出雲神楽考

 更新日/2018(平成30).11.15日

Re:れんだいこのカンテラ時評443 れんだいこ 2008/08/06
 【出雲神楽考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 備中神楽を知る為に「神楽基礎知識」を得た。次に、備中神楽の源流となる出雲神楽を見ておくことにする。ところが実際には「出雲神楽」というものは存在せず、「佐陀神楽」(これが出雲流神楽と呼ばれる)、「隠岐神楽」、「石見神楽」という三派形式で保存伝承されている。

 それぞれ出雲神話を題材とする神事神楽から始まり興行的な神楽を創作しているところは共通しているが、妙な事に高天原神話の影響を好んで受け入れている。興行神楽でヤマタノオロチを退治するスサノオの命神楽を採り入れている割には、日本古代史上の最大政変であり且つ当地の出来事である国譲りを伝承する国譲り神楽の影が薄い。高天原神話に基く岩戸神楽その他を採り入れる等、時流迎合ぶりが見て取れる。好んでそうなったのか止むを得ない事情があったのかまでは分からない。

 本場出雲での神楽がこういう事情であることにより、国譲り神楽は、出雲神楽よりも備中神楽に於いて手厚く保存伝承されてきたという経緯がある。どうしてこのようになったのか興味深いが分からない。それはさておき、とりあえず出雲神楽の様子を見ておくことにする。付け刃で学んだので、多少誤読があるかも知れない。

 2008.8.6日 れんだいこ拝 --------------------------------------------------------------------------------
 【佐陀(出雲流)神楽 】

 出雲神楽の本家本元は佐陀神楽に始まる。これを出雲流神楽とも云う。神楽の源流を出雲神楽に求めるとすれば、出雲神楽の源流を為す佐陀神楽こそが神楽の始発と云えるかも知れない。

 佐陀神楽はどのようにして生まれたか。これを確認する。これは出雲王朝史から紐解かねばならない。これについては、れんだいこは、「日本神話考」の「出雲王朝神話考」の「出雲王朝史考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/shinwa1co.htm)で考察している。

 それによれば、出雲王朝の始まりは元出雲から始まる。この時代の出雲は、記紀神話で「根の堅国」、「母の国」等々と表現されており、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されており、それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っていたと推定される。

 その後、国引き神話譚に登場するヤツカミズオミヅの命が登場し、原出雲を創始し大国化させている。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。元出雲から原出雲へ発展する事により、出雲王朝は、八十神(やそがみ)と云われる在来の族長達の連合国家となった。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。その原出雲にスサノウが渡来し、原出雲に対抗するかの如く西域にスサノウ王権を創り上げ、それを大国主の命が後継しいわゆる出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。

 佐陀神楽は、この流れを踏まえての最も古い元出雲時代より発祥している。熊野大社、野城大社と並んで中枢神社的地位にあった佐太(陀)大社の御座替神事を源流としていると考えられる。佐陀大社は、出雲國風土記」に佐太御子社と記され、延喜式には出雲二ノ宮、また、出雲國三大社の一つとして「佐陀大社」と称されている古くからの御社である。本殿三社に十二柱の神々を祀るが、主祭神は猿田毘子古大神である。勇壮な大社造りの御本殿三殿、扇面絵画が描かれた物としては国内最古クラスである彩絵桧扇(さいえひおおぎ)など国指定の文化財を数多く所有している。

 なぜ佐陀神社に神楽が発生したのかまでは分からないが、11月に執り行われる神在祭(じんざいさい)には出雲大社同様に八百万の神々が集まり、様々な神事が執り行われることから「神在の社」とも呼ばれ、この時の神事と祭神・猿田毘子古を祭る歌舞として佐陀神楽を発生させたものと思われる。

 その神事(佐陀神能)は、毎年9.24日に行われる古伝祭「御座替祭」に象徴されている。本殿や摂社末社十八座のご座を新しい物に取替える祭りで、一畳御座を敷く前の取り祓いの舞が二日に亘って18回行われ、その間に能が舞われる。この時執り行われるのが神事・祭礼そのものである1・ 神事としての湯立(ゆだて)神事、 託宣(たくせん)神事、 二柱(ふたはしら)神事、2・ 素面で舞う七座(しちざ)神事である。これが出雲王朝の最も古い祭式であり神楽となる。「七座神事」では、神職が直面(ひためん)で鈴や剣など、神霊が依り憑く採物(とりもの)を持って七曲の舞が演じられる。

 翌9.25日には御座替祭を無事終えたことを祝し、祭礼後の法楽(ほうらく)として祝言舞の「式三番」(しきさんば、能では「翁」と呼ばれる)と着面(ちゃくめん)による古事記・日本書紀を題材とした神話劇を舞う「神能」が行われる。(佐陀神能は、島根県鹿島町の佐太神社の氏子を中心に伝承されてきたもので、鈴、剣、茣蓙(ござ)などを手にもって舞う採物舞「七座」、「式三番」、「神能」の三部構成で、囃子・謡・所作などに能の形式を取り入れている)

 これにつき、慶長年間(1596-1615)年に、佐太神社の幣主祝(禰宜)・宮川兵部小輔秀行らが都に上京して、当時吉田神社で行なわれていた神事や「大和猿楽(現代の五流能のルーツ)」を学び、それまでの七座の舞に加えて新たに「式三番」や、猿楽の所作を取り込んだ神能を構築したと云われている。現在の能に見られる所作、舞事とは異なり、世阿弥的な要素のない独自のものになっている。1639(寛永16)年の文書に、神能が行なわれた記述があることや、寛永末年(1643年頃)の銘のある神能面が残存している。

 これよりすれば、慶長年間以前のものが古典佐陀神楽であり、以降のものが今日に至る新版佐陀神楽と云うことになる。新版佐陀神楽により体裁が整えられ、佐陀大社の神職等によって演じられる「七座神事」、「式三番」、「神能」の三部構成の神事舞が確立され(これを「役目能」と云う)、佐陀神能と呼ばれるようになった。取り替えた御座を清める為の手にものを持って舞う直面(ひためん)の採物舞(とりものまい)と着面の能系統の舞を交えて演じる神話や神社縁起を劇化した神能などから成る。 

 この佐陀神能が出雲神楽の源流となり、後のスサノウ王朝、大国主の命の出雲王朝期に引き継がれ、更に手が加えられ出雲大社神楽へと繋がったように思われる。この流れを汲んだうえで「修験者色の劇的な」演劇性を高めた神楽が中国地方を中心に全国へ広がったと推定される。こうして「出雲流神楽」が登場することになったと思われる。

 元々は、佐陀大社系神主が演じ、次に神主と修験者たちが共同で作り上げた「神主神楽」が主流であったが、明治3年の「神職演舞禁止令」によって多くの神楽が里人の手に委ねられることになり、里神楽として伝承されることになった。この経緯で古典の六調子の穏やかなテンポであったのが八調子を基調にしたテンポに変えられ、次第に劇的、娯楽的な要素が加味され「観せる神楽」に変貌していったものと思われる。現在、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 佐陀神楽は概略このようなものとして了解できよう。国譲り譚との絡みで云えば、出雲王朝たる大国主の命治世以前の元―原出雲時代の神楽であり、その元―原出雲は大国主の命時代に覇権を奪われた側であるからして、大国主の命の国譲りには是々非々の立場で臨んでおり、これを継承する側には居なかった、ということになるのだろうか。

 【隠岐神楽】

 隠岐神楽は、神事としての性格が濃く、社家(しゃけ)と呼ばれる神楽を本業とする家筋の専門家である神楽師により舞い継がれてきたもので、神楽の中でも巫女の儀式舞が重要な部分を担う古風な形式の神楽である。つまり、新版佐陀神楽やこの後で見る石見神楽とは対照的に古典佐陀神楽段階のものを保存している今となっては隠岐でしか見られない貴重な神楽ということになるのではなかろうか。

 2008.8.6日 れんだいこ拝



 【佐陀(出雲流)神楽】


佐陀(出雲流)神楽】
 出雲神楽の本家本元は佐陀神楽に始まる。これを出雲流神楽とも云う。神楽の源流を出雲神楽に求めるとすれば、出雲神楽の源流を為す佐陀神楽こそが神楽の始発と云えるかも知れない。

 佐陀神楽はどのようにして生まれたか。これを確認する。これは出雲王朝史から紐解かねばならない。これについては、れんだいこは、「日本神話考」の「出雲王朝神話考」の「出雲王朝史考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/shinwa1co.htm)で考察している。

 それによれば、出雲王朝の始まりは元出雲から始まる。この時代の出雲は、記紀神話で「根の堅国」、「母の国」等々と表現されており、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されており、それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っていたと推定される。

 その後、国引き神話譚に登場するヤツカミズオミヅの命が登場し、原出雲を創始し大国化させている。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。元出雲から原出雲へ発展することにより、出雲王朝は、八十神(やそがみ)と云われる在来の族長達の連合国家となった。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。その原出雲にスサノウが渡来し、原出雲に対抗するかの如く西域にスサノウ王権を創り上げ、それを大国主の命が後継しいわゆる出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。

 佐陀神楽は、この流れを踏まえての最も古い元出雲時代より発祥している。熊野大社、野城大社と並んで中枢神社的地位にあった佐太(陀)大社の御座替神事を源流としていると考えられる。佐陀大社は、出雲國風土記」に佐太御子社と記され、延喜式には出雲二ノ宮、また、出雲國三大社の一つとして「佐陀大社」と称されている古くからの御社である。本殿三社に十二柱の神々を祀るが、主祭神は猿田毘子古大神である。勇壮な大社造りの御本殿三殿、扇面絵画が描かれた物としては国内最古クラスである彩絵桧扇(さいえひおおぎ)など国指定の文化財を数多く所有している。

 なぜ佐陀神社に神楽が発生したのかまでは分からないが、11月に執り行われる神在祭(じんざいさい)には出雲大社同様に八百万の神々が集まり、様々な神事が執り行われることから「神在の社」とも呼ばれ、この時の神事と祭神・猿田毘子古を祭る歌舞として佐陀神楽を発生させたものと思われる。

 その神事(佐陀神能)は、毎年9.24日に行われる古伝祭「御座替祭」に象徴されている。本殿や摂社末社十八座のご座を新しい物に取替える祭りで、一畳御座を敷く前の取り祓いの舞が二日に亘って18回行われ、その間に能が舞われる。この時執り行われるのが神事・祭礼そのものである1・ 神事としての湯立(ゆだて)神事、 託宣(たくせん)神事、 二柱(ふたはしら)神事、2・ 素面で舞う七座(しちざ)神事である。これが出雲王朝の最も古い祭式であり神楽となる。「七座神事」では、神職が直面(ひためん)で鈴や剣など、神霊が依り憑く採物(とりもの)を持って七曲の舞が演じられる。

 翌9.25日には御座替祭を無事終えたことを祝し、祭礼後の法楽(ほうらく)として祝言舞の「式三番」(しきさんば、能では「翁」と呼ばれる)と着面(ちゃくめん)による古事記・日本書紀を題材とした神話劇を舞う「神能」が行われる。


 これにつき、慶長年間(1596-1615)年に、佐太神社の幣主祝(禰宜)・宮川兵部小輔秀行らが都に上京して、当時吉田神社で行なわれていた神事や「大和猿楽(現代の五流能のルーツ)」を学び、それまでの七座の舞に加えて新たに「式三番」や、猿楽の所作を取り込んだ神能を構築したと云われている。現在の能に見られる所作、舞事とは異なり、世阿弥的な要素のない独自のものになっている。1639(寛永16)年の文書に、神能が行なわれた記述があることや、寛永末年(1643年頃)の銘のある神能面が残存している。

 これよりすれば、慶長年間以前のものが古典佐陀神楽であり、以降のものが今日に至る新版佐陀神楽と云うことになる。新版佐陀神楽により体裁が整えられ、佐陀大社の神職等によって演じられる。鈴・剣・茣蓙(ござ)などを手にもって舞う採物舞「七座神事」、「式三番」、「神能」の三部構成の神事舞が確立され(これを「役目能」と云う)、佐陀神能と呼ばれるようになった。取り替えた御座を清める為の手にものを持って舞う直面(ひためん)の採物舞(とりものまい)と着面の能系統の舞を交えて演じる神話や神社縁起を劇化した神能などから成る。 

 この佐陀神能が出雲神楽の源流となり、後のスサノウ王朝、大国主の命の出雲王朝期に引き継がれ、更に手が加えられ出雲大社神楽へと繋がったように思われる。この流れを汲んだうえで「修験者色の劇的な」演劇性を高めた神楽が中国地方を中心に全国へ広がったと推定される。こうして「出雲流神楽」が登場することになったと思われる。

 元々は、佐陀大社系神主が演じ、次に神主と修験者たちが共同で作り上げた「神主神楽」が主流であったが、明治3年の「神職演舞禁止令」によって多くの神楽が里人の手に委ねられることになり、里神楽として伝承されることになった。この経緯で古典の六調子の穏やかなテンポであったのが八調子を基調にしたテンポに変えられ、次第に劇的、娯楽的な要素が加味され「観せる神楽」に変貌していったものと思われる。現在、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 佐陀神楽は概略このようなものとして了解できよう。国譲り譚との絡みで云えば、出雲王朝たる大国主の命治世以前の元出雲時代の神楽であり、その元出雲は大国主の命時代に覇権を奪われた側であるからして、大国主の命の国譲りには是々非々の立場で臨んでおり、これを継承する側には居なかった、ということになるのだろうか。

 2008.8.5日 れんだいこ拝

 【隠岐神楽】


【隠岐神楽】
 隠岐神楽は、神事としての性格が濃く、社家(しゃけ)と呼ばれる神楽を本業とする家筋の専門家である神楽師により舞い継がれてきたもので、神楽の中でも巫女の儀式舞が重要な部分を担う古風な形式の神楽である。つまり、新版佐陀神楽やこの後で見る石見神楽とは対照的に古典佐陀神楽段階のものを保存している今となっては隠岐でしか見られない貴重な神楽ということになるのではなかろうか。

 【石見神楽考】


Re::れんだいこのカンテラ時評444 れんだいこ 2008/08/06
 【石見神楽考】

 出雲神楽には、佐陀神楽とは別系の石見(いわみかぐら)神楽が存在する。島根県西部の邑智郡石見地方から広島県北西部に亙るいわゆる石見一円に伝わる出雲神楽を総称して石見神楽と云う。この石見神楽は、「大元神楽」、「大原(おおはら)神楽」、「大土地(おおどち)神楽」の三派を主流とする。それぞれが微妙に一味違う出雲神楽になっている。

 その演目を見るに、佐陀神能と共通のものもあるが違う演目もある。これより推定するに、石見神楽は佐陀神楽の影響を受け出雲流神楽を継承しつつも、石見地方に元々存在した大元信仰から来るところの農神に捧げる「田楽」の流れを汲んでいるように思われる。これが大元神楽へと発展し、今日の石見神楽へと至っていると考えるのが自然であろう。その後、出雲流神楽、能、狂言、歌舞伎などの影響を受けて演劇性を増し、現在の石見神楽が形成されたとされる。なお、津和野の弥生神社に伝わる「鷺舞」(さぎまい)も田楽の流れを汲む神楽の一種であるとされている。石見神楽は演劇性・エンターテインメント性を強めた大衆的な芸能として発展しており、一般的な神楽のイメージとは一線を画した「軽快かつ、激しい囃子と舞い」が特徴とされている。

 現在、石見神楽には、花形演目である「大蛇(おろち)」をはじめ、「鐘馗(しょうき)」、「塵輪(じんりん)」、「恵比須(えびす)」など30以上にもわたる演目があり、最近では新作の神楽もこれに加わっている。その昔、日向の国から宇佐八幡の御分霊を勧請した折、高千穂の「岩戸神楽」が導入されている。仔細に見れば石見神楽三派のそれぞれの演目の違いもあろうが分からない。

 石見神楽の演目は凡そ次の通りである。神楽(かぐら)、塩祓(しおはらい)、真榊(まさかき)、帯舞(おびまい)、神迎(かんむかえ)、八幡(はちまん)、神祇太鼓(じんぎだいこ)、かっ鼓(かっこ)、切目(きりめ)、道がえし(ちがえし)、四神(よじん)、四剣(しけん)、鹿島(かしま)、天蓋(てんがい)、塵輪(じんりん)、八十神(やそがみ)、天神(てんじん)、黒塚(くろづか)、鐘馗(しょうき)、貴船(きふね)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、岩戸(いわと)、恵比須(えびす)、大蛇(おろち)、五穀種元(ごこくたねもと)、頼政(よりまさ)、八衢(やちまた)、熊襲(くまそ)、武の内(たけのうち)、五神(ごじん)、大江山(おおえやま)等の約30数種類。

 この演目の多さを知れば、もう一つの見方が生まれる。佐陀神楽と石見神楽の間には、佐陀神楽が元出雲-原出雲時代の神楽として、石見神楽はそれ以降のスサノウ王朝-大国主の命王朝いわゆる出雲王朝時代の神楽と見立てることができ、両者にはそういう差があるのではなかろうか。

 もう一つ、どちらも出雲地方の神楽ではあるが、妙なことに出雲ならではの国譲り神楽が打ち出されるのが自然なところ、後ほど述べる備中神楽ほどのウェイトを置かず、否むしろ高天原-大和王朝神楽の演目を意識的に取り入れ混淆化させている叉はさせられているように思われる。

 しかしこれは何とも変調ではなかろうか。ところが、取り入れられている高天原-大和王朝神楽の演目と内容を仔細に見ると、どれもひねりが効いている。裏メッセージ性が認められ、苦心の後が見られるように思う。そういう意味では何やら国譲り神楽に力点を置くことができず、高天原-大和王朝神楽の演目をも取り入れざるを得なかったと云う歴史事情にあった、こうして取り入れたものの出雲神楽風のうら悲しさを打ち出すことで出雲神楽らしさを辛うじて維持しているということになるのであろうか。

 なお、石見神楽は、六調子の古典佐陀神楽に対し八調子の快適なリズムであること、地味な佐陀神楽に対し華麗であることで共通している。これには、明治政府から神職の演舞が禁止され、神楽が神職から氏子(民間)に受け継がれたことが関係している。明治17年頃、那賀群の国学者の藤井宗雄等によって改革された。言葉も古語調に変える等、数々の手が加えられた。この改革が時代の要求にも応じる形となり、八調子の石見神楽が急速に発展した。神楽衣裳や小道具も華美になり、観せる要素が強調され、様々な工夫を生みだして、今日に至っている。この影響を受けなかった六調子神楽もある。

 上演者が神職から民間へと変わったことも石見神楽を盛んにさせる要因となった。 現在、石見神楽団の数は、八調子神楽の地域、六調子神楽の地域を合わせると百数十楽団にも達する。夜を徹して上演されることも特徴の一つとして挙げられる。

 石見神楽は、独特の哀愁を帯びる笛の音、活気溢れる太鼓調子に合わせて、金糸銀糸を織り込んだ豪華絢爛な衣装と表情豊かな張り子技術を活用した能楽面を身につけて舞う。これらは石州和紙が使用され、石見の地の職人の伝統芸の手により完成されている。その技術き石見のみならず、県内外の神楽を支える産業として根づいている。

 2008.8.6日 れんだいこ拝
(※注2)「芸北神楽」は、佐陀(出雲流)神楽から派生し、変化していった神楽で、広島県高田郡周辺に伝わっている。巨体な面、鮮やかな色彩の装束、口から火を噴く仕掛け、そして長さ十メートルにもなる大蛇など、スペクタクルに溢れており、庶民に親しまれる演出がなされている。

【石見神楽の演目考 】
 石見神楽には日本神話や有名な鬼退治伝説をモチーフにした演目が多くみられ、約30数種類ある。
 (「人文研究見聞録」の「石見神楽」その他参照)
 神楽(かぐら)

 奉納神楽の一番最初に舞う舞で「鈴神楽」とも言い、手には鈴と扇を持って舞う。
 塩祓(しおはらい)

 四方祓い(よもばらい)とも云われ、「四方の神々よ、ここにお集まり下さい」という意味で、舞座を清める儀式である。典型的な出雲思想神事であり、多くの社中が石見神楽の基本の舞として演じている。かつては「神楽」が奉納神楽の第一演目だったが現在ではほとんどの団体が省略しており、これが第一演目となる。
 神迎(かんむかえ)

 烏帽子、狩衣姿で、手には小さい幣と輪鈴、扇を持って舞う。東西南北、四方を清め神を迎える。
 かっ鼓(かっこ)

 切目王子に仕える神禰宜(かんねぎ)が熊野大社の祭礼御神楽に備え、高天原から降りた熊野の宝物「羯鼓(かっこ)太鼓」をよく鳴る場所へ工夫して据えようと舞う神楽。切目の神が気に入る所へなかなか据えられず、何度も据え替える様がコミカルに演じられる。
 切目(きりめ)

 切目の王子と介添が登場し、神と陰陽五行説について問答し羯鼓を打ち鳴らし天下泰平・国家安泰を祈るという内容。演目「かっ鼓」と連の舞いを形成する。熊野から出向いた御師・先達・比丘尼などが一種の芸能として石見地方に残したものを神楽化した演目である。
 神祇太鼓(じんぎだいこ)

 「胴の口」とも言う、舞はなく囃子(大太鼓と小太鼓、手拍子、笛)だけで演じる神楽の中でも珍しいものである。胴とは大太鼓のことで、新調した太鼓と古い太鼓のたたき比べをする太鼓開きの時などにも演じられる。石見神楽の中の色々な音曲を組み合せて作られた集大成ともされ、前の手・中の手・後の手と太鼓の拍子、また歌が変わる。
 真榊(まさかき)

 烏帽子、狩衣姿で右手に輪鈴、左手に榊の枝を持ち、東西南北、四方を舞い清める神事舞。
 五神(ごじん)

 「五行」「五郎王子」「五龍王」とも。春夏秋冬を統治する兄四神に対し、第五子の埴安大王が所領分配を要求するも拒絶され、合戦に及ぶ。そこに式部の老人が現れ春夏秋冬に各々土用を設け、また領地を東西南北と中央に分けこれを埴安大王に分け与えるよう仲裁し落着するという内容。陰陽五行思想の哲理も取り入れた神楽で、夜神楽奉納では最終演目として舞われる。
 四剣(しけん)

 四人が神楽歌、囃子に合わせて舞い、東・西・南・北・中央の神々を静め、舞殿を清める儀式舞い。四人で襷(たすき)がけをして、左手に剣、右手に鈴を持って舞う。
 天蓋(てんがい)

 天蓋(雲とも呼ばれる、舞座の上に四角形に竹を組んだもの)の下に、一尺角位の小天蓋を綱で吊り下げ、これを自由自在に踊らせる曲芸的な神楽。四剣と同様東、西、南、北、中央、五方の神々をそれぞれの小天蓋で清め、神の心を静める儀式舞い。
 岩戸(いわと)

 日本神話におけるアマテラスの岩戸隠れの説話を神楽化したもの。御弟の須佐之男命の悪行に大御心を悩まされた天照大御神が天の岩戸隠れたことにより世の中は常闇となる。そこで天の兒屋根の命(あめのこやねのみこと)、天の太玉の命(あめのふとだまのみこと)をはじめとする八百万の神々達の神謀らいにより、天の宇津女の命(あめのうづめのみこと)が御神楽を踊る。その賑わいを訝り天照大御神が少し開けた岩戸を、天の手力男の命 (あめのたぢからをのみこと)が懸命に開き、世の中に光が舞い戻る。高天原王朝神話に基く。舞手は、最後の喜舞で面を外し、神楽歌を歌いながら舞をまい、その土地の平和、繁栄を祈願する。
 鐘馗(しょうき)

 岩戸開きの騒動の折り、神払いに追い払われた須佐之男命(すさのおのみこと)は唐の国に渡り鐘馗と改名し、当時の唐の玄宗皇帝を病に苦しめる疫病を悪鬼に例えて退治する。力強く重厚感のある舞である。鐘馗の持つ茅(ち)の輪は薬草に例えられ、又は夏越祭等に行われる悪病払いの輪くぐり神事の輪は、鐘馗の持つ茅の輪を例えたものという言い伝えがある。
 大蛇(おろち)

 高天原を追われた須佐之男命(すさのおのみこと)は中国大陸(唐の国)を徘徊した後、出雲の国、斐の川にさしかかると、河口で箸の流れるのを見て、川上に人の住んでいる事を知る。川上に上がってみるとそこに老夫婦と娘が嘆き悲しんでいる。命がたずねると、この奥山に大蛇が住み、毎年出てきて娘をさらってゆき、8人のうち1人だけ残っていると云う。そこで、命は大蛇に毒酒を飲ませて退治する。この時、大蛇の尾から出てきた一振の刀を「天の村雲の剣」(あめのむらくものつるぎ)と名づけ、天照大御神に捧げ、後に草なぎの剣(つるぎ)と改名され、三種の神器の一つとなる。助けられた娘の櫛稲田姫(くしいなだひめ)は須佐之男命と結婚し、地方の産業治水に努力すると云う出雲王朝神話に基く。 「石見神楽の華」と称されるほどの花形演目で、多くの神楽上演において最終演目として披露される。数頭の大蛇がスサノオと大格闘を繰り広げる壮大なスケールの舞いが見られる。
 十羅(じゅうら)

 「十羅刹女」とも。 十羅刹女は須左之男命の末娘で、血気盛んな美貌の女神である。彦羽根(ひこはねの)の臣という悪鬼が無量無辺の風に吹かれて日本に飛んできて、日本の島を鬼が島として、鬼だけが住む国を作ろうと考え、諸人を追い出し悩まし続けていた。それを聞いた雲州日御碕鰐淵山(うんしゅう ひのみさき がくえんじさん)に住む十羅刹女(じゅうらせつじょ)という女性の神様が彦羽根の臣を降参させ、元の国へ追い返したと云う創作説話に基く。 彦羽根が対馬に渡らんとして舟を出した処、大時化に遭い、命辛々辿り着いた。ところが大八洲異国に帰る様、十羅刹女に説得される。彦羽根は聞き入れず、遂に戦いとなるという、珍しく女神同士の戦いの神楽である。
 八十神(やそがみ)

 「大国」とも。古事記における「大国主の神話」の部分を神楽化したもの。大国主の兄弟である八十神たちは八上姫(ヤガミヒメ)を我がものにしようと恋敵の大国主を様々な謀で殺そうとするが、大国主はこれを撃退するという内容。なお古事記では撃退できず、一旦殺されてしまう。
 恵比須(えびす)

 釣り好きの神とされる えびす神が鯛釣りをする様子を神楽化したもの。時系列では国譲りより後に位置づけられる。微笑ましい表情の神楽面と愛くるしい身振り手振りで舞い、また演目の中で撒餌のかわりに餅や菓子などを客席へ投げ込む演出が見られるため、特に子供達から人気のある演目である。
 鹿島(かしま)

 「国受」「国譲り」とも。葦原中国平定を基にした神楽。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(タケミカヅチ)は出雲国を治める大国主命と国譲りの交渉を行い、大国主命とその第一子事代主命(コトシロヌシ)は承諾する。しかし、第二子の建御名方命(タケミナカタ)は不服を唱え、経津主神に力比べを挑むが降参して国を譲るという内容。石見神楽としては珍しい、神同士が格闘を行う演目。この格闘は、相撲の起源とも言われており、古事記では建御名方命と武甕槌神の戦いが描かれている。
 八衢(やちまた)

 大国主の命の国譲りの後の物語。天孫降臨の神話を神楽化したもので八衢とは、天上での天降りの途中で、道が多方面に分かれた所、天孫邇々芸命(ににぎ)が天降りされようとするとき、道をふさぐ神があったので、天宇津女(アメノウズメ)に問わせると猿田彦神(サルタヒコ)で、天孫を先導するために出迎えたと言った。この内容を神楽化したもので「鹿島」に続く物語である。猿田彦(佐太の大神)は、これによって「道しるべの神」として奉られている。
 道返し(ちがえし)

 「鬼返し」とも。常陸の国に住む武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、世界を股にかけて荒れ狂う大悪鬼が日本にやってきたので、これを迎え討ち降参させる。他演目で現れる鬼はほぼ全て討ち取られる結末だが、本演目では「人を喰らわず、九州高千穂の稲を食すように」と武甕槌神が諭し、食料の多い九州高千穂に鬼を追放し、九州地方の農業の振興を計らせたと云う逸話に基く。
 八幡(はちまん)

 九州豊前の国、宇佐八幡宮に祭られている八幡の神である八幡麻呂(やはたまろ)が、異国から第六天の悪魔王が日本に飛んできて人々を殺しているので、自ら出向いて神通の弓に方便の矢をもって見事退治すると云う逸話に基く。シンプルな構成の鬼舞であり、子供神楽で演じられる事も多い。
 神武(じんむ)

 「畝傍山(うねびやま)」とも。長らく高千穂にあった天孫族が良き地を求めて海路東方に向かうが、大和の国で豪族首長長髄彦の猛烈な抵抗にあったものの勝利を得ることができ、その天孫族の中に若き勇者が居た。この若者こそ、後に建国の基礎を築いた初代天皇の神武天皇である。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)

 古事記における日本武尊の東征を神楽化したもの。賊首の野火攻めに遭った日本武尊が、倭姫命より授けられた天叢雲剣で草を薙ぎ払い賊を退治し、宝剣を「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」と称するまでの内容。賊首が平易な地元の方言で日本武尊打倒の策を練るなど、ユーモアも取り入れて演じられる場合も多い。
 西大和(にしやまと)

 別名:熊襲 (くまそ)、西日本(にしやまと)。古事記、日本書紀の物語による景行(けいこう)天皇の息子の日本童男(やまとおぐな:別記「倭男具那」、別称「小碓命(オウスノミコト)」)が父の命により熊襲建(くまそたける)を討つために九州に赴く。熊襲建や家来たちが新築の祝いをしている席に女装して入りこみ、熊襲建や家来たちが酔い潰れた時、日本童男が女装を解いて襲いかかり切り殺す。熊襲建は死に臨み勇者である日本童男にタケルの名を贈る。日本武(やまとたける)尊(のみこと)譚に基く。大和王朝神話に基く。
 塵輪(じんりん)

 大和王朝神話の第14代仲哀天皇の塵輪征伐を神楽化したもの。塵輪という身に翼があって、自由自在に飛び行く大悪鬼が、何万という兵を連れて、全国の人々を殺し廻るので、時の天皇にして14代の帝(みかど)の仲哀(ちゅうあい)天皇は、自らこれに向かって退治したと云う逸話に基く。石見神楽の代表的な鬼舞であり、地方によって三神三鬼、二神二鬼または二神一鬼にて激闘を繰り広げる。下関に鎮座する忌宮神社には仲哀天皇が豊浦宮に攻め寄せた塵倫と九州の豪族・熊襲を苦戦の末、撃退したという社伝があり、由来の祭りとして数方庭祭がある。
 天神(てんじん)

 時の右大臣、菅原道真は左大臣藤原時平の作り事の悪口により、九州筑紫太宰府へ流されながらも、傍若無人の左大臣時平がやがて王位を苦しめ、御心を悩ますこと必定として、随身を従えこれを討ち平げる場面を神楽化したもの。石見神楽の中でも特に激しい舞として知られ、衣装の早変わりも特徴である。
 貴船(きふね)

 能の演目「鉄輪(かなわ)」を基にした舞。夫に捨てられた妻が貴船明神の御神託によって鬼女に変貌、夫を呪い殺そうとする。夫は陰陽師・安倍晴明から身代わりの藁人形を授かり難を逃れ、鬼女は退散するという内容。
 黒塚(くろづか)

 「悪狐伝」とも。能楽(謡曲)殺生石の伝承と、「安達原」(観世流以外での呼称は「黒塚」)とを組み合わせた演目。祐慶法印と剛力は諸国行脚の途上、那須野ヶ原で金毛九尾の悪狐と対峙、剛力は食われ祐慶は辛くも逃げ去る。この悪狐を、弓取りの三浦介・上総介が退治するという内容。祐慶と剛力のユーモアある会話や演者が客席にも乱入して戦うなど、娯楽要素も盛り込まれ人気演目となっている。
 鈴鹿山(すずかやま)

 「田村」とも。第五十代桓武天皇が坂上田村麿に鈴鹿山の悪鬼人を退治するよう命じる。田村は早速 鈴鹿山の麓に行き、村人の道案内を受けて登山し、悪鬼人を退治するという武勇伝である。後に田村は闘将軍として名声高き武士になる。
 大江山(おおえやま)

 源頼光らによる酒呑童子討伐の説話を神楽化したもの。筋立てや登場人物は地方・団体によって様々だが、源頼光・渡辺綱・坂田金時・酒呑童子・茨木童子は概ね登場する。
 頼政(よりまさ)

 平家物語における、近衛天皇の御宇・源頼政による鵺退治の説話を神楽化したもの。石見神楽の中でも最も娯楽性の高い演目の一つとされ、小猿役が観客席を走り回るなどの楽しい演出も見られる。

【石見神楽その1、大元神楽 】
 石見神楽の原型となるのが大元神楽であるように思われる。邑智郡一帯に伝わるこの神楽は、大元神を祀る各社祠において、5年、7年もしくは13年に一度行われる式年祭に際して舞われる。神楽自体極めて神事色が強く、祭礼神事に加えて神事的な舞の部分については神職がこれを担い、次に着面による神話劇風な能舞へと続く。これは、土地の一般有志から成る石見神楽団が演じるという混成型の神楽となっている。

 混成型の神楽となって以降の大元神楽は井野神楽社中から宇治神楽社中へと伝わり、広く益田の神楽団に普及して行った。囃(はやし)に用いる楽器は、大太鼓、小太鼓、横笛、銅拍手の各一で加除され例外はない。笛は唯一のメロディ楽器であるが、事実上最も主要な役を果たすのは大太鼓で、全楽器をリードし、その巧抽は囃し全体に決定的効果を持つ。

 本来神楽とは、場を清め、神を招き、神の出現を経てお告げを受けるという意味を持った神事である。他ではほとんど見られなくなったこの「お告げを受ける」を現出する場面が、ここでは「綱貫(つなぬき)」という演目で現され、今なお絶えることなく伝えられている。

 このような特徴と、江戸時代初期の1615(元和元)年まで確実に遡る確かな由緒などから、神職が担う神事的な舞の部分が国の重要無形民俗文化財に指定されている。石見神楽としての斬新な華やかさに加え、長い伝統と神事性が醸し出す厳粛さをも兼ね備えた多面性が大元神楽の魅力となっている。


【石見神楽その2、大原(おおはら)神楽 】
 石見神楽には大元神楽とは別系の大原(おおはら)神主神楽がある。大原郡内の神職のみで構成する「出雲國大原神主神楽保存会」によって伝承されている。それぞれの神職達が仕える郡内の神社祭礼時に奉納される他、出雲大社や近郷諸社の祭礼にも招かれて神楽奉納が行われている。

 伝えられるところによると、この神楽の起源は戦国時代の永正~天文年間(16世紀前半)頃まで遡るとされ、江戸時代を経て次第に盛んになっていった。ところがその後、明治時代に至ると神職による演舞に対し禁止令が出されたことにより一時中断を余儀なくされていた。が、大正時代に入って復興され、現在数少ない神職神楽の一つとして伝統を今に伝えており、島根県指定無形民俗文化財となっている。

 神楽の構成は、基本的に出雲神楽の形式に則っており、「七座(しちざ)」と総称される七番から成る神事的な舞で始まる。舞人は面を着けないいわば「神職」としての姿で場を清め、神を招き寄せる。後段では「神」が降臨したとして着面による「国譲り」、「八戸(やと)大蛇(おろち)退治の場面」などの神話劇が演じられる。この後段を「神能(しんのう)」と総称する。

 そのような演目の中でも、この神楽が保持する稀少なものとして「託宣(たくせん)」が挙げられる。本来神楽とは、場を清め、神を招き、神の出現を経てお告げを受けるという意味を持った神事である。他ではほとんど見られなくなったこの「お告げを受ける」を現出する演目が「託宣」である。神職が伝え抜いた神楽だからこそ、今にまで保たれ続けているとも言える稀少な演目となっている。また剣舞が発展したものとされる「八ツ花」は、八人で舞うダイナミックな演目で見所の一つとなっている。

【石見神楽その3、大土地(おおどち)神楽 】
 石見神楽には、大元神楽、大原(おおはら)神主神楽とは別系の大土地(おおどち)神楽がある。大土地神楽は、出雲大社のお膝元の杵築西の大土地(簸川郡大社町)の中村の氏神である「荒神社」に伝承されている神楽で、今日「大土地神楽保存会神楽方」によって受け継がれ、毎年10.24日の荒神社前夜祭と25日の大土地荒神社例大祭時に舞い納めることを中心に、出雲大社や近郷諸社の祭礼にも招かれて神楽奉納を行っている。神楽を演じるにあたっては、毎年、祭礼の家(頭屋)が舞子を募り、稽古を重ねて祭礼に備え、祭りの前の晩には「本ならし」といわれる仕上げの神楽を行い、翌日の本番を迎える。 国指定重要無形民俗文化財となっている。

 神楽の構成は基本的に出雲神楽の形式に則っており、「七座(しちざ)」と総称される七番から成る神事的な舞で始まる。舞人は面を着けない直面のいわば「神職」としての姿で場を清め、神を招き寄せる。塩清め、悪切り、御座舞、神降し、八乙女、手草の舞、幣の舞からなる。後段の神能は、神が降臨したとして着面による採り物舞いで、山の神、五行、八千矛、田村、茅の輪、切目、三韓、前素尊、後素尊などの「荒神」、「八戸(やと)大蛇(おろち)退治」、大国主命が幾多の試練を乗り越えながら豊葦原の国を治める様子を描いた「国造」、「国譲り」、「野見宿祢(のみのすくね)」などの神話劇が演じられる。

 近世中期以来には、佐陀神能の影響を強く受けたと思われるが、地踏み、拝み、睨みなど、各種の舞において素朴な地方的特徴が見られ、大人舞のほかに子供舞もあり、佐陀神能にはない曲目も多く残っており、島根半島一帯に残る諸神楽の中でも、舞振り、奏楽、衣装、鳴物などに長い伝統を正しく保持し古い形態を残しているところに特徴が認められる。現在では、「共楽会」、「親楽会」、「永楽会」と称する神楽方組織により、氏子後援のもとに伝承維持されている。

 大土地神楽の起源についてはっきりしたことはわからないが、1660(万治3)年には既に舞われていたことを示す記録が残されている。1754(宝暦4).3月、この社の祠官鳥屋定保が記した祭事記録に「素人神楽同日宮下より直ちに始る」とある。その後、本来神職のみで司るべき神楽方を氏子の有志達までもが加わって務めるようになり、1761(宝暦11)年からは子供にも神楽を舞わせるようになった。1793(寛政5)年の「神楽道具控帳」や、1798(寛政10)年改めの「家順番帳」等の記録によると、少なくとも二百数十年来、大土地荒神社の氏子中に伝承されていることになる。1847(弘化4)年には伝統ある素人神楽ゆえに藩の公認を受けている。神職による演舞が禁止され、氏子中の有志達の手に神楽の担い手が移ったのは明治時代初めのことで、現在では当たり前の一般有志者による神楽、また人気の子供神楽のさきがけを果たした事になる。

 その源流は近世以前とされているが、文化文政期の国学台頭とともに古事記、日本書記を原拠とする神話ものが加わり、演目も豊富で極めて多彩である。往時、神の御心を和ませるという神職によっての神事であったものが、明治初期からは土地の人々のものになり、民族芸能として演舞されるようになった。そのリズムは、石見人の気性をそのままに、他に類を見ない勇壮にして活発な八調子と呼ばれるテンポの早いもので、大太鼓、小太鼓、手拍子、笛を用いての囃子で演じられ、見る人をして神話の世界に誘う。

  また、石見神楽はその詞章に特徴がある。荘重で正雅な古典的なそれは、里神楽には極めて稀だといわれており、その中に織り込まれた土の香りの高い方言的表現、素朴な民謡的詩情とともに独特のものをつくりあげている。演目は30種類にのぼり、例祭への奉納はもとより、各種の祭事、祝事の場に欠かすことのできないものとなっており、広く誇れる郷土芸能である。





(私論.私見)