仲哀天皇-神功皇后-応神天皇神話考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第14代仲哀天皇、神攻皇后、応神天皇を見ておくことにする。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


第14代、仲哀天皇の御世

【仲哀天皇譚】
 ヤマトタケルの御子のタラシナカツヒコが仲哀天皇となる。天皇の子が継いでいないことになる。
 仲哀天皇は日本武尊の第2子である。角鹿(現在の敦賀)に行幸して「行宮(かりみや)を興(た)てて住居とする。「これを笥飯宮(けひのみや)と謂す(もうす)」。それまでの歴代天皇の系譜は大和に本拠を置いていた慣例に反して角鹿宮を造ったことになる。

 ヤマトタケルの御子にして第14代の仲哀天皇は、仲哀天皇2年の2月、仲哀天皇と神功皇后は、揃って北陸に行宮(あんぐう)をつくり滞在していた。3月、天皇は一人南海道(紀伊半島から淡路、四国方面)に行幸していた。この時、九州の熊襲が反乱した為、征伐に向かった。神功皇后は、越の角鹿(つぬが、敦賀)のケ飯宮(けひのみや)に居た。報告を受け、九州に向かった。若狭を経て豊浦津(とようらのつ、山口県下関市)に着いた。ここで、海神(わたつみ)の如意珠(にょいたま)を手に入れ,穴門豊浦宮(あなたのとようらのみや)を建立した。神功皇后一行が関門海峡を渡ると、北部沿岸の首長たちが次々に恭順した。

 仲哀天皇は、筑紫(北九州)の香椎宮(かしいのみや)に拠点を設け、熊襲征伐を前に神おろしの儀式をするために琴を弾いていた。建内宿禰(たけうちのすくね)は神がおりてくる神聖な場所で控え、神託がくだるのを待っていた。見ると、仲哀天皇の后、オキナガタラシ姫に神がかり、神託を告げた。「仲哀天皇はなぜ熊襲の反乱を憂えているのか。熊襲は討つだけの価値の無い国なのに。西の方に新羅国がある。その国には金銀をはじめ、目もくらむような珍しい宝が多くある。私はその国を帰服させ、あなたに差し上げようと思う」。

 しかし、仲哀天皇は、この神託を信じなかった。「高いところに登って西の方を見ても国は見えない。ただ、海が見えるだけだ。そのような国があるはずがない。あなたは偽りをいう神だ。私を欺こうとしている。私は聞き入れない」。そういうと、天皇は琴を押し退けて弾くのをやめてしまった。怒った神は、「およそこのあめのした(天下)はお前が統治すべき国ではない」として、天皇に死(黄泉の国行き)を宣告した。天皇は進言を聞き入れて、そろそろと琴を引き寄せ、しぶしぶ弾きはじめたところが、まもなく琴の音が聞こえなくなった。不安になったタケウチノスクネがすぐに火をともすと、天皇はすでに事切れていた。

 こうして、第14代仲哀天皇(341-367)は熊襲征伐の陣中で、他界した。かく仲哀天皇の死が記されている。崇神朝の5代目天皇が仲哀天皇となる。中国で哀帝といえば王朝最後の代の皇帝に対する諡号にされている。歴代天皇で哀の字を含む諡号を持つのは彼だけである点も注目される。
 仲哀天皇の宮殿は、穴門の豊浦(山口県下関市)と筑紫の香椎(福岡県福岡市)と記されていて、熊襲の遠征のためとしるされてはいる。仲哀天皇は、熊襲征伐のため九州に行き、皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)が神がかりして、西の国をあたえると託宣した。しかし天皇は、託宣を無視して暗闇で琴を弾いていたところ突然死去している。
 香椎宮=。オキナガタラシ姫=息長帯日売。
 363年、仲哀天皇即位。

 西暦363-367年、神攻皇后(349-399)は、第十四代仲哀天皇と共に四年かけて九州討伐に乗り出している。

 366年、斯麻宿彌を派遣した。

 西暦366年、魏志倭人傳に記すところ、伊都國王は邪馬台国連合女王國の九州での「一大率」(行政監察官)であり、その伊都國王の五十跡手(いとで)が仲哀天皇を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した(日本書紀)。このとき、大和政権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と全ての加盟国について全貌を知った。

 366年、伊都國王は山口県下関で仲哀天皇に帰順して倭國の女王が山門郷・女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)の「八女津媛(やめつひめ)」(多世代の女王)であると自白。

 同年、仲哀天皇・神功皇后は先ず奴國に行宮を設営した(福岡市東区・香椎宮)。


 367年、第十四代仲哀天皇が崩御(享年52歳、現在の西暦(正歳四節暦)では26歳だったと考えられる)。仲哀天皇暗殺説もある。

 その年に、百濟王の使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝する。このとき新羅國の調(みつき)の使いも久氐と共にやって来た。神功皇后と皇太子の譽田別尊(第十五代應神天皇・そのとき乳児)は喜んで「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた(日本書紀/於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣 )。
 異聞があり次の通り。
 那智から新宮にかけての原住民が景行天皇軍に追われて北海道へ逃げた。古座川に原住民が残っていた。260年の春か夏頃、仲哀天皇と神功皇后が、残存原住民を退治しに串本の田原という所に来た。伊藤只人著の「紀州史備要」と小野寺直著の「大日本皇統譜とは」を参照する。

 260年12月14日、神功皇后は田原で誉田別命(ほんだわけのみこと)を産む。木の葉の褥(しとね)で産まれた事にちなんで田原の神社は「木の葉神社」となり、ねんねこ祭りを行っている。産まれた所の山の中腹には「宇佐八幡神社」が建っており「木の葉神社」の元宮である。

 261年2月6日、仲哀天皇は原住民との戦いで矢傷を受け死亡し、近くの下里古墳に葬むられる。誉田別命が生まれて53日後に死んだことになる。ある史家は武内宿禰の子だと書いていたり、仲哀天皇が死んだ後に生まれたとか書いているが、そんな事はないだろう。なお、下里古墳が仲哀天皇の墓だと言えるのは
前方後円墳であり、ヤマト朝廷に関係ある天皇にしか造られない古墳である事。その古墳に石室があり、人を埋めた古墳である事。天皇などの指導的立場だけが持つ玉杖の一部が出土している事。古墳が造られた年代が仲哀天皇の死んだ年代と合う事。その古墳の上には「八幡神社」が祀られていた。八幡神は仲哀天皇の子の応神天皇の事であるから、父の墓にその子の八幡神を祀るのは、理にかなっている。

 古事記に仲哀天皇が九州で死んだとか、神功皇后が新羅遠征の帰りに誉田別命を生んだとか書かれている。しかし史家の間では否定されている。不比等らが、仲哀天皇がまさか原住民に殺されたとは書けないので、この様なウソの記述を書いたと推理されている。熊野の歴史が正史である。この戦いで原住民は降伏し、沖縄へ逃げた。だから、アイヌ人と沖縄の人は風貌や習慣がよく似ているのである。

 誉田別命は9歳まで田原で育てられていたが、神功皇后が死亡したので、武内宿禰が迎えに来てヤマトへ連れて行く。その様子を再現したのが、大島の「水門(みなと)神社の祭りに行われる櫂伝馬競争である。水門神社や木の葉神社の祭神は誉田別命である。

【神攻皇后譚】
 西暦366年、伊都國王・一大率(女王國・倭國の行政監察官)の五十跡手(いとで)が第十四代仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した(日本書紀)。
 西暦367年、夫(仲哀天皇)を失った神功皇后は、橿日(かしひ)宮(福岡市東区)から松峽(まつを)宮に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。神功皇后は直接山門郷の女王山(福岡県みやま市瀬高大草)へ行き、女王山の八女津媛を土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめとして誅殺した(日本書紀)。「たぶらつ」とは「たぶらかしの」という意味で、大和政権から見て呪術者(シャーマン)・八津媛に対する蔑称であった。これら以降、地域では大和政権に遠慮して女王山を「女山(ぞやま)」とよぶようになった。田油津媛(最後の八女津媛)の墓は明治時代まで「女王塚」と呼ばれたが、明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像入りの紙幣が発行されると地域では明治政府に遠慮して、これを「蜘蛛塚(くもづか)」と改称し、現在に至る。
 日本書紀を編纂した舎人親王らは、卑彌呼の名前を一切出さず、神功皇后(349-399)について一部を「120年(干支二巡)」繰り上げて記述することによって、魏の景初三年(西暦 239年)にあたかも神功皇后が倭國の女王として難斗米(なしめ)を魏の都(洛陽)に派遣し、皇帝に朝献させたかのように書いている。正始元年(西暦 240年)に魏の皇帝があたかも梯携を倭國に派遣して詔書と印綬を届けたかのように書いている。日本書紀の「神功皇后紀」は卑彌呼の功績を神功皇后の功績であったかのように次のように記述している。
 「卅九年是年也太歲己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」。
 タケノウチノスクネとともに軍を率いて、新羅を攻め これを征服して帰還した。(この部分は朝鮮や中国の文書と照合しても疑問が多く、皇后架空説もふくめて各説があ。)皇后は、出発時妊娠していて帰還後宇美(福岡県)で、ホムダワケを生み、この御子が後に応神天皇となった。

 タケウチノスクネは、仲哀天皇の遺体を殯宮(あらきのみや)に移し、国中から大祓(おおはらい)のための幣帛(みてぐら)を集めて、国家的な大祓の儀式を行い、再び神おろしの神託を行った。後継は、オキナガタラシ姫のお腹にいる御子と決まり、「これは天照大神の心だ。また、底筒神、中筒神、上筒神の三柱の大神だ。今、本当に西の国を求めようと思うならば、天つ神、国つ神、山の神、川の神、海の神をはじめ諸々の神々にことごとく幣帛を奉れ」とのご託宣が下された。

 オキナガタラシ姫が神攻皇后となり、福岡県甘木市付近に進出し、一気に筑後川を渡り、山門郡に侵攻し、土蜘蛛の女首長・田油津姫を征伐した。征討を終えた後、香椎宮に戻り、新羅(しらぎ)征伐を準備し始めた。「和魂が王の身を守り、荒魂が先鋒として軍船を導くと神が皇后に教えられた」。

 神意により、三韓征伐の軍を率いて和珥津(わにつ)を出発し、玄界灘を船で進み、対馬海流を乗り切り、朝鮮半島の新羅へ攻め入った(海を渡り西の国へ攻め入った)。軍船が海峡を渡ろうとすると、風神は風をおこし、海神は大波をあげてこれを助けた。神功皇后は、労せず新羅に侵攻した。新羅(しらぎ)国の王がやって来て、 「東に神国あり、日本と云う、又、聖王います、天皇と云うと聞いております。その神威に対して兵力で防ぐことはできません。今後は天皇のご命令通りに従い、貢物を奉りお仕えしたいと思います」と帰順した。皇后は、持っていた杖を新羅の国王の家の前に突きたて、「これも全て住吉三神のお陰です。すぐに荒御魂を、国をお守りになる守護神としてお祭りするように」と言い渡した。高句麗や百済も、新羅降伏のありさまをみて、戦意を失ない、朝貢を申し出た。ここに三韓が、ことごとく皇后に服することになった。

 神攻皇后が海を渡って日本へ帰ろうとした折、産気づいた。日本で御子を産む意志を持つ皇后は、産気づいたお腹を鎮めようと、石を取って着物の腰につけ、出産を抑えた。こうして、筑紫国に帰り、御子は生まれた。その地を宇美と名付けた。 

 後継騒動が起った。仲哀天皇の息子のカゴサカノミコとオシクマノミコが皇位を狙った。御子は邪魔な存在でしかなかった。そこで、誓約狩(うけひがり)をすることになった。狩りの最中、怒り狂った大きなイノシシが突如現れ、カゴサカノミコの登っているクヌギを掘り倒した為、逃げ遅れたカゴサカノミコはイノシシに食い殺されてしまった。皇后は喪船で帰朝し始めた。オシクマノミコは単独で軍勢を集め皇后を待ちうけた。皇后軍とオシクマノミコ軍が戦い、皇后方が優勢になり、オシクマノミコ軍は山城まで撤退した。ここで体勢を立て直し、激しく反攻してきた。

 タケフルクマの命が一計を案じた。神功皇后の使者となり、御子が亡くなったことを伝え、降伏することを申し出た。使者の指差す方を見ると、皇后方の兵は手に持っていた弓のつるを切ってまさに降伏しようとしていた。オシクマノミコは騙され、弓のつるを取り外し無防備になった。その一瞬の油断を見逃さず、タケフルクマの命が命令を下した。その掛け声とともに、皇后軍が攻めてきた。降伏したとばかり思っていた皇后軍が突然弓を放ってきたことを驚いたオシクマノミコは、逢坂(おうさか)まで逃げ延びたが多くの兵が討ち取られてしまった。かろうじて船に飛び乗ったオシクマノミコであったが、ついに追い詰められてしまった。

 いざ吾君(あぎ) 振熊が 痛手負はずは ニホドリの 淡海(あふみ)の海に 潜(かづ)きせなわ

 (さぁ、君よ。フルクマのために痛手を負うよりは、淡海の海に潜って死んでしまおう)

 と歌い、湖に身を投げて死んでしまった。

 神功皇后は、新羅を平定し、北部九州に戻って御子(後の応神)を産む。瀬戸内海を東行路で大和に戻り、摂政となって君臨した。

 タケウチノスクネは、御子をつれて禊(みそぎ)を近江(滋賀)および若狭国(福井)を巡歴した後、越前国(福井)の敦賀に仮宮を造ってそこに住まわせた。そのときに、御子は夢を見た。夢の中で一人の神が現れた。「私はイザワケの大神である。私の名前と御子の御名を変えたいと思うがどうか?」。「今後はイザワケの大神をミケツオオカミ(御食つ大神)とお呼びしよう」。この神が今の気比大神である。また、傷ついたイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を血浦と名づけたが、今は角鹿(つぬが)と呼んでいる。

 カゴサカノミコ=香坂王。オシクマノミコ=忍熊王。タケフルクマの命=建振熊命。イザワケの大神=伊奢沙和気大神。ミケツ大神=御食つ大神)
 概要「日本書紀の神功皇后紀によれば、西暦246年、神功皇后が加羅(朝鮮半島)の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣している(遣斯摩宿禰于卓淳國)。この年は百済王の名前などから本居宣長(1730-1801)によって120年(現在の干支二巡)繰り上がっていることが指摘されている。明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ 1851-1908)も同じことを指摘している。これに従えば、斯麻宿彌を派遣したのは西暦366年になる。翌367年、百濟王の使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝している。このとき新羅國の調(みつき)の使いも久氐と共にやって来ている。神功皇后と皇太子の譽田別尊(應神天皇・そのとき乳児)は喜んで、「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えている(於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣)。この西暦367年が仲哀天皇崩御の年である。 日本書紀の春秋暦では、第14代仲哀天皇は52歳で崩御している。これを現在の正歳四節で換算すると、その半分の26歳になる。崩御が西暦367年なので仲哀天皇の生年は西暦341年になる。日本書紀の春秋暦では、仲哀天皇の在位期間は現在の正歳四節暦で四年間になる。即位は西暦363年になる。この年の前年がその前の第13代成務天皇の崩御年である。成務天皇は第12代景行天皇の崩御の年に即位している」。

第15代、応神天皇の御世

【第15代、応神天皇譚】
 応神天皇は軽島の明の宮を宮殿としたが、九州から難波に進むまでに、仲哀天皇の異腹の王子たちとの戦いもあった。また、応神天皇も多くの王子を生んだが、後継者争いの戦いが起こり、ホムダノマワカの娘のナカツヒメの生んだオホサザキが、次の仁徳天皇となる。応神天皇の妊娠期間が通常より長いことから、仲哀天皇の子供ではないとする説もあり。ここでも、王朝交代があったのではないかとされている。
 記紀は十五代応神天皇(譽田尊)は仲哀天皇の御子としているが、仲哀天皇の后とする気長足姫尊(神功皇后)摂政前紀(仲哀天皇9年9-10 月条)に、新羅に遠征しようとする前、「皇后は産み月にり腰に石をはさんで祈り、事終えてから生まれた云々。皇后、新羅より帰り・・12月14日に譽田尊(応神)は筑紫で生まれましぬ」と記している。産み月になって二ヶ月もお産を延ばしたと云う。原田常治氏は、応神は建内宿禰と気長足姫尊(神功皇后)の御子であろうと云う。また金容雲氏は、記紀の記述と日韓語の成り立ちを傍証として、15代応神天皇は百済からの渡来人だと云う。
 應神天皇十四年(事実であったとして西暦 408年)、日本書紀は「是歳弓月君自百濟來歸因以奏之曰臣領己國之人夫百廿縣而歸化」と記している。朝鮮半島の弓月王が百二十県の人びとを率いて帰化し、秦氏となった云々。秦氏は平安京の建設に尽力し、稲荷信仰や八幡信仰を興し、養蚕、織物、土木技術、鉄や銅の採鉱・精錬、薬草なども広めた。
 このことを、景教の東伝史に関する研究で国際的に著名な佐伯好郎(1871-1965)は「太秦(禹豆麻佐、うずまさ)を論ず」(地理歴史第百号 1908年)で、秦氏は中央アジアの弓月にいた民族で、景教(ネストリウス派キリスト教)に改宗したユダヤ人であると述べた。こ仮説が初期の「日ユ同祖論」として明治時代の日本で独り歩きした。佐伯好郎は生前、歴史学者の服部之総(1901-1956)に対して「(北海道開発のためには)在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と述べている。佐伯好郎の「秦氏=ユダヤ人」の着想は、政治的・功利的な企画によるもので(服部之総『原敬百歳』中公文庫 1981年 原文は『図書新聞』1954年10月)、論の真否は別のものである。
 第15代応神天皇(在位270年~310年)の御代、朝鮮半島より渡来人がたくさんやってきた。秦氏の祖である弓月の君もこの時代に来日してきた。これにより渡来人の技術が多数導入されている。新羅の堤池築造、百済の馬、太刀、大鏡、論語、韓の鍛冶 呉の機織り、酒造などで、秦氏や漢氏の祖も渡来したとある。ここで、実年と関係した記述として百済の照古王(西暦346-375)が馬等を奉ったとされている。
 応神天皇9年4月、竹内宿禰が筑紫に派遣され、民情を視察していた。この時、宿禰の弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、「竹内宿禰が天下を狙っています。筑紫で謀をしており、朝鮮半島の三韓を招きいれ、天下乗っ取りを計画しています」と讒言した。これを聞いた応神天皇は、使者を遣わして竹内宿禰を殺させようとした。竹内宿禰は嘆き悲しんでいたところ、竹内宿禰とそっくりな壱岐の直(あたい)の祖・真根子が身代わりになって自刃した。竹内宿禰は密かに筑紫を抜け出し、大和に入った。そこで、深湯(クガタチ)によって無実を証明した。竹内宿禰が甘美内宿禰を斬り殺そうとしたが、天皇の勅により放免され、紀直(きのあたい)の祖に隷民として授けられた。

 応神天皇には三人の息子がいた。上からオホヤマモリの命、オホサザキの命、ウヂノワキイツラコである。或る時、応神天皇は、オホヤマモリとオホサザキに、「お前たちは年上の子と年下の子ではどちらがかわいいと思う?」と尋ねた。長兄のオホヤマモリは、「年上の子がかわいいと思います」と答えた。オホヤマモリが答える姿を見たオホサザキは、父上はウヂノワキイツラコを後継者にしたいのではないか?と推量し、天皇の意向に逆らわないように「年上の子はすでに大人になっているのでそれほど気がかりもありません。しかし、年下の子はまだ大人になっていないので、こちらのほうがかわいいと思います」と答えた。応神天皇は、「オホサザキよ。そなたが行ったことはわしの思っている通りだ」と褒めた。この発言を踏まえて三人の子の任務を与えた。「オホヤマモリよ、そなたは山と海の部を管理しなさい。オホサザキは私の統治する国の政治を執行して報告しなさい。ウヂノワキイツラコは皇位を継承するように」。こうして、次男オホサザキは応神天皇の意に背くことはなかった。

 或る時、応神天皇は日向の国のモロガタの君の娘、カミナガ姫の容貌がみめ麗しいと聞き、側に仕えさせようと呼び寄せようとした。オホサザキは少女を乗せた船が難波津に着いたと聞いて見に行った。少女のあまりの美しさに感動したオホサザキは結婚したくなり、タケウチノスクネのところに相談に行った。タケウチノスクネはオホサザキの願いを聞き入れ、天皇にその旨伝えた。まだ、姫を見ていない天皇は皇子の願いを快く認めた。新嘗祭の当日、天皇はヒメにお酒を受ける柏を持たせ、皇太子にお与えになった。そのとき天皇は歌を歌った。

 いざ子ども 野蒜(ひる)摘みに 蒜摘みに わが行く道の 香ぐはし 花橘は 上枝(はつえ)は 鳥居枯らし 下枝(しづえ)は 人取り枯らし 三つ栗は 中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)を いざさらば 宜らしな  
 (さぁ、皆の者よ、野蒜を摘みに行こう。野蒜を摘みに行く道の、香りのよい花橘は、上の枝は鳥が止まって枯らし、下の枝は人が折り取って枯らし、中ほどの枝に蕾(つぼみ)のまま残っているその蕾のような、赤くつややかな少女を、さぁ、お前の妻にしたらよかろう)

 その後に、天皇はもう一首歌を歌った。

 水溜る 依網(よさみの)池の 堰(ゐ)くい打ちが さしける知らに ぬなはくり 延(は)へけく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき
 (依網(よさみ)の池の堰(い)の杭を打つ人が、杭を打っていたのも知らないで、じゅんさいを取る人が手を伸ばしているのも知らないで、私の心はなんと愚かであったことか、今になってみると悔しいことだ)

 こう歌ってカミナガヒメをお与えになった。その少女を賜った皇太子はこう歌った。
 道の後(しり) 古波陀(こはだ)嬢子(をとめ)を 雷(かみ)のごと 聞こえしかども 相枕まく

 (遠い国の古波陀の少女よ、雷のようにやかましく噂されていたが、今では手枕をして一緒に寝ていることよ)

 道の後 古波陀嬢子は 争はず 寝しくをしぞも うるはしみ思ふ
 (遠い国の古波陀の少女は、拒むことなく素直に私と寝てくれたことをすばらしいと思う)

 と歌った。

 応神天皇が崩御した。父の命で山と海を管理していたオホヤマモリは、末弟のウヂノワキイツラコが皇位を継承するのに内心不満であった。オホヤマモリはひそかに兵を集め、弟を殺害しようと考えた。以前より兄の不満に気付いていた次兄オホサザキは、兄の謀反をいち早く察知した。オホサザキ様の使者から知らされたウヂノワキイツラコは、身代わりを立て備えた。自身は、賤しい身分の姿に変装し、舵をとって船の上に立っていた。そこへ、オホヤマモリがにたどり着き、船に乗ろうとした。ウヂノワキイツラツコは山の上にいるものと思い込んだオホヤマモリは、目の前の船頭がイツラツコだと全く気付かず、話しかけてきた。四方山話しているうちに宇治川の中ほどまで渡ってきた。細工されていた船が一気に傾き、オホヤマモリはあっという間に河に投げ出された。水面に浮かび上がったときに歌った歌は、

 ちはやぶる 宇治の渡に 棹執りに 速けむ人し わがもこに来む

 (宇治川の渡し場に、棹を操るのに敏捷な人よ、私の味方に来ておくれ)

 オホヤマモリが死んだ後、オホサザキとワキイラツコは皇位を譲り合った。ところが、ウヂノワキイラツコが早く世を去ったので、オホサザキが第16代の仁徳天皇となって天下を治めることになった。

 オホヤマモリの命=大山守命、オホサザキの命=大雀命。ウヂノワキイツラコ=宇遅能和紀郎子。カミナガ姫=髪長比売。


【倭の五王】
 478年、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
 概要「歴代倭王は、身に甲冑を纏いて山川を踏渉し、東は毛人の55カ国を征し、似士は衆夷の66カ国を服し、渡りて海北の99カ国を平らげて、土を拡め畿(くに)を遥かにした云々」。




(私論.私見)