大正天皇の足跡履歴その2

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大正天皇の足跡履歴その2」を確認しておく。書籍として、原武史「大正天皇 (朝日選書)」(朝日選書、2000.11初版)、フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す 」((ミネルヴァ日本評伝選、200.9初版)その他を参照する。ネット文として、「大正天皇の御生涯」、「追悼録(91)」、「大正天皇のお話(1) 」、「大正天皇のお話(2) 」、「大正天皇のお話(3) 」その他を参照する。

 2007.11.1日 れんだいこ拝


【東宮御所時代】
 1889(明治22).2月、9歳の時、明宮は青山御所から赤坂離宮内の東宮御所、通称「花御殿」に移り住む。

【皇太子となる。東宮職が新設される】
 1889(明治22)年、10歳の時、11.3日、天長節の日、「古式に則らせ給ひ、いと荘厳に」立太子礼が執り行われ皇太子となる。同時に陸軍歩兵少尉に任命され、近衛歩兵第一連隊付になっている。
(これにより以降を「明宮嘉仁(はるのみやよしひと)皇太子又は単に皇太子」と記す)。同日、東宮職が新設され官制が定められている。東宮大夫(だいぶ)、東宮侍従長、東宮亮(すけ)、東宮武官、東宮侍従などの官職が置かれることになった。東宮侍従長には、中山忠能の孫の中山孝麿が任命された。

 翌日、初めての公式行事として、東京青山にあった近衛歩兵第一旅団及び近衛歩兵第一連隊を訪問し、入隊の儀を行っている。

 「明治天皇記」は、この頃の明宮嘉仁皇太子を次のように記している。
 「ときに齢11歳、既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」()とある。この「聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」。

 この記述はもっと注目されて良いと思われる。皇太子の体は次第に丈夫になり、13歳から14歳にかけての初等学科4年の時には、ついに無欠席で一年間を通している。「体質虚弱な腺病質な質で数度と無く病歴を持つが、無事成人した」ことを意味している。但し、12月に腸チフスにかかるとある。

【ロシア皇太子・ニコライの訪日巡遊の影響】
 1891年、ロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が訪日し巡遊している。この時、有栖川宮が接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。有栖川宮は後に東宮職となるに及び、この時の経験が皇太子教育に生かされ、巡啓に生かされていくことになる。

【東宮武官長・奥保かたの薫陶】
 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任している。奥は東宮大夫も兼ね、この現役バリバリの軍人が皇太子輔導の最高責任者となっていることが注目される。

 1892(明治25).7月、奥は皇太子の学業成績を明治天皇に次のように報告している。
 概要「24.6月より25.7月まで、殿下の学業成績は、読書、馬術は著しく進歩され、随って記憶力もまされ、但し、読書進歩の割には意味を解せらるること乏しい。算術は他に比較すれば困難なり」(「徳大寺実則日記」)。

 1892(明治25).12月、皇太子が陸軍歩兵中尉に昇進している。

【学習院初等科卒業、中等学科へ】
 1893(明治26).7月、14歳の時、学習院初等科卒業、中等学科へ。1894(明治27).8月、15歳の時、体調が芳しくない事もあって学習院中等学科中退。これ以降、皇太子は赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。東京帝国大学より本居豊頴や三島中洲を招聘、彼らを東宮侍講としたが、特に三島の教える漢学に強い関心を示し、のちに優れた漢詩をいくつかのこしている。一方、皇太子の事情を憂慮した政府は沼津や葉山に御用邸を建てて皇太子を滞在させ、健康維持をはかるようすすめている。

【日清戦争勃発、その影響】
 1894(明治27)年、日清戦争勃発。11.15日、広島大本営に行啓。東京日日新聞は次のような記事にしている。
 「皇太子は1894年11月15日の早朝にも関わらず、多くの人に見送られた」、「新橋駅付近には朝早くから庶民の群れに囲まれ、嘉仁皇太子へ向けての万歳が唱えられ、一時は大混乱となった」。

 1895(明治28、16歳).1月、陸軍歩兵大尉となる。3.17日、皇居、広島大本営に行啓。 8月腸チフス肋膜炎肺炎など、重体に陥る(11月に全快)。一時重体に陥る事態となったが医師ベルツらの助力もあって奇跡的に回復、無事全快に至った。この年、陸軍歩兵大尉に任命される。

【高等教育受ける】
 1895(明治28)、16歳の時、東宮職御用掛に、東京帝国大学文学部古典講習科講師・本居豊かい(とよかい、本居宣長のひ孫)が就任し、国学(和歌、作文、歴史、地理)。翌年、川田甕江の死去の後を受けて、東京帝国大学教授・三島中州(ちゅうしゅう)が同じく東宮職御用掛に任命され、漢学(漢詩、漢文)を担当し、皇太子の個人授業に当ることになった。

【出雲派の影響】
 1896(明治29、17歳).6.12日、皇太子は埼玉県大宮の氷川神社に参拝している。原氏の「大正天皇」には次のように記されている。
 「氷川神社の祭神は、明治維新とともにスサノオ一神に定められたが、実は皇太子の参拝の直前に、その子孫であるオオク二ヌシが合祀されていた。つまりこの参拝は、出雲まで行くことのできなかった皇太子が、守護神であるオオク二ヌシに対して、重態から脱して身体が回復したことを感謝する意味を持っていたのである。

 当時の埼玉県知事は千家尊福(たかとみ)であった。千家は出雲大社の国造家の出身で、祭神論争では出雲派のリーダーとして活躍した。そして本居もまた、千家と共に祭神論争ではオオク二ヌシの合祀を主張した一人であった。皇太子の氷川神社参拝の背景に、個人的にも親しかった千家と本居が関係していたことは恐らく間違いない」。

 参拝後は氷川公園(現在は大宮公園)を訪れ、地元の小学校生徒による兵式体操や、警察監獄署員による撃剣を見学された。

【避暑に日光に出向き始めている】
 1896(明治29)年、17歳の時、皇太子は、この年から1925(大正14)年まで毎年、避暑に日光に出向き始めている。慈雲寺の門の手前に大正天皇のお読みになった和歌の碑が遺されている。日光に滞在する際に使用された「田母沢御用邸」が近くにあったので近所の大谷川付近を散策をしながら読んだお歌である。 ちなみに、日光田母沢御用邸は1899年(明治32年)に、大正天皇(当時は皇太子)の避暑地して明治時代の銀行家の別荘をもとに、紀州徳川家江戸屋敷の一部を移転して作られた。 その後、増改築を重ねて現在のような田母沢御用邸の姿になったのは1921年(大正10年)頃である。 日光田母沢御用邸は1947年(昭和22年)に廃止されるまで三代にわたる大正天皇、昭和天皇そして現在の天皇陛下の皇太子時代というように、3代にわたる天皇・皇太子がご利用になられた。 現在、「田母沢御用邸記念公園」として利用できるように栃木県が3年かけて修復した。

 「健康を取り戻すためだったと思われるが、葉山、日光など御用邸周辺での外出が目立つ」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は話す。


【貴族院の皇族議員になる】
 1897(明治30)年、18歳の時、皇太子が貴族院の皇族議員となった。成年式は、英照皇太后の喪中のため、翌年に延期された。

【明宮を廻る明治天皇と伊藤博文首相のやり取り】
 1898(明治31、19歳).2月、首相・伊藤博文が、天皇に対して全部で19か条からなる皇室改革意見書を提出している。その9か目に、次のように記されている。
 概要「ひそかにおもんみるに、皇太子殿下今すでに成年に達せらるるも、玉体御弱質にわたらせられ、加えるに御重患にかからせられ、一時は頗る危険の形勢に在らせられたるも、幸いにして近時ようやく御回復に赴かせらるるは億兆の仰慶するところ。然るに一時御大患の為自ら御学業等の進歩御遅延に渉らせらるるは当然のことなり。而して今日左右に侍するもの、傍観座視して之が為に憂慮するものなきが如きに至りては、まことに寒心に堪えざるところなり。伏して思うに東宮を擁護し奉る今日の急務は、一面において衛生上御健全を図り、一面においては学術に基づくところ、あるいは事実に現出するところの政治又は陸海軍事に御熟通あらせらるるようなるべく簡便なる方法により、漸次御養成あいなりたく、故に先に進言して勲臣の内より一人を簡抜して監督せしめらるる事に聖裁を賜わりしは、国家社稷の大幸とするところなり」。

 3月、明治天皇は、皇太子に概略「東宮職員の不才不能をあげつらい、全員更迭させよなどと軽々に口にすることの無きよう、発言を慎むよう」との沙汰書を伝えている。

【有栖川宮の後見を得る。「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出される】
 1898(明治31).19歳の時、11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐になる。明治天皇の意向により、有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子、有栖川宮威仁(たるひと)親王が東宮賓友となる。この有栖川宮威仁親王との出会いは、その後の皇太子にとって大変意義のあるものとなった。

 有栖川宮登用の背後事情は次の通り。この頃、皇太子教育を廻り、詰め込みを強制する東宮職と皇太子との間で確執もあった。これに憂慮した伊藤博文が東宮職以外に外部から皇太子の教育や健康管理など、総合的に監督させるための人員を置くことを提案、明治天皇も同意。元師陸軍大将の大山巌を東宮監督に、監督の補佐として伊藤他3名があたり、また東宮賓友として皇族の有栖川宮威仁親王が当たることになった。

 有栖川宮幟仁(たかひと)親王の履歴は次の通り。幼称は稠宮(さわのみや)。海軍兵学校卒。西南戦争をはじめ日清戦争、日露戦争に従軍。また明治天皇名代として外国の式典に参列した。後に海軍大将。52歳で死去。王子の栽仁王(たねひとおう)が早世した為、有栖川宮家は断絶した。皇太子は有栖川宮に厚い信頼を寄せた。皇太子にとって17歳年上であったが有栖川宮を兄のごとく慕い、「頼りになる友人」的関係が築かれることになった。後に有栖川宮が継嗣のないまま危篤に陥った時には第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を与えることで有栖川宮の祭祀を継承させている。

 有栖川宮は、規律や格式を重んじる東宮職の反発を後目に皇太子の健康状態維持優先を主張し、「御健康第一、御学問第二に」の補導の方針を打ち出し、皇太子教育にあたることになった。

 1898(明治31).19歳のとき、11.30日、青山御所を東宮御所と定まり、12.4日、大隈重信邸に行啓。

【伏見宮禎子(さちこ)女王との結婚騒動、九条節子と御婚約】
 1898(明治31、19歳).8.31日、皇太子妃に内定の九条節子との婚約が正式に内定される。配偶者が節子に定まるまでには少し騒動が発生した。最初に候補に上がったのは伏見宮禎子(さちこ)女王で内定までしていた。しかし逆転劇が起こり、節子に決められたという経過が伝えられている。当然のことながら「皇族の婚嫁は同族または勅旨により特に認可せられたる華族に限る」との皇室典範の規定に拠って選ばれている。

 九条節子に白羽の矢を当てたのは、九条節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(くじょうあさこ、後の英照皇太后)で、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮嘉仁皇太子の妃に目されたと云う。12.19日、皇太子妃に内定の九条節子参内。

【有栖川宮が正式に東宮補導になり東宮を監督する全権を委任される】
 1899(明治32、20歳).5月、天皇の大命により東宮監督・伺候が廃止され、大山、伊藤、松方、土方は東宮補導顧問となる。有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友となってより1年後、正式に東宮補導になり東宮を監督する全権を委任される。

【御成婚】
 1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・九条節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」は次のように記している。
 「婚約は1900年2月11日に発表されたが、これは憲法が発布されたのと同じ日で、近代日本にとって最も神聖的な祭日、紀元節であった」。

 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の御神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)で、4月に交付された皇室婚嫁令に従い、皇太子は束帯、皇太子妃は十二単衣姿で、宮中の賢所大前で玉串を捧げるという神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に御参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことである。 

 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装マンド・ド・クールを身に付け、明治天皇や皇后と対面式を行った後、婚約者は午前11時頃から四頭立ての馬車に乗り、宮城から桜田門-三宅坂-麹町四谷-紀伊国坂-堀端-田町通りや青山通りを騎兵や皇室関係者に同行され、1時間半ほど皇居周辺をパレードしている。東宮御所を零時半ごろに着いた皇太子と皇太子妃は、皇室関係者と正餐をとる。3時30分頃、皇太子は正装に立太子礼の際に授与された大勲位菊花大綬章や婚礼とともに受けた大勲位菊花章頸飾を付け、皇太子妃はフランス式正装ローブ・デコルテーに新しく授与された勲一等賓冠章を佩びて、再び宮殿に向かった。宮殿内の鳳凰の間で皇族、顕官や各国公使と公使館員、同夫妻の祝賀を受けた後、最後は豪華な饗宴――各国公使等を含む2200人程の饗宴者と会食しながら、宮内省楽部と近衛師団の軍楽隊の演奏を楽しんだ。(「風俗画報」、1900年6月15日/10~11頁)。

 皇居周辺や銀座等の繁華街に国旗や提灯、電飾と飾門が多く設けられ、陸海軍によって祝いの皇礼砲が響き、後に市の後援により、日比谷公園ほか3ヶ所に花火が打ち上げられた。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、大勢の群集がパレードの沿道に整然と並び、日の丸の小旗を打ち振って歓迎した。1890年から日本に住み着いていたイギリス国籍の作家、ラフカディオ・ハーン(日本名/小泉八雲)とその家族もこの中にいた(工藤美代子「国母の気品―貞明皇后の生涯」8~13頁)。ある報道によれば、「その数幾十萬人なりけん、踏まるるあり、押さるるあり、泣くあり叫ぶあり、実に筆紙にも尽き人出なりき」という場面もあったとのことである。

 祝辞を送った人は15万人を超えた。その後、国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。青森県ではソメイヨシノを記念植樹している。後に桜の名所となる弘前公園も、皇太子の結婚記念で桜を植樹したのが始まりと云われている。後に皇太子は全国各地を巡啓することになるが、その過程でも桜が多く植えられている。今日の日本のシンボルとしての桜のイメージはこの頃が発端で、大正天皇との関係が深い。3500万枚も発行された記念切手が貼ってあった郵便物も多く出回った。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。

 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。皇太子の主治医ドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツ氏は、「素晴らしい。どの店にも、何か祝意を表するものが飾られている」と喜んでいる。

 この時、幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。これは如何なる幸徳秋水の政治眼力か。思うに、幸徳秋水は、日本の皇室制度を西欧的君主制の抑圧のものではない日本固有の尊守すべき制度であるとして歴史的に解明せんとする姿勢にあったのではなかろうか。俗流マルクス主義の機械的適用によって天皇制を西欧的君主制のラインの下でのみ捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対するアンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、この天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この高徳を葬った大逆事件も胡散臭い。大杉栄を葬った関東大震災も胡散臭い。何やら格別優秀な者を狙い撃ちしている観がある。





(私論.私見)