのである。『アンネの日記』の舞台に立っているところをマルセル・カルネに認められたシャリエは、『危険な曲り角』でパスカル・プティと共演して映画デビューし、『熱い手』『今晩おひま?』『禁じられた肉体』など、題名から想像される作品群に次々と主演した。このルイ=ドレフュスと結婚する前にシャリエの妻だったのが、神がアダムと共に創った女ブリジッド・バルドーである。〈中略〉」
そして穀物商社と「セリグマン銀行」についての関係は、いま説明した血族関係をそのまま金融界にも反映し、正確な全体像を描いてきた。つまり「セリグマン銀行」は「ルイ・ヒュルス銀行」と合併したのち、1968年に問題の穀物商社「ルイ=ドレフュス商会」に吸収合併されたのである。こうしてスターリンの使者としてフランスとソ連のあいだを行き来したニコラ・カガンは、まぎれもなく穀物商社の代理人だったことが明らかになる。」
ホロコーストと並ぶ世紀の大虐殺「ホロドモール」により、最終的に700万以上の ※「ホロドモール」とはウクライナ語で「飢饉(ホロド)」で「苦死(モール)」させることを意味する。
「結局、ウクライナで数百万人の農民が飢えたまま枯れ木のように死んでゆき、数百万人が収容所に送られていった時、そこには『屋根の上のバイオリン弾き』の主人公テヴィエのようなユダヤ人の農民も大量に含まれていたはずだが、当時についての数々の資料が示すように、クレムリンにはロールス・ロイス、キャデラック、リンカーンなど西側世界の最高級車がずらりと並び、指導者は美食家ぞろいで、ボルシチに鴨や鹿など、豪華な食事をたらふく食べていた。 ある者はスターリンことグルジア人ジュガシビリ、ある者はカガノビッチことユダヤ人カガン、ある者はリトヴィノフことユダヤ人フィンケルシュタイン、ある者はモロトフことスクリャービンたちであった。……〈後略〉」
|
── 当館作成の関連ファイル ── |
これより以降は、「ロマノフ王朝」に記す。
(私論.私見)