自殺の原因には諸説が挙げられている。その一つとして「生の美学論」がある。月刊誌「中央公論」の編集長であった粕谷一希は、三島が、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったという(なお、三島と荷風とは、系図上では遠戚関係にある)。「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。新潮社の担当編集者だった小島千加子は、「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていたという。この死に急ぎ証言に対する次のような反証的証言もある。「自分の顔と折合いをつけながらだんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう」、「室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる」。

 次に挙げられるのは、「ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲論」である。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して、読売新聞に発表した文章のなかで次の様に述べている。「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」。また、「行動学入門」の中で次のように述べている。「法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた」、「会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである」。

 他にも「切腹という行為そのものに対する官能的なフェティシズム論」がある。しかし、このどれもが嘘臭い。なぜなら、これらの論が三島事件を三島自決論で了解しているからである。三島自決論で了解する限りそういう理解の仕方が生まれることになるが、三島被強制自決論に立てば何の意味もない推論と云うことになろう。