「豊葦原千五百秋瑞穂国、中つ国」考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「豊葦原千五百秋瑞穂国、中つ国」の解析をしておく。「豊葦原千五百秋瑞穂国、中つ国」は、邪馬台国が詮索され抜いてなお所在地が定まらぬのと比べ、所在地が定まらぬのにさほど詮議されていない議論対象です。これに、以下、れんだいこが挑みます。「ウィキペディア(Wikipedia)葦原中国」、歴史芸人カクヒコ「葦原の中つ国は、どこ??」その他を参照する。

 2023.7.23日 れんだいこ拝


【豊葦原千五百秋瑞穂国考】
 「豊葦原千五百秋瑞穂国」は、「豊葦原」、「千五百秋、「瑞穂国」を一綴りにしている。「豊葦原」は「葦が豊かに生い茂っている」、「千五百秋」は「千年も万年も毎年秋ごろには」、「瑞穂国」は「穀物が豊かにみのる国」の意味になる、旧名倭国、新名日本国の美称である。
 日本書紀(720)は次のように記している。
「豊葦原(トヨアシハラ)の千五百秋(チイホアキ)の瑞穂(ミツホ)の地(クニ)有り。宜しく汝が往ひて脩(しら)すべし」(神代上(兼方本訓))。
「此の―を挙 (のたまひあげ) て我が天祖 (あまつみおや) 彦火の瓊々杵尊に授へり」(神武紀)
 
 古事記の表記は「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、日本書紀神代上表記は「豊葦原千五百秋瑞穂の地」(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)、神代下表記は「豊葦原千五百秋瑞穂国」である。

【豊葦原千五百秋瑞穂国は何処考】
 「豊葦原千五百秋瑞穂国」(以下、単に「豊葦原瑞穂国」と記す)は何処にあると比定されているのか。通説は、高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所で、地上世界を指すとしている。

 錯綜する記述の中で最も正しいと思われる読み解きは、「豊葦原瑞穂国」は来航族の憧れの地であり、その国の支配権の禅譲を強請され、結果的にそうなったという経緯を見せている。この経緯が、出雲国の国譲り譚と重なっているように感じる。

 その始まりが須佐之男命(以下、スサノウと記す)譚との絡みになる。記紀神話によれば、スサノウの粗暴に心を痛めた姉の天照大御神は天岩戸に隠れてしまい世の中が混乱した。この時、八百万の神々が協議の結果、スサノウに千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて高天原から追放した。古事記では「神逐」(かんやらい)、日本書紀では「逐降」(かんやらひやらひ)と称する。

 そのスサノウがやって来たのが西出雲で、その地域一帯を采配するようになる。それまでの東出雲で、その皇族達の王権争いで、最も若かった大国主の命(オホナムチ)がさんざん虐められた末に、スサノヲの許に転がり込む。スサノヲは大国主に辛く当たるが、遂には彼の人物器量を認めて、「よっしゃ、そしたら葦原の中つ国を治めよ。支援を惜しまない」と後援することになる。大国主がスサノウの娘と結婚することにより西出雲の後ろ盾を得、東出雲を相続する。こうして東出雲と西出雲が同盟国化する統一出雲王朝が誕生する。そこへ少名毘古那神(以下、単にスクナヒコナと記す)が現れ、大国主の命とスクナヒコナが相協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、日本列島津々浦々に統一出雲王朝系連合国家を生み出していった。

 その首都となったのが「葦原中つ国」だとすれば、「葦原中つ国」はほぼ出雲王朝と被ることになる。「豊葦原瑞穂国」が「葦原中つ国」と同一なのか、「葦原中国」は「豊葦原瑞穂国」の首都国なのか、その詮議の余地はあるが。

 大国主らがやっとのことで国作りを遂げた頃、そこへ外航族が登場し、その外航族が「豊葦原瑞穂国」の精神的支柱である天照大御神の神託を受けたとする使者を送り、大国主に対し、「葦原中国を邇邇芸命に譲渡」するよう要請した。数次の折衝を経て、知将の事代主神が了承、軍神の建御名方神が戦闘の末に、戦闘未決着のままの手打ち和睦となり、こうして大国主の命は「国譲り」に応じた。両者の戦闘は殲滅戦にはならず、大国主の命派は杵築(きづき)の地に隠退せしめられ、宮殿建築と幽界での活動の保証を引き換えに顕界の権力を譲った。

 来航族ニニギが降臨してきた場所は、筑紫の日向の高千穂(たかちほ)峰とされている。これは、宮崎県の高千穂峡か鹿児島県の霧島連峰に比定されている。出雲の王を破った後で、九州南部に乗り込んだことになる。その後、ニニギの子孫たちは、瀬戸内海沿いに引越しを続けながら、大和(奈良県)に到達する。

 ワカミケヌ(後の初代・神武天皇)。

 一説に、事代主神と建御名方神の国譲りは、日本書紀の神婚譚にも見えるように、実際には現在の奈良県(旧大和国、大神・磯城周辺)であったとされる。出雲国風土記には事代主神も建御名方神も登場しない。

【「豊葦原千五百秋瑞穂国」と「中つ国」の識別考】
 ところで、「豊葦原千五百秋瑞穂国」と「中つ国」を識別する必要があるように思われる。日本神話には「豊葦原瑞穂国」と関連させて「葦原(あしはら)の中(なか)つ国」(以下、単に「中つ国」と記す)が出てくる。高天原(たかまがはら)、黄泉国(よみのくに)、根の堅州(かたす)国、そして海原などと対比されている。「葦原の中つ国」は、「豊葦原瑞穂国」と同様に日本のどこに実在したのか?、日本のどの地域が「豊葦原瑞穂国」で「中つ国」なのか、分からなくなっている。

 思うに、「豊葦原千五百秋瑞穂国」はいわば倭の國津々浦々の全域に対する美称であり、「豊葦原瑞穂国」と略称することができる。「中つ国」は、「豊葦原瑞穂国」の中央ないしは中心的な処に位置する都的な国なのではなかろうか。当然、「豊葦原瑞穂国」という相関関係にあるのではなかろうか。

【中つ国】
 中つ国(なかつくに)とは、中間の国、中央の国を意味し、「つ」は、上代日本語の格助詞で、現代語の「の」に相当する。中津国、中国とも書く。








(私論.私見)