大和王朝建国神話考 |
(最新見直し2010.08.03日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年、倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇、神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。 2006.12.14日 れんだいこ拝 |
2代、綏靖天皇の御世 |
【神武天皇崩御、2代、綏靖天皇が後継譚】 | |||
神武天皇崩御後内紛が起こり、イスケヨリ姫から生まれた三人の息子の末弟のカムヌナカハミミの命が後継した事を伝えている。
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タギシミミの尊=手研耳尊、当芸志美美。カムヌナカハミミの尊=神渟名川耳尊、神沼河耳尊。カムヤイミミの尊=神八井耳尊 | |||
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「神武天皇崩御、綏靖天皇後継譚」は、天孫族と出雲王朝系の血筋を分け持つ綏靖天皇が後継したことを伝えている。 | |||
綏靖(すいぜい)天皇のおくり名(和風諡号)はカムヌナカワミミ。古事記は神沼河耳命、日本書紀は神渟名川耳尊と記す。 |
2019年03月04日公開、吉重丈夫「綏靖天皇(第2代)と安寧天皇(第3代)」。
神武東征で日向から父の神日本磐余彦尊(かんやまといわれひことみこと、神武天皇)と一緒に上って来られた異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、先妻の皇子とはいえ、第一皇子の立場にあられ、父帝・神武天皇が異母弟の、しかも末弟の神渟名川耳命を皇太子とされたことに不満を抱かれた。手研耳命は先帝・神武天皇の皇后で、自身にとっては継母の媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)を正妃としておられた。ところが夫・手研耳命が異母弟の神渟名川耳命たち兄弟を亡き者にしようと謀っているので、母である媛蹈鞴五十鈴媛命は、この重大事を和歌に託して神渟名川耳命たちにお知らせになる。夫である手研耳命の策謀を皇子たちに密告されたのである。この陰謀を知らされた神八井耳命、彦八井命、神渟名川耳命の三兄弟は、片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝市・上牧町付近か)の大室に臥せっておられた手研耳命を襲い、これを誅された。兄の神八井耳命はこの時手足が震えて矢を射ることができず、弟の神渟名川耳命がその弓を取って手研耳命を射殺された。神八井耳命はこれを恥じて弟の神渟名川耳命に即位を願い、自らは神々の祀りを受け持たれる。神渟名川耳命はすでに皇太子であるから当然ともいえるが、この事件で末子の神渟名川耳命が第二代天皇に即位されることが確定した。手研耳命の皇后であり、神渟名川耳命の母である媛蹈鞴五十鈴媛命が手研耳命の反逆を密告するということで、この皇位継承に決定的役割を果たされたといえる。
兄の神八井耳命は日本最古の皇別氏族・多臣(おおのおみ)の始祖である。多氏は後に「太氏」「大氏」「意富氏」などとも記される。また、九州の阿蘇氏、関東の千葉氏などの多くの皇別氏族の祖となられた。
なお、皇別氏族とは皇族の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族をいう。他に「神別氏族」「諸蕃」があり、「神別氏族」は天津神・国津神の子孫で、神武天皇以前の神代に分かれたとされる氏族であり、「諸蕃」は支那大陸・朝鮮半島から渡来したと称する諸氏の末裔である。秦氏・漢氏・百済氏などが「諸蕃」に分類される。
彦八井耳命(日子八井命)については日本書紀には記載がない。
神渟名川耳命の即位に当たっては、先帝・神武天皇の崩御後に手研耳命の反逆事件があって3年遅れたが、神武天皇の定められた皇太子・神渟名川耳命が予定通り、皇紀80年=綏靖元年(前581年)正月8日即位された。都は大和国葛城高丘宮に置かれた。この手研耳命弑逆事件は初代から第2代への皇位継承に当たっての、悲劇の大事件であった。初代神武天皇から第2代綏靖天皇への皇位継承は決して平和裏での継承ではなかったのである。『古事記』『日本書紀』は、先の大戦以後、天皇、皇族を権威づけるために朝廷が拵えた架空の物語を綴った偽書であるということになっているが、初代から2代への極めて重要な皇位継承に当たっての記述で、この悲劇が語られている。
皇紀81年=綏靖2年(前580年)春1月、事代主神の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を立てて皇后とされる。先代・神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の妹で叔母に当たる。皇紀104年=綏靖25年(前557年)春1月7日、皇子の磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと、21歳)を皇太子に立てられる。皇紀112年=綏靖33年(前549年)夏5月10日、ご不例(病)で崩御される。在位33年、宝算84歳であった。
3代、安寧天皇の御世 |
【安寧天皇譚】 |
綏靖天皇とイスズヨリ姫の息子のアンネイ(安寧)天皇が第3代天皇として即位し、宮を片塩に遷し天下を治めた。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。后として、事代主神の孫の鴨王(かものきみ)の女(むすめ)「鴨君の女」(ヌナソコナカツヒメの命、ヌ名底仲媛命)を迎えた。してみれば初代の神武、二代の綏靖、三代の安寧まで出雲系の事代主の命の血族と縁戚関係に入ったことになり、大和王朝建国過程での出雲王朝との繋がりの深さが分かる。(河俣姫の兄である県主・波延(はえ)の娘・あくと姫を娶って、常根津彦伊呂泥(とこねつひこいろね)の命、大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命、し木津彦(しきつひこ)の命の御子をもうけた) 葛城山麓に都を定め治世38年で崩御した。日本書紀は享年57歳と記す。畝傍山の西南の御影井上陵(みほどのいのうえののみささぎ)に埋葬された。 |
安寧(あんねい)天皇のおくり名(和風諡号)はシキツヒコタマテミ。古事記は師木津日子玉手見命、日本書紀は磯城津彦玉手看尊と記す。 |
皇紀84年=綏靖(すいぜい)5年(前577年)、先帝・綏靖天皇の皇子として誕生された磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと)である。母は先帝・綏靖天皇の皇后で事代主命(ことしろぬしのみこと)の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)で、初代神武天皇の皇后・媛蹈鞴五鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の妹である。皇紀104年=綏靖25年(前557年)1月7日、21歳で立太子された。皇紀112年=安寧元年(前549年)5月、父の綏靖天皇が崩御される。父帝・綏靖天皇の崩御を受け、同年7月9日、皇太子・磯城津彦玉手看命が29歳で安寧天皇として即位される。皇子は磯城津彦玉手看命だけで、この皇位継承には何らの問題もなかった。翌安寧2年、大和国片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや、奈良県大和高田市)に都を置かれた。皇紀115年=安寧3年(前546年)春1月5日、事代主命の孫・鴨王(かものきみ)の娘・渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)を立てて皇后とされる。第3代天皇の皇后もまた事代主命の系統である。事代主系が初代から3代続けて皇后となっておられる。皇紀123年=安寧11年(前538年)春1月1日、第二皇子の大日本彦耜友命(おおやまとひこすぎとものみこと)を立てて皇太子とされる。第一皇子に同母兄・息石耳命(おきそみみのみこと)がおられたが、第二皇子が立太子された。即位後11年にして早々に第二皇子・大日本彦耜友命を皇太子に立てておられるので、この立太子は天皇の明確な意思と見てよい。古事記には息石耳命については記載がなく、皇位継承で混乱した形跡はない。しかし、息石耳命には皇女・天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)がおられ、次代の懿徳(いとく)天皇の皇后となっておられる。もう一人の皇子で弟の磯城津彦命(しきつひこのみこと)は猪使連(いつかいのむらじ)の始祖となられた。皇紀150年=安寧38年(前511年)冬12月6日、在位38年にして、67歳で崩御される。
4代、懿徳天皇の御世 |
【懿徳天皇譚】 |
第四代懿徳天皇は安寧天皇の第二子の大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命。即位の翌年、宮を軽の地に遷し、これを曲峡宮(まがりおのみや)という。古事記には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」と記す。治世34年に崩御され、畝傍山の南山麓に埋葬された。 |
懿徳(いとく)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトヒコスキトモ。古事記は大倭日子?友命、日本書紀は大日本彦耜友尊と記す。 |
5代、孝昭天皇の御世 |
【孝昭天皇譚】 |
第五代孝昭天皇は、即位の年に宮を掖上(わきがみ)に遷した。日本書紀はこの宮を池心宮(いけのこころのみや)、古事記は「葛城掖上宮」と記す。伝承によると掖上池心宮は「よもんばら」 あるいは「よもぎ原」という場所にあったとされる。治世83年で崩御され、掖上博多山上陵に埋葬された。日本書紀はその時期を治世38年目と記す。 |
孝昭(こうしょう)天皇のおくり名(和風諡号)はミマツヒコカエシイネ。古事記は御真津日子訶恵志泥命、日本書紀は観松彦香殖稲尊と記す。 |
6代、孝安天皇の御世 |
【孝安天皇譚】 |
第六代孝安天皇は孝昭天皇の第2子である。即位の翌年に宮を室(むろ)に地に遷した。これを室秋津島宮(むろのあきつしまみや)という。玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に埋葬された。 |
孝安(こうあん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトタラシヒコクニオシヒト。古事記は大倭帯日子国押人命、日本書紀は日本足彦国押人尊と記す。 |
7代、孝霊天皇の御世 |
【孝霊天皇譚】 |
第七代孝霊天皇は孝安天皇の皇太子である。宮を黒田に遷した。これを庵戸宮(いおとのみや)という。孝霊天皇は治世76年目に崩御し、片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に埋葬それた。 |
孝霊(こうれい)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコフトニ。古事記は大倭根子日子賦斗邇命、日本書紀は大日本根子彦太瓊尊と記す。 |
8代、孝元天皇の御世 |
【孝元天皇譚】 |
第8代孝元天皇は孝霊天皇の太子だった。宮を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。その宮の伝承地が橿原市大軽町にある。孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御した。劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に埋葬された。 |
孝元(こうげん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコクニクル。古事記は大倭根子日子国玖琉命、日本書紀は大日本根子彦国牽尊と記す。 |
9代、開化天皇の御世 |
【開化天皇譚】 |
第九代開化天皇は第二子。日本書紀は孝元天皇の治世22年に、年16歳で皇太子になられたと記す。しかし、孝元天皇が治世57年に崩御されたのを受けて皇位を着いたのは、それから35年後のことである。即位の翌年、都を春日の地に移された。これを率川宮(いざかわのみや)という。 |
開化天皇(かいか)天皇のおくり名(和風諡号)はワカヤマトネコヒコオオビビ。古事記は若倭根子日子大毘々命、日本書紀は稚日本根子彦大日日尊と記す。 |
10代、崇神天皇の御世 |
【崇神天皇の御世の二神対立譚】 | |
「崇神天皇の御世の二神対立譚」が次のように記されている。
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トヨスキイリ姫=姫木豊鋤入姫。ヤマトトトビモモソ姫=。 | |
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「崇神天皇の御世の二神対立譚」は、崇神天皇が如何に天つ神と国つ神の対立に悩ませられていたかを物語っている。 |
【三輪山の大物主神祭祀譚】 | |||||||||||
崇神天皇は3人の后を持つ。后の一は、木(紀)国造のアラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)。トヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女を生む。后の二は、尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)。ヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女を生む。后の三は、オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)。イクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生む。 | |||||||||||
崇神天皇の御世、三輪山に大物主神を祀ったことが次のように記されている。これを仮に「三輪山の大物主神祭祀譚」と命名する。
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【崇神天皇の御世、出雲大神の神宝事件譚】 | ||||||
崇神天皇の御世、出雲の神宝を献上させている。次のように記されている。(「四道将軍遠征神話考」に詳しく記す)
後日談が次のように記されている。
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【崇神天皇の御世、全国征伐譚】 | |
崇神天皇は、いわゆる四道将軍が派遣され、大和王朝の支配権が広がった。旧出雲王朝勢力を抱き込み全国平定に乗り出し成功した。次のように伝えている。これを仮に「全国征伐譚」と命名する。
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オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。 |
【崇神天皇の御世、武埴安彦の変譚】 | ||
崇神天皇の御代の即位10年後、「武埴安彦の変」が発生している。これを仮に「武埴安彦の変譚」と命名する。
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オホビコの命=大昆古命。高志道=北陸道と比定されている。タケヌナカハワケの命=建沼河別命。ヒコイマスノミコ=日子坐王。丹波の国=京都と比定されている。クガミミノミカサ=玖賀耳之御笠。山城国=京都南部と比定されている。タケハニヤスノミコ=建波邇安王。オオビコ=。ヒコクニブクの命=日子国夫玖命。ミナキイリ彦=御真木入彦、美万貴入彦、御間城入彦天皇。 |
【崇神天皇の崩御譚】 |
別名をミマキイリ彦天皇と云われる第10代の崇神天皇は168歳まで生き、崩御後、山辺の道の勾(まがり)の岡のほとりに御稜を建てた。その治世をたたえて、「御肇國天皇」(「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」)と諡名(おくりな)されている。 |
れんだいこのカンテラ時評№1140 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 5月 6日 |
二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考 崇神天皇の諡名(おくり名)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。 「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」は実は、諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と同じに読まれているのかと云うことであろう。これをどう了解すべきかであろうか。 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下の始まり天皇」であり「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読む。 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持っていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力との「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。と云うことはつまり、国津神系旧勢力は「新日本」王朝の政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していたことになる。しかも、この勢力の方が概ね有能だった。これにより「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に大胆に、従来の討伐政策を転換し旧王朝「原日本」勢力の復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出すことになった。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」であり、神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読まれている。 これにより「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。大和王朝の始祖とする位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙付け難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められていると云う筆法であろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことであろう。 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は元邪馬台の国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」をかく解する。 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王説」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故にか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないようにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。 |
ネット検索で「古代史の論点」の「ハツクニシラス考」 に出くわした。これを確認しておく。それによると、井上光貞の「神話から歴史へ」(「日本の歴史1」)、・直木孝次郎の「日本神話と古代国家」等によって「二人のハツクニシラス論」が展開されたとのことである。神武紀が「始馭天下之天皇(神武)」、崇神紀が「御肇国天皇(崇神)」、「所知初国之御真木天皇」であることを確認した上で、「二人のハツクニシラス、即ち建国第一代がいるはずがない。神武は架空の存在であり、崇神が真の建国第一代である」としているらしい。 |
4/15(月) 12:12配信 、「崇神天皇~二皇子に下されし勅」。
皇紀513年=開化10年(前148年)、開化天皇の第二皇子として誕生された御間城入彦命(みまきいりひこのみこと)で、母は開化天皇の皇后・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)である。皇后・伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命(おおへそきのみこと)の娘である。皇紀531年=開化28年(前130年)1月5日、第二皇子・御間城入彦命が19歳で立太子される。先帝・開化天皇が崩御される32年前に立太子しておられ、その後皇位を巡る紛争などは起きていないので、崇神天皇即位に関しての問題はなかったと判断してよい。ところが、即位されてから9年後、後述の通り武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こしている。崇神天皇即位後に皇位を簒奪しようとして起こした反乱である。皇紀563年=開化60年(前98年)4月9日、先帝・開化天皇が崩御される。先帝・開化天皇が崩御されてから次の御間城入彦命が即位されるまでおよそ8ヶ月あまり経っている。御間城入彦命には異母兄の彦湯産隅命(ほこゆむすみのみこと、母は丹波竹野媛)がおられ、若干調整期間があったとも推測される。しかし結局は、先帝・開化天皇の皇后の皇子・御間城入彦命が即位されることになったのであろう。翌皇紀564年=崇神元年(前97年)1月13日、皇太子・御間城入彦命が崇神天皇として52歳で即位される。2月16日、孝元天皇の第一皇子・大彦命(同母兄)の女王である御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされる。大彦命は孝元天皇の第一皇子で父帝・開化天皇の同母兄だから皇后は従姉に当たる。皇紀566年=崇神3年(前95年)秋9月、都を大和国磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市)に遷された。
皇紀573年=崇神10年(前88年)、先々帝・孝元天皇の皇子で叔父の武埴安彦命が、妻の吾田媛(あたひめ)と反乱を起こす。御間城入彦命の即位に当たって武埴安彦命はかなりの不満を残した状況だったと推定される。しかし崇神天皇即位から9年後であるから、即位に対する不満というよりも、その後皇位が欲しくなっての反乱と考えるべきかとも思われる。しかも四道将軍が出征した直後に反乱を起こしているので、軍事空白を狙った反乱であった。武埴安彦命は孝元天皇の皇子で、先帝・開化天皇の異母弟であり、崇神天皇にとっては叔父に当たる。吾田媛は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)に、武埴安彦命は大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと)に討ち取られた。なお、彦国葺命は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の3世孫(4世孫という説もある)で、和邇臣(わにのおみ、和珥氏)の遠祖である。御間城入彦命は即位される三十三年前に立太子しておられるので、先帝の開化天皇ははっきりと早くから後嗣を決めておられる。しかも謀反を起こした武埴安彦命は兄弟や一族に討たれているので、崇神天皇即位については、大方の意思は統一されていたといえる。それに伯父の大彦命は四道将軍の一人として北陸道に、異母弟・彦坐王(ほこいますのみこと)の王子・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は丹波道に派遣され、いずれも崇神天皇を補佐しておられる。
皇紀611年=崇神48年(前50年)1月10日、天皇は「二皇子に下されし勅」を発せられる。皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、垂仁天皇)の異母兄弟をお呼びになり、「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」と言われる。二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る。夜明けに兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる。天皇はこれらの夢を占い、「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」と詔された。この夢占いとは別に、活目入彦命の母は皇后・御間城姫命(みまきひめのみこと)であり、豊城入彦命の母は妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であるから、母の身分を考えたら、崇神天皇の特別な寵愛でもない限り、活目入彦命の即位が決まっていたのではないかとも思われる。4月19日、弟の活目入彦命を立てて皇太子とされ、豊城入彦命には東国を治めさせた。東国を治められて、上毛野君や下毛野君の始祖となり、その末裔が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を治められた。皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、在位68年、119歳で崩御される。
2019年04月15日公開、吉重丈夫「第11代・垂仁天皇と狭穂彦王の叛乱」
11代、垂仁天皇の御世 |
【垂仁天皇譚】 | ||
「サホビコ(沙本毘古)の反乱」が次のように記されている。
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この御代に伊勢神宮が創建された。皇女倭姫が、神の導きのまま、伊勢国の五十鈴川の川上に建てたと伝えられている。天皇に伝えられる三種の神器のうちの八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀る。三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指す。つまり「八咫鏡」「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」(別名「草薙剣」)をさす。第12代景行天皇(在位71年~130年)の時代、皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東奔西走して活躍していた。叔母の倭姫より伊勢神宮で三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)を護身用に預かり、東国平定を行い、后のミヤズ姫の手元に預けて、帰国の途中なくなった。現在、草薙剣はミヤズ姫の親元であった尾張氏の本拠地であった熱田神宮で祀られている。 | ||
【ホムチワケノミコ譚】 | |
垂仁天皇と皇后・狭穂姫の間に生まれた皇子・ホムチワケノミコの神話譚。
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サホ姫=狭穂姫。ホムチワケノミコ=本牟智和気王、誉津別王。ヤマノベノオホタカ=山辺之大鷹。アケタツノミコ=曙立王。ウナカミノミコ=。キヒサツミ=岐比佐都美。ヒナガ姫=肥長比賣。 | |
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「ホムチワケノミコ譚」は、大和王朝の皇室が引き続き旧出雲王朝の怨霊に悩まされている事を明らかにしている。ホムチワケノミコ譚を通じて、神の宮(出雲大社)建立の経緯が伝えられている。 |
垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして富士山麓の開拓事業に着手している。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火していた。富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えている。 |
皇紀592年=崇神29年(前69年)1月1日、崇神天皇の第三皇子として磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で誕生された活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)は大彦命の娘・御間城姫命(みまきひめのみこと)である。皇紀615年=崇神52年(前46年)4月19日、活目入彦命(垂仁天皇)が19歳で立太子される。先帝・崇神天皇の崩御の20年前に、多数おられた皇子の中から、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦命をお呼びになり、夢占いをして後嗣を決めておられた。従って、誰も皇位を争うような状況下にはなかった。尚、異母弟に八坂入彦命(やさかのいりひこのみこと)がおられ、その女王・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)は次の景行天皇の妃となられ、成務天皇の母となられる。従ってこの異母弟・八坂入彦命は後の成務天皇の外祖父である。皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、崇神天皇が崩御された。皇紀632年=垂仁元年(前29年)1月2日、活目入彦命が41歳で即位される。同母弟に倭彦命(やまとひこのみこと)がおられたが、皇位を争われた記録はない。翌2年10月、宮を纒向珠城宮(まきむくたまきのみや、奈良県桜井市)に置かれた。
皇紀633年=垂仁2年(前28年)2月9日、祖父・開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますおう)の女王で従妹(皇族)の狭穂媛(さほひめ)を皇后に立てられた。皇紀636年=垂仁5年(前25年)、皇后・狭穂媛は謀反を起こした兄の狭穂彦王に味方し、戦陣で兄と共に焼死して命を絶たれた。天皇は倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた 崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命の子)に狭穂彦を討伐させるが、狭穂彦も稲を積んで城塞とし防戦する。八綱田はこれを包囲し、「皇后と皇子を引き渡せ」と迫るが応じないので城塞に火を掛ける。これは天皇の即位から4年後のことなので、皇位を簒奪しようとする反乱であった。皇后は生後間もない皇子を抱いて出てこられ、「私と皇子がいれば兄を許してもらえると思ったが、許されないのであれば私共はここで自害します。死んでも決して天皇のご恩は忘れません。私のしていた後宮のお役目は、丹波国にいる弟・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと 開化天皇の曾孫)の娘たち五人(姪)を召し入れて、補充してお使い下さい」と言われる。天皇はこれを聞き入れられ日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あさみにいりひめ)、竹野媛(たかのひめ)を妃とされた。狭穂彦と皇后・狭穂媛はそこで自害し薨去された。
皇紀661年=垂仁30年(1年)1月6日、天皇は皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)に「お前達、何が欲しいか言ってみよ」と言われた。兄は「弓矢が欲しいです」と言われ、弟は「天皇の御位が欲しいです」と申し上げる。天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と詔され、五十瓊敷入彦命には弓矢を賜り、大足彦忍代別命(景行天皇)には「お前は必ず我が位を継げ」と仰せられた。二人はどちらも丹波道主命の女・日葉酢媛命の皇子たちである。天皇としてはどちらを後継にしようかと迷われ、口頭試問によって決められたようである。先帝・崇神天皇は二人の皇子を呼んで夢占いをさせられたが、垂仁天皇は何が欲しいかを直接尋ねられ、その答えによって後嗣を決めておられる。いずれも天意を伺う祈りが込められている。他にも皇子は多数おられたが、この二人を選んで、その上で面接して後嗣を決められた。垂仁天皇の意向で早い時期に選んでおられる。 垂仁天皇が即位されてから五年後に狭穂彦と皇后・狭穂媛が皇位簒奪を目論んでの反乱を起こしたが、その後は問題は起きていない。皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、「天皇の御位が欲しいです」と答えられた第三皇子の大足彦忍代別命(21歳)を立てて皇太子とされる。しかし、口頭試問から7年が経過しているので、その間天皇は二人の様子を見ておられたものと思われる。皇紀730年=垂仁99年(70年)秋7月14日、天皇は纒向にて在位99年、140歳で崩御された。
12代、景行天皇の御世 |
【景行天皇譚】 |
【ヤマトタケル譚その1、熊襲征伐】 | |
景行天皇の段で、ヤマトタケルの尊の熊襲征伐が次のように語られている。
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オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。 |
【ヤマトタケル譚その2、出雲征伐】 | ||||||
ヤマトタケルの尊の出雲征伐が次のように語られている。
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【ヤマトタケル譚その3、東国征伐】 | |||||||||||
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ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。 |
【ヤマトタケル譚その4、三重山中で死す譚】 | |||||||||||
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【ヤマトタケルの白鳥伝説譚】 | |||||||||
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日本書記は、垂仁天皇の治世25年に5大夫を登場させている。5大夫とは阿倍臣、和邇臣、中臣連、物部連、大伴連。
第13代、成務天皇の御世 |
【成務天皇譚】 |
(私論.私見)