纏向(まきむく)遺跡考その2

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).5.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「纏向(まきむく)遺跡考その2」をものしておく。ウィキペディア纒向遺跡」その他参照。

 2010.3.23日 れんだいこ拝


 「卑弥呼は吉備地方出身か 箸墓古墳に龍のデザイン(読売2011/3/2) 」を参照する。
 民博の考古学の重鎮である春成秀爾(はるなり ひでじ)氏が、吉備地方の文化と纏向遺跡の文化の共通性について触れている。春成さんは、箸墓古墳築造は240年~260年という放射性炭素14法での発表で学会を騒然とさせた考古学者であることで知られている。春成氏は、弥生後期の土器に描かれた龍に着目して次のように述べている。
 弥生時代後期の1世紀から2世紀の頃には土器に龍の絵を線で描いていた。龍の絵は近畿と吉備を中心に静岡から鹿児島まで分布が見られる。 その特徴は尖った頭で、S字形に身体をくねらせている。魚のヒレ形の四肢を持っており、龍を水棲のサメに近いものと考えていた。大阪の池上曽根遺跡出土例では龍の後ろに木の枝を逆さにしたような線刻があり、龍の後ろ足の一つがその線の一つに乗っかり、龍が稲妻に乗って降りてくる様子だと考えられている。(樹状雷光)龍は水を司る精霊であり稲妻により姿を現すと考えていた。参考 池上曽根遺跡(ドラゴン土器)
 同じ頃、吉備では頭は人で身体は龍という人面龍身を土器に描く習俗があった。例えば、岡山市足守川加茂A遺跡や総社市横寺遺跡から実例が出土している。人面龍身は龍と人が交わって出来た神話習俗と考えられる。倉敷市楯築墳丘墓は2世紀終わり頃に築造された全長80メータの吉備最大の墳丘墓である。その上に置いてあった弧帯(こたい)石は一辺が90センチで厚さ30センチの大きな石の全ての面に複雑な弧帯文が彫刻されていた。この石にも人面が彫刻されており、人面龍身を更に複雑化して立体的に作られ、吉備の大酋長の祖先は龍であった事を示していると考える。又、この楯築墳丘墓からは高さが120センチに達する巨大な器台も出土している。この器台には酒を入れた壺を載せて被葬者に捧げた祭祀に利用されたものと考える。楯築墳丘墓の器台には綾杉文(木の枝の形)即ち、稲妻の段階しか描かれていないが、次の段階になると弧帯文即ち龍を施し、特殊器台は吉備発祥の葬送儀礼に使用される祭器となった。

 参考 岡山県古代吉備文化財センター同上 特殊器台参考

 箸墓古墳は全長280メータの超大型前方後円墳で、墳丘の形態、出土した特殊器台と最古の埴輪から日本最古の古墳と考えられている。最近、民博の研究グループが箸墓から出土した土器の付着炭化物を放射性炭素14法で年代を分析し、240年~260年に箸墓は築造されたと結論した。卑弥呼が死亡したのは魏志倭人伝によれば、247年頃であり箸墓古墳の年代と完全に重なる事になった。箸墓は卑弥呼の墓である可能性が高くなった。
 結論として、龍を祖先とする吉備勢力の象徴物である特殊器台が、箸墓古墳の後円部の最も目立つ場所に設置され、盛大な祭りを挙行したという事が意味する事は重大である。これは、卑弥呼の出身地が吉備地方であり、偉大な王の死に際して吉備勢力が自らの象徴物を奉献したと考えるのが、考古学的には最も自然な考えだ。
 以上が読売新聞に掲載された春成秀爾さんの論文の概要であるが、足守川加茂A遺跡の線刻画が人面龍身に見えるかどうか、楯築墳丘墓の弧帯石も渦巻きの中に丸い顔があるだけとしか見えない、箸墓古墳出土の特殊器台の模様も渦巻きにしか見えない、と云う疑問も出されている。纏向遺跡の出土物と吉備発祥の特殊器台、弧文円盤、弧文板等との関連で、纏向に於ける吉備の重要な関わりは疑いないが、卑弥呼が吉備出身とするにはやや距離があろう。神武東征神話に於いて、九州を出発して何故か、吉備で8年近く逗留してる事の謎と合わせて考えたい。

 参考 纏向遺跡の古代地形

 参考 纏向遺跡の遺物について

 参考 纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 参考 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 参考 纏向遺跡のバイブル 『大和・纏向遺跡』

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』目次編

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1)

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 石塚古墳

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(3) 年輪年代法による纏向

 参考 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末


 桜井市立埋蔵文化財センターが発行している「ヤマト王権はいかにして始まったか~王権成立の地 纏向~」という資料の「纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布」地図。

 箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。

 纏向遺跡の最盛期の布留0式期の頃(3世紀後半)の頃は2.7km₂に及び唐古・鍵遺跡の7倍、国内古墳時代遺跡では群を抜いた規模である。二重口縁壺壺が桜井茶臼山古墳から出土している。同じ形式の壺が箸墓古墳の前方部より底に孔をうがったものが出土している。桜井茶臼山古墳の築造年代は箸墓の時代より新しいとされているが祭祀の形態は継承していると考えられる。纏向遺跡から弧文円板、弧文板、弧文石、特殊埴輪が出土し特殊な文様がほどこされている。この弧文という曲線を多用した文様はヤマトには存在せず、吉備地域の特殊器台や弧帯石の系譜を引くものと考えられる。今回の太田北微高地で発掘された大型建物と春に発掘された建物群の中心線は反時計まわり5度傾きながら真っ直ぐに東西方向に伸びてており、その線上に他田坐天照御魂神社や纏向石塚古墳、そしてそれを取り囲むように勝山古墳、矢塚古墳が存在している。真南には箸墓古墳が鎮座している。アマテラスという太陽を神と崇める神は五穀豊穣を願い祭祀を行った、その場所は夏至や冬至という農耕にとり重要な時に太陽が神が坐す神聖な山から昇らなければ祭祀にならないと考えるようになった。京都は太秦で観た木嶋坐天照御魂神社での日枝山(比叡山)、伏見稲荷山と纏向での三輪山、巻向山、何か精神の関係が連続しているように思える。 

 カメラマンの小川光三氏が長年奈良盆地で写真を撮り続け辿り着いた貴重な論に三輪山巨大三角形論というのがある。考古学者の石野博信氏が「三輪山と日本古代史」で小川氏の論を紹介している。それによると、秋分・春分の日に太陽が三輪山山頂から昇る位置は奈良盆地では多神社から眺めるのがベストである。そして太陽は二上山に沈む。 多神社は古事記を編纂した太安万侶の子孫の多氏一族の神社である。纏向遺跡の大型建物跡発掘現場は太田北微高地であるが、この太田という土地の名前は多氏と何らかの関係があるのか気になる。この多神社と三輪山山頂の線から30度北に傾けると冬至の日の太陽が三輪山から昇る線が生まれる。三輪山から纏向遺跡の今回大型建物跡が発掘された太田北微高地を経由し石見の鏡作神社に達している。鏡作神社(石見)、鏡作麻気神社、鏡作神社(八尾)、鏡作伊多神社と4社の鏡神社が密集する場所である。このラインは春分・秋分の日に太陽が三輪山山頂から昇る多神社のラインから北30度振っている。そして、鏡作神社近くは奈良盆地では最大の弥生遺跡、唐古・鍵遺跡が存在している。

 纏向遺跡の大型建物跡の軸線の西方向への延長線上に纏向石塚古墳が存在している。この古墳は箸墓より古いと考えられているがこの前方後円墳の前方部(殆どが失われているが)が三輪山を向いている。この古墳では三輪山祭祀がなされていたのではないかと推定されている。三輪山・多神社ラインを南に30度振ると夏至の太陽が三輪山から昇るのを見る事ができる。畝傍山の神武天皇陵がこのラインに乗っている。  

 纏向遺跡は弥生時代とは確実に一線を画している。南北2キロで囲まれた大きな遺跡。昼は人が造り、夜は神が造ったという、そして石を逢坂山から人々が列を作り手渡しで運んだというヤマトトビモモソヒメ造墓の記述で知られる箸墓古墳が存在する。石野博信氏は、箸墓古墳を魏志倭人伝記述の卑弥呼の塚、邪馬台国を纏向遺跡の地と比定する実証的研究を重ねている。 

 石野博信氏の「大和・纏向遺跡」(学生社、増補新版が2008年10月に出版されている)は纏向遺跡の汗と涙と感動の30年以上に渡る調査・発掘の歴史が感動的に詰め込む必見のバイブルで膨大な500ページを越える労作になっている。吉野ヶ里遺跡は高島忠平氏がおられなかったら遺跡が守られなかった。シュリーマンの『トロイの遺跡』を彷彿とさせる。30年間も纏向遺跡を発掘している。


 歴博の春成氏グループによる放射線炭素14法での箸墓古墳や纏向遺跡の遺物の年代測定結果が発表され、センセーショナルな結果が出た。1989年の第四次発掘調査により、周濠より出土したヒノキの板材(長さ約30センチ、幅約60センチ、厚さ約2センチ前後)を選定し年輪年代法により調査が行われた。ヒノキの暦年標準パターンと照合し、板材は177年と確定した。そこで、使用された原木の表皮までの距離(辺材幅)を平均の1センチとすれば、この試料の残存辺材部に刻まれていた年輪総数は36層と推定され、平均年輪幅は0.58ミリ、この年輪幅でもって最終形成年輪まで推移したとすると18年輪が形成されていた事になる。従って、削除された18年輪を足すと伐採年は西暦195年となる。この結果は年輪年代を基にあとは推算した数値をあてはめただけであるから、正確性には欠けるしかし、西暦200年を境にして狭い年代幅で伐採された事は確かだ。

 放射性炭素14法による調査で石塚古墳の周濠下層の木材・種実は1880¹⁴CBPであり3世紀前半という結論を今年の夏の考古学協会の発表論文『古墳出現の炭素14年代』で春成氏が報告されている。

 2001年1月から開始された勝山古墳第四次調査により、前方後円墳北側くびれ部近くの周濠埋土中から無数の木材が出土した。その木材を奈良文化財研究所の光谷拓実氏が年輪年代法により伐採年の調査した。資料に耐える辺材は一つでヒノキの板材で、198+1A.D.という結果となった。この試料の辺材最外年輪部は樹皮直下に近いと考えられ、この数値が樹木伐採年にほぼ間違いないと考えられた。しかし、念のため樹皮まで1センチ存在したと仮定すると年輪数は7~8層と考えられ199+7~8=西暦210年は降らないという結論に達した。矢塚古墳の庄内3式甕の煤を歴博が放射性炭素14法で調査した結果は1820¹⁴CBPとでており石塚古墳よりは60年新しい時代であると調査結果が報告されてる。

 年輪年代法や放射性炭素14法という理科学的手法により古墳や遺跡の年代が調査される時代になった。これで、纏向遺跡群は2世紀末から3世紀にかけての時代である事が確実になりつつある。


 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末 

 纏向遺跡に祭祀センターを築き、瑞垣宮、珠城宮、日代宮と宮都を築いた王権は弥生時代から続いた銅鐸祭祀を捨て、新しい銅鏡を中心とし巫女が君臨する国のかたちを築いてきた。


 出雲オウ王について 『出雲の古代史』(門脇禎二)より」。
 奈良盆地では、太陽は、聖なる神の山である三輪山から昇り、夕方には二上山に沈む。秋分、春分の日の太陽を眺める好適地は奈良盆地に於いては田原本町の多神社である。ここが奈良盆地の中心位置となる。多氏とは、古事記を編纂し、日本書紀の編纂にも関わった太安万侶が一族である。多氏は日本最古の皇別氏族(臣籍降下した氏族)であり、神武天皇の息子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする氏族の伝承を持つ。多、太、大、意富、飯富、於富・・・とも漢字では書かれている。崇神天皇の時代に記録された大物主を祭祀する人物として河内の陶邑から見つけ出されたという大田田根子も、名前からしてこの氏族と関係がありそうである。纏向遺跡の巨大な祭祀都市と考えられる太田微高地、太田北微高地にもその名前が残っている。多神社の近くに秦庄が存在する。秦氏と三輪山の酒の神としての大神神社の関係も興味深い。

 多氏と三輪山の神と関係があるとすれば必ず出雲との関係が存在する。門脇禎二氏の「出雲の古代史」はオウ王の出雲支配に触れている。それによれば、古代出雲は西と東に別れて統治されていた。東を統治していたのが仁徳紀即位前紀条に書かれた出雲臣之祖、淤宇宿禰(オウスクネ)、西を支配していたのが崇神紀60年秋7月条に書かれた出雲臣遠祖、出雲振根(イズモフルネ)である。5世紀からオウ(宿禰)は出雲の国造であった。この出雲の西部を支配していた振根(フルネ)は崇神天皇の時代に吉備津彦に殺され滅亡し吉備の支配下に組み込まれた。しかし、出雲の東地域は依然としてオウ王の支配が続いたという。

 出雲のオウと多氏と同じ氏族であったすれば、大物主、三輪山、多神社、多氏、出雲の淤宇(オウ)が全て繋がる。神武東征以前の奈良盆地には出雲系のオオ、オウ一族が稲作を始め国を治めていた可能性がでてくる。その中心は田原本町の多神社周辺や唐古・鍵遺跡だったかも知れない。そして、神武東征後の奈良盆地では多氏の祖は神武天皇の系列に組み込まれたのかも知れない。多氏が大物主や出雲のオウと繋がれば、記紀で書かれた出雲神話や三輪山神話の謎に迫ることができよう。


【纒向遺跡出土モモの種考】
 2018.6.18日、石田雅彦モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」。
 日本史区分の弥生時代後期、日本のどこかに邪馬台国という集落か村落あるいは国家めいたものがあり、卑弥呼という女王かシャーマンあるいは部族長めいたものが治めていたらしい。中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に記述され、この邪馬台国の場所が長く論争になってきた。今回、奈良県の遺跡から邪馬台国と同時期と考えられるモモの種が発見され、論争に終止符かと話題になっている。
 邪馬台国論争は江戸後期から

 邪馬台国の場所に関する本格的な論争は、江戸時代後期から始まった。時代的に尊皇攘夷運動の前駆期で、新井白石や本居宣長が参戦して明治維新後も論争が続く。

 近畿地方にあったとする畿内説、九州中北部にあったとする九州説に大別できるが、文献資料では今のところ「魏志倭人伝」以外に決定的な証拠がなく、遺跡などの発掘調査による論証から証明していかざるを得ない。また「魏志倭人伝」の記述も正確とはいいがたく、読み方や解釈によって距離や方位などが恣意的に読み取れることも位置議論を白熱化させてきた。

 当時の日本はまだ統一国家めいたものが存在しないので、各地にそれぞれ豪族が割拠し、大中小の豪族があるいは覇を競い、あるいは合従連衡を繰り返していたと考えられる。そうした遺跡が各地にあり、これもまた邪馬台国論争を複雑化させてきた要因だ。

 これまでの200年くらいかけて諸説紛々出てきているが、ここでそれらをいちいち紹介しない。とにかく、遺跡自体や遺跡から発掘された当時の遺物により、ここが邪馬台国だったという証拠を明らかにしなければならないことになる。

 では、いったい何が出れば邪馬台国だったと証明できるのかといえば、例えば卑弥呼が魏と使者を交換していた木簡や印などの証拠が出たり、埋葬品などから明らかに卑弥呼のものとわかる墓があればそれだけで十分だろう。そうした遺物が都合良く出てくればいいが、残念ながらそんなものは未だ発見されていない。

 今回、名古屋大学宇宙地球環境研究所年代測定研究部の研究グループが、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡(三輪山の北西)で2009年に出土したモモの種を調べたところ西暦135~230年のほぼ100年間に食べられたモモの種だということがわかり、この遺跡と年代の合致する邪馬台国がこの場所にあったのではないかという論証を発表した。名古屋大学のリリースによれば、纒向遺跡の大型建造物跡の土坑から2800個という大量のモモの種が出土していたが、そのうちの12個を放射性炭素年代測定(※1)で測定したという。12個はほぼ同じ年に土坑に捨てられた可能性が高いことがわかったが、それも放射性炭素年代測定による。

 西王母のモモ信仰と卑弥呼

 生物の寿命の長さにより誤差が生じる可能性があるが、モモは1年ごとに果実を作るため、種はその1年だけの試料となり、放射性炭素年代測定に適しているからだ。これまで纏向遺跡から出土した動植物の遺骸や土器、木製品などで放射性炭素年代測定による調査は行われておらず、保存状態が良く1年ごとの試料として適しているモモを使った。さらに別の研究グループが同じ土坑から出土した2個のモモの種を調べたところ、同じ年代結果が出たという。

 日本を含む東洋文明において、モモという果物は西洋のリンゴと同じように祭事や信仰、呪術の対象として古くから珍重されてきた。日本でのモモは桃太郎の昔話で有名だが、モモ信仰の源流は中国にある。

 このあたり、モモに関する民俗学的な論争もあり、邪馬台国と同じようにナショナリズムが絡んで複雑で厄介な状態になっているのだが、モモという植物自体が中国原産であり、モモを食べて不老不死を得た西王母や桃源郷伝説など、モモ信仰が中国由来であることは間違いない。『古事記』にある、イザナギノミコトを追ってきたイザナミノミコトにモモを投げつけるというくだりも中国の伝承からの描写と考えられる。

 中国でモモ(核果類)が栽培された歴史は6000年以上ともいわれ、やがて日本にも伝えられたのだろう。もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ、また年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。

 4世紀からと考えられてきた纒向遺跡は、最近の研究により3世紀からのものする説が強く出され、卑弥呼の墓という説の根強い箸墓古墳がある。弥生時代から古墳時代にかけての過渡期的な遺跡でもある纒向遺跡から出土したモモの種は、果たして邪馬台国論争に終止符を打つのだろうか。

※1:放射性炭素年代測定:放射性同位体である炭素14(14C)が、自然環境の動植物の遺骸などで比率が一定していることを利用した年代測定法。炭素14は約5730年で半減するため、調べたい過去の生物が死んだ後から、その生物が自然界から取り込んだ物質の炭素14の減り方で時間経過を調べる。理論的に約5万年前までの年代測定が可能。今回の研究調査では、名古屋大学宇宙地球環境研究所に設置されているタンデトロン加速器質量分析装置を使い、より精度の高い年代測定を行ったという 。


【纒向遺跡出土カエルの骨考】
 2019.4.25日、一般社団法人共同通信社「纒向遺跡、卑弥呼と同時代、117点出土、祭祀用穴にカエルの骨」。
 纒向遺跡から出土したツチガエルの上腕骨。同じ骨を別角度から撮影した。スケールバーは1ミリ(中村泰之琉球大博物館協力研究員提供)

 邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市の纒向遺跡でカエルの骨が117点出土していたことが25日分かった。女王・卑弥呼(248年ごろ没)と同時代のモモの種などが出土した穴から見つかっており、祭祀に用いられた可能性がある。カエルの骨が井戸跡などから出土した例はあるが、供え物として使われた可能性を示す初めての発見。成果は桜井市纒向学研究センターの研究紀要に掲載された。分析した中村泰之琉球大博物館協力研究員(動物学)によると、骨はニホンアカガエル、ナゴヤダルマガエル、ツチガエルの3種、計12個体分と推定される。


 「アットホーム株式会社大学教授対談シリーズ」の大阪大学大学院文学研究科教授/福永伸哉氏の2014年9月号掲載「小さな気付きから大きな発見を導き出す。 それこそ考古学の醍醐味 邪馬台国は畿内にあり」抜粋。
 1959年広島県生まれ。大阪大学文学部史学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程に学ぶ。文学博士。大阪大学埋蔵文化財調査室助手、大阪大学文学部助教授、大阪大学大学院文学研究科助教授を経て、2005年より現職。国や地方自治体の文化財関係の委員も務める。主な研究テーマは、三角縁神獣鏡、前方後円墳などに関するもので、弥生時代・古墳時代の歴史を、中国や朝鮮半島を含めた東アジアの歴史動向の中で再構築することを目指している。著書は『シンポジウム三角縁神獣鏡』(編著・学生社)、『邪馬台国から大和政権へ』(大阪大学出版会)など多数。
 「そこに卑弥呼はいた」。強大な権力の証を見つける
福永   はい。さらにその上、当時の権力のシンボルとなった、「三角縁神獣鏡」が一番多く出土しているのが奈良盆地を中心とする近畿地方であることも有力な根拠と考えられます。
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三角縁神獣鏡。長寿、子孫繁栄などの吉祥句の銘文が刻まれている。直径24㎝、重量約1.3㎏〈写真提供:福永伸哉氏〉
福永   中国の不老長寿などの神仙思想が織り込まれた鏡です。『魏志倭人伝』には中国の魏の皇帝が卑弥呼に鏡を100枚与えたと書かれており、それによって、卑弥呼が当時の最高権力者であったと考えられているのです。
福永   そうです。当時の有力者たちは勢力が強くなると、それを誇示するために何か立派なものをシンボルとして持った。また何をシンボルとしているかで政治的な同盟関係も確認できたのです。もともとそれ以前、九州では銅矛、近畿から東海にかけては銅鐸が権力のシンボルとされていたのですが、ある時点から三角縁神獣鏡がシンボルとして用いられるようになった。銅鐸などは、時とともに次第に巨大化し、一番立派な1m40㎝近いものが出来た時点で突然消えているんです。
福永   はい。そして中国の文献によれば、ちょうどそのあたりが卑弥呼の登場時期と重なっています。勢力争いの「倭国乱」が終結し、優勢だった有力者を中心に国内がまとまり、そこで全体の代表者として卑弥呼が担ぎ出されて手打ちとなった。とすれば、近畿や東海、九州のシンボルを廃止して、全国的な統一シンボルを用意しようという動きがあってもおかしくないと思います。
 魏特有の技法に着目。畿内説の決定打に!
福永   はい。三角縁神獣鏡が、魏でつくられた証を発見しました。実は、三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土していないことから、それまでは、日本で独自につくられたのではないか、とか魏と対立した呉の工人の手によるものだという説があったのです。
福永   20年ほど前に、三角縁神獣鏡のまん中にあるひもを通す穴(鈕孔:ちゅうこう)の形が、中国の銅鏡の中では珍しい長方形をしていることに気付いたんです。それからは、各地で出土した鏡の穴ばかり観察して歩きました。3年くらいかけて千数百枚は見たでしょうか。その結果、三角縁神獣鏡の長方形鈕孔が、魏の中でも皇帝直属の工房の工人に特有な技術であると突き止めたんです。
福永   こういうささいなところから大きなことを発見することが、まさに考古学の醍醐味といえます!


 三輪山周辺を歩く 目次編

 2010年1月、三輪山周辺を歩きました。

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その1(多神社)』

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その2(秦庄)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その1(石見鏡作神社)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その2(唐古・鍵遺跡)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く 唐古池でみかけたラジコン青年』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その1(概要説明)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その2(大和神社)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生(かよう)環濠集落へ)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その7(柿の森を歩く)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その8(黒塚古墳)』

  『黒塚古墳 銅鏡備忘録』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その9(山辺の道)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その10(感想)』

 『桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面』

 『桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面 続報』





(私論.私見)