「4月テーゼ」(レーニンとトロツキーの革命曲共奏行脚) |
(最新見直し2008.5.13日)
只今書き換え中、各方面ご理解頼む。
(れんだいこのショートメッセージ) |
いよいよロシア10月革命の鐘が鳴る。以下、追跡してみたい。 2007.5.13日 れんだいこ拝 |
【レーニンの「遠方からの手紙」】 | |||
この頃レーニンは、逃亡先から次のように打電し、指示を与え続けた。
「遠方からの手紙」も寄越して、次のように指示していた。
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【革命派に対するロスチャイルド派の後押し】 | ||||
ジョン・コールマン著、太田龍監訳「タヴィストック」(成甲書房、2006.3.30日初版)は42Pで、次のように記している。
つまり、概要「レーニンは、ロスチャイルド家の指図を受けて送り込まれた従者に過ぎず、ポルシェヴィキ革命は、ウォール街の戦争屋とロンドンシティー(国際金融資本寡頭権力)の謀略であった」と云う。 出典不明であるが、次のようにも云われている。
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【レーニン帰還「封印列車」の経緯】 | ||
レーニンは一刻も早い帰還を願った。しかし手立てが無く焦燥していた。歴史の摩訶不思議というべきか、焦慮するレーニンに近づいたのはドイツ参謀本部であった。ドイツ参謀本部は、戦争継続に向う臨時政府に失望し、「戦争の即時終結」論を唱えるレーニンに期待していくことになった。レーニンの戦術は、ロシアに革命政権を樹立すれば、英仏帝国主義諸国と袂をわかって、ドイツと講和するというもので、ドイツの思惑と合致していた。 *月**日、ドイツ参謀本部は、ロシアに更なる混乱をまきおこそうと、レーニン以下スイス在住の革命家をロシアに送り込むことを決めた。ドイツ軍部の立てた計画は、スイスの社会主義者で国際主義者のブラッティンに伝えられ、ブラッティンがレーニンに持ちかけた。レーニンは直ちにこの提案を受けた。「ドイツ軍部がレーニンの利用を思い立ち、レーニンがこれを更に革命的に利用した」(れんだいこ)ということになる。 ドイツとレーニンはお互いを利用する決意を固めた。捕虜交換という名目でドイツ領を列車で通過、さらに船で中立国スウェーデンを経由するというルートである。スイス・ドイツ国境のゴットマディンゲンから先の列車では、レーニンたちが乗り組んだ車両は1つの乗降口を除いて完全に封鎖され、乗降口の側にはドイツ将校が詰めるという厳戒ぶりであった。いわゆる「封印車両」である。 ドイツの援助はこれに留まらず、ストックホルムに着いた際、ドイツ外務省の代理人ヒュールステンベルクと密談し、ストックホルム在住のドイツ人経済学者の口座を通して資金(「あるシンパ」からの寄付という名目)をまわしてもらう約束まで交わしていたのである(「松田ロシア革命史」)。封印列車でドイツ、スエーデン経由でペトログラードのフィンランド駅に向かった。当時、フィンランドはロシア領となっており、フィンランド駅はペトログラードからフィンランドに向う鉄道の始発駅となっていた。 エルネスト・マンデルの「1917年10月」によれば、「封印車両」にはボリシェヴィキ以外のロシア人も乗っており、そのうち何人かはドイツ・ロシア間の戦闘継続を主張していた、そしてそのことはドイツ側も了解していたという。また同書によればボリシェヴィキはその後も資金繰りに苦しんでおり、ドイツからの「援助」も考え難いとする。
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【レーニン帰還第一声演説】 | ||
4.3日、ドイツ当局・軍部が仕立てた封印列車に乗ってペトログラードのフィンランド駅に降り立ったレーニンはソヴィエト議長チヘイゼの祝辞を受け、車でクシェシーンスカヤ宮殿のボリシェヴィキ党本部に移動した。「ロシア革命史」は次のように記している。
レーニンは、フィンランド駅で、「四月テーゼ」を演説した。二月革命の成功に基づいて、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを唱えた。臨時政府打倒、ソヴィエト政権樹立を訴え、間接的に臨時政府を条件つき支持しているメンシェヴィキやエスエルを批判していた。 4.3日、レーニンが「封印列車」に乗ってペトログラードへ帰還した。レーニンは群集に出迎えられ、概要「諸君が成し遂げた革命は、新しい時代を切り開いた。全世界の社会主義革命万歳」演説で応えた。メンシェヴィキもポルシェヴィキも起こったばかりのブルジョア革命に幻惑されていた中で、レーニンの社会主義革命万歳論が繰り返された。後の展開から見て、このことがロシア革命のその後の運命を決めることになった。
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【レーニンが「四月テーゼ」を発表する】 | ||||||||||||||||||||||||||||
4.4(4.16)日、ロシアに帰国したレーニンは、ただちに「四月テーゼ」(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」)を発表し、次のようによびかけた。
レーニンは、臨時政府に対する「条件づき支持」の立場を取っていたカーメネフ、スターリンら従前の中央指導部を鋭く批判した。この「四月テーゼ」が「革命の青写真」となって、次第に威力を増していくことになる。 佐久間元・氏の「革命の挫折」は、次のように評している。
「四月テーゼ」の骨子は次のようなものであった。
レーニンは、「共産主義者の宣言」に青写真されていた革命プログラムを指針させ、「我々の直接の任務は社会主義を『導入』することではなくて、社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソビエトの統制に今すぐ移ることに過ぎない」とあるように経済統制の道へ分け入ろうとしていた。付言すれば、レーニンは、ボリシェヴィキが権力を奪取した後ですら「我々が社会主義への過渡期に入ったばかりであるということ、まだ社会主義に到達していないということに関し、私はいかなる幻想も持っていない」と述べている。ただし、西欧先進資本主義国でのプロレタリア革命と一体となれば、ロシアにおける早期の社会主義化も可能であるとしていた。 |
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「四月テーゼ」では制憲議会の問題はどのように位置づけられていたか。次のように記していた。
但しレーニンは、制憲議会そのものを排撃したのではなく、次のように記している。
ここから、この時期のレーニンの制憲議会に対する基本姿勢が、明らかになる。第一に、この点は1915年の「二つのテーゼ」にもすでに現われているところであるが、ソヴェト共和国をプロレタリア独裁の唯一のあるべき国家形態として堅く想定しているレーニンは、「制憲議会をそれ自体として独立した革命の目標とはせず、むしろ制憲議会はソヴェト型国家への移行に際して時として障害ともなりうる」と考えていた事実である。なぜなら、「全人民によって自由に選挙された憲法制定議会」(1903年の第二回党大会で採択された党綱領から)は、それ自身ブルジョア民主主義的議会であり、この議会が制定する憲法のもとでの国家もまた、議会制共和国に帰結するのが自明であったからである。 第二に、だがレーニンはこの時期には、臨時政府は制憲議会を召集できない(レーニンは別の所で「ひよっとすると農民は憲法制定議会で地主から、いっさいの土地を奪い取ることを決めるかも知れない」という地主の不安を代弁している)だろうし、したがってボリシェヴィキは対外的には制憲議会の早期召集要求、という『錦の御旗』を掲げて臨時政府を攻撃することが可能と考えていた。
第三に、レーニンは、ソヴェトにおけるボリシエヴィキ主導の革命的多数派の形成を通じての「まずソヴェト権力の確立、次にソヴェト権力のもとでの制憲議会選挙と召集を通じての労働者・農民代表ソヴェト共和国の樹立」という道を、革命のもっとも望ましいコースとして展望していた、と考えられる。しかし、状況によっては制憲議会を通じないソヴェト共和国の樹立の可能性をも、彼が考慮に入れていたことは、四月テーゼと同時期に書いた「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」のなかの、次の言葉から推測可能であろう。
制憲議会を通じない労農ソヴェト共和国の樹立とは、上から下までのソヴェトの全国的機関による権力の掌握と、その最高機関の制憲議会化ということになろう。現実のロシア革命は、結局はこの道を選択していくことになる。 第四に、にもかかわらずレーニンとボリシェヴィキが制憲議会の早期召集を要求し続けたのは、革命的情勢の下の全人民による選挙は、労農大衆の革命的進歩を可能となしうること、また全人民の意志の適合的表現である憲法制定議会を通じての制憲議会だけが、地主・ブルジョア・軍部の反抗の口実を奪い取りうること、等を戦術的に考慮したためであった。その際の成功の保障は、概要「労働者・兵士・農民その他の代表ソヴェトの数をふやし、その力を強めること。労働者大衆を組織し武装させることにある」とされた。 それでは、ソヴェト権力の樹立以前に憲法制定議会の選挙が実施された場合、ブルジョア民主主義議会としての制憲議会が――革命の成熟度の不足に比例してやはり不十分な勢力しか持たない議会内の革命的党派とともに――生まれるであろうが、その場合には、いかに行動すべきか? 、このことが解決されねばならない課題となった。 |
【「四月テーゼ」を廻る喧喧諤諤と否決】 | ||||||||||||
社会主義革命を旗印に掲げる「四月テーゼ」は当初、ボリシェヴィキ内部でもなかなか受け入れられなかった。「帝国主義間戦争論」に基づくレーニンの戦略論は、他の幹部にはよく理解されていなかった。これにつき、トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように解説している。
レーニンの留守中にボリシェヴィキを指導していたカーメネフ、ルイコフ、モロトフ、トムスキー、カリーニンらは、レーニンの「四月テーゼ」に公然と異議を唱えていた。次のように述べていた。
スターリンもこれに同調した。 トロツキーは次のように証言している。
カーメネフやスターリンは、党機関紙プラウダ紙上で次のように述べていた。
「四月テーゼ」反対派の見解は次のようなものであった。E・H・カーの「ボリシェヴィキ革命」の記述を参照する。
だが、レーニンにいわせれば、次のような見解になる。
レーニンは、二月以来の変転する情勢を巧みに正確に把握し、革命の徹底的遂行を企図していた。レーニンは、「新しい生きた現実の特殊性を学ばないで、馬鹿の1つおぼえのように公式を繰り返すことによって、我が党の歴史のなかで、一度ならず悲しむべき役割を演じてきた古参ボリシェヴィキ」を痛烈に批判し、少しづつ賛同者を増やしていった。レーニンは単なる理論家ではなく、天性の革命家であった。古参ボリシェヴィキであるカーメネフもスターリンもこの点でレーニンに遠く及ばず、「ブルジョア主導による資本主義の発展を政府の外から黙って待つ」メンシェヴィキに至っては論外であった。
4.8日、ボリシェヴィキ党ペトログラード委員会は、レーニンの「四月テーゼ」を討議して、13票対2票(棄権1票)でこれを否決している。プラウダには、次のようなカーメネフの署名入りコメントが掲載された。
4.14日、「四月テーゼ」が党ペトログラード市協議会にかけられた。 |
【第1次臨時政府の戦争継続政策と政府部内の不統一】 | |
4.18日、臨時政府の外相・ミリュコーフは、帝政以来の官僚が運営している行政機構の下で、「連合国に対する義務を守り、連合国の決定的勝利まで戦争を遂行する」なる外交通牒を発し、英仏との友誼関係を維持せんとした。 18世紀からの帝政ロシアの国策「南下政策」の最終目標はオスマン・トルコ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)の征服にあった。ブルジョアジーの代表であるミリューコフはこれに大いに賛同し、次のように唱えていた。
しかし、これは同じブルジョアジーの中でも純軍事・政治的に困難であるとの反論が大きかった。(ケレンスキー回顧録) 帝政ロシアは大戦勝利の暁にはボスポラス・ダーダネルス両海峡(黒海と地中海のつなぎ目)と小アジア(現在のトルコ共和国が所在する大半島)の広大な領土を獲得するとのことが英仏伊によって約束されていた。これはブルジョアジーにとって非常に美味しい話であり、ブルジョア議員たるミリューコフは帝政の始めた戦争を臨時政府の政策としてそのまま引き継ぐ考えでいたのである。 これに対し同じ政府閣僚のケレンスキーは、戦争継続に絶対反対という訳ではないが、ミリューコフの唱えるような露骨な「帝国主義戦争」的な主張が現在のロシア人民大衆に受け入れられるはずがないと考え、臨時政府の主張を民衆の世論の側にあわせていく必要があると訴えた。例えば、この少し前にフランスから、(戦争に勝った時に)フランスがライン河左岸を併合するのをロシアが認めるならば、フランスはロシアがポーランドのドイツ・オーストリア領部分を併合するのを認めてやってもよいと持ちかけてきたが、ケレンスキーは、そんな帝国主義的なやりとりを続けるよりも、思いきってポーランドを独立させるべきと主張した。 |
【ソヴィエトの戦争反対闘争】 |
かような臨時政府内の論争をよそに、ソヴィエトはミリューコフの声明「戦争遂行」に対し「帝国主義的」として反発し、帰国したばかりのレーニンが反臨時政府のデモを扇動した(ケレンスキー回顧録)。ミリューコフを支持する者も多数いたが、「最後まで戦争を」のプラカードを掲げてミリューコフを応援する傷痍軍人たちの「愛国行進」は、「自分が犠牲になったことを無意味なものと認めたがらない、帝国主義戦争がつくり出した人間の切り株たちの絶望の表明」なのであった。
4.20日、ミリューコフの戦争遂行策に反対するデモが始まった。戦争中止を要求する臨時政府反対の大規模なデモが発生した。フィンランド聯隊の兵士委員会に属する無党派のリンデという人物がイニシアディヴをとり、パブロフスキー聯隊・ケスクゴルムスキー聯隊・第110予備聯隊等の兵士と労働者が武器を持って街へと繰り出してきた。「ミリューコフを除け!」、「臨時政府を打倒せよ!」。 |
【諸党派の対応】 | |
ソヴィエトの諸党派はそれぞれ異なる対応を見せた。まずエス・エル(の右派)は申し出を簡単に受諾した。
メンシェヴィキは迷いに迷った末に臨時政府への参加を決めた。臨時政府首班のリヴォフ公は、もしメンシェヴィキが臨時政府に参加しないなら、政府は総辞職してロシアの全責任をソヴィエトに押し付けると詰寄っていた。あくまで自分たちの革命理論に忠実なメンシェヴィキにとっては、今の段階での政府は、何が何でも「ブルジョアの政府」でなければならず、「プロレタリアート(と兵士)の代表機関」であるソヴィエトに権力を背負わせる訳にはいかない(長尾ロシア革命史)のだ。そんなことになるなら「ブルジョア主体の政府に少数派として参加する」方がずっとマシである。また、政府の中に入ってしまえばブルジョアの政策を戦争停止へと変更せしめることが出来るかもしれない(松田ロシア革命史)。 5月1〜2日の夜、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は臨時政府への参加を44対19で可決した。反対はボリシェヴィキにエスエル左派、メンシェヴィキの一部であった。 |
【第二次臨時政府(第一次連立政府)が成立】 |
このいわゆる四月闘争の結果、第一次臨時政府は倒れ、5.5日、リヴォフ公爵を首班とする第二次臨時政府(第一次連立政府)が成立した(5.5日〜7.2日)。カデット3、エスエル2、メンシェヴィキ2の連立政権であった。首相兼内相は引き続きリヴォフ公(カデット)、陸海軍相は司法相から転任したエスエルのケレンスキー、郵便電信相はメンシェヴィキのツェレテーリといったメンバーがそれぞれ占めていた。エスエル2名、メンシェヴィキ2名からなるペトログラード・ソビエトの副議長ら4名が入閣していた。こうして成立した「第二次臨時政府(第一次連立政府)」では、メンシェヴィキ(とエスエル)は前述の思惑に基づき、「15の大臣の椅子のうち6を占めた。少数派たることは彼等の希望するところだった(ロシア革命史)」。 こうしてソビエトと臨時政府の対立は一時解消したが、連立及び入閣大臣を支持するべきかを廻ってメンシェヴィキとエスエルに分裂が生じた。ソビエト内に協調派と革命派への分裂をもたらすこととなった。 第二次臨時政府も又全面講和をめざすとしながらも単独講和は拒否し、相変わらず戦争をやめなかった。 |
【ボリシェヴィキが歴史の表舞台へ登場し始める】 |
だが、メンシェヴィキと右派エスエル、いわゆる「社会協調派」がブルジョアの臨時政府に取り込まれた分、「四月テーゼ」を掲げるボリシェヴィキの立場がより鮮明となった。クロンシュタット軍港の水兵たち、ラトヴィアのレット人狙撃兵部隊等、いくつかの地方の重要ソヴィエトが臨時政府の権威を否定する動きに出た。「臨時政府を打倒せよ!」、「全ての権力をソヴィエトへ!」のスローガンが現実化し始め、ボリシェヴィキがようやく歴史の表舞台へとあらわれてきた。 |
(私論.私見)