れんだいこの天皇制論その1、歴史論総論 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2005年現在、小泉政権の下で「皇室典範にかんする有識者会議」が開かれ、「女帝を認める皇室典範改正案」の論議が関心を呼びつつある。この辺りで、天皇制論をしておきたい。天皇制論は、天皇及びその側近による政治の特質論と天皇制官吏機構の三面から考察されねばならない。その上で、歴史的な歩みが検証されねばならない。そういう意味で、1・政治論、2・機構論、3・皇統譜、4・王制の比較研究の4視点から解析していくことにする。 2005.11.18日 れんだいこ拝 |
【既成の天皇制論検証】 | |||
「マルクス主義同志会」の機関紙「海つばめ」(1003号2005年11月13日)が、「戦力の不保持から“軍国主義”へ」と題して天皇制論をサイトアップしている。これがいわゆる左派の天皇制論だと思われ、れんだいこのそれと余りにもかけ離れているので、左派理論の正系を問うためにれんだいこコメントを付けて検証する。
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れんだいこのカンテラ時評№1203 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 1月 7日 | |
れんだいこの天皇制論その1、「民のかまど論」 「2014たすけあい党新年声明」で大胆な天皇制論を発表した。今のところ何の反応もないが、独りれんだいこにはブリがついたので、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」をも世に問うておく。「民のかまど論」は普通には仁徳天皇の善政譚として知られているものである。れんだいこの「民のかまど論」は少し違う。これを説明する前に「仁徳天皇の善政譚としての民のかまど論」を確認しておく。
この逸話を「民のかまど譚」と云う。ここまでは普通に知られている。れんだいこは、ここから更に次のように話しを進める。 この逸話の重要性は、これが仁徳天皇の御代のものではあるが、この精神が歴代の天皇の治世を規範せしめていたことにある。よしんば、「民のかまど譚」とほど遠い履歴を見せる天皇が現われたとしても、「民のかまど譚」をもって諌めると云う意味で、やはり歴代の天皇を規制していたと云わざるを得ない。これが日本的天皇制論の骨格の一つである。それは、日本の天皇制が本質的に善政のものであり、他の諸国家の王制と比して一味違うものとなっていることを示唆している。 これだけの主張では「民のかまど譚」の凄みが半分でしかない。「民のかまど譚」の本当の凄みは、仁徳天皇により発したとされているこの歴代天皇の治世精神が実は仁徳天皇に発したのではなく、仁徳天皇も又それ以前からの歴代天皇の治世精神であったものに従ったに過ぎず、それほど古くから日本の統治者の治世を規範化する精神であったことにある。 ならば、それはいつ頃からのものかと問えば、ここで、れんだいこ史観の一つである「原日本論新日本論」が教えてくれる。それによれば、この善政は、日本に統治者が現われた頃の始発からのものであると云わざるを得ない。日本の統治者がそもそもに於いてよりそれほどの善政志向であったと云うのは戯画的のように思える。そんなに立派な支配者が世界中のどこに居るやとの反論が聞こえる。れんだいこは、日本の政治の始発はこれより始まったと真顔で答える。そう思わない者とは水掛け論になるだろうがマジにそう考えている。 れんだいこのそういう見立てを補強するのに古史古伝の一書である「ホツマ伝え」がある。ここでは「ホツマ伝え論」そのものの解析は控えるが、要するに大和王朝前の時代の政体を描写した日本上古代史書の一つであり実書の確率が高い。それが証拠に記紀のように万葉仮名ではなく、漢字渡来前の日本言語の一つであったと思われる独特の神代図象文字である「ホツマ文字」(「オシテ文字」とも云われる)で書かれている。しかも和歌調であり日本語の由来とも合致している。その「ホツマ伝え」の「全40章1万行、12万文字」に於いて、為政者の心得が懇々と諭されており、最高為政者としての天照大御神の在り姿が説喩的に書かれている。それによると、天照大御神の治世の在り方として「民のかまど譚」は当たり前のことに過ぎない。 こう云えば、「ホツマ伝え」の偽書論をぶつ者が出てくるだろうが事態は何ら変わらない。問われているのは、「ホツマ伝え」が偽書だろうが実書であろうが、そういうことに構わず、上古代日本政治に於いて「ホツマ伝え」が記しているような「天照大御神の在り姿論」が機能していたのかどうかであり、その議論をこそせねばならないと云うことである。 れんだいこは、大和王朝前の御代に於いて、そのような統治論が機能していたと見立てている。大和王朝前の直近の邪馬台国時代、その前の出雲王朝時代まではそのような善政が敷かれていたと見立てている。大和王朝時代における天皇制は、それ以前の出雲王朝-邪馬台国御代の大王(おおきみ)制の善政精神を半ば継承し、半ばはこれを軽視し、ありきたりの権力王朝化したと見立てている。これが日本天皇制の本質となっていると見立てている。 確認すべきは、「最高為政者としての天照大御神の在り姿」が後の天皇制へと繋がっていることである。思うに、天照大御神は理念体であり、その理念体の具現者として霊能者がおり、その霊能者の最高人物が天照大御神の化身とされ、その化身天照大御神が政治権力をも担う。こういう政治の仕組みになっているのではなかろうか。天照大御神には男女の制限はない。天照大御神霊能域と認定された者の尊称であり、生き神、生き仏のように尊崇される。邪馬台国女王・卑弥呼は、そういう意味での天照大御神足り得ていたものと思われる。その邪馬台国連合国家は滅亡されたが、天皇制移行の際の精髄となって、この政治の仕組みは継承された。かく窺うべきではなかろうか。 こう考えれば、「民のかまど譚」が絵空事でない悠久の歴史を持つ治世者精神であると云うことになる。こういう精神を持ちながら悠久の歴史を刻んできた天皇制が、「民のかまど譚」を僅かにしか持たない他の諸国の王朝制と同じロジックで打倒を呼号して良いものだろうか、と云う点で戦前日本の左派運動が大いに悩んだ史実がある。実際には悩むより、この問題から逃げただけの史実しか遺しておらず躓(つまず)いたと云うべきだろうが。 日本の天皇制論の前提として、この「民のかまど譚」を抜かす訳には行かない。付言しておけば、天皇制護持派が「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制を賛美し、明治以来の近代天皇制の如くに好戦政策の為に天皇制を悪利用するなどと云うのは日本史上の歴史犯罪でしかない。日本左派運動が、「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制打倒を云うのも同様の歴史犯罪である。これら両翼の政治論調に対して、れんだいこは「民のかまど譚」を錦の御旗にして「ちょっと待て」と抗したい。日本には日本の政治の型があり、国際ユダ邪テキストの口車に乗る必要はないと考える。これを、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」とする。これをいつか云いたかった。この論考は追々続けていくつもりである。何しろ問題が高度なのでいっぺんには言及、解析できない事情による。 2013.4.2日、2016.10.3日再推敲 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1204 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 1月 9日 |
れんだいこの天皇制論その2、「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」 日本の天皇制の善政特質を示すもう一つの逸話「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を確認しておく。これは出雲王朝の御代のオオナムヂ(後の大国主の命。以降、大国主の命と記す)とスクナヒコナの神(須久名彦那の命。以降、スクナヒコナと記す)の次のような掛け合い政談であるが、案外と知られておらず且つ知られるべき神話譚の一つであるように思われる。その前に大国主の命の御代の動きを確認しておく。 出雲王朝のスサノウ政権から王権を委譲された大国主の命は近隣諸国との連合国家形成に勤しんだ。まずは直轄の出雲、伯耆、因幡の国を手治めに「越の八口」まで進んだ。越とは若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。口とは国のことを云う。このことが次のように記されている。
この過程の或る時、古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子と記されているスクナヒコナが現われ、以降、大国主の命とスクナヒコナが力を合わせて天下を創り治めた。このことが次のように記されている。
この御代に於いて但馬、丹波、播磨へと支配圏を拡げた。続いて信濃、大和、紀伊をも傘下に収めた。更に尾張、駿河、関東、奥州の日高見国も連合させた。今日的には日本海域の出雲地方は裏日本となるが当時においては海上交通が基本であり、日本海はむしろ中国、朝鮮等の交易から見ても表街道筋であった。両命が共同して「葦原の中つ国」たる出雲を「母の国」とする連合国家を形成していった。その版図が日本列島津々浦々まで及び九州、四国、中国、畿内、北陸、東海、関東、東北の凡そ百余国に支配圏を及ぼしていたと考えられる。こうして大国主の命はまさに出雲風土記の記すところ「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られるようになった。まさに大国主の命と称される通りの大国の主になった。これを仮に「大国主の命期の出雲王朝」と云う。 この御代、大国主の命が政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での神となり、全国の国津神の総元締みたいな存在となっていた。大国主の命は、日本のスサノウの命(素盞鳴命)やギリシア神話の英雄のような怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナの神とコンビを組んで全国をめぐって「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造に着手している。この産業革命により採集経済に加えて農耕経済をも生み出し、世は縄文時代から弥生時代へと進んでいる。 両命は温泉湯治療法にも長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかあり逸話が残されている。大分の別府温泉、愛媛松山の道後温泉、出雲の玉造温泉、美作の奥津温泉、兵庫播磨の有馬温泉等が代表的なものである。他にも薬草医薬をも生み出している。これは漢方に比する和方と呼ばれている。総じて住みよい日本の国土を築く為の諸施策が講じられており、いつしか「山紫水明の豊葦原の瑞穂国」と呼ばれるようになっていた。スクナヒコナの神は医薬の始祖と云われており、日本書紀に次のように記されている。
これにより神田明神では一の宮として大国主の命、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしている。出雲系神社では両命を併せ祀る神社が多い。万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。
この御代、出雲王朝連合諸国の八百万(やおよろず)の神々が、年に一度の毎年10月に出雲に集まり今日で云う国会のようなものを開き、政治全般の打ち合わせと取り決めを行っていた。寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたことが分かる。その間各地の神は不在となるので他国では神無(かんな)月、出雲では神在(かみあり)月と云う。これにより出雲は「神謀(はか)る地」と言い伝えられている。 この合議政治は出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議裁決していたのではないかと思われる。これが日本のその後の政治の質となり伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。出雲の地での神在(かみあり)月政治後、盛大な宴会や祭りとなり、その席でお国自慢的なお披露目が行われ、これが今日の様々な芸能へと繋がっているように思われる。その神事が今日に伝わっている。 出雲王朝の政体は、後の大和王朝の如くな支配被支配構造の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳治的な政治を特質とする合議的且つ共栄圏的なものであり、武威に訴えることは極めて稀で、多くが政略結婚絡みの平和的なものであった。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては大和王朝御代来の神道と区別する為に古神道と云われるものを通して諸事を処理していた。その盟主的地位を保持していたのが出雲であり、こうして出雲が日本古代史の母なる原郷となった。記紀では「母の国」、「根の国」とも記すが、その謂れがこういうところにあると知るべきだろう。 さて、いよいよ云いたいところに辿り着いた。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
この掛け合いを通じて出雲王朝御代の善政ぶりを知るべきではなかろうか。出雲王朝御代の善政ぶりについては別稿で論じようと思うが、ここでは、この「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を味わうべきだと心得たい。世界広しと云えど、政治の最高指導者が、かくなる善政を思念し実際に敷いていた例は珍しいのではなかろうか。これを後々「ご政道」と呼ぶようになる。 大国主の命の「ご政道」ぶりは国譲り譚のところでも明らかにされているので、これを確認しておく。国譲りの際、大国主の命は、軍事的威圧によって政治支配権を得ようとする渡来系新勢力に対して次のように述べている。(記紀、風土記、その他史書の原文の方が改竄されている節が認められるので、れんだいこ訳で通訳しておくことにする)
これによれば、大国主の命は、国譲りの際にも「ご政道」を説き明かし、渡来系新勢力に継承を要望していることになる。これが、後の大和王朝にも受け継がれ、今日に至るまで為政者の襟を正しめる役割を果たしていると窺うのは窺い過ぎだろうか。れんだいこは、日本政治の根底に潜む心得として窺うべきだと考える。この「ご政道精神」が失われ過ぎている現下の日本だけれども。この精神は、何が「ご政道」であるかが次第に分からなくなりつつあったけれども幕末期までには確かに存在していたのではなかろうか。 |
れんだいこのカンテラ時評№1205 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 1月11日 |
れんだいこの天皇制論その3、大国主の命期の出雲王朝のご政道、政治思想考 ここで「大国主の命期の出雲王朝のご政道考」をしておく。これらは、現下の日本政治には窺えないが、日本政治精神として色濃く継承されてきたものであることを確認する為である。本来の天皇制の在り姿を垣間見ることができよう。天皇制論の際に弁えておかねばならないことだと思っている。 「大国主の命期の出雲王朝のご政道」が、今日から見て古神道に導かれていたのは間違いない。それでは古神道とはどのような宗教精神なのだろうか。これについては先に「れんだいこの日本神道論」を発表しているが、云い足りなかったところを補足しておく。れんだいこはかく判じたい。 古神道を理詰めで説けば要するに「天地人の理」を解き明かし、これに即応させる修法であると云えるのではなかろうか。「天地人の理」とは、「天の理」、「地の理」、「人の理」のそれぞれを解き明かし、その上でそれらを三位一体的に捉えて「天地人総合の理」として捉え直し、これを見究め処断していく作法を云うのではあるまいか。これは相当に精神性の高い修法であり、これを極めた者が霊能者として命(ミコト)になり、その命が「御言」を宣べる者となり、その「御言」を宣べる者の総帥がスメラミコトとなり、そのスメラミコトの頂点に立つのが天照大神であったと思われる。これを修法するのが古神道であり、この古神道の御教えに導かれて紡ぎだされた政治的なものが本来の「ご政道」である。その他が何々道であり、これに伴う礼儀作法である。こう捉えたい。 「天地人の理」を認識論とすれば「御魂の理論」をも生み出して補完していた。これがいわば実践論となる。「御魂の理」とは、魂を和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)の四魂に分け、それぞれの魂の働きを願い奉る信仰を云う。出雲王朝御代は、この四魂を魂の四態原理として組み合わせ、情況に応じて発動させ、これに則った政治を執り行っていたと拝したい。これが日本学的な戦略戦術論の原型とも云えよう。 和魂(にぎみたま)は徳を表わし、平和の和に繋がり、政治では徳治主義となる。幸魂(さきみたま)は幸を表わし、幸運の幸に繋がり、政治では殖産興業となる。奇魂(くしみたま)は奇を表わし、奇妙の奇に繋がり、政治では霊能政治となる。荒魂(あらみたま)は武を表わし、武闘の武に繋がり、政治では不義不正に抗する武能政治となる。 この御代の思想を確認しておく。古神道思想が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、動態的な生命体としてみなしていたことは確かなように思われる。その地球が他の天体と大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。ここから翻って大地に精霊を認め(地霊)、天と交合し様々な気象を生むとしていた。その他自然の万物にも精霊が宿っており、その恵みとお陰を受けているとしていた。これを精霊信仰又は御霊思想と云う。 食物連鎖を互いの生命の大いなる循環と捉え、この思想に沿う形で狩猟、採集、農耕を生み出していた。これより始まる士農工商社会を秩序化させていた。士農工商は対立するものではなく、分業的に互いに補完し合う関係として位置づけられていた。四季の変化を取り込み、生活をその折々に即応させていた。森羅万象を二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで分類し理解していた。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えていた。総じて汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出していた。これを仮に「日本上古代思想」と命名することができよう。 特徴的なことは、神人和楽且つ神人協働の哲理を持っていることであり、その哲理が非完結態の開放系構造であったことであろう。もう一つの特徴は、絶対の真理とか教条、戒律を持ち込まず、万事に於いて例外をも許容しながら臨機応変に処すことを良しとしているように思われる。その水準は世界一等的なもので、他のどのような思想宗教と接触しようとも、まずは受け入れ次にすり合わせし次第に咀嚼する芸風を見せた。これが上古代日本が生み出した土着的思想であり非常に高度なものと窺う必要があろう。政治思想を学ぶのに何も西欧のそれから説き起こすことはない。日本の自生的な思想を深く学び、その上で外来的なものとの摺り合わせこそが必要な営為であろう。 この御代の処世法を確認しておく。出雲王朝下では「七福神(しちふくじん)譚」が説かれていたと思われる。七福神とは恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。 恵比寿神(えびすさま)は釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。主として商売の神様として信仰される。「笑う門には福来る」の御教え神となっている。 大黒天(だいこくさま)は丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。主として豊作の神様として信仰される。 毘沙門天(びしゃもんさま)は甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。主として勇猛の神様として信仰される。 弁財天(べんてんさま)は琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、主として学問、芸術の神様として信仰される。 福禄寿(ふくろくじゅ)は長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。主として健康の神様として信仰される。 寿老神(じゅろうじん)は白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。主として長寿の神様として信仰される。 布袋和尚(ほていさま)は半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。主として和合福徳を招く神様として信仰される。 七福神の風体、小道具は、その理をそれぞれ象徴しており諭しがある。これを味わうべきだろう。これら七福神が共に宝船に乗っている。このことは七福神が互いに同居していること航海に出向いていることを意味している。即ち七福神思想でもって互いに仲良く助け合って世渡りして行くことを示唆しているように思われる。「出雲の七福神譚」は人々の生活上の諭しであり且つ出雲王朝御代の政治思想を間接的に説き聞かせていると拝したい。その宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)には次の言葉が書かれている。 「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」。(永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)。 これらの全体が「言霊信仰」を基底としていたように思われる。祝詞(のりと)はこれにより生みだされている。これについては別途論考する。れんだいこが感心するのは、大国主の命期の出雲王朝の「ご政道」、「思想」、「七福神(しちふくじん)譚」は味わえば味わうほど有益で奥が深く理に適っていることである。これを思えば、近現代史日本で学問として教えられているところの国際ユダ邪テキストの方が底が浅いように思われる。それは「天地人」を物としか看做さない血の通わない物象化学問であり、古神道の御教えとはマ反対のものになっている。古神道の御教えは生活に活きるが、国際ユダ邪テキストの学問は学んで却って阿呆にされるのではないかと思っている。戦後は、そういうろくでもないものばかり教えられているが、教えられなくなっている「大国主の命期の出雲王朝のご政道、思想」の方こそ学ぶべきであり、少なくとも両方学べば良かろうにと思う。 |
れんだいこのカンテラ時評№1206 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年 1月11日 |
れんだいこの天皇制論その4、天皇制同居論 以上、シリーズで天皇制の善政特質について確認してきた。天皇制が理念通りに機能してきたかは別である。だがしかし天皇制の中に善政理念が内在しているのは確かである。且つ家系的にはともかくも制度的にかくも連綿と列なって万世を経て存続して来ているのも事実である。即ち万世一系が、この理念的天皇制と云う意味では成立していると看做したい。ここまで続いている例は世界にないのではなかろうか。 こうなるとこれはれっきとした世界に冠たる文化遺産であろう。これを廃止せよ論、打倒せよ論、消滅期待論等は、文化遺産的に捉えるならば日本のもう一つの象徴たる富士山を削り取ってなくせと云う論と同じである。富士山は単独で巨峰を為し、山頂から山裾まで美姿であるところに特徴がある。古来より富士を霊山とみなして崇める信仰が続いている。そういう富士をなくせ論の生まれる余地はない。日本の最高霊峰富士になぞらえられるのが天皇制であり、同様に天皇制不要論なぞあって良い訳がなかろう。れんだいこはかく考える。 天皇制とは日本の政治の古来よりの型であり、これをなくせよ論に向かうより、本来の天皇制の姿に於いて存続を願う方が賢明ではないかと思っている。戦後の象徴天皇制は伝統的な天皇制に近いもので、その国事行為、行事の数を減らし、もっと大らかに文化的精神的な皇室活動をもって寄与する方が理に適っているように思われる。昭和天皇は象徴天皇制の裏で何かと政治的に立ち働いていたことが判明しつつあるが、平成天皇は文字通りの意味で象徴天皇制に沿い古来よりの理念的天皇制の法灯を継いでいるように見える。そういう意味で、れんだいこ的には平成天皇下の天皇制に異存はない。美智子妃殿下となると現代の天照大神であり卑弥呼ではないかとさえ思っている。 もとへ。天皇制廃止論の正体は黒船来航以降のものではなかろうか。もっとはっきり云えば国際ユダ邪の日本侵略と共に始まり忍び寄っている気がする。手を替え品を替えいろんな反天皇制論が登場しているが、それらは皆な天皇制の特質を理解せぬまま君主制一般と同視して、その打倒論の系譜で立ち現れている言である。国際ユダ邪の暗躍するところ決まって必ず時の君主制が打倒されている。それが日本にも押し寄せていると看做せばよい。その結果、君主制時代よりも良好な社会が生まれるのならともかくも「かの御代の方がまだしもマシだった」ような戦争、増税、国債に苦しめられる歯止めのない貧富格差社会へと誘わることを警戒せねばならない。元の君主の座へ国際ユダ邪の司令塔が鎮座し、ハゲタカが指揮棒を振り、その雇われが御用聞きに立ち回るお粗末な世の中にされるのが見えている。 戦前日本の場合、近代的天皇制が日本帝国主義の理念的精神的主柱として機能させられていたことにより、諸悪の根源に天皇制を認めるコミンテルン指令「天皇制廃止を専一にめざす天皇制打倒論」の生まれる余地はあった。しかしそれはとても危ういものである。国際ユダ邪の暗躍を知らない戦前の共産党員が、西欧的な帝制打倒論そのままに天皇制打倒論を生硬に振り回せば振り回すほど左派的であると思い込まされ、本稿で述べたような理念的天皇制に関する分析をしないまま、その知らぬ弱みで思想検事との問答戦に挑んだところ、雁首並べて理論的な敗北を余儀なくされている。これが大量転向の伏線になっている。日本左派運動は今に至るまでこの負の遺産を切開していない。れんだいこなら、近代的天皇制が伝統的な天皇制とは別のものであり、却って天皇制そのものに対する信頼を毀損するものでしかないとして立ち向かうところだ。これに対して思想検事がどう応答しただろうかと興味が湧く。 戦前の近代的天皇制下の好戦主義は大東亜戦争まで定向進化し敗戦となったが、この戦史の理論的総括も日本人の手では為されていない。「天皇戦犯論」も然りである。しかし思うに、それを近代的天皇制の宿アとして指弾するのならともかくも天皇制解体まで広げるべきだろうか。この仕切りさえない暴論が罷り通っているように見える。戦後憲法で天皇の地位は象徴天皇制となったが、それでも天皇制廃止に拘る根拠があるのだろうか。こう問いたい。 日本の場合、むしろ日本政治の伝統的型としての天皇制との共和的同居の方が何かと賢明なのではなかろうか。今日の如く絶対主義的な「御言宣り」ではなく相対主義的な「御言宣り」を味わう方が天皇制にとっても幸運で似合いなのではなかろうか。直近のところで、時の政治権力が原発再稼動を云い、引き続き原発を重要電源にすると声明しているが、平成天皇は事故より一貫して被災地と被災民を憂い、日本が賢明に対処するよう「御言宣り」している。れんだいこは安堵する。これを思えば、天皇制の果たす役割はそれなりにあるのではなかろうかと思う。 昨年末の園遊会で、山本太郎参議院議員が天皇に直接、原発事故や被爆労働者について書いた手紙を渡すと云う事件が発生した。左右両翼から批判轟々となったが、れんだいこ見解は少し違う。こういうことが頻発すると好ましくなく、不測の事態に繋がりかねないと云う意味では賛意しかねるが、山本議員の天皇に対する直訴は、平成天皇を伝統的な「命」天皇と看做して「民の心」を訴えたと云う意味で本来の天皇制の理念に沿っている面があるやに見受けている。本来なら、天皇は直訴文に目を通すことこそ望まれている。しかし実際には直訴文は側近の手に渡されたようで、山本議員のパフォーマンスのみが取り沙汰されることになった。仮に、れんだいこがそういう場に参列したとして同様の行為をしようとは思わないが、天皇と民との本来の近親関係に於いては「あり得て良い技」だったと解している。山本議員の天皇観こそ伝統的な天皇観に適っていると思っている。 本稿を結ぶにあたって孝明天皇の次の御製を記しておく。
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補足して、史上の名歌人の天皇論を確認しておく。
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【「れんだいこ」文の紹介】 | |
「谷間の百合」の「皇室は日本の自由民主主義の優れた盾」。
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日本史の背骨をつらぬく歴史が天皇史である。講師の名は歴史研究家/落合莞爾氏。 |
【祝(はふり)の神事考】 | |||
石工の都仙臺市の2006.11.6日付け投稿「天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)の神事」を転載しておく。
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(私論.私見)