魏書 |
倭国在帯方東南大海中 依山島為旧国百余小国 漢時有朝見者 今使譯所通其三十国 |
倭国は帯方の東南大海の中にあり、山島によりて国をなす。旧百余の小国にして、漢時に朝見するものあり。今、使訳して通じる所、其の三十国なり |
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魏志 |
倭人 在帶方東南大海之中 依山島為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 |
倭人は、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて、国邑を為している。旧は百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。 |
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魏略 |
倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種 |
倭は帯方東南大海の中に在り、山島に依て国を為す。渡海千里にして、また国有り、皆倭種 |
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後漢書 |
倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。 |
倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。 |
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魏書 |
従帯方至倭、循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里 |
帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経てあるいは南し、あるいは東して従い、其の北岸狗邪韓国に到るまで七千余里 |
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魏志 |
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 |
帯方より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を暦て狗邪韓国に到ること、七十余里。 |
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魏略 |
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里 |
帯方より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、拘邪韓国に至る七千里 |
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後漢書 |
これに相当する文がない。 |
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魏書 |
至対馬国、戸千余里、大官曰卑狗副曰卑奴母離 所居絶島方四百余里、地多山林無良田、食海物自活乗船南北市糴 |
対馬国に至る、(戸)千余里。大官は卑狗といい、副は卑奴母離という。居るところ絶島にして、四方は四百里、地は山林多く、良田なし。海物を食べて自活し、
船に乗りて南北に市糴する |
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魏志 |
始度一海千歴里 至對海(馬)國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 |
始めて一つの海を渡ること千余里、對島国に至る。其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居る所は絶島で、方四百余里可り。土地は山険しく深林多く、道路は禽や鹿の径の如し。千余戸有り。良田は無く、海の物を食べて自活し、船に乗りて南北に市糴す。 |
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魏略 |
始度千余里 至対馬国。其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴。 |
始めて度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴と曰う。良田無く、南北に一糴す。 |
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後漢書 |
これに相当する文がない。 |
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魏書 |
又南渡一海一千里、名日瀚海、至一大国置官与対馬同地方三百里、多竹木叢林。有三千許家。亦有田地、耕田不足食、方行市糴。
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又、南に一海を渡ること一千里、名を瀚海という。一大国に至る。官を置くは、対馬と同じ。地は四方三百里。竹木叢林多く、三千ばかりの家有り。また田地あるも耕田して食べるに足らず、まさに市糴を行う。 |
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魏志 |
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 |
又、南へ一つの海を渡ること千余里。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦く卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家有り。いささか田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す。
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魏略 |
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里。 |
南に海を度り、一支国に至る。官を置くこと、対に同じ、地の方三百里。 |
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後漢書 |
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魏書 |
又渡海千余里至未盧国 戸四千、濱山海居人善捕魚水無深浅皆能沉没取之
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又、海を渡ること一千里余り未盧国に至る。戸は四千。山海に浜して居し、人よく魚を捕まえるに、水の深浅となく、皆よく沈没してこれを取る。 |
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魏志 |
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濵山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之 |
又一つの海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、行くに前が見えず。人々は好んで魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。 |
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魏略 |
又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之。 |
又海を度ること千余里、末盧国に至る。人善く魚を捕らえ、能く水に浮没して之を取る。 |
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後漢書 |
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魏書 |
東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸 世有王皆統属女王、帯方使往来常止住 |
東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚柄渠觚という。千余戸有り。世に王有り、皆女王に統属する。帯方の使は、往来するに常に止住 |
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魏志 |
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 |
東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。
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魏略 |
東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚。其国王皆属女王也。 |
東南五百里にして伊都国に至る。戸は万余、置くに爾支と曰う。副を洩渓觚・柄渠觚と曰う。其の国王皆女王に属する也。 |
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後漢書 |
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魏書 |
【又】東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸 |
又、東南して奴国に至ること百里。置官して先馬觚といい、副は卑奴母離という。二万余戸有り。 |
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魏志 |
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴毋離 有二萬餘戸 |
東南へ百里で奴国に至る。官はし馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有る。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
【又】東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
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又、東行して百里不彌国に至る。置官して多模といい副は卑奴母離という。 |
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魏志 |
東行至不弥国百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 |
東へ百里行くと不弥国に至る。官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余戸有る。
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魏略 |
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後漢書 |
これに相当する文がない。
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魏書 |
【又】南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利 |
又、南に水行して二十日、於投馬国に至る。置官してと彌彌いい副は彌彌那利という。 |
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魏志 |
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 |
南へ水行二十日で投馬国に至る。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
【又】南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
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又、南に水行して十日、陸行して一月、耶馬臺国に至る。其の官を置くに伊支馬といい、次は彌馬叔といい、次は彌馬獲支といい、次は奴佳鞮という。その属する小国は二十一あり皆これを統べる。 |
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魏志 |
南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 |
南へ邪馬壹国に至る。女王の都する所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う。七万余戸ばかり。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也 |
女王の南に又狗奴国ありて男子を王とする。其の官は拘右智卑狗といい、女王に属さざるなり。 |
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魏志 |
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 |
其の南に狗奴国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。 |
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魏略 |
自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。
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女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。 |
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後漢書 |
女王之南又有狗奴国 以男子為王 其官曰拘右智卑狗。不属女王也。女王に不属也。自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語、自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽、断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也。 |
女王の南 又狗奴国有り。男子を以って王と為す。其の官を拘右智卑狗と曰う。女王に不属也。帯方より女国に至るには万二千余里。其の俗男子は皆点而文す。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う。昔夏后小康之子、会稽に於いて封ぜられ、
断髪文身し、以って蛟龍之害を避く。今倭人亦文身し、以って水害を厭わす也。 |
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魏書 |
自帯方至女(王)国万二千余里 |
帯方より女王国に至るには、万二千余里なり。
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魏志 |
自郡至女王國萬二千餘里 |
郡より女王国に至るには万二千余里。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
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魏志 |
自女王國以北 其戸数道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳 |
女王国より以北は、其の戸数.道里を、略載することができるが、其の余の旁国は遠絶で、詳しくは分からない。 |
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魏志 |
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次に斯馬国(しま國)有り 。次に巳百支国 (しおき國)有り。次に伊邪国(いや國)有り 。次に都支国 (とき國)有り。次に彌奴国(みな國)有り 。次に好古都国 (こうこと國)有り。次に不呼国(ふと國)有り 。次に妲奴国(そな國)有り 。次に對蘇国 (つそ國)有り。次に蘇奴国 (そな國)有り。次に呼邑国(こお國)有り 。次に華奴蘇奴国(かなそな國)有り。次に鬼国 (き國)有り。次に為吾国(いご國)有り 。次に鬼奴国(きな國)有り 。次に邪馬国(やま國)有り 。次に躬臣国 (くし國)有り。次に巴利国 (はり國)有り。次に支惟国(しい國)有り 。次に鳥奴国 (うな國)有り。次に奴国 (な國)有り。此れ女王の境界の尽きた所なり。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
其俗男子無大小皆黥面文身、聞其旧語自謂太伯之後 |
其の俗は、男子は大小となく皆黥面文身し、其の旧語を聞くに自ら太伯の後なりという。 |
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魏志 |
男子無大小皆黥面文身 |
男子は大小と無く、皆面と身に黥文す。 |
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魏略 |
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後漢書 |
男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。 |
男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある。 |
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魏書 |
又云自上古以来其使詣中国、草伝辞説事、或蹲或跪、両手據地、謂之恭敬、其呼應聲曰噫噫、如然諾矣
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又云う、上古以来、其の使いは中国に詣ると。草に辞を伝え事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地によって恭敬という。其の呼応の声は「噫噫」といい、然諾の如し。 |
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魏志 |
下戸與大人相逢道路、逡巡入草、伝辞説事、或蹲或跪、両手據地、為之恭敬。対応声曰噫、比如然諾。 |
下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或いはうずくまり或はひざまつき、手は地に據り、之を恭敬と為す。対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
倭国本以男子為王、漢霊帝光和中倭国乱、相攻伐無定乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道能惑衆、自謂年已長大無夫壻、有男弟佐治国 |
倭国は、もとは男子をもって王となす。漢霊帝光和年間、倭国は乱れ、相い攻伐し定らず、一女子を共立して王となした。名を卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす。自ら云う年すでに長大なるも夫婿なしと。男弟ありてたすけて国を治める。
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魏志 |
其国、本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治国。自為王以来、少有見者 |
その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
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魏志 |
自古以來 其使詣中國 皆自称大夫 夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以為飾 |
古より以来、其の使が中国に詣でるや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は、(倭人を)會稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避ける。倭の水人、好く沈没して魚や蛤を捕る。文身し亦以って、大魚や水禽を厭ふ。後、稍以って飾と為す。諸国の文身は各々異なり、或は左に、或は右に、或は大きく或は小さく、貴卑に差有り。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
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魏志 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
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魏志 |
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其の風俗は淫らでない。男子は皆露かいし、木綿を以って頭に招け、其の衣は横幅、但結束し相い連ねて略々縫うことなし。婦人は髪をふりみだしたまま屈かいし、衣は単被の如く作り、其の中央を穿ち、頭を貫きて之れを衣る。 |
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後漢書 |
其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之 |
そこの男の衣は皆、幅広で互いを結束して連ねる。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のようにして頭を突き出して着る(貫頭衣)。 |
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魏書 |
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魏志 |
種禾稻紵麻、蚕桑緝績、出細紵 綿。 |
禾や稲を種え、ちょまを養蚕して緝績し、細紵やけん緜を出だす。 |
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魏略 |
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後漢書 |
土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為縑布 |
風土は粟、稲、紵麻(カラムシ)の栽培に適し、養蚕し、縑布を織ることを知っている。 |
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魏志 |
其地無牛馬虎豹羊鵲 |
其の地には牛.馬.虎.豹.羊.鵲無し。 |
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後漢書 |
無牛馬虎豹羊鵲(雞)。 |
牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない。 |
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魏志 |
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兵は矛.楯.木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹で作った矢は或いは鐡鏃、或は骨鏃。 |
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後漢書 |
其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃。 |
その兵には矛がある。楯、木弓、竹矢、あるいは骨の鏃がある。 |
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魏志 |
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魏志 |
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後漢書 |
氣温煗、冬夏生菜茹。 |
気候は温暖で、冬や夏も生野菜を食べる。 |
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魏志 |
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後漢書 |
俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。 |
習俗は皆、裸足で歩き、蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す。 |
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魏志 |
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後漢書 |
有城柵屋室。父母兄弟異處。 |
城柵、屋室あり。父母兄弟は居が異なる。 |
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魏志 |
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朱丹を以って其の身体に塗る。中国で用いる粉の如きなり。 |
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後漢書 |
並以丹朱坋身、如中國之用粉也。 |
並びに、丹砂の朱粉を体に塗る、中国での白粉の用法のようである。 |
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魏志 |
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後漢書 |
飲食以手、而用籩豆。 |
飲食は手を使い、御膳を用いる。 |
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魏志 |
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魏志 |
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始め、死するや停喪十余日、その時は肉を食わず、喪主哭泣し、他人は歌舞飲酒を就す。葬が已れば、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って練沐の如し。 |
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後漢書 |
其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。 |
その喪は十余日で停止する。家人は哭泣し、酒食を摂らず、而して等類は歌舞を楽しむ。 |
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魏志 |
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其れ、海を渡って行来し中国に詣でるには、恒に一人の髪をくしけずらず、蝨を除かず、衣服は垢で汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くにさせる。これを名付けて持衰と為す。若し行く者吉善ならば、共に其の生口.財物をいつくしむ。 若し疾病有り、暴害に遭えば好きなように之れを殺す。其の持衰謹まずと謂へばなり。 |
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後漢書 |
行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以為持 衰不謹、便共殺之。 |
海を渡って行き来するときは、一人に櫛や沐浴を使わせず、肉食をさせず、婦人を近づかせない、名づけて持衰という。もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。もし病疾の災害に遭遇すれば、持衰が慎まなかったことして、すなわち共にこれを殺す。 |
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魏志 |
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真珠.青玉を出だす。其れ、山に丹有り。其れ、木にはだん(ゆすらうめ).ちょ(とち).よしょう(くす のき).じゅう(ぼけ).れき(くぬぎ).とう(かや).きょう(かし.うごう(こうぞ).ふうこう(ふう). 其れ、竹にはじょう(ささ).かん(やだけ).とうし(しゅろち く)がある。きょう(しょうが).きつ(たちばな).さんしょう.じょうか(みょうが)有るも、以って滋味と為すを知らず。びえん(さる).こくち(黒っぽいきじ)有り。 |
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後漢書 |
出白珠、青玉。其山有丹土。 |
白珠、青玉を産出する。その山には丹砂がある。 |
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魏志 |
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其れ、俗として、もの事、行來を挙するに、云為するところあれば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先ず卜するところを告げる。其の辞は令の如し。龜法は火によるさけ目を視て兆を占う。 |
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魏略 |
倭国大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視タク占吉凶也 |
倭国大事には輒(すなわ)ち骨を灼き以って卜(うらな)う。先ず中州の令亀の如し、タクを視て吉凶を占う也。 |
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後漢書 |
灼骨以卜、用決吉凶。 |
灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。 |
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魏志 |
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後漢書 |
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魏志 |
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後漢書 |
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魏志 |
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大人を敬する所作は、但、手を搏ち、以って跪拝に當てる。 |
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魏志 |
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後漢書 |
多壽考、至百餘歳者甚眾。 |
長寿が多く、百余歳に届く者も甚だ多勢いる。 |
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魏志 |
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其れ、國の俗は、大人は皆四五婦、下戸も或は二三婦。婦人は淫らでなく、やきもちもやかず、盗まず、訴訟少なし |
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後漢書 |
國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。 |
国に女子が多く、大人は皆、四~五人の妻がおり、その余は二~三人である。女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。 |
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魏志 |
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其れ、法を犯せば、軽い者は其の妻子をなくし、重いものは其の門戸を滅ぼされ、宗族の貴卑に及ぶ。各々差と序有り。相臣服するに足る。
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後漢書 |
犯法者沒其妻子、重者滅其門族。 |
法を犯した者は、その妻子を没収し、重罪はその家系一門を誅滅する。 |
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魏志 |
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租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り。国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる。
女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る。國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。王、使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふ。
女王に詣でて、差錯することを得ず。下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す。対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。
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魏志 |
記載なし |
魏略 |
其の俗不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀 |
其の俗正歳四時を知らず。但し春耕秋収を記り、年紀と為す。 |
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後漢書 |
記載なし |
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魏志 |
記載なし |
後漢書 |
東夷倭の奴国王、使を遣わして奉献す」(光武帝紀第一下.中元二年春正月辛未の項 ) |
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。 |
建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。 |
※建武中元二年は西暦57年にあたる。授けられた金印の倭奴国王印は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。 |
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(同書.倭伝)。 |
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。 |
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魏志 |
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其の國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。 |
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魏略 |
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後漢書 |
桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。 |
桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。 |
桓帝 (本初元年146から永康元年167).霊帝(永康元年167から中平六年189) 。従って、桓.霊の間とは、その両帝の全期間中という意味に解せば、146から189年の訳40年間となる。短く解せば、桓帝の末期から霊帝の初めの頃にかけてという意味において167年前後ということになる。 |
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魏書 |
以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入、其居處宮室楼観、城柵守衛厳峻 |
婢千人をもって自ら侍らしめ、だた男子一人ありて飲食を給し、辞を伝え出入す。其の居処の宮室、楼観、城柵、守衛は厳峻である。 |
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魏志 |
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年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻無し。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。婢千人を以って自ら侍らす。唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り兵を持って守衛す。 |
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魏略 |
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後漢書 |
有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。 |
(和訳) 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。 |
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魏書 |
其倭国東渡海千余里、復有国皆倭種也、又有朱中儒国在其南、人長三四尺 去倭国四千余里、又有裸国、黒歯国、復在其東南 船行可一年至 |
其の倭国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり。また朱(中)儒国が有りて其の南に在り人長三、四尺。倭国を去ること四千里余り。また裸国、黒歯国有りてまた其の南に在り、船行すること一年にて至るべし。 |
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魏志 |
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女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種。
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
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魏志 |
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又、侏儒國が有って、其の南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里。又、裸國.黒齒國が有って、復其の東南に在り、船行一 年で 至る可し。 |
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魏略 |
倭南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千里 |
倭の南に侏儒国が有る。其の人の長(たけ)三~四尺。女王国を去ること四千里。 |
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後漢書 |
自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。 |
女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。 |
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魏書 |
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魏志 |
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倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里可り。 |
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魏略 |
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後漢書 |
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魏書 |
景初三年公孫淵死、倭女王遣大夫難升米等言帯方郡、求詣天子朝見、太守劉夏送詣京師
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景初三年、公孫淵死して、倭女王は大夫の難升米らを遣して帯方郡に言せしめ、天子に詣でて朝見せんことを求む。太守劉夏は、送りて京師に詣らしむ。
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魏志 |
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景初二年六月、倭の女王は大夫難升米等を遣わして郡に詣で、天子に詣でて朝獻することを求む。太守劉夏、吏を遣わして送って行き、京都に詣らしむ。 |
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魏書 |
難升米致所献男生口四人女生口六人班布二疋、詔書賜以雑錦采七種、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹之属付使還、又封下倭王印綬 |
難升米の献ずるところは、男生口四人、女生口六人、班布二疋を致す。詔書してもって雑の錦采七種、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹の属を賜い、使に付して還らしめ、又倭王に印綬を封下せしむ。 |
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魏書 |
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魏志 |
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其の年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、「卑彌呼を親魏倭王に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝が獻ずる所の男生口四人.女生口六人.班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所ははるかに遠きも、すなわち使を遣わし貢獻す。是れ汝の忠孝なり。我甚だ汝を哀れみ、今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を假し、装封して帯方の大守に付し假授せしむ。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤勞す。今難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う。今、こう地交龍錦五匹.こう地すう粟けい十張.せんこう五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹.細班華けい五張.白絹五十匹. 金八兩.五尺刀二口.銅鏡百枚.真珠鉛丹各五十斤、皆装封し て難升米と牛利に付す。還り到らば録受し、以って汝の國中の人に悉く示すべし。国家が汝を哀れむを知らすことに使え。故に汝の好物を鄭重に賜うなり」と。 |
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魏志 |
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正始元年、大守弓遵は建中校尉梯しゅん等を遣わし、詔書.印綬を奉りて倭国に詣で倭王に拝假し、並びに詔をも たらし、金帛.錦けい.刀.鏡.采物を賜う。倭王、使によりて上表し、恩詔を答謝す。 |
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魏志 |
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其の四年、倭王復た使大夫伊聲き.やく邪狗等八人を遣わし、生口.倭錦.こう青 .緜衣.帛布.丹.木ふ.短弓矢を上獻す。やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壹つ拝す。 |
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魏志 |
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其の六年、詔して倭の難升米に黄どうを賜い、郡に付して假綬す。 |
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魏志 |
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魏志 |
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倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素から和せず。倭のさいしうえつ等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。さいそうのえんし張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為りて之を告喩す。 |
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魏書 |
女王死大作冢殉葬者百余人、更立男王国中不服、更相殺数千余人、於是復更立卑彌呼宗女臺挙年十三爲王、国中遂定 |
女王死して、大いに塚を作る。殉葬されるもの百余人。更に男王を立てるも国中服さず、更に相殺すること千余人を数える。ここに於いて、また更に卑弥呼宗女の臺挙、年十三を立てて王と為し国中ついに定まる。 |
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魏志 |
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卑弥呼が死んだので、大きな塚を作る。徑百余歩。徇葬者は奴婢百余人。替わって男王を立てたが、國中服さず、こもごも相誅殺す。当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹與、年十三才なるを立てて王と為す。 |
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魏志 |
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魏志 |
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壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り、因って臺に詣で、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔.青大句珠二枚.異文雑錦二十匹を貢ぐ。 |
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魏志 |
記載なし |
後漢書 |
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。 |
(和訳) 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
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