「4月テーゼ」(レーニンとトロツキーの革命曲共奏行脚)

 (最新見直し2008.5.13日)

 只今書き換え中、各方面ご理解頼む。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いよいよロシア10月革命の鐘が鳴る。以下、追跡してみたい。

 2007.5.13日 れんだいこ拝

レーニンの「遠方からの手紙」
 この頃レーニンは、逃亡先から次のように打電し、指示を与え続けた。
 「我々の戦術、絶対的不信任、新政府を支持するな、特にケレンスキーを信ずるな、プロレタリアートの武装こそは、唯一の保障なり。ペトログラード市会の即時選挙、他党との妥協絶対反対」。

 「遠方からの手紙」も寄越して、次のように指示していた。
 概要「もし我々の党がこのような欺瞞に加わるとしたら、我々の党は永久に名誉を失墜し、政治的に自殺することになろう。私は社会的愛国主義に屈服するくらいなら、むしろいかなる党員とであろうと、即時分裂を選ぶであろう」。
 「今肝心なことは、それを理論的に分類することではない。もし我々が、理論を何よりもまず。何よりも第一に行動の手引きと考えないで、複雑で緊急な、しかも急速に発展していく革命の実務的任務を理論の杓子定規に当てはめようとするなら、きわめて大きな誤りだろう」。

【革命派に対するロスチャイルド派の後押し
 ジョン・コールマン著、太田龍監訳「タヴィストック」(成甲書房、2006.3.30日初版)は42Pで、次のように記している。
 概要「(代表的なフェビアン社会主義者として知られる)ミルナーは国外追放のボルシェビキ、なかでもレーニンと連絡を絶やさなかった。レーニンが革命資金を頼った先は、ミルナー卿だった。社会主義者フリッツ・プラテンからの紹介状を携えたレーニンはミルナー卿に会い、ロマノフ王朝とキリスト教国ロシアを打倒する計画を披瀝した。

 ミルナーは、М16のブルース・ロックハートを監視役として派遣して、レーニンの言動を指示し、報告させるという条件付きで合意した。ロスチャイルド卿やロックフェラー一族は、天然資源や中央銀行が保有するルーブル金貨をロンドンへ輸送する監督役としてシドニー・ライリーをロシアに派遣する許可を求めた。これはレーニン、後にトロツキーによって認められた。

 契約を結ぶに際して、ミルナー卿は、ロスチャイルド一族の代理人としてレーニンに6000万ポンドの金貨を支払った。一方、ロックフェラー一族は、約4000万ドルを支払った」。

 つまり、概要「レーニンは、ロスチャイルド家の指図を受けて送り込まれた従者に過ぎず、ポルシェヴィキ革命は、ウォール街の戦争屋とロンドンシティー(国際金融資本寡頭権力)の謀略であった」と云う。

 出典不明であるが、次のようにも云われている。
 「ロシア革命は、只外国からの大きな政治的抑圧と”英米両国のあるグループ”からの多額な資金によって成功しただけである。実際、フランス系メーソン(大東社)が勢力を張り、彼らは民衆を扇動し、革命を行う機会をうかがってきた。二月革命でケレンスキー政府を樹立したのも、フランス系大東社(グランド・オリエント)の流れを組むメーソンだった。そして、これを倒したのがボリシェビキだったが、旗主であるレーニンが1919年4月16日、逃亡先のスイスからペトログラードに到着した時、彼は500万〜600万ドルの大金を所有していた。それを支援したのが、マックス・ヴァールブルクなどのメーソン達だった。トロツキーがそのレーニンと会うために、アメリカからロシアに帰国した時、彼の手にも数百万ドルの大金が握られていた。その資金援助をした大富豪ヤコブ・シッフは、米メーソン達だった。そのヤコブ・シッフは、皇帝を倒すためと、ケレンスキー政府を打倒する為に、当時の金額で約200万ドルを投資し、ロシア革命を支援している。そして革命後も多額の資金をロシアに送り続けた。後に彼は、誇らしげに語っている」。

 「1917年4月、ロシア革命は私の経済支援により成功した。その事を(メーソン同胞に)告知する」

 ロシア革命は、グレヴィッチ将軍の言うように、将に外国からの資金、つまりメーソンによって達成されたのだ。だが、メーソンの力は大き過ぎた。あまりの影響力の大きさに、マルキスト(マルクス主義者)達もメーソンの介入に恐れをなし、トロツキーが中心となり、ロシア国内のメーソン狩りを始めたのだった。1922年の第4回国際会議で「フリーメーソンに属する者達による隠蔽事は、敵の回し者の侵入とみなす」と突然、メーソン狩りを宣言し、弾圧し始めたほどだった。メーソンを追放し、銃殺し、ガス中毒に追いやったのである。

 ソ連におけるメーソンの長い冬の時代の到来である。とは言っても、自国建設の為には、外国支援がどうしても必要となる。ソ連と、米国を中心としたメーソンとのパイプはしっかりと繋がっていたのだ。自由主義陣営からの援助を受けながら、共産革命を各国に浸透させていく。こうした二律背反がソ連の戦略であり、裏を返せばそれも又メーソンの戦略そのものだった。

 それは、アルバート・パイクのいう「ロシアは、イルミナティの目的を世界に促進する為の”お化け役”として利用されるだろう」ーーそのものと言えよう。朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争など、『イルミナティ』の”お化け役”は、十二分にその威力を発揮した。その結果、東西冷戦と呼ばれる対立を演出する二つの国家群が誕生したのである。そして1989年まで社会主義国家群は膨張を続けた。その総本山・ソ連は、世界最大の領土を持つまでになった。

 しかし、そのお化けは、あまりにも巨大に成り過ぎてしまった。やがて、経済は破綻を来たし、そこへ異常気象による農作物の不作が襲い、ソ連の国力は見る見る内に落ちていった。状況ヲじっと見ていたメーソンは、遂に次なる計画の実行に移った。彼らは、若いある人物に目を付けたのである。其の人物とは、ミハイル・ゴルバチョフ、その人である。

 彼は、チェルネンコ書記長の死後、長年続いた長老支配に終止符を打ち、傾きかけたソ連の改革の旗手として登場した。ペレストロイカ、グラスノスチをはじめ、次々に改革を押し進めたゴルバチョフは、遂に大統領制を導入、自らその座についた。しかし、度重なる改革にもかかわず、ソ連の経済は悪化の一途を辿(たど)るのみだった。それに伴い、ゴルバチョフに対する批判の声は大きくなっていった・・・。

(私論.私見)

 日本左派運動は、かように云われるロシア10月革命の真実につき、責任ある回答を為すべきであろう。回答なき礼賛は左派精神の怠惰ではなかろうか。

 2008.5.13日 れんだいこ拝


レーニン帰還「封印列車」の経緯
 レーニンは一刻も早い帰還を願った。しかし手立てが無く焦燥していた。歴史の摩訶不思議というべきか、焦慮するレーニンに近づいたのはドイツ参謀本部であった。ドイツ参謀本部は、戦争継続に向う臨時政府に失望し、「戦争の即時終結」論を唱えるレーニンに期待していくことになった。レーニンの戦術は、ロシアに革命政権を樹立すれば、英仏帝国主義諸国と袂をわかって、ドイツと講和するというもので、ドイツの思惑と合致していた。

 *月**日、ドイツ参謀本部は、ロシアに更なる混乱をまきおこそうと、レーニン以下スイス在住の革命家をロシアに送り込むことを決めた。ドイツ軍部の立てた計画は、スイスの社会主義者で国際主義者のブラッティンに伝えられ、ブラッティンがレーニンに持ちかけた。レーニンは直ちにこの提案を受けた。「ドイツ軍部がレーニンの利用を思い立ち、レーニンがこれを更に革命的に利用した」(れんだいこ)ということになる。 

 ドイツとレーニンはお互いを利用する決意を固めた。捕虜交換という名目でドイツ領を列車で通過、さらに船で中立国スウェーデンを経由するというルートである。スイス・ドイツ国境のゴットマディンゲンから先の列車では、レーニンたちが乗り組んだ車両は1つの乗降口を除いて完全に封鎖され、乗降口の側にはドイツ将校が詰めるという厳戒ぶりであった。いわゆる「封印車両」である。

 ドイツの援助はこれに留まらず、ストックホルムに着いた際、ドイツ外務省の代理人ヒュールステンベルクと密談し、ストックホルム在住のドイツ人経済学者の口座を通して資金(「あるシンパ」からの寄付という名目)をまわしてもらう約束まで交わしていたのである(「松田ロシア革命史」)。封印列車でドイツ、スエーデン経由でペトログラードのフィンランド駅に向かった。当時、フィンランドはロシア領となっており、フィンランド駅はペトログラードからフィンランドに向う鉄道の始発駅となっていた。

 エルネスト・マンデルの「1917年10月」によれば、「封印車両」にはボリシェヴィキ以外のロシア人も乗っており、そのうち何人かはドイツ・ロシア間の戦闘継続を主張していた、そしてそのことはドイツ側も了解していたという。また同書によればボリシェヴィキはその後も資金繰りに苦しんでおり、ドイツからの「援助」も考え難いとする。

 他方、鬼塚英昭氏は「20世紀のファウスト」で、次のように記している。

 「レーニンは、ロスチャイルドが手配した封印列車でドイツからロシアへ放り込まれる」(34P)。
 「ユダヤ系のレーニンが同じユダヤ系のオーストリア人逃亡者のカール・パディワや多数のユダヤ人を同伴して、ドイツの参謀本部と打ち合わせのもと、スイスからロシアへ封印列車で送り込まれてからロシアは狂ってしまった。ロシアにレーニンらを送り込んだドイツ参謀本部司令官のヘルプハントもユダヤ人であった」(88P)。

レーニン帰還第一声演説

 4.3日、ドイツ当局・軍部が仕立てた封印列車に乗ってペトログラードのフィンランド駅に降り立ったレーニンはソヴィエト議長チヘイゼの祝辞を受け、車でクシェシーンスカヤ宮殿のボリシェヴィキ党本部に移動した。「ロシア革命史」は次のように記している。

 「両手に抱えた花束が全く似合っておらず、次々とやってくる歓迎の挨拶をうんざりしながら聞き流していた」

 レーニンは、フィンランド駅で、「四月テーゼ」を演説した。二月革命の成功に基づいて、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを唱えた。臨時政府打倒、ソヴィエト政権樹立を訴え、間接的に臨時政府を条件つき支持しているメンシェヴィキやエスエルを批判していた。

 4.3日、レーニンが「封印列車」に乗ってペトログラードへ帰還した。レーニンは群集に出迎えられ、概要「諸君が成し遂げた革命は、新しい時代を切り開いた。全世界の社会主義革命万歳」演説で応えた。メンシェヴィキもポルシェヴィキも起こったばかりのブルジョア革命に幻惑されていた中で、レーニンの社会主義革命万歳論が繰り返された。後の展開から見て、このことがロシア革命のその後の運命を決めることになった。

 この頃、レーニンは、次のように述べ、ポルシェヴィキ組織内闘争を開始する。

 概要「時代遅れの古臭いポルシェヴィキの連中は、新しい生きた情勢の特殊性を学ぼうともしないで、何一つ理解しないままに感覚的に覚えている公式を繰り返すばかりで、我々の党の歴史に於いて、一再ならず愚劣なる役割をさんざん果たして来たのである」。

レーニンが「四月テーゼ」を発表する
 4.4(4.16)日、ロシアに帰国したレーニンは、ただちに「四月テーゼ」(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」)を発表し、次のようによびかけた。
 概要「一つの国家に二つの権力は存在し得ない。遅かれ早かれ、ソビエトが臨時政府にとって代わるか、さもなければ臨時政府がソビエトを倒すしかない」。
 「全権力をソビエトに、臨時政府の打倒、戦争を革命に転化せよ」。

 レーニンは、臨時政府に対する「条件づき支持」の立場を取っていたカーメネフ、スターリンら従前の中央指導部を鋭く批判した。この「四月テーゼ」が「革命の青写真」となって、次第に威力を増していくことになる。

 佐久間元・氏の「革命の挫折」は、次のように評している。
 「プロレタリア独裁権力の樹立、これが『4月テーゼ』の打ち出した画期的な任務だった」。

 「四月テーゼ」の骨子は次のようなものであった。
 【「革命的祖国主義」絶対反対。臨時政府の戦争継続政策断固反対】
 概要「今の戦争は帝国主義戦争であり、利益を得るのはブルジョアのみである。現在の戦争がブルジョアだけの利益になる帝国主義戦争である以上、ブルジョアの政府である臨時政府に『戦争やめろ』などといっても聞き入れる訳がない。これからの我々のスローガンは『すべての権力をソヴィエトへ!』、『戦争絶対反対!』をおいて他にない。前線の兵士たちはただちに戦闘を停止して、ドイツ軍の兵士たちと交歓するようにすべきである」。
 【革命の過渡期論】
 概要「現在は、革命の第一段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期である。ロシアにおける現在の瞬間の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性が不十分であったために、権力をブルジョアジーの臨時政府に横取りされてしまった。これをプロレタリアートと農民の手へと奪いかえさなければならない、このことにある」。
 【臨時政府との協調反対、臨時政府打倒】
 概要「権力を臨時政府に引き渡してしまったメンシェヴィキやエス・エルの政策は明らかに間違っており、つまり彼等はブルジョアの虜になっている。わがボリシェヴィキは出遅れたうえにまだまだ少数派であるが、『戦争の終結』を強く訴えれば労働者と兵士たちは必ずボリシェヴィキの側についてくる。そして、ありうべき政権の形はソヴィエト政権のみである」。
 【「全ての権力をソビエトへ!」の徹底的喧伝】
 概要「ソビエトがただ一つの可能な革命政府の形態であり、全国家権力をソビエトに移さねばならない」。
 【ソビエト共和国を創出せよ。コミューン4原則の実施】
 意訳概要「労働者と兵士のみの代表機関として自然発生したソヴィエトを、来る労農民主独裁政権における政治形態の具体例にせよ。労働者と農民(あるいは兵士)のみで構成するソヴィエトは、ブルジョアも議会よりも、より高度な政治形態である。議会制共和国志向ではなく、労働者・雇農・農民代表のソビエト共和国を創出せよ」。
 地主所有地の没収と土地の国有化、土地処理を地区農民ソビエトに委ねる事。
 単一の全国的銀行の創出と労働者代表ソビエトによる管理。
 社会主義政策の導入にとどまらず、社会的生産と生産物の分配に関する労働者代表ソビエトによる統制。
 党の任務として、党綱領の改訂、党名の変更。
10  インターナショナルの革新により、第三インターナショナルの創設。

 レーニンは、「共産主義者の宣言」に青写真されていた革命プログラムを指針させ、「我々の直接の任務は社会主義を『導入』することではなくて、社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソビエトの統制に今すぐ移ることに過ぎない」とあるように経済統制の道へ分け入ろうとしていた。付言すれば、レーニンは、ボリシェヴィキが権力を奪取した後ですら「我々が社会主義への過渡期に入ったばかりであるということ、まだ社会主義に到達していないということに関し、私はいかなる幻想も持っていない」と述べている。ただし、西欧先進資本主義国でのプロレタリア革命と一体となれば、ロシアにおける早期の社会主義化も可能であるとしていた。
 「四月テーゼ」では制憲議会の問題はどのように位置づけられていたか。次のように記していた。
 概要「ブルジョア的臨時政府と労働者ソヴェトという現在の二重権力の状能から目指さられるべき次の段階は、労働者ソヴェトが単独で政権を握る状態であり、その場合の国家形態は、『議会制共和国』ではない。『労働者代表ソヴェト』からそういうものへもどるのは、一歩後退であろう。全国にわたる、上から下までの『労働者・雇農・農民代表ソヴェトの共和国』こそが目標とされるべきである」。

 但しレーニンは、制憲議会そのものを排撃したのではなく、次のように記している。
 「私は、臨時政府が口約束でごまかして、憲法制定議会の召集の早い日取りはさておき、全然その日取りを決めていないことを攻撃した。私は、労働者ソヴェトがなければ、憲法制定議会の召集は保障されないし、その成功は不可能だということを、論証した」。

 ここから、この時期のレーニンの制憲議会に対する基本姿勢が、明らかになる。第一に、この点は1915年の「二つのテーゼ」にもすでに現われているところであるが、ソヴェト共和国をプロレタリア独裁の唯一のあるべき国家形態として堅く想定しているレーニンは、「制憲議会をそれ自体として独立した革命の目標とはせず、むしろ制憲議会はソヴェト型国家への移行に際して時として障害ともなりうる」と考えていた事実である。なぜなら、「全人民によって自由に選挙された憲法制定議会」(1903年の第二回党大会で採択された党綱領から)は、それ自身ブルジョア民主主義的議会であり、この議会が制定する憲法のもとでの国家もまた、議会制共和国に帰結するのが自明であったからである。

 第二に、だがレーニンはこの時期には、臨時政府は制憲議会を召集できない(レーニンは別の所で「ひよっとすると農民は憲法制定議会で地主から、いっさいの土地を奪い取ることを決めるかも知れない」という地主の不安を代弁している)だろうし、したがってボリシェヴィキは対外的には制憲議会の早期召集要求、という『錦の御旗』を掲げて臨時政府を攻撃することが可能と考えていた。

 このことをよく示すのが、全ロシア協議会でのレーニンの次の発言であろう。

 「憲法制定議会が革命を圧殺するというようなことはないだろう。なぜならば現在、憲法制定議会についてはなんの話しもきかないし、だれもそれを召集しようと思っていないからである。憲法制定議会の召集を『要求する』ようなことをやれるのは、エス・エルである」。

 第三に、レーニンは、ソヴェトにおけるボリシエヴィキ主導の革命的多数派の形成を通じての「まずソヴェト権力の確立、次にソヴェト権力のもとでの制憲議会選挙と召集を通じての労働者・農民代表ソヴェト共和国の樹立」という道を、革命のもっとも望ましいコースとして展望していた、と考えられる。しかし、状況によっては制憲議会を通じないソヴェト共和国の樹立の可能性をも、彼が考慮に入れていたことは、四月テーゼと同時期に書いた「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」のなかの、次の言葉から推測可能であろう。

 概要「リヴォフ一派の諸君が憲法制定議会の召集を先へ延ばせば延ばすほど、人民が労働者・農民代表ソヴェト共和国をえらぶ(憲法制定議会を通じてにせよまた ――リヴォフがなかなかそれを召集しない場合には――それを通じないせよ)のが、それだけ容易になるであろう」。

  制憲議会を通じない労農ソヴェト共和国の樹立とは、上から下までのソヴェトの全国的機関による権力の掌握と、その最高機関の制憲議会化ということになろう。現実のロシア革命は、結局はこの道を選択していくことになる。

 第四に、にもかかわらずレーニンとボリシェヴィキが制憲議会の早期召集を要求し続けたのは、革命的情勢の下の全人民による選挙は、労農大衆の革命的進歩を可能となしうること、また全人民の意志の適合的表現である憲法制定議会を通じての制憲議会だけが、地主・ブルジョア・軍部の反抗の口実を奪い取りうること、等を戦術的に考慮したためであった。その際の成功の保障は、概要「労働者・兵士・農民その他の代表ソヴェトの数をふやし、その力を強めること。労働者大衆を組織し武装させることにある」とされた。

 それでは、ソヴェト権力の樹立以前に憲法制定議会の選挙が実施された場合、ブルジョア民主主義議会としての制憲議会が――革命の成熟度の不足に比例してやはり不十分な勢力しか持たない議会内の革命的党派とともに――生まれるであろうが、その場合には、いかに行動すべきか? 、このことが解決されねばならない課題となった。


「四月テーゼ」を廻る喧喧諤諤と否決

 社会主義革命を旗印に掲げる「四月テーゼ」は当初、ボリシェヴィキ内部でもなかなか受け入れられなかった。「帝国主義間戦争論」に基づくレーニンの戦略論は、他の幹部にはよく理解されていなかった。これにつき、トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように解説している。

 概要「この時期ー1917.4.4日、即ちレーニンがペテログラードの舞台に姿を現すまでの時期-に於けるレーニンの判断は、全く彼の個人的独創的なものであった。当時ロシアにいた党の指導者の誰一人として、プロレタリアート独裁、社会主義革命の方向へ進もうなどとは考えてもいなかったのである。レーニン到着の前夜に開かれた党会議では、何十人というポルシェヴィキが居ながら、彼らのうちの一人として民主主義を越えることなど考えもしなかった。1917.3月まで、彼らのうちの一人さえ、左翼プチブル民主主義者の位置を超えた者はいなかった。この会議の議事録が今日まで隠されたままになっているのも故なしとしない」。

 レーニンの留守中にボリシェヴィキを指導していたカーメネフ、ルイコフ、モロトフ、トムスキー、カリーニンらは、レーニンの「四月テーゼ」に公然と異議を唱えていた。次のように述べていた。

 「メンシェヴィキやエスエルを敵にまわしても、ボリシェヴィキが孤立するだけである」。
 「ボリシェヴィキはとりあえずはエスエルやメンシェヴィキと連携しての労農民主独裁を遂行すべし」。

 スターリンもこれに同調した。 トロツキーは次のように証言している。

 「スターリンは、グチコフとミリューコフの臨時政府を支持し、ポルシェヴィキとメンシェヴィキの合同進むという意見を持っていた」。
 「スターリンは後方へ引っ込む方法を選んだ。彼は、公の舞台に現われてレーニンの見解を防衛することは決してせず、単に後方に立っていた。革命のために、理論的政治的に準備していた最も責任ある数ヶ月の間、ずっと、スターリンは、政治的な意味では、単に存在しなかったのだ」。

 カーメネフやスターリンは、党機関紙プラウダ紙上で次のように述べていた。

 「臨時政府が反革命と戦うかぎり、断固としてこれを支持する」。
 「ドイツ軍が自国の皇帝に服従しているかぎり、ロシアの兵士はしっかりと自分の部署につき、銃弾には銃弾で砲弾には砲弾で答えなければならない」。

 「四月テーゼ」反対派の見解は次のようなものであった。E・H・カーの「ボリシェヴィキ革命」の記述を参照する。

 概要「レーニン主義的労農民主独裁の実現は、事態の発展・深化によって次第になしとげられるであろう。ロシアではまだブルジョア革命が完遂しておらず、ということはプロレタリア革命などはもっと先の話だ。『社会主義革命の創始は我々の仕事ではない。我々はそのための力も、客観的条件も持ってはいない』(ボリシェヴィキ幹部ルイコフの発言)。レーニン自身が、ブルジョア革命の完遂はまだ当面の課題ではないと述べていたではないか。急に社会主義政策の導入を言い出したが、レーニンはいつからトロツキー流の永続革命論者になったのか。労農民主独裁の実現)も成っていない今は時期尚早である。
 レーニン当人の二段階革命論では、革命後はまず『資本主義の発展をはかる』といっていたではないか。レーニンは最初の予定より早く社会主義を射程に入れようとしているが、今回の革命はブルジョア革命の範疇であり、この状況下で臨時政府に代わってプロレタリアート(ソヴィエト)が権力を握らなければならないという必然性はない。ブルジョア革命の主眼の1つたる土地解放(地主貴族の持つ土地を農民に解放する)がまだ実現していないではないか。ブルジョア(臨時政府)がやる気になっているのだからそれでいいではないか(ケレンスキー回顧録に拠れば、「実際に、臨時政府は現実に農地を耕している者(これまで土地を持たなかった貧農)への土地の全面的移譲を企図し、翌年春の実現を目指していた」)。レーニンは亡命生活が長過ぎてロシアの現状がよく理解出来ていないのではないか」。

 だが、レーニンにいわせれば、次のような見解になる。

 「今回の二月革命は労働者と兵士がおこしたものであり、兵士の大部分が徴兵された農民である以上、たとえあらゆる必要なブルジョア民主主義的改革(例えば土地解放)がまだ完了していないにせよ、「一定の形態と一定の程度とにおいて」、「労農民主独裁」すなわちブルジョア革命は二月革命をもって実現されたのである。(それが実際に機能していないのは、メンシェヴィキが誤った指導を行なったという、ただそれだけの理由による。問題の土地解放はこれから実現していけばよいのである。いずれにせよ、究極目標としての社会主義建設を目指すことこそが望まれている」。

 レーニンは、二月以来の変転する情勢を巧みに正確に把握し、革命の徹底的遂行を企図していた。レーニンは、「新しい生きた現実の特殊性を学ばないで、馬鹿の1つおぼえのように公式を繰り返すことによって、我が党の歴史のなかで、一度ならず悲しむべき役割を演じてきた古参ボリシェヴィキ」を痛烈に批判し、少しづつ賛同者を増やしていった。レーニンは単なる理論家ではなく、天性の革命家であった。古参ボリシェヴィキであるカーメネフもスターリンもこの点でレーニンに遠く及ばず、「ブルジョア主導による資本主義の発展を政府の外から黙って待つ」メンシェヴィキに至っては論外であった。

 レーニンは、「戦争反対、ロシアの大戦からの離脱」は、ドイツを喜ばせるだけであり他の同盟国に対して道義的に問題があるとの指摘に対して、次のように反論した。

 ロシアでソヴィエト政権が誕生すればそれに刺激される形で西欧先進資本主義国でも革命が起こり(つまり世界革命)そのまま全面的な講和へと移行するであろう。かような世界革命と一体となる(西欧先進国に成立するであろうプロレタリア政府の援助を受ける)ことでロシアでの早期な社会主義化実現も可能と考える、との見解が示された(E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』3)。

 4.8日、ボリシェヴィキ党ペトログラード委員会は、レーニンの「四月テーゼ」を討議して、13票対2票(棄権1票)でこれを否決している。プラウダには、次のようなカーメネフの署名入りコメントが掲載された。

 「レーニンの一般的計画に関する限り、我々には受け入れ難いように思われる。なぜならば、それは、ブルジョア革命が完了したという仮定から出発して、この革命が社会主義革命に直接に転化することを期待しているからである」。

 4.14日、「四月テーゼ」が党ペトログラード市協議会にかけられた。

 社会民主党の党員は、1917年始めには2万3600名に過ぎなかったが、4月には8万人、7月には24万人、10月には40万人以上と伸張していくことになる。


第1次臨時政府の戦争継続政策と政府部内の不統一
 4.18日、臨時政府の外相・ミリュコーフは、帝政以来の官僚が運営している行政機構の下で、「連合国に対する義務を守り、連合国の決定的勝利まで戦争を遂行する」なる外交通牒を発し、英仏との友誼関係を維持せんとした。

 
18世紀からの帝政ロシアの国策「南下政策」の最終目標はオスマン・トルコ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)の征服にあった。ブルジョアジーの代表であるミリューコフはこれに大いに賛同し、次のように唱えていた。
 「勝利はコンスタンティノープルであり、コンスタンティノープルは勝利である。この意味で、常に国民にコンスタンティノープルのことを思い出させることである」。

 しかし、これは同じブルジョアジーの中でも純軍事・政治的に困難であるとの反論が大きかった。(ケレンスキー回顧録)

 帝政ロシアは大戦勝利の暁にはボスポラス・ダーダネルス両海峡(黒海と地中海のつなぎ目)と小アジア(現在のトルコ共和国が所在する大半島)の広大な領土を獲得するとのことが英仏伊によって約束されていた。これはブルジョアジーにとって非常に美味しい話であり、ブルジョア議員たるミリューコフは帝政の始めた戦争を臨時政府の政策としてそのまま引き継ぐ考えでいたのである。

 これに対し同じ政府閣僚のケレンスキーは、戦争継続に絶対反対という訳ではないが、ミリューコフの唱えるような露骨な「帝国主義戦争」的な主張が現在のロシア人民大衆に受け入れられるはずがないと考え、臨時政府の主張を民衆の世論の側にあわせていく必要があると訴えた。例えば、この少し前にフランスから、(戦争に勝った時に)フランスがライン河左岸を併合するのをロシアが認めるならば、フランスはロシアがポーランドのドイツ・オーストリア領部分を併合するのを認めてやってもよいと持ちかけてきたが、ケレンスキーは、そんな帝国主義的なやりとりを続けるよりも、思いきってポーランドを独立させるべきと主張した。

ソヴィエトの戦争反対闘争
 かような臨時政府内の論争をよそに、ソヴィエトはミリューコフの声明「戦争遂行」に対し「帝国主義的」として反発し、帰国したばかりのレーニンが反臨時政府のデモを扇動した(ケレンスキー回顧録)。ミリューコフを支持する者も多数いたが、「最後まで戦争を」のプラカードを掲げてミリューコフを応援する傷痍軍人たちの「愛国行進」は、「自分が犠牲になったことを無意味なものと認めたがらない、帝国主義戦争がつくり出した人間の切り株たちの絶望の表明」なのであった。

 4.20日、ミリューコフの戦争遂行策に反対するデモが始まった。戦争中止を要求する臨時政府反対の大規模なデモが発生した。フィンランド聯隊の兵士委員会に属する無党派のリンデという人物がイニシアディヴをとり、パブロフスキー聯隊・ケスクゴルムスキー聯隊・第110予備聯隊等の兵士と労働者が武器を持って街へと繰り出してきた。「ミリューコフを除け!」、「臨時政府を打倒せよ!」。

 これに対し、ミリューコフの所属するブルジョア政党カデット(自由国民党)が対抗デモを組織した。「臨時政府を全幅的に信頼せよ!」、「ミリューコフ万歳!」小競り合いがおこって双方のデモ隊に死傷者が出た。カデットの依頼をうけた(ロシア革命史)コルニーロフ将軍が大砲を動かした。しかし、さすがにマズイと考えたソヴィエトの中央執行委員会(メンシェヴィキ主導)が「命令第1号」に基づいて、全ての部隊に対し「ソヴィエトの指示なく動いてはならない」との指令を発した。双方のデモ隊のかなりの部分が矛をおさめたが、クロンシュタット軍港の水兵等、多くの部隊が強硬な反臨時政府の姿勢を崩そうとしなかった。

 しかしケレンスキーによれば臨時政府はコルニーロフからの出動の申し出を拒絶したという。トロツキーによれば、少なくともケレンスキーと首相リヴォフ公はコルニーロフに反対し、ミリューコフは沈黙していたという。

 その結果、ミリュコーフは辞職を余儀なくされた。しかし、臨時政府は戦争をやめるつもりはなかった。強硬に戦争反対を唱えるボリシェヴィキに対抗するには、ソヴィエト内の穏健な社会主義政党(メンシェヴィキ、エスエル)を取り込む以外にないし、そもそも戦争がやりたくても、肝心の軍隊をソヴィエトが押えている以上、臨時政府としてはソヴィエトに協力を要請する以外に道がない(松田ロシア革命史)。こう考えた臨時政府(特にケレンスキー)はソヴィエトに政府への参加を呼びかけた。

諸党派の対応
 ソヴィエトの諸党派はそれぞれ異なる対応を見せた。まずエス・エル(の右派)は申し出を簡単に受諾した。
 「我々社会主義者は臨時政府に入ることによって、ブルジョアジーの捕虜になるのではなく、革命の前進塹壕の新しい位置につくのだ」。

 メンシェヴィキは迷いに迷った末に臨時政府への参加を決めた。臨時政府首班のリヴォフ公は、もしメンシェヴィキが臨時政府に参加しないなら、政府は総辞職してロシアの全責任をソヴィエトに押し付けると詰寄っていた。あくまで自分たちの革命理論に忠実なメンシェヴィキにとっては、今の段階での政府は、何が何でも「ブルジョアの政府」でなければならず、「プロレタリアート(と兵士)の代表機関」であるソヴィエトに権力を背負わせる訳にはいかない(長尾ロシア革命史)のだ。そんなことになるなら「ブルジョア主体の政府に少数派として参加する」方がずっとマシである。また、政府の中に入ってしまえばブルジョアの政策を戦争停止へと変更せしめることが出来るかもしれない(松田ロシア革命史)。

 5月1〜2日の夜、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は臨時政府への参加を44対19で可決した。反対はボリシェヴィキにエスエル左派、メンシェヴィキの一部であった。

第二次臨時政府(第一次連立政府)が成立
 このいわゆる四月闘争の結果、第一次臨時政府は倒れ、5.5日、リヴォフ公爵を首班とする第二次臨時政府(第一次連立政府)が成立した(5.5日〜7.2日)。カデット3、エスエル2、メンシェヴィキ2の連立政権であった。首相兼内相は引き続きリヴォフ公(カデット)、陸海軍相は司法相から転任したエスエルのケレンスキー、郵便電信相はメンシェヴィキのツェレテーリといったメンバーがそれぞれ占めていた。エスエル2名、メンシェヴィキ2名からなるペトログラード・ソビエトの副議長ら4名が入閣していた。こうして成立した「第二次臨時政府(第一次連立政府)」では、メンシェヴィキ(とエスエル)は前述の思惑に基づき、「15の大臣の椅子のうち6を占めた。少数派たることは彼等の希望するところだった(ロシア革命史)」。

 こうしてソビエトと臨時政府の対立は一時解消したが、連立及び入閣大臣を支持するべきかを廻ってメンシェヴィキとエスエルに分裂が生じた。ソビエト内に協調派と革命派への分裂をもたらすこととなった。

 第二次臨時政府も又全面講和をめざすとしながらも単独講和は拒否し、相変わらず戦争をやめなかった。

【ボリシェヴィキが歴史の表舞台へ登場し始める】

 だが、メンシェヴィキと右派エスエル、いわゆる「社会協調派」がブルジョアの臨時政府に取り込まれた分、「四月テーゼ」を掲げるボリシェヴィキの立場がより鮮明となった。クロンシュタット軍港の水兵たち、ラトヴィアのレット人狙撃兵部隊等、いくつかの地方の重要ソヴィエトが臨時政府の権威を否定する動きに出た。「臨時政府を打倒せよ!」、「全ての権力をソヴィエトへ!」のスローガンが現実化し始め、ボリシェヴィキがようやく歴史の表舞台へとあらわれてきた。

 以降の紆余曲折の末にボリシェヴィキはすべての権力を手中におさめることとなるが、これは戦争遂行にこだわって民衆の支持をなくしていく臨時政府や、「社会主義革命の気運はいずれ自然に熟してくる」と考えたメンシェヴィキと異なり、あくまで「主体的に」革命をおこそうとしたその姿勢、長引く戦争によって産み出された反戦・革命的機運と、ブルジョアや地主貴族によって奴隷のような扱いを受けるロシアの労働者・農民の革命性を正確に把握したところによる。

 だが、この時点ではボリシェヴィキはまだまだ少数派であった。ソヴィエトにおいても多数派はまずエスエル、ついでメンシェヴィキである。ボリシェヴィキがこれらを押し退けて本物のボリシェヴィキ(多数派)に到達するには、もう一つ山を越えねばならなかった。





(私論.私見)