貞明皇后考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).6.26日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、大正天皇の皇后貞明について考察しておく。「ウィキペディア貞明皇后」、「萬晩報、薩長因縁の昭和平成史(4)」、「貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たちの功績を知る」その他を参照する。 貞明皇后(ていめいこうごう、旧名:九條 節子(くじょう さだこ)。1884年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。お印は藤。 |
【履歴】 |
1884(明治17).6.25日、父は旧摂家/藤原北家の九条家の公爵の九条道孝(くじょうみちたか)、母は側室の中川局(野間幾子)。九条道孝の四女として誕生。本名は九条節子(さだこ)。この御子が長じて「貞明皇后」(ていめいこうごう)になる。 道孝の姉は孝明天皇の女御・英照皇太后である。よって節子姫の伯母にあたられる。 農家裸足で野山を駆け巡り、”九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。明治天皇の皇后の昭憲皇太后をして、「なんてお転婆なんでしょう」といわしめた程である。
これは、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(※実母ではない)の九条夙子(くじょうあさこ)即ち、父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山で九条道孝の実姉。よって九条節子の伯母にあたる英照皇太后のご意向であったらしく、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮の妃に目されたようである。
また、大正天皇が病に陥った後は、天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渡り合った。1922(大正11)年、英国のエドワード王太子の訪日時、摂政裕仁親王とともにもてなしている。1923(大正12)年、 関東大震災の際には被災者を慰問している。 摂政の皇太子・裕仁親王の即位により皇太后となる(42歳)。 1930(昭和5)年、赤坂離宮御苑内の大宮御所(太皇太后または皇太后の御所〈住居〉)に移った。皇太后としては救癩(きゅうらい=ハンセン病患者を救うこと)事業などを援助する一方、養蚕(ようさん、蚕を飼い育て繭をとること)や灯台守(灯台の番をする人)への理解が深く、援助もよく行った。 1931(昭和6)、貞明皇后の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。彼女の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のための強制隔離が正当化された面も否めない。また、このような活動が彼女の真意には関わらず「皇恩」、「仁慈」として、その後政治利用されてしまった側面もある。 1951(昭和26).5.17日、狭心症のため崩御。享年66歳。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定で、その準備をしている時に発作が起こり、急死した。 同年6.8日、貞明皇后と追号(諡号)された。追号の「貞明」は、『易経』にある「日月の道は貞(ただ)しくして明らかなり」の一文を出典とする。 陵墓は東京都八王子市の多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)で、大正天皇と並んで葬られた(歴代皇后の内で初めて関東に陵が営まれた)が、それは、日本国憲法下の皇室典範に基づいて葬られた最初の皇族を意味した。 |
【家系】 |
孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母にあたる。姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。 異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。 |
【家族】 | ||||||||||||||||
大正天皇との間には4男の皇子をもうけた。
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【人となり、逸話】 |
生涯に渡って数多くの和歌を残す一方、夫・大正天皇の影響からか漢詩にも取り組んだ。 ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。 八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし
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【皇子とその妃達との関係】 | |
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Re::れんだいこのカンテラ時評476 | れんだいこ | 2008/10/13 |
【サンケイ正論、鳥居氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」考】 産経新聞は、読売と競って御用記事を書くことで知られているが、ほんの時々為になる記事を書く。2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」が面白い。これを確認しておく。 明治学院大学の原武史氏の言説が槍玉に挙げられている。原氏と云えば大正天皇論で英明なる大正天皇の実像を伝えたことで評価されているが、今度は昭和天皇論にも向かったらしい。れんだいこはまだ読んでいない。そこで、大正天皇の皇后・貞明皇太后に言及しており、その所説に対し、鳥居氏が異論を唱えているという形になっている。 窺うところ、原氏は、今日の宮中祭祀の基礎は貞明皇太后が作ったものに過ぎず、古来不易として護るほどのものではないと述べているらしい。その他、貞明皇太后の頑迷保守ぶりを記述しているらしい。これに対し、鳥居氏は、貞明皇太后の有能性に言及し、真実の貞明皇太后実像を伝えんとしている。 れんだいこには、ここまではどうでも良いようなことにも思えるが、以下の記述が素晴らしい。原氏の所説か鳥居氏のそれか判明でないが、貞明皇太后は何と大東亜戦争の聖戦遂行と幕引きの両方に深く関与していたという。昭和20.2月の近衛文麿から東条英機の7名の「重臣上奏」の仕掛け人が貞明皇太后であった。その後の3.2日の昭和天皇と皇族の懇親会の仕掛け人も貞明皇太后であった。事態は進展せず、4ヵ月後、昭和天皇と貞明皇太后の直接会談となった。この時、昭和天皇は、ショックの余り立ち上がることができなかった。どういう内容の遣り取りが行われ、昭和天皇と貞明皇太后がどういう主張をしたのかまでは分からないが、この対談の結果として戦争終結に道が開かれた、と云う。 原氏の所説と鳥居氏のそれとの違いまでは判明しにくいが、れんだいこは、戦争終結の裏舞台としての皇室事情が窺えたことが存外の収穫となった。原氏が実際にどのように述べているのか、鳥居氏の指摘が傾聴に値するものなのか、調べてみたいと思った。 何より我々が関心を持つべきは、大東亜戦争の歴史的事情、推移、終結経緯である。これについて諸氏が研究している割には未ださっぱり分からない面が余りにも多い。特に、終結経緯は謎だらけである。予定より早まったのか、それは正解だったのか、徹底抗戦していたらどうなっていたのか、別の選択肢が有り得たのか等々につき未だ説得的な議論にお目にかかっていない。 そういうことを考えさせるに値するのが産経新聞の2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」であった。新聞ジャーナルのらしき歴史発掘であったように思われる。かくコメントしておく。 2008.10.13日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)