神武天皇東征神話考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本神話上の必須教養として国譲り譚と神武東征譚を知っておかねばならない。戦後教育は、皇国史観を斥けると同時に日本神話そのものを盥(たらい)ごと流してしまった。これにより、現代日本人は恐ろしいほどまでに祖国と民族の歴史を知らないままの拝金病者に成り下がっている。その挙句が根なし草的コスモポリタンと云う「ありもしない市民」を気取っている。れんだいこは、2011.8月現在の政治と政局を見るにつけ、日本史の断絶の感を深くする。今からでも遅くはない、この一文を届けねばと云う思いから発信する。 

 2011.8.22日 れんだいこ拝
 れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこのツイッターに「miyuki」さんから「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」の最上級のお誉めの言葉をいただき、意を強くした。邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認して見たくなった。

 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。れんだいこは、この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの記述が相当に規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。

 一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。

 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型となっており、これが日本の「元々の国の形」であり、これを大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、この地平に向かう可能性があったのではないかと惜しんでいる。「プレ大和王朝」、「08 神武天皇」その他を参照する。

 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝


【天孫族の東征宣明譚】
 日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。
 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」。

 「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。
 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち、国見をすれば、国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」。

 万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。
 「いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は」。

 ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。

 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。
 「昔、タカミムスビ(高皇産霊尊)とアマテラス(天照大神)が、この豊葦原瑞穂国を祖先のニニギ(瓊瓊杵尊)にさずけた。ニニギは天の戸をおし開き、路をおし分けて進んだ。そのときの倭地は暗黒の世であったが、ニニギが正しい道を開き世を治めた。以来、父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨して一七九万二四七〇余年になる。しかし、遠い所の国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長が境を設け相争っている」。
 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。行軍したのは、皇族のイツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、護衛のミチオミ(道臣)の命、大久米、途中で随行してきたシイネツ(椎根津)彦等々であった。
(私論.私見)
 「天孫族の東征宣明譚」は、天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格を伝えている。

【天孫族の東征出航譚】
 かくて、天孫族は日向の浜を発す。東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、日向を出発し速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが滞在期間が異なっている。
 筑紫=現在の福岡県が比定されている。豊国=現在の大分県が比定されている。安芸国=広島県。たけりの宮=多祁理宮。吉備国=岡山県。キタカネツ日子=木高根津日子、さお根津日子とも記す。

【天孫族の難波津に到着譚】
 速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。戌午年の2月、浪速の渡りを経て、3月、河内国の難波津に到着した。4月、龍田へ進軍するも道が険しく狭かったので進めず、一度引き返す。

【天孫族と河内王朝の激戦譚】
 河内国の難波津に到着した天孫族は、ニギハヤヒの命率いる国津族出雲系王朝軍と闘うことになった。難波の日下でナガスネ彦軍と闘い敗れる。その時の様子が次のように記されている。
 「生駒山を越えて中州(うちつくに)に入ろうとして難波の日下で、天孫軍は、国津系の豪族ナガスネ彦軍と闘い、長兄のヒコイツセ(五瀬)の命が敵の放った矢に射抜かれて負傷するなど手痛く敗れた。天孫軍は南海道に兵を募り再び戦闘するも、弟のヒコイナイ(稲飯)の命が討ちとられた。第三皇子なるミケイリノ(三毛入野)の命は行方不明となった。第四皇子のワケミケヌの命が統率し、南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて再度攻略する。今度はナガスネ彦が重傷を負い、東国に退く。アビ彦は越に退く。天孫族は、四男のワケミケヌの命の指揮に入ることよって辛うじて初勝利することができた」。
 日下=現在の大阪府東大阪市の日下町、善根寺町近辺に比定されている。石切神社の近くである。ヒコイツセの命=。ヒコイナイの命=。ワケミケヌの命=。ワケミケヌの命=。アビ彦=。紀州熊野=現在の和歌山県新宮市)に比定されている。
(私論.私見)
 「天孫族と国津族の激戦譚」は、天孫族と国津族の戦いが凄まじく、摂津で重大な敗北を喫したことを伝えている。この時の戦いで、長兄のヒコイツセの命が負傷、弟のヒコイナイの命が戦死、第三皇子なるワケミケヌの命は行方不明となった。

【天孫族の紀州熊野迂回上陸譚】
 第四皇子なるワケミケヌの命が天孫族を率いて、紀州熊野に上陸する。生駒山を背にする国津族に手を焼き大迂回したことになる。この時、長兄のヒコイツセの命が没した。その時の様子が次のように記されている。
 「長兄のヒコイツセの命の『日の神の御子が日に向って戦うのが良くない。今よりは行き廻りて日を背に負うようにして戦うことにせよ』の言に従い、天孫軍一行は撤兵した。ナガスネ彦軍は、これを追わなかった。天孫軍は南へ下り茅渟(ちぬ=和泉の海)の山城水門に着いた。続いて、紀の国の男の水門に上陸した。そこで、長兄のヒコイツセの命が『賎しい奴に手傷を負わされて死んでしまうのか』と口惜しがりながら死んだ。さらに南下して熊野へ向かうと、暴風雨に見舞われた。兄の稲飯命(いなひのみこと)は、『我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を苦しめ、また海に苦しめるのか』と云って、剣を抜いて海に入り、鋤持(さいもち)の神になった。もう一人の兄の三毛入野命(みけぬのみこと)も、『母も叔母も海神なのに、どうして我々は波で進軍を阻まれねばならないのか』と云って、波頭を踏んで常世の国に渡ってしまった。ワケミケヌの命は息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と共に軍勢を率いて熊野の地に向かった。名草邑に着き、ナクサトベ(名草戸畔)と名乗る女賊を討伐した。一行は熊野村の浜に舟を着け、そこでニシキトベ(丹敷戸畔)という女賊を誅(ちゅう)した。その後、徒歩で北に向かった。道中、大きなクマが現れたかと思うと姿を消した。佐野を越えて熊野の神邑(みわのむら)に辿り着いた。この時、大熊が現われてすぐに消えた。ワケミケヌの命は俄かに病に襲われ、軍人達も倒れて臥してしまった」。
 この時上陸した熊野は、熊野速玉大社が鎮座している新宮市と推定されている。
(私論.私見)
 ナクサトベ(名草戸畔)、ニシキトベ(丹敷戸畔)の両女賊を成敗していることになる。これは何を意味しているのだろうか。

【タカクラジ(高倉下)帰順譚】
 天孫族が疲弊困憊していた時、熊野のタカクラジ(高倉下)が、タケミカヅチが出雲王朝を平定した時の太刀を献上して来る。次のように記されている。
 「天孫軍が絶望の淵に追いやられていたこの時、熊野のタカクラジが、一振りの太刀を持ってやって来て奉った。曰く、アマテラスとタカギの神が夢に現れ、タケミカヅチに『葦原中つ国はまだ騒がしい。お前が行って平げなさい』と、苦戦する天孫軍支援を命じた。タケミカヅチは、『私が行く代わりに先に私が葦原の中つ国を平定した時のフツノ御魂の太刀を天降りさせ、タカクラジの倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れてくだされば良いでせう。国は平ぎましょう』と答えた。続いて、『タカクラジよ、私の剣は名をフツノミタマという。あなたの倉の中に置こう。その太刀を天つ神の御子に差し上げるように』と仰せられた。タカクラジの目が覚めた。夢のままに庫を開けると、はたして剣が庫の底板に逆さに突き刺っていた。その太刀を差し上げに参りました。(この太刀はミカフツ神又はフツノミタマと云い、その後石上神宮に納められている) タカクラジの言を聞いたワケミケヌの命は忽ち精気を取り戻した」。
(私論.私見)
 この神話は、タカクラジ一族が最も早く天孫族に帰順したことを隠喩していよう。タカクラジ一族とは何者か、はっきりしない。物部系史書「先代旧事本紀」によれば、タカクラジ(高倉下)は物部氏と同族の尾張氏の祖としているとのこと。
 高倉下命は五十猛の子。五十猛はニギハヤヒの子であり(斎木雲州提示の系図より)島根県大田市五十猛で生まれたとする伝承がある。そして出雲国の大屋姫を妻として高倉下命が丹後で生まれている。その後、ヤマトへ入ったとされる。高倉下命の別名が天香語山となっている。手栗彦とも「先代旧事本記」に書かれている。秦の国から八十種の木の種を持って来たと書かれている。高倉下命は父や母と共に木の種を植える為に紀州に向かうが、和歌山まで来た時に父と母が死ぬ。父は「伊太祁曽神社」に母は宇田森に「大屋都姫神社」に祀られており共に植林の神様となっている。また、「伊太祁曽神社」は紀州第一の神社でもある。高倉下命はそこから木を植えながら南下し、熊野まで来た。当然、下里に住んでいる秦から来た人達と会ったであろう。本宮大社の社家である小野氏と玉置氏が所有している「本宮秘記こう概」に「本宮町川湯温泉の後ろの飯盛山の上に大きな岩があり、その下の岩洞に宝剣(フツノミタマ)を隠し、自分は下に住んだので高倉下という。また、かってはニギハヤヒもここに十種の瑞宝も隠していたが、ヤマトへ帰えることになったので、持って行った。高倉下はここで、ニギハヤヒとイザナギ、イザナミの供養もした」と書かれている。この事から、ニギハヤヒはヤマトへ入っていたが、熊野へ行った人達が気になって見に来たのであろう。その時、下里で十種の瑞宝を受けとり、それを持ってヤマトへ帰って行ったが、途中で川湯に立ち寄ったという事になる。なお十種の瑞宝は未完成品という事なので、これは自分が戯れに作ったものだろう。その後、高倉下が下里に来ては時はフツノミタマが出来ていたので、それを受け取って川湯にしばらく住んだ後、ヤマトへ上り、その後、新潟に行った。弥彦神社の伝記では熊野を出て船で長岡市寺泊に上陸して、弥彦山に移り、六代孝安天皇元年(前91年)に死亡となっている!高倉下が熊野へ来たのは30歳として前130年ころと見ているが、本宮大社の前記古書には神武に先んじて熊野へ入ったとも書いているので、この後に神武が熊野へ来たことが解る。高倉下も植林の神様となっている。このようにニギハヤヒも高倉下も少し奥地に住んだのは、海岸線には原住民が大勢住んでいたからである。

【ヤタガラス帰順譚】
 天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。
 「この頃、ワケミケヌの命は夢を見た。アマテラスがワケミケヌの命に伝えた。『ヤタガラスを遣わすから、これに案内させなさい』。はたして、ヤタガラスが大空から舞い降りてきた。ワケミケヌの命は、『まさに夢の通りだ。アマテラスが私たちを助けてくれている』。ヒノオミ(日臣命=大伴氏の先祖)は、オオクメ(大来目)を率いて、カラスの導くままに山を越え、路を踏み分けて、ついに宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)に着いた。そこを宇陀の穿邑(うかちのむら)と名づけ、ヒノオミをほめた。 『お前は忠勇の士だ。よく導いてくれた。お前の名を改めてミチオミ(道臣)としよう』」。
(私論.私見)
 これを仮に「ヤタガラス帰順譚」と命名する。「ヤタガラス」をどう理解すべきだろうか。独眼流れんだいこ観点は、八という数字で表徴される「かなり多くの」、「タ」は分からないが、「鳥」という言葉に表象される情報に長けた部族と解する。つまり、「ヤタガラス」に寓意されるような相当数の現地部族が靡き、道案内を買って出たということであろう。即ち、「天孫降臨譚」の「サルタ彦の水先案内」と相似している。このグループも後々神武王朝の枢要の地位を得ることになる。天孫族にとって、「ヤタガラス」の出現は有り難かったようで、「熊野の神使」即ち天皇を始め貴人を先導する霊鳥「ミサキガラス」として称えていくことになる。

 ヤタガラスを豪族名と考えると、この一族とは何者か。旧事紀は、大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子にしてニギハヤヒの使いをしたタケツノミ(建角身命)としているとのことである。逸話の内容から判ずるに託宣祭祀系の者であろうが「大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子」とするのは如何なものだろうか。延喜式神名帳に「八咫烏は賀茂県主建角身命なり」とあり、新撰姓氏録には「鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷ったとき鴨建津見命が烏と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜わった」とある。これよりすれば、ヤタガラスは出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族ということになる。即ち、出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族が寝返って、天孫系に誼を通じたことになる。この功績で、賀茂氏一族は大和王朝の重臣の一員となり命脈を保つことになる。奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏には八咫烏神社が鎮座し、祭神は建角身神である。

【シキヒコ攻略譚】
 天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。
 「十一月、天孫軍は、師木(磯城)邑の兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の攻略に向かった。使者を送って兄のエシキを呼んだが返答がなかった。そこでヤタガラスを遣わした。ヤタガラスは、エシキに誘いをかけた。『天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ』 。エシキは、『天神が来たと聞いて憤(いきどお)っている。何の用があって呼びだすのか」 と怒声を浴びせ、弓を構えて射た。ヤタガラスは弟のオトシキの家へ行った。『天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ』。オトシキは、『天神が来られたと聞いて朝夕畏れかしこまっていました。ヤタガラスよ、お前が呼びに来てくれて嬉しいよ』。オトシキはヤタガラスの来訪を歓迎し、平な皿八枚に食物を盛ってもてなした。

 オトシキはヤタガラスに導かれてワケミケヌの命の軍営に参上した。『わが兄は、天神の御子がおいでになったと聞いて、ヤソタケルを集めて武器を整え決戦する構えです。速やかに準備されるのがよいでしょう』。ワケミケヌの命は云う。『エシキはやはり戦うつもりらしい。呼んでも来ない。どうすればいいか』。このワケミケヌの命の問いに諸将は答えた。『エシキは悪賢い敵です。まずオトシキをやり、そのときエクラジ(兄倉下)とオトクラジ(弟倉下)も一緒にやって説得すれば、いかがでしょう。どうしても従わないなら、それから兵を送っても遅くはないでしょう』。

 オトシキは兄を説得したが効果はなかった。シイネツ彦は一計を案じた。『まず女軍を遣わして忍坂の道から行くのがいいでしょう。敵は必ず精兵を出してくるでしょうから、こちらは強兵を墨坂に向かわせ、宇陀川の水で敵軍の炭の火にそそぎこめば敵は驚くはずです。その不意をつけば、敵を討ち取ることができるでしょう』。

 ワケミケヌの命は、シイネツヒコの計略を採用して二手に分かれる作戦をたてた。まず女軍を送った。すると、敵は大兵が来たと思い、総力で反撃してきた為、少なからずの被害を受け、甲冑の兵士も疲労した。ワケミケヌの命は、将兵を鼓舞するために歌を詠んだ。『伊那嵯(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我は腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ』。強兵の男軍が墨坂を越え、手筈通りに後方から挟み討ちにして敵を破り、エシキを斬った。天孫軍は、待望の磐余や磯城の地に進出することができた」。
(私論.私見)
 これを仮に「シキヒコ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の来襲により国津軍内に亀裂が入り始めたことを物語っていよう。天孫軍の計略が記されている。留意すべきは、兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の素姓であろう。兄(エ)シキ、弟(オト)シキと云うのは古日本語であり、アイヌ的蝦夷(えみし)語ではないかと思われることである。つまり、神武東征とは、在地土着のアイヌ的蝦夷(えみし)軍の攻略であったと云うことになる。続くウカシ兄弟、ヤソタケル(八十梟帥)も然りであろう。

【ウカシ兄弟攻略譚】
 天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。
 「この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄(エ)ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えた。『兄は、天孫がおいでになると聞いて、兵を率いて襲わんとしています。仮宮を造り、もてなすはずですが、仮宮の中には仕掛けがしてあり、また兵を隠してこっそり襲おうとしています。この計りごとを知ってよく備えて下さい』。

 事前に偽計を知った大伴の連の祖になる道臣命(ミチノオミの命)と久米の直の祖になるオホクメが、兄(エ)ウカシを呼び出し、『おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ』と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄(エ)ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。引き出して斬ると、血が溢れたので、そこを宇陀の血原と名づけた。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓い、沢山の肉と酒を用意して天孫軍をねぎらいもてなした」。
(私論.私見)
 これを仮に「ウカシ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍、国津軍双方が計略、謀略の限りを尽していたことを物語っていよう。ウカシ兄弟の素姓は分からないが前述したように蝦夷(えみし)系と思われる。

【ヤソタケル攻略譚、ワケミケヌの命の神夢譚】
 天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。
 「九月五日、ワケミケヌの命は宇陀の高倉山に登り敵情を望見した。国見丘にはヤソタケル(八十梟帥)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。女坂、男坂、墨坂の名はこれに始まる。またエシキ(兄磯城)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地で、道は塞がれ、通るべきところがなかった。ワケミケヌの命は打つ手に窮し、神に祈って寝た。夢に天神が現れて神託を下した。『天の香具山の社の中の土を取って平瓦八十枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を造り天神地祇(てんじんちぎ)を祀れ。身を清めて天神地祗をお祀りせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』 。

 ワケミケヌの命が、夢の教えにかしこまっているとき、オトウカシが奏上した。『倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています。手前は天皇のために案じます。天の香具山の赤土で平瓦を造り、天神地祇をお祀り下さい。そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう』。 

 ワケミケヌの命は、夢の教えとオトウカシの言葉が一致したことを喜び、早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。シイネツヒコに古い服と蓑笠をつけさせ老人の姿にし、オトウカシに箕を着させて老婆の姿にして言った。『お前ら二人、香具山に行って、頂きの土をこっそり取ってこい。事の成否はお前らにかかっている。しっかりやってこい』。しかし、道は敵兵が塞いでいた。シイネツヒコは、『わが君が、この国を定められるものならば行く道が自ら開け、もしそうでないなら敵が道を塞ぐだろう』と神意に占い、出発した。道を塞ぐ敵兵は二人の様子を見て、『汚らしい老人どもだ」とあざけり笑い、道を開けて行かせた。二人は無事、香具山について土を取って帰った。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、この土で多くの平瓦や手快(たくじり=丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(いつへ=御神酒瓷=おみきかめ)などを造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀った。そして神意を占った。『私は今、沢山の平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで天下を居ながらにして平げるだろう』。飴はたやすくできた。また神意を占った。『御神酒瓷を丹生の川に沈めよう。魚が酔って浮き流れるようであれば、私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければことを成し遂げられぬだろう』 。瓷を川に沈めると、その口が下に向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって口をバクバク開いた。シイネツヒコはそれを報告した。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、丹生の川上の沢山の榊を根こそぎにして、諸々の神を祀った。この時から祭儀の御神酒瓷の置物が置かれるようになった。ワケミケヌの命がミチオミに命じた。『タカミムスビを私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする』。

 冬になると、ワケミケヌの命は厳瓮の供物を食し、兵を整えて出陣した。まず国見丘のヤソタケルを撃ち斬った。そして歌った。『伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう』 。残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。そこでミチオミに命じた。『お前は大来目(久米)部を率いて、大室を忍坂邑に造り、盛んに酒宴を催して、敵をだまし、討ち取れ』。ミチオミは、忍坂邑の大室に強者を選んで侍らせた。『酒宴たけなわになった頃、私は立って舞うから、お前らは、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ』。 敵を誘いこみ、座について酒を飲んだ。

 陰謀のあることを知らない敵は、心のままに飲み、酔った。ミチオミは頃を見計らって、立って歌った。『忍坂の大きい室屋に人が多勢入っているが、入っていても御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつつ)、石椎(いしつつ)の剣で敵を討ち敗かそう(ちてしまん)。今こそそ撃つべし』。この歌を聞いて一斉に頭椎の剣を抜き、敵を皆殺しにした。こうして葛城邑のヤソタケル(八十梟帥)を攻め滅ぼした。ワケミケヌの命軍は大いに悦び歌った。『今はもう今はもう敵をすっかりやっつけた。今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ』。来目部が歌って大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。『夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと人はいうけれども、抵抗もせず負けてしまった』。その時、ワケミケヌの命が言った。『戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵は滅んだが、その仲間は多い。その実状は分からないから、同じ所にいては危険だ』。ワケミケヌの命軍は、その地を捨てて別の所に移った」。
(私論.私見)
 これを仮に「ヤソタケル(八十梟帥)攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の計略、謀略が優り、国津軍のヤソタケル(八十梟帥)殲滅経緯を物語っている。これに相当文量費やされていることは、よほどの難事であったことと、ヤソタケル(八十梟帥)征伐戦がよほど重要な地位を占めていたと云うことであろう。ヤソタケルは、漢字の八十梟帥が意をそのまま表しており、武勇ある者の集団に対して名づけたものと推定され、国津族の正規軍だったと思われる。梟帥は、「コソ」、すなわち「許曽」、「居西」などに通じる烏丸系集団の頭目の称号とする説もある。

 300年前後の大和にもっとも大きな集落があったのは桜井市の初瀬川の流域即ち磯城(師木)のヤソタケルの一族が支配していた地であったとされる。葛城邑(今の御所市付近)のヤソタケルは、忍坂邑(今の桜井市付近)の俄作り大室でだまし討ちにされた。これが宴会に誘われ騙し討ちされる初見であり、その後も蝦夷討伐の際に常用される。その意味で興味深い。

 ニギハヤヒが降臨したのは哮峯は葛城山中であり、綏靖朝や孝昭朝の都は葛城であったことからも分かるように、葛城の地は二ギハヤヒ系の重要な拠点であったと思われる。その拠点のヤソタケルが滅ぼされたことになる。大和王朝史は葛城の地を押さえることに腐心しているが、元々国津族の拠点であったと云うことが関係していると思われる。

【兄磯城攻略譚】
 「兄磯城の軍を攻めようとした。まず使者を送って兄磯城を呼んだが、兄磯城は答えなかった。椎根津彦が計り事を立てて言うのに、『今はまず女軍を遣わして、忍坂の道から行きましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。こちらは強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川の水をとって、敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れるでしょう』と」。

【土クモ族攻略譚】
 天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。
 「天孫軍は、国津神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土クモ族を攻め滅ぼした。神武天皇即位前紀己未年二月、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が帰順せず討たれた。これが土蜘蛛の初見となる」。
(私論.私見)
 これを仮に「土クモ族攻略譚」と命名する。この下りは、天孫族が引き続き各地の土クモ族討伐に向かったことを明らかにしている。この時征伐されたツチグモ族とは何者か。漢字では「土蜘蛛」、「都知久母」と表記される。日本書紀は「高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」と記し、まさに「蜘蛛」的に描いている。記紀の記述は卑しく描いているが、逆に勇猛果敢な土着勢力の姿を髣髴とさせている。察するに、「蜘蛛」とは蔑称であり、出雲の雲と読み、出雲系の流れを汲む各地の豪族と読むべきではなかろうか。ツチグモ族の最強軍団は大和葛城山を根城にしていたと思われ、葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚がある。これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。

【金鶏譚】
 ニギハヤヒの義父にして在地の豪族の盟主的地位にあったナガスネ彦(登美彦)を棟領とする国津軍の抵抗は引き続いており、決着が着かず戦線は膠着していた。 天孫軍と国つ軍の闘いは長期戦化した。この時、金鶏譚が遺されている。次のように記されている。
 「遂に二ギハヤヒ―ナガスネ彦が登場し、両軍が対峙することになった。この時、急に空が暗くなり雹(ひょう)が降り始め、そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった。鵄は光り輝き雷光のようであった。そのため、ナガスネヒコ軍の軍卒は眩惑され、力戦できなかった。

 ワケミケヌの命は、歌を歌った。『御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(山椒)が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう』。ワケミケヌの命は兵を放ち、ナガスネヒコの軍勢に急迫させた」。
(私論.私見)
 これを仮に「金鶏譚」と命名する。この下りは、天孫族と国津族の正規軍の最後の決戦場面を伝えている。両軍対峙で膠着する中、「金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった」とある。これは陰喩であろうから、天孫族によほど強力な助っ人が登場したと解すれば良い。これが誰であるのかは判明しない。

【天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚】
 こうした局面のどの時点のことか定かではないが、天孫族のワケミケヌの命と国津族のナガスネ彦が次のように遣り取りしている。
ナガスネ彦  「ナガスネ彦は使いを送って言上した。昔、天津神の子が天磐船に乗って天より降りてきた。名を櫛玉ニギハヤヒの命と申す。私の妹のミカシギヤ姫を娶り、ウマシマデの命を生んでいる。私はこのニギハヤヒを君主として仰ぎ奉(つかえ)てきた。あなたは自らを天津神の子と称し、この国を奪おうとしているが、そうなると天津神の子が二人いることになる。なぜ天津神の子が二人いるのか。思うに、あなたは末必為信(いつわり、ウソ)をついている。どうしてまた天神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、あなたは偽物でしょう」。
天孫族  「天津神の子は多く居る。もしニギハヤヒの命が本当に天津神の子であるというのなら、必ずやその印となるものを持っている筈である。それを見せてみろ」。
 この後、ナガスネ彦が証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(かちゆき、矢箱)を見せて示した。ワケミケヌの命は、「偽りではない」と答え、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった。ナガスネヒコは恐れ畏まったが徹底抗戦の構えを崩さなかった。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚」と命名する。この下りは、国津系のニギハヤヒの命と天孫系のワケミケヌの命が王権の正統性誇示しあっているところが興味深い。決着がつかなかったと云うことは、ニギハヤヒの命の王権が確かなものであったことを寓意していよう。ナガスネ彦が、ニギハヤヒの命を天津神の子として位置づけ問答している下りは脚色であろう。本当は、「なぜ天津神の子が二人いるのか」と問うたのではなく、こう問うたのではなかろうか。「ニギハヤヒの命こそ皇統の命である。あなたがたも皇統だと自称している。どちらが本当の皇統なりや」。記紀はこの真問答を記せず、ここでも捻じ曲げて記述しているように思われる。

【天孫族と国津族の第二の国譲り譚】
 天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)その他の古史古伝によれば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。
 天孫軍と国津軍の戦闘は長期化し、天孫軍優位のまま膠着状態に入った。国津軍の実権は、ニギハヤヒの子のウマシマチに移っていた。ウマシマチは、天孫族新王朝の要職の地位の約束を得ることでナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた。ウマシマチが「汝の反逆天地も容れず、我に欺かれるはまた命なり。須らく我に斬られよ」と述べ、ナガスネ彦は「事ここに至る。なんぞ汝を煩わさんや」と自ら命を断った。ここに両者が大和議し、天孫軍と国津軍の合体による大和王朝が創始されることになった。「大和」の由来はこれによる。ウマシマチはその後物部氏として大和朝廷の第一豪族として枢要の地位に有りついていくことになる。

 大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」と題して次のように記している。
 「ウマシマジの命は、父・ニギ速日の尊より継承した大和国の統治権を神武天皇に譲るに当たり、天皇との間に重大な盟約を交わされたことが推察される。
 宮中に皇祖神として、元大和国の大王であり、皇后イスケヨリ姫の父であるニギ速日の尊の御魂を奉斎すること。そして、その祭祀はウマシマジの命及びその子孫が司祭者として行うこと。
 大和朝廷の歴代の皇后は、ウマシマジの命の子孫・磯城県主(しきのあがたぬし、後の物部氏)の関係者の女性から出自させること。更に、その皇后より誕生した皇子のみが次期天皇になれること。
 大和朝廷の最高職(足尼すくね、大連おおむらじ、大臣おおおみ)は、ウマシマジの命の子々孫々が永久にその職を継承すること。

 これらの盟約は、『先代旧事本紀』の物部氏系譜と天皇家系譜によって確かめることができる」。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫族と国津族の第二の国譲り譚」と命名する。この下りは、前半でニギハヤヒの子のウマシマチが「ナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた」としている。後段では、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」が記されている。この盟約は記紀には登場せず先代旧事本紀のみが記しているところが興味深い。

 ところで、殺されたとされるナガスネ彦は他の古史古伝の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、この経緯の面貌が異なる。ナガスネ彦側が再三にわたって平和を求めたのに対し、神武東征側が和睦の使者を斬っている。ナガスネ彦は死んでおらず戦闘で重傷を負った。その後、兄の安日彦(あびひこ)と共に東北に逃げ落ち、そこで態勢の立て直しを図っている。征討軍の追撃を打ち破り、荒覇吐(あらはばき)族を名乗って津軽地方の王となった云々と伝えている。東日流外三郡誌の真贋論争は置いといて、この記述は興味深い。大和王朝以降の皇統が後々東北蝦夷征伐に向かう流れが見えてきそうな話である。

 古史古伝の真贋論争に願うのは、徒な入り口論としての真贋論に留まるべきではなく、よしんば偽書であったとしても内容に於ける吟味も必要ではなかろうかと思うことである。体裁等の形式的な偽書認定に止まるべきではなく、内容における偽書認定の両面から向かうべきではなかろうか。目下の偽書認定が入り口段階の話にされ、一向に中身の精査に向かわないのは疑問である。中身の精査に向かわない為のワナ理論ではないかと義憤することがあるぐらいである。

【天孫族の国津族残党狩り譚】
 天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。
 「翌年の春、天孫軍は、諸将に命じて兵卒を選抜させ訓練させた。添県(そほのあがた)の波の丘岬(おかざき)にニイキトベ(新城戸畔)という女賊がおり、和珥(わに)の坂下にはコセハフリ(居勢祝)、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬にはイハフリ(猪祝)という者がいて、その三ヶ所の土賊は勢力が強く帰順しなかった。ワケミケヌの命は、精兵を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑(たかおわりのむら)にツチグモ(土蜘蛛)がいて、身丈が短く手足が長く侏儒(しゅじゅ)と似ていた。ワケミケヌの命軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城とした。磐余の地の元の名は片居または片立という。天孫軍が敵を破り兵が溢れたので、磐余と改称した。ある人がいうのには、『イワレヒコが昔、厳瓮の供物を食し、出陣して西片を討った。そのとき磯城のヤソタケルがそこに屯娶(いわ)みし、天孫軍と戦ったがついに滅ぼされた。それで屯娶み、つまり兵が多いという意で、磐余邑という』」。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。

 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2016年07月01日付けブログ「出雲を恐れた天皇家」参照。

 天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏。天皇家が出雲を支配したはずなのに、実際には重視し祀っていた。 日本書紀では明らかにされないこの矛盾はどこからくるのか?今回は何故、天皇家が出雲を恐れたのか真相に迫ります。

 「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史リンクより

 原田氏は、やはり神社伝承からニギハヤヒ(大物主神)は太陽神であったと考えておられるが、大物主神の祀られる三輪山が古代太陽信仰のメッカだったとする説が最近有力になりつつあり、日本の本来の太陽神は、どうも物部氏の祖・ニギハヤヒであったらしい。そこで大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくることに気づかれるはずだ。大嘗祭のなかで天皇が神に食事を供し、みずからも食す秘儀は、神武天皇のとり行なった祭祀や伊勢神宮、心の御柱祭祀とまったく共通であり、正体を抹殺された神の名は、やはり大物主神であったことになる。そして、天皇家最大の祭りの主祭神を公にできない理由があったとすれば、ここに、天皇家の“王”としての威厳、正統性を覆しかねない問題が潜んでいるからと考えられるのである。すなわちそれは、“ヤマト”という国の成り立ちの根幹にかかわる重大事であろう。

 天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏、このような「日本書紀」の示した明確な図式でさえ疑わざるをえない。天皇家が“モノ(鬼)”どもを支配するどころか、実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。すでに述べられたように、“モノ”は、鬼であると同時に神でもあった。この”モノ“の主・大物主神は、鬼の主であると同時に神の主であり、事実天皇家はまるで震え上がるかのように出雲神を敬い、この伝統は天皇家の“裏”の祭祀として引き継がれていったのである。とするならば、ヤマト朝廷成立=神武東征は、天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で、鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には、「日本書紀」や通説では語られなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられるのである。

*「古事記」の神話には、大物主神や事代主(ことしろぬし)神らが天皇家(天津神)に恭順の意を示すなか、ひとり建御名方(たけみなかた)のみが出雲国譲りに最後まで抵抗し、ついに出雲を追われ東国に逃れたと記録されている。

*「日本書紀」の記述に従えば、ニギハヤヒがヤマトの大王になるきっかけは、土着の首長・長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ったことだったが、この長髄彦がそもそも蝦夷であったとする説がある。
たとえば「白鳥伝説」(集英社文庫)の谷川健一氏は、“すねが長い”という修辞語は、蝦夷特有のものであったと指摘する。八掬脛(やつかはぎ・八握り=約80センチのすねをもった人)という、やはり長いすねを表す修辞語が、土蜘蛛とよばれる夷狄(いてき)に対して使われているのは、先住民(縄文人)の手足が長いという身体的特徴を誇張した蔑称と考えられたのである。

 実際、「日本書紀」のなかで、九州から東へ向かった神武天皇の一行が、ヤマトのまつろわぬ者どもをさして、“エミシ”とよんでいることからも、長髄彦が“蝦夷”ととらえられていたことは確かである。とするならば、物部氏は建御名方が東国へ逃亡する以前から、すでに蝦夷との関係をもち、しかも蝦夷たちの手で擁立されていたことになる。

*日本土着の縄文人は、弥生時代以降に流入した渡来人と比較すると、丸顔で手足が長く、体毛が濃いという身体的特徴をもっていたが、出雲神たちも、あたかも縄文的体質をもっていたかのように語られることが少なくなかった。すなわち、出雲神には“八束鬚(やつかひげ)”という他には見られない独自の修辞語があって、これは体毛の濃かった縄文人の身体的特徴そのものとする説がある。ヤマトの蝦夷の首長・長髄彦が縄文人の体質“長いすね”を名として与えられたのとまったく同じ意味をもっていると考えられるのである。また、他の拙著で繰り返し述べているように、出雲地方の方言が蝦夷の本拠地、東北地方と似かよっていること、出雲神たちが非農耕民の信仰を集める例が多いことなど、出雲や物部を縄文的とみなせる傍証は数多く存在するのである。

 2014.6.8日付けブログ関裕二・氏の「『消された王権・物部氏の謎』 オニの系譜から解く古代史第一部」参照。
 三輪山の神は神武東征はおろか出雲の国譲り以前にヤマトにいた。
 古事記、日本書紀で、古代最大の豪族・物部氏は「鬼」と烙印を押されていた。物部氏の“出雲”はまつろわぬ鬼とみなされていた。出雲神が鬼であったことはいくつかの例から割り出すことができる。たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名のなかに“鬼”を示す言葉が隠されている。鬼が“オニ”と読まれるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”、“シコ”といい習わされていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の“シコ”は鬼そのものであった可能性が高い。大和最大の聖地・三輪山の神は蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされる。雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。三輪の雷神・大物主神はその鬼であったことになる。

 七世紀後半に誕生した律令制度によってすべての人民と土地は天皇制秩序に組み入れられた。この枠組みのなかで最も下層に位置するのは、土地に定着せず遍歴漂泊し、私有を知らず、私的隷属を嫌った芸能民、勧進(かんじん・物乞い)、遊女、あるいは鋳物師(いものし)、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売りなどの商工民、職人などといった“モノ”、“シコ”系民であった。農耕民でもなく定着民でもない彼らは、農耕民を中心として回る社会から絶縁していた。さらには律令という枠にとらわれることのない人々であった。彼らは表の社会から忌避された人々であった。彼らは裏側の社会で結びつき、独自の闇の世界を構築していた気配が強い。この系の者の背後には、とらえどころのない鬼、闇の勢力が控えていた。この系の者がヤマトの地で生息していた。彼らは天皇家よりも先にヤマトに来ていた民であった。ヤマトの出雲神の本拠地ともいうべき三輪山周辺には 「三輪山の神が天皇家よりも先」だという伝承が残っている。日本書紀神代上第八段一書第六は、出雲建国中の大己貴神(おおむちのかみ・大国主神)に起きた珍事として次のような伝承を残している。この伝承に従うならば、三輪山の神は、神武東征はおろか出雲の国譲り以前にヤマトにいたことになる。
 「大己貴神が出雲をめぐっているとき、海に怪しげな光が照ったかと思うと、忽然と浮かび上がる者がいて、大己貴神に向かって、『もし私がいなければ、おまえは国を平らぐことはできまい。私がいるからこそ、大きな国をつくることができるのだ』というので、『それではおまえはだれだ』と問うと、『吾(あ)は汝の幸魂奇魂(さきたまくしだま)である』と答える。すると大己貴神は、『そのとおりです。あなたは私の幸魂奇魂です。いまどこに住みたいと思いますか』と尋ねた。『吾はヤマトの三輪山に住みたい』というので、ヤマトに宮を建てて住まわしたが、この神こそ、いまいう大三輪の神であったという」。

 崇神天皇8年12月の条には、やはり天皇家よりも三輪が先であったことが暴露されている。大物主神を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上されたときの歌として、次の一首がある。「此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久」(現代訳/この神酒は私の神酒ではない。倭の国を造成された大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ栄えよ)(日本古典文学大系「日本書紀、・上」岩波書店)

 注目すべきは「ヤマト成す」である。日本書紀の神話に従えば、出雲神がつくった国をヤマトとはよんでいない。それは単に“国”であったり“出雲国”あるいは“葦原中国(あしはらのなかつくに)”である。ところが、この歌のなかで大物主神は“ヤマトを建国”したと称えられ、先の神話のなかで、大物主神の幸魂奇魂は、出雲国からヤマトへ移住したと記されていたことと符合する。ここで思い出されるのが、神武天皇の正妃のことなのである。日本書紀は、ヤマトを征服した神武天皇が出雲の神の娘を娶ったと証言している。その記述があまりに唐突だったためにさほど顧みられなかったが史実であった可能性を帯びている。土着の首長から女人をもらうことで王権を安定させることは、よくあることだからである。

 日本書紀を読み返すと、興味深い証言が残されていたことに気づく。神武東征以前、ヤマトの地にはすでに天皇家とは別の王権が確立されていたという。日本書紀の記述によれば、神武天皇が九州の地から東征するに際し、すでにヤマトにはニギハヤヒなる人物が降り立っていて、王として君臨していたと記されている。ニギハヤヒと出雲の関係に興味が湧く。そこでニギハヤヒと神武東征の経緯に注目する。ニギハヤヒはヤマト土着の首長の長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ることでヤマトに融合し、武力を使わずに王権を手に入れている。そのヤマトを建国したニギハヤヒの神武天皇東征にとった姿勢が注目される。ヤマト土着の長髄彦が神武のヤマト入りを拒絶し、徹底抗戦に出たため、神武天皇はあっけなく敗れ、紀伊半島を大きく迂回し、熊野方面からのヤマト入りへと作戦を変更せざるをえない状況に追い込まれた。そこでニギハヤヒ(子のウマシマチともいわれる)はやむなく長髄彦を殺し、神武受け入れのかたちを整えたという。日本書紀は、このニギハヤヒが物部氏の祖であることを伝えている。七世紀、蘇我氏との間に宗教戦争をひき起こしたあの物部氏である。彼らが“鬼”の一族となる。“モノノベ”の“モノ”が、古代、“神と鬼”双方を表していた。物部氏は“神(モノ)”“鬼(モノ)”双方をあわせもった一族であり神道の中心に位置していたと考えられる。このあたりの事情は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」にも如実に表れている。それによると、神武天皇即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマチは、ニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯(かむたて)を立てて祝い、さらに、新木(あらき)なども立て、“大神”を宮中に崇め祀ったとある。そして、即位、賀正、建都、踐祚(せんそ)などといった宮中の重要な儀式は、このときに定まった、という。注目されるのは、天皇家の多くの儀式が、ウマシマチを中心に定められていることである。そして、これよりも重要なのは、ウマシマチが神武天皇の即位に際し、宮中に祀ったという“大神”の正体にある。常識で考えれば、この神は皇祖神・天照大神ということになろう。ところが、ヤマトの地で“大神”といえば、三輪山に祀られる大物主神をおいてほかには考えられない。“大神”のおわします大神神社は、オオミワと読み大物主神を祀る。それでは、なぜ、物部系の史書「先代旧事本紀」は、宮中で祀られる大物主神の本名を記さず、あえて“大神”と称したのかといえば、それは歴史の敗者としてのぎりぎりの選択であったろう。ヤマト朝廷成立直後、宮中に皇祖神ではなく出雲神を祀っていたことを、日本書紀は必死に秘匿している。
 2014.6.9日付けブログ関裕二・氏の「「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第二部」参照。
 天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが大嘗祭の本質であった。
 吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」と記している。これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならない。天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが大嘗祭の本質であったことを明らかかにする必要がある。

 そもそも伊勢神宮は、皇祖神で女神の天照大神を祀る日本最高の神社と考えられてきた。その一方で、吉野裕子氏は、先述の「大嘗祭」のなかで、次のように述べている。「古くは伊勢神宮の祭神は蛇体の大祖先神で、天照大神はその神妻で大神を祀る最高の巫女であった。しかし時代が降るにつれて、祀るものから祀られるものに変身し、伊勢神宮の祭神となったのである」。また、“伊勢”には天皇家進出以前の土着の男性太陽信仰があって、この祭祀形態を天皇家が踏襲したのではないかとする説が有力視されている。この土着の男性の太陽神こそ、ニギハヤヒ(大物主神)であった可能性が高い。ニギハヤヒの正式な諡号(しごう)が“天照国照彦天火明櫛魂饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)”で太陽神を意味する“天照”の二文字が冠せられている。さらに吉野氏の指摘される“蛇体”の大祖先神がそのまま大物主神を祀る“三輪山”に当てはまる。大神神社の神が“蛇”であったことは、日本書紀雄略天皇七年の条にも明記されている。そこには、三輪の神の姿を見たいと雄略が願い、三輪の“蛇”が捕らえられたという説話があり、今日でも大神神社には、蛇の好物の卵が供えられている。

 原田氏は、やはり神社伝承からニギハヤヒ(大物主神)は太陽神であったと考えておられるが、大物主神の祀られる三輪山が古代太陽信仰のメッカだったとする説が最近有力になりつつあり、日本の本来の太陽神は、どうも物部氏の祖・ニギハヤヒであったらしい。こうして見てくると、伊勢神宮の心の御柱は、“陽”を象徴する柱、すなわちそれは男根や蛇であったことがわかる。そしてもちろん、隠された正体は、太陽神・大物主神であろう。そこで大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくる。大嘗祭のなかで天皇が神に食事を供し、みずからも食す秘儀は、神武天皇のとり行なった祭祀や伊勢神宮、心の御柱祭祀とまったく共通であり、正体を抹殺された神の名は、やはり大物主神であったことになる。そして、天皇家最大の祭りの主祭神を公にできない理由があったとすれば、ここに、天皇家の“王”としての威厳、正統性を覆しかねない問題が潜んでいるからと考えられる。すなわちそれは、“ヤマト”という国の成り立ちの根幹にかかわる重大事である。天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏。このような日本書紀の示した図式を疑わざるをえない。天皇家が“モノ(鬼)”どもを支配するどころか、実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。すでに述べたように、“モノ”は、鬼であると同時に神でもあった。この”モノ“の主・大物主神は、鬼の主であると同時に神の主であり、事実天皇家はまるで震え上がるかのように出雲神を敬い、この伝統は天皇家の“裏”の祭祀として引き継がれていった。とするならば、ヤマト朝廷成立=神武東征は、天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で、鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には、「日本書紀」や通説では語られなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられる。古事記の神話には、大物主神や事代主(ことしろぬし)らが天皇家(天津神)に恭順の意を示すなか、ひとり建御名方(たけみなかた)のみが出雲国譲りに最後まで抵抗し、ついに出雲を追われ東国に逃れたと記録されている。建御名方は信州諏訪まで落ち延び、二度とこの地を離れないことを条件に和睦している。この神が諏訪大社の主祭神となって多大な信仰を集めたのは、中世武神としての性格を強めたことが大きな理由の一つだが、信州地方には、武神となる以前の古代の伝承が多く残されている。そしてこれらの伝承には、この神が開拓神、農業神、水難鎮護の神であったという共通のテーマが流れている。

 日本書紀の記述に従えば、ニギハヤヒがヤマトの大王になるきっかけは、土着の首長・長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ったことだったが、この長髄彦がそもそも蝦夷であったとする説がある。たとえば「白鳥伝説」(集英社文庫)の谷川健一氏は、“すねが長い”という修辞語は、蝦夷特有のものであったと指摘する。八掬脛(やつかはぎ・八握り=約80センチのすねをもった人)という、やはり長いすねを表す修辞語が、土蜘蛛とよばれる夷狄(いてき)に対して使われているのは、先住民(縄文人)の手足が長いという身体的特徴を誇張した蔑称と考えられたのである。実際、日本書紀のなかで、九州から東へ向かった神武天皇の一行が、ヤマトのまつろわぬ者どもをさして“エミシ”とよんでいることからも、長髄彦が“蝦夷”ととらえられていたことは確かである。とするならば、物部氏は建御名方が東国へ逃亡する以前から、すでに蝦夷との関係をもち、しかも蝦夷たちの手で擁立されていたことになる。

 日本土着の縄文人は、弥生時代以降に流入した渡来人と比較すると、丸顔で手足が長く、体毛が濃いという身体的特徴をもっていたが、出雲神たちも、あたかも縄文的体質をもっていたと推定できる。すなわち、出雲神には“八束鬚(やつかひげ)”という他には見られない独自の修辞語があって、これは体毛の濃かった縄文人の身体的特徴そのものとする説がある。ヤマトの蝦夷の首長・長髄彦が縄文人の体質“長いすね”を名として与えられたのとまったく同じ意味をもっていると考えられるのである。また、出雲地方の方言が蝦夷の本拠地、東北地方と似かよっていること、出雲神たちが非農耕民の信仰を集める例が多いことなど、出雲や物部を縄文的とみなせる傍証は数多く存在する。





(私論.私見)