【第15代、応神天皇譚】 |
応神天皇は軽島の明の宮を宮殿としたが、九州から難波に進むまでに、仲哀天皇の異腹の王子たちとの戦いもあった。また、応神天皇も多くの王子を生んだが、後継者争いの戦いが起こり、ホムダノマワカの娘のナカツヒメの生んだオホサザキが、次の仁徳天皇となる。応神天皇の妊娠期間が通常より長いことから、仲哀天皇の子供ではないとする説もあり。ここでも、王朝交代があったのではないかとされている。 |
記紀は十五代応神天皇(譽田尊)は仲哀天皇の御子としているが、仲哀天皇の后とする気長足姫尊(神功皇后)摂政前紀(仲哀天皇9年9-10 月条)に、新羅に遠征しようとする前、「皇后は産み月にり腰に石をはさんで祈り、事終えてから生まれた云々。皇后、新羅より帰り・・12月14日に譽田尊(応神)は筑紫で生まれましぬ」と記している。産み月になって二ヶ月もお産を延ばしたと云う。原田常治氏は、応神は建内宿禰と気長足姫尊(神功皇后)の御子であろうと云う。また金容雲氏は、記紀の記述と日韓語の成り立ちを傍証として、15代応神天皇は百済からの渡来人だと云う。 |
應神天皇十四年(事実であったとして西暦 408年)、日本書紀は「是歳弓月君自百濟來歸因以奏之曰臣領己國之人夫百廿縣而歸化」と記している。朝鮮半島の弓月王が百二十県の人びとを率いて帰化し、秦氏となった云々。秦氏は平安京の建設に尽力し、稲荷信仰や八幡信仰を興し、養蚕、織物、土木技術、鉄や銅の採鉱・精錬、薬草なども広めた。
このことを、景教の東伝史に関する研究で国際的に著名な佐伯好郎(1871-1965)は「太秦(禹豆麻佐、うずまさ)を論ず」(地理歴史第百号 1908年)で、秦氏は中央アジアの弓月にいた民族で、景教(ネストリウス派キリスト教)に改宗したユダヤ人であると述べた。こ仮説が初期の「日ユ同祖論」として明治時代の日本で独り歩きした。佐伯好郎は生前、歴史学者の服部之総(1901-1956)に対して「(北海道開発のためには)在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と述べている。佐伯好郎の「秦氏=ユダヤ人」の着想は、政治的・功利的な企画によるもので(服部之総『原敬百歳』中公文庫 1981年 原文は『図書新聞』1954年10月)、論の真否は別のものである。
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第15代応神天皇(在位270年~310年)の御代、朝鮮半島より渡来人がたくさんやってきた。秦氏の祖である弓月の君もこの時代に来日してきた。これにより渡来人の技術が多数導入されている。新羅の堤池築造、百済の馬、太刀、大鏡、論語、韓の鍛冶
呉の機織り、酒造などで、秦氏や漢氏の祖も渡来したとある。ここで、実年と関係した記述として百済の照古王(西暦346-375)が馬等を奉ったとされている。
応神天皇9年4月、竹内宿禰が筑紫に派遣され、民情を視察していた。この時、宿禰の弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、「竹内宿禰が天下を狙っています。筑紫で謀をしており、朝鮮半島の三韓を招きいれ、天下乗っ取りを計画しています」と讒言した。これを聞いた応神天皇は、使者を遣わして竹内宿禰を殺させようとした。竹内宿禰は嘆き悲しんでいたところ、竹内宿禰とそっくりな壱岐の直(あたい)の祖・真根子が身代わりになって自刃した。竹内宿禰は密かに筑紫を抜け出し、大和に入った。そこで、深湯(クガタチ)によって無実を証明した。竹内宿禰が甘美内宿禰を斬り殺そうとしたが、天皇の勅により放免され、紀直(きのあたい)の祖に隷民として授けられた。 |
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日本書紀によれば、応神天皇が、現在の岡山県南部の「吉備の大海」の浅瀬に船で足守までやって来たと記されている。 |
応神天皇には三人の息子がいた。上からオホヤマモリの命、オホサザキの命、ウヂノワキイツラコである。或る時、応神天皇は、オホヤマモリとオホサザキに、「お前たちは年上の子と年下の子ではどちらがかわいいと思う?」と尋ねた。長兄のオホヤマモリは、「年上の子がかわいいと思います」と答えた。オホヤマモリが答える姿を見たオホサザキは、父上はウヂノワキイツラコを後継者にしたいのではないか?と推量し、天皇の意向に逆らわないように「年上の子はすでに大人になっているのでそれほど気がかりもありません。しかし、年下の子はまだ大人になっていないので、こちらのほうがかわいいと思います」と答えた。応神天皇は、「オホサザキよ。そなたが行ったことはわしの思っている通りだ」と褒めた。この発言を踏まえて三人の子の任務を与えた。「オホヤマモリよ、そなたは山と海の部を管理しなさい。オホサザキは私の統治する国の政治を執行して報告しなさい。ウヂノワキイツラコは皇位を継承するように」。こうして、次男オホサザキは応神天皇の意に背くことはなかった。
或る時、応神天皇は日向の国のモロガタの君の娘、カミナガ姫の容貌がみめ麗しいと聞き、側に仕えさせようと呼び寄せようとした。オホサザキは少女を乗せた船が難波津に着いたと聞いて見に行った。少女のあまりの美しさに感動したオホサザキは結婚したくなり、タケウチノスクネのところに相談に行った。タケウチノスクネはオホサザキの願いを聞き入れ、天皇にその旨伝えた。まだ、姫を見ていない天皇は皇子の願いを快く認めた。新嘗祭の当日、天皇はヒメにお酒を受ける柏を持たせ、皇太子にお与えになった。そのとき天皇は歌を歌った。
いざ子ども 野蒜(ひる)摘みに 蒜摘みに わが行く道の 香ぐはし 花橘は 上枝(はつえ)は 鳥居枯らし 下枝(しづえ)は 人取り枯らし 三つ栗は 中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)を いざさらば 宜らしな |
(さぁ、皆の者よ、野蒜を摘みに行こう。野蒜を摘みに行く道の、香りのよい花橘は、上の枝は鳥が止まって枯らし、下の枝は人が折り取って枯らし、中ほどの枝に蕾(つぼみ)のまま残っているその蕾のような、赤くつややかな少女を、さぁ、お前の妻にしたらよかろう) |
その後に、天皇はもう一首歌を歌った。
水溜る 依網(よさみの)池の 堰(ゐ)くい打ちが さしける知らに ぬなはくり 延(は)へけく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき |
(依網(よさみ)の池の堰(い)の杭を打つ人が、杭を打っていたのも知らないで、じゅんさいを取る人が手を伸ばしているのも知らないで、私の心はなんと愚かであったことか、今になってみると悔しいことだ) |
こう歌ってカミナガヒメをお与えになった。その少女を賜った皇太子はこう歌った。
道の後(しり) 古波陀(こはだ)嬢子(をとめ)を 雷(かみ)のごと 聞こえしかども 相枕まく |
(遠い国の古波陀の少女よ、雷のようにやかましく噂されていたが、今では手枕をして一緒に寝ていることよ)
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道の後 古波陀嬢子は 争はず 寝しくをしぞも うるはしみ思ふ |
(遠い国の古波陀の少女は、拒むことなく素直に私と寝てくれたことをすばらしいと思う) |
と歌った。
応神天皇が崩御した。父の命で山と海を管理していたオホヤマモリは、末弟のウヂノワキイツラコが皇位を継承するのに内心不満であった。オホヤマモリはひそかに兵を集め、弟を殺害しようと考えた。以前より兄の不満に気付いていた次兄オホサザキは、兄の謀反をいち早く察知した。オホサザキ様の使者から知らされたウヂノワキイツラコは、身代わりを立て備えた。自身は、賤しい身分の姿に変装し、舵をとって船の上に立っていた。そこへ、オホヤマモリがにたどり着き、船に乗ろうとした。ウヂノワキイツラツコは山の上にいるものと思い込んだオホヤマモリは、目の前の船頭がイツラツコだと全く気付かず、話しかけてきた。四方山話しているうちに宇治川の中ほどまで渡ってきた。細工されていた船が一気に傾き、オホヤマモリはあっという間に河に投げ出された。水面に浮かび上がったときに歌った歌は、
ちはやぶる 宇治の渡に 棹執りに
速けむ人し わがもこに来む
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(宇治川の渡し場に、棹を操るのに敏捷な人よ、私の味方に来ておくれ)
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オホヤマモリが死んだ後、オホサザキとワキイラツコは皇位を譲り合った。ところが、ウヂノワキイラツコが早く世を去ったので、オホサザキが第16代の仁徳天皇となって天下を治めることになった。
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オホヤマモリの命=大山守命、オホサザキの命=大雀命。ウヂノワキイツラコ=宇遅能和紀郎子。カミナガ姫=髪長比売。
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