1972(昭和47).4.16日 川端康成変死事件

 更新日/2024(平成31→5.1栄和6).10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「川端康成変死事件」考をものしておく。

 2004.3.19日 れんだいこ拝


【川端康成変死事件考】
 1968年10月17日、川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞。『雪国』や『伊豆の踊り子』『眠れる美女』など、現代にも読み継がれる名作を多数残している。

 1972年4月16日の夜、仕事場として購入していた部屋で遺体となって発見された。発見時の状況から自死とされている。「ガス管をくわえ自殺」と報じられた。逗子マリーナは、川端が鎌倉の本宅とは別に執筆のために使っていた部屋で、当日午後の早い時間に逗子マリーナを訪れていた。その日は澄み切った晴天。「川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう」と記されている。部屋は2LDKで、広さ約52平方メートル。事件当時、こたつや小机、ちゃぶ台などが置かれていた。


 古都・鎌倉にほど近く、バルコニーの下にはヨットが並び、海の向こうに江の島と富士山が見える神奈川県逗子市のリゾートマンション・逗子マリーナの管理人室に「ガスの臭いがする」という通報が入った。警備員がお手伝いさんとともに川端の部屋に入ると、ガス管をくわえた本人の遺体が布団の中に横たわっていた。傍には封を切ったばかりのウイスキーが置いてあった。遺書はなかった。 

 川端は当時、日本初のノーベル文学賞作家として文学界を背負って立つ存在だった。しかし、三島由紀夫変死事件の2年後、心身に変調をきたしていた。


 2019年に地元の不動産会社が買い取り、2年前に鎌倉市在住の60代の女性が購入する。値段は3600万円弱ぐらいだったと云う。 (2022年5月17日付記事の再配信、「週刊新潮」2022年5月5・12日号掲載記事その他参照)

【三島事件と川端の関係】
 事件直後に、現場の総監室には師の川端康成が駆けつけている。川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を確認している。川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような言動をするようになる。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品を書かなくなった。 三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。 水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げている。遺書はなかった。

 三島と親しかったが、三島が自決の年に、石原の政治姿勢を批判したことで交流を絶っていた石原慎太郎(当時参議院議員)も現場に駆けつけている。但し、現場検証した警察関係者から「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退したと弁じている。

 一条真也の「
三島由紀夫と戦後」は次のように記している。
 「石原氏は、1970年11月25日、すなわち三島自決の日、東京紀尾井町のホテルニューオータニで仕事をしていたそうです。すると、秘書から『大変です。大事が起こっています』と電話が入り、石原氏は市ヶ谷の現場に駆けつけます。現場には、川端康成がどこかのホテルか何かで仕事をしていたのか先に来ていたそうです。警察に『石原さんですか。まだ検証は済んでいませんが、現場をご覧になりますか』と訊かれましたが、先に川端康成が現場に入ったと知り、石原氏は断ったそうです。石原氏はその日の夕刊で三島が割腹しただけでなく、首をはねさせていたことも知っていました。石原氏は、転がっている三島の首を見たら、きっと何かを感じて取り返しがつかなくなる予感がしたというのです。実際、三島の首を見た川端康成は精神に異変をきたしました。石原氏は述べます。『川端さんは明らかに、胴体から離れた三島さんの首を見て何か感じとったんだろう。川端さんも、ある意味では怖いものを書いてもいたけど。あんな耽美的な人が、自分の美的な世界とは異なる、まったく異形なものを見たわけでしょう』。もともと川端康成は睡眠不足でノイローゼ気味だったそうですが、事件の後、人と話しているときに『あ、三島君が来た』などと言っていたりしたそうです。それから、まもなくノーベル賞作家・川端康成は自殺したわけです」。
 2020/11/25日、石原慎太郎「川端さんはあの日からおかしくなった」。
 あの日、三島さんの首を見なくて本当に良かったと思い返しています。事件の一報を受けたのは、私がちょうど紀尾井町のホテルニューオータニで仕事をしている時のことで、秘書からの電話で「三島さんと楯の会が市ヶ谷の駐屯地に乗り込んでクーデタを起こした」と連絡があったので、大急ぎで車を飛ばして現場に駆け付けた。もちろん現場は警察がバリケードを組んで厳重に封鎖されていたのだが、国会議員だったから、顔をのぞかせた警官が私を認め、「石原さんですか、良かったら現場をご覧になりますか」と意外なことを言う。「えっどういうこと?」と聞くと、「いや、あの、三島さんは切腹して死んだようです」というから、「えっ?」と息をのんだ。戸惑っていると「さっき、川端康成さんがおいでになってご覧になって帰りました」と言う。私は「川端さんが先にご覧になったなら、もう私は結構です」とそのまま引き上げた。

 割腹しただけでなく、楯の会の仲間に首を刎ねさせていたのを知ったのは、その日の夕刊でのことだった。あの時、総監室に入り、絨毯の上に転がった三島さんの首を目にしていたら、大きな衝撃を受けたと思う。川端さんは、あの日から明らかにおかしくなった。人と話している時に、「いま三島君がそこに来ているから、ドアを開けて入れてあげなさい」と言ったという話もよく耳にした。三島さんの首を目にした川端さんの心中に何が起きたのか。知る由もないが、逗子マリーナの小坪のマンションで自ら命を絶ったのは、事件からわずか1年半後のことだった。
(私論.私見)
 川端の自殺の要因として創作の行き詰まり説が流布されているが、石原慎太郎の「川端さんは、あの日から明らかにおかしくなった」証言こそ図星ではなかろうか。なお、付言しておけば、石原慎太郎の「川端さんが先にご覧になったなら、もう私は結構ですとそのまま引き上げた」はウソっぽい。石原も惨殺現場を見ており、相当のトラウマとなり、その後の目パチの原因になっているのではあるまいか。









(私論.私見)