れんだいこのマルクス主義出藍論その2、マルクス主義的予見の齟齬考 |
(最新見直し2010.10.18日)
【マルクス主義的予見の齟齬その1、資本主義的生命力又は延命力の見通しの甘さについて】】 |
マルクスは、近代資本主義体制の生命力、延命力についての判断が大きく間違っていた。同じことは、レーニンを含めた後続世代のマルクス主義者、革命家についてもあてはまる。 レーニンによれば、資本主義の最高の且つ最後の発展段階として帝国主義が位置づけられていたが、第二次大戦後も存続したばかりか国家独占資本主義体制として、あるいはフォード主義として、さらにはグローバル化時代におけるポスト・フォード主義を模索しつつ生き続けているし、おそらくは21世紀を通じて更に生き延びそうな気配を見せている。 むしろ、ソ連のように資本主義体制を揚棄するとの鳴り物入りで登場してきたはずの社会主義体制の方が四分の三世紀存続しただけで自壊してしまった。中国その他残存する社会主義諸国は、資本主義に回帰する形で体制的存続を図りつつある。 こうしたことから、「マルクス・エンゲルスの見通した『資本主義の崩壊、必然的に社会主義の到来なる史的唯物論』の誤りとその空想性、非科学性が証明された。それは、19世紀ダーウィニズムの生物学進化論を歴史学に機械的に導入した『単線的な進歩史観』の誤りであり、単純な『階級闘争還元史観』の限界を示している」なる批判が生み出されている。 この現象は、マルクス主義の社会主義・共産主義論の検証を要請しており、マルクス主義もまたユートピア思想であったのかなかったのかやはり総括されねばならないことのように思える。 2005.6.12日再編集 れんだいこ拝 |
【マルクス主義的予見の齟齬その2、資本主義体制よりも抑圧的な社会体制を導入した結果責任について】 |
ソ連邦、東欧諸国、その他社会主義圏の政治支配体制が、「プロレタリア民主主義」なる標語だけで、その内実はまったく逆に「ブルジョア民主主義」以下の、人民大衆の基本的人権は保障されず、政治的参加も形式主義に堕し、異端に対する政治的弾圧も凄まじいという、凡そ期待はずれに終始している。前衛党の組織原理も然りで、「民主集中制」とは名ばかりの「一握りの党幹部権力集中制」に堕しており、総じて統制社会を産み出してしまった。それは、近代を経由して生まれた「ブルジョア民主主義」よりも歴史発展的に後退した中世の王権権力への復古主義的様相を見せている。 |
【マルクス主義的予見の齟齬その3、民族主義と国際主義の不整合について】 |
ロシア10月革命後、レーニン率いるボリシェヴィキは国際共産主義運動組織として第三インターナショナル(コミンテルン)を結成し、各国の革命闘争を国際主義的に担う統一指令組織を構築した。しかしながら、レーニン死後いわゆるスターリン権力の登場による捻じ曲げも理由ではあろうが、民族自決権の社会主義的解決が為された試しが無く、各国の共産党の「自由、自主、自律」的な運動を通じての国際主義が生まれたことも無い。ひたすらコミンテルン拝跪型の統制運動を生み出してしまった。 |
【マルクス主義的予見の齟齬その4、中産階級の出現について】 |
第二次世界大戦後、いわゆる先進国において中産階級なる富裕な労働者階層が生み出された。それは、体制矛盾を少しも解決しないが、資本主義体制下での生産力の発展がもたらした「富の分配」であり「準公平的合理的分配」の成果であったと考えられる。中産階級の生態は、いわゆるマルクス主義の窮乏化理論と齟齬している。これを教条的に批判したところで、中産階級の存在が無くなる訳ではない。帝国主義的おこぼれにせよ、新たな解析が為されねばならないことは自明であろう。この現象は、マルクス主義の社会主義・共産主義論の検証を要請しており、「マルクス主義的階級闘争論」の内実をより精緻に再吟味せねばならないということを要請しているように思える。 2005.6.12日再編集 れんだいこ拝 |
【マルクス主義的予見の齟齬その5、企業における所有と経営の広範な分離について】 |
資本主義の発展は、資本主義的企業活動における所有者と経営者、株主の分離現象も出来させてきている。これも精査されねばならないであろう。この現象は、マルクス主義の社会主義・共産主義論の検証を要請しており、「マルクス主義的経済学論」の内実をより精緻に再吟味せねばならないということを要請しているように思える。 2005.6.12日再編集 れんだいこ拝 |
【マルクス主義的予見の齟齬その6、「原始共同体」仮説の崩壊について】 |
マルクスの論説に歴史学的な色合いを加えたエンゲルスは、名著「家族、私有財産及び国家の起源」で、成員は平等だったとする「原始共同体社会」の存在を仮説した。しかし、その後の考古学的研究は、「原始社会」における階級差別の厳然とした存在の方を証明しつつある。この現象は、マルクス主義の社会主義・共産主義論の検証を要請しており、「マルクス主義的原始共同体社会論」の内実をより精緻に再吟味せねばならないということを要請しているように思える。 2005.6.12日再編集 れんだいこ拝 |
【何の為にマルクス主義を見直すのかその1、サヨの跋扈について】 | |
れんだいこは新たに「何の為にマルクス主義を見直すのか」を取り上げることにする。その理由は、いわゆるサヨの跋扈により、その悪影響によるマルクス主義離れが進行し過ぎているからである。マルクス主義そのものの再検証という必要があるところへ、サヨの跋扈が重なることにより、ますますマルクス主義が曖昧模糊にされている気配が認められる。そこで、「サヨの跋扈について」の項を作り、サヨ批判しておく。 まず、サヨの定義をしておく。次のように云えるのではなかろうか。
2006.4.20日 れんだいこ拝 |
宮地氏の不破哲三の宮本顕治批判
(私論.私見)