リチャード・パイプス「共産主義が見た夢、振り返って−マルクス主義の誤謬」考 |
(最新見直し2010.12.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
宮地健一氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」が、リチャード・パイプス(以下、「パイプス」と呼ぶ)の「共産主義が見た夢」(武田ランダムハウスジャパン、2001年初版)の「第6章、振り返って−マルクス主義の誤謬、他」を掲載している。れんだいこは、これによりパイプス理論を知ることになった。同書で、リパイプスは、私有財産否定思想をマルクス主義の精髄的テーマとして位置づけた上で、これを否定する総括を試みている。対話するに値する論考とお見受けしたので、これを評しておく。その1で、パイプス理論の概要を確認する。その2で、れんだいこ見解を対置することにする。 2010.12.7日 れんだいこ拝 |
【パイプス理論考その1、パイプス理論の概要】 | |||||||||||||
まえがきで、「本書は『共産主義』の入門書であると同時に、その追悼の書でもある」と述べている通り、パイプスは、マルクス主義に代表される共産主義思想の総括を意欲している。宮地氏は次のように解説している。
宮地氏の評は一見問題ないように見える。しかしながら、やや問題がある。なぜなら、パイプス理論が学問的営為のものなら許されるが、彼自身が認めるような「イデオクラシー」の見地からマルクス主義に代表される共産主義思想を揶揄しているとしたら見逃すべきではない。追々分かるが、パイプス理論は、マルクス主義的共産主義思想排撃のイデオロギーとして編み出されたものでしかない。してみれば、仮にパイプス理論の切れ味が良いとしても礼賛されるべきものではなかろう。これを一言しておく。 パイプスの履歴として次のように紹介されている。「ウィキペディアのリチャード・パイプス」その他を参照する。
この履歴で思うことは、単に「ナチスの迫害を逃れて米国に移住」とある下りである。要するにユダヤ人と云うことであろう。年代的に見てキッシンジャーと同時期と云うことになる。してみれば、キッシンジャー外交戦略のブレーンの一人として働いたと云うことになるのではなかろうか。以下、パイプス理論を見て行くことになるが、マルクスを畏敬する視点は微塵もないことに気づく。推測するのに、マルクスを評価するにせよ批判するにせよ、同じユダヤ人としての身内意識と気安さの下に一刀斬りしているのではなかろうか。そういうサマを見て取ることができよう。 パイプスは、マルクス主義勃興以降から現代までの歩みを「マルクス主義運動の破産」と総括している。この観点の是非はともかく、論旨をはっきりさせている点で小気味よい。この点は認めよう。その上で、マルクス主義運動の失敗が「人間の過失によるものだったのか、それとも、その運動の性質自体に本来備わる欠陥によるものだったのか」を問い、後者に理由を見出そうとしている。これも小気味よい問いかけである。れんだいこ流に翻訳すると、「マルクス主義運動の破産は実践の間違いなのか理論の間違いなのか、これを確認しよう」としていることになる。これは大事な問いかけではなかろうか。
かく、「マルクス主義の敗北は思想の歪み故に招いた必然論」を唱えている。これを下手に争う必要はなかろう。事実は事実として共認する必要があろう。今日に於いても、マルクス主義運動の破産の原因を修正主義に求め、純粋原理主義系のマルクス主義の再構築に向かう意欲を見せるマルキストが存在するが如何なものだろうか。論理的にはそういう捉え方も可能であろうが、次第に歴史から見離されるれつつある要因を訊ねるべきではなかろうか。この点では、れんだいこは、パイプス理論の見解に近い。パイプス理論の云うように、マルクス主義そのものに敗北原因を見出すべきではなかろうか。この点での営為は未だ進んでいない。 パイプス理論は、マルクス主義運動の根幹を私有財産制否定論と見立て、これを批判し次のように述べている。
これによれば、マルクス主義の私有財産制を否定する企てそのものが無謀なものだったと味もそっけもなく批判していることになる。ここはパイプス理論の臭いところであるので確認しておく。マルクスの私有財産否定は資本主義的な私有財産制の否定であり、それが歴史の総決算として歴史法則的に覆されることを予見し論証せんとしたところに意味がある。パイプス理論は、マルクスの資本主義的な私有財産制否定理論を歴史上の私有財産否定一般論にすり替えた上で批判している。これは詐術ではなかろうか。 次に、そういう無理筋の私有財産制否定を掲げた故に強権的共生主義を生みだすことになった、これがレーニン式プロレタリアート独裁論の舞台裏であるとして次のように述べている。
これによれば、私有財産制を否定する理想の誤りが強権政治即ちプロレタリアート独裁を導き出したとして、これまた味もそっけもなく批判していることになる。確かに、マルクス主義思想がプロレタリアート独裁論と同衾したことには理由と必然性が認められる。その意味では、これまた下手に争う必要はなかろう。事実は事実として共認する必要があろう。この点では、れんだいこは、パイプス理論の見解に近い。今日に於いても、マルクス主義運動の試金石としてプロレタリアート独裁論を持ち出す原理派が居るが、内実の精査のないプロレタリアート独裁論は危険過ぎるのではなかろうか。少なくともブルジョア独裁論に対置される範疇で限定的に使われるべきではなかろうか。近代市民社会的民主主義の諸原則を破壊し強権政治を導き出す為の御都合理論として使役されることのないよう留意する必要があろう。この点での営為も未だ進んでいない。 次に、「マルクス主義の誤謬」に続いて「官僚主義という弊害」の項で次のように述べている。
これが暴力革命によって生まれた政権の母斑でありトラウマであったったと云う。ならば、チリのアジェンデ政権の如く議会主義的平和革命によって生まれた政権はどうなったか。こう問うところまではパイプス理論は論理的である。残念なことに詰まらない結論を述べている。「なべて反対派による抵抗によって権力の座からされた」、「引きずり下ろしたのは国民だった」と云う観点を披歴している。国際金融資本帝国主義の暗躍を語らないのはどうかと思うが、パイプスはそのように説いている。ここにもパイプス理論の妙な癖を嗅ぎ取るべきだろう。
ここは取り敢えず拝聴しておこう。
ここも取り敢えず拝聴しておこう。
いささか拍子抜けの民族論であるが、「万国のプロレタリアート、団結せよ!」スローガンの否定に意味を見出しているのであろう。以上、パイプス理論は、マルクス主義のエッセンスを抽出し、そのことごとくを一刀両断していることになる。 「崩壊の要因」で、共産主義失敗の理由として次のように述べている。
つまり、共産主義組織の機能不全を語ることにより、理想が必然的に反対物に転化したことを指摘している。ここも取り敢えず拝聴しておきたいところだが一言反論しておこう。ロシア10月革命以降のソビエト政権を牛耳っていたのは実質的にユダヤ系マルクス主義派であった。ユダヤ系マルクス主義派は、ソビエト政権が破産するように誘導した形跡が認められる。とするならば、共産主義失敗の理由を安易にマルクス主義理論の破綻に原因を求めるのは学問的とは云えまい。パイプス理論には、ユダヤ系マルクス主義派によるソビエト政権破産へ向けての意図的操作を勘繰る視点が微塵もない。ここも臭いところである。 パイプスは、「2、イデオロギーの役割」と題して次のように述べている。
ここも取り敢えず拝聴しておこう。 「3、共産主義の代価」と題して次のように述べている。
かく述べて、物欲、これに繋がる財産権の尊重の重要性を指摘し、「所有権への敬意を必要とする真の市場経済への移行」を説いている。但し、「所有権への敬意を必要とする真の市場経済への移行」を、資本主義的な市場論肯定なのか、社会主義的な市場論創造なのかの別を立てて論じていない。ここも臭いところである。
ここも取り敢えず拝聴しておきたいところだが一言反論しておこう。共産主義間違いだった論はひとまず分かった。しかしながら、結論が「現実に適応した、順応性のある経験的なシステムである資本主義」なる礼賛観点は食えない。これでは、マルクス主義以前以降の思想的営為がなべて流産されるだけではなかろうか。この言には与し難い。 2010.12.11日 れんだいこ拝 |
【パイプス理論考その2、れんだいこのパイプス理論批判】 |
以上、簡略にパイプスを見てきたが、期待外れの感が否めない。なぜなら、否定が弁証法的でないことに起因しているように思われる。この面を割引けば、マルクス主義の理論的本質を捉えての本質批判と派生事象を内在的産物と捉えての事象批判をカテゴリー的に識別した上で分かり易く説いており、マルクス主義否定理論の水準としては高いのではないかと思われる。 但し、宮地氏の転載文は第6章全文でしかないので全体の構図が見えない。本来は同書を読了してからモノ云うのが筋であろうから、第6章だけで論ずるのは早計であろうが、パイプス理論がマルクス主義否定理論としては価値を持つものの対案的なものがないことを重大な欠陥と看做したい。マルクス主義からの出藍を企図しているれんだいこには、パイプス理論に同様の姿勢、観点が微塵も見受けられないのを訝る。問題は、マルクス主義の私有財産制否定運動を否定したところで、やはり依然として私有財産制否定運動産み出した現実はいささかも変わっていないと云う平明な真理にある。この現実がある以上、マルクス主義的私有財産制否定運動の否定は次の理論を生まねば決着しないと構図すべきではなかろうか。これを、マルクス主義の原理的再興に向かうのか、再創造に向かうのかが現代史的に問われているにも拘わらず、敢えて無視するパイプス理論の癖を訝りたい。 パイプス理論は、マルクス主義否定の裏腹で単純な資本主義礼賛論に回帰しているように見受けられる。これは理論的頽廃ではなかろうか。このことに義憤を表明しておきたい。義憤ついでに述べれば、チリのチリのアジェンデ政権の崩壊に言及し、「反対派による抵抗によって権力の座からされた」、「引きずり下ろしたのは国民だった」なる観点を披歴しているが、どういう歴史眼をしているのだろうか。明らかにCIAの暗躍、これを裏で糸引く国際金融資本帝国主義の策動が見て取れるのに隠蔽している。パイプスの履歴を見れば、国際金融資本帝国主義の総本山に勤務するエージェントであり、米国政府の外交に深く関与していることが分かる。全てを熟知した上で、アジェンデ政権の崩壊を国民が打倒したなる珍論を説いていることになるが、この辺りはパイプスの妙な癖が露出したところであろう。 パイプス理論は本来なら、マルクス主義を否定したその同じ論法、測り方で資本主義を否定せねばならない。自由の価値を称揚するのであれば、それが勝者の自由に偏したものであってはならず、敗者側の生存権、生活権を擁護するものでなければならない。同じ論法、同じ物差しで勝者の自由が如何に敗者側の生存権、生活権を毀損しているのかを説かねばならない。これに欠けているとしたら、それは学問的営為ではない。この学問的営為を怠るのは、パイプス理論も又現体制を肯定させる為に編み出されたマルクス主義否定の為の「特殊なイデオクラシー」に資するものであることになろう。つまり、毒をもって毒を制する式に登場したマルクス主義の毒を批判したところで、元の毒をどう制するのかは依然として問われ続けている。これを語らないパイプス理論の妙な癖を窺うべきではなかろうか。 関わりがあるので若干コメントしておくと、れんだいこのマルクス主義出藍の要諦は、資本主義を歴史的必然とせず国際金融資本の産み出した特殊な体制論として措定し、これの全面批判を志しているところにある。この観点から評すると、パイプス理論の没資本主義的御用性が見えてくる。我々は、マルクス主義否定の見地に立つにせよ、資本主義礼賛論に回帰するような理論に戻るべきではなく、マルクス主義をしてなお未熟にせしめた体制変革運動の御旗を継承し、マルクス主義の欠陥からの出藍を志すべきではなかろうか。これこそが真に望まれている理論的営為なのではなかろうか。れんだいこは、かかる観点から諸理論を発酵させつつある。未だ整序化されていないが、時機を見て世に問いたいと思う。こちらを期待して貰いたい。 思えば、マルクス主義創成から150年余を経過している。その月日を思えばマルクス主義が古くなったこと、今日から見て様々な瑕疵を持つことが明らかになったこと自体は当然であろう。それを指摘して事足れりとするのは安逸ではなかろうか。マルクス主義を19−20世紀理論とすれば、21世紀には21世紀の思想と理論が生み出されるべきではなかろうか。例えそれがとうろうの斧であろうとも、人間が「イデオクラシー」的資質を持つ存在で有る限り、それを過剰に振り回すか控え目にするかは別として営為し続けるべきではなかろうか。この営為を失う時、鋭い批判の刃は鋭い分、凶器に代わるだけであろう。 付言しておけば、マルクス主義を否定するにしても、パイプス理論のそれは私有財産否定理論の否定を廻るものでしかなく物足りない。マルクス主義の総理論を俎上に乗せ、その内在的な関連論理を説き明かしつつ出藍理論を対置すべきではなかろうか。その意味でパイプス理論は批判だけのものでしかなく。為に否定が未だ上滑りしているとしか言いようがない。れんだいこは、以下のサイトでマルクス主義の原理的批判を試みている。「れんだいこのマルクス主義出藍論その1、原理論評価と批判、俗流批判の批判」、「れんだいこのマルクス主義出藍論その2、実践論評価と批判、俗流批判の批判」、「れんだいこのマルクス主義出藍論その3、かんろだい理合い共生思想を創建せよ」、「れんだいこのマルクス主義出藍論その4、原理論とれんだいこ摂理論の対話」。これに比すれば、パイプス理論なぞ採るに足らない。但し、パイプス理論に触れることにより、「れんだいこのマルクス主義出藍論」を書き替える必要性を感じさせ、書き直させる契機となった。このことについては感謝を申し上げたい。 2010.12.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)