大和王朝のかまど神話考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大和王朝の建国神話から転じて仁徳天皇以降を「かまど神話」と銘打って考察することにする。これを漠然と追跡しても意味がない。眼目は、「国譲り後遺症」とも云うべき事象を追跡していくことにある。そのように解析できていないが、今後追々に書きなおしていくことにする。

 2006.12.24日 れんだいこ拝


第16代、仁徳天皇の御世

【第16代、仁徳天皇即位】
 応神天皇没後は、3人の兄弟が相争いオホサザキが後を継ぎ仁徳天皇となる。

 神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日。第16代天皇としての在位は仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日。古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁徳天皇の崩御が西暦427年となり、その間が在位期間となる。

 応神天皇の皇子。母は皇后仲姫(なかつひめの命)。実名は古事記では大雀命(おほさざきのみこと)、日本書紀では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)。応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、仁徳の異母弟)皇子と互いに皇位を譲り合う中、 異母兄の大山守おおやまもり皇子が皇位を狙い兵を挙げた。これを鎮圧した後も仁徳が固辞したため、太子は自ら命を断って即位を促したという。難波に高津宮(現・大阪市中央区法円坂町)を営み、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ命)を皇后として、履中、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の三天皇をもうけた。彼女の死後,仁徳の異母妹八田皇女が皇后に立てられたと云う。皇居は難波高津宮(大阪市東区か)。百舌鳥耳原中(もずのみみはらのなか)陵に葬られた。大阪府堺市大仙町の大仙(だいせん)古墳にあてられているが、時期的にあわないとする見解がある。

 第16代仁徳天皇(在位313年〜399年)と共に応神天皇は、聖王として伝えられている。「日本書紀」(宇治谷孟の訳による)の仁徳天皇の巻には、「高殿に登って遙かに眺めると、人家の煙があたりににられない。これは人民たちが貧しくして、炊ぐ人がないのだろう。…今後3年間すべての課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」。三年後、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」。とあり、古代天皇の理想像として描かれている。埼玉県行田市の稲荷山古墳より1968年に出土した刀剣銘に「ワカタケル大王」とあり、オワケ臣が「天下を佐治(大王の統治を補佐)したとある。熊本県菊水町の江田船山古墳出土の刀銘も「治天下ワカタケル大王」と読めるとされている。このワカタケル大王こそ、雄略天皇であるとされている。

 「武」は、宋の皇帝にあてた上表文の中で、北朝鮮の高句麗の非道を訴え、我が先祖は苦労して、朝鮮半島の95国を平定したとのべている。日本書紀によると高句麗ではないが、実際に新羅に出兵している。但し、日本書紀の天皇に関する記事と、中国史書に名を残す5世紀の「倭の五王」に関する記事とは一致点は少なく、まったく無関係であるということもあり得るかもしれない。

 「天皇は、自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺されることも多かった。天下の人はこれを誹謗して『大へん悪い天皇である』といった。」とある。暴虐な天皇とされているが、「天皇がお生まれになった時、神々しい光が御殿に充満した。生長してからそのたくましさは人に抜きんでていた」ともある。万葉集の冒頭にも暴君とは結びつかないおおらかな君主としての歌が掲載されている。むしろ名君ではなかたったか。なお、分散していた機織の民の代表である秦氏をまとめて、天皇の直轄にしたとある。

【仁徳天皇譚その1、民のかまど】
 仁徳天皇の「民のかまど譚」が次のように記されている。(「歴史街道を行く」の「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」その他参照)
 「第16代の仁徳天皇は、難波の高津宮で天下を治めた。秦人の力を借りて堤防を作り、池を作り、運河を堀り、港を設ける等、内治に精励した。仁徳天皇4年のある時、天皇は高山に登り四方の国土を眺めた。民が食事の際に立てる炊煙が全く見えなかったことを悲しみ、『民のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しくて炊くものがないからではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう』と仰せられ、『向こう三年、税を免ず』と詔(みことのり)された。これにより民に課せられていた税と夫役が免除された。

 それからというものは天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もせず、器で雨漏りを受け雨漏りのしない場所に移るなどして生活された。星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍ばれた。この間、民は豊かになった。三年立ったある日、天皇が高台に出られて国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。天皇は、かたわらの皇后に申された。『朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ』。『変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだといえるのですか』。『よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから朕も富んだことになるのだ』。天皇はニッコリとこう申された。

 その頃、諸国より次のような申し出が相次いだ。『宮殿は破れているのに民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に税を献じ宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります』。天皇はそれでも引き続き三年間、税を献ずることをお聞き届けになられなかった。六年の歳月がすぎ、『もう税と夫役を課してもよかろう』と詔された。その時の民の有様を日本書紀は次のように生き生きと伝えている。『民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る』。その御世を讃えて、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と呼んだ。仁徳天皇の治世は仁政として知られ、『仁徳』の漢風諡(し)号はこれに由来する」。
(私論.私見)
 「民のかまど譚」をそのまま素直に理解するのも良い。但し、れんだいこは、国譲り以来、大和王朝は善政を義務付けられており、その統治能力が問われており、仁徳天皇がそれを請けてこのように采配したと云う史実として受け取る。別稿「れんだいこの天皇制論」に記す。

 2012.3.12日再編集 れんだいこ拝

【仁徳天皇譚その2、吉備のクロ姫】
 仁徳天皇には妃に関する面白い伝説が多くある。これに関連して葛城氏が勢力を伸ばしたようである。仁徳天皇は難波の高津に宮殿があったようである。仁徳天皇の後は、皇后である葛城氏のイハノヒメの子供たち兄弟 イザホワケ(履中天皇)、ミヅハワケ(反正天皇)、オアサツマワクゴノスクネ(允恭天皇)が相次いで天皇となる。兄弟継位の始まりである。イザホワケが履中天皇で427−432年、ミヅハワケが反正天皇で432−437年、オアサツマワクゴノスクネが允恭天皇ではないかとされている。いずれも死没して譲位している。
 仁徳天皇の「吉備のクロ姫譚」が次のように記されている。

 仁徳天皇の皇后のイハの姫の命は大変嫉妬深かった。或る時、仁徳天皇は容姿端麗な吉備国のクロ姫を召し上げた。しかし、イハの姫の凄まじい嫉妬を恐れたクロ姫は故郷の吉備国へ逃げ帰ってしまった。クロ姫が船に乗って難波の海に浮かんでいると伝えきいた仁徳天皇は、 高殿に登り、遠くから船をながめ、歌った。

 沖方(へ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづ子我妹(わぎも) 国へ下らす
 (沖のほうには、小舟が連なっているのが見える。いとしい我が妻が、故郷に下っていくことよ)

 天皇の歌を聞いたイハの姫は怒りに身を震わせ、クロ姫を船から追い降ろして、陸上を歩いて追い返してしまった。天皇は、クロ姫が恋しく、淡路島を見に行くと出かけた。淡路島で、はるか遠くをながめて歌を歌った。

 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 オノゴロシマ アヂマサの 島も見ゆ さけつ島見ゆ

 (難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島やオノゴロシマ、またアジマサの島も見える。サケツ島も見える)

 そして、淡路島から島を伝ってクロ姫のいる吉備国を訪れた。天皇が訪ねてくれたうれしさで胸いっぱいのクロ姫は、天皇を山畑のところに案内して、ごちそうした。青菜を摘みに行こうとしたクロ姫の後を追っていった天皇はこう歌を歌った。

 山県に 蒔(ま)けるあをなも 吉備人と 共にしつめば 楽しくもあるか
 (山畑にまいておいた青菜も、吉備のクロヒメといっしょに摘むと楽しいことだ)

 数日後、いよいよ都に帰らなければならなくなった天皇に対してクロ姫は歌った。

 倭(やまと)方(へ)に 西風(にし)吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居りとも 我忘れめや

 (大和のほうへ西風が吹き上げて、東のほうに雲が離れていくように、あなたから遠く離れていても、わたしはあなたを忘れはしません)
 倭方に 往(ゆ)くは誰(た)が夫(つま) 隠(こも)りづの 下よ延へつつ 往くは誰が夫
 (大和のほうへ向かっていくのは誰の夫でしょう。ひそかに心を通わせて、通って行くのは誰の夫なのでしょう)
(私論.私見)
 仁徳天皇の「吉備のクロ姫譚」は、大和王朝と吉備王権との交流を物語っていると拝する。
 イハの姫の命=石之日売命。クロ姫=黒日売。

【仁徳天皇譚その3、妃の実家帰り】

 仁徳天皇は大后が紀伊国に行っている間に、ヤタノワキイツラ女と同衾した。そんなこととは露知らず、大后は船一杯に御綱柏を積んで都に戻ろうとしていた。この時、仁徳天皇の浮気を知らされた。大后は大いに怒り、天皇を怨み、船に乗せてあった御綱柏を全部海に投げ捨ててしまった。皇居には戻らず、山代国に向かったて。この時、歌を歌った。

 つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の辺に 生ひ立てる 鳥草樹(さしぶ)を 鳥草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる 葉広ゆつ真椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも
 (山代河をさかのぼって私が上って行くと、川のほとりに生い立っている鳥草樹(さしぶ)よ。鳥草樹の木、その下に生い立っている葉の広い神聖な椿、その花のように照り輝いておられ、その葉のように広くゆったりとしておられるのは、わが大君であるよ)

 そして、山代をめぐり、奈良山の入り口について、こう歌った。

 つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり
 (山代河を宮をめざして私がさかのぼっていくと、奈良を過ぎ、大和を過ぎて、私が見たいと思う国は、葛城高宮、私の家のあたりです)

 かく詠った皇后は実家に戻ってしまった。そのことを聞いた仁徳天皇は人を遣わし、歌を送った。

 山代に い及(し)け鳥山 い及けい及け 我が愛(は)し妻に い及き遭はむかも
 (山代で皇后に追いついておくれ、鳥山よ。追いつけ、追いつけ。私のいとしい妻に追いついて会っておくれ)

 それでも皇后が戻らないと見るや、さらに人を遣わした。

 みもろの その高城なる 大韋(ゐ)古(こ)が原 大猪(ゐ)子が 腹にある 肝向ふ 心をだにか 相思はずあらむ

 (みもろ山の高い所にある大猪子が原、その名のとおり、大きな猪の腹にある肝せめて心にだけでも、私を思っていてくれないものだろうか)

 さらに、歌を歌いなんとか皇后に戻ってもらおうとした。

 つぎねふ 山代女(め)の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕(ただむき) 枕(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ
 (山代の女が木の鋤を持って打ち耕して作った大根、その大根のように白い腕を私が枕としなかったのならば、私を知らないといってもよいだろう) 

 それでも皇后は天皇のもとには戻らなかった。

 天皇の使者口子が皇后の実家に派遣された。雨だった。雨脚が強まり、豪雨になっても口子は戸口で平伏して皇后の返事を待った。 あまりの豪雨に庭にたまった雨水が腰までつかってしまっていた。そして、口子は赤い紐をつけた青色の服を着ていたが、庭にたまった水が赤い紐を浸し、青い服が真っ赤に染め上がってしまった。皇后のクチ姫にして、口子の妹はこう歌った。

 山代の 筒木の宮に 物申す 我が兄(せ)の君は 涙ぐましも
 (山代の筒木の宮で、皇后に物を申し上げようとしている私の兄君を見ていると私は涙がこぼれそうです)

 口子、口日売、およびヌリノミの三人はどうすれば皇后が天皇の元に戻るかどうかを話し合った。相談の後、クチコは天皇の元に戻り、こう報告した。 「皇后がここを出て行った訳ですが、ヌリノミの飼っている虫で、一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は飛ぶ鳥になり、三色に変化する不思議な虫がいます。皇后はこの虫を見に行ったに違いありません」。「そうか、そんなに不思議な虫ならば私も見に行こうと思う」。こうして皇居から川をさかのぼってヌリノミの家に入り、あらかじめヌリノミから三色に変わる虫をもらった皇后のいる部屋に向かった。 「こちらにその虫がございます」。「そうか」。そういうと全てを察した天皇はこう歌った。

 つぎねふ 山代女(め)の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝(な)が言へせこそ うち渡す やがはえなす 来入り参来れ
 (山代の女が、木の鍬を持って、耕して作った大根、その色つやのさわさわではないが、さわがしくあなたが言いさわがれるので、遠くに見渡されるよく 茂った桑の枝のように、多くの供人を引き連れてやってきたのです)

 こうして皇后は天皇の元に戻っていった。

 ヤタノワキイツラ女=八谷若郎女。クチ姫=口日売。


【仁徳天皇譚その4、ハヤブサワケとメドリの心中事件顛末】

 或る時、仁徳天皇は、異母兄弟のハヤブサワケに異母妹であるメドリとの婚儀の使者を命じた。しかし、メドリは、大后の気性の激しさを理由に断った。「私は兄上様と結婚しとうございます」。こうして、ハヤブサワケは天皇のもとに復命せず、メドリと結婚した。使いに出したハヤブサワケが一向に帰ってこないので、しびれをきらした仁徳天皇は自らメドリの元に赴いた。そのときメドリは機(はた)に腰をかけ、衣服を織っていた。「今、あなたが織っているのは誰の衣服なのでしょう」。「いとしいハヤブサワケのです」。仁徳天皇はメドリの気持ちが分かったで、そのまま宮中に帰った。

 天皇の命令を無視してしまったハヤブサワケは少し後悔の念が残っていた。「何を悩んでいるのですか。あなたは皇位も狙えるお立場のはず。いっそのこと天皇を殺して、あなたが王位につかれたらいいのではないですか」。このことが天皇の耳に入ったらわしらはきっと殺されるぞ。「ひばりは空を翔けあがります。あなたもそのように空を翔けあがるハヤブサの名をもった男です。あのサザキの名を持つオホサザキの命を取り殺してしまうのです」。こうして天皇を殺す計画をたてた二人であったが、その企みはすぐに露見し、怒った天皇は軍勢を二人のもとに派遣した。危険を察知したハヤブサワケはすぐさまメドリとともに倉椅山(くらはしやま)に登った。しかし、ついに天皇の追っ手に見つかってしまった。二人は宇陀の曾爾(そに)という場所で殺されてしまった。


 天皇より追討将軍に任命されたヤマベノオホタテノ連は、二人が殺された場所にむかった。殺された二人はしっかりと手を握っていた。
元主人に対して何の感慨も持たないヤマベノオオタテはメドリノミコの手に注目した。それは玉で作った見事な腕輪だった。メドリノミコの死体から腕輪を抜き取った。

 それから月日が流れ、あるとき宮中で酒宴が開かれることになり、各氏族の女ちがみな参内した。このときヤマベノオオタテの妻は、夫からもらった玉の腕輪を巻いてでかけた。皇后のイハの姫は自ら大御酒(おおみき)を盛った杯の柏の葉を取り、各氏族の女たちに与えた。(おや? あの玉の腕輪は?)。メドリノミコの腕輪を知っている皇后は、オホタテノムラジの妻がその腕輪をしているのを怪訝に思った。「あなたにはこの柏はあげることはできません。すぐに退席するように」。なぜ、皇后が自分に退席を命じたのか事情が分からずにとまどうオホタテノムラジの妻を尻目に、皇后はすぐさまその夫、オホタテノムラジを呼び出した。

 皇后が何の理由で自分を呼んだか分からないオホタテノムラジは、黙って立っている皇后に恐れを抱いた。突然、皇后の口からメドリノミコの名が出た。言葉が出ないオホタテノムラジ。 「しかし、お前は自分の主君の手に巻いてあった玉の腕輪を、まだ肌にぬくもりがあるうちにはぎ取ってきて、それを妻に与えるとはどういうことです!」。「その罪を許すことはできません。この者をすぐに死刑にいたしなさい」。こうして、オホタテノムラジは死をもってその罪をつぐなうことになった。

 ハヤブサワケ=速総別王、隼別皇子。メドリ=。ヤマベノオホタテの連=山辺大楯連。





(私論.私見)