大和王朝建国神話考

 (最新見直し2010.08.03日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。

 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


2代、綏靖天皇の御世

【神武天皇崩御、2代、綏靖天皇が後継譚】
 神武天皇崩御後内紛が起こり、イスケヨリ姫から生まれた三人の息子の末弟のカムヌナカハミミの命が後継した事を伝えている。
 神武天皇が崩御した。神武天皇には、日向にいたときの妻アヒラヒメの子タギシ美美(ミミ)の命と、カシハラノ宮で即位した際に皇后にしたイスケヨリ姫から生まれた三人の息子がいた。家督騒動が起こった。長兄タギシ美美が家督権を主張し、先の皇后イスケヨリ姫を妻にし后にすると宣言した。タギシ美美は、イスケヨリ姫の三人の息子たちを殺そうとした。

 イスケヨリ姫がタギシ美美の命の陰謀を伝える秘密の手紙を届けてきた。歌が2首入っていた。
 「狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」。
 (さい川よ、雲が立ち上がり、畝傍山では今にも木の葉ざわめき風が吹こうとしておりますよ)
 「畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる」。
 (畝傍山は昼は雲と一つになってじっとしていますが、夕方になると風が吹くでせう。木の葉がざわめいております)

 息子たちはタギシ美美の悪巧みを知り、逆に兵を集め、先手を取って義理の兄タギシ美美を殺しに向かった。弟の神(カム)ヌナカハ耳の命が「兄上、あなた様が武器を持ってタギシ美美を討ってください」と述べ、兄の神ヤイ耳の命が討とうとしたが、いざとなると手足が震えて矢を放てなかった。この様子を見た神ヌナカハ耳の命が兄の武器を貰い受けタギシ美美を殺した。これにより建(たけ)ヌナカハ耳の命とも呼ばれるようになった。兄は弟に皇位を譲り言った。「弟よ、私は敵を殺すことができなかった。しかし、お前はそれができた。私は兄であるが上に立つべきではない。お前が天皇になって天下を治めなさい。私はあなたを助けて祭事をつかさどる者となってお仕えいたします」。

 こうして、神ヌナカハミミが第2代スイゼイ(綏靖)天皇になった。綏靖天皇は、葛城の高丘宮(たかおかのみや)に遷都し天下を治めた。正后として、姫タタラ五十鈴姫の命の妹のイスズヨリ姫(五十鈴依姫)を迎えた。イスズヨリ姫は、事代主の命の少女(おとむすめ)と云われている。(し木の県主(あがたぬし)の祖である河俣姫を娶った、ともある) 御子はし木津彦玉手見の命。スイゼイ天皇の治世は33年、病気で崩御された。日本書紀は享年84歳と記す。大和の衝田(つきだ)の丘の上の桃花鳥田丘上陵()に埋葬された。
 タギシミミの尊=手研耳尊、当芸志美美。カムヌナカハミミの尊=神渟名川耳尊、神沼河耳尊。カムヤイミミの尊=神八井耳尊
(私論.私見)
 「神武天皇崩御、綏靖天皇後継譚」は、天孫族と出雲王朝系の血筋を分け持つ綏靖天皇が後継したことを伝えている。
 綏靖(すいぜい)天皇のおくり名(和風諡号)はカムヌナカワミミ。古事記は神沼河耳命、日本書紀は神渟名川耳尊と記す。

2019年03月04日公開、吉重丈夫「綏靖天皇(第2代)と安寧天皇(第3代)」。  

 第2代 綏靖天皇(世系7、即位52歳、在位33年、宝算84歳)

 神武天皇が東征して大和に入られてから後、皇紀29年=神武29年(前632年)、神武天皇の第三皇子として誕生された神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)(古事記では神沼河耳命)で、母は事代主神の長女で、先帝・神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。神武天皇には、皇后との間に神八井耳命(かんやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと、日子八井命)、神渟名川耳命の3人の皇子がおられた。皇紀42年=神武42年(前619年)正月3日、末子の神渟名川耳命が14歳で立太子される。神渟名川耳命が立太子されてから34年後の皇紀76年=神武76年(前585年)3月、先帝・神武天皇が崩御される。
 

 手研耳命の反逆事件

 神武東征で日向から父の神日本磐余彦尊(かんやまといわれひことみこと、神武天皇)と一緒に上って来られた異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、先妻の皇子とはいえ、第一皇子の立場にあられ、父帝・神武天皇が異母弟の、しかも末弟の神渟名川耳命を皇太子とされたことに不満を抱かれた。手研耳命は先帝・神武天皇の皇后で、自身にとっては継母の媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)を正妃としておられた。ところが夫・手研耳命が異母弟の神渟名川耳命たち兄弟を亡き者にしようと謀っているので、母である媛蹈鞴五十鈴媛命は、この重大事を和歌に託して神渟名川耳命たちにお知らせになる。夫である手研耳命の策謀を皇子たちに密告されたのである。この陰謀を知らされた神八井耳命、彦八井命、神渟名川耳命の三兄弟は、片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝市・上牧町付近か)の大室に臥せっておられた手研耳命を襲い、これを誅された。兄の神八井耳命はこの時手足が震えて矢を射ることができず、弟の神渟名川耳命がその弓を取って手研耳命を射殺された。神八井耳命はこれを恥じて弟の神渟名川耳命に即位を願い、自らは神々の祀りを受け持たれる。神渟名川耳命はすでに皇太子であるから当然ともいえるが、この事件で末子の神渟名川耳命が第二代天皇に即位されることが確定した。手研耳命の皇后であり、神渟名川耳命の母である媛蹈鞴五十鈴媛命が手研耳命の反逆を密告するということで、この皇位継承に決定的役割を果たされたといえる。

 兄の神八井耳命は日本最古の皇別氏族・多臣(おおのおみ)の始祖である。多氏は後に「太氏」「大氏」「意富氏」などとも記される。また、九州の阿蘇氏、関東の千葉氏などの多くの皇別氏族の祖となられた。

 なお、皇別氏族とは皇族の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族をいう。他に「神別氏族」「諸蕃」があり、「神別氏族」は天津神・国津神の子孫で、神武天皇以前の神代に分かれたとされる氏族であり、「諸蕃」は支那大陸・朝鮮半島から渡来したと称する諸氏の末裔である。秦氏・漢氏・百済氏などが「諸蕃」に分類される。

  彦八井耳命(日子八井命)については日本書紀には記載がない。

 神渟名川耳命の即位に当たっては、先帝・神武天皇の崩御後に手研耳命の反逆事件があって3年遅れたが、神武天皇の定められた皇太子・神渟名川耳命が予定通り、皇紀80年=綏靖元年(前581年)正月8日即位された。都は大和国葛城高丘宮に置かれた。この手研耳命弑逆事件は初代から第2代への皇位継承に当たっての、悲劇の大事件であった。初代神武天皇から第2代綏靖天皇への皇位継承は決して平和裏での継承ではなかったのである。『古事記』『日本書紀』は、先の大戦以後、天皇、皇族を権威づけるために朝廷が拵えた架空の物語を綴った偽書であるということになっているが、初代から2代への極めて重要な皇位継承に当たっての記述で、この悲劇が語られている。

 皇紀81年=綏靖2年(前580年)春1月、事代主神の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を立てて皇后とされる。先代・神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の妹で叔母に当たる。皇紀104年=綏靖25年(前557年)春1月7日、皇子の磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと、21歳)を皇太子に立てられる。皇紀112年=綏靖33年(前549年)夏5月10日、ご不例(病)で崩御される。在位33年、宝算84歳であった。


3代、安寧天皇の御世

【安寧天皇譚】
 綏靖天皇とイスズヨリ姫の息子のアンネイ(安寧)天皇が第3代天皇として即位し、宮を片塩に遷し天下を治めた。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。后として、事代主神の孫の鴨王(かものきみ)の女(むすめ)「鴨君の女」(ヌナソコナカツヒメの命、ヌ名底仲媛命)を迎えた。してみれば初代の神武、二代の綏靖、三代の安寧まで出雲系の事代主の命の血族と縁戚関係に入ったことになり、大和王朝建国過程での出雲王朝との繋がりの深さが分かる。(河俣姫の兄である県主・波延(はえ)の娘・あくと姫を娶って、常根津彦伊呂泥(とこねつひこいろね)の命、大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命、し木津彦(しきつひこ)の命の御子をもうけた) 葛城山麓に都を定め治世38年で崩御した。日本書紀は享年57歳と記す。畝傍山の西南の御影井上陵(みほどのいのうえののみささぎ)に埋葬された。
 安寧(あんねい)天皇のおくり名(和風諡号)はシキツヒコタマテミ。古事記は師木津日子玉手見命、日本書紀は磯城津彦玉手看尊と記す。

 第3代・安寧天皇(世系8、即位29歳、在位38年、宝算67歳)

 皇紀84年=綏靖(すいぜい)5年(前577年)、先帝・綏靖天皇の皇子として誕生された磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと)である。母は先帝・綏靖天皇の皇后で事代主命(ことしろぬしのみこと)の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)で、初代神武天皇の皇后・媛蹈鞴五鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の妹である。皇紀104年=綏靖25年(前557年)1月7日、21歳で立太子された。皇紀112年=安寧元年(前549年)5月、父の綏靖天皇が崩御される。父帝・綏靖天皇の崩御を受け、同年7月9日、皇太子・磯城津彦玉手看命が29歳で安寧天皇として即位される。皇子は磯城津彦玉手看命だけで、この皇位継承には何らの問題もなかった。翌安寧2年、大和国片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや、奈良県大和高田市)に都を置かれた。皇紀115年=安寧3年(前546年)春1月5日、事代主命の孫・鴨王(かものきみ)の娘・渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)を立てて皇后とされる。第3代天皇の皇后もまた事代主命の系統である。事代主系が初代から3代続けて皇后となっておられる。皇紀123年=安寧11年(前538年)春1月1日、第二皇子の大日本彦耜友命(おおやまとひこすぎとものみこと)を立てて皇太子とされる。第一皇子に同母兄・息石耳命(おきそみみのみこと)がおられたが、第二皇子が立太子された。即位後11年にして早々に第二皇子・大日本彦耜友命を皇太子に立てておられるので、この立太子は天皇の明確な意思と見てよい。古事記には息石耳命については記載がなく、皇位継承で混乱した形跡はない。しかし、息石耳命には皇女・天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)がおられ、次代の懿徳(いとく)天皇の皇后となっておられる。もう一人の皇子で弟の磯城津彦命(しきつひこのみこと)は猪使連(いつかいのむらじ)の始祖となられた。皇紀150年=安寧38年(前511年)冬12月6日、在位38年にして、67歳で崩御される。


4代、懿徳天皇の御世

懿徳天皇譚】
 第四代懿徳天皇は安寧天皇の第二子の大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命。即位の翌年、宮を軽の地に遷し、これを曲峡宮(まがりおのみや)という。古事記には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」と記す。治世34年に崩御され、畝傍山の南山麓に埋葬された。
 懿徳(いとく)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトヒコスキトモ。古事記は大倭日子?友命、日本書紀は大日本彦耜友尊と記す。

5代、孝昭天皇の御世

孝昭天皇譚】
 第五代孝昭天皇は、即位の年に宮を掖上(わきがみ)に遷した。日本書紀はこの宮を池心宮(いけのこころのみや)、古事記は「葛城掖上宮」と記す。伝承によると掖上池心宮は「よもんばら」 あるいは「よもぎ原」という場所にあったとされる。治世83年で崩御され、掖上博多山上陵に埋葬された。日本書紀はその時期を治世38年目と記す。
 孝昭(こうしょう)天皇のおくり名(和風諡号)はミマツヒコカエシイネ。古事記は御真津日子訶恵志泥命、日本書紀は観松彦香殖稲尊と記す。

6代、孝安天皇の御世

孝安天皇譚】
 第六代孝安天皇は孝昭天皇の第2子である。即位の翌年に宮を室(むろ)に地に遷した。これを室秋津島宮(むろのあきつしまみや)という。玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に埋葬された。
 孝安(こうあん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトタラシヒコクニオシヒト。古事記は大倭帯日子国押人命、日本書紀は日本足彦国押人尊と記す。

7代、孝霊天皇の御世

孝霊天皇譚】
 第七代孝霊天皇は孝安天皇の皇太子である。宮を黒田に遷した。これを庵戸宮(いおとのみや)という。孝霊天皇は治世76年目に崩御し、片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に埋葬それた。
 孝霊(こうれい)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコフトニ。古事記は大倭根子日子賦斗邇命、日本書紀は大日本根子彦太瓊尊と記す。

8代、孝元天皇の御世

孝元天皇譚】
 第8代孝元天皇は孝霊天皇の太子だった。宮を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。その宮の伝承地が橿原市大軽町にある。孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御した。劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に埋葬された。
 孝元(こうげん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコクニクル。古事記は大倭根子日子国玖琉命、日本書紀は大日本根子彦国牽尊と記す。

 9代、開化天皇の御世

【開化天皇譚】
 第九代開化天皇は第二子。日本書紀は孝元天皇の治世22年に、年16歳で皇太子になられたと記す。しかし、孝元天皇が治世57年に崩御されたのを受けて皇位を着いたのは、それから35年後のことである。即位の翌年、都を春日の地に移された。これを率川宮(いざかわのみや)という。
 開化天皇(かいか)天皇のおくり名(和風諡号)はワカヤマトネコヒコオオビビ。古事記は若倭根子日子大毘々命、日本書紀は稚日本根子彦大日日尊と記す。

10代、崇神天皇の御世

【崇神天皇の御世の二神対立譚】
 「崇神天皇の御世の二神対立譚」が次のように記されている。
 開化天皇の第二子であり、母を物部氏に持つミマキイリ彦(後の崇神天皇)が第10代天皇として即位した。率川宮から「磯城(しき)の瑞かき宮」に遷都した。崇神天皇は、大殿にアマテラスと倭国大国魂の二神を並べて祀った。ところが、二神の仲が険悪になり、「しこうして、その神の勢いを畏りて、共に住みたもうにやすからず」ということになった。二神の対立に当惑した崇神天皇は、アマテラスにトヨスキイリ姫を付けて「倭の笠縫村」に移して祀った。倭国大国魂はそのまま皇居に残り、皇女ヌキナノイリ姫が斎宮となって奉仕した。ところが、ヌキナノイリ姫の髪の毛が抜け落ち、全身が衰弱して奉仕するどころではなくなった。

 その頃、疫病が発生した。八十万神に集まって貰い占ったところ、倭国大国魂がヤマトトトビモモソ姫に神がかりした。ヤマトトトビモモソ姫は、「聡明叡智、よく未然を識り給えり」の姫で、「天皇よ、国が治まらないのを憂うに及ばない。我を正しく祀れば必ずや平安になるであろう」とご託宣があった。「我とはどちらの神様で有りますか」と問うと、「倭国の内を治める神、名は大物主神なり」とご託宣があった。こうして、大物主神を祀ることになった。
 トヨスキイリ姫=姫木豊鋤入姫。ヤマトトトビモモソ姫=。
(私論.私見)
 「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。

【三輪山の大物主神祭祀譚】
 崇神天皇は3人の后を持つ。后の一は、木(紀)国造のアラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)。トヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女を生む。后の二は、尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)。ヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女を生む。后の三は、オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)。イクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生む。
 崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。これを仮に「三輪山の大物主神祭祀譚」と命名する。

 崇神天皇の治世5年、国内に疫病えきびょうが多く起き、人民たみが死んできそうになった。同6年、百姓が流離し、あるいは背く者が増えた。その勢い、徳を以て治めむこと難し。これを以て神祇に請罪した。これより先、天照大神、倭大国魂の二の神を天皇の大殿の内に並び祀った。しかし其の神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。

 崇神天皇はこうして大物主神を祀ったものの霊験がなかった。更に神意を請うたところ、或る夜の夢枕に大物主神が立ち「こは、我が御心ぞ。かれ、オホタタネ子をもちて、あが前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平(やす)らかにあらむ」と告げた。更に、「この疫病の流行は私の意志による。この疫病を鎮めるには、大田田根子(オホタタネ子)という人物を探し出し、三輪山の大神神社の初代神主とし、市磯長尾市(イチシノナガオチ)に大国主を祭神とする倭の大国魂神を祀る神主と為せ。そうすればたたりも起こらず天下泰平になるだろう」とお告げした。

 崇神天皇はすぐに四方八方に急使を遣わしてオホタタネ子という人物を探させ招いた。オホタタネ子の出自譚が次のように記されている。

 概要「河内の陶津耳(すえつみみ)の命の女の活玉依(いくたまより)姫の元に夜毎に男が通い、妊娠した。男の正体を見極める為に、麻糸を通した針を男の衣にさし、翌朝糸を辿って行くと、三輪山の神の社に留まった。この子が神の子オホタタネ子である」。

 オホタタネ子がチヌの県(あがた)の陶村(すえむら)に居る事が分かり、呼び寄せられた。
崇神天皇  「そなたは誰の子ですか?」
オホタタネ彦  「私は大物主とイクタマヨリ姫のひ孫、オホタタネ子と申します」。
崇神天皇  「あなたを祀る。これで天下は靖まるでしょう」。

 こうしてオホタネネ子を神主にし、御諸山(みもろやま、三輪山)に和魂(にぎたま)を鎮め、大物主を祀った。イチシノナガオチを倭の大国魂神の神主とした。同時に神々の社を定め祀った。宇陀の墨坂神には赤色の楯と矛を奉り、大阪神には黒色の楯と矛を奉り、また、坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、もれ残すことなく幣帛(みてぐら)を献上し祀った。伊迦賀色許男(イカガシコヲの命)に告げて多くの平たい土器を作らせ、天神地祇之社(あまつかみくにつかみのやしろ)を定めて奉納させた。宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ)に赤色のを祭った。大坂神おほさかのかみ)に黒色のとを祭った。坂の尾根の神や河の瀬の神にも、ことごとくれることなく幣帛(みてぐら)奉納した。崇神天皇が、大物主神を指して「ヤマトを造成された神」と讃えたところ疫病がすっかり鎮まり五穀豊穣し百姓賑わった。

 オホタタネネ子=意富多々泥古、太田田根子。イチシノナガオチ=。イクタマヨリ姫=。
(私論.私見)
 「三輪山の大物主神祀り譚」は、崇神天皇の御世に、河内ー出雲王朝系の大物主と大国主を復権させ、大物主を三輪山に、大国主を倭の大国魂神宮に祀ったことを伝えている。出雲王朝の隠然とした影響力を暗喩していると悟らせていただく。

【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】
 崇神天皇の御世、出雲の神宝を献上させている。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
 崇神天皇は、アマノヒナ鳥の命が高天原より持ち来った神宝を、出雲大神の宮に蔵さんとして、ニギハヤヒの命の末裔のタケモロズミを遣わして献上させようとした。これに対し、出雲大神の神宝を司っていた出雲臣の遠祖の出雲フルネは、筑紫の国に出向いて会わなかった。崇神天皇は常陸から中臣タケカシマを呼び寄せ、出雲説得を命じた。タケカシマは海路、神門王国に到着したが、国主フルネは対馬国に出掛けていて留守だった。タケカシマはフルネの弟イヒイリネとウマシカラヒサを説得し、イヒイリネは皇命を承りて出雲の神宝を献上した。これを知った出雲フルネは、「なぜ私が帰ってくるまでの後数日を待たず、云われるままに神宝を献上したのか」となじり、弟を殺した。こウマシカラヒサ親子は東出雲の大和陣営に逃げ込んだ。これを知った崇神天皇は、吉備津彦とタケヌナカハワケを遣わして、出雲フルネを誅殺し出雲大神の神宝を取り上げた。これにより、出雲臣等は暫くの間、出雲大神を祀ることができなくなった。
 アマノヒナ鳥の命=。タケモロズミ=武諸隅。出雲フルネ=振根。ヒリイイネ=飯入根。アケヌナカハワケ=武ヌナ河別。

 後日談が次のように記されている。
 丹波の氷上のヒカトベの子に神懸かりありて、出雲大神を祀らぬ様をなじった。このことを、ヒカトベが皇太子のイクノ尊こ奏上した。出雲大神の祟りを恐れ、出雲臣に再び出雲大を祀らせることになった。
 ヒカトベ=氷香戸辺。イクノ尊=活目尊。
(私論.私見)
 出雲大神が祀られぬようになった経緯と再び祀られるようになった経緯が伝えられている。

【崇神天皇の御世、全国征伐譚】
 崇神天皇は、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。旧出雲王朝勢力を抱き込み全国平定に乗り出し成功した。次のように伝えている。これを仮に「全国征伐譚」と命名する。

 崇神天皇10年、崇神天皇の御世、大和朝廷の全国征伐は続いた。大毘古(オホビコ)の命(大彦命)が高志道(コシノミチ、北陸)を平定した。その子の建沼河別(タケヌナカハワケ)の命(武渟川別)が東の方十二道(ひむかしのかたとをあまりふたみち、東海)を平定した。吉備津彦を西海に、日子坐ヒコイマス)のミコ(丹波道主命)が丹波の国の玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を退治した。

 オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。

【崇神天皇の御世、武埴安彦の変譚】
 崇神天皇の御代の即位10年後、「武埴安彦の変」が発生している。これを仮に「武埴安彦の変譚」と命名する。

 崇神天皇十年の或る時、大彦命が、山城国にいる異母兄の建波邇安(タケハニヤス)のミコ(武埴安彦、8代目天皇の孝元天皇の皇子)が謀反の野心があることを嗅ぎつけた。武埴安彦は山背国(山城)から、その妻吾田媛(あた姫)は大坂から都を襲おうとした。崇神天皇は、倭迹迹日百襲媛の予言によって、武埴安彦らの叛意を察知し、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り吾田媛勢を迎え撃った。オオビコがヒコクニブクの命(彦国茸、和珥氏の祖)をつれて山城の和珂羅河(わからがわ)に向かい、武埴安彦に戦いを挑んだ。よってこの川を挑み川(泉河)と呼ぶようになったと 記紀は記している。武埴安彦の軍は彦国葺の軍に破れた。その直後、倭迹迹日百襲媛は事故によって急死している。こうして、崇神天皇の御世の天下は太平になり、国民は富み栄えた。

 崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子(廿七)壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女、歌之曰。一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女、歌之曰〉瀰磨紀異利寐胡播揶。飫迺餓*鳥。志斉務苔。農殊末句志羅珥。比売那素寐殊望。(みまきいりびこはや おのがをを しせむと ぬすまくしらに ひめなそびすも) 一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑*。許呂佐務苔。須羅句*烏志羅珥。比売那素寐須望。(おほきとよりうかかひて ころさむと すらくをしらに ひめなそびすも) 於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辞。対曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌、忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聡明叡智。能識未然。乃知其歌怪。言于天皇。是武埴安彦将謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密来之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭国之物実。乃反之。〈物実。此云望能志呂〉是以知有事焉。非早図必後之。於是更留諸将軍而議之。未幾時。武埴安彦与妻吾田媛。謀反逆、興師忽至。各分道、而夫従山背。婦従大坂。共入、欲襲帝京。時天皇遣五十狭芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂、皆大破之。殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦与和珥臣遠祖彦国葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮、鎮坐於和珥武〓坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚、而〓〓草木。因以号其山曰那羅山。〈〓〓。此云布瀰那羅須。〉更避那羅山。而進、到輪韓河。与埴安彦。挟河屯之。各相挑焉。故時人改号其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之、問彦国葺曰。何由矣、汝興師来耶。対曰。汝逆天無道。欲傾王室。故挙義兵、欲討汝逆。是天皇之命也。於是各争先射。武埴安彦先射彦国葺。不得中。後彦国葺射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退。則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故号其処曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得免。叩頭曰、我君。故時人号其脱甲処曰伽和羅。褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。又号叩頭之処曰我君。〈叩頭。此云迺務。〉是後。倭迹迹日百襲姫命為大物主神之妻。然其神常昼不見、而夜来矣。倭迹迹姫命語夫曰。君常昼不見者。分明不得視其尊顔。願暫留之。明旦仰欲覲美麗之威儀。大神対曰。言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。爰倭迹迹姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥。遂有美麗小蛇。其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大神有恥。忽化人形。謂其妻曰。汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。仍践大虚登于御諸山。爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居。〈 急居。此云菟岐于。〉則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人号其墓。謂箸墓也。是墓者日也人作。夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓。人民相踵。以手遞伝而運焉。時人歌之曰。@飫朋佐介珥。菟芸迺煩例屡。伊辞務邏〓[土+烏]。多誤辞珥固佐縻。固辞介*務介茂。(おほさかに つぎのぼれる いしむらを たごしにこさば こしかてむかも)

 崇神天皇十年(癸巳前八八)十月乙卯朔冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騒動未止。其四道将軍等今急発之。
 オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。

【崇神天皇の崩御譚】
 別名をミマキイリ彦天皇と云われる第10代の崇神天皇は168歳まで生き、崩御後、山辺の道の勾(まがり)の岡のほとりに御稜を建てた。その治世をたたえて、「御肇國天皇」(「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」)と諡名(おくりな)されている。

 れんだいこのカンテラ時評№1140 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 5月 6日
 二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 崇神天皇の諡名(おくり名)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。

 「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」は実は、諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と同じに読まれているのかと云うことであろう。これをどう了解すべきかであろうか。

 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下の始まり天皇」であり「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読む。

 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持っていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力との「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。と云うことはつまり、国津神系旧勢力は「新日本」王朝の政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していたことになる。しかも、この勢力の方が概ね有能だった。これにより「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。

 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に大胆に、従来の討伐政策を転換し旧王朝「原日本」勢力の復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出すことになった。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」であり、神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読まれている。

 これにより「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。大和王朝の始祖とする位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙付け難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められていると云う筆法であろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことであろう。

 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は元邪馬台の国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」をかく解する。

 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。

 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王説」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故にか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。

 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。

 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。

 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないようにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。

 jinsei/

 ネット検索で「古代史の論点」の「ハツクニシラス考」 に出くわした。これを確認しておく。それによると、井上光貞の「神話から歴史へ」(「日本の歴史1」)、・直木孝次郎の「日本神話と古代国家」等によって「二人のハツクニシラス論」が展開されたとのことである。神武紀が「始馭天下之天皇(神武)」、崇神紀が「御肇国天皇(崇神)」、「所知初国之御真木天皇」であることを確認した上で、「二人のハツクニシラス、即ち建国第一代がいるはずがない。神武は架空の存在であり、崇神が真の建国第一代である」としているらしい。

 これに対し、古田武彦氏が、「盗まれた神話」等で、古事記には神武の「ハツクニシラススメラミコト」の称号が存在しない。少なくとも古事記においては、「二人のハツクニシラス論」は成立しない。神武の「始馭天下之天皇」を「ハツクニシラススメラミコト」と読むのは傍訓によるものであり原文に属すものではない。従って傍訓に拠って立論することは史料批判上、根拠がない。神武の「始馭天下之天皇」は「ハツクニシラススメラミコト」とは必ずしも読めない云々と批判し、「二人のハツクニシラス論」に否定的な見地を披歴している。

 これに対し、「古代史の論点」管理人は、史料に基づき、神武は「天皇家」という氏族の始祖であり、崇神が建国者である、真の建国者は崇神であり神武は建国者ではないとの見地を披歴している。同時に、「二人のハツクニシラス論」による、そのどちらかがニセモノであるとする立論から神武架空説を導き出す学究に対し神武実在説を説いている。

 れんだいこが「二人のハツクニシラス論」になぜ注目するのか。それは、三者のこのやり取りを見ても議論がおぼこいと思うからである。本来の議論は、「二人のハツクニシラス論」は成立するのかしないのか、成立するとならばその論拠や如何にを考察することに向かわねばならない。それが、「二人のハツクニシラス論」が成立するのかしないのかレベルの議論に止まっており、「二人のハツクニシラス論」の史的意味の詮索にまで向かっていない。このレベルがあらゆる分野においてもそうであることを踏まえ、もっと謙虚に学究に勤しまねばならないのではなかろうかと思う。

 2013.5.6日 れんだいこ拝


4/15(月) 12:12配信 、「崇神天皇~二皇子に下されし勅」。

 崇神天皇の即位

 皇紀513年=開化10年(前148年)、開化天皇の第二皇子として誕生された御間城入彦命(みまきいりひこのみこと)で、母は開化天皇の皇后・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)である。皇后・伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命(おおへそきのみこと)の娘である。皇紀531年=開化28年(前130年)1月5日、第二皇子・御間城入彦命が19歳で立太子される。先帝・開化天皇が崩御される32年前に立太子しておられ、その後皇位を巡る紛争などは起きていないので、崇神天皇即位に関しての問題はなかったと判断してよい。ところが、即位されてから9年後、後述の通り武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こしている。崇神天皇即位後に皇位を簒奪しようとして起こした反乱である。皇紀563年=開化60年(前98年)4月9日、先帝・開化天皇が崩御される。先帝・開化天皇が崩御されてから次の御間城入彦命が即位されるまでおよそ8ヶ月あまり経っている。御間城入彦命には異母兄の彦湯産隅命(ほこゆむすみのみこと、母は丹波竹野媛)がおられ、若干調整期間があったとも推測される。しかし結局は、先帝・開化天皇の皇后の皇子・御間城入彦命が即位されることになったのであろう。翌皇紀564年=崇神元年(前97年)1月13日、皇太子・御間城入彦命が崇神天皇として52歳で即位される。2月16日、孝元天皇の第一皇子・大彦命(同母兄)の女王である御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされる。大彦命は孝元天皇の第一皇子で父帝・開化天皇の同母兄だから皇后は従姉に当たる。皇紀566年=崇神3年(前95年)秋9月、都を大和国磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市)に遷された。

 武埴安彦命の反乱

 皇紀573年=崇神10年(前88年)、先々帝・孝元天皇の皇子で叔父の武埴安彦命が、妻の吾田媛(あたひめ)と反乱を起こす。御間城入彦命の即位に当たって武埴安彦命はかなりの不満を残した状況だったと推定される。しかし崇神天皇即位から9年後であるから、即位に対する不満というよりも、その後皇位が欲しくなっての反乱と考えるべきかとも思われる。しかも四道将軍が出征した直後に反乱を起こしているので、軍事空白を狙った反乱であった。武埴安彦命は孝元天皇の皇子で、先帝・開化天皇の異母弟であり、崇神天皇にとっては叔父に当たる。吾田媛は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)に、武埴安彦命は大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと)に討ち取られた。なお、彦国葺命は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の3世孫(4世孫という説もある)で、和邇臣(わにのおみ、和珥氏)の遠祖である。御間城入彦命は即位される三十三年前に立太子しておられるので、先帝の開化天皇ははっきりと早くから後嗣を決めておられる。しかも謀反を起こした武埴安彦命は兄弟や一族に討たれているので、崇神天皇即位については、大方の意思は統一されていたといえる。それに伯父の大彦命は四道将軍の一人として北陸道に、異母弟・彦坐王(ほこいますのみこと)の王子・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は丹波道に派遣され、いずれも崇神天皇を補佐しておられる。

 二皇子に下されし勅

 皇紀611年=崇神48年(前50年)1月10日、天皇は「二皇子に下されし勅」を発せられる。皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、垂仁天皇)の異母兄弟をお呼びになり、「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」と言われる。二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る。夜明けに兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる。天皇はこれらの夢を占い、「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」と詔された。この夢占いとは別に、活目入彦命の母は皇后・御間城姫命(みまきひめのみこと)であり、豊城入彦命の母は妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であるから、母の身分を考えたら、崇神天皇の特別な寵愛でもない限り、活目入彦命の即位が決まっていたのではないかとも思われる。4月19日、弟の活目入彦命を立てて皇太子とされ、豊城入彦命には東国を治めさせた。東国を治められて、上毛野君や下毛野君の始祖となり、その末裔が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を治められた。皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、在位68年、119歳で崩御される。

 2019年04月15日公開、吉重丈夫「第11代・垂仁天皇と狭穂彦王の叛乱


11代、垂仁天皇の御世

【垂仁天皇譚】
 「サホビコ(沙本毘古)の反乱」が次のように記されている。
 崇神天皇が、配下の武将オオ彦の娘を娶ってもうけた子の一人がイクメイリビコイサチであり、第11代垂仁天皇である。垂仁天皇がサホ姫を妃としていた頃、サホ姫の兄サホ彦、妹に「私とお前で天下を取ろう」と相談を持ちかけた。サホ彦は、サホ姫に小刀を渡して、天皇が寝ている時に刺せと命じた。或る日、垂仁天皇はサホ姫の膝を枕に眠っていた。サホ姫は小刀を振り上げ振り上げしたが、刺すことができなかった。涙が天皇の顔に落ちた。天皇が目を開け、「おかしな夢を見た。にわか雨が降ってきて、私の顔を濡らした。気がつくと、まだら模様のヘビが首に巻き付いている。これはどういう意味だろう」と問いかけた。妃は隠しきれないと覚って一切を告白した。

 垂仁天皇は、直ちに軍を派遣してサホ彦の館を襲った。サホ姫は密かにサホ彦の館に入った。この時、サホ姫は身ごもっており、攻めあぐねているうちに出産した。垂仁天皇は、サホ姫と御子の奪還計画を立て、突撃隊を突入させた。御子を連れ出すことは出来たが、サホ姫の奪還は果たせなかった。む御子の名前は、ホムラワケと付けられ乳母がつけられた。サホ姫亡き後、垂仁天皇は、丹波のヒコタタスミチウシの4人の娘を呼び寄せ世話をさせた。
 サホビコは丹波(丹後)将軍となった崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマス(日子座)が沙本のオオクラミトメ(大闇見戸賣)ともうけた皇子である。
 この御代に伊勢神宮が創建された。皇女倭姫が、神の導きのまま、伊勢国の五十鈴川の川上に建てたと伝えられている。天皇に伝えられる三種の神器のうちの八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀る。三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指す。つまり「八咫鏡」「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」(別名「草薙剣」)をさす。第12代景行天皇(在位71年~130年)の時代、皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東奔西走して活躍していた。叔母の倭姫より伊勢神宮で三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)を護身用に預かり、東国平定を行い、后のミヤズ姫の手元に預けて、帰国の途中なくなった。現在、草薙剣はミヤズ姫の親元であった尾張氏の本拠地であった熱田神宮で祀られている。

【ホムチワケノミコ譚】
 垂仁天皇と皇后・狭穂姫の間に生まれた皇子・ホムチワケノミコの神話譚。
 垂仁天皇の皇子でサホ姫から生まれたホムチワケノミコは、ヒゲが胸元に届くような年齢になっても言葉を話さなかった。或る日、御子は白鳥の声を聞き、「あぎ」と片言の言葉を発した。白鳥を見たら御子はもっとしゃべるかもしれないと思い、その白鳥を捕らえることにした。天皇の命を受けたヤマノベノオホタカはその白鳥を追いかけ、紀の国、播磨の国、因幡の国、丹波の国、但馬の国、近江の国、美濃の国、尾張の国、信濃の国と国々をわたり、ついに越の国でわなをしかけ、白鳥を捕らえた。白鳥が献上されたが、御子はしゃべらなかった。

 心を痛めた天皇は、寝ていたときに、夢でお告げをうけた。「私の神殿を、天皇の宮殿のように立派に造ったならば、御子は必ず言葉をしゃべるだろう」。天皇は、このお告げを伝えた神が誰なのか、フトマニ(太占)で占った。「その神は、出雲の大神でございます」。「それでは、さっそく御子を出雲大社に向かわせよう。ところで、誰を御子に従わせて遣わしたらよいのであろう。占ってくれぬか」。占った結果、アケタツノミコが当たった。そこで、アケタツノミコに誓約(うけい)をさせた。「この大神を拝むことで、本当にしるしがあるならば、鷺巣池の木に住む鷺よ、この誓約によって落ちよ!」。バサッ。すると、誓約をうけたその鷺は池に落ちて死んでしまった。「誓約によって生きよ!」。バササッ。すると再び鷺は生き返った。今度は甘橿丘(あまかしのおか)の崎に生えている葉の広い樫の木を、誓約によって枯らし、また生き返らせた。

 こうして、アケタツノミコが、弟のウナカミノミコとともに、御子を伴い出雲に向かった。どのルートを通って出雲の国に行く方がよいか話し合った。奈良山越えの道、大阪越えの道、紀伊越えの道のうち、木の国(和歌山県)の紀伊の道から出雲の国を目指した。出雲に着いて、大神の参拝を終えたホムチワケノミコを出迎えようと、キヒサツミは、青葉の茂った山のような飾り物の山を作ってその川下に立て、食事を奉ろうとした。この時、ホムチワケノミコが、「この川下に青葉の山のように見えるのは、山のように見えて山ではない。もしかしたら、出雲のアシハラシコヲノ大神を敬い祭っている神主の祭場ではないか?」としゃべった。御子が言葉を話したことに喜んだ王たちは、すぐに早馬の急使を出し、天皇に伝えた。

 その後、御子は、ヒナガ姫と契りを結ばれた。寝床でふと、姫を覗き見ると、その少女の正体はへびだった。恐れをなした御子はすぐに逃げ出した。「お待ちください!」。正体を見られたヒナガ姫は、海上を照らして船で追いかけてくる。御子はさらに必死に逃げ、なんとか大和の国に逃げ帰ることができた。

 一緒に逃げ帰ったアケタツノミコは天皇に復命した。「出雲の大神を参拝されたので、御子はしゃべれるようになりました。そこで、我々も帰ってきました」。喜んだ天皇は、すぐにウナカミノミコを出雲に戻して、神殿を造らせた。天皇は、この御子にちなんで、鳥取部(ととりべ)、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部(ほむじべ)、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めた。

 サホ姫=狭穂姫。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。
(私論.私見)
 「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。ホムチワケノミコ譚を通じて、神の宮(出雲大社)建立の経緯が伝えられている。

 垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして富士山麓の開拓事業に着手している。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火していた。富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えている。

 第11代 垂仁天皇(世系16、即位41歳、在位99年、宝算140歳)

  垂仁天皇の即位

 皇紀592年=崇神29年(前69年)1月1日、崇神天皇の第三皇子として磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で誕生された活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)は大彦命の娘・御間城姫命(みまきひめのみこと)である。皇紀615年=崇神52年(前46年)4月19日、活目入彦命(垂仁天皇)が19歳で立太子される。先帝・崇神天皇の崩御の20年前に、多数おられた皇子の中から、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦命をお呼びになり、夢占いをして後嗣を決めておられた。従って、誰も皇位を争うような状況下にはなかった。尚、異母弟に八坂入彦命(やさかのいりひこのみこと)がおられ、その女王・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)は次の景行天皇の妃となられ、成務天皇の母となられる。従ってこの異母弟・八坂入彦命は後の成務天皇の外祖父である。皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、崇神天皇が崩御された。皇紀632年=垂仁元年(前29年)1月2日、活目入彦命が41歳で即位される。同母弟に倭彦命(やまとひこのみこと)がおられたが、皇位を争われた記録はない。翌2年10月、宮を纒向珠城宮(まきむくたまきのみや、奈良県桜井市)に置かれた。

 狭穂彦王の叛乱

 皇紀633年=垂仁2年(前28年)2月9日、祖父・開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますおう)の女王で従妹(皇族)の狭穂媛(さほひめ)を皇后に立てられた。皇紀636年=垂仁5年(前25年)、皇后・狭穂媛は謀反を起こした兄の狭穂彦王に味方し、戦陣で兄と共に焼死して命を絶たれた。天皇は倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた 崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命の子)に狭穂彦を討伐させるが、狭穂彦も稲を積んで城塞とし防戦する。八綱田はこれを包囲し、「皇后と皇子を引き渡せ」と迫るが応じないので城塞に火を掛ける。これは天皇の即位から4年後のことなので、皇位を簒奪しようとする反乱であった。皇后は生後間もない皇子を抱いて出てこられ、「私と皇子がいれば兄を許してもらえると思ったが、許されないのであれば私共はここで自害します。死んでも決して天皇のご恩は忘れません。私のしていた後宮のお役目は、丹波国にいる弟・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと 開化天皇の曾孫)の娘たち五人(姪)を召し入れて、補充してお使い下さい」と言われる。天皇はこれを聞き入れられ日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あさみにいりひめ)、竹野媛(たかのひめ)を妃とされた。狭穂彦と皇后・狭穂媛はそこで自害し薨去された。

 大足彦忍代別命の立太子

 皇紀661年=垂仁30年(1年)1月6日、天皇は皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)に「お前達、何が欲しいか言ってみよ」と言われた。兄は「弓矢が欲しいです」と言われ、弟は「天皇の御位が欲しいです」と申し上げる。天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と詔され、五十瓊敷入彦命には弓矢を賜り、大足彦忍代別命(景行天皇)には「お前は必ず我が位を継げ」と仰せられた。二人はどちらも丹波道主命の女・日葉酢媛命の皇子たちである。天皇としてはどちらを後継にしようかと迷われ、口頭試問によって決められたようである。先帝・崇神天皇は二人の皇子を呼んで夢占いをさせられたが、垂仁天皇は何が欲しいかを直接尋ねられ、その答えによって後嗣を決めておられる。いずれも天意を伺う祈りが込められている。他にも皇子は多数おられたが、この二人を選んで、その上で面接して後嗣を決められた。垂仁天皇の意向で早い時期に選んでおられる。 垂仁天皇が即位されてから五年後に狭穂彦と皇后・狭穂媛が皇位簒奪を目論んでの反乱を起こしたが、その後は問題は起きていない。皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、「天皇の御位が欲しいです」と答えられた第三皇子の大足彦忍代別命(21歳)を立てて皇太子とされる。しかし、口頭試問から7年が経過しているので、その間天皇は二人の様子を見ておられたものと思われる。皇紀730年=垂仁99年(70年)秋7月14日、天皇は纒向にて在位99年、140歳で崩御された。


12代、景行天皇の御世

景行天皇譚】

【ヤマトタケル譚その1、熊襲征伐】
 景行天皇の段で、ヤマトタケルの尊の熊襲征伐が次のように語られている。

 或る時、景行天皇は、御子のオホウスの命に、美濃の国に居ると聞く評判の美女姉妹であるエヒ女、オトヒ女を連れてくるようにと頼んだ。美濃の国に赴いたオホウスの命は、二人の乙女に出会った瞬間に一目ぼれしてしまった。父に渡さず我が妻にしようとして別の娘をい連れて帰り献上した。景行天皇は、期待していたほどの美女ではなかったので失望した。告げ口により真相を知らされた景行天皇は物思いにふせ、それから結婚することもなく悩み続けた。

 それからしばらくたったある日、ヲウスの命に、朝夕の食膳に出てこない兄を出仕させるよう命じた。しかし、それから5日たってもオホウスの命は姿を現さなかった。天皇は訝り、ヲウスの命に確認したところ、「夜明けに兄が厠(かわや)に入ったとき、私は待ち受けて兄を捕まえ、その手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました」と答えた。

 景行天皇は、ヲウスの命の猛々しい性格を恐れ、そばにおいておくのは危険だと思い、朝廷に服従しないままでいる西のクマソタケル兄弟の討伐を命じた。ヲウスの命は父の命に従い、熊曾征伐で出かけた。その前に叔母であるヤマト姫命の元を訪ねた。この時、「何かの役に立つかもしれませんから、この衣装を渡しておきます」と、衣装を授かった。

 ヲウスの命が熊曾建の家の前までやってきたところ警護が厳しく、兵で三重も囲んであり、容易に近づけそうもなかった。しかし、どうやら新居を祝うための宴の準備をしている様子であった。このことを察知したヲウスの命は、叔母様の衣装を着て、髪も女性のように結いなおし女装して忍び込んだ。やがて熊曾建兄弟のそばにはべることになり、宴もたけなわになったときに懐の剣を取り出し、熊曾の衣の衿をつかみ、胸を剣で突き通した。それを見た熊曾の弟は逃げ出した。それを追っていき、熊曾弟の尻に剣を突き刺した。

 「お前は何者か」。「私は大八島国を治めている景行天皇の御子ヤマトヲグナノミコである。お前たち兄弟が朝廷に従わないので、征伐に派遣された」。「我は、国中の強力者なり。当時の誰が来ても、我が力に勝つ者はいなかった。武運では負けなかったが、こたびはしてやられてしまいました。今後はあなたに従い、ヤマトタケルの御子と称えます」。ヲウスの命は、「確かにそなたからの名は受け取った」と述べた後、よく熟した瓜を裂くように尻に刺した剣を抜き、クマソタケルを切り裂いて殺した。それから、大和に戻る際に、山の神、河の神、海峡の神をみな服従させた。

 オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。

【ヤマトタケル譚その2、出雲征伐】
 ヤマトタケルの尊の出雲征伐が次のように語られている。
 ヲウスの命(以降、ヤマトタケルと記す)は、都に戻る際に出雲の国を通った。イズモの首長、イズモタケルを殺していこうとした。まず、イズモタケルと親しくなった。肥の川に沐浴に誘い、ヤマトタケルとイズモタケルは連れ立った。先に川から上がったヤマトタケルは、太刀を変えることを提案し、それから太刀合わせを提案した。ところが、ヤマトタケル太刀は抜けないように細工していた。こうして、ヤマトタケルは太刀を抜くことができなかったイズモタケルを打ち殺した。
 「やつめさす 出雲建が はける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ」
 (イズモタケルが持たされた太刀は、さやにつづらが巻きつけられ、刀身が抜けず殺されてしまった。可哀そう)。

 こうして、イズモタケルを殺した後、周辺を平定し、都に上り、復命した。
 イズモタケル=。
(私論.私見)
 ヤマトタケルの尊の計略的な出雲征伐が記されている。

【ヤマトタケル譚その3、東国征伐】

 ヤマトタケルが熊曾と出雲の征伐を復命したところ、新たに東方12カ国の平定を命ぜられた。ひひらぎの八尋矛を授けられた。ミスキトモミミタケ日子を共に従えることになった。東国に向かう前に伊勢神宮に行き、斎宮にして叔母のヤマト姫に会った。この時、ヤマトタケルの目から涙が零れ落ちた。

ヤマト姫  「どうしたのです、ヤマトタケル」。
ヤマトタケル  「父上は、私が死ねばいいと思っているのでしょうか」。
ヤマト姫  「そんなことはありません。どうしてそう思うのですか?」。
ヤマトタケル  「西の熊曾を討ちに遣わし、都に戻ってまだ間もないというのに、すぐに今度は東国の十二カ国を平定して来いだなんてひどすぎませんか。しかも、兵士もくださらずに。父上は私なんか死んでしまえときっと思っているのです」。

 それを聞いたヤマト姫は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに手に入れた神宝の草薙の剣を授けた。それと火急の際にはこの袋の口をお開けなさいと御袋を貰った。

 伊勢を出発したヤマトタケルは、尾張、焼津、浦賀水道、相模、箱根、甲州、信州を廻り尾張へ戻る長征に出向くことになった。(日本書紀は、伊勢、駿河、焼津、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃、美濃、尾張と記している)

 ヤマトタケルは尾張の国に立ち寄った際に、ミヤズ姫の家に泊まった。一目ぼれしたヤマトタケルは、ミヤズ姫と結婚をしようと思ったが、今回の東国征討が終わって帰ってきてから結婚することにし、結婚の約束だけを交わした。


 ヤマトタケルは相模の国にやってきた。国造(くにのみやっこ)が、「実は、この野の中に大きな沼がございます。そして、この沼に住んでいる神が非常に凶暴な神で困っています」と訴えた。ヤマトタケルは、国造の頼みを聞き、妻のオトタチバナ姫と共に沼に住む神を見るために野に入った。そこには恐ろしいわなが待ち受けていた。タケルが野に入ったことを確認した国造は、火をつけて焼殺を謀った。背後からすごい勢いで火が迫った。妻のオトタチバナ姫の安否を尋ねたところ、無事だった。辺り一面火の海に囲まれたヤマトタケルは、咄嗟に叔母様から貰った袋を取り出して見ると、火打石が入っていた。草薙の剣で辺りの草をなぎ払い、火打石で火をつけると向かい火となり、迫り来る火を打ち消した。こうして、無事出ることができた。騙された事に怒ったヤマトタケルは、相模の国造どもをみな斬り殺した。この地はそれ以後、焼津と呼ばれるようになった。

 或る日、ヤマトタケルの一行が走水海を渡ろうとしたとき、海峡の神が荒波をたて、船は前に進むことができなかった。「このままでは船が沈没してしまう。何とかせねば…」。海の中で己の無力を嘆くヤマトタケルに対して、オトタチバナ姫が「私が皇子の身代わりとなって海に身を沈めましょう」。「あなたは東征の任務を成し遂げて天皇にご報告してください」。オトタチバナ姫は海に身を沈める前に歌を歌った。

 「さしさね 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」
 (相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが君よ、あなたの気持ちが忘れられません)

 オトタチバナ姫は、菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重、波の上に敷いて、船からその上に下りて海に沈んだ。すると、荒波は自然におだやかになり、船は前に進むことができるようになった。それから7日後、海岸に流れ着いた今は亡きオトタチバナ姫の櫛を手にした。涙を流すヤマトタケル。その櫛を取って、丁重に葬った。

 ヤマトタケルは、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒ぶる蝦夷(えみし)どもを平定し、また、山や川の荒れすさぶ神々を平定し、都に戻ろうとした。その途中に、足柄山の坂の下にたどり着き、乾飯(かれいい)を食べていたヤマトタケルの前に白い鹿が目の前に現れた。足柄山の神が白い鹿の姿で現れたことを知ったヤマトタケルが、食べ残した蒜(ひる)の片端を鹿に投げつけると、その目に当たって、鹿は撃ち殺された。そして、ヤマトタケルは、その坂の上に登って三度、嘆息した。「あぁ、わが妻よ…あぁ、我が妻よ…あぁ、我が妻よ…」。そこで、その国を名づけて吾妻(あづま)というようになった。

 それから、その国を越えて、甲斐の国に出て、酒折宮(さかおりみや)についたとき、歌を詠んだ。「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか)。すると、夜警の火をたいていた老人が、この歌に続けて、「日日(かが)並べて 夜には九夜 日には十日を」(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります)と歌った。見事な受け答えをした老人に、東国造(あずまのくにのみやっこ)の称号を授けた。

 ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。


【ヤマトタケル譚その4、三重山中で死す譚】

 その後、信濃の国の坂の神を退治したヤマトタケルは、尾張の国に向かい、先に結婚の約束をしていたミヤズ姫のもとを訪れた。この時、ミヤズ姫は月の障りの最中で、うちかけの裾に血が滲んでいた。二人の問答歌が次のように記されている。

 「ひさかたの 天の香山 利鎌に さ渡るくび 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる むすびの裾に 月立ちにけり」。

 返歌は、

 「高光る 日の御子 やすみしし 吾が大君 あら玉の 年が来経れば あら玉の 月は来経往く うべなうべな 君待ちがたに 君が著せる むすびの裾に 月立たなむよ」。

 伊吹山神退治に向かったが、山の神を素手で退治するつもりだからと述べて草薙の剣を姫に預けた。こうして素手で伊吹山に向かった。山に登ってすぐ白いイノシシに出会った。「この白いイノシシの姿をしているのは、山の神の使者だろう。今殺さずとも、山の神を殺してからでも遅くはあるまい」。こういってさらに山を登った。この時、雹がすごい勢いで降ってきた。命からがら山から下りてきたヤマトタケルは、清水を見つけ一息つき、正気を取り戻すことができた。

 ヤマトタケルはタギノ(当芸野)のあたりにたどり着いた。「私の心は、いつも空を駆け登るような気持ちだった。しかし、今、私の足は歩くことができず、道がはかどらなくなってしまった」。こう弱音を吐いたヤマトタケルは、さらにほんの少しばかり歩いた。しかし、ひどく疲れてしまい、杖をついてそろそろ歩いた。さらに進むと、尾津崎の一本松のもとにたどりつき、食事をしていたときに、そこに忘れてきた大太刀がなくならないでそのまま残っていた。

 それから三重村にたどりついた。「私の足は三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」。そこからさらに歩き続けた。能煩野(のぼの)に着いた際に、故郷の大和国をしのんで歌を歌った。

 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
 (大和の国は国々の中心の故郷である。青い垣根が重なり合うようにして山を覆っている。大和の国は何と美しい国なのだろう)
 「命の 全けむ人は たたみこむ 平群(へぐり)の山の くまかしが葉を うずに挿せ その子」
 (生命力の旺盛な人は、重なるように連なる平群の山のくま樫の葉を髪にさして、生命を謳歌するがいい、みなの者よ)
 「愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
 (あぁ、なつかしいわが家の方から、雲がわき起こってくることよ)

 この歌を歌った後、ヤマトタケルの病気は急に悪化した。そのときに歌った歌は、

 「嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
 (ミヤズ姫と過ごした寝床のそばに私が置いて来たあの草薙の剣をもう手にすることは出来ないのだろうか)

 こう歌い終わってすぐにヤマトタケルは死んでしまった。早馬の急使が朝廷にヤマトタケルの死を告げに行った。


【ヤマトタケルの白鳥伝説譚】

 ヤマトタケルが亡くなったという知らせを聞いた妻と子は、大和からヤマトタケルの死んだ場所に向かい、御陵を作った。そして、その周りの田を這い回り、泣き悲しんだ。
 「なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍(ほ)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」
 (お陵(はか)の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっている野老(ところ)の蔓のような私たちよ)

 この時、見ると、御陵から大きな白い千鳥が空に飛び立ち、海に向かって飛び去った。白鳥が海に向かって悠然と飛び去っていくのを見た妻や子は、あたりに生えている竹の切り株で足を傷つけられても、その痛さを忘れ、泣きながら追っていき、歌った。
 「浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」
 (低い小竹(しの)の原を行こうとすれば、腰に小竹がまとわりついて歩きづらい。鳥のように空を飛ぶこともできず、足で歩いて行くもどかしさよ)。

 浜の海水に入って、難儀しながらも追っていったときに歌った歌は、

 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ」
 (海を行こうとすれば、腰が水にはばまれて歩きづらい。大河の水中に生えた水草が揺れるように、海は水にはばまれて進むことができない)

 さらに、白千鳥が飛び立って、海岸の磯にとまっているとき歌った歌は、

 「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」
 (浜の千鳥は、歩きやすい浜伝いには飛ばないで、岩の多い磯伝いに飛んでいった)

 この4首はみなヤマトタケルの葬儀の際に歌った。

 さて、白鳥は伊勢国(三重県)から飛んでいって、河内国(大阪府)の志磯にとどまった。そこで、その地にも御陵をつくり、ヤマトタケルの魂を鎮座させた。そして、その御陵を名づけて白鳥御陵といった。しかし、白鳥はそこからさらに空高く天翔けて飛び去って行った。こうして、ヤマトタケルの冒険は終わった。

(私論.私見)

 日本書記は、垂仁天皇の治世25年に5大夫を登場させている。5大夫とは阿倍臣、和邇臣、中臣連、物部連、大伴連。


第13代、成務天皇の御世

【成務天皇譚】




(私論.私見)