纏向遺跡に祭祀センターを築き、瑞垣宮、珠城宮、日代宮と宮都を築いた王権は弥生時代から続いた銅鐸祭祀を捨て、新しい銅鏡を中心とし巫女が君臨する国のかたちを築いてきた。
纏向(まきむく)遺跡考その2 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和元).5.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「纏向(まきむく)遺跡考その2」をものしておく。「ウィキペディア纒向遺跡」その他参照。 2010.3.23日 れんだいこ拝 |
「卑弥呼は吉備地方出身か 箸墓古墳に龍のデザイン(読売2011/3/2) 」を参照する。
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以上が読売新聞に掲載された春成秀爾さんの論文の概要であるが、足守川加茂A遺跡の線刻画が人面龍身に見えるかどうか、楯築墳丘墓の弧帯石も渦巻きの中に丸い顔があるだけとしか見えない、箸墓古墳出土の特殊器台の模様も渦巻きにしか見えない、と云う疑問も出されている。纏向遺跡の出土物と吉備発祥の特殊器台、弧文円盤、弧文板等との関連で、纏向に於ける吉備の重要な関わりは疑いないが、卑弥呼が吉備出身とするにはやや距離があろう。神武東征神話に於いて、九州を出発して何故か、吉備で8年近く逗留してる事の謎と合わせて考えたい。
参考 纏向遺跡の古代地形 参考 纏向遺跡の遺物について 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』目次編 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1) 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 石塚古墳 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(3) 年輪年代法による纏向 参考 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末 |
桜井市立埋蔵文化財センターが発行している「ヤマト王権はいかにして始まったか~王権成立の地 纏向~」という資料の「纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布」地図。
箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。 纏向遺跡の大型建物跡の軸線の西方向への延長線上に纏向石塚古墳が存在している。この古墳は箸墓より古いと考えられているがこの前方後円墳の前方部(殆どが失われているが)が三輪山を向いている。この古墳では三輪山祭祀がなされていたのではないかと推定されている。三輪山・多神社ラインを南に30度振ると夏至の太陽が三輪山から昇るのを見る事ができる。畝傍山の神武天皇陵がこのラインに乗っている。 |
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「出雲オウ王について 『出雲の古代史』(門脇禎二)より」。
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【纒向遺跡出土モモの種考】 | ||||||
2018.6.18日、石田雅彦「モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」。
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【纒向遺跡出土カエルの骨考】 |
邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市の纒向遺跡でカエルの骨が117点出土していたことが25日分かった。女王・卑弥呼(248年ごろ没)と同時代のモモの種などが出土した穴から見つかっており、祭祀に用いられた可能性がある。カエルの骨が井戸跡などから出土した例はあるが、供え物として使われた可能性を示す初めての発見。成果は桜井市纒向学研究センターの研究紀要に掲載された。分析した中村泰之琉球大博物館協力研究員(動物学)によると、骨はニホンアカガエル、ナゴヤダルマガエル、ツチガエルの3種、計12個体分と推定される。 |
「アットホーム株式会社大学教授対談シリーズ」の大阪大学大学院文学研究科教授/福永伸哉氏の2014年9月号掲載「小さな気付きから大きな発見を導き出す。 それこそ考古学の醍醐味 邪馬台国は畿内にあり」抜粋。
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(私論.私見)