れんだいこの天皇制論その1、歴史論総論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005年現在、小泉政権の下で「皇室典範にかんする有識者会議」が開かれ、「女帝を認める皇室典範改正案」の論議が関心を呼びつつある。この辺りで、天皇制論をしておきたい。天皇制論は、天皇及びその側近による政治の特質論と天皇制官吏機構の三面から考察されねばならない。その上で、歴史的な歩みが検証されねばならない。そういう意味で、1・政治論、2・機構論、3・皇統譜、4・王制の比較研究の4視点から解析していくことにする。

 2005.11.18日 れんだいこ拝


【既成の天皇制論検証】
 「マルクス主義同志会」の機関紙「海つばめ」(1003号2005年11月13日)が、「戦力の不保持から“軍国主義”へ」と題して天皇制論をサイトアップしている。これがいわゆる左派の天皇制論だと思われ、れんだいこのそれと余りにもかけ離れているので、左派理論の正系を問うためにれんだいこコメントを付けて検証する。

「戦力の不保持」から“軍国主義”へ
自民党の憲法草案発表さる――「秩序」や国家への忠誠押し出す

 許すな皇族の憲法違反発言 つくる会と連動する寛仁の策動――「万世一系」の天皇制を守れと

 小泉内閣は、今月末にまとめられる「皇室典範にかんする有識者会議」の報告をテコに、女帝を認める皇室典範改正案を、来年の通常国会に提出するスケジュールを描いているが、それに対する反動どもの策動が活発化している。その一環が、皇室の一員で、現天皇と従兄弟(昭和天皇の四男の長男)にあたる三笠宮寛仁の発言であろう。彼は、反動陣営の動きに連動しつつ、つくる会と全く同様な見解を公表し、天皇家の権威でもって、反動に強力に支援を送ろうというのである。憲法違反の皇室の策動を許してはならない。

 皇室の一員が、公然と、「有識者会議」の方向と結論に異議を唱えたということは、皇室の本音を暴露するとともに、重大な政治的な意味を持っている。小泉のように、「誰でも発言の自由があるから、皇室に聞いても構わないのじゃないか」といった問題では全くないのだ(小泉は、有識者会議が、この問題で皇室の人間に意見を聞くことはない、それは憲法違反に当たると結論したことに対して、こうした無責任な発言を行っている)。というのは、現憲法は明確に天皇や皇室の政治的行為はもちろん、そうした発言も禁じているのであって、“国民の象徴”であるべき天皇が、こんな憲法違反を犯していいはずもないのである。

 これまで、つくる会の連中や反動たちは、天皇制の問題について、天皇や皇室の意思を聞くべきであると言い張ってきた。まさにそれに応えるような形で、皇室(天皇の従兄弟)の発言がなされ、つくる会などが「得たりやおう」とばかりに、女帝容認反対の大キャンペーンを開始していることこそ、ことの本質を語って余りある。

 もちろん、皇室の連中が「ひとりごと」を装えば政治的発言をしていい、憲法に抵触しない、などということには決してならない、だが政府も国会もブルジョア司法も天皇家の連中のこうした憲法違反の言動を取り上げ、問題視し、規制しようなどとは決してしないのである。民主主義が聞いてあきれるではないか。

 寛仁は、小泉内閣の閣僚である麻生とも姻戚関係にあり、陰で安倍や麻生が糸を引いているかもしれない。あるいは、彼は天皇の“名代”として発言したのかもしれない、つまり天皇や天皇一家の意思が、彼らの自己満足や利己主義が、彼の発言に端的に表されているのかもしれない。寛仁自身、自分の発言の“違憲性”をよく知っているのであって、だからこそ、その発言を“随想”といった形でカモフラージュし、皇族は憲法上公然とした発言はできないから、「身内の小冊子でのプライベートなひとりごと」としてやるなどと断わりながら、しかも厚かましい、違憲の言動にふけるのである。自らの発言が憲法違反であることを百も承知でやっているのだから、その悪党ぶりは徹底している。彼が強調することは、つくる会の連中がわめいていることと寸分と違わない。

 天皇制は二千六百六十五年間も(つまり神話が語っているように、神武天皇の即位以来)男系で続いてきたのであって(つまりありがたい「万世一系」だ)、これを否定することは、日本の「国体」を否定し、ひいては日本の国家を否定するに等しい、というのである。この思い上がった、頭の空っぽな男は、古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるがゆえに、現在でも大多数の人々は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として、天皇家を敬慕しているのだと、手前味噌を並べてもいる。そして女帝でいいというようなご都合主義的な議論をしていくなら、「いつの日か、天皇はいらないという議論にまで発展する」と恐怖するのである。この皇室の男がどんな意識や観念の持ち主であるかは、天皇制が二千六百六十五年続いてきたと言っていることからも明白である。全く“皇国史観”に支配されたような頭のこり固まった反動であり、“皇室意識”でふくれ上がった、増長慢の俗物なのである。

 連中は事実に基づく科学的な歴史――それによれば、天皇家の歴史はせいぜい千数百年前頃に始まるにすぎず、寛仁の言うのとは千年ほどもずれているのだ――よりも神話を信じるのであり、そんなものが「日本の国体」だと言うのである。まったく恥を知らないとはこのことだ。この皇室の一員は、天皇は「国体」そのものであり、国のために必要だと言ってみたり、あるいは皇室は国民から崇拝され、尊敬され、慕われていると言ってみたりして、天皇制とその存続の意義を強調して止まないのだが、要するに、それは彼もその一員に属する皇室を永続させ、その特権的な地位を守りたいだけのことにすぎない、つまり徹頭徹尾、利己主義から出発しているのである。ただ彼は、国家のためとか、「国体」だからとか、国民の崇拝の的だからといった、つまらない理屈を持ち出して、皇室のエゴイズムを必死で隠そうとしているにすぎない。彼らは、国家によって保証された、国民の“象徴”としての寄生的で、居心地のいい特権的な地位を失うことを恐れるのである。

 彼らの国民の労働に寄生する生活は、つい最近も皇族の女性が“民間人”つまり国民と結婚するとき一億五千万円ものカネが国から支給されたことにも現れている。ブルジョア・マスコミは、不当であり、不正義でもある、こうした途方もない特権に対して、驚いたことに何一つ異議を申し立てることも、非難することもしなかったのであるが。

 そして最近、彼らの立場もまた徹底的に“非人間的”なものである、それは雅子がノイローゼに陥ったことからも明らかである、あるいは結婚の自由もない、職業選択の自由も参政権もない、政治的発言もできない、こうしたことどもはみな基本的人権を奪うことであり、人間性の否定だから、天皇制を廃止せよ、などという者もいるが、しかし基本的にナンセンスであろう、というのは、皇室の大部分はこの“非人間性”などほとんど苦にしていないからであり、むしろ反対に、その中に安住し、特権と居心地のいい地位に執着し、それを防衛しようと常に全力をあげているからである。すでに千年以上にわたって、天皇家はそうしてきたのであり、今もしているのである。

 この男が、どんなに特権の保持に心を砕いているかは、単に天皇制の護持や男系の維持だけでなく、その擁護に隠れて、自らの利益ために自分の“家”を“宮家”として存続させるために措置を取れと言い出していることからも明らかである。つまり彼は、どこの“馬の骨”とも分からない「元皇族」を引っ張ってきてもいいから、天皇本家だけでなく、廃絶になった宮家(秩父宮、高松宮といった、昭和天皇の弟らの「家」)もその祭祀を継承してもらって再興せよといった要求も提出している。彼は秩父宮、高松宮家について語りながら、自分の家のことを語っているのである。

 というのは、三笠宮家も女子ばかりが生まれてしまって(孫の代になって、五人とも全部が女というわけだ)、秩父宮、高松宮家と同様、断絶するのは必至となっているからである。だから、寛仁は直接に天皇制の護持を願うだけでなく、皇族としての自らの“家”の存続をも策動するのであって、かくしてその利己主義を決定的に暴露するのである。もちろん、その口実は「国体の護持」であり、天皇制の継続のため、といったものである。

 彼らは「血」をありがたがり、「万世一系」などを持ち出して、天皇家を神聖化しているが、笑うべきことであろう。一体戦後憲法は、“出生”とか“血”といったものの「価値」を否定し、万人の「生れながらの」平等を謳ったからこそ、民主主義憲法ではなかったのか。しかし寛仁とか、つくる会の連中は、「血」とか「男系」とか「万世一系」とかいった、つまらない“前近代的”、非民主主義的“価値観”に固執し、それを擁護して止まないのである。

 しかし万世一系であり、男系でのみつながってきた、「最も古い家系」などと言ってみても、例えば、「二十五代」の武烈に男系がいなかったので、十代二百年も前の「十五代」応神の子孫を越の国(現在の福井県)から連れてきて、継体天皇に祭り上げたという“事実”が日本書紀にあるが、しかしこの系統は途中でとぎれていて、名前さえ記されていない、だから歴史家たちは、諸般の事情も考慮して、ここで王朝の交代があったとか、女系でつながっているとか主張しているのであって、万世一系など空論だと強調しているのである(この点については、林氏の『女帝もいらない』の一七八頁以下に詳しい)。

 それに、二百年も前に分かれた血筋などと言っても、どこの“馬の骨”か分かったものではない。歴史の中には、百三十年だ、百年だ、七十年だといった祖先から「血」を受け継いで、ようやく天皇になり上がったような連中が何人もいるのだ。全くこんな「血」をありがたがっているよう連中の常識を、その頭脳の合理性を疑うのである。そして今、どこかの宮家から“婿”を連れて来ると言っても、戦後廃絶された伏見家から探し出して来るしかないが、この伏見家というのは、何と六百年も前に、現天皇家と分かれたというのだから、継体天皇の三倍もの“遠く”からであり、その人間の“馬の骨”ぶりはさらに徹底しているということになる。

 ついでに言っておけば、“めかけ”(いくらか体裁のいい言葉で言えば、“側室”)出身の天皇は全体の半分近くの五十五人もいるのだから、天皇家の“非道徳性”は余りに明らかであって、これが日本の“象徴”(したがって、日本の“家族”形態や道徳や文化や歴史の象徴)などと恥ずかしくて、誰にも(どんな外国にも)言えないほどではないか。

 全く自民党といい、つくる会といい、皇室といい、何というばかげた観念、非合理主義にうつつを抜かすことのできる、とんまな連中であろうか。実際、六百年も前に分かれた天皇の「血」を引いてきて、それが“尊貴”だとか何とか言ってみても、六百年もたてば、ある個人の「血」といったものは、ほとんどどちらでもいいものになる。また、他方では、千年、二千年前の「天皇」の「血」を引く人間は男系だけと限っても、日本国中にいくらでもいるのではないだろうか。しかも天皇家の連中の中では、多数の女性に多数の子供を生ませた者もいたのだから、日本国中にそのありがたい「血」が広がっているかもしれず、そんな人間をすべて“尊貴”だなどと言い出したら、世の中が収拾がつかなくなるであろう。しかし、「血」そのものが尊いというのだから、みんな彼らは平等であり、どうして区別したり、差別したりできるであろうか。

 つくる会や皇室の連中は、「血」が尊いというが、実際には、「血」そのものではなく、皇室の人間が国家権力と結び付き、その頂点にいるからこそ「尊い」とわめいているにすぎないのであって、千数百年の間に全国に散らばったかも知れない、初代天皇の「血」そのものが尊いと言っているのではないのだ。そんなものを本気で称揚し、祭り上げようとしたら、大変なことになる、というのは、全国にそれがどんな規模と広がりで存在しているかは、誰も知らないからである。

 つくる会の連中や皇室の連中は矛盾している、天皇が“尊い”のは、その「血」そのもののためなのか、それとも、「血」自体ではなく、天皇家が国家権力とむすびついてきたがゆえに、その「血」が尊いのかを語ることができないからである。彼らはただその「血」が尊いかに言い張り、国民をだまして来たにすぎないのだ。

 「血」そのものが尊いなら、全国に何万人といるか知らないが、神武天皇以来、その「血」を引く人間をすべて探しだしてきて、しかるべき措置をとらなくては少しも一貫しない、しかし天皇の「血」を神聖視する支配階級のペテン師どもはそんなことを決してしないのである。彼らが神聖視するのは、「皇室」だけである、つまり彼らが制度的に囲い込んだ、国家機関の一部としての「皇室」の「血」だけが尊いというにすぎない。

 実際には、天皇家の“万世一系”とやらの「血」が尊いのではなく、ただ支配階級が天皇は尊いといって、いつわりの権威を作り出し、労働者人民を支配し、抑圧する一つの道具に仕立て上げているだけのことである。

 実際、孔子の子孫が全世界で何万とか、何十万人とか最近新聞で読んだが、一人の男子の(あるいは女子の)子孫も、何世代も経過すれば、そして何百年、何千年もたてば、それくらいにはなり得るのであって、つまりこれは数百年もたてば、国中の、あるいはこれからは、全世界の人々の「血」は混ざり合ってしまう、ということである。

 そして国家に囲い込まれた皇室の「血」が「尊い」ものであるどころか、我々国民の「血」と比べてはるかに“なまぐさく”、狂暴、奇嬌であったのは、歴史自身が(『日本書記』等々も)語るところである。

 そんな昔の例を引くまでもなく、最近の昭和天皇自身が数百万の日本人を殺し、アジアを初めとする世界の数千万人の人々を殺傷した反動戦争(十五年にわたる帝国主義戦争、アジア太平洋戦争)の張本人の一人であり、戦争犯罪人として処刑された東条らの同類、その“盟友”であったことからも、天皇家の「血」が尊く、神聖であるどころか、まさに「血」にまみれているとさえ言えるのである(昭和天皇は実際上、自らのやったことを何ら反省も謝罪もしなかったが、それもまた「皇室」といった連中の道徳的レベルを暴露している)。

 皇室の連中が、天皇制の問題について露骨な発言を始めたが、これはまさに憲法違反であり、許されざることである、そして皇室がこんな形で発言し、自らの地位を防衛するために策動を開始したという事実の中に、我々は、天皇制が廃止されなくてはならない理由と根拠の一つを見出すのである。

 皇室の連中は、自らの特権的な地位を守るためには、歴史の中でどんな破廉恥な策動もしてきたし、今もしているのであり、その一端が今回の三笠宮寛仁の発言によっても暴露されたのである。我々は皇族寛仁の厚かましくも破廉恥な発言こそ、天皇制の廃絶の必要性を教えていると強調する。

 寛仁の発言は突き詰めれば、自分たちの“地位”は特別であり、「尊い」ものだから永続させよ、ということだけである。自分たちの寄生的で特権的な地位や利益を、これほどあからさまに擁護するとは、皇室の連中は何という最低のエゴイストたちであることか。

 天皇や皇太子たちが何を考えているのかは分からない、しかし寛仁の発言と大同小異であることだけは確かであろう。もしそうでなかったら――例えば、一部の世論が天皇家に同情して言うように、「非人間的な地位に苦しんでいる」というのなら、どうしてさっさと自ら天皇制度などはなくそうと発言しないのか。

 本当はそうしたいのだが、天皇家の存在は国のために必要だと自らに言い聞かせ、自ら「耐えがたきを耐え」、我慢しているとでも言うのか。

 仮にもしそうだとしても、天皇家の存在は国のために必要だなどと思い込むこと自体が、暗愚の象徴みたいなものであろう。

 小泉内閣を頂点とする政治家たちも、“財界人”も、官僚も、みな憲法無視、法律違反など日常茶飯事であり、皇室もまた今や、国民(つまり支配階級)の“象徴”として、堂々と憲法違反して恥じないのである。そして小泉内閣はもちろん、野党も司法もマスコミも皇室(象徴天皇)のこうした言動に沈黙したままであり、天皇もまた自らの“身内”の憲法違反という“不祥事”に知らん顔である。

(私論.私見)

 この手の天皇制論が如何に残薄なものか以下立論する。

 れんだいこのカンテラ時評№1203  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月 7日
 れんだいこの天皇制論その1、「民のかまど論」

 「2014たすけあい党新年声明」で大胆な天皇制論を発表した。今のところ何の反応もないが、独りれんだいこにはブリがついたので、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」をも世に問うておく。「民のかまど論」は普通には仁徳天皇の善政譚として知られているものである。れんだいこの「民のかまど論」は少し違う。これを説明する前に「仁徳天皇の善政譚としての民のかまど論」を確認しておく。
 「第16代の仁徳天皇は、難波の高津宮で天下を治めた。秦人の力を借りて堤防を作り、池を作り、運河を堀り、港を設ける等、内治に精励した。仁徳天皇4年のある時、天皇は高山に登り四方の国土を眺めた。民が食事の際に立てる炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、『民のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しくて炊くものがないからではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう』と仰せられ、『向こう三年、税を免ず』と詔(みことのり)された。これにより民に課せられていた税と夫役が免除された。

 それからというものは天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もせず、器で雨漏りを受け雨漏りのしない場所に移るなどして生活された。星の光が破れた隙間から見えるという有り様にも堪え忍ばれた。この間、民は豊かになった。三年立ったある日、天皇が高台に出られて国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。天皇は、かたわらの皇后に申された。『朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ』。『変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだといえるのですか』。『よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから朕も富んだことになるのだ』。天皇はニッコリとこう申された。

 その頃、諸国より次のような申し出が相次いだ。『宮殿は破れているのに民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に税を献じ宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります』。天皇はそれでも引き続き三年間、税を献ずることをお聞き届けになられなかった。六年の歳月が過ぎ、『もう税と夫役を課してもよかろう』と詔された。その時の民の有り様を日本書紀は次のように生き生きと伝えている。『民、うながされずして材を運び、簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る』。その御世を讃えて、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と呼んだ。仁徳天皇の治世は仁政として知られ、『仁徳』の漢風諡(し)号はこれに由来する」。

 この逸話を「民のかまど譚」と云う。ここまでは普通に知られている。れんだいこは、ここから更に次のように話しを進める。

 この逸話の重要性は、これが仁徳天皇の御代のものではあるが、この精神が歴代の天皇の治世を規範せしめていたことにある。よしんば、「民のかまど譚」とほど遠い履歴を見せる天皇が現われたとしても、「民のかまど譚」をもって諌めると云う意味で、やはり歴代の天皇を規制していたと云わざるを得ない。これが日本的天皇制論の骨格の一つである。それは、日本の天皇制が本質的に善政のものであり、他の諸国家の王制と比して一味違うものとなっていることを示唆している。

 これだけの主張では「民のかまど譚」の凄みが半分でしかない。「民のかまど譚」の本当の凄みは、仁徳天皇により発したとされているこの歴代天皇の治世精神が実は仁徳天皇に発したのではなく、仁徳天皇も又それ以前からの歴代天皇の治世精神であったものに従ったに過ぎず、それほど古くから日本の統治者の治世を規範化する精神であったことにある。

 ならば、それはいつ頃からのものかと問えば、ここで、れんだいこ史観の一つである「原日本論新日本論」が教えてくれる。それによれば、この善政は、日本に統治者が現われた頃の始発からのものであると云わざるを得ない。日本の統治者がそもそもに於いてよりそれほどの善政志向であったと云うのは戯画的のように思える。そんなに立派な支配者が世界中のどこに居るやとの反論が聞こえる。れんだいこは、日本の政治の始発はこれより始まったと真顔で答える。そう思わない者とは水掛け論になるだろうがマジにそう考えている。

 れんだいこのそういう見立てを補強するのに古史古伝の一書である「ホツマ伝え」がある。ここでは「ホツマ伝え論」そのものの解析は控えるが、要するに大和王朝前の時代の政体を描写した日本上古代史書の一つであり実書の確率が高い。それが証拠に記紀のように万葉仮名ではなく、漢字渡来前の日本言語の一つであったと思われる独特の神代図象文字である「ホツマ文字」(「オシテ文字」とも云われる)で書かれている。しかも和歌調であり日本語の由来とも合致している。その「ホツマ伝え」の「全40章1万行、12万文字」に於いて、為政者の心得が懇々と諭されており、最高為政者としての天照大御神の在り姿が説喩的に書かれている。それによると、天照大御神の治世の在り方として「民のかまど譚」は当たり前のことに過ぎない。

 こう云えば、「ホツマ伝え」の偽書論をぶつ者が出てくるだろうが事態は何ら変わらない。問われているのは、「ホツマ伝え」が偽書だろうが実書であろうが、そういうことに構わず、上古代日本政治に於いて「ホツマ伝え」が記しているような「天照大御神の在り姿論」が機能していたのかどうかであり、その議論をこそせねばならないと云うことである。

 れんだいこは、大和王朝前の御代に於いて、そのような統治論が機能していたと見立てている。大和王朝前の直近の邪馬台国時代、その前の出雲王朝時代まではそのような善政が敷かれていたと見立てている。大和王朝時代における天皇制は、それ以前の出雲王朝-邪馬台国御代の大王(おおきみ)制の善政精神を半ば継承し、半ばはこれを軽視し、ありきたりの権力王朝化したと見立てている。これが日本天皇制の本質となっていると見立てている。

 確認すべきは、「最高為政者としての天照大御神の在り姿」が後の天皇制へと繋がっていることである。思うに、天照大御神は理念体であり、その理念体の具現者として霊能者がおり、その霊能者の最高人物が天照大御神の化身とされ、その化身天照大御神が政治権力をも担う。こういう政治の仕組みになっているのではなかろうか。天照大御神には男女の制限はない。天照大御神霊能域と認定された者の尊称であり、生き神、生き仏のように尊崇される。邪馬台国女王・卑弥呼は、そういう意味での天照大御神足り得ていたものと思われる。その邪馬台国連合国家は滅亡されたが、天皇制移行の際の精髄となって、この政治の仕組みは継承された。かく窺うべきではなかろうか。

 こう考えれば、「民のかまど譚」が絵空事でない悠久の歴史を持つ治世者精神であると云うことになる。こういう精神を持ちながら悠久の歴史を刻んできた天皇制が、「民のかまど譚」を僅かにしか持たない他の諸国の王朝制と同じロジックで打倒を呼号して良いものだろうか、と云う点で戦前日本の左派運動が大いに悩んだ史実がある。実際には悩むより、この問題から逃げただけの史実しか遺しておらず躓(つまず)いたと云うべきだろうが。

 日本の天皇制論の前提として、この「民のかまど譚」を抜かす訳には行かない。付言しておけば、天皇制護持派が「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制を賛美し、明治以来の近代天皇制の如くに好戦政策の為に天皇制を悪利用するなどと云うのは日本史上の歴史犯罪でしかない。日本左派運動が、「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制打倒を云うのも同様の歴史犯罪である。これら両翼の政治論調に対して、れんだいこは「民のかまど譚」を錦の御旗にして「ちょっと待て」と抗したい。日本には日本の政治の型があり、国際ユダ邪テキストの口車に乗る必要はないと考える。これを、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」とする。これをいつか云いたかった。この論考は追々続けていくつもりである。何しろ問題が高度なのでいっぺんには言及、解析できない事情による。

 2013.4.2日、2016.10.3日再推敲 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1204  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月 9日
 れんだいこの天皇制論その2、「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」

 日本の天皇制の善政特質を示すもう一つの逸話「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を確認しておく。これは出雲王朝の御代のオオナムヂ(後の大国主の命。以降、大国主の命と記す)とスクナヒコナの神(須久名彦那の命。以降、スクナヒコナと記す)の次のような掛け合い政談であるが、案外と知られておらず且つ知られるべき神話譚の一つであるように思われる。その前に大国主の命の御代の動きを確認しておく。

 出雲王朝のスサノウ政権から王権を委譲された大国主の命は近隣諸国との連合国家形成に勤しんだ。まずは直轄の出雲、伯耆、因幡の国を手治めに「越の八口」まで進んだ。越とは若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。口とは国のことを云う。このことが次のように記されている。
「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。

 この過程の或る時、古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子と記されているスクナヒコナが現われ、以降、大国主の命とスクナヒコナが力を合わせて天下を創り治めた。このことが次のように記されている。
「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う」(日本書紀)。

 この御代に於いて但馬、丹波、播磨へと支配圏を拡げた。続いて信濃、大和、紀伊をも傘下に収めた。更に尾張、駿河、関東、奥州の日高見国も連合させた。今日的には日本海域の出雲地方は裏日本となるが当時においては海上交通が基本であり、日本海はむしろ中国、朝鮮等の交易から見ても表街道筋であった。両命が共同して「葦原の中つ国」たる出雲を「母の国」とする連合国家を形成していった。その版図が日本列島津々浦々まで及び九州、四国、中国、畿内、北陸、東海、関東、東北の凡そ百余国に支配圏を及ぼしていたと考えられる。こうして大国主の命はまさに出雲風土記の記すところ「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られるようになった。まさに大国主の命と称される通りの大国の主になった。これを仮に「大国主の命期の出雲王朝」と云う。

 この御代、大国主の命が政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での神となり、全国の国津神の総元締みたいな存在となっていた。大国主の命は、日本のスサノウの命(素盞鳴命)やギリシア神話の英雄のような怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナの神とコンビを組んで全国をめぐって「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造に着手している。この産業革命により採集経済に加えて農耕経済をも生み出し、世は縄文時代から弥生時代へと進んでいる。

 両命は温泉湯治療法にも長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかあり逸話が残されている。大分の別府温泉、愛媛松山の道後温泉、出雲の玉造温泉、美作の奥津温泉、兵庫播磨の有馬温泉等が代表的なものである。他にも薬草医薬をも生み出している。これは漢方に比する和方と呼ばれている。総じて住みよい日本の国土を築く為の諸施策が講じられており、いつしか「山紫水明の豊葦原の瑞穂国」と呼ばれるようになっていた。スクナヒコナの神は医薬の始祖と云われており、日本書紀に次のように記されている。
「顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。

 これにより神田明神では一の宮として大国主の命、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしている。出雲系神社では両命を併せ祀る神社が多い。万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。
「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」(万葉集)。

 この御代、出雲王朝連合諸国の八百万(やおよろず)の神々が、年に一度の毎年10月に出雲に集まり今日で云う国会のようなものを開き、政治全般の打ち合わせと取り決めを行っていた。寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたことが分かる。その間各地の神は不在となるので他国では神無(かんな)月、出雲では神在(かみあり)月と云う。これにより出雲は「神謀(はか)る地」と言い伝えられている。

 この合議政治は出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議裁決していたのではないかと思われる。これが日本のその後の政治の質となり伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。出雲の地での神在(かみあり)月政治後、盛大な宴会や祭りとなり、その席でお国自慢的なお披露目が行われ、これが今日の様々な芸能へと繋がっているように思われる。その神事が今日に伝わっている。

 出雲王朝の政体は、後の大和王朝の如くな支配被支配構造の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳治的な政治を特質とする合議的且つ共栄圏的なものであり、武威に訴えることは極めて稀で、多くが政略結婚絡みの平和的なものであった。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては大和王朝御代来の神道と区別する為に古神道と云われるものを通して諸事を処理していた。その盟主的地位を保持していたのが出雲であり、こうして出雲が日本古代史の母なる原郷となった。記紀では「母の国」、「根の国」とも記すが、その謂れがこういうところにあると知るべきだろう。

 さて、いよいよ云いたいところに辿り着いた。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
 大国主の命 「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
 スクナヒコナの神 「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。

 この掛け合いを通じて出雲王朝御代の善政ぶりを知るべきではなかろうか。出雲王朝御代の善政ぶりについては別稿で論じようと思うが、ここでは、この「我々が造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を味わうべきだと心得たい。世界広しと云えど、政治の最高指導者が、かくなる善政を思念し実際に敷いていた例は珍しいのではなかろうか。これを後々「ご政道」と呼ぶようになる。

 大国主の命の「ご政道」ぶりは国譲り譚のところでも明らかにされているので、これを確認しておく。国譲りの際、大国主の命は、軍事的威圧によって政治支配権を得ようとする渡来系新勢力に対して次のように述べている。(記紀、風土記、その他史書の原文の方が改竄されている節が認められるので、れんだいこ訳で通訳しておくことにする)
「私達はこれまで平和な共同体を築いて参り豊かな国に仕上げつつあります。この途上での国譲りを談判されていますが、戦争が続くことにより国土が疲弊し、民が困窮し、歴史の後々に恨みを残す国になってしまうことを憂います。かくなる上はお望み通りに豊葦原瑞穂国を差し上げませう。但し、私どもが営々と築き上げてきた国造りの理念を引き継いでください。これが国譲りの条件です。もう一つ、私どもは政治の世界から身を引きますが祭祀の世界ではこれまで通りに活動できるよう約束してください。これさえ保障されるなら、先ほど述べた理由により私どもが顕界から身を引き幽界に隠居することを約束します。もう一つ、我が王朝の有能な御子たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆がこれに倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。

 これによれば、大国主の命は、国譲りの際にも「ご政道」を説き明かし、渡来系新勢力に継承を要望していることになる。これが、後の大和王朝にも受け継がれ、今日に至るまで為政者の襟を正しめる役割を果たしていると窺うのは窺い過ぎだろうか。れんだいこは、日本政治の根底に潜む心得として窺うべきだと考える。この「ご政道精神」が失われ過ぎている現下の日本だけれども。この精神は、何が「ご政道」であるかが次第に分からなくなりつつあったけれども幕末期までには確かに存在していたのではなかろうか。

 れんだいこのカンテラ時評№1205  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月11日
 れんだいこの天皇制論その3、大国主の命期の出雲王朝のご政道、政治思想考

 ここで「大国主の命期の出雲王朝のご政道考」をしておく。これらは、現下の日本政治には窺えないが、日本政治精神として色濃く継承されてきたものであることを確認する為である。本来の天皇制の在り姿を垣間見ることができよう。天皇制論の際に弁えておかねばならないことだと思っている。

 「大国主の命期の出雲王朝のご政道」が、今日から見て古神道に導かれていたのは間違いない。それでは古神道とはどのような宗教精神なのだろうか。これについては先に「れんだいこの日本神道論」を発表しているが、云い足りなかったところを補足しておく。れんだいこはかく判じたい。

 古神道を理詰めで説けば要するに「天地人の理」を解き明かし、これに即応させる修法であると云えるのではなかろうか。「天地人の理」とは、「天の理」、「地の理」、「人の理」のそれぞれを解き明かし、その上でそれらを三位一体的に捉えて「天地人総合の理」として捉え直し、これを見究め処断していく作法を云うのではあるまいか。これは相当に精神性の高い修法であり、これを極めた者が霊能者として命(ミコト)になり、その命が「御言」を宣べる者となり、その「御言」を宣べる者の総帥がスメラミコトとなり、そのスメラミコトの頂点に立つのが天照大神であったと思われる。これを修法するのが古神道であり、この古神道の御教えに導かれて紡ぎだされた政治的なものが本来の「ご政道」である。その他が何々道であり、これに伴う礼儀作法である。こう捉えたい。

 「天地人の理」を認識論とすれば「御魂の理論」をも生み出して補完していた。これがいわば実践論となる。「御魂の理」とは、魂を和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)の四魂に分け、それぞれの魂の働きを願い奉る信仰を云う。出雲王朝御代は、この四魂を魂の四態原理として組み合わせ、情況に応じて発動させ、これに則った政治を執り行っていたと拝したい。これが日本学的な戦略戦術論の原型とも云えよう。

 和魂(にぎみたま)は徳を表わし、平和の和に繋がり、政治では徳治主義となる。幸魂(さきみたま)は幸を表わし、幸運の幸に繋がり、政治では殖産興業となる。奇魂(くしみたま)は奇を表わし、奇妙の奇に繋がり、政治では霊能政治となる。荒魂(あらみたま)は武を表わし、武闘の武に繋がり、政治では不義不正に抗する武能政治となる。

 この御代の思想を確認しておく。古神道思想が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、動態的な生命体としてみなしていたことは確かなように思われる。その地球が他の天体と大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。ここから翻って大地に精霊を認め(地霊)、天と交合し様々な気象を生むとしていた。その他自然の万物にも精霊が宿っており、その恵みとお陰を受けているとしていた。これを精霊信仰又は御霊思想と云う。

 食物連鎖を互いの生命の大いなる循環と捉え、この思想に沿う形で狩猟、採集、農耕を生み出していた。これより始まる士農工商社会を秩序化させていた。士農工商は対立するものではなく、分業的に互いに補完し合う関係として位置づけられていた。四季の変化を取り込み、生活をその折々に即応させていた。森羅万象を二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで分類し理解していた。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えていた。総じて汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出していた。これを仮に「日本上古代思想」と命名することができよう。

 特徴的なことは、神人和楽且つ神人協働の哲理を持っていることであり、その哲理が非完結態の開放系構造であったことであろう。もう一つの特徴は、絶対の真理とか教条、戒律を持ち込まず、万事に於いて例外をも許容しながら臨機応変に処すことを良しとしているように思われる。その水準は世界一等的なもので、他のどのような思想宗教と接触しようとも、まずは受け入れ次にすり合わせし次第に咀嚼する芸風を見せた。これが上古代日本が生み出した土着的思想であり非常に高度なものと窺う必要があろう。政治思想を学ぶのに何も西欧のそれから説き起こすことはない。日本の自生的な思想を深く学び、その上で外来的なものとの摺り合わせこそが必要な営為であろう。

 この御代の処世法を確認しておく。出雲王朝下では「七福神(しちふくじん)譚」が説かれていたと思われる。七福神とは恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。

 恵比寿神(えびすさま)は釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。主として商売の神様として信仰される。「笑う門には福来る」の御教え神となっている。

 大黒天(だいこくさま)は丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。主として豊作の神様として信仰される。

 毘沙門天(びしゃもんさま)は甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。主として勇猛の神様として信仰される。

 弁財天(べんてんさま)は琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、主として学問、芸術の神様として信仰される。

 福禄寿(ふくろくじゅ)は長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。主として健康の神様として信仰される。

 寿老神(じゅろうじん)は白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。主として長寿の神様として信仰される。

 布袋和尚(ほていさま)は半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。主として和合福徳を招く神様として信仰される。

 七福神の風体、小道具は、その理をそれぞれ象徴しており諭しがある。これを味わうべきだろう。これら七福神が共に宝船に乗っている。このことは七福神が互いに同居していること航海に出向いていることを意味している。即ち七福神思想でもって互いに仲良く助け合って世渡りして行くことを示唆しているように思われる。「出雲の七福神譚」は人々の生活上の諭しであり且つ出雲王朝御代の政治思想を間接的に説き聞かせていると拝したい。その宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)には次の言葉が書かれている。 「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」。(永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)。

 これらの全体が「言霊信仰」を基底としていたように思われる。祝詞(のりと)はこれにより生みだされている。これについては別途論考する。れんだいこが感心するのは、大国主の命期の出雲王朝の「ご政道」、「思想」、「七福神(しちふくじん)譚」は味わえば味わうほど有益で奥が深く理に適っていることである。これを思えば、近現代史日本で学問として教えられているところの国際ユダ邪テキストの方が底が浅いように思われる。それは「天地人」を物としか看做さない血の通わない物象化学問であり、古神道の御教えとはマ反対のものになっている。古神道の御教えは生活に活きるが、国際ユダ邪テキストの学問は学んで却って阿呆にされるのではないかと思っている。戦後は、そういうろくでもないものばかり教えられているが、教えられなくなっている「大国主の命期の出雲王朝のご政道、思想」の方こそ学ぶべきであり、少なくとも両方学べば良かろうにと思う。

 れんだいこのカンテラ時評№1206  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月11日
 れんだいこの天皇制論その4、天皇制同居論

 以上、シリーズで天皇制の善政特質について確認してきた。天皇制が理念通りに機能してきたかは別である。だがしかし天皇制の中に善政理念が内在しているのは確かである。且つ家系的にはともかくも制度的にかくも連綿と列なって万世を経て存続して来ているのも事実である。即ち万世一系が、この理念的天皇制と云う意味では成立していると看做したい。ここまで続いている例は世界にないのではなかろうか。

 こうなるとこれはれっきとした世界に冠たる文化遺産であろう。これを廃止せよ論、打倒せよ論、消滅期待論等は、文化遺産的に捉えるならば日本のもう一つの象徴たる富士山を削り取ってなくせと云う論と同じである。富士山は単独で巨峰を為し、山頂から山裾まで美姿であるところに特徴がある。古来より富士を霊山とみなして崇める信仰が続いている。そういう富士をなくせ論の生まれる余地はない。日本の最高霊峰富士になぞらえられるのが天皇制であり、同様に天皇制不要論なぞあって良い訳がなかろう。れんだいこはかく考える。

 天皇制とは日本の政治の古来よりの型であり、これをなくせよ論に向かうより、本来の天皇制の姿に於いて存続を願う方が賢明ではないかと思っている。戦後の象徴天皇制は伝統的な天皇制に近いもので、その国事行為、行事の数を減らし、もっと大らかに文化的精神的な皇室活動をもって寄与する方が理に適っているように思われる。昭和天皇は象徴天皇制の裏で何かと政治的に立ち働いていたことが判明しつつあるが、平成天皇は文字通りの意味で象徴天皇制に沿い古来よりの理念的天皇制の法灯を継いでいるように見える。そういう意味で、れんだいこ的には平成天皇下の天皇制に異存はない。美智子妃殿下となると現代の天照大神であり卑弥呼ではないかとさえ思っている。

 もとへ。天皇制廃止論の正体は黒船来航以降のものではなかろうか。もっとはっきり云えば国際ユダ邪の日本侵略と共に始まり忍び寄っている気がする。手を替え品を替えいろんな反天皇制論が登場しているが、それらは皆な天皇制の特質を理解せぬまま君主制一般と同視して、その打倒論の系譜で立ち現れている言である。国際ユダ邪の暗躍するところ決まって必ず時の君主制が打倒されている。それが日本にも押し寄せていると看做せばよい。その結果、君主制時代よりも良好な社会が生まれるのならともかくも「かの御代の方がまだしもマシだった」ような戦争、増税、国債に苦しめられる歯止めのない貧富格差社会へと誘わることを警戒せねばならない。元の君主の座へ国際ユダ邪の司令塔が鎮座し、ハゲタカが指揮棒を振り、その雇われが御用聞きに立ち回るお粗末な世の中にされるのが見えている。

 戦前日本の場合、近代的天皇制が日本帝国主義の理念的精神的主柱として機能させられていたことにより、諸悪の根源に天皇制を認めるコミンテルン指令「天皇制廃止を専一にめざす天皇制打倒論」の生まれる余地はあった。しかしそれはとても危ういものである。国際ユダ邪の暗躍を知らない戦前の共産党員が、西欧的な帝制打倒論そのままに天皇制打倒論を生硬に振り回せば振り回すほど左派的であると思い込まされ、本稿で述べたような理念的天皇制に関する分析をしないまま、その知らぬ弱みで思想検事との問答戦に挑んだところ、雁首並べて理論的な敗北を余儀なくされている。これが大量転向の伏線になっている。日本左派運動は今に至るまでこの負の遺産を切開していない。れんだいこなら、近代的天皇制が伝統的な天皇制とは別のものであり、却って天皇制そのものに対する信頼を毀損するものでしかないとして立ち向かうところだ。これに対して思想検事がどう応答しただろうかと興味が湧く。

 戦前の近代的天皇制下の好戦主義は大東亜戦争まで定向進化し敗戦となったが、この戦史の理論的総括も日本人の手では為されていない。「天皇戦犯論」も然りである。しかし思うに、それを近代的天皇制の宿アとして指弾するのならともかくも天皇制解体まで広げるべきだろうか。この仕切りさえない暴論が罷り通っているように見える。戦後憲法で天皇の地位は象徴天皇制となったが、それでも天皇制廃止に拘る根拠があるのだろうか。こう問いたい。

 日本の場合、むしろ日本政治の伝統的型としての天皇制との共和的同居の方が何かと賢明なのではなかろうか。今日の如く絶対主義的な「御言宣り」ではなく相対主義的な「御言宣り」を味わう方が天皇制にとっても幸運で似合いなのではなかろうか。直近のところで、時の政治権力が原発再稼動を云い、引き続き原発を重要電源にすると声明しているが、平成天皇は事故より一貫して被災地と被災民を憂い、日本が賢明に対処するよう「御言宣り」している。れんだいこは安堵する。これを思えば、天皇制の果たす役割はそれなりにあるのではなかろうかと思う。

 昨年末の園遊会で、山本太郎参議院議員が天皇に直接、原発事故や被爆労働者について書いた手紙を渡すと云う事件が発生した。左右両翼から批判轟々となったが、れんだいこ見解は少し違う。こういうことが頻発すると好ましくなく、不測の事態に繋がりかねないと云う意味では賛意しかねるが、山本議員の天皇に対する直訴は、平成天皇を伝統的な「命」天皇と看做して「民の心」を訴えたと云う意味で本来の天皇制の理念に沿っている面があるやに見受けている。本来なら、天皇は直訴文に目を通すことこそ望まれている。しかし実際には直訴文は側近の手に渡されたようで、山本議員のパフォーマンスのみが取り沙汰されることになった。仮に、れんだいこがそういう場に参列したとして同様の行為をしようとは思わないが、天皇と民との本来の近親関係に於いては「あり得て良い技」だったと解している。山本議員の天皇観こそ伝統的な天皇観に適っていると思っている。

 本稿を結ぶにあたって孝明天皇の次の御製を記しておく。
 「朝夕に 民やすかれと 思ふ身の 心にかかる 異国(とつくに)の船」(安政元年)
 「澄ましえぬ 水に我が身は 沈むとも 濁しはせじな よろづ国民(くにたみ)」(御詠年不祥)
 「この春は 花鶯(うぐいす)も捨てにけり わがなす業(わざ)ぞ 国民のこと」(御詠年不祥)
 「うば玉の 冬の夜すがら 起きて思い伏して思う 国民のこと」(御詠年不祥)
 「我が命 あらん限りは祈らめや 遂には神の しるしをも見む」(御詠年不祥)
 補足して、史上の名歌人の天皇論を確認しておく。
 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 慮りせるかも」(柿本人麻呂)
 「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす ----」(柿本人麻呂)
 「現つ神 我が大君の 天の下 八島の内に ----」(田辺福麻呂)
 「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の ----」(山部赤人)
 「大君の 命畏み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を 掛け幕もむゆゆし畏し 住吉の 現人神 船*に ----」(石上乙麻呂)

【「れんだいこ」文の紹介】
 「谷間の百合」の「皇室は日本の自由民主主義の優れた盾」。
 「れんだいこ」というツイッターから。

 「日本の伝統的政体は天皇制社会主義で世界に冠たる良質のもの。この政体より天皇制を抜いてもいけない、社会主義を抜いてもいけない、いわば両輪関係。このことを理解しない天皇制主義者、社会主義者は実は外来思想被れ。天皇制社会主義の端緒は出雲王朝政治。大国主の命政治が鏡。ここが分からんとな」

 「その天皇制社会主義の観点から現代日本政治を見ると、無茶苦茶のし放題にしてその競い合い。その教書は国際ユダ屋テキスト。それは日本の天皇制社会主義と真逆の思想にして政体。黒船来航以来150年でこんな日本にされてしまったんだな。そう気づいてからは本当の日本を取り戻さなくっちゃと思う」


 わたしが言おうとして四苦八苦していたことが簡潔明瞭に書かれていました。天皇は、天皇を否定し憎む人間の側におられるということです。偽保守や右翼の側ではなく、むしろ、革新のシンボルにもなる存在だということです。いつまでもヒエラルキー史観に囚われていると世界からも取り残されるのではないでしょうか。というのも、フランスの週刊誌が、「アベシンゾーの隠された顔」という特集で、総理が企む憲法改正に「今のところ、思いがけない人物がこれに対する抵抗勢力になっている」として「皇室は今や、日本の自由民主主義の最も優れた盾となっている」と書いているからです。皇室はむしろ外国で理解されているのかもしれません。

 日本史の背骨をつらぬく歴史が天皇史である。講師の名は歴史研究家/落合莞爾氏。


【祝(はふり)の神事考】
 石工の都仙臺市の2006.11.6日付け投稿「天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)の神事」を転載しておく。

 天皇は、血筋は抑もなれど、祝(はふり)の神事の祕儀、奧義を伝授、会得、体得して初めて天皇となる。故に現在の天皇は名、実共に天皇に非ず。ここ根本的問題を解決せざれば神国日本は滅亡する事必定なり。新人物往來社 平成七年(一九九五年)一月十三日發行 別册歴史讀本 ; 特別増刊81 . 《これ一册でまるごとわかる》シリーズ ; 18古神道の祕術 二百四十頁
  
 伯家神道と最後の学頭・高濱清七郎 明治天皇に指導された「祝(はふり)の神事」の謎

 神道祭祀の根源宗家たる白川伯家。その最後の学頭である高濱清七郎が明治天皇に指導した「祝の神事」とは何か? その特殊神事の実体を明らかにし、その再興への熱いメッセージを贈る。藤原正鐘【文藝評論家】
 
 ここ十年来、古神道に対する関心が高まりをみせている。教学よりも行法に重点を置くものの代表として伯家(はつけ)神道が注目されているようだ。そこで伯家最後の学頭・高浜清七郎と、伯家に伝えられていたと云う特殊神事としての伯家神道が、幕末・維新期を経過してどのような行方をたどったのか、また特殊神事とはどのようなものであったのか? その実体の解明に迫り、その現代的意義についても探ってみたい。
 
 神祗官の長たる白川伯家

 白川伯家は王朝の末より代々神祇官(じんぎかん)を主唱し、宮中に於る恆例・臨時の祭祀に奉仕する聖職にあった。そこで自然に、神祇祭祀の道に根源宗家となるに至った。純神道に於る祭祀の方法、並びにこれに伴う行事の根本として、絶対的地位を占めるのはこの一家である。第六十五代花山(かざん)天皇の皇子清仁(すみひと)親王の御子延信(のふざね)王が、後冷泉(ごれいぜい)天皇(第七十代)の永承元年(一〇四六)神祗伯(じんぎはく)に任ぜられ、その子康資(やすすけ)王も伯となり、更に康資王の孫顯廣(あきひろ)王が二條天皇(第七十八代)の永万元年(一一六五)に伯となるに及び、任伯の期間は王氏に復帰する例を開かれた。以来神祗伯は他姓を任ぜず、白川家の世襲となり、明治維新に及んだが、顯廣王より資訓(すけくに)王まで五十一代を累(かさね)た。世に神祗伯家・白川伯王家(しらかわはくおうけ)或いは伯家と称す王氏をもって神祗官の長とされるのは、第二代綬靖(すいぜい)天皇の御代に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の古例に基づき、神砥崇敬の御主旨からである。白川家は神祗宮の長として、宮中内侍所(きゆうちゆうないじどころ)や神祗官八神殿(はつしんでん)の奉仕、天子攝關(せつかん)等に御拜(ぎょはい)を伝授した。また全国の神社を統括した。
 
 白川伯家最後の学頭・高浜清七郎

 明治天皇に「十種神宝御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云うことで現在でも「古神道」と云えば名前が挙がってくる人に白川家最後の学頭・高浜清七郎がいる。その高浜についてまづ概説してみたい。高浜は現在港區白金台にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高浜清七郎源正一霊人」として祭られている。命日は明治二十六年二月二十八日、享年八十一歳であった。毎年命日には門人の代表によって年祭が行われている。百年祭が行われてからまだ年が浅い。通称、高浜正一と呼ばれていた。

 清七郎は、文化八年(一八一三)備前都窪郡(現在の岡山県総社市で農家の子として生まれた。年齢は定かではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの呉服商人になっていた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立てを引き受けてをり、出入りしているうちにその才覚を見込まれて行学を修めるようになった。「白川家門人帖」によれば、天保年間一八三〇~四三年)に「『七種修業』終了門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久二年(一八六二 = 五十歳)八月には「十種神宝御法」(これが「祝(はふり)の神事」にあたるもの)の相伝を受け、内侍所並びに神祗官御免状、内侍御印書を拜受した。「十種(とくさ)」と呼ばれるようにこの御法は十段階に分けられ、「七種」を修めて入門が許され、「三種」で一般の門人の修行は終了する。「二種」、「一種」は神伝となり、「一種」が天皇の神拜所作である。

 高浜の影響を受けたと思われる神道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂帰神法(ちんこんぎじんほう)」を確立した本田親徳(ほんだちかあつ)がいる。本田は『本田親徳全集』の中で、「鎭魂帰神法」は日本古来から伝承されたもので、それを伝統に学んだとしている。それは、本田が高浜と友人だった事や「鎭魂帰神法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれている事から本田がこれを高浜清七郎かその一派から学んだと云って間違いないだろう。ちなみに「祝の神事」は取次者が輪になって行う「輸の鎭魂」とも云えるものである。

 高浜が後世高い評價を受けたのは、伯王に代わって宮中神事に奉仕したばかりでなく、白川伯家最後の学頭として皇太子時代の明治天皇への「十種神宝御法」の指導に携わった事からであろう。指導に携わっ時期は「十種神宝御法」の相伝を受けた文久二年(一八六二)八月以降から慶応三年(一八六七)までの間とみてよいだろう。「祝の神事」を実習しその意義を充分理解したと思われる明治天皇は、即位後も再三再四「高浜は今どこにいるか」と側近に間われたと云い伝えられている。然し、高浜清七郎の消息を知らせる者はいなかったと云う。「祝の神事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云って、「さにわ」、「かみしろ」、「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をする事になっている。


 このような人々は白川家を始めとする由緒ある家柄の紳士・淑女が携わっていたが、かかる人は氏素性がはっきりしているために隱れる事ができず、幕末から維新にかけて悉く暗殺されたと『神祗官沿革物語』に記されている。明治維新の陰の遂行者は、王制復古はどうでもよかったようである。幕末体制を崩潰させる大義名分として必要であったのであり、皇権の復活を望んでいたのではなかったようだ。王制復古が本来の皇権の復活になってしまへば、天皇を傀儡(かいらい)とする事ができなかったからであろう。かくして、宮中から天子(てんし)を取立る「祝の神事」は消滅していった。


 高浜もその難を免れないところではあったが、幸か不幸か公家や皇族の出身と云うことではなかった為にその難を逃れる事ができた。つまり、表面上は明治元年に神仏分離令が出され、神祗官が独立設置された。そして、王制復古・祭政一致の理念の下に高浜は大教宣布(だいけふせんぷ)の号令下、その宣教師となって全国布教に携わった。高浜は「祝の神事」の重大さを認識しつつもなす術(すべ)もなく、かと云って「祝の神事」をこのまま消滅させる事にも忍び難いものを覚え、全国布教のかたわら志あるものを募(つの)ってはその継承を決意していった。その決意に応じて「祝の神事」を実習した門人に、東京では吉田彦八、京都では宮内忠正(ただまさ)がいた。吉田彦八には「祝の神事」の行法が継承されていないが、宮内忠正は高浜の娘婿(むすめむこ)ともなり、行の継承に専念したようである。宮内も若くして他界したが、その実子・中村新子(しんこ)が継承し、この流れから多数の門弟が輩出していった。現在、民間で継承している人はこの流れを汲むものである。明治二十年頃には、築地の地主・遠藤はつ宅に同居し、東京での布教活動をするかたわら、ひそかに「祝の神事」も指導していた。然し、明治二十五年の秋、黄痕(おうだん)を患い翌二十六年二月、療養の甲斐もなく逝去した。 
 
 幕末・維新期の伯家神道

 明治二年神祗制度が改められ、皇族以外で王号を許されていた伯王の称号もおのづから廃された。更に明治五年神祗制度そのものが廃止されるに及び、その職制は、宮中内侍所に関するものが宮内庁に、全国の神社の統括に関するものは神社庁にそれぞれ移管された。ただし神祗官八神殿(はつしんでん)での奉仕、天皇や摂関等に御拜作法を伝授する職制はここで消滅した。

 その消滅への経緯は次のようであった。天子摂関等への御拜作法の伝授は八神殿に付属する祝部殿(はふりでん)と云う所で行われていたのであるが、これらの神殿は白川伯家の邸内にあり、その神事は祕伝として行われていたのである。この伯家神事の中核ともなる「御拜作法」の有職故実(ゆふそくこじつ)に関する引き継ぎをめぐって、実は歴史的とも云える事態となったのである(一般的には問題視する人は少ないが)。最後の神祗伯・資訓(すけくに)王は明治五年の神祗制度廃止に伴って、当然、神祗伯所管の有職故実の返還を迫られた。神祗官邸内で行われていたものは宮内庁、神社庁にそれぞれ移管された事は前述した通りであるが、間題は白川邸内に祭られていた八神殿と祝部殿の処置とそれに伴う「御拜作法」等の有職故実に関する引き継ぎであった。資訓王が当時の宮内庁の担当官に伺ったところ、「八神殿を返還するように」との答えであったと云う。現在八神殿の神々は神殿に合祀されている。そして、祝部殿に関する処置については何の返答もなかったと云う。そこで祝部殿はそのまま白川家邸内に殘された。

 その後、嫡子(ちやくし)、資長(すけなが)に受け継がれた。資長は華族制度の成立に伴って子爵(ししやく)の位を受け、貴族院議員にも成った事から新宿の角筈(つのはず)に居住する事になった。それに従って邸内の祝部殿も京都から東京へ移転した。その後、実子がなく北白川家より養子を迎えるが、唯一王家を名のる事が許された公家ではあったが、有職故実を失って、実質的メリットをもたない公家に何の魅力もなく、その後離縁となった。多くの公家や華族がそうであったように白川家も沒落し、家に伝わった文獻等は金光教や天理教等に売り渡されていった。

 当時、祝部殿で行われていた神事は皇太子のみにしか知らされていなかった神事であるだけに、その実質的担当者でなかった資訓王にしても宮内庁の担当官にしても、ことの重要性を理解できなかったとしても無理からざるところであったと思う。このようにして祝部殿とそれに伴う神事は、当然のことながら宮内庁や神社庁には継承されなかった。

 伯家神道のもつ意味は、本書で主題とするところの古神道としての行法の継承にあることは云うまでもない。江戸中期以降、官職としての神祇伯王家には天子摂関等への御拜作法並びに行法伝授の能力は失われ、専ら行法の指導を司(つかさど)る学頭にその職務は移行していた。そして、明治以後現在に至るまで、宮中では吉田家の伝統によって宮中祭祀が行われているが、そのこと事態は問題にならない。間題なのは、伯家神道の存在意義は祝部殿で行われる「祝の神事」(御修行と俗称されている)を中心とした行学にあるとともに、天皇神格化の原理である神人合一の優れた形式である「祝の神事」が、明治五年神祗制度が廃止されるとともに宮中行事から消え去った事にある。

 
明治維新を成功させた志士たちの理想は尊皇であり、王制復古であったはずであるが、でき上がった明治の天皇制は形ばかりのものとなり、実体は天皇制の空洞化であった。結果的には明治維新は皇道から覇道への転換であり、悠遠なる日本の伝統を卑(いや)しめる事となった。天皇が西欧封建君主のように軍服を纏(まと)い、サーベルを身に附ける事となつた事で象徴されよう。たしかに、天皇は大嘗祭(だいじやうさい)を経て天皇に即位する事ができる。「天皇は大嘗祭によって眞の天皇の資格を得る」と、昭和三年に歌人で国文學者の折口信夫(おりくちしのぶ)が発表した眞牀覆衾論(まどこおふすまろん)が示す通りである。然し、皇太子時代に長い期聞の修行を必要とする修行があった事も事実である。幸か不幸か、臣下万民の知られざるところで天皇となるための祕行「祝の神事」が存在していた事が、明治五年神祗制度そのものが廃止される事によって我々の知るところとなったのである。その最大の功労者は勿論伯家神道の最後の学頭・高浜清七郎である。

 実際大嘗祭を迎へるまで、代々の天皇は皇太子の時代から、長年の間「祝の神事」を白川伯王家邸内にて密(ひそ)かに修められていたのである。明治天皇は皇太子であった江戸時代の末期はまだ神種制度が存在していた時代であったので、この「祝の神事」を受けられた最後の天皇と云うことになる。実際に指導に携はった人物が、前述の通り高浜清七郎であつた。 
 
 帝王学としての天皇行とその故事來歴

 天皇は古来「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、第一に「統治する」働きと第二に「神を祭る」働きの二つを体現するのが本来の姿である。第一の働きである「統治する」働きを完遂するための原理は「天地創造の神の心の隨(まま)に」と云ふ原理である。文字によらず言葉によらずそれを体得する方法が「ヲノコロの祕法」と呼ばれるものであった。『古事記』、『日本書紀』にもその名前だけは散見する。天皇が御位を継がれると八尋殿(やひろどの)を建て、そこでこれを行じたとある。この祕法を行った結果、国が安らかに治まったとある。これに対して第二の「神を祭る」働きを完遂するため、身を清め神を迎えられるようにする修養が当然必要になってくる。「ヲノコロの祕法」と不離一体のものではあるが、これが前述した「十種神宝御法」であり、「祝の神事 = 御修行」と呼ばれる行法体系である。天皇家の系図は天地創造の神を先祖とし、各々の天皇はその直系の子孫と云うことになる。天皇がただ単に系図上、天地創造の神の直系の子孫であると云うだけではなく、その意識も神と同等の意識に立って万民を慈(いつく)しむ立場に立つためには、それなりの皇学が存在しても不思議ではない。

 
その皇学(帝王学)にあたるのがこの「祝の神事」を始めとする行法体系であると云うことになる。天皇は本来「祝の神事」をマスターする事によって、天地創造の神から始まって皇祖皇霊を迎え、親しく神々と交わり、しかるべき作法をもって靈を拜していたのである。この「しかるべき作法」と云うところが伯家神道の中核となるところである。神道のその他の行法や印度のヨガ行法を通じて「高い悟(さと)り」と云った境地に到達したと云う聖者は数多く存在する。天皇はそのような聖者になるだけでなく、ある形式をもって神を拜する存在になると云うことである。神を拜する時にそのしかるべき作法が伝授されるわけであるが、これを「神拜(しんぱい)の式」と呼んでいる。

 然し、意図したか否かは別として、明治維新はかかる重大な事柄を葬り去ってしまったのである。神武建国以來の悠久なる歴史の中で、このような事態が一度だけ起こっている。仏教伝來(五三八年)直後のことであった。この「神拜の式」の原型は神武帝の御代に天種子命(あめのたねこのみこと)によって確立され、用明(ようめい)二年(五八七)までその嫡流の子孫・大中臣牟知麿(むちまろ)まで継承された。然し彼は蘇我馬子(そがのうまこ)の陰謀により物部守屋(もののべのもりや)とともに滅ぼされたため、宮中からその神事が杜絶える事となった。この時、宮中に保管されていた伝国の宝物も燒き払われたと伝えられている。

 ここで神武以来の伝統が消滅した訳であるが、これを先祖の神詔を受けて復元させた人物が出現した。天種子命の庶子(しよし)、宇佐津臣命(うさつおみのみこと)の十九代目の末商(まつえい)・藤原鎌足(かまたり)である。大化の改新の成功によつて再びこの神事は宮中に復元された。用明二年の消滅以来、五十数年の後であり、天種子命がその制度を確立して以来、約千二百年後のことになる。この功績により藤原鎌足は「神祇再興の祖」として末代まで崇められる事になる。政治権力者として知る人は多いが、藤原鎌足が審神者(さにわ)の神である事を知る人は少ないに違いない。伯家神道では藤原鎌足は行法上の直接の指導神なのである。そして、明治維新に起こった「祝の神事」の教育制度が宮中から消滅すると云う事件は、藤原鎌足が神祗再興を果たしてから矢張り同じ約千二百年後のことになる。現在の「古神道」への関心の高まりは、本来の王政復古への日本人の希求の現れなのであろうか。藤原鎌足が神祗再興を果たしたのは用明二年の消滅以来五十数年後であったが、明治五年に神祗制度が廃止されて以来、既に百二十年以上の年月が過ぎ去ろうとしている。
伯家神道の口伝(くでん)の中には、この神事を受けない天皇が百年間継続する時、日本の国体も滅亡すると云ういい伝えが存在する。大正、昭和、今上(きんじやう)と年数を数へてみると既に八十五年が経過している。いい伝えが嘘であってほしいものである。
 
 「祝の神事」の現代的意義

 現在、日本は経済的に大きく繁栄し、多くの国々の羨望の対象になっている一方、国際社会で高く評価されてきているのも事実である。かかる現状を鑑(かんが)みると、世界に類例をみない天皇制に大いにその恩恵を被(かうむ)っているとみる事ができよう。だからと云って日本の伝統として伝えられた、文字によらず言葉によらぬこの帝王学の存否が日本の存亡に関わりがないと判断するとすれば、これもまた大変淺はかな判断ではなかろうか。これからの国際社会の中に於る日本の立場は、経済大国として世界に貢献する事が期待されている。国連の常任理事国となる事も期待されている。然し、一方大変危険な方向に向かっている事も見逃してはならない。

 東西冷戰の終結によつて、日本とアメリカの関係は徐々に軍事的結束が緩んで来ている。日本の防衞は他国から侵暗する国がない事を前提としている。侵掠する国があるとすれば、日米安保条約を基にアメリカが守ってくれる事が前提になつているのである。アメリカが世界の警察官を自任してゐる間は日本も安泰と考えてもよいだろう。然し、十年後、二十年後このままの状態が継続する保証がどこにあろうか。

 湾岸戦争の間、アメリカは世界に呼び掛けてフセインの非を制裁しようとした。然し、経済的には日本やドイツに多くを依存していたのである。アメリカにとって日本は保護する対象ではなくなりつつあるのだ。むしろ、国の存亡を脅(おびや)かす存在とすらなりつつあるのだ。十年後、二十年後、アメリカにとって代わって覇權を主張する、その実力をもつ国が現れないと云う保証がどこにあるだろうか。国際社会は決して安全な世界ではない。

 そんな中で、
日本が生き延びていく原理は何かである。世界から尊敬される国になる事であり、かつ神から愛される国になる事である。世界から尊敬され、神から愛される国になる原理がまさに、生命としての日本人の核である天皇の姿勢である。その天皇の姿勢を伝統に基づいた姿に育てる教育制度が神祗制度の中の「祝の神事」であった。この復元によってこそ日本が世界の中で生き延びる事のできる第一条件が整うと云えよう。

 日本が悠久なる歴史の中でその国体を保ってこられたのは、その時その時の爲政者と国民の努力にあった事は勿論のことであるが、もっと大きな力は、目に見えない国魂(くにたま)の力なのである。その意味で日本を守る国魂の力は絶大なものがあると云ってよい。その日本を守ろうとする国魂の慈しみの心を、今なお失わさせずに嚮かわせている力が、天皇の国魂に対する「神拜の式」なのである。天皇が「祝の神事」を修め「神拜の式」を修得する意義はここにある。覇道が武力、王道が徳力を頼りにするものであるとするのに対して、皇道とは神ー国魂の力と心を嚮かわせて国を守る道と云ってもよいだろう。天皇は神に国の安全と民の幸福を祈る祭り司(つかさ)と云うことになる。その祭司に必要な祈りの形式が「神拜の式」であり、祈りの言葉の形式が三十一文字(みそひともじ)の短歌と云うことになる。天皇のアメリカ訪間でクリントン大統領が日本の国学者・橘曙覽(たちばなあけみ)の歌を引用して挨拶を述べられたごとく、天皇が短歌に執心されている事は海外まで知られるようになっているが、これが神への祈りの言葉の形式であり、更に神への祈りの形式「神拜の式」がある事や、天皇がそうした重要な役割を担っている事が理解される日はいつのことだろうか。

 明治天皇(大室寅之佑)は、南朝系ですらなく、天皇家の血筋と縁もゆかりもない地家家の血筋の可能性大である。そして、ここに述べられている祝の神事の祕義を授かっていないのである。ここ両面に於いて、名実共に現皇室は天皇家ではないのである。天皇の神聖を冒涜しているのである。

(私論.私見)

 日本神道を説くのに出雲王朝御代来の古神道から説き起こさず、あるいは戦後日本の国運の舵取りを米国庇護下で図るのを良しとしており、何より黒船来航以来の国際ユダ邪の露骨な容喙に対する不言及なところ等、いろいろ問題箇所があるが、 この一文の為になる部分を学べば良かろう。

 2014.1.11日 れんだいこ拝




(私論.私見)