大正天皇の足跡履歴その1

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大正天皇の足跡履歴その1」を確認しておく。書籍として、原武史「大正天皇 (朝日選書)」(朝日選書、2000.11初版)、フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す 」((ミネルヴァ日本評伝選、200.9初版)その他を参照する。ネット文として、「大正天皇の御生涯」、「追悼録(91)」、「大正天皇のお話(1) 」、「大正天皇のお話(2) 」、「大正天皇のお話(3) 」その他を参照する。

 2007.11.1日 れんだいこ拝


【大正天皇の総履歴概要】
 1879(明治12).8.31日~1926(大正15).12.25日(48歳)。在位期間は1912.7.30日~1926.12.25日。
 1879(明治12).8.31日、東京青山御産所にて、明治天皇の第三皇子として生まれる。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。幼名・明宮(はるのみや)、嘉仁(よしひと)親王と名付けられた。

 1889(明治22).11.3日、10歳の時、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を挙げる。(立太子、即ち皇太子となる)。

 1900(明治33).5.10日、公爵九条道孝の四女九条節子様(さだこ、貞明皇后)と御成婚。この年から地方巡啓として日本各地を訪問。息子に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮雍仁親王(後の秩父宮)、光宮宣仁親王(後の高松宮)、澄宮崇仁親王(後の三笠宮)。

 1912年(大正元).7.30日、32歳の時、明治天皇崩御により第123代目の天皇として即位、大正に改元。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて1915(大正4).11.10日に紫宸殿で執り行われた。

 幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、1921(同10).11.25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、1926(同15).12.25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。

【誕生】

 大正天皇は、1879(明治12).8.31日、明治天皇の第三皇子として東京青山御産所にて生誕する。父・明治(睦仁)天皇、母・柳原光愛の次女・権典侍(ごんてんじ)・柳原愛子(やなぎわらなるこ、1855~1943)。史上最初の東京生まれの天皇となる。

 幼称は明宮(はるのみや)、御名・嘉仁(よしひと)親王、追称・大正天皇となる。明治天皇と皇后・一条美子(はるこ)との間には皇子女がおらず、側室出生の親王・内親王は明宮嘉仁親王を含めて5人いたが、成人したのは明宮嘉仁親王だけとなり、やがて大正天皇として即位することになる。明治天皇と側室との間には15人の子供が生まれたが、次々に夭逝し、成人したのは明宮と4人の皇女だけだった。


【柳原愛子と柳原白蓮の関係】
 ちなみに柳原愛子は、歌人として知られる柳原白蓮(本名燁子、あきこ)の伯母に当たる。以下、「柳原白蓮考」に記す。

【「祭神論争」の影響】
 1880年をピークに「祭神論争」が展開されている。この論争は、国民教化の為の半公的な中央機関として、1875年に設立された神道事務局の祭神を廻って繰り広げられた。天津神系譜の伊勢派は、伊勢神宮を中心とする古事記の冒頭に登場する造化三神(あめのみなかぬし神、たかみむすび神、かみむすび神)及びあまてらす神のみを祀るべきとしていたのに対して、国津神系譜の出雲派は、出雲大社を伊勢神宮と同格で祀るべしとして、おおくにぬし命の合祀を主張した。

 この論争は、1881(明治14)年に勅裁という政治的方法で決着し、出雲派の主張が斥けられた。これにより、おおくにぬし命は、公式に「幽冥主宰神」としての権威資格を剥奪され、皇室守護の護国の神の地位へ引き下げられた。
(私論.私見) 「祭神論争」考
 日本政治史上最大の政変と思われる「国譲り」に端を発する「祭神論争」がこの時期に繰り広げられていることが興味深い。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼児時代】
 明宮(はるのみや)は生後まもなく大病を患い、其の後も百日咳や腸チフスなどにかかるなど生まれつき病弱な体質であった。このことが、後の大正天皇押し込めの遠因にされることになる。

 12.6日、当時の皇室の風習に従い幼少期の明治天皇同様に中山忠能邸に里子に出される。6歳になるまで中山邸に預けられた。

【出雲大社祭神による守護が祈願されている】
 この間、明宮(はるのみや)の病弱身上を案じた美子皇后(昭憲皇太后)の意向で、健康を祈る為に、1883.10月に出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊と御守りを取り寄せ、中山邸内の神殿に安置させたと伝えられている。
(私論.私見) 「大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊取り寄せ」考
 このことは、大正天皇を取り巻く背後に国津神系の影響が認められる点で注目に値する。なお、「祭神論争」の政治的決着にも関わらず、次なる皇位継承者となる御子の精神的お守りに国つ神系の祭神を祀ったということになり、(関心の向きの者には)注目されるべきことであるように思われる。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼少時代及び学問の手ほどき為される】
 1885(明治18).3.23日、6歳のとき、中山邸から赤坂仮御所(青山御所)に移り、皇后・一条美子に手厚く育てられる。実母が柳原愛子であることを知るのは後年であるが、皇后・一条美子を母として育ったため生母が柳原愛子と言われてもなかなかそれを信じなかったと伝えられている。これにつき、「このような幼少期の特殊な環境は、後々にいたるまで明宮の健康と精神に少なからず影響を与えたと思われる」とするのは一面的であろう。「美子皇后に手厚く育てられた裏事情に、それほどまで可愛く且つ賢い、将来の天皇として見込みのある幼子であった」面も慮る必要があるのではなかろうか。

 1886(明治19).1月、7歳の時、青山御所内に御学問所が設置され、博育官(教育係)に「読書(よみかき)入門」という日本で初めての教科書を編集した湯本武比古が選ばれる。以降暫くの間、湯本武比古氏の個人授業を受ける。湯本氏は皇室に仕えた初めての平民であった。湯本氏は、近代国家の君主にふさわしい教育のために歴代天皇が経験したことのないような教育方法や内容を取り入れた。即ち、・普段着を洋服にする。・庭園を散歩して植物や動物に関する質問をさせる。・官立幼稚園を参観させ授業態度を学ばせる。・陸海軍の施設、学校、工場の見学。・当時の欧州各国の王室における流行語だったフランス語などを学ばせる。

 この頃の明宮の御気性が次のように記されている。
 「児童の時分より制約や規則というものに縛られることを極端に嫌い、思ったことを何でも率直に発言する性格の御子。
 「目にし手に触れるものに対し頻りに『これは何、それは何ゆえ』と問う御子であった」。

 1887(明治20)年、学習院初等学科に入学した。この時、侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。病気のため休学。以後、一時的に箱根や熱海に療養しながら健康回復につとめ、長ずるに及び次第に壮健となる。

 1887(明治20).7.26日、8歳の時、佐々木高行氏が明宮御養育主任となる。

 8.31日、8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があった)。

 東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。

 9.19日、学習院予備科に編入学。1888(明治21).4.5日、9歳の時、陸軍中将・曽我祐準氏が御養育主任となる。5月~8月にかけて百日咳にかかり、学習院を休学した為進級できず。

【洋学医ベルツ採用される】
 1888(明治21).8.11日、9歳の時、東京帝国大学教授・ベルツが主治医に任命され、11月までに浅田宗伯をはじめとする漢方医全員が解任されている。以後、洋医が担当することになった。





(私論.私見)