三島由紀夫の履歴考3(1960年以降編) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「三島由紀夫の履歴考3(1960年以降編)」を確認しておく。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
1960(昭和35)年、35歳の時 | |
【1月】 1.19日、日米新安保条約調印。 戯曲「熱帯樹 悲劇3幕23場」。 長編「宴のあと」(中央公論連載)。 長編「お嬢さん」(若い女性連載)。 評論「社会料理三島亭」(婦人倶楽部連載)。 「熱帯樹」が第一生命ホールで文学座により公演される(松浦竹夫演出)) 。 「宴のあと」(中央公論連載)。フォルメントール国際文学賞第2位を受賞する。 |
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【2月】 2.5日、評論「続不道徳教育講座」(中央公論社、装丁・佐野繁次郎、挿画・横山泰三)刊。 |
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【3月】 永田雅一の肝煎りで大映映画「からっ風野郎」(大映東京、増村保造監督)の主題歌を作詞(深沢七郎作曲)、自らチンピラやくざ朝比奈武夫役として出演する。他に出演は若尾文子、船越英二、志村喬。翌月、キングレコードから発売、封切。こうして、三島は俳優として大映と契約し、ヤクザの2代目として主演し映画スターとしてデビュー、さらにその主題歌まで歌った。 映画「からっ風野郎」で三島と共演した女優の若尾文子が次のように回想している(日本経済新聞、11月11日、夕刊)。若尾文子は三島原作の『永すぎた春』と『獣の戯れ』にも主演した。三島がやくざを演じ、若尾はそのやくざに妊娠させられるという娘の役だった。監督は増村保造で、三島があまりに演技が下手なので『馬鹿、駄目駄目』と何度も連呼し、『本当にあんた、頭が良いんだろうか』とぼやいた由。増村は東大卒、イタリアの映画センター留学後、溝口健二、市川昆の助監督を経た。しかも東大法学部時代、三島とは知人だったという。 さて、作家としては天才であっても映画は別世界。それでも三島は何回も呶鳴られながら、役をこなし、映画は完成した。若尾の文章はこう結ばれている。
「弱法師(よろぼし)」。これは能楽「弱法師」をもとにした戯曲である。 |
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【4月】 オスカー・ワイルド原作「サロメ」が東横ホールで文学座により公演される(作者演出)。近代能楽集「道成寺・班女」がメキシコシティのグラネロ劇場で公演される。 |
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【5月】 鈴木力衛、長岡輝子、鳴海四郎、安堂信也らと共に文学座の企画参与となる。 |
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【6月】 6.15日、安保反対デモで、東大学生樺美智子さんが死亡 。日米安全保障条約調印反対の国会周辺デモを取材。 |
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【7月】 戯曲「弱法師(よろぼし)~近代能楽集の内 1幕」(声)。「白蟻の巣」が文学座アトリエにより試演される(中西由美演出)。 近代能楽集「葵上」がオーストラリアケラングのメモリアル・ホールで公演される(コーラル・ジャミエソン演出)。 7.15日、(編) 「石原慎太郎集」(筑摩書房)刊。三島由紀夫編・解説/石原年譜作品リスト収録。 |
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【8月】 8.15日から10日間、長編「獣の戯れ」取材のため浜名湖、西伊豆の安良里へ行く。 |
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【9月】 短編「百万円煎餅」(新潮57巻9号)。 |
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【10月】 10.12日、浅沼社会党委員長が右翼少年に刺殺される。 女の四季「女神」(日本教育テレビ、10.4日、11日放映)。 推薦文「伊東静雄全集推薦の辞」(果樹園56号)。対談「演劇と文学についてのまじめな放談 福田恆存」(風景創刊号)。 座談会「近代文学の二つの流れ~谷崎的なものと志賀的なもの」(群像15巻10号)。 |
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【11月】 11.8日、米大統領選でケネディ当選。1日より翌年1月にかけ夫人同伴で世界一周旅行。アメリカ、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ギリシア、アラブ連合などを回る。ニューヨークのデ・リース劇場でエドワード・オルビーと対談。 11.5日、朗読・ドラマ自由席「熊野―近代能楽集のうち」(ラジオ東京)。 11.15日、長編「宴のあと」(新潮社)刊。 11.25日、長編「お嬢さん」(講談社、装丁・中林洋子)刊。 11.27日、ラジオオペラ「あやめ」(中部日本放送)放送。昭和35年度芸術祭賞。短編「スタア」(群像15巻11号)。近代能楽集「綾の鼓・葵上・班女」がニューヨークのデ・リース劇場で公演される(ウォルト・ウィトコーバー演出)。 |
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【12月】
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この年、他にも次の作品がある。「愛の処刑」、随筆「巻頭言」(婦人公論連載)、随筆「社会料理三島亭」(婦人倶楽部連載)、随筆「発射塔」(読売新聞コラム連載)、評論・批評「春日井建氏の「未青年」の序文」。 | |
・英訳「仮面の告白」(英・セッカー)(英・ピーター・オーエン)・英訳「真夏の死」(日本出版貿易)・オランダ訳「潮騒」(アムステルダム、ミューレンホフ)・フィンランド訳「潮騒」(オタワ)。 | |
三島は作家としての己の過去を振り返って、「嘘八百を並べて人をたぶらかしてきた小説家稼業」(「社会料理三島亭」)と言っている。 |
1961(昭和36)年、36歳の時 | |
【1月】 短編「憂国」(小説中央公論冬季号)。季刊誌「声」10号で廃刊。 1.30日、小説集「スタア」(新潮社)刊。 |
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【2月】 2.1日、日本愛国党員の右翼少年が、深沢七郎の「風流夢譚」を中央公論12月号に掲載した件で中央公論社社長の嶋中鵬二社長宅に押し入り家政婦を殺すと云う「嶋中事件」が発生する。「風流夢譚」を推奨していた三島と家族は連日右翼の脅迫を受け続け、警察は24時間警護を付ける。三島への脅迫は安藤武「三島由紀夫、日録」(未知谷社刊)に詳細されている。 「お嬢さん」が映画化される(大映、監督・弓削太郎、出演・若尾文子、川口浩、田宮二郎)。近代能楽集「綾の鼓・葵上・卒塔婆小町」がニューヨーク・シティのプレイヤーズ劇場で翌月にかけ50日間公演される(ハーバート・メイチズ演出)。ニューヨークで「近代能楽集」試演を見る。深沢七郎の「風流夢譚」をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。ジョン・ネイスンによると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・平岡千之の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定している。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に「憂国」も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。 |
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【3月】 3.15日、長編「宴のあと」のモデル問題で、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎に小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、プライバシー侵害のかどで三島と出版社である新潮社が提訴される。損害賠償100万円と謝罪広告を求める訴えであった。三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張し争った。これにより「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」を廻る裁判が続けられることになった。(「宴のあと」裁判 http://www.mainichi.co.jp/eye/iwami/sunday/1999/0711.html)。 |
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【4月】 4.12日、ソ連、人間衛星打ち上げに成功(ガガーリン少佐)。 4.19日、米駐日大使にライシャワー着任。紀行「美に逆らふもの~香港のタイガー・バーム・ガーデン」(新潮58巻4号)。評論「存在しないものの美学~『新古今集』珍解」(国文学・解釈と鑑賞)。「神西清全集 全3巻」(文治堂)の編集参加。剣道初段になる。舩坂弘と剣道を通じて交友を持つようになる。プライバシー裁判が始まった。この事件で有田側についた吉田健一と三島は疎遠となった。 |
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【5月】 日本ペンクラブ代表に長編「宴のあと」問題につき説明。 |
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【6月】 長編「獣の戯れ」(週刊新潮連載)。 東京地裁で「宴のあと」プライバシー裁判初公判が開かれる。 6.26日-7.29日、連続ラジオ小説「潮騒」(NHKラジオ第一)放送。 |
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【7月】 評論「魔~現代的状況の象徴的構図」(新潮58巻7号)。 田辺劇場「美徳のよろめき」(フジテレビ、7.4日-9.26日放映)。 女の劇場「純白の夜」(朝日テレビ、7.26日放映)。 「橋づくし」が歌舞伎座で新派により公演される(榎本滋民脚色・演出)。 |
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【8月】 日記「21日のアリバイ~八月の日記から」(夕刊読売21日)。 |
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【9月】 9.30日、「獣の戯れ」(新潮社、装丁・東山魁夷)刊。 写真家・細江英公の写真集「薔薇刑」のモデルとなり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962(昭和37).1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集「薔薇刑」は、1963(昭和38).3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前にサンケイ新聞夕刊で発表した「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」において次のように告白している。
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【10月】 評論「“Party of One”英文ドナルド・キーン訳」(ホリデイ日本特集号)。 「灯台」が青年座稽古場で青年座第3回勉強会により公演される(五十嵐康治演出)。 |
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【11月】 11.15日、アメリカの「ホリデイ」誌に招かれて渡米し、半月ほどサンフランシスコに滞在。カリフォルニア大学共催の日本シンポジウムに出席、「日本の青年」と題し講演。11.29日までアメリカに滞在。「十日の菊」が第一生命ホールで文学座により文学座創立25周年記念公演される(松浦竹夫演出)。短編「苺」(オール読物16巻9号)。 11.15日、評論集「美の襲撃」(講談社、装丁・細江英光)。長編「獣の戯れ」(新潮社)。ボディビルに加えて本格的に剣道を始める。この頃には70キロのバーベルを持ち上げられるようになっていた。 |
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【12月】 戯曲「十日の菊 3幕29場」(文学界15巻12号)。 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。戯曲「黒蜥蜴 3幕13場」(婦人画報)。 江戸川乱歩作の長編「黒蜥蜴」をもとにした戯曲。 パリの週刊誌「エクスプレス」が長編「金閣寺」を紹介。 近鉄金曜劇場「鹿鳴館」(TBSテレビ、12.1日、8日放映)。 |
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この年、他にも次の作品がある。随筆「ピラミッドと麻薬」、随筆「美に逆らふもの」、香港・タイガーバームガーデン紀行。評論・批評「アメリカ人の日本神話」。”Japan:
The Cherished Myths” と英訳され、米誌「HOLIDAY」に掲載された。評論・批評「魔―現代的状況の象徴的構図」。次のように述べている。
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・英訳「潮騒」(日・タトル)(米・バークレイ)・独訳「金閣寺」(ミユンヘン、パウル・リスト)・伊訳「潮騒」(ミラノ、フェルトウリネリ)・フィンランド訳「金閣寺」(オタワ)・スロバキア訳「潮騒」(ブレゼルノバ・ヅルズバ)。 | |
三島は「憂国」の映画監督を務め、「私のすべてがこめられている」と語っている。2・26事件の外伝を描いたこの作品は、自らが監督・脚本、そして主演を努める形で映画化された。 |
1962(昭和37)年、37歳の時 |
【1月】 1月、短編「帽子の花」(群像17巻1号)。 短編「魔法瓶」(文芸春秋40巻1号)。 長編「美しい星」(新潮11月号まで)。 「十日の菊」が第13回読売文学賞戯曲賞受賞。 長編「愛の疾走」(婦人倶楽部43巻1~12号)。評論「終末観と文学」(毎日新聞1.14日)。 |
【2月】 |
【3月】 戯曲「源氏供養~近代能楽集の内 1幕」(文芸復刊3号)。 評論「近代能楽集について」(国文学・解釈と鑑賞27巻3号)。 「三島由紀夫戯曲全集」(新潮社)。 江戸川乱歩原作「黒蜥蜴」をプロデューサー・システムにより初演。サンケイホールで水谷八重子・芥川比呂志らにより公演される(松浦竹夫演出)。大映で映画化される(井上梅次監督、出演・京マチ子、大木実、叶順子、川口浩)。 |
【4月】 |
【5月】 評論「不道徳教育講座」(中央公論社新書版)。 「綾の鼓」が新橋演舞場で新派により公演される(松浦竹夫演出)。 5.2日、長男・威一郎誕生。 この頃、ライフワーク「豊饒の海」の構想成る。 |
【6月】 晴海の自動車教習所へ運転練習に通う。舞踊ホール「地獄変」(NHK教育テレビ、6.2日放映。終了後、三島が出演、アナウンサーと対談)。「お嬢さん」(関西テレビ、6.20日-7.25日放映)。 |
【7月】 「鏡子の家」(TBSテレビ、7.4日-8.29日放映)。 バラ劇場「潮騒」(TBSテレビ、7.10日-31日放映)。 |
【8月】 8.12日、堀江謙一がヨットで太平洋横断。 短編「月」(世界200号・創刊200号記念号)。文芸アワー「葵上」(日本テレビ、8.10日放映)。 |
【9月】 長編「午後の曳航」取材のため横浜で乗船。 |
【10月】 10.1日-31日、ラジオ小説「夏子の冒険」(NHKラジオ第一)放送。 10.10日、ファイティング原田が世界フライ級チャンピオンになる。 10.20日、長編「美しい星」(新潮社、装丁・永井一正)。 10.22日、キューバ危機。 評論「現代史としての小説 上下」「毎日新聞夕刊10.9-10日)。評論「谷崎潤一郎論 上中下」(朝日新聞10.17-19日)。 |
【11月】 「鹿鳴館」が新橋演舞場で新派により公演される(戌井市郎演出)。 ゲーテ原作「プロゼルピーナ」が伊勢丹ホールでサンケイ邦舞研究会により公演される(堂本正樹演出)、能形式で三島訳。 |
【12月】 評論「第一の性」(女性明星~39年12月)。 12.5日、編著「文芸読本 川端康成」(河出書房新社)刊。三島をはじめ小林秀雄等の川端論、川端作品抄、三島司会座談会等収録。評論「川端康成読本序説」、座談会「川端康成氏に聞く」収録。 |
この年、他にも次の作品がある。「帽子の花」、戯曲・歌舞伎「源氏供養」。これは能楽「源氏供養」をもとにした戯曲。近代能楽集の9曲目。のちに廃曲とした。詩歌「黒蜥蜴の歌」、「黒とかげの恋の歌」、「用心棒の歌」。 |
・伊訳「金閣寺」(ミラノ、ガルザンティ) ・スウェーデン訳「金閣寺」(ストックホルム,ボニエ)・韓国訳「潮騒」(ソウル、新太陽社)。 |
1963(昭和38)年、38歳の時 | ||||
【1月】 短編「葡萄パン」(世界205号)。 短編「真珠」(文芸2巻1号)。 長編「肉体の学校」(マドモアゼル連載)。評論「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊連載)。 1.20日、長編「愛の疾走」(講談社)。文芸劇場「にっぽん製」(NHKテレビ、1.11日放映)。 1.14日、文学座で杉村体制への反発からから芥川比呂志、岸田今日子、小池朝雄、神山繁、加藤治子、仲谷昇、三谷昇、山崎努、名古屋章、橋爪功ら有望な中堅俳優29名の劇団員が脱退し、福田恆存が中心となる現代演劇協会附属・「劇団雲」が結成され、三島は新聞に載る直前まで何も知らされず、文学座再建のために残り、理事となる。岸田今日子は次のように証言している。
吉田健一の件と、この一件で、1951(昭和26)年から続いた「鉢の木会」も自然消滅する。残された三島は文学座の再建に力を注ぐ。1.16日、文学座は劇団の結束を固め再出発したいとの旨の三島由紀夫起筆の声明を発表する。 |
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【2月】 評論「林房雄論」(新潮60巻2号)。 2.11日、文学座再建のためのプランを発表。三島は、現代劇の確立、西洋演劇の源流を探る、日本の古典を探る、という3つの課題を提示し、翌1964(昭和39)年正月公演用の戯曲が三島に委嘱される。 |
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【3月】 3.25日、限定版・細江英公写真集「薔薇刑」(集英社、装丁・杉浦康平)刊。三島が被写体モデルとなる。薔薇をもって罪をあがなうのストーリーで描いたこの写真集で、三島は「わが肉体は美の神殿」とヌードを披露していた。 3.31日、吉展ちゃん誘拐事件。 評論「細江英公序説」収録。 長編「愛の疾走」(講談社)。 剣道2段に昇進。 |
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【4月】 随筆「筋肉と知性の練磨~特集・わたしの中の“男らしさ”の告白」(婦人公論48巻5号)。 「三原色」が草月会館で堂本正樹リサイタルにより公演される(堂本正樹演出)。 |
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【5月】 5.23日、狭山事件。 5.23日、朗読・物語り「真珠」(NHKラジオ第一)。 |
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【6月】 劇評「可憐なるトスカ」、対談「文学座の新しい道・その一 安堂信也」(文学座プログラム)。 ヴィクトリアン・サルドウ作、安堂信也訳・三島修辞「トスカ」が新宿厚生年金会館小ホールで文学座により公演される(戌井市郎演出)。 |
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【7月】 日生劇場のためのオペラ「美濃子」脱稿。 文芸劇場「潮騒」(NHKテレビ、7.5日放映)。 |
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【8月】 短編「雨のなかの噴水」(新潮60巻8号)。 短編「切符」(中央公論78年8号)。評論「芸術断想」(芸術生活連載)。 8.30日、評論「林房雄論」(新潮社)刊。 8.30日より翌月6日まで長編「絹と明察」取材のため彦根、近江八景へ取材旅行。 |
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【9月】 評論「天下泰平の思想」(論争27号)。 9.10日、書き下ろし長編「午後の曳航」(講談社、装丁・麹谷宏)刊。(フォルメントール国際文学賞候補作品)。 「灯台」が新橋演舞場で新派により公演される(戌井市郎演出)。 舞踊劇「葵上」がイイノホールで花柳龍二リサイタルにより公演される(堂本正樹脚色・演出)。 9.15日、朗読ラジオ劇場「卒塔婆小町」(ニッポン放送)。 |
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【10月】 「剣」(新潮60巻10号)。戯曲「鹿鳴館」が明治座で新派により公演される(戌井市郎演出)。細江英公写真集「薔薇刑」が西独フランクフルトのインターナショナル・ブックショーに出品され大きな反響を呼ぶ。「絹と明察」を起筆する。この小説は、「鏡子の家」で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について次のように述べている。
三島は近江絹糸の労働争議(近江絹糸争議)を背景に、伝統的な日本(駒沢)と、西洋かぶれの日本(大槻、岡野)との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、ジョン・ネイスンが担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、大江健三郎の翻訳担当に移った。のちネイスンは「絹と明察」の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「左翼に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。「絹と明察」は第6回毎日芸術賞文学部門賞を受賞した。 |
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【11月】 11.22日、ケネディ大統領暗殺。近鉄金曜劇場「十九歳」(TBSテレビ、11.15日放映)。 評論「わが創作方法~創作方法の問題2」(文学31巻11号)。 この頃、翌1964(昭和39)年正月公演用の戯曲として三島の電車転覆事件をモチーフにした「喜びの琴」が提供された。その内容は、言論統制法を内閣が制定しようとしている時代(当時からみた近未来)を背景にして反共主義思想を固く信じる若い公安巡査・片桐を主人公にした政治色の強い題材の作品であった。劇中に起こる「上越線転覆事件」は松川事件を連想させる内容であり、同年9月に松川事件の首謀者とされた国労関係者20名の無罪が確定したばかりで騒々しいさ中であった。問題となったのは、劇中での次の台詞であった。
共産党を支持していた俳優・北村和夫が、「自分はこの役はやれません、この台詞は言えません」と泣いたと言う。当時、毛沢東支持者であった杉村春子らが先導し「喜びの琴」の稽古、上演拒否をした。 11.20日、杉村春子、長岡輝子ら文学座劇団員の臨時総会が開かれ、話し合いの末、「左翼への偏見あり右翼的である」として上演保留を決定。翌日、戌井市郎理事らが、その旨を三島に申し入れた。三島は、保留ではなく中止とすることで証書を取り交わした。11.25日日、三島は戌井市郎理事に文学座退団を申し入れ10年近く続いた三島と「文学座」の濃密な関係は遂に絶たれた。11.27日付け朝日新聞紙上に、評論「文学座の諸君への公開状 ― 『喜びの琴』の上演拒否について」を発表した。上演中止に至る経緯と顛末を書くとともに痛烈な内容で締めくくった。次のように述べている。
矢代静一、松浦竹夫、賀原夏子、中村伸郎ら14名が三島に続いて文学座退団を声明する。翌12月、矢代静一、松浦竹夫のほか、青野平義、奥野匡、荻昱子、賀原夏子、北見治一、丹阿弥谷津子、寺崎嘉浩、中村伸郎、仁木佑子、真咲美岐、南美江、宮内順子、水田晴康、村松英子ら10数名が次々と文学座を正式に脱退する。 12.15日、三島は週刊読売に、「俳優に徹すること ― 杉村春子さんへ」を発表した。 |
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【12月】 12.15日、力道山が刺され死亡する。 12.10日、小説集「剣」(講談社)。 |
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この年、他にも次の作品がある。「可哀さうなパパ」、随筆「踊り」、随筆「小説家の息子」、「喜びの琴」等の長編、短編、戯曲を旺盛に発表した。 | ||||
アメリカの社会学者リースマンの著書を愛読していた三島は、社会には「横の社会」と「縦の社会」があり、前者は個性を失った砂のような人間によって形成される大衆社会だが、後者は歴史的民族的社会で、このなかに「汚れていない思想」が眠っていると強調する。 この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、アイヴァン・モリス、ドナルド・キーン、エドワード・G・サイデンステッカーなどが著名である)。・英訳『宴のあと』(米・クノップ)(英・セッカー)
三島作品が国外で高く評価される一例は、監督・ポール・シュレイダー、制作総指揮・ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラによる映画「Mishima: A Life In Four Chapters」に見て取れる。この映画は日本では公開されていない。コッポラは、映画「地獄の黙示録」の撮影時には、三島の「豊饒の海」も手に取り、構想を膨らませていたと述べている。三島作品で海外で映画化されたのは「午後の曳航」で、「The Sailor Who Fell from Grace with the Sea」という題名で1976(昭和51)年に日米合作で製作上映されている(サラ・マイルズ、クリス・クリストファーソン出演)。フランスでは、1998(平成10)年に「肉体の学校」が、「L'Ecole de la Chair」(英題:「The School of Flesh」)という題で映画化されている(ブノワ・ジャコ監督、イサベル・ユベール、ヴァンサン・マルチネス出演)。ほかに1993(平成5).7月には、モーリス・ベジャール振付による、三島を題材にしたバレエ・スペクタクル「M」が東京で初演され、その後ヨーロッパ各国で上演された。 イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た「Death & Night & Blood (Yukio)」(「死と夜と血」)という楽曲を発表している。「Ice」という楽曲にも、「ハガクレという言葉が使われている。ベースのジャン=ジャック・バーネルは、三島の愛読者であるという。映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲は坂本龍一が作曲したが、この楽曲にデヴィッド・シルヴィアンが詞をつけた「禁じられた色彩」は、三島の「禁色」から着想されたもので、デヴィッド・シルヴィアンは三島の大ファンだという。なお、YMOの「BEHIND THE MASK」は「仮面の告白」のタイトルをヒントに坂本龍一が作曲した楽曲だが、これはマイケル・ジャクソンにカバーされている。 |
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年末、「芸術断想」の中でこう書いている。
短編「仲間」(文芸5巻1号)。長編「複雜な彼」(女性セブン連載)。 戯曲「サド侯爵夫人」がツ―ル国際短編映画祭(世界短編映画コンクール)で次点となる。 参議院議員会館道場で催された議員グループとの親善剣道大会に参加。 |
1964(昭和39)年、.39歳の時 | ||
【1月】 長編 「絹と明察」(群像連載)。長編「音楽」(婦人公論連載)。文学座を一緒に脱退したメンバーと「劇団NLT」を結成、岩田豊雄(獅子文六)、三島が顧問となる。NLTとはラテン語で「新文学座」を表すNeo Litterature Theatreの頭文字で、岩田豊雄により命名された。 |
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【2月】 戯曲「喜びの琴 3幕6場」(文芸)。 2.15日、長編「肉体の学校」(集英社)。 2.25日、戯曲集「喜びの琴 付・美濃子」(新潮社、装丁・上口睦人)刊。 「三島由紀夫短編全集」(新潮社)。 |
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【3月】 剣道3段に合格。「剣」が大映で映画化される(三隅研次監督) 。 |
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【4月】 4.10日、評論集「私の遍歴時代」(講談社、装丁・栃折久美子)。 4.28日、「平凡パンチ」創刊。 「潮騒」が日活で映画化される(森永健次郎監督)。 |
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【5月】 近鉄金曜劇場「剣」(TBSテレビ、5.8日放映)。 5.30日、(再版本) 長編「獣の戯れ」(新潮社、装丁・東山魁夷)。「喜びの琴」が日生劇場で劇団四季により公演される(浅利慶太演出)。長編「獣の戯れ」が大映で映画化される(富本壮吉監督)。この頃、「春の雪」のライト・モチーフ浮かぶ。 「宴のあと」がフォルメントール国際文学賞第2位受賞する。 |
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【6月】 6.20日より10日間、出版打ち合わせのため渡米。 NHK劇場「真珠」(NHKテレビ、6.19日放映)。 |
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【7月】 7.10日、限定版「三島由紀夫自選集」(集英社、装丁・伊藤憲治、解説・橋川文三)刊。 |
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【8月】 8.10日、ベトナム反戦集会。 「婦人公論」東京オリンピック記念論文の選考委員になる。 「箱根細工」が大阪新歌舞伎座で藤山寛美らにより公演される(館直志脚本・演出)。 8.2日より2週間、伊豆下田の東急ホテルで家族と共に過ごす。以後、例年8月は下田で過ごすことが慣例となる。 長編「幸福号出帆」(桃源社)。 翌月にかけ、東京オリンピックの取材記事を報知、読売、朝日、毎日の各紙に発表。 河出書房新社第3回文芸賞の選考委員になる。 係争中の長編「宴のあと」裁判は、東京地裁第一審で敗訴、被告側は翌月直ちに提訴上告。ゴールデン劇場「美しい星」(東京12チャンネル、8.17日-21日放映)。 |
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【9月】 9.23日、王貞治55号ホームラン日本新記録。 9.1日-30日、ラジオお茶の間名作集「潮騒」(ニッポン放送)放送。 9.25日、「幸福號出帆」(桃源社)刊。 9.28日、東京地裁第一審(田哲一裁判長)で敗訴し、80万円の賠償を求められた(但し、謝罪広告の必要はなし)。判決の論旨は次の通り。
三島側は10月に控訴する。 |
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【10月】 10.1日、東海道新幹線開業。 10.10日、東京オリンピック。戯曲「恋の帆影 3幕」(文学界18巻10号)。 10.15日長編「絹と明察」(講談社)刊。「恋の帆影」が日生劇場で水谷八重子らにより開場1周年記記念公演される(浅利慶太演出)。 10.27日-11.14日、朝のラジオ小説「肉体の学校」(TBSラジオ)放送。 |
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【11月】 長編「絹と明察」が第6回毎日芸術賞(文学部門)を受賞。 長編「宴のあと」が国際文学賞候補に上る。 河出書房新社「石原慎太郎文庫全8巻」の編集委員になる。 |
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【12月】 12.30日、評論「第一の性《男性研究講座》」(集英社・コンパクトブックス、装丁・横山泰三)。 |
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この年、「浜松中納言物語」を読み「豊饒の海」の構想が具体化して行った。 | ||
この年、他にも次の作品がある。戯曲「美濃子」。オペラ劇台本。黛敏郎の作曲が間に合わず、未上演。随筆「熊野路―新日本名所案内」。随筆「秋冬随筆」(こうさい連載)。随筆「実感的スポーツ論」(読売新聞連載)。随筆「男のおしやれ」、評論・批評「雷蔵丈のこと」、評論・批評「解説(「日本の文学38川端康成」)」、評論・批評「解説(「現代の文学20 円地文子集」)」、評論・批評「文学における硬派―日本文学の男性的原理」、評論・批評「生徒を心服させるだけの腕力を―スパルタ教育のおすすめ」、対談「七年目の対話」(対・石原慎太郎) 。対談「現代作家はかく考える」(対:大江健三郎)。 | ||
映画「剣」(モノクロ映画、大映京都、監督・三隅研次、出演・市川雷蔵、長谷川明男、藤由紀子)、映画「潮騒」(日活、監督・森永健次郎、出演・吉永小百合、浜田光夫)、「獣の戯れ」(大映東京、監督・富本壮吉、出演・若尾文子 、河津清三郎、伊藤孝雄)。 | ||
・独訳「仮面の告白」(ハンブルグ、ローボルト) ・伊訳「宴のあと」(ミラノ、フェルトウリネリ) ・デンマ―ク訳「近代能楽集」、「宴のあと」(コペンハーゲン、ギルデンダル) ・韓国訳「美徳のよろめき」(ソウル、晴雲閣)。 |
1965(昭和40)年、40歳の時 | |
【1月】 短編「三熊野詣」(潮騒62巻1号)。 短編「月澹荘綺譚」(文芸春秋43巻1号)。 評論「現代文学の三方向」(展望73号)。 シナリオ「憂国」脱稿。 「絹と明察」が第6回毎日芸術賞受賞。 短編「孔雀」(文学界19巻2号)。 評論「法学士と小説」(学士会会報686号)。 長編「音楽」(中央公論社)。 1.9日より5月末まで、自宅3階増築のためホテル・ニュージャパンに滞在。 |
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【2月】 2.7日、ベトナム戦争で北爆開始。 2.26日、自らライフワークとした長編四部作「豊饒の海」の第1巻「春の雪」の取材のため奈良帯解の円照寺を1人で訪ねる。 2.15日、「音楽」(中央公論社、装丁・神野八左衛門)刊。 |
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【3月】 3.4日、原告・有田八郎が死去する。 3.5日、「反貞女大学」(新潮社)刊。紀行「ロンドン通信」(毎日新聞夕刊3.25日)。 英国文化振興会の招きでロンドン旅行、約1カ月滞在。 |
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【4月】 翻訳・神秘劇「ガブリエレ・ダンヌンツィオ作『聖セバスチァンの殉教』」(批評復刊1-3号)、池田弘太郎と共訳。 紀行「続ロンドン通信 上下」(毎日新聞4.9-10日)。村松剛、佐伯彰一らの「批評」が復刊され、山崎正和らと新しく同人に迎えられる。 短編「憂国」(擱筆・1960.10月)を自ら脚色・監督・主演・美術・制作する映画「憂国」の撮影に入った。共演は鶴岡淑子。 |
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【5月】 5.1日、三島朗読「サーカス」(NHK-FM)。 5.4日-25日、朗読・「真夏の死」(中部日本放送)。 近代能楽集「弱法師・班女」をアートシアター新宿文化でNLT新宿文化提携により公演される(水田晴康演出)。 「灯台・綾の鼓」が日仏会館ホールで劇団造形公演される(天野二郎演出)。 浅野晃詩集「天と海(英霊に捧げる七十二章)」を朗読し、タクト音響レコードに吹き込む、題して「ポエムジカ」(詩楽)。 |
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【6月】 6.22日、日韓基本条約調印。短編「朝の純愛」(日本)。 限定版・サフィール(15)「レスボスの果実」(プレス・ビブリオマーヌ、装丁・ヴァン・ドンゲン)刊。 近代能楽集「熊野」が歌舞伎座で中村歌右衛門により公演される。 |
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【7月】 7.30日、小説集「三熊野詣」(新潮社)。 7.20日、ドラマ・スタジオ8「モノローグ・ドラマ 船の挨拶」(中部日本放送)放送。 |
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【8月】 評論「私の戦争と戦後体験~二十年目の八月十五日」(潮)。次のような一文がある。
8.5日、「雨のなかの噴水」(講談社ロマンブックス、三島由紀夫短篇全集6)刊。 8.20日、評論「目~ある芸術断想」(集英社)。 |
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【9月】 長編「春の雪」(新潮連載)。9.5日より11月にかけ、夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各地を旅行。長編「暁の寺」取材のためカンボジアのアンコール・ワットと並ぶ遺跡アンコール・トムに立ち寄る。この頃、谷崎潤一郎、ショーロフと並びノーベル文学賞候補に上る。 |
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【10月】 10.21日、朝永振一郎がノーベル物理学賞受賞。 |
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【11月】 11.10日、中国で文化大革命始まる。戯曲「サド侯爵夫人 3幕」(文芸4巻12号)が発表された。 11.25日、「サド侯爵夫人」(河出書房新社、装丁・秋山正)刊。新宿紀伊国屋ホールで劇団NLT・紀伊国屋ホール第2回提携により公演される(松浦竹夫演出)。 評論・随筆「太陽と鉄」が発表された。 11.18日、「豊饒の海」取材のため、奈良の円照寺へ行く。この頃、碑文谷警察署で初めて居合抜きを習う。 |
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【12月】 映画「肉体の学校」が映画化される(モノクロ映画、東宝、監督・木下亮、出演・岸田今日子、山崎努、山村聰、東恵美子)。 戯曲「サド侯爵夫人」が文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。 |
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この年、他にも次の作品がある。「月澹荘綺譚」、「孔雀」、随筆「反貞女大学」(産経新聞連載) 。紀行「英国紀行」、評論・批評「谷崎朝時代の終焉」、評論・批評「文武両道」、対談「戦後の日本文学」(対:伊藤整、本多秋五)。 | |
・英訳「午後の曳航」(米・クノップ) ・英訳「仮面の告白」(英・ワールド・ディストリビューターズ)・仏訳「宴のあと」(ガリマール)・スイス(独)訳「志賀寺上人の恋」(チューリッヒ、ディオゲネス)・スウェーデン訳「潮騒」(ストックホルム、ボニエ)・デンマーク訳「金閣寺」(コペンハーゲン、ギルデンダル) 。 | |
この年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあったという。さらに、三島は家庭的といえる一面は、母に対する愛情の濃やかさにも顕れ、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を自分の死後、母に譲渡する内容の遺書を作成している。また、自身の死後も、子供たちに毎年クリスマス・プレゼントが届く手配をしていたという。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みぬような人間ではなかったという。 |
1966(昭和41)年、41歳の時 | ||||||||||||||||
【1月】 正月に書いた「『われら』からの遁走」でこう述べている。
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【2月】 2.4日、全日空ボーイング727が東京湾に墜落するなど、この年飛行機事故相次ぐ。 評論「危険な芸術家」(文学界20巻2号)。 対談「二十世紀の文学 安部公房」(文芸5巻2号)。 評論「をわりの美学」(女性自身連載)。 |
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【3月】 評論「反貞女大学」(新潮社)。 皇居内の済寧館道場に剣道の稽古に通う。 師範は松永政美7段。 |
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【4月】 評論「お茶漬ナショナリズム」(文芸春秋44巻4号)。 限定版・短編「サーカス」(プレス・ビブリオマーヌ、装丁・武井武雄)。 4.10日、映画版撮影台本「憂国」(新潮社)刊。 映画「憂国」がアートシアター系で封切り。 4.18日、講演「私はいかにして日本の作家となったか」(日本外国特派員協会での英語によるスピーチ・質疑応答)。文壇デビューの経緯や、「太宰の文学は嫌い」と本人に直接話した事実などを話した。 |
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【5月】 評論「映画的肉体論~その部分及び全体」(映画芸術)。対談「映画『憂国』の愛と死 川喜多かしこ」(婦人公論51巻5号)。剣道4段に合格。居合(大森流)を始める。 | ||||||||||||||||
【6月】
三島は、この作品で、2.26事件で銃殺刑に処せられた青年将校や特攻隊員の声に託して、戦後日本の虚構に対して激しい怒りをぶちまけている。三島自身が秋山駿との対談で次のように述べている。
昭和天皇が「人間宣言」したのは、終戦後の1946(昭和21)1.1日であった。新聞には天皇とマッカーサーが並ぶ写真が載った。三島はこの時、憤怒する。級友の三谷信は次のように証言している。
加藤典洋は次のように論評している。
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この後、三島は、遺作となった長編4部作の「豊饒の海」執筆に向かう。原文は、月刊誌「新潮」に掲載された。それぞれの執筆は次の通り。
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三島「自決変死」の4年前からの執筆になる。してみれば、「豊饒の海」4部作の執筆は三島の「自決変死」の流れと並走していることになる。その意味で、「豊饒の海」の作品解析に格別の意味がある。この観点からの論評がされているのだろうか。 | ||||||||||||||||
6.17日、「奔馬」取材のため、奈良市の率川(いさがわ)神社を参詣し「三枝(さいぐさ)祭り」の百合祭を見る。長編「複雑な彼」が大映で映画化される(島耕二監督)。小説の作中、日本古来のユリである笹百合(ささゆり)を手に四人の巫女が舞う姿を描写し、登場人物の本多に「これほど美しい神事は見たことがなかった」と述懐させている。 | ||||||||||||||||
【7月】 随筆「私の遺書」(文学界20巻7号)。 「白蟻の巣」が日仏会館ホールで劇団造形により公演される(天野二郎演出)。 7.9日、大手町日経ホールで催された丸山(美輪)明宏のチャリティー・リサイタルにゲスト出演。 自作の詩「造花に殺された船乗りの歌」を歌う。この年から芥川賞選考委員となる(第55回~第63回 45年まで)。 |
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【8月】 三島は、8.21日から10日間、遺作となった長編4部作の「豊饒の海第二巻」の「奔馬」の取材のため、奈良、広島、熊本へ行く。 8.22日、最初の地としての奈良では、友人の日本文学研究者にして米国コロンビア大学教授のドナルド・キーンと共に奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社を訪れている。「奔馬」の執筆にあたつて、恩師から「古神道を知りたければ大神神社」と勧められたことによると伝えられている。再度来訪し社務所に三泊参篭。この間、8.23日、三輪山の裾・山の辺の道を散策。 8.24日、念願の三輪山頂上へ登拝。道中の三光の滝に打たれている。下山後、拝殿で神職の雅楽講習会終了報告祭に参列している。感銘を受けた三島は、ただちに色紙に「清明」としたため揮毫している。現在、大神神社の神域に三島筆の「清明」という文字が刻まれた石碑が建っている。 「奔馬」の作中で、三輪山の神域について次のように描写している。
帰京後、大神神社の宮司に次のように認(したた)めた手紙を送っている。
「ここに、三島由紀夫氏と三輪の大神さまとの御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成18年8月吉日 大神神社社務所」とある。
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広島では江田島の海上自衛隊第一術科学校にある元海軍兵学校教育参考館に赴き、特攻隊員の遺書を見る。続いて、熊本では「日本談義」主幹荒木精之に会い、神風連事跡ならびに遺跡を訪(たず)ねている。龍驤館道場で剣道の稽古を受け、一夕、蓮田善明未亡人を囲み語る。神風連の地への旅について三島は清水文雄への書簡の中で次のように記している。
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長編「複雑な彼」(集英社)。「三島由紀夫評論全集」(新潮社)。 | ||||||||||||||||
【9月】 「豊饒の海第一巻」の「春の雪」(新潮連載)。 長編「夜会服」(マドモアゼル連載)。 評論「三島由紀夫レター教室~手紙の輪舞」(女性自身連載)。出来事をすべて手紙形式で表現した異色の小説。三島由紀夫・池田弘太郎共翻訳・審美劇「ガブリエレ・ダンヌンツィオ作『聖セバスチァンの殉教」(美術出版社)、池田弘太郎と共訳。「綾の鼓」が虎ノ門ホールで名古屋青年劇団公演される(加藤良明演出)。 この頃、船坂弘より日本刀・関孫六を贈られる。 |
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【10月】 10.11日、「黒い霧」事件。三島は林房雄との対談「対話・日本人論」の中で、藤原定家を書こうと思っていると述べた。また、同月、三島は自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などに接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求める。 短編「荒野より」(群像21巻10号)。 10.25日、対談「対談・日本人論」(番町書房)刊。 林房雄との対談集。 ユウゴオ原作「リュイ・ブラス」が紀伊国屋ホールで劇団NLTにより公演される(松浦竹夫演出)。 この頃、自衛隊体験入隊の意志を明らかにして、自衛隊への体験入隊の準備を始める。 |
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【11月】 「太陽と鉄」(批評12号連載)。 「サド侯爵夫人」を劇団NLTが初演。 評論「伊東静雄の詩~特集・わが詩歌」(新潮63巻11号)。 「アラビアン・ナイト」が日生劇場で北大路欣也、水谷良重らにより公演される(松浦竹夫演出)、千秋楽に出演し歌う。 11.11日、両陛下主催の秋の園遊会に招待される。 11.28日、長編「宴のあと」問題で、有田の遺族と三島・新潮社との間に裁判上の和解が成立した。三島側は提訴上告した。この年より中央公論社の谷崎潤一郎賞選考委員となる。 11月、長編「豊饒の海」第1巻「春の雪」を脱稿する。 |
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【12月】 舩坂弘著「英霊の絶叫」の序文を書いた返礼として舩坂弘から日本刀・関孫六を贈られた。さらに、同月には、小沢開策から「論争ジャーナル」創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌の万代潔が三島宅を訪ねて来る。 この年、両陛下主催の秋の園遊会に招待される。国立競技場で早朝マラソン練習。このころ「楯の会」の母体をなす青年たちと知る。 12.19日、民族派雑誌「論争ジャーナル」編集部の万代潔氏と出会う。その後、「論争ジャーナル」の持丸博氏、中辻和彦氏らと親交を重ねるようなる。 |
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この年、他にも次の作品がある。「仲間」、「悪臣の歌」、「荒野より」、随筆「闘牛士の美」、随筆「私のきらひな人」、随筆「ビートルズ見物記」、評論・批評「日本人の誇り」、評論・批評「法律と餅焼き」、評論・批評「わが育児論」、評論・批評「映画的肉体論」、評論・批評「ナルシシズム論」、評論・批評「団蔵・芸道・再軍備」、評論・批評「谷崎潤一郎、芸術と生活」、評論・批評「谷崎潤一郎について」、評論・批評「谷崎潤一郎頌」、評論・批評「序(舩坂弘著「英霊の絶叫」)」、対談「二十世紀の文学」(対:安部公房)、対談「ニーチェと現代」(対:手塚富雄)。対談「エロチシズムと国家権力」(対:野坂昭如)。詩歌「造花に殺された舟乗りの歌」。丸山明宏チャリティー・リサイタルで、マドロス(船乗り)スタイルで歌唱した。作曲:丸山明宏。 | ||||||||||||||||
映画「複雑な彼」(大映東京、監督・島耕二、出演・田宮二郎、高毬子、若山弦蔵)が上映される。 | ||||||||||||||||
・英訳「真夏の死 その他」(米・ニューディレクションズ)・オランダ訳「宴のあと」、「金閣寺」、「近代能楽集」(アムステルダム、ミューレンホフ)・ノルウエー訳「午後の曳航」(オスロ、ギルデンダル)・フィンランド訳「宴のあと」(ヘルシンキ、オタワ)・ハンガリー訳「班女」(ブタペスト)・トルコ訳「仮面の告白」(イスタンブール、フスヌ・タビアト)
・韓国訳「美徳のよろめき」(ソウル、知文閣) ・韓国訳「橋づくし」(希望出版社)。
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1967(昭和42)年、42歳の時 | |||
【1月】 読売新聞の昭和42年1月1日、ミシマは「年頭の誓い」ならぬ「年頭の迷い」という文章を残している。
短編「時計」(文芸春秋45巻1号)。評論「宴のあと公判ノート」(唯人社)。 雑誌芸能記者クラブ選出のゴールデン・アロー賞(話題賞)を受賞。 左翼一辺倒の論壇に真正面から立ち向う保守派のオピニオン雑誌として民族派雑誌「論争ジャーナル」が創刊された。編集長・中辻和彦と副編集長・万代潔が三島宅を訪問し、雑誌に寄稿を正式依頼。以降、同グループとの親交を深め、中辻と万代は3日に1度の割で訪れるようになる。日本学生同盟の持丸博も三島宅を訪問し、日本学生新聞に寄稿を依頼する。この時、三島は既に「英霊の声」、「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。 「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っている。こうして42年の初めから三島と論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった持丸博が 頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでの信頼を勝ち得ていた。実際この年の3月から44年の3月までの2年間、三島は十回以上にわたって論争ジャーナル誌上に登場している。42年の11月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、論壇を驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。 |
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【2月】 長編「豊饒の海」第2巻「奔馬」が連載開始された(新潮、1968(昭和43).8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品である。同時期には、政治への傾斜とともに「葉隠入門」、「文化防衛論」どの評論も発表された。特に「文化防衛論」においては、「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。 居合道初段に合格する。 2.20日、武智鉄二製作の映画「黒い雪」裁判の被告側証人として東京地裁に出廷、その芸術性を証言する。 2.28日、川端康成、石川淳、安部公房と共に中国文化大革命に対する抗議アピールを発表。 この頃、東京水道橋後楽園の日本空手協会で空手の稽古を開始。指導は中山正敏首席師範。 |
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【3月】 3.3日、高見山が外国人初の関取。 評論「古今集と新古今集」(広島大学国文学攷42号)。評論「『道義的革命』の論理~磯部一等主計の遺稿について」(文芸6巻3号)。作品集「荒野より」(中央公論社)。中共に対して「文化大革命に関する声明」を東京新聞に川端康成、石川淳、安部公房と共に発表もした。 座談会「われわれはなぜ声明を出したか~芸術は政治の道具か?」(中央公論)。 対:川端康成、石川淳、安部公房。この月、三島の自衛隊45日間の体験入隊が許可される(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件つき)。 有田氏の遺族と和解する。この件で、友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、後に両者は絶交に至る機縁になったといわれている。三島は、自決1週間前に行なった古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」において、この裁判で三島は裁判というものを信じなくなったと述べている。法廷で弁護人から、「三島に著名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、有田は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と著名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず、刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという。 |
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【4月】
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【5月】 「真夏の死」がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。 「午後の曳航」もフォルメントール国際文学賞候補作品となる。 5.11日、レンジャー課程に所属した後、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練を体験する。この頃から三島は、民兵組織・「祖国防衛隊」構想を固めていく。また、この頃、日学同(日本学生同盟)、「論争ジャーナル」の学生達が、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を三島に伝え、三島、日学同、「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかしその後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と、反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じ始める(のち、祖国防衛隊へ移籍し、学生長となった持丸博は日学同を除籍となる)。 この頃、次のような発言を遺している。
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【6月】 インタビュー「自衛隊を体験する~46日間のひそかな“入隊”」、談話「三島“帰郷兵”に26の質問」(サンデー毎日6.11日)。 「鹿鳴館」が新宿紀伊国屋ホールで劇団NLTにより第6回公演(松浦竹夫演出)。 「熱帯樹」が砂防会館ホールで代々木座と演劇研究会「塔」提携により公演(佐藤正隆演出)。 この年から、日本文芸家協会の理事となる。 長編「愛の渇き」が日活で映画化(蔵原惟繕監督)、43.2月封切り。 6.19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で、日学同所属/早大国防部代表の森田必勝(早稲田大学教育学部在学)と顔を会わせる。 |
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【7月】 武智鉄二の「黒い雪」裁判に無罪判決下る。 7.2日、森田ら早大国防部と共に自衛隊北恵庭駐屯地で1週間の体験入隊し、戦車に試乗する。森田は、そのときのことを綴った「早大国防部活動日誌」で、「それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか」と述べ、「(自衛隊員が)憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げている。日本空手協会道場に入門。中山正敏(日本空手協会首席師範)の下、7月から空手の稽古を始める。 7.28日、「芸術の顔」(番町書房、装丁・上口睦人)刊。 |
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【8月】 座談会「現代日本の革新とは~ニュー・コンセンサス・メーカー大いに語る」(論争ジャーナル8号)。限定版・戯曲「サド侯爵夫人」(中央公論社)刊。 8.28日より末日まで、京都の仙洞御所を拝観。 |
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【9月】
三島はちょうどこの「暁の寺」を執筆中、国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争 (1969年)に対抗するための自衛隊治安出動と「楯の会」の出番を期待し、それに乗じたクーデターによる憲法改正・自衛隊国軍化を実現する「作品外の現実」に賭けていた。 |
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【10月】 10.8日、第1次羽田事件(京大生死亡)。佐藤栄作首相のベトナム訪問阻止を叫ぶ学生らが機動隊と衝突。日大生2名が警備用車両を運転、その警備者に轢かれて京大生・山崎弘昭が死亡。日大生は不起訴となった。 紀行「インドの印象 上下」(毎日新聞夕刊10.20-21日)。紀行「インド通信 上下」(朝日新聞夕刊10.23-24日)。 10.25日、戯曲「朱雀家の滅亡 4幕」(文芸6巻10号、河出書房新社)刊。新宿紀伊国屋ホールで劇団NLTにより第7回公演(松浦竹夫演出)。「お嬢さん」(フジテレビ、10.8日-1968.3.31日放映)。 随筆「いかにして永生を?」(文学界21巻10号)。小説「暁の寺」の取材でインドを訪れている。インディラ・ガンディー首相、ザーキル・フセイン大統領、陸軍大佐と面会する。中共に対する日本の国防意識の欠如について危機を抱く。番町書房「昭和批評大系全4巻」の編集参加。 この年、サムエル・ベケット、アンドレ・マルロオと共に再びノーベル文学賞候補に上る。学生らを引き連れた自衛隊体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行った。 |
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【11月】 インドから帰国。 「論争ジャーナル」グループと民兵組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレットを作成する。 対談「文武両道と死の哲学 福田恆存」(論争ジャーナル1巻11号)。 討論「反ヒューマニズムの心情と論理」(伊藤勝彦編「対話・思想の発生」町書房)。 「熊野」が歌舞伎座初代中村鴈次郎第33回忌追善として、中村歌右衛門らにより公演される。近代能楽集「葵上・熊野」が新宿文化劇場でアートシアター第29回公演される(堂本正樹演出)。 |
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【12月】 12.10日、浪曼劇場上演台本「わが友ヒットラー」(新潮社、装丁・前川直)刊。 航空自衛隊のF-104戦闘機に試乗。山本舜勝に出会う。航空自衛隊百里基地より、稲葉2佐操縦のF104超音速ジェット戦闘機に、文士として初めて試乗。陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝が、元上司・藤原岩市から「祖国防衛隊構想試案」を見せられ、藤原の仲介で三島と会食する。巷でノーベル文学賞候補と騒がれている三島に対し、「文士でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問うたところ、三島は「もう書くことは捨てました。ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えている。この瞬間、山本は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思った。と同時に、この人には大言壮語してはならぬと感じたいう。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と誘われたことを証言している。 |
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暮れ近い頃、「楯の会」の前身となる「祖国防衛隊」の構想が起こる。有事の際に動く民兵組織を形成しようとする構想であった。最終的には全国的な民兵組織にする構想であったという。 | |||
この年、他にも次の作品がある。これはエウリピデス作の「ヘラクレス」をもとにした戯曲である。随筆「男の美学」、随筆「紫陽花の母」、紀行「インドの印象」(毎日新聞インタビュー)、評論・批評「日本への信条」、「古今集と新古今集」、評論・批評「私の中のヒロシマ―原爆の日によせて」、評論・批評「人生の本―末松太平著『私の昭和史』」、たか―芸術は政治の道具か?」。対談・座談・討論「文武両道と死の哲学」(対:福田恆存)。詩歌「イカロス」。この年より国立劇場の理事となる(45.11月まで)。 | |||
映画「愛の渇き」(パートカラー映画、日活、監督・蔵原惟繕、出演・浅丘ルリ子、中村伸郎、石立鉄男、山内明)が上映される。 | |||
・英訳「宴のあと」、「近代能楽集」、「午後の曳航」(日・タトル)・英訳「宴のあと」(米・エイボンブックス)・英訳「仮面の告白」(英・スフィアブックス)・英訳「真夏の死」(英・セッカー) ・独訳「宴のあと」(ハンブルグ 、ローボルト)・伊訳「金閣寺」(ミラノ、フェルトウリネリ)・伊訳「午後の曳航」(ミラノ、モンダドリ)・オランダ訳「仮面の告白」(アムステルダム、ベディゲ)・デンマーク訳「潮騒」(コペンハーゲン、ギルデンダル)・スウェーデン訳「午後の曳航」(ストックホルム、ボニエ)。 |
(私論.私見)