出雲王朝史7、出雲王朝御代の善政、信仰、思想考

 更新日/2016.10.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、出雲王朝政治の善政ぶりを確認しておく。政治、経済、産業、文化の全域に於いて日本の原型を作りだしていたことが確認できれば良い。

 2012.09.18日 れんだいこ拝


【出雲王朝御代の善政考】
 ここで出雲王朝御代の善政ぶりを確認したい。これを「れんだいこの天皇制論」に記す「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」で論ずることにする。いずれホツマ伝え等で確認したいがで今のところきていない。参考的に「さてはてメモ帳」の「六韜」を参照する。「六韜」は中国の史書であるが、出雲王朝御代の善政がこの通りに行われていたと推察することができよう。
 六韜
 http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book11.html


 六韜は、呂尚秘伝の兵法書といわれている。六韜は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇から成る。韜とは、もともとは弓や剣を入れておく袋を意味し、ここでは兵法の秘策という意味で使われている。篇の名前にも何らかの意味あいがあると思われるが分からない。六韜は全巻を通じて、周文王もしくは武王と呂尚の問答で成り立っている。文王と武王が尋ね、呂尚が答えるかたちで兵法の薀蓄をかたむけるという形式になっている。著者は呂尚ではなく、後世の兵家の誰かが書いたものとされている。代表的な兵法書とされ、三略と並んで「六韜三略」と称される。「虎の巻」の語源となった兵法書としても有名である。

 文韜【第一 文師篇】
 文王が狩に出かけようとしたとき、史官の編が吉凶を占って「賢人を得ることができます」と言った。文王が渭水の北で狩をしたところ、釣りをしている呂尚を見つけた。文王「釣りを楽しんでおられるのですかな」。呂尚「私が釣りをしているのは君子の楽しみに似ておるのです」。文王「ほほう、どこが似ているのですか」。呂尚「釣りには3つの意味があります。餌で魚を釣るのは、禄で人を召し抱えるのに似ています。釣られた魚は死んでしまいますが、召しかかえられた人が命を投げ出して仕えるのに似ています。また小さな餌では小さな魚しか釣れませんが、低い官位ではつまらぬ人しか召抱えることができないことに似ています。このように釣りには深い道理が含まれているのです」。文王「その道理を教えてほしい」。呂尚「重臣の地位を餌にして人材を集めれば、どんな国でも取ることができますし、諸侯の地位を餌にして人材を集めれば、天下でも取ることができます。しかしどんなに人材を集めても、その心をつかんでいなければ、逃げられてしまいます」。文王「どうすれば人々の心をとらえて、天下を帰服させることが出来るのか」。呂尚「天下を君主ひとりの物とせず、これを万民と分かち合うことです。これを仁といいます。困っている人を助け、苦しんでいる人を救うことを徳といいます。人々と憂いも楽しみも同じくすることを義といいます。人間は生と利になびくので、これを保証してやるのが道です。これらに則った政治を行えば、おのずから天下の人々を帰服させることができるのです」。文王「おっしゃったことは天の声。謹んで承りました」。こうして文王は呂尚を自分の車に乗せて帰り、師として迎えた。

 文韜【第二 盈虚篇】
 文王が呂尚に尋ねた。文王「天下の盛衰はなぜ起こるのだろうか。天運の移り変わりがそうさせるのであろうか」。呂尚「君主が愚かであれば、政治が乱れて国を危うくします。政治がうまくいかないかは君主の責任であって、天運とは関係がありません」。文王「古の賢君について教えてほしい」。呂尚「堯は奢侈品を身につけず、みだらな音楽を聴きませんでした。宮殿も庭も荒れていましたが、民を使役することは最小限でした。ひたすら自分の欲望を抑えて、無為の政治を行ったのです。また法を守る官吏は昇進させ、清廉で民を愛する官吏には禄をはずんでやりました。民に対しても、孝子や慈父を顕彰し、農業につとめる者を励まし、善行は広く表彰しました。かくて堯は、民から太陽のように仰ぎ見られ、父母のように親しまれたのです」。文王「素晴らしいものだ、賢君の政治というものは」。

 文韜【第三 国務篇】
 文王が呂尚に尋ねた。文王「国を治めるにあたって、もっとも大切なのは何か教えてほしい」。呂尚「民を愛すること、これに尽きます」。文王「民を愛することとは、どういうことか」。呂尚「民に有利なように取り計らい、生業が成り立つように配慮し、生かすことを心がけ、与えることを心がけ、楽しく暮らせるように配慮し、喜んで暮らせるようにしてやることであります」。文王「もう少し詳しく教えてくれないか」。呂尚「働き口を保証してやること、農繁期に使役に駆り出さないこと、罪のない者を殺さないこと、重い税金を課さないこと、王宮の造営に金をかけないこと、役人が清廉で民の生活にわずらわしい干渉をしないことであります。これがすなわち、民を愛するということになるのです」。
(私論.私見)
 「さてはてメモ帳」の「六韜」も試みているが、「武王と呂尚の問答」の指針する政治が東洋の理想政治である。出雲王朝御代の政治は、これに随っていたと推定できる。これに比して西欧世界を席巻するネオシオニズム系政治教書「シオン長老の議定書」を比較してみよ。あからさまな対比が確認できよう。

 2014.1.6日 れんだいこ拝

【出雲王朝の政体の特質としての「神在月合議政治」譚】
 出雲王朝の合議制政治が次のように伝えられている。
 「毎年十月には、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、その間各地の神は不在となる。他国の神無月、出雲のは神在月と云う。これにより、出雲は、全国の神が出雲に集まり『神謀(はか)る地』と言い伝えられている」。
(私論.私見)
 「出雲王朝の政体の特質譚」は、出雲王朝が、葦原の中つ国の国津神の同盟の芯の位置に居たことを物語っている。族の祭政一致政治を踏まえた緩やかな自由連合国家として、寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたものと推測される。毎年十月は、全国会議を催したと云うことであろう。この「神在月合議政治」は、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議していたのではないと思われる。これが日本のその後の権力体に伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。神在祭については「出雲神道、出雲大社考」で考察する。

 出雲王朝は、高天原王朝の如くな支配被支配の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳政的な政治を特質とする共同文化圏的な盟主的地位を保持していたことになる。出雲はこうして日本古代史の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、謂れを知るべきだろう。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては古神道と云われるものである。これについては、「日本神道の発生史及び教理について」、「日本神道の歴史について」で考察する。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命の政治思想考】
 「大国主神の道(出雲大社教)」が大国主の命の政治思想、人生教理を次のように伝えている。これを確認する。
 オオナムチノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの神像に見られる福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。

 大地は人間の生きていくうえに、欠くことの出来ない限りない生命を生み出し育むのであり、その意味で大地は「母なる大地」と呼ぶのにふさわしいのであるが、この大地が秘めている生成の力を、むかしから「ムスビ」という言葉であらわし、「産霊」という文字をこれにあてている。人間の生命も勿論、このムスビによって生まれ、そして育っていくという生命観を、日本人は独特な信仰として持っている。ムスビとは生成の意であり、ムスビのヒは、神秘なはたらき即ち霊威を意味する言葉である。いのちあるものを積極的に生成せしめるはたらきの根源に、この「ムスビ」の霊威を見ることができるとするのである。そしてこの神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える"えにし"を結んでいただけるのである。そこでこの神を仰いで「縁結びの神」と慕ってきたのである。

 オオクニヌシノカミは辛苦の道を厭われぬだけでなく、かえって、そこにあらわれる難難や迫害、危難や試練に堪え、神としての神がらを切磋されて「ムスビの神」と成られたのである。その愛は広く天下国家のためにみちびかれるのみではなく、厚く人ひとりひとりのうえにもうるおうのである。我執の多い凡夫のわれわれのうえに、この神の歩まれた道を考えるならば、人間は修錬によって本質を錬磨して、あらゆる苦難を克服する体験を積み重ねなければ、人に慕われるような人格を養うことは出来ない、ということを教えられているのである。生み生かされた人生を、たくさんの人びとと心と心とを互に睦び合いながら、幸福にすごさせていただくために、オオクニヌシノカミが身を以て示された道を、神習う道として、笑顔をもって明るく、強く歩みつづけさせていただきたいものである。

 この出雲の祖神は他の神々に見られない、極めて顕著な霊威をあらわされているのである。昔から各国々には「一の宮」が祭祀されているが、そこに祭祀されている神のほとんどが、出雲人が祖神と仰ぐオオクニヌシノカミか、またはその神統につながる神々である。


縄文社会の体質考
 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年10月18日付ブログ「縄文体質とは何か(総集編)~日本人の精神的骨格である。」。

 「縄文体質とは何か?」6つのキーワードで見てきました。 “自然”・“職人気質”・“仲間意識”・
 “はたらく”・“性”・“信仰”

 最後に各回の投稿の「最も伝えたい部分」を短文で紹介して縄文体質を総合的に表現していきたいと思います。⇒は、まとめの言葉です。

 第1回 縄文人にとって自然とは
 過酷な天災という自然外圧は、突然現われる神の訪れであったと見られ、又四季の変化は、人々に食料の恩恵を与える一方で、周期的に移り変わる自然環境として、日常的に適応すべき、不可避の外圧であったと見られる。自然への恐怖、畏怖の念、そして台風が去った後の穏やかさを与える自然への感謝の念。自然には決して抗えない、生かされている意識、それらが我々日本人(かつては縄文人)の心に刻み込まれてきた。⇒自然とは外圧であり、生きる根源である

 第2回 集団性(仲間意識)が作る強さ、柔軟性
 「原始社会での物々交換は、現代人が考えるような、等価値の物品同士の単純な交換ではなく、命がけで入手した交易品には万感の思いが込められていたはずです。それには言わば、贈与者のマナ(霊的な力)が込められている。俗に言えば「心のこもった贈り物」ということになり、当然功利的な打算など優先されることもない」。贈与は集団間の緊張圧力を緩和したが同時に集団間(同類間)の切磋琢磨の追求競争を作り出した。⇒最も貴重なものを無償で相手に贈る、贈与経済こそ縄文体質の根幹である。

 第3回 職人気質に見る追求姿勢と自然感
 他国の金襴豪華な美術品やシンメトリーで権威的な建物と違って、日本の芸術は素朴であいまいで、調和があり、まさに自然と一体となってその感覚を素直に表出しているところが特徴である。こうした日本人の職人気質は、やはり縄文時代に培った自然感や集団気質に由来している。自然を観察する中でその原理、性質を追求し、様々な独自の技術が開発し続けた縄文人は、まさに追求する民族であり、そのあくなき追求姿勢こそが、現代の職人気質の原点となっているのです。⇒職人気質は縄文由来であり、その根本に自然注視がある。

 第4回 縄文の”性”を知る
 ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。性とは秘めるものではなく開くもの、おおらかなもの、集団にとってなくてはならないもの。性は教育であり楽しみであり、いわば生きる事=活力そのもの。そして本源の性を語る上で、言葉は無力です。感じる事、相手を思う事、そのDNAに刻印された心の部分で本質を受け取る事だと思います。性とは秘めるものではなく開くもの、生きる活力の中心にあった。そして女たちはその活力(集団)の中心に居た。

 第5回 縄文の働き方は自然との共生
 現代とは違って、上下関係などないフラットな集団で、誰のために働くかといえば、当然みんなの役に立つことをし、強制されることなく、自らすすんで、やりたいだけやるのが、縄文人の「はたらく」だったのです。なぜ「ボス」がいなくても組織が成り立つのか なぜボスがいないんですか? ~共同体の真ん中に権力を置かないことで、みんなが等距離にある状態をあえてつくりだしていたと考えられます。・・・労働しなかった時代のほうが400万年にわたる人間の歴史の中では長かったんだよね。そして、働いてないころの人類のほうが、ずっと豊かだった。 しかも平等で貧困もなければ、戦争もなく平和だった。⇒縄文人のはたらくは労働ではない。みんなの役に立つこと(傍を楽にする)=は・た・ら・く だった。

 第6回 縄文人(日本人)の信仰とは対象へのあくなき同化
 縄文時代のアニミズム(自然崇拝)に表れるように、その本質は対象へのあくなき同化です。日本人の宗教とは祈りも誓いも含めて見えない対象(自然やその奥にある精霊)への同化追求の姿なのです。これが諸外国の一神教とはまったく異なり、極論すれば日本人が無宗教といわれる所以です。つまり日本人の信仰心とは同化力の事なのです。・・・この信仰は日本語となり言霊となり現在にも引き継がれています。⇒信仰=対象同化

 m005.gif 最後に縄文体質とは・・・

・自然とは外圧であり、生きる根源である
・最も貴重なものを無償で相手に贈る、贈与経済こそ縄文体質の根幹である。
・職人気質は縄文由来であり、その根本に自然注視がある。
・性とは秘めるものではなく開くもの、生きる活力の中心にあった。そして女たちはその活力(集団)の中心に居た。
・縄文人のはたらくは労働ではない。みんなの役に立つこと(傍を楽にする)=は・た・ら・く だった。
・信仰=対象同化

 次回のシリーズはこの縄文体質がいかに後の日本人に引き継がれていったか? その系譜と足跡を見て行きます。タイトルは「縄文体質の史的足跡」とします。お楽しみにm034.gif


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年10月11日付ブログ「縄文体質とは何か?第6回 縄文人(日本人)の信仰とは対象へのあくなき同化」。
 このシリーズ最終回は信仰です。

 縄文人(その後の日本人)の信仰の本質は自然が相手の多神教崇拝です。今でも建物を建てる時には土地の神様を鎮める地鎮祭は必ず行います。正月にはほぼ全ての日本人が神社にお参りし1年間の計を立てます。また、農業では豊作の祭りとして水や太陽等の自然の神に感謝を伝えています。これだけ科学が発達し、都市文明が行き渡った現代でもその祈りの一時、一気に太古の縄文に精神が戻るように感じます。

 縄文時代のアニミズム(自然崇拝)に表れるように、その本質は対象へのあくなき同化です。日本人の宗教とは祈りも誓いも含めて見えない対象(自然やその奥にある精霊)への同化追求の姿なのです。これが諸外国の一神教とはまったく異なり、極論すれば日本人が無宗教といわれる所以です。つまり日本人の信仰心とは同化力の事なのです。ひたすら対象に同化しようとする、それが心眼で見るという事でもあり、常に祈り続ける姿でもあるのです。一神教のように教義も必要ないし、教団も必要ない、集団の中で同化能力の高い人物がシャーマンとなり首長になっていきました。この信仰は日本語となり言霊となり現在にも引き継がれています。最も信仰らしくない民、日本人の存在は人類にとって同化を迷わす宗教は必要ないとも言えるし、その同化能力という点においては最も信仰心の強い民族が日本人であり縄文人であるとも言えると思います。

 るいネット投稿の中から紹介します。リンク
 m281.gif私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。(中略)
また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いも考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。


 リンク
 
m281.gif縄文人の円の思想
 こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。
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夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。
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 獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。
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風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・
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 縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである

 リンク
 
m281.gif人類の生み出した観念の一つに「宗教」「近代思想」がある。
 しかしそれらは精霊信仰とは似て非なるもの、全く別のものである。精霊信仰とは自然界を全て対象化し、万物の背後に精霊を措定する事で意識を統合した。自然の摂理を読み解いた、その後の科学技術に繋がる観念原回路である。同時にそれは言語化されておらず、イメージや言葉にならない総体として存在した。精霊信仰とは対象認識そのものである。
一方、宗教、とりわけキリスト教やその延長にある近代思想は現実には存在しない理想や架空のものとして意識を固定する。変えられない現実世界を否定し、現実にはないあるべき姿や、決して実現しない理想を身上としている。神や博愛、自由といったものがそれに相当する。それらが一旦、観念(文字)として固定されてしまうと外圧の状況に関係なく、強力に人々の頭の中を支配する収束力を発揮する。当然外圧は変化していくので、現実世界とのずれはどんどん拡大し、その思想は現実に適応できなくなる。

 リンク
 
m281.gif寺田寅彦(日本人の自然観、寺田寅彦随筆集第5巻、1948)
 「日本のように多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のこと」。「地震や風水の災禍が頻繁でしかも全く予測の難しい国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである」。

 野中涼(環境問題と自然保護-日本とドイツの比較、1999)
 「日本人は長い間、この世界をただ主観的に、個別的に、無数の個体の集合としてとらえる傾向が強かったので、「自然」というすべてを総体的にとらえる抽象語を持たなかった。「天地山水」とか「山川草木」や「すべてあめつちの間にある事」などと呼んでいた。自然を客体化させ、それにヨーロッパ語の”Natur”や”Nature”に相当する用語としての「自然」を当てて使うようになったのは、ヨーロッパの科学文化の衝撃を受けた1900年前後のことである」。

 安田喜憲(日本文化の風土、1992)
 「日本の自然観の特色は、円環的・循環的。限られた資源を有効に利用し、自然を破壊し尽くさない、自然=人間の循環系に立脚した文明を継承、発展。対して、西欧は、自然=人間搾取系であり、自然の側から見れば、一方的に搾取されるといった自然搾取型の文明の性格を持つ。その搾取型の地域システムの核となっているのが「家畜」である。


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年10月08日付ブログ「縄文体質とは何か?第5回 縄文の働き方は自然との共生」。

 日本人はよく働きます。 しかし、いやな上司の言うことを聞かなきゃいけないし、重労働もあれば長時間労働もあり、働くことも、なかなかの苦労があるものです。もっと楽しく仕事ができたらいいなと思うのは、現代人だからで、さかのぼって縄文人はどんな思いで仕事をしていたんだろうと考えてしまいました。第5回は縄文人の「はたらく」とは何かを扱います。

 縄文人の仕事は、狩猟・採集ですが、縄文時代前期には小豆や大豆の栽培が始まり、晩期には粟・黍・稲がすでに伝来していた可能性が高いといわれています。現代とは違って、上下関係などないフラットな集団で、誰のために働くかといえば、当然みんなの役に立つことをし、強制されることなく、自らすすんで、やりたいだけやるのが、縄文人の「はたらく」だったのです。豊かな自然の恵みに感謝しながら、自然に逆らうことなく共生して生きてきた縄文人に、現代社会は学ぶことは多いと思います。

 るいネットから記事を紹介します。

 【働き方改革が楽しくないのはなぜだろう2~序列のない縄文組織から学ぶ~】
 
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334828

 なぜ「ボス」がいなくても組織が成り立つのか なぜボスがいないんですか?

 共同体の真ん中に権力を置かないことで、みんなが等距離にある状態をあえてつくりだしていたと考えられます。心理学的にいうと『中空の原理』ですね。 しかし、組織的に狩りをしたり、木の実を収穫したり、工事をしたりする際に、ボス的な存在なくして、どのように協業を成り立たせていたのでしょうか? 階級が上の“ボス”ではなく、各種の協業ごとに“リーダー”的な人はいたと思います。リーダーがいなければ成し遂げられなかったような事業の痕跡も残されていますし、埋葬されていた人物の副葬品からは、例えば弓矢をそなえられた狩りのリーダーや、マダイの頭や亀の甲羅で作った装身具を持った漁の名手などが推測できます。 リーダーはいたんですね。そう。ただ、それは弥生時代以降に見られる、特定の原料・設備・技術などを独占し、直接生産にかかわらないような“ボス”ではなかったと思います。縄文時代には、個々の能力差、得意分野の『違い』は存在していましたが、取り分の大小が決まるような『階級』はおそらくなかったはずです。 どうしてそう思われますか? 理由はいくつかあります。たとえば集落内に、溝や塀などで区画されたり、特別な場所を占有したりする居住跡がないこと。特別な構造や規模の施設、財産を副葬した大きな墓などがないこと。みんなにほとんど差のない土坑墓が用意されていたことなどが挙げられます。 縄文時代の人類は、どうしてそのような組織を実現できたのでしょうか? それは縄文人が、努力=物質的対価、経済的対価というような思想ではなかったからだと思います。彼らは常に自然の摂理のなかに生きていて、自分たちは自然の恵みによって生かされているという考え方を持っていたのです。

 では、富の分配はどうなっていたのでしょうか?
 平等に分配されていたと思われます。考古学的証拠で言うと、シカやイノシシを獲ってきたときに、彼らはそれを解体して、パーツごとに小分けにしています。マグロも、30cm幅くらいの大きさでぶつぎりにしているんです。収穫があったときに、組織の中で誰かがそれを独占するのではなく、自然からの賜りものを皆で分けたと理解していいでしょう。 自然からいただいたものなのだから、感謝の気持ちを持って、みんなで平等にいただこうよということですね。彼らは自然のめぐみをもらうだけでなく、ときには栗林や里山なども育てました。食料も薬も道具も、すべて自然物を利用し、常にその恩恵にあやかっていたんです。だからこそ、収穫は自分たちの努力だけで得られるものではないということも人間は自然摂理のなかでしか生きられないということも、当然のこととしてわかっていたんでしょう。縄文時代には“社長”も“上司”もいない 縄文人って、誰にも雇われていないし、誰も権力のために仕事をしていないんですよ。 縄文時代には、“社長”も“上司”もいなかったんですね。フラットな関係のチームの中で、リーダー的な人はいたけれども。縄文時代の組織では、どんな風に仕事を分業していたんでしょうか? おそらく、その集団のなかで自分ができることを自分ができる範囲でやっていたんじゃないかと思います。たとえば漆(うるし)について詳しくて漆器を作るのが上手なら、それを誇りにして皆のためにやるという、ゆるい役割分担で。「俺、それ詳しいからやるよ~」というような感じで、手を挙げていたのですかね。おそらくそうだと思います。富の分配は平等だったので、たくさんの報酬がもらえるから仕事をやるのではなく、自分が得意なことをみんなのために役立てるという雰囲気があったのではないかと。精神的にレベルが高いですよね。ちなみに、縄文時代ではひとつのムラがひとつの場所に、数百年~数千年も継続してとどまっていた形跡があります。これはその集団が精神的にものすごく安定していたから獲得できた持続性だろうと思います。 1000年も! すごいですね。

 【農耕が始まったことが、人類にとっての最大の悲劇である】
 
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334443

 8千年前の人間のほうが健康で豊かだった人類の文明は、農耕がはじまってから進歩した。 エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明。 世界の4大文明は、治水と灌漑をおこなうことで発展し・・・なーんて歴史で習ったよね。農耕を知るまでの狩猟採集生活の頃は、貧しくていつも飢餓に苦しんでいたのが、稲や小麦を育てるようになってから、人間は豊かになった。そう思ってるよね。実は、あれ大嘘。 というのが最新の考古学や人類学者の間では定説になってきてる。農耕がはじまるまでのほうが、はるかに豊かだったんだってえ?って思うけど、本当。最新技術を使った考古学の研究では、古代人の骨をレントゲンとか放射性元素とか使って詳しく調べる。 そうすると、農耕がはじまるまでの狩猟採集生活をしていた人間のほうが、明らかに健康状態や栄養状態もいいんだって。 病気もないし、平均寿命も70歳くらいだったと推定されてる。ところが、農耕がはじまった途端に身長が低くなって、体重も減る。 体格が貧弱になって、骨をみるといっつも栄養不足、しょっちゅう飢餓にあっていることがわかる。高血圧や心臓病、伝染病といった感染症も大流行するようになって、平均寿命も一気に短くなって50歳未満。8千年前の狩猟採集時代のサイズまで人間の体格が回復するのは、なんと現代の先進国になってようやくというからびっくり! 日本の平均寿命だって男女ともに70歳を超えるのは、昭和40年代に入ってからのこと。 日本での狩猟採集時代というと縄文時代なんだけど、その頃のほうがずっと豊かで健康的だったってことなんだよね。衝撃・・・

 いわゆる「労働」というものが登場するのは、ひとが農業を覚えてからのこと。 あとから、これについては詳しく述べるけど、働くのがあたりまえ。 労働は美徳である。 働かざるもの食うべからず。というのが、いまの社会の常識であり、いわゆる「普通」なのだけど、実は、そうでなかった時代がある。 というより、もっと正確に言うと、労働しなかった時代のほうが400万年にわたる人間の歴史の中では長かったんだよね。そして、働いてないころの人類のほうが、ずっと豊かだった。 しかも平等で貧困もなければ、戦争もなく平和だった

 【稲作・漁労文明と畑作・牧畜文明~稲作文明が持つ「勤勉」という文化】
 
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=310746

 稲作は畑作に比べてきわめて複雑な労働を必要とする。種籾を選別し、苗代を作り、田植えをして水を定期的に入れ替える。さらに田の草を取り、害虫の駆除をしてやっと獲り入れの季節をむかえることができる。きわめて複雑な重労働が要求される。生産意欲のない奴隷や農奴では米作りはできない。稲作が自然にも優しい農業である事が最近注目されてきた。稲作は水源林としての森を保存し、水田は地下水をきれいにして水の循環系を守り、生物の多様性を保存してくれる。さらに水田は周辺の気候を穏やかにさえしていることが明らかになってきた。自然に優しく、自然の生き物たちと共存していくためには、人間も重労働を果たす事が必要なのである。これに対して麦作は、冬雨のやってくる直前に畑を耕し、種を蒔いたらあとは刈り入れまで何もする必要はない。麦は冬に生長するから雑草を取る必要もないし、害虫との闘いもない。麦作なら生産意欲の低い奴隷でもできるのである。だからこそ、奴隷社会が発展したのである。王は都市にいて消費者として君臨し、農奴は奴隷として生産に従事するという都市文明が誕生したのである。ところが、稲作漁労社会は王自らも労働を大切にした。農民とともに働く事が王の役割でもあった。「勤勉こそ最高の美徳」であったのが稲作漁労社会なのだ。それゆえおのずから都市の構造も畑作牧畜文明とは異なったものにならざるを得なかった。畑作民の都市は王が交易と消費を行うセンターとして発展した。これに対し稲作民の都市型集落は生産労働と密接に結びついたセンターとして発展した。たくさん米を獲るために種籾を分配したり、あるいは豊穣の儀礼をつかさどる祭祀のセンターとしての機能を強くもっていた。マルクスの歴史の発展段階論は西洋の畑作牧畜民の社会には適用できるかもしれないが、東洋の稲作漁労民の社会には適用できないのである。


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年09月27日付「縄文体質とは何か?第4回 縄文の”性”を知る」。

 第4回は”性”について触れてみます。私有婚、一対婚に始まる「女は所有物」とした西洋の性への捉え方と総偶婚をベースにする「女は集団内での充足存在」とした日本の性は180度異なっています。まとめを書くより先に過去の投稿群の中の言葉から縄文の性、日本人の性意識に係わるものを紹介してそれを感じとってもらいたい。
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m282.gif~土偶に示されるように女性中心の文明原理に立脚していた。古代文明の多くは多かれ少れかれ母権性的であるが、とりわけ縄文時代においては、女性中心の文明原理が大きな役割を果たしたとみなされる。~

 縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。リンク

 m282.gif『元始、女性は実に太陽であった。』
 平塚雷鳥により、1911年に婦人文芸誌「青鞜」創刊の辞に記された有名な文言である。この一文は、そして平塚雷鳥は近代の女性運動の象徴としてしばしば取り上げられる。しかし、この初期の女性運動は、男女同権を求めるものでも、女性の権利を主張するものでもなかった。私権時代に抑圧されてきた女としての役割を、社会においてまっとうに果たしたいという思いが根底にあった。リンク

 m282.gif縄文時代の女性の充足力について4つにまとめてみます。
1.極限時代の男女の性充足をそのまま引き継いだ。~集団の中で男たちは女性を敬い、大切な存在として扱った。それが男女期待応望を軸とした女性の充足力の源になる。
2.採集生産=人類史において初めて登場した女性の生産の役割~だからよく働いた(働くこと=充足)
3.定住化を果たすことで女性集団が安定し、母系集団がより強固に形成された。女性の充足力とはこの集団の結束力でもあり、そこで育まれた共認充足である。
4.女性の豊かな自然への同化能力はそのまま採取生産の豊かな食資源の獲得に繋がった。リンク

 m282.gif「女性が性の充足を求めることがみんなに認められ、喜ばれている」
 というみんなの意識のありようがすごくありがたいなぁということです。現代は性って特に女性にとっては秘め事になりがち。集団の中でみんなにオープンにするなんて考えられないこと。でも、それが100年も遡らない時代に、女性から性充足を求め、そしてそれが喜ばれる状況があった、ということをありのままに教えてくれる赤松さんの記録はとても勇気付けられます。リンク

 m282.gif>自分だけが充足する女」じゃなくて、「みんなを充足させることで自分も充足する女」って、本当にいい女! まず「自分」じゃなくてまず「みんな」。でも、みんなが充足してくれることで自分も充足できる、結局その集団みんなが充足できる。本当に集団に根ざしてこそ、女は充足存在になれるんだ。リンク

 m282.gif徳川時代の女性は現実は意外にも自由奔放で地位も確立されており男性に対しても驚くほど平等かつ自主的であった。江戸時代における性は男女の和合を保証するよきもの朗らかなものであり従って恥じるに及ばないもの、男女の営みはこの世で1番の楽しみと同時におおらかな笑いを誘うものだった。当時の日本人にとっての性意識はことさら意識的である必要のないほどあっけらかんと明るくのどかな解放感で満ち溢れていた。それくらいだから遊女や売春を幕府が保護して社会もまたそれを恥と思っていなかったのも納得できる。幕府は遊郭に対して保護と監督を行い身売りされる当人や家族も嬉々として献身し身分の高い人が客をもてなす社交の場でもあった。リンク

 m282.gif 1対1で教えるのではなく、「女たち」が「若者たち」を指導する、という形をとっていること。つまり私事ではなく、ムラの公式行事=公事であったことです。性は個人的な事柄でも秘め事でもなんでもないんですね。(実は平安時代の貴族社会にも「ソイブシ」と呼ばれる年上女性による性のてほどきの風習があったのですが、こちらは私事で、「オコモリ」とは全く違うを考えたほうがよい)また単なるセックスのてほどきではなく、女たちが若衆に話して聞かせた内容などから察するに、立派な「性教育」といえる非常に内容の濃いものであったといえますリンク

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 性とは秘めるものではなく開くもの、おおらかなもの。集団にとってなくてはならないもの。性は教育であり楽しみであり、いわば生きる事=活力そのもの。性も女性も集団に全て包含され、なくてはならないものとして工夫し追求しつくしたのが縄文社会であり、ついこの間まで続いたその後の日本の社会だった。明治時代に『元始、女性は実に太陽であった。』と打ち出した平塚らいてふの言葉は、太陽としての女たちが翳ってき始めた事を象徴している。縄文体質とは何か?性や女たちへの圧倒的な肯定性の再生なんだと思います。 そして本源の性を語る上で、言葉は無力です。感じる事、相手を思う事、そのDNAに刻印された心の部分で本質を受け取る事だと思います。


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年09月27日付ブログ「縄文体質とは何か? 第3回 職人気質に見る追求姿勢と自然感」。

 日本人は勤勉であると世界から賞賛される民族です。 現代の日本の製品も、丈夫で長持ちし、性能もよく精密で、今でも日本でしか作れない高度な技術も多数存在します。 建築の世界でも、カーテンウォールの歪みも一切なく、きれいに風景が写りこむ景観は他国では見られない職人技術ですし、奈良時代から続く寺社仏閣建築の巧みなディティールや大工の職人技は日本の世界に誇れる文化を伝えています。他国の金襴豪華な美術品やシンメトリーで権威的な建物と違って、日本の芸術は素朴で、あいまいで、調和があり、まさに自然と一体となってその感覚を素直に表出しているところが特徴といえます。こうした日本人の職人気質は、やはり縄文時代に培った自然感や集団気質に由来しています。第3回はこの職人気質について考察していきます。

 自然を征服する西洋民族と異なり、自然を敬い、自然災害の恐怖も受け入れ、自然を観察する中でその原理、性質を追求し、様々な独自の技術が開発し続けた縄文人は、まさに追及する民族であり、そのあくなき追及姿勢が、現代の職人気質の原点となっているのです。

 以下るいネットから引用します。

 【縄文人の先端技術】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=314953

 縄文人は当時世界でも最先端の技術力と工夫思考を誇っていた

 ①土器(おそらく世界最古の可能性が高い) 青森県大平山元(たいだいやまもと)遺跡(無文式土器)最古のものは1万6500年前といわれる。2009年までは世界最古といわれていた。 隆線文土器(装飾付土器)も1万4500年前には登場。これらの最古に近い土器は東日本に多い 1.6万年前頃から温暖化が始まり、木の実が豊富に取れるようになったため、アク抜きや煮炊きに使用されたといわれている。

 世界的には土器は、南アフリカ、西アジアは約9000年前 これに匹敵するのはロシアのクロマトーベ遺跡(シベリア南部)で1万5000年前 防寒や調理用の魚油を採取するために、魚を煮ていたといわれている これ対して中国の湖南省で2009年に、1万8000年前の最古の土器が発見されたと中国が発表。ただしこの発見には中国学者しか関与していないこと、長江文明は縄文文化よりも数千年後に開花していることなどから信憑性が疑問視されている。 その後の土器の発達度合いから考えて縄文土器が最古の土器である可能性が高い

 ②磨製石器 日本が世界最古。3万年前の黒曜石を研磨した石器(局部磨製石器)。刃先部分が研磨されている。また一部を研磨した石斧も発見されている。 また秋田から奄美群島にかけて135箇所で、2万9千年前から2万1千年前の地層からこの局部磨製石器が発見されている。

 全面を磨いた磨製石斧も縄文時代のものが世界最古。木材の伐採や加工のために用いられていたとされている。また丸ノミ型石斧も1万2千年前のものが発見されている。そのころ丸木舟の(全長5~7m、幅60cm前後のものが多い)の製造が盛んになる。ケヤキ、栗、楠木などの丸木の中を火で焦がし、石斧で削ってつくったようである。また、ヒスイ等を研磨するなどの目的でも使用されている。石器の中には伊豆諸島から運ばれてきたと考えられる石材もあり、すでに一万年前の縄文人は航海術に長け、海洋を往来していた可能性が高い

 世界では磨製石器は、メソポタミアでは1万年前、中国では9千年前頃に登場する。 それらをもって旧来は、「新石器時代」の幕開けとしていたが、他にもシベリアには2万2千年前 、ケルト人の源郷とされるオーストリア中部では紀元前2万6千年前、南半球のオーストラリアでは、2万5千年前の局部磨製石器が発見されている。これらは、他の地域から見て傑出して早く、石器は旧来の時代区分と異なり各地で多様に発達していた。 また丸ノミ型石斧はグアムやフィリピンでも発見されているが縄文時代よりも遅い。

 ③漆塗りの器等 約9000年前 副葬品から出土(北海道函館市の垣ノ島B遺跡) 土器に文様を描くため、或いは水漏れを防ぐために土器に塗る。竹かごや木の皮に塗って、それらを補強する。などの目的で用いられていた。また弓矢の柄に塗って柄を補強していた可能性も高い。漆は管理栽培されていたとされる。

 浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡で発見された漆椀は、いまから約7000年前。漆塗りの木弓が8000年前である。木弓については河姆渡遺跡の歴史から考えて、もう少し遅いのではないかとも考えられる)

 【3~1万年前に世界最先端の技術が日本列島にあったのはなぜか?】
 
 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=314857

 1)縄文人のルーツ 東南アジアで発生したD2系遺伝子を持つ人類の一派は5万年前のスンダランド中心での火山爆発によって北上を強いられ、一部はチベットへ、さらに4万年前頃の温暖期には北上しバイカル湖南まで到達。その後温暖化、寒冷化を繰り返すが、寒冷地に留まったD2系はバイカル湖周辺で細石刃石斧等の道具を発明する。寒冷地で住む事で様々な道具や居住に関する技術を蓄えていく。 それでも3万3千年前の極寒冷期に耐えられなくなり移動。シベリアを横断し樺太から日本列島に入り込んで南下する。

 2)日本列島の環境要因 彼らの工夫志向が開花したのは日本列島の気候、地形にもよる。 ①日本列島は南北に長く、モンスーン型気候で四季がある。現在のような四季が形成されたのは日本海に暖流が流れ込んだ1万2千年前以降だが、それ以前にも南側地域には似たような状態にあったと思われる。②また、日本列島は降水量が適度に多く、水資源が豊かにある。 ③大陸地域と最も異なるのが海岸と山が近接している事である。日本列島は起伏に飛んだ山岳が大半を占めており、言わば火山の島が海に浮かんでいるようなものである。逆に言えば海の幸、山の幸を同時に得る事もでき、自然の恵みが豊かだった。 ④大陸から切り離された事で、外敵となる肉食動物が少なく、比較的安全に食料を得る事ができた(早期に洞窟から出ることができた) ⑤自然災害が多かった~これも技術を生み出した要因。 自然に対して恵みを得ると同時に、数年単位で台風や地震、火山などの災害にも巻き込まれた。自然を恵みの対象と見ながら、時に畏怖の対象として畏れる環境にあった

 3)総じて~ 日本列島に世界最先端の技術が登場したのは上記のような出自と環境の複合的な要因によってある意味必然的に、奇跡的に登場したと見ることができる。西洋や中国の技術が自然を克服し登場したのに対して、日本の技術は自然に同化し恵みを受け、自然から学び取る事で作られていったという点で対照的であった。逆に言えば克服するより同化する方がはるかに早く技術が登場、発展するのは道理でもある。 日本が作り出した技術は古来何らかのルートで世界に流れた可能性もある。磨製石斧や土器、漆が海を渡った縄文人によって伝えられた可能性もなくはない。しかしそういう発想や、その事で優位に立とうとしない日本人の性格もまた、これらの最先端の技術があった事を世界に知らせる術がない事の一因となっているのかもしれない。

 【日本=美の大国~縄文からの遺産】
 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=207887

 日本の文化には3つ層がある。欧米化されたもの、農耕アジア的なもの、そしてそれ以前の縄文的なもの。この中で最も日本らしさに影響しているのが最後の縄文的なものである。狩猟採取時代の感覚が日本には残っている。欧米のキリスト教文化圏でも中国・韓国の儒教文化圏でも、「どんな生き方が正しいか」という倫理観、道徳観が生き方の規範となる。 ところが日本では「どんな生き方(死に方)が美しいか」という美醜の観念が生き方の規範となる。卑怯者=醜き者とされるのが最もツライ。美的感覚も他のアジアと全く異なる。アジアの国々の人にとっての美の基準は「鮮やかな色彩」「きらきらした輝き」「均一に整った美」「完成された不動の美」だ。 対して日本人は、「中間や曖昧な色」「鈍色に沈んだ美」「左右非対称の美」「常に生成変化をやめない未完成の美」「地肌のままの美」こそが美しいと感じる。まるで正反対である。この感覚は縄文にまで遡る。自然の声を聞きながら、万物に精霊を見た縄文人の感覚が今も残っている結果だ。 日本の技術者・職人の優秀さは世界に知れ渡っているが、彼らは自然物のみならず、自分たちが作り出す無生物の材料や物の声を聞くことが出来る。 名人と言われる人の話を聞くと皆、「無心になりモノと一体になる」と言う。完全に同化してしまうのだ。日本は「経済大国」「技術大国」と言われて来たが、現在、世界を席巻しているのは「美の大国」としてである。


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年09月13日付ブログ「縄文体質とは何か? 第2回 集団性(仲間意識)が作る強さ、柔軟性」。
 先日の実現塾で人類にとって集団であるのは何の為かという事が語られた。集団として課題に取り組む為であり、生存していく為である。そういう意味で学校集団は個人課題であり、生存していく為に必要なものではない。ゆえに擬似闘争としてのイジメやテストという個人間闘争が発生し、集団は歪んでいく。

 第2回は日本人(=縄文人)の集団性(仲間意識)について書いてみたい。縄文人は間違いなく生きていくため、課題に取り組む為に集団が存続した。10人から50人で集団を形成し、最大500人、地域ネットワークまで考えるともっと大きな集団に統合されていた可能性もある。生産を祝い、課題共認を図る「祭り」は縄文時代に登場した日本人の集団体質の根本にあると言えるだろう。諏訪の御柱祭、青森のねぶたはそれらの源流を継いでいる。

 またもう一方で集団間は近接する事で同類闘争圧力が働く。西洋ではそこから戦争を勃発させ文明という名の私権社会を築いて来た。しかし、日本には長い縄文時代に戦争の痕跡はなく、その後の日本社会においても西洋ほどの皆殺しの戦争はない。これは縄文時代に遡って同類圧力を止揚する為の仕組みである「贈与」のシステムが有効に働いていたからであると見ることもできる。

 さらに日本人の集団の特徴として強力なリーダーは不在であるという事。実際にはどの集団にもリーダーはいて、指導者は存在するが、その集団の成員がある課題の元にフラットに集まり全員が役割を共有している。そういう意味では誰もがリーダーであり誰もが成員であるという集団における万能細胞という言葉が相応しい。時にスポーツなどの場合この万能細胞として適材適所で能力以上の活躍をして成果を出す事が称えられ、個人競技より団体競技において日本人の優位性が語られる場合はこの能力が他国に比べて特化しているからでもある。

 過去のるいネット、縄文ブログから記事を拾ってみた。
 
 m282.gif縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!

 御柱祭に見える縄文的要素
 御柱祭の現場に立つと考古学的には見ることのできない要素がたくさんあることに気づく。まず、見事といっていいほど畜力や機械力が排除されていて、すべて人力。大木を縄で曳き、テコで持ち上げ、時にはコロをかます。微力である人の力は、集中されなければ有効な力とならない。そのため、技術や工夫のほかにも合図や励ましのかけ声や言葉が加えられ、リーダーの下に集合の力を統合させるシステムができあがっている。そしてオンベ。これは曳き手を鼓舞するためにふりたてるもので、長い材の先にたくさんの長いテープ状の布や繊維を房状にまとめてある。これらは杉やヒノキのような真っ直ぐな木の薄皮でもつくられるし、草の長い茎からもつくることができるだろう。…(中略)…もう一つは「木遣り唄」で、御柱の運行をとりまく音環境のなかでひときわ目立つ。唄は曳行の節目で歌われる。短く三音階ぐらいの平板なメロディを、非常に高い声で歌うものでそれをきっかけにヨイショ、ヨイショと曳き手の力が集結され、柱が動き始めるのである。集団のリーダーが統率しながら、皆が役割を担い、息を合わせて巨木を運ぶ。人は一人一人の力は微力だ。しかし、集団の皆が力を合わせれば、成し遂げられる。この充足感=集団の充足感はとてつもない成功体験となって、集団を統合していくだろう。共同体=人々の共認をフルに生かした祭りへと発展していったのだ。

 
m282.gif「贈与」に何を学ぶべきか!~2、縄文人の集団間の関係は?

 「原始社会での物々交換は、現代人が考えるような、等価値の物品同士の単純な交換ではなく、命がけで入手した交易品には万感の思いが込められていたはずです。それには言わば、贈与者のマナ(霊的な力)が込められている。俗に言えば「心のこもった贈り物」ということになり、当然功利的な打算など優先されることもない」。こうした交易のあり方の系統を継ぐ縄文期においても、私権的な要素が価値軸となることはなかったはずです。しだいに「階層」らしきものが生まれ始める中期・後期の大集落でさえ、排他的、即自的な性格を帯びることなく、おおらかな共同意識、連帯意識をもって交流し合い、利害も調整し合うことができた。だからこそ、物資や情報を運ぶネットワークをあれほど広く張り巡らすことができたのです。「こんなおいしいものが採れましたからぜひ食べてください」「それはありがたい。我々は、こんな便利な道具を作ったので使ってみてください」。このような単純な会話に象徴されるオープンで受容的な雰囲気が、縄文社会の精神風景に流れる通奏低音だったと想像するのもユートピア論になってしまうのでしょうか? しかしながら、利害ではなく信認関係に基づくネットワークの構築、と言えば、これから我々が目指す社会のあり方と見事に重なってくるように思われる。


 m282.gif縄文時代の地域の真髄は”ネットワーク”だった

 贈与~黒曜石に始まり、水晶、土器、塩、貴重なものがいくつもの集団を渡って長距離に流れた。縄文時代のネットワークの根底に互いの集団間の緊張圧力、戦争圧力を緩和する贈与というシステムがある。その集団にとって最も貴重なものを贈り合うというのが贈与の始まりだが、それが集団間の技術を高め、曳いては縄文時代の高い土器技術の創造に繋がった。贈与は集団間の緊張圧力を緩和したが同時に集団間(同類間)の切磋琢磨の追求競争を作り出した。

 縄文情報ネットワーク~縄文人のネットワークは単に隣町、隣地域に留まらず、200kmも300kmも離れた遠隔地まで届いている。また、福井県の鳥浜の事例では遠く中国大陸まで物資や人が移動しており、交通技術のない時代としては破格の長距離交易が行われていた事が特徴的である。これは日本が四方を海で囲まれており、沿岸部を通じて舟で移動する、安全な海の交通網を持っていた事と、半分程度いたと思われる漁労民の存在がそれを可能としていた。そして情報を求める動きは現代人も古代人も同じで、集団の安全、安心を確保する為に外部情報は貴重で価値あるものだった。ましては古代には新聞も守ってくれる警察もいない。自らの集団は自らで守らなければ生きていけなかった。インターネットを使って誰でもいつでも知りたい情報が手に入る現代とは情報の価値が全く違っていたのだ。

 m282.gif寄り合いという合議制は徹底的なすり合わせ

 「私はこの寄り合いの情景が眼の底にしみついた。この寄り合い方式は近頃始まったものではない。村の申し合わせ記帳の古いものは二百年近い前のものもある。それはのこっているものだけだけどもそれ以前から寄り合いはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただ、違うところは昔は腹がへったら家にたべにかえるのではなく、家から誰かが弁当を持ってきたものだそうで、それを食べて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝るものもあり、おきて話して夜を明かすものもあり、結論がでるまでそれが続いたそうである。といっても三日でだいたいの難しい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得がいくまで話し合った。だから結論が出ると、それはきちんと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎり関連のある事例をとりあげていくのである。話に花が咲くとはこういう事なのである」


 なぜ現代人は深くものを考えられなくなったのか(万能細胞としての日本人)

 日本人は勉強熱心な民族だと思う。しかし役割については極めて受動的だと思う。テレビを見るにせよ、読書をするにせよ、自分のためだけにするから身に付かない。が、いざとなると能力や知識を発揮する人が潜在的には多勢いるというのが日本人の特徴だと思う。しかし、もう少し正確に言うと、場面場面でその中で一番能力のある人、知識のある人、経験のある人、を決めるのが長けている。そして自分たちで決めたリーダーに役割を決めてもらってそれをみんなで共認することに長けていると思う。その辺は何か成果が上がるまではリーダーを信用しない、実証主義の欧米人とはかなり違うと思う。欧米人は適材適所とか、適地適作とか、個(個人)に眼を向けて役割を配置する。順調ならばそれで良いが行き詰ったときに配置換えを延々と続けたり、微細な条件の差異をいちいち実証しなければならない。ところが日本人は役割の配置についてはとても受動的で苦手なことでもやらなければならないことはやろうとする。だからある技能が突発的に抜きん出ることは少ないが、どんな役回りでも何とかしようとするという意味では集団における万能細胞である。

 投稿者 tanog : 2018年09月13日 List  


 「縄文と古代文明を探求しよう!」の2018年09月06日付ブログ「縄文体質とは何か?第1回“縄文人にとって自然とは”」。

 先週の実現塾で「縄文体質を持つ日本人が人類滅亡の危機を救う最も最先端に居る。」という認識が語られた。これはいったいどういう事だろうか? 私たち日本人の中には平均して12%の縄文人のDNAが残っているという。~リンク このわずか12%、されど12%もの縄文人の素養、素質が知らないうちに私たちの最も深いところで意識を作りこんでいる。

 縄文体質とは何か、さっそく固定したくなった。しかし、待てよと。これまでこの縄文ブログで散々投稿してきた内容が縄文体質ではないか?あるいはそんな深いものを一言で言ってしまえるのだろうか。言ってしまってよいのだろうか?

 ただ、今回のこのシリーズではできるだけコンパクトにこの縄文体質を言い表したい。6のキーワードを設定する。“自然”・“職人気質”・“仲間意識”・“はたらく”・“性”・“信仰”できれば最後には図解のようなもので体系化を試みたい。第1回は自然から始めたい。

 今週9月4日の台風21号で25年ぶりの大風が列島を襲った。さらに大阪に限定すればおそらくここ100年にない極めて凶暴な暴風だった。車を持ち上げ、建物を破壊していく。我々はどうしたか、吹き飛ばされる恐怖を感じながらも自然の凄まじい力に只、唖然とするばかりだった。まさに自然への畏怖の念が沸き起こった。今年は災害の当たり年で6月18日に大阪で深度6強の地震を経験し、その後も西日本豪雨、さらに今日の北海道地震とわずか2ヶ月の間に大きな自然災害を4つも経験している。いったい日本はどうなってしまうのだろうか?しかし、この自然への恐怖、畏怖の念、そして台風が去った後の穏やかさを与える自然への感謝の念。自然には決して抗えない、生かされている意識、それらが我々日本人(かつては縄文人)の心に刻み込まれてきた。3つの投稿を紹介。最後は西洋の近代科学の自然観で、対比しています。
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 寺田寅彦「日本人の自然観」に学ぶ 

 【日本人の自然観】

 日本人の先祖が何処から渡ってきたかは別問題として、有史以来2千有余年この土地に土着してしまった日本人がたとえ如何なる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくとも部分的にそれに成功してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。そういうわけであるから、もし日本人の自然観という問題を考えようとするならば、まず第一に日本の自然が如何なるものであって、如何なる特徴をもっているかを考えてみるのが順序であろうと思われる。(中略)
動かぬものの例えに引かれる我々の足下で大地が時として大いに震え、動く。そういう体験を持ち伝えてきた国民と、そうでない国民とが自然というものに対する概念においてかなり大きな懸隔を示しても、不思議ではないだろう。このように恐ろしい地殻変動の現象はしかし過去において日本の複雑な景観を作りあげる原動力となった大規模の地変のかすかな余韻であることを考えると我々は現在の大地の折々の動揺を特別な眼で見直すことも出来はしないかと思われる。

 同じ事は火山においても云われるであろう。そうして火山の存在が国民の精神生活に及ぼした影響も単に威圧的なものばかりではない。日本の山水美が火山に負うところが多いということは周知のことである。火山はそれが作り出す自然美だけでなく、火山の噴出は植物界を脅かす土壌の老朽に対して回春の効果をもらたすものとも考えられる。このように我らの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもって我々を保育する「母なる大地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭を振るって我々をとかく遊情に流れやすい心を引き締める「厳父」としての役割も勤めるのである。

 人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した。何故に東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題はなかなか複雑な問題であるが、その差別の原因をなす多様な因子の中の少なくとも一つは上記のごとく日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像される。

 すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くて、その慈愛に対する欲求が充たされやすいために住民は安じてその懐に抱かれることが出来る。一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさが身に染みて、その禁制に背き逆らう事の不利をよく心得ている。その結果として十分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめてきた。

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 縄文時代の様相1~自然外圧と縄文人の自然観・宗教観~

 縄文土器・土偶など縄文芸術の背後には、自然界の強大な力があり、それを動かしている、神の力に対する敬意が込められている。縄文土器・土偶は、縄文人の精神そのものを形にしたのではないか?(中略)森羅万象すべてに神を見た縄文人は、台風は風の神、雨は天の神、洪水は水の神、津波は海の神、噴火は山・火の神、山火事は森の神などを、恐れおののき敬虔にその怒りを治めるため、ひれ伏したと考えられる。過酷な天災という自然外圧は、突然現われる神の訪れであったと見られ、又四季の変化は、人々に食料の恩恵を与える一方で、周期的に移り変わる自然環境として、日常的に適応すべき、不可避の外圧であったと見られる。と云うように、日本人の縄文気質の根源には、「過酷な天災」という非日常的な大きな自然外圧と、「四季の変化」という日常的な自然外圧とが常に並行作用していた。それら自然外圧を「活力源」として、ムラを挙げて適応してきた半面、それらに恐れおののき、自然に平伏す敬虔な祈り・祀りを忘れなかった。縄文人の自然への畏怖・敬意を表現する姿勢は、人間の持つ根源的な存在意義を示しているだけに、縄文人を理解することは、様々な問題への対処療法の手がかりとなり、且つ現代社会のあり方を示唆していると云える。
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 近代科学の正体~自然を拷問にかけて白状させる~科学者たちの言葉から

 近代の自然認識への転換を象徴するのが、ガリレオの実験である。その実験は、滑らかな斜面を用いることで落下時間を引き延ばして時間の測定を容易にし、かつ空気抵抗の影響を低減させるというもので、これは自然界には存在しない真空中での落下という理想化状態に人為的に近づけたものである。その実験の目的は、それまでの技術者による試行錯誤を通じた技術の改良ではなく、時間と空間の関係としての定量的法則を確立することであった。

 このガリレオの実験の意義を、【カント】は次のように述べている。「理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせねばならない。そのことを自然科学者が知った」、「それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に、理性は生徒の資格ではなく本式の裁判官の資格を帯びるのである」、カントだけではない。17~18世紀の科学者たちは、自然を攻撃し征服・支配することを善とする言葉を堂々と口にしている。

 【ロバート・ボイル】
 「私は元素の混合によって生ずるといわれている諸物体そのものを試験し、それらを拷問にかけてその構成原質を白状させるために忍耐強く努力した」。
 【ジョセフ・グランヴィル】
 「自然は、より穏やかな挑発では明かすことのできないその秘められた部分を、巧みに操られた火の暴力によって自白する」。
 【デカルト】
 「私たちは自然の主人公で所有者のようになることができる」。






(私論.私見)