崇神天皇系大和王朝建国神話考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。

 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


10代、崇神天皇の御世

【崇神天皇譚その1、血筋血統】
 崇神天皇の生没年は詳(つまびら)かではない。
 前148(開化10)年(皇紀513年)、御間城入彦(みまきいりひこ)の命が開化天皇の第二皇子として誕生された。母は開化天皇の皇后・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。皇后・伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命(おおへそきのみこと)の娘。

 前130(開化28)年(皇紀531年).1.5日、第二皇子・御間城入彦命が19歳の時、先帝・開化天皇が崩御される32年前、立太子。
 御間城入彦(みまきいりひこ)の命はオホビコの娘のミマツヒメを妻として、イクメイリビコイサチなどの12人の御子を得た。

【崇神天皇譚その2、即位】
 前98(開化60)年(皇紀563年)4.9日、先帝・開化天皇崩御。先帝・開化天皇が崩御されてから次の御間城入彦命が即位されるまでおよそ8ヶ月。御間城入彦命には異母(丹波竹野媛)兄の彦湯産隅命(ほこゆむすみのみこと)がおり、若干調整期間があったとも推測される。しかし結局は、先帝・開化天皇の皇后の皇子・御間城入彦命が即位されることになった。

 翌前97年(崇神元)(皇紀564年).1.13日、皇太子・御間城入彦命が崇神天皇として52歳で即位される。

 2.16日、孝元天皇の第一皇子・大彦命(同母兄)の女王である御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされる。
大彦命は孝元天皇の第一皇子で父帝・開化天皇の同母兄だから皇后は従姉に当たる。二人の間には活目(いくめ)命(後の垂仁天皇)ら六人の子を得た。

 前95(崇神3)年(皇紀566年)年秋9月、都を大和国(奈良県桜井市)の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)(古事記では師木の水垣)に遷された。宮は三輪山の南西(現在の桜井市金屋付近)で、深々とした森に囲まれた志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社境内に宮殿跡を示す石碑が建つ。その範囲は広く、天理教敷島大教会と北隣の三輪小学校の敷地辺りまで及んでいると推定されている。

【崇神天皇の御世の二神対立譚】
 崇神天皇が即位して間もなく国内に疫病が流行り、それまで皇居内に合祀していた天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の神威を畏れて二神を皇居の外に遷し且つ別々に祀ることにした。天照大神は崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいひめのみこと、初代斎王)に託し、倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)(現在の檜原神社)に祀らせた。その後、天照大神は、垂仁天皇の御代にその皇女の倭姫を伴って、聖地を探し求めて落ち着いたところが現在の伊勢神宮である。檜原神社は、天照大神が伊勢の地へ遷った後も神績を尊崇し、引き続き大神を祀り、豊鍬入姫命も共に祀っている。

 倭大国魂神は、崇神天皇の母親違いの皇女のヌ名城入姫命(ぬなくいりひめのみこと)に祭祀を託されたが、髪が抜け痩せ細り祀ることができなくなった。崇神天皇が懊悩していたところ、大物主神が夢に現れ「私の子孫の大田田根子に私を祀らせるべし」と託宣した。崇神天皇が大田田根子を探し出し、大神神社の祭主として大物主神を祀らせ、三輪山をご神体とする大神神社が再生した。市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすると疫病はようやく治まったという。
 「崇神天皇の御世の二神対立譚」が次のように記されている。
 開化天皇の第二子であり、母を物部氏に持つミマキイリ彦(後の崇神天皇)が第10代天皇として即位した。率川宮から「磯城(しき)の瑞かき宮」に遷都した。崇神天皇は、大殿にアマテラスと倭国大国魂の二神を並べて祀った。ところが、二神の仲が険悪になり、「しこうして、その神の勢いを畏りて、共に住みたもうにやすからず」ということになった。二神の対立に当惑した崇神天皇は、アマテラスにトヨスキイリ姫を付けて「倭の笠縫村」に移して祀った。倭国大国魂はそのまま皇居に残り、皇女ヌキナノイリ姫が斎宮となって奉仕した。ところが、ヌキナノイリ姫の髪の毛が抜け落ち、全身が衰弱して奉仕するどころではなくなった。

 その頃、疫病が発生した。八十万神に集まって貰い占ったところ、倭国大国魂がヤマトトトビモモソ姫に神がかりした。ヤマトトトビモモソ姫は、「聡明叡智、よく未然を識り給えり」の姫で、「天皇よ、国が治まらないのを憂うに及ばない。我を正しく祀れば必ずや平安になるであろう」とご託宣があった。「我とはどちらの神様で有りますか」と問うと、「倭国の内を治める神、名は大物主神なり」とご託宣があった。こうして、大物主神を祀ることになった。
(私論.私見)
 「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。

【三輪山の大物主神祭祀譚】
 崇神天皇は3人の后を持つ。后の一は、木(紀)国造のアラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)。トヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女を生む。后の二は、尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)。ヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女を生む。后の三は、オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)。イクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生む。
 崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。これを仮に「三輪山の大物主神祭祀譚」と命名する。
 崇神天皇の治世5年、国内に疫病(えきびょう)が多く起き、人民(たみ)が死んできそうになった。同6年、百姓が流離し、あるいは背く者が増えた。その勢い、徳を以て治めむこと難し。これを以て神祇に請罪した。これより先、天照大神、倭大国魂の二の神を天皇の大殿の内に並び祀った。しかしその神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。

 崇神天皇はこうして大物主神を祀ったものの霊験がなかった。崇神天皇は愁い深まり、更に神意を請うたところ、或る夜の夢枕に大物主神が立ち「こは、我が御心ぞ。かれ、オホタタネ子をもちて、あが前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平(やす)らかにあらむ」と告げた。更に、「この疫病の流行は私の意志による。この疫病を鎮めるには、大田田根子(オホタタネ子)という人物を探し出し、三輪山の大神神社の初代神主とし、市磯長尾市(イチシノナガオチ)に大国主を祭神とする倭の大国魂神を祀る神主と為せ。そうすればたたりも起こらず天下泰平になるだろう」とお告げした。

 崇神天皇はすぐに四方八方に急使を遣わしてオホタタネ子という人物を探させたところ、河内の美奴(ミヌ)村(チヌの県(あがた)の陶村(すえむら))に居ることが分かり、これを呼び寄せた。オホタタネ子の出自譚が次のように記されている。

 概要「河内の陶津耳(すえつみみ)の命の女の活玉依(いくたまより)姫の元に夜毎に男が通い、妊娠した。男の正体を見極める為に、麻糸を通した針を男の衣にさし、翌朝糸を辿って行くと、三輪山の神の社に留まった。この子が神の子オホタタネ子である」。
崇神天皇  「そなたは誰の子ですか?」
オホタタネ彦  「私は大物主とイクタマヨリ姫のひ孫、オホタタネ子と申します」。
(私は、オオモノヌシの神が、陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘の女活玉依毘売(イクタマヨリビメ)と結婚して生ませた子の櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命(イイガタスミノミコト)の子の建瓶槌命(タテミカズチノミコト)の子であります)
崇神天皇  「あなたを祀る。これで天下は靖まるでしょう」。

 天皇は大変歓こばれ、天下が平穏になり人びとが栄えるようにと詔を賜って、オホタネネ子の命を神主にして、御諸山(みもろやま、三輪山)に和魂(にぎたま)を鎮め、大物主の命を祀らせた。同じくイチシノナガオチを倭の大国魂神の神主とした。同時に神々の社を定め祀った。これにより疫病がやみ国中が安らかになった。ちなみに、出雲系神道では、オオモノヌシの神は出雲のオオクニヌシの神格の一部とされている。

 宇陀の墨坂神には赤色の楯と矛を奉り、大阪神には黒色の楯と矛を奉り、また、坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、もれ残すことなく幣帛(みてぐら)を献上し祀った。伊迦賀色許男(イカガシコヲの命)に告げて多くの平たい土器を作らせ、天神地祇之社(あまつかみくにつかみのやしろ)を定めて奉納させた。宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ)に赤色のを祭った。大坂神おほさかのかみ)に黒色のとを祭った。坂の尾根の神や河の瀬の神にも、ことごとくれることなく幣帛(みてぐら)奉納した。崇神天皇が、大物主神を指して「ヤマトを造成された神」と讃えたところ疫病がすっかり鎮まり五穀豊穣し百姓賑わった。

 第10代崇神天皇の時代。大和国には天災や疫病が大流行。 この不幸な現象の原因を示す重大なイベントが起きる。なんと天皇の夢に大物主が登場。「この混乱の原因は私である。大田田根子という男に私のお祀り事をさせなさい」と告げる。出雲の神(大物主)を三輪山にお祀りしたことで鎮まった。
 オホタタネネ子=意富多々泥古、太田田根子。オオミワノオオカミ=意富美和大神。イチシノナガオチ=。イクタマヨリ姫=。
 崇神天皇5年に疫病が大流行し、多くの民が死亡した。同8年(紀元前90年)、勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせ須佐之男神を祀らせ給うたところ、疫病は途絶え五穀は豊穣となった。これが方違神社創祀の起源とされている。
(私論.私見)
 「三輪山の大物主神祀り譚」は、崇神天皇の御世に、河内ー出雲王朝系の大物主と大国主を復権させ、大物主を三輪山に、大国主を倭の大国魂神宮に祀ったことを伝えている。出雲王朝の隠然とした影響力を暗喩していると悟らせていただく。

【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】
 崇神天皇の御世、出雲の神宝を献上させている。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
 崇神天皇は、アマノヒナ鳥の命が高天原より持ち来った神宝を、出雲大神の宮に蔵さんとして、ニギハヤヒの命の末裔のタケモロズミを遣わして献上させようとした。これに対し、出雲大神の神宝を司っていた出雲臣の遠祖の出雲フルネは、筑紫の国に出向いて会わなかった。崇神天皇は常陸から中臣タケカシマを呼び寄せ、出雲説得を命じた。タケカシマは海路、神門王国に到着したが、国主フルネは対馬国に出掛けていて留守だった。タケカシマはフルネの弟イヒイリネとウマシカラヒサを説得し、イヒイリネは皇命を承りて出雲の神宝を献上した。これを知った出雲フルネは、「なぜ私が帰ってくるまでの後数日を待たず、云われるままに神宝を献上したのか」となじり、弟を殺した。こウマシカラヒサ親子は東出雲の大和陣営に逃げ込んだ。これを知った崇神天皇は、吉備津彦とタケヌナカハワケを遣わして、出雲フルネを誅殺し出雲大神の神宝を取り上げた。これにより、出雲臣等は暫くの間、出雲大神を祀ることができなくなった。
 日本書紀によると第10代崇神天皇の時代、「出雲大社には高天原から下った神宝が保管されているはずだ。それが見てみたい」と天皇が仰るので、使者が派遣された。当時、出雲大社の祭祀を務めていたのは第11代宮司の出雲振根(いずものふるね)。しかし彼は留守をしており、弟の飯入根(いいいりね)が応対し、独断で神宝を天皇に献上してしまった。帰ってきた振根は激怒し、弟をだまし討ちの末、切り殺す。この事件が朝廷に伝わり、結局は振根も処刑されてしまう。その後しばらく出雲大社のお祀り事は止まってしまった。すると異変が起こる。丹波の国に住んでいる幼子が奇妙な歌を歌っているという。その内容はとても子供の言葉とは思えない、神がかったものだった。この時に子供が歌っていた内容には、「出雲の人が祀っていた鏡~」という言葉が含まれており、この噂を聞きつけた天皇は鏡をお祀りするようになった。
 アマノヒナ鳥の命=。タケモロズミ=武諸隅。出雲フルネ=振根。ヒリイイネ=飯入根。アケヌナカハワケ=武ヌナ河別。

 後日談が次のように記されている。
 丹波の氷上のヒカトベの子に神懸かりありて、出雲大神を祀らぬ様をなじった。このことを、ヒカトベが皇太子のイクノ尊こ奏上した。出雲大神の祟りを恐れ、出雲臣に再び出雲大を祀らせることになった。
 ヒカトベ=氷香戸辺。イクノ尊=活目尊。
(私論.私見)
 出雲大神が祀られぬようになった経緯と再び祀られるようになった経緯が伝えられている。

【崇神天皇の御世、全国征伐譚】
 崇神天皇は、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。旧出雲王朝勢力を抱き込み全国平定に乗り出し成功した。次のように伝えている。これを仮に「全国征伐譚」と命名する。

 崇神天皇10年、崇神天皇の御世、大和朝廷の全国征伐は続いた。大毘古(オホビコ)の命(大彦命)が高志道(コシノミチ、北陸)を平定した。その子の建沼河別(タケヌナカハワケ)の命(武渟川別)が東の方十二道(ひむかしのかたとをあまりふたみち、東海)を平定した。吉備津彦を西海に、日子坐ヒコイマス)のミコ(丹波道主命)が丹波の国の玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を退治した。

 オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。

【崇神天皇の御世、武埴安彦の変譚】
 崇神天皇即位10年後、「武埴安彦の変」が発生している。崇神天皇即位後に皇位を簒奪しようとして起こした反乱である。これを仮に「武埴安彦の変譚」と命名する。
 崇神天皇十年の或る時、大彦命が、山城国にいる異母兄の建波邇安(タケハニヤス)のミコ(武埴安彦、8代目天皇の孝元天皇の皇子)が謀反の野心があることを嗅ぎつけた。武埴安彦は山背国(山城)から、その妻吾田媛(あた姫)は大坂から都を襲おうとした。崇神天皇は、倭迹迹日百襲媛の予言によって、武埴安彦らの叛意を察知し、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り吾田媛勢を迎え撃った。オオビコがヒコクニブクの命(彦国茸、和珥氏の祖)をつれて山城の和珂羅河(わからがわ)に向かい、武埴安彦に戦いを挑んだ。よってこの川を挑み川(泉河)と呼ぶようになったと 記紀は記している。武埴安彦の軍は彦国葺の軍に破れた。その直後、倭迹迹日百襲媛は事故によって急死している。こうして、崇神天皇の御世の天下は太平になり、国民は富み栄えた。
 崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子(廿七)壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女、歌之曰。一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女、歌之曰〉瀰磨紀異利寐胡播揶。飫迺餓*鳥。志斉務苔。農殊末句志羅珥。比売那素寐殊望。(みまきいりびこはや おのがをを しせむと ぬすまくしらに ひめなそびすも) 一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑*。許呂佐務苔。須羅句*烏志羅珥。比売那素寐須望。(おほきとよりうかかひて ころさむと すらくをしらに ひめなそびすも) 於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辞。対曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌、忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聡明叡智。能識未然。乃知其歌怪。言于天皇。是武埴安彦将謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密来之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭国之物実。乃反之。〈物実。此云望能志呂〉是以知有事焉。非早図必後之。於是更留諸将軍而議之。未幾時。武埴安彦与妻吾田媛。謀反逆、興師忽至。各分道、而夫従山背。婦従大坂。共入、欲襲帝京。時天皇遣五十狭芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂、皆大破之。殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦与和珥臣遠祖彦国葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮、鎮坐於和珥武〓坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚、而〓〓草木。因以号其山曰那羅山。〈〓〓。此云布瀰那羅須。〉更避那羅山。而進、到輪韓河。与埴安彦。挟河屯之。各相挑焉。故時人改号其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之、問彦国葺曰。何由矣、汝興師来耶。対曰。汝逆天無道。欲傾王室。故挙義兵、欲討汝逆。是天皇之命也。於是各争先射。武埴安彦先射彦国葺。不得中。後彦国葺射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退。則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故号其処曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得免。叩頭曰、我君。故時人号其脱甲処曰伽和羅。褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。又号叩頭之処曰我君。〈叩頭。此云迺務。〉是後。倭迹迹日百襲姫命為大物主神之妻。然其神常昼不見、而夜来矣。倭迹迹姫命語夫曰。君常昼不見者。分明不得視其尊顔。願暫留之。明旦仰欲覲美麗之威儀。大神対曰。言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。爰倭迹迹姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥。遂有美麗小蛇。其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大神有恥。忽化人形。謂其妻曰。汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。仍践大虚登于御諸山。爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居。〈 急居。此云菟岐于。〉則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人号其墓。謂箸墓也。是墓者日也人作。夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓。人民相踵。以手遞伝而運焉。時人歌之曰。@飫朋佐介珥。菟芸迺煩例屡。伊辞務邏〓[土+烏]。多誤辞珥固佐縻。固辞介*務介茂。(おほさかに つぎのぼれる いしむらを たごしにこさば こしかてむかも)

 崇神天皇十年(癸巳前八八)十月乙卯朔冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騒動未止。其四道将軍等今急発之。
 オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。
 武埴安彦命の反乱

 皇紀573年=崇神10年(前88年)、先々帝・孝元天皇の皇子で叔父の武埴安彦命が、妻の吾田媛(あたひめ)と反乱を起こす。御間城入彦命の即位に当たって武埴安彦命はかなりの不満を残した状況だったと推定される。しかし崇神天皇即位から9年後であるから、即位に対する不満というよりも、その後皇位が欲しくなっての反乱と考えるべきかとも思われる。しかも四道将軍が出征した直後に反乱を起こしているので、軍事空白を狙った反乱であった。武埴安彦命は孝元天皇の皇子で、先帝・開化天皇の異母弟であり、崇神天皇にとっては叔父に当たる。吾田媛は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)に、武埴安彦命は大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと)に討ち取られた。なお、彦国葺命は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の3世孫(4世孫という説もある)で、和邇臣(わにのおみ、和珥氏)の遠祖である。御間城入彦命は即位される三十三年前に立太子しておられるので、先帝の開化天皇ははっきりと早くから後嗣を決めておられる。しかも謀反を起こした武埴安彦命は兄弟や一族に討たれているので、崇神天皇即位については、大方の意思は統一されていたといえる。それに伯父の大彦命は四道将軍の一人として北陸道に、異母弟・彦坐王(ほこいますのみこと)の王子・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は丹波道に派遣され、いずれも崇神天皇を補佐しておられる。


【崇神天皇の二皇子に下されし勅】
 2019.4.15日、「崇神天皇~二皇子に下されし勅」参照。
 
 前50(崇神48)年(皇紀611).1.10日、崇神天皇が「二皇子に下されし勅」を発せられる。皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、垂仁天皇)の異母兄弟をお呼びになり、「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」と言われる。二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る。夜明けに兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる。天皇はこれらの夢を占い、「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」と詔された。この夢占いとは別に、活目入彦命の母は皇后・御間城姫命(みまきひめのみこと)であり、豊城入彦命の母は妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であるから、母の身分を考えたら、崇神天皇の特別な寵愛でもない限り、活目入彦命の即位が決まっていたのではないかとも思われる。

 4.19日、弟の活目入彦命を立てて皇太子とされ、豊城入彦命には東国を治めさせた。東国を治められて、上毛野君や下毛野君の始祖となり、その末裔が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を治められた。

 2019年04月15日公開、吉重丈夫「第11代・垂仁天皇と狭穂彦王の叛乱


【崇神天皇の崩御譚】
 紀元前30(皇紀631、崇神68).12.5日、別名をミマキイリ彦天皇と云われる第10代の崇神天皇が崩御される(119歳?、168歳)。崩御後、山辺の道の勾(まがり)の岡のほとりに御稜を建てた。その治世をたたえて、「御肇國天皇」(「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」)と諡名(おくりな)されている。

11代、垂仁天皇の御世

【垂仁天皇譚その1、血筋血統】
 崇神天皇が配下の武将オオ彦(大彦)の命の娘・御間城姫命(みまきひめのみこと)を娶ってもうけた子の一人がイクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅)の命であり、第11代垂仁天皇である。紀元前69(皇紀592年、崇神29)年.1.1日、崇神天皇の第三皇子として磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で誕生された。

 紀元前46(皇紀615、崇神52)年.4.19日、活目入彦命19歳のとき、立太子される。先帝・崇神天皇の崩御の20年前、多数おられた皇子の中から豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦命をお呼びになり、夢占いをして後嗣を決めた。誰も皇位を争うような状況下にはなかった。異母弟に八坂入彦命(やさかのいりひこのみこと)がおられ、その女王・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)は次の景行天皇の妃、成務天皇の母となられる。従ってこの異母弟・八坂入彦命は後の成務天皇の外祖父である。

 オオビコとその子のタケヌノカワワケはそれぞれ、越しの国とその東の国々を平定するために派遣され、最終的に相津(会津と思われる)まで進出している。

 イクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅)の命はヒバスヒメを皇后としてオホタラシヒコオシロワケを生んだ。他の妃や御子も多数いたがこの御子が次の景行天皇になる。

【垂仁天皇譚その2、即位】
 紀元前29(皇紀632).1.2日、活目入彦命41歳のとき、崇神天皇崩御を受け、活目入彦命が即位する。同母弟に倭彦命(やまとひこのみこと)と皇位を争った記録はない。翌2年10月、宮を纒向珠城宮(まきむくたまきのみや、奈良県桜井市)に置いた。

 紀元前28(皇紀633、垂仁2).2.9日、祖父・開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますおう)の女王で従妹(皇族)の狭穂媛(さほひめ)を皇后に立てられた。 

 紀元前26(皇紀635)年、垂仁天皇(在位前29年~70年)の御代に伊勢神宮が創建された。皇女倭姫が、神の導きのまま、伊勢国の五十鈴川の川上に建てたと伝えられている。天皇に伝えられる三種の神器のうちの八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀る。三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指す。つまり「八咫鏡」「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」(別名「草薙剣」)をさす。  
 日本書記は、垂仁天皇の治世25年に5大夫を登場させている。5大夫とは阿倍臣、和邇臣、中臣連、物部連、大伴連。

【サホビコ(沙本毘古、狭穂彦)王の反乱譚】
 「サホビコ(沙本毘古)の反乱」が次のように記されている。
 垂仁天皇がサホ姫を妃としていた頃、サホ姫の兄サホ彦が、妹に「私とお前で天下を取ろう」と相談を持ちかけた。サホビコは丹波(丹後)将軍となった崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマス(日子座)が沙本のオオクラミトメ(大闇見戸賣)ともうけた皇子である。これは天皇の即位から4年後のことなので、皇位を簒奪しようとする反乱であった。サホ彦は、サホ姫に小刀を渡して、天皇が寝ている時に刺せと命じた。或る日、垂仁天皇はサホ姫の膝を枕に眠っていた。サホ姫は小刀を振り上げ振り上げしたが、刺すことができなかった。涙が天皇の顔に落ちた。天皇が目を開け、「おかしな夢を見た。にわか雨が降ってきて、私の顔を濡らした。気がつくと、まだら模様のヘビが首に巻き付いている。これはどういう意味だろう」と問いかけた。妃は隠しきれないと覚って一切を告白した。

 垂仁天皇は、倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた 崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命の子)に命じて、直ちに軍を派遣してサホ彦の館を襲った。狭穂彦も稲を積んで城塞とし防戦する。八綱田はこれを包囲し、「皇后と皇子を引き渡せ」と迫るが応じないので城塞に火を掛ける。サホ姫は密かにサホ彦の館に入った。この時、サホ姫は身ごもっており、攻めあぐねているうちに出産した。皇后は生後間もない皇子を抱いて出てこられ、「私と皇子がいれば兄を許してもらえると思ったが、許されないのであれば私共はここで自害します。死んでも決して天皇のご恩は忘れません。私のしていた後宮のお役目は、丹波国にいる弟・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと 開化天皇の曾孫)の娘たち五人(姪)を召し入れて、補充してお使い下さい」と言われる。垂仁天皇は、サホ姫と御子の奪還計画を立て、突撃隊を突入させた。御子を連れ出すことは出来たが、狭穂彦と皇后・狭穂媛は自害した。

 御子の名前は、ホムラワケと付けられ乳母がつけられた。サホ姫亡き後、垂仁天皇は、丹波のヒコタタスミチウシの4人の娘(日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あさみにいりひめ)、竹野媛(たかのひめ))を呼び寄せ世話をさせた。

【ホムチワケノミコ譚】
 垂仁天皇と皇后・狭穂姫の間に生まれた皇子・ホムチワケノミコの神話譚。
 垂仁天皇の皇子でサホ姫から生まれたホムチワケノミコは、ヒゲが胸元に届くような年齢になっても言葉を話さなかった。或る日、御子は白鳥の声を聞き、「あぎ」と片言の言葉を発した。白鳥を見たら御子はもっとしゃべるかもしれないと思い、その白鳥を捕らえることにした。天皇の命を受けたヤマノベノオホタカはその白鳥を追いかけ、紀の国、播磨の国、因幡の国、丹波の国、但馬の国、近江の国、美濃の国、尾張の国、信濃の国と国々をわたり、ついに越の国でわなをしかけ、白鳥を捕らえた。白鳥が献上されたが、御子はしゃべらなかった。

 心を痛めた天皇は、寝ていたときに、夢でお告げをうけた。「私の神殿を、天皇の宮殿のように立派に造ったならば、御子は必ず言葉をしゃべるだろう」。天皇は、このお告げを伝えた神が誰なのか、フトマニ(太占)で占った。「その神は、出雲の大神でございます」。「それでは、さっそく御子を出雲大社に向かわせよう。ところで、誰を御子に従わせて遣わしたらよいのであろう。占ってくれぬか」。占った結果、アケタツノミコが当たった。そこで、アケタツノミコに誓約(うけい)をさせた。「この大神を拝むことで、本当にしるしがあるならば、鷺巣池の木に住む鷺よ、この誓約によって落ちよ!」。バサッ。すると、誓約をうけたその鷺は池に落ちて死んでしまった。「誓約によって生きよ!」。バササッ。すると再び鷺は生き返った。今度は甘橿丘(あまかしのおか)の崎に生えている葉の広い樫の木を、誓約によって枯らし、また生き返らせた。

 こうして、アケタツノミコが、弟のウナカミノミコとともに、御子を伴い出雲に向かった。どのルートを通って出雲の国に行く方がよいか話し合った。奈良山越えの道、大阪越えの道、紀伊越えの道のうち、木の国(和歌山県)の紀伊の道から出雲の国を目指した。出雲に着いて、大神の参拝を終えたホムチワケノミコを出迎えようと、キヒサツミは、青葉の茂った山のような飾り物の山を作ってその川下に立て、食事を奉ろうとした。この時、ホムチワケノミコが、「この川下に青葉の山のように見えるのは、山のように見えて山ではない。もしかしたら、出雲のアシハラシコヲノ大神を敬い祭っている神主の祭場ではないか?」としゃべった。御子が言葉を話したことに喜んだ王たちは、すぐに早馬の急使を出し、天皇に伝えた。

 その後、御子は、ヒナガ姫と契りを結ばれた。寝床でふと、姫を覗き見ると、その少女の正体はへびだった。恐れをなした御子はすぐに逃げ出した。「お待ちください!」。正体を見られたヒナガ姫は、海上を照らして船で追いかけてくる。御子はさらに必死に逃げ、なんとか大和の国に逃げ帰ることができた。

 一緒に逃げ帰ったアケタツノミコは天皇に復命した。「出雲の大神を参拝されたので、御子はしゃべれるようになりました。そこで、我々も帰ってきました」。喜んだ天皇は、すぐにウナカミノミコを出雲に戻して、神殿を造らせた。天皇は、この御子にちなんで、鳥取部(ととりべ)、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部(ほむじべ)、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めた。

 第11代垂仁天皇の時代。垂仁天皇の御子が、言葉が話せなかった。ある夜、垂仁天皇の夢枕に神様が託宣をお告げになった。「我が宮を天皇の宮殿のように立派にしたならば、御子は話せるようになる」。垂仁天皇は慌ててこの神がどなたなのかを占いによってお調べになられたところ、これは出雲大神の祟りであると判明した。垂仁天皇は御子である本牟智和気(ホムチワケ)を出雲へ向かわせた。出雲に到着した本牟智和気は現地のカミ、伎比佐加美高日子にもてなされる。食事を用意していたその時!「この斐伊川の川下にある青葉の山は、山のように見えて山では無い」、「もしかすると出雲の石硐(いわくま)の曽の宮に鎮座する大国主命の祭場だろうか?」。大国主命の御霊を感じた本牟智和気は突然言葉を発した!。御子が言葉を発したという知らせは、大至急で垂仁天皇に伝えられた。天皇は家臣に「出雲大神の宮を立派に造営するように」とお命じになられた。
 サホ姫=狭穂姫。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。
(私論.私見)
 「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。ホムチワケノミコ譚を通じて、神の宮(出雲大社)建立の経緯が伝えられている。

 垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして富士山麓の開拓事業に着手している。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火していた。富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えている。 

 垂仁天皇の在位99年、宝算140歳。

【大足彦忍代別命の立太子】
 皇紀661年=垂仁30年(1年)1月6日、天皇は皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)に「お前達、何が欲しいか言ってみよ」と言われた。兄は「弓矢が欲しいです」と言われ、弟は「天皇の御位が欲しいです」と申し上げる。天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と詔され、五十瓊敷入彦命には弓矢を賜り、大足彦忍代別命(景行天皇)には「お前は必ず我が位を継げ」と仰せられた。二人はどちらも丹波道主命の女・日葉酢媛命の皇子たちである。天皇としてはどちらを後継にしようかと迷われ、口頭試問によって決められたようである。先帝・崇神天皇は二人の皇子を呼んで夢占いをさせられたが、垂仁天皇は何が欲しいかを直接尋ねられ、その答えによって後嗣を決めておられる。いずれも天意を伺う祈りが込められている。他にも皇子は多数おられたが、この二人を選んで、その上で面接して後嗣を決められた。垂仁天皇の意向で早い時期に選んでおられる。 垂仁天皇が即位されてから五年後に狭穂彦と皇后・狭穂媛が皇位簒奪を目論んでの反乱を起こしたが、その後は問題は起きていない。皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、「天皇の御位が欲しいです」と答えられた第三皇子の大足彦忍代別命(21歳)を立てて皇太子とされる。しかし、口頭試問から7年が経過しているので、その間天皇は二人の様子を見ておられたものと思われる。皇紀730年=垂仁99年(70年)秋7月14日、天皇は纒向にて在位99年、140歳で崩御された。




(私論.私見)