崇神天皇系大和王朝建国神話考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.30日
(れんだいこのショートメッセージ) |
古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年、倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇、神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。 2006.12.14日 れんだいこ拝 |
10代、崇神天皇の御世 |
【崇神天皇譚その1、血筋血統】 |
崇神天皇の生没年は詳(つまびら)かではない。 |
前148(開化10)年(皇紀513年)、御間城入彦(みまきいりひこ)の命が開化天皇の第二皇子として誕生された。母は開化天皇の皇后・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。皇后・伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命(おおへそきのみこと)の娘。 前130(開化28)年(皇紀531年).1.5日、第二皇子・御間城入彦命が19歳の時、先帝・開化天皇が崩御される32年前、立太子。 |
御間城入彦(みまきいりひこ)の命はオホビコの娘のミマツヒメを妻として、イクメイリビコイサチなどの12人の御子を得た。 |
【崇神天皇譚その2、即位】 |
前98(開化60)年(皇紀563年)4.9日、先帝・開化天皇崩御。先帝・開化天皇が崩御されてから次の御間城入彦命が即位されるまでおよそ8ヶ月。御間城入彦命には異母(丹波竹野媛)兄の彦湯産隅命(ほこゆむすみのみこと)がおり、若干調整期間があったとも推測される。しかし結局は、先帝・開化天皇の皇后の皇子・御間城入彦命が即位されることになった。 翌前97年(崇神元)(皇紀564年).1.13日、皇太子・御間城入彦命が崇神天皇として52歳で即位される。 2.16日、孝元天皇の第一皇子・大彦命(同母兄)の女王である御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされる。大彦命は孝元天皇の第一皇子で父帝・開化天皇の同母兄だから皇后は従姉に当たる。二人の間には活目(いくめ)命(後の垂仁天皇)ら六人の子を得た。 前95(崇神3)年(皇紀566年)年秋9月、都を大和国(奈良県桜井市)の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)(古事記では師木の水垣)に遷された。宮は三輪山の南西(現在の桜井市金屋付近)で、深々とした森に囲まれた志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社境内に宮殿跡を示す石碑が建つ。その範囲は広く、天理教敷島大教会と北隣の三輪小学校の敷地辺りまで及んでいると推定されている。 |
【崇神天皇の御世の二神対立譚】 | |
崇神天皇が即位して間もなく国内に疫病が流行り、それまで皇居内に合祀していた天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の神威を畏れて二神を皇居の外に遷し且つ別々に祀ることにした。天照大神は崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいひめのみこと、初代斎王)に託し、倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)(現在の檜原神社)に祀らせた。その後、天照大神は、垂仁天皇の御代にその皇女の倭姫を伴って、聖地を探し求めて落ち着いたところが現在の伊勢神宮である。檜原神社は、天照大神が伊勢の地へ遷った後も神績を尊崇し、引き続き大神を祀り、豊鍬入姫命も共に祀っている。 倭大国魂神は、崇神天皇の母親違いの皇女のヌ名城入姫命(ぬなくいりひめのみこと)に祭祀を託されたが、髪が抜け痩せ細り祀ることができなくなった。崇神天皇が懊悩していたところ、大物主神が夢に現れ「私の子孫の大田田根子に私を祀らせるべし」と託宣した。崇神天皇が大田田根子を探し出し、大神神社の祭主として大物主神を祀らせ、三輪山をご神体とする大神神社が再生した。市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすると疫病はようやく治まったという。 |
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「崇神天皇の御世の二神対立譚」が次のように記されている。
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「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。 |
【三輪山の大物主神祭祀譚】 | ||||||||||||||
崇神天皇は3人の后を持つ。后の一は、木(紀)国造のアラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)。トヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女を生む。后の二は、尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)。ヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女を生む。后の三は、オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)。イクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生む。 | ||||||||||||||
崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。これを仮に「三輪山の大物主神祭祀譚」と命名する。
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【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】 | |||||||
崇神天皇の御世、出雲の神宝を献上させている。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
後日談が次のように記されている。
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【崇神天皇の御世、全国征伐譚】 | |
崇神天皇は、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。旧出雲王朝勢力を抱き込み全国平定に乗り出し成功した。次のように伝えている。これを仮に「全国征伐譚」と命名する。
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オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。 |
【崇神天皇の御世、武埴安彦の変譚】 | ||
崇神天皇即位10年後、「武埴安彦の変」が発生している。崇神天皇即位後に皇位を簒奪しようとして起こした反乱である。これを仮に「武埴安彦の変譚」と命名する。
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オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。 | ||
武埴安彦命の反乱
皇紀573年=崇神10年(前88年)、先々帝・孝元天皇の皇子で叔父の武埴安彦命が、妻の吾田媛(あたひめ)と反乱を起こす。御間城入彦命の即位に当たって武埴安彦命はかなりの不満を残した状況だったと推定される。しかし崇神天皇即位から9年後であるから、即位に対する不満というよりも、その後皇位が欲しくなっての反乱と考えるべきかとも思われる。しかも四道将軍が出征した直後に反乱を起こしているので、軍事空白を狙った反乱であった。武埴安彦命は孝元天皇の皇子で、先帝・開化天皇の異母弟であり、崇神天皇にとっては叔父に当たる。吾田媛は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)に、武埴安彦命は大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと)に討ち取られた。なお、彦国葺命は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の3世孫(4世孫という説もある)で、和邇臣(わにのおみ、和珥氏)の遠祖である。御間城入彦命は即位される三十三年前に立太子しておられるので、先帝の開化天皇ははっきりと早くから後嗣を決めておられる。しかも謀反を起こした武埴安彦命は兄弟や一族に討たれているので、崇神天皇即位については、大方の意思は統一されていたといえる。それに伯父の大彦命は四道将軍の一人として北陸道に、異母弟・彦坐王(ほこいますのみこと)の王子・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は丹波道に派遣され、いずれも崇神天皇を補佐しておられる。 |
【崇神天皇の二皇子に下されし勅】 |
前50(崇神48)年(皇紀611).1.10日、崇神天皇が「二皇子に下されし勅」を発せられる。皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、垂仁天皇)の異母兄弟をお呼びになり、「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」と言われる。二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る。夜明けに兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる。天皇はこれらの夢を占い、「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」と詔された。この夢占いとは別に、活目入彦命の母は皇后・御間城姫命(みまきひめのみこと)であり、豊城入彦命の母は妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であるから、母の身分を考えたら、崇神天皇の特別な寵愛でもない限り、活目入彦命の即位が決まっていたのではないかとも思われる。 4.19日、弟の活目入彦命を立てて皇太子とされ、豊城入彦命には東国を治めさせた。東国を治められて、上毛野君や下毛野君の始祖となり、その末裔が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を治められた。 2019年04月15日公開、吉重丈夫「第11代・垂仁天皇と狭穂彦王の叛乱」 |
【崇神天皇の崩御譚】 |
紀元前30(皇紀631、崇神68).12.5日、別名をミマキイリ彦天皇と云われる第10代の崇神天皇が崩御される(119歳?、168歳)。崩御後、山辺の道の勾(まがり)の岡のほとりに御稜を建てた。その治世をたたえて、「御肇國天皇」(「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」)と諡名(おくりな)されている。 |
11代、垂仁天皇の御世 |
【垂仁天皇譚その1、血筋血統】 |
崇神天皇が配下の武将オオ彦(大彦)の命の娘・御間城姫命(みまきひめのみこと)を娶ってもうけた子の一人がイクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅)の命であり、第11代垂仁天皇である。紀元前69(皇紀592年、崇神29)年.1.1日、崇神天皇の第三皇子として磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で誕生された。 紀元前46(皇紀615、崇神52)年.4.19日、活目入彦命19歳のとき、立太子される。先帝・崇神天皇の崩御の20年前、多数おられた皇子の中から豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦命をお呼びになり、夢占いをして後嗣を決めた。誰も皇位を争うような状況下にはなかった。異母弟に八坂入彦命(やさかのいりひこのみこと)がおられ、その女王・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)は次の景行天皇の妃、成務天皇の母となられる。従ってこの異母弟・八坂入彦命は後の成務天皇の外祖父である。 オオビコとその子のタケヌノカワワケはそれぞれ、越しの国とその東の国々を平定するために派遣され、最終的に相津(会津と思われる)まで進出している。 イクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅)の命はヒバスヒメを皇后としてオホタラシヒコオシロワケを生んだ。他の妃や御子も多数いたがこの御子が次の景行天皇になる。 |
【垂仁天皇譚その2、即位】 |
紀元前29(皇紀632).1.2日、活目入彦命41歳のとき、崇神天皇崩御を受け、活目入彦命が即位する。同母弟に倭彦命(やまとひこのみこと)と皇位を争った記録はない。翌2年10月、宮を纒向珠城宮(まきむくたまきのみや、奈良県桜井市)に置いた。 紀元前28(皇紀633、垂仁2).2.9日、祖父・開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますおう)の女王で従妹(皇族)の狭穂媛(さほひめ)を皇后に立てられた。 紀元前26(皇紀635)年、垂仁天皇(在位前29年~70年)の御代に伊勢神宮が創建された。皇女倭姫が、神の導きのまま、伊勢国の五十鈴川の川上に建てたと伝えられている。天皇に伝えられる三種の神器のうちの八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀る。三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指す。つまり「八咫鏡」「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」(別名「草薙剣」)をさす。 |
日本書記は、垂仁天皇の治世25年に5大夫を登場させている。5大夫とは阿倍臣、和邇臣、中臣連、物部連、大伴連。 |
【サホビコ(沙本毘古、狭穂彦)王の反乱譚】 | |
「サホビコ(沙本毘古)の反乱」が次のように記されている。
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【ホムチワケノミコ譚】 | ||
垂仁天皇と皇后・狭穂姫の間に生まれた皇子・ホムチワケノミコの神話譚。
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サホ姫=狭穂姫。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。 | ||
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「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。ホムチワケノミコ譚を通じて、神の宮(出雲大社)建立の経緯が伝えられている。 |
垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして富士山麓の開拓事業に着手している。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火していた。富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えている。 垂仁天皇の在位99年、宝算140歳。 |
【大足彦忍代別命の立太子】 |
皇紀661年=垂仁30年(1年)1月6日、天皇は皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)に「お前達、何が欲しいか言ってみよ」と言われた。兄は「弓矢が欲しいです」と言われ、弟は「天皇の御位が欲しいです」と申し上げる。天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と詔され、五十瓊敷入彦命には弓矢を賜り、大足彦忍代別命(景行天皇)には「お前は必ず我が位を継げ」と仰せられた。二人はどちらも丹波道主命の女・日葉酢媛命の皇子たちである。天皇としてはどちらを後継にしようかと迷われ、口頭試問によって決められたようである。先帝・崇神天皇は二人の皇子を呼んで夢占いをさせられたが、垂仁天皇は何が欲しいかを直接尋ねられ、その答えによって後嗣を決めておられる。いずれも天意を伺う祈りが込められている。他にも皇子は多数おられたが、この二人を選んで、その上で面接して後嗣を決められた。垂仁天皇の意向で早い時期に選んでおられる。 垂仁天皇が即位されてから五年後に狭穂彦と皇后・狭穂媛が皇位簒奪を目論んでの反乱を起こしたが、その後は問題は起きていない。皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、「天皇の御位が欲しいです」と答えられた第三皇子の大足彦忍代別命(21歳)を立てて皇太子とされる。しかし、口頭試問から7年が経過しているので、その間天皇は二人の様子を見ておられたものと思われる。皇紀730年=垂仁99年(70年)秋7月14日、天皇は纒向にて在位99年、140歳で崩御された。 |
(私論.私見)