三島最後のドキュメント考その1(コピー版) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「三島最後のドキュメントその1」を推定交じりで記しておく。通説がどうもオカシイと思い始めたからである。より真実の史実が判明次第に書き換えていくことにする。「三島事件」、「三島由紀夫氏の切腹の際には斬首がなかったですか?」、「三島由紀夫の生首写真を掲載した新聞と、当時の反響」、「三 島 由 紀 夫 割 腹 余 話」、「狂気の三島由紀夫1時間30分」、「三島の割腹現場写真を掲載したブログ」、「三島事件の『要求書」を読み解く」、「三島事件の核心を推理する」その他を参照する。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1162 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月12日 |
三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義 ここで「三島最後のドキュメント考」をしておく。れんだいこの歴史嗅覚からして何やら腑に落ちないものを感じたからである。これまでにも同様の臭いから「宮本顕治の戦前リンチ致死事件」を考察している。 (marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/ rinchizikenco.htm) 同サイトで、宮顕及びその系の今日に至る日共の弁明のウソをことごとく論破している。自分で云うのもなんだが白眉ものである。結論は、宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発したのではなく、宮顕こそがスパイМに代わる党内スパイ派の元締めであり、その宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられたと見るべきであるとする新観点を打ち出している。これはそれまでの様々な論の稚拙さを粉みじんにしていることに功績がある。 それまでの論(一)は宮顕冤罪説である論。(二)は党内スパイ摘発上の当時の情況からして止むを得なかった措置説である論。(三)は既に解決済み説である論。(四)はやり過ぎ説である。これらに対し、それらがいずれも「宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発した」とする前提の論である点でナンセンスであること、真実は「スパイ派の宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられた」のであり、冤罪として名誉回復が急がれているのは小畑氏の方であるとしている。 この論はさほど注目されていないが、それはれんだいこの立論の虚妄によるのではなく、驚天動地性故に沈黙を余儀なくされていると了解している。れんだいこは他にも数え上げればキリのない通説異議を申し立てしている。田中角栄のロッキード事件に於ける角栄冤罪説、2.26事件に於ける皇道派青年将校が嵌められ始末された説、処女作「検証学生運動(上下)」による戦後学生運動内の正邪見極め説、邪馬台国新論に於ける原日本新日本論等々然りである。これらはいずれも、通説側に言葉を失わせるほどの観点の差を突きつけており、通説側がれんだいこ観点を否定できず、結果的に論評戦意さえ失わしめている故と了解している。 こたび、同様の戦意をもって「三島最後のドキュメント考」に向かう。れんだいこが「三島最後のドキュメント通説」のどこに疑問を覚えているのか。それは、三島が自らの意思で「最後の三島美学」の実践場として自衛隊市ヶ谷基地を選んだとする観点そのものへの疑問から始まる。そういう評論ばかりであるが異議を申し上げておく。 それは半分真実であろう、しかし残りの半分は用意周到に誘い込まれたのではないかとみなしている。三島は敢えてそのシナリオに乗った形跡が認められる。三島の死も然り。三島自身が漠然と半ばは死を覚悟していたが残りの半分は生に期待を持って出かけていたとみなす。予感として死が免れないことを承知しており、どう転ぶにせよそのありのままを歴史に刻まさせる賭けに出たとみなす。結果、割腹死を強制されたとみなす。 自ら好んでの三島美学による割腹自殺劇とみなすのが通説であるが、半分真実で、残りの半分は割腹へと強制誘導されたとみなす。こう捉えないと辻褄の合わないことが多過ぎるからである。以下、これを論証する。まずは、この事件を正確に確認するところから始めねばならない。サイト「三島事件」その他を下敷きにする。本意は三島事件の公判記録を読んでからの投稿にしたいが、それに費やす時間がないので見切り発表する。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1163 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月13日 |
三島最後のドキュメント考その2、決行前夜 「れんだいこの三島由紀夫論」は別サイトで連載するとして、まずは「三島割腹事件の真相」を確認せねばならない。なぜなら、ここに「戦後体制上のアウトサイダーで在り続けた三島らしさ」が凝縮しているからである。三島を好意的に評する者も逆に評する者も「戦後体制上のアウトサイダーとしての三島」を確認しない限り理解が覚束ない。ここを理解しない三島論が横行しており物足りない。れんだいこが三島論を書き上げる所以でもある。もとへ。 1970(昭和45).11.24日の夜、三島は友人のサンデー毎日記者徳岡孝夫とNHK記者の伊達宗克の二人のジャーナリスト連絡し、或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んでいる。米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いている。「米国人の翻訳者二人」の一人であると思われるドナルド・キーン(コロンビア大学教授・日本文学研究家)宛に投函された最後の手紙は以下のようだったという。
11.25日未明、三島は、ライフワーク長編の「豊饒の海第四部、天人五衰」の最終稿を書き上げている。この小説が遺作となった。8月の時点で既に結末部は脱稿していたが、巻末日付をわざわざ11.25日と記載している。三島は新潮社の担当編集者(小島千加子)へその旨を連絡した。しかし、小島が三島邸についたときには既に出かけていた。小島には間接的に「豊饒の海第四巻の天人五衰最終回」が渡された。 11.25日早朝、三島は、軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を揃えた。午前8時、起床しコップ一杯の水を飲み干している。新潮社の小島さんに手渡すはずだった原稿(豊饒の海)をお手伝いさんに託している。午前10時頃、三島は徳岡と伊達に再び電話をかけて具体的な呼び出し地などを指定している。これにつき、徳岡は次のように証言している。
これによれば、三島がこれから大立ち回りを演ずること、その一部始終が揉み消されるか歪曲されることを予感的に承知していたことが窺える。 午前10時13分頃、 森田、小川、古賀が同乗し、小賀の運転するコロナが三島宅に到着。三島は、盾の会会員4名(森田必勝(25歳)、古賀浩靖(23歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳))と共に会の制服を揃って着込んで自宅を出て、車で東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)に向かった。いよいよ決行の「歴史その時」を迎える。 市ヶ谷に向かう車中、高速道路を通って神宮外苑附近にさしかかったとき、助手席の三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、俺たちは意外に明るいなあ」と言ったという。古賀は検察調書の中で、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ四人も合唱した。歌ったあと何かじーんとくるものがあった」と述べている。 ちなみに「唐獅子牡丹」(1965(昭和40)年、作詞・矢野亮・水城一狼、作曲・水城一狼、歌手・高倉健)の歌詞は次の通りである。
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れんだいこのカンテラ時評№1164 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月13日 |
三島最後のドキュメント考その3、決行 1970(昭和45).11.25日午前11時前、三島らは玄関に着いた。事前に東部方面総監・益田(ましだ)兼利陸将(57歳)に午前11時の面会を申し込んでいた。名目は「優秀な楯の会隊員の表彰紹介」であった。沢本三佐に出迎えられ、正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。三島は真剣の日本刀の関孫六を携帯していた。応接セットにいざなわれた三島は益田総監に、森田ら4名を一人一人名前を呼んで紹介する。ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・関孫六に関してのものになった。 総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねている。これに対し三島がどのように答えたのかは分からないが話題を転じて次のようなやり取りに向かっている。「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、関兼元と記された鑑定書を見せている。この時、刀を抜き、油を拭うため「小賀、ハンカチ」と言って同人にハンカチを要求している。その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら立ち上がり執務机の方に向かった為、見合わせざるを得なかった。小賀はハンカチでなく日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。 午前11時5分頃、三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずいた後、刀を三島に返した。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀がすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。続いて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わりながら短刀をつきつけた。こうして益田総監を人質に取った。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。 沢本三佐が異変に気づいて指揮系統に報告した。業務室長・原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警視庁に通報する。第一報から12分後、警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。 午前11時20分頃、三島は、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを関孫六で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入して来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島が加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を破れた窓ガラスから廊下に投げた。 午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応した。要求書には「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊は午後1時10分までの約2時間、一切の攻撃を行わないこと。当方よりも攻撃しない。この条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」なる趣旨のことが書かれていた。三島らが本気であることを知った責任者は総監の生命を気遣って要求を受け入れた。 午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。なおこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などの「三島の想定した『武士』ではない」隊員達であった。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、「楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」については、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は既に警察の監視下に置かれており現場に召集されなかった。 午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。檄文の内容については別サイトで考察する。三島は定刻になるのを待って歩き回っていた。 正午直前、三島は、カーキ色の楯の会の制服を着て「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキをしめ、日本刀・関孫六の抜身を持って二階の総監室外のバルコニーに立った。森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。 正午、三島はマイクなしの肉声で拳を振り上げながら演説を始めた。演説の内容については別サイトで考察する。事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し旋回していた。その騒音でマイクをもたない三島の声はかき消された。隊員たちは野次をとばし続け三島の訴えに嘲笑で応えている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消された。後に、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は「三島さんにマイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。現場に居合わせたテレビ関係者などは演説はほとんど聞こえなかったと証言している。録音でも野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。 その場にいたK陸曹は後に次のように反芻している。
徳岡は、この時の演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙、写真と共に銀行の貸金庫に保管していると云う。この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけであった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとなった。 30分ほどを予定していた演説を7分間で終え、三島と森田は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し総監室に姿を消した。 |
【三島最後のドキュメント考その4、三島由紀夫のクーデター時の「演説」文】 | |||
「三島由紀夫のクーデター時の演説文」が開示されている。これを転載しておく。
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【三島最後のドキュメント考その5、三島由紀夫のクーデター時の「檄」文】 | ||
「国防研究会図書室」がこの時の「檄」を掲載しているので転載しておく。
三島由紀夫遺言状「楯の会会員たりし諸君へ」
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(私論.私見)