旧事紀によると、ニギハヤヒの諡号は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、略して天火明命、亦の名は天照国照彦天火明尊、膽杵磯丹杵穂命で、まさに天照大神に相応しい諡号と云える。神名にこれほど尊称のものはない。「天照」、「国照」とは国土と国民はもとより万物万象を差別無く照らし慈くしむ太陽に匹敵する神である。記紀が編纂される以前は、ニギハヤヒは皇祖天照御魂大神として祀られていたことが判明する。ところが、記紀が編纂された8世紀以降、ニギハヤヒは大歳神社、大神神社、美和神社、三輪神社、天照神社、天照御魂神社などの主祭神としてその名も大物主神をはじめ大歳尊、大歳明神、大歳御祖、櫛玉、櫛甕玉、鴨大神、別雷神、闇オ神、事解男命、豊日別、金山彦神、家都御子大神など様々の別名で祀られるようになった。こうしてニギハヤヒの神名の名が消された。ニギハヤヒと大国主の命を重ねれば、大国主の命の様々な神社、大国主の命の様々な名がこれにかぶることになる。
スサノオ・オオトシの出生地、出雲(島根県)にはオオトシを祀る神社も多い。飯石郡三刀屋町の大歳神社は、島根神社庁発行の「神国島根」によると、「須佐之男命、出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている。オオトシはスサノオの子だったことは間違いない。こうしてニギハヤヒは、若い頃の名前をオオトシと云い、スサノオの御子であることが判明した。
兵庫県、島根県を中心に大歳尊、大歳明神、大歳御祖として祀る神社が多い。播磨には大歳(年)神を祭神とする大歳(年)神社が387社ある。大和以東では大歳神社は少ない。兵庫県龍野市龍野町日山の粒坐天照神社の祭神は天照国照彦火明命である。同社記によると「推古天皇二(549
)年1月1日、小神の地に住む長者・伊福部連(物部氏族)駁田彦の邸裏にある林の上に異様に輝くものが現われた。それはやがて容姿端麗な童子と化し、自分は天照国照火明命の使だと称した。駁田彦は、この傍から神勅を賜わって稲種を授けられ、これを水田に播くと一粒が万倍になった。以後この地は米粒を意味するイイボ(揖保)郡と呼ばれるようになり、人々は深くこの神に感謝し、氏神として祀った」と云う。古代からこの地方ではニギハヤヒが祀られていたことを裏付けている。
奈良には大神神社と並ぶ大社が天理市の大和神社、石上神宮がある。戦前までは国家管理の官幣大社だった。大和神社はニギハヤヒ父子三人を祀っている。石上神宮(奈良県天理市布留町布留384)につき、旧事紀は「饒速日尊の六世孫伊香色雄命が崇神天皇の御代に布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に遷し建てる。即ち天祖(スサノウ)が饒速日尊に授けたまひ天璽瑞宝も共に蔵め斎ひて、号けて石上大神と曰す」と記している。スサノウの父布都命を祀る布都大神社が何処かに在ったものを、崇神天皇の御代に石上邑に遷し建て、スサノオとニギハヤヒを祀ったとみられる。祭神は布都御魂大神(スサノウの父)、布都斯御魂大神(スサノウ)、布留御魂大神(ニギハヤヒ尊)とされている。
和歌山県田辺市本宮の熊野本宮大社の第一殿には、家都御子大神と事解男命が祀られている。同社の案内書では、家都御子大神はスサノウとしている。「事解男命は表に出ない神様です」と説明しているがニギハヤヒである。海南市藤白の藤白神社は、ニギハヤヒの後裔熊野連の末裔鈴木氏が平安時代に熊野三山から勧請して氏神を祀ったとしている。藤白の鈴木氏は熊野から移住した氏族でニギハヤヒの長男の天香語山命(亦名手栗彦命)の末孫である。全国鈴木姓の祖で熊野神社と熊野信仰を全国に広げた元祖とされている。ここでは主祭神は饒速日尊と明記している。これより推測するのに、熊野本宮大社の祭神「事解男命」は元はニギハヤヒだったと思われる。同社境内に「藤白皇大神社」と彫刻した大きな石碑が今も立っている。熊野本宮大社の神名も改竄されたものと思われる。熊野本宮大社の前身は熊野坐神社であり、出雲王朝系の後裔が出雲の熊野坐神社から祭神を勧請し、熊野連一族が祭祀していたと推定できる。大化改新で熊野国造が廃止され、その後は藤原一族の湛増が別当職(宮司の長)に就いた。これにより神名の改竄が為されたと思われる。京都市上賀茂の賀茂別雷神宮の祭神・賀茂別雷神も改竄神名である。静岡市の別雷神神社では「往古には大歳御祖皇大神として祭られていた」とあり、同市の浅間神社には「大歳御祖神社」が祀られている。記紀以前までは、大和の大きな神社ではニギハヤヒが皇祖神として祀られていた証拠が数々ある。歴代の天皇が参拝を欠かさなかった事実が証明している。記紀が創作した天照大神を祀る伊勢神宮には平安時代になっても天皇家が参拝した記録は一度もないと云う。
宇佐市の宇佐八幡宮の祭神・八幡大神は応神天皇ということになっているが、本来はスサノウだったと思われる。大神神社の初代宮司・意富多々泥古(大直禰子)の末裔の大神比義命が、欽明天皇の御代(540~571
年)に豊前国宇佐郡菱形山に八幡大神を祀り宮司の祖となったと云う。これによれば、当初の宇佐八幡宮の祭神は出雲王朝系のスサノウ、ニギハヤヒ、伊須氣余理比賣命だった可能性が強い。豊後速見郡史によると「豊後国大神姓八坂氏、大神氏族なるべし」とあり、桜井市の大神神社の斎主大神氏から分族した氏姓とみられる。書紀が「譽田尊(応神)が八幡大神と名前を交換した云々」と記している通り、宇佐八幡宮から祭神を勧請した全国多数の八幡神社系の祭神が応神天皇、比売大神、神功皇后に改竄されたと思われる。藤原時平・忠平らが927(延長5)年に撰上した延喜式神名帳は既に「八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫廟社」の三座になっている。
スサノウは「神祖熊野大神櫛御気野尊」、「布都斯御魂大神」で、ニギハヤヒは「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」である。スサノウは神祖であるが、ニギハヤヒはそれ以上の諡号で「皇祖天照大御神」そのものと云える。京都の八坂神社には、スサノウを主祭神に、御子八人が祀られ、そのうち第五子に大歳神の名前がみえる。島根県にはオオトシを祀る神社が多い。飯石郡三刀屋町にも大歳神社があるが、島根神社庁発行の「神国島根」によると、「須佐之男命、出雲に於いて大歳命を生み給い云々」と書かれている。紀の川市桃山町調月の大歳神社は、603(推古天皇11)年、紀氏の十代紀男麻呂宿禰がこの地を拓き八万堂(現山人平)に大歳明神を創祀したのに始まる。オオトシの兄五十猛命は木(紀)国の始祖で、紀伊国一の宮だった和歌山市伊太祁曽の伊太祁曽神社に祀られ、木の神様として今も全国各地の木材業界の信仰が篤い。紀伊国は、もと紀国、太古には「木国」だったことによる。
社名を天照神社としニギハヤヒを祀る古神社は他にも沢山ある。和歌山市太田に在る通称日前宮と呼ばれる日前国懸神宮の祭神は、日前神宮は日前大神、国懸神宮は国懸大神だとしている。ニギハヤヒの臣下として大和に同伴し、神武天皇時代に紀国造に任命された天道根命が名草郡毛見郷浜宮に神宮を創祀したと伝えている。日前大神は元の皇祖天照御魂大神、つまりニギハヤヒであり、国懸大神は皇国の本主須佐之男尊(神祖熊野大神櫛御気野尊)を祀っていて当然とみられる。同神宮の御由緒によれば、「創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。日前神宮は日像鏡を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡を御神体として國懸大神を奉祀しております。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命の議に従い種種の供物を供え天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢神宮の御神体として奉祀されたと日本書紀に記されております」、「日前宮は紀伊國一之宮にして天照大御神を奉祀しております云云」とある。鏡作坐天照御魂神社の由緒と同様で、本来の天照大御神はニギハヤヒだったことを証明している。
江戸時代の1893(天保10)年に編纂された紀伊続風土記には、日前大神社の境内末社に、ニギハヤヒの長男天香語山命社など三十九社がみられ、その祭神はニギハヤヒの大和東遷に同伴した人々が殆どである。両社の記述や境内末社に祀られた祭神からみて、日前大神は紛れもなく天照国照彦火明命、つまりニギハヤヒである。この神社も、奈良時代の朝廷、つまり記紀の編纂当時の朝廷に祭神名や由緒の改変を強要されたものであろう。
各地の神社伝承を調べ、ニギハヤヒ(饒速日)は、スサノオの第五子で、青年時代の大歳(大年)であると確認した小椋一葉氏も、経過を次のように述べている。京都大原野灰方町にある大歳神社は、御祭神・大歳大神配祀・石作神豐玉姫命とし、同社の記録によると、同社は代々、石棺や石材を造っていた古代豪族の石作連が祖神を祀った神社だとされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神と云う」と明記されている。ということは、大歳大神=火明命である。また、岐阜県岐南町にある石作神社の記録に、「石作連は尾張氏と同祖で、天火明命の裔孫である」と書かれている。
愛知県一宮市の真清田神社の由書記に、「祭神は天火明命。詳しくは天照国照彦火明命、一つに天照国照彦火明櫛玉饒速日命と云い、真清田の農業地帯を開拓された尾張氏の祖神である」という。こうしたことから、ニギハヤヒの諡号は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命で、「天火明命」は諡号の一部だった。
ニギハヤヒの諡号のフルネームで祀っている神社には愛媛県松山市の国津比古命神社、福岡県鞍手郡宮田町の天照神社がある。国津比古命神社の記録には、「物部阿佐利が風早国造に任ぜられて饒速日尊及び宇摩志麻冶命を祭礼、櫛玉饒速日命神社と称した」と記されている。記紀は、天火明命を天照大神の長男天忍穂耳尊の子としているが信用できない。神社の祭神は二人以上祀られているときは、親しい関係にあった同士、夫婦、親子、一緒に仕事をした者同士、主従関係等であるが、天火明命や饒速日尊と天忍穂耳尊が一緒に祀られている神社は全く見当たらないという。
京都の八坂神社には、スサノオを主祭神に御子八人が祀られ、そのうち第五子に大歳神の名前がみえる。スサノオの出身地でオオトシの誕生地である島根県にはオオトシを祀る神社が多い。飯石郡三刀屋町にも大歳神社があるが、島根神社庁発行の「神国島根」によると、「須佐之男命、出雲に於いて大歳命を生み給い云々」と書かれている。こうして、ニギハヤヒは、またの名をオオトシと云い、スサノオの子であることが判然とした。紀の川市桃山町調月の大歳神社は、推古天皇11(603)年、紀氏の十代紀男麻呂宿禰がこの地を拓き八万堂(現山人平)に大歳明神を創祀したのに始まる。当社は千四百年余の古い歴史をもっている。
オオトシの兄五十猛命は木(紀)国の始祖で、紀伊国一の宮だった和歌山市伊太祁曽の伊太祁曽神社に祀られ、木の神様として今も全国各地の木材業界の信仰が篤い。紀伊国は、もと紀国、太古には「木国」だったからである。
以下、大物主(オオモノヌシ)について併せ確認する。大物主は、桜井市三輪の大神神社をはじめ各地の神社に祀られている。れんだいこは、大物主を大国主の命又はその系譜の命と解している。大神神社の祭神は倭大物主櫛甕玉命、大物主櫛甕玉命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命である。結局、「大国主の命=オオトシ=ニギハヤヒ=オオモノヌシ」という図式が成立するように思われる。桜井市三輪の大神神社から祭神を勧請した神社として、1・栃木市惣社町の大神神社(祭神・倭大物主櫛甕玉命)、2・岐阜県養老郡上石津村の大神神社(祭神・大物主櫛甕玉命)
、3・徳島県名東郡国府町の大神神社(祭神・大己貴命)が確認できる。同系列の三輪、美和神社は全部で13社あり、うち三神社が主祭神は大物主神で、群馬県桐生市の美和神社には祭神大物主奇(櫛)甕玉、建速須佐之男命が祀られている。この系譜は全て出雲系である。
福井県小浜市加茂(若狭国加茂村)の彌和神社も三輪の大神神社系である。同社記に「祭神は大歳彦明神、神名帳には従三位御和明神。昔から賀茂村では三輪大歳彦明神として祭られ、大和の大三輪神をここに祀った」と伝えている。江戸後期の国学者伴信友の「若狭國官社私考」は、同彌和神社について、「賀茂村の内大戸と云處に三輪大歳彦明神、大歳彦(
唱意冨登比古)と申して山の麓の神離の形のありて社なし。今其神離を疱瘡の護神なりと稱て神名の識る者少なし」と記している。丹後国一宮とされている籠神社(元伊勢籠神社)は、天照大神が伊勢へ鎮座するまでの仮宮だったが、「彦天火明命、亦の名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と申し上げ云々」とあり、天照大神や伊勢外宮に祀られている豊受大神よりも上位に祀っている。
奈良県磯城郡田原本町大字八尾にある鏡作坐天照御魂神社の祭神は天照國照彦天火明命、石凝姥命、天児屋根命の三柱としている。境内由緒によると、「倭名抄鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。第十代崇神天皇のころ三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑に祀りし、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社はその像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ」、「祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。古代から江戸時代にかけて、このあたりは鏡作師が住み、鏡池で身を浄め鏡作りに励んだと云われ、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である」と記している。この神社はニギハヤヒ一族の関係者が祀ったようで、主祭神天照国照彦火明命(饒速日命)が天照大神だと訴えているようにもとれる。
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