出雲王朝史5の2、国譲り神楽に見る国譲り神話考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).6.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみることにした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。

 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味があり、どれも外す訳にはいかないことを承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。

 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。

 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝


国譲り譚その10、親子勘評】
 こうして、いきなり次の「親子勘評の場面」となる。「勘評(かんひょう)」という言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。しかし、よく考えて評議するという意味ではあるらしい。
 親子勘評
大国主  早かりし早かりし。汝は一子、コトシロ主の命にてありけるかな」。
コトシロ主  「されば候。我、釣りの真っ最中においてイナセハギの命を急使に立て、はやばや、この土(ど)に呼び返し給いしは、なんらの用件にてましますか」。
(解説)  この口上が伝承原文だとすれば、大国主とコトシロ主の命は「一子」と申しながら実際の親子関係ではなく、擬制的な同盟関係の例えとして「一子」としていることになる。
大国主  されば候。なんじを呼び出したるは余の儀にあらず。今般、高天原よりフツヌシ、タケミカヅチの両神、天下り候いて、この豊葦原中津国を日の神に献上せよと候。汝、これにつきいかに考うるかや」。
コトシロ主  さればに候。戦をもって対するが常道のところ、こことは一つ堪え難きを堪えるのが良策かと存じ候」。
大国主  「して、どう堪え難きを堪えとな」。
コトシロ主  さればに候。戦をもって対すれば決着着かず、あるいは長き戦乱により国土が疲弊し、その間民百姓が途端の苦しみに遭い候。そこで、表向きの政治支配を高天原に譲り、我々は幽界に隠れ、宮造りを致し、世の泰平を司どらん」。
大国主  何とそちは、この豊葦原の中津国を差し出し和睦せよと申すか
コトシロ主  「作り良き鎮社社領を賜ることを高天原に認めさせ、生き延びることができるなら、これも一計、これが良策かと存じ候。この国はひとたびは日の神に献上為し、新たに生まれし王朝に参画し、我々の灯を繋いでいくのも一法。こたびは、高天原は戦も辞さぬ構えゆえ、双方共存の道を探るのが賢明かと存じ奉り候」。
大国主  「これはしたり。負うた子に教えられて浅瀬を渡るとはこのことかな。しからば、この国は日の神に献上為すとして、我々が生き延びていく保障を如何に取りつけるべきか。妙案はあるか、それが肝腎」。
コトシロ主  「されば候。そこを御命が如何に談判するかが肝腎と承り候」。
大国主  「天津(あまつ)日の 変わらぬ限り 皇孫(すめみま)の 深き守りと つかえまつらん」。

 大国主の命がコトシロ主の命と相談し、国土献上の決意をさせる。この時、「この国を顕界と幽界の二つに分け、顕界即ち政治の表向きを高天原に譲り、葦原中津国は幽界にて生き延びる」秘策が練られ、両者とも名案として承ったと推定される。こうして、親子勘評の結果、国譲り秘策が纏まる。

【国譲り譚その11、再度の国譲り掛け合い】
 国譲り
大国主  「御両神、立ち出で給えやな。
両神二  「大国主殿、コトシロ主の命との親子勘評の儀、いかがご決評あそばされ候やな」。
大国主  「されば候。親子勘評の結果、御国は献上致し申そう。但し、我々は祀(まつり)ごとにて幽界に生き延びて行かんとぞ思う。高天原はこれを保障し給うかや」。
神歌  顕(あらは)りの事は皇孫 幽事(すめみまかんごと)は大国主の神の御心
両神二  「されば候。大国主の命殿においては、出雲の国は神戸(かんど)の郡(ごおり)に一社ゆり立て、日本一社は杵築(きつぎ)大社と尊敬し、神戸六万石を献じ申さん。また、宮守として天補日(あめほひ)の神を献じ申さん。以後、万万歳に至るまで、御福の神として世に仰がれ給えやな」。
大国主  「こは有り難きことにて候。して、一子、コトシロ主の命はなんと祀りごとなし給うか」。
両神一  「されば候。コトシロ主の命におかれては、出雲の国は美保の岬において、左の社が美保津姫の命、右の社がコトシロ主の命、二社建って献じ申さんほどに。以後、万万歳に至るまで、作り、耕作の神として世に仰がれ給えやな」。
コトシロ主  「こは、ありがたきことにて候」。
大国主  「して、こたび仲裁に骨折り下されたイナセハギの命には」。
両神二  「されば候。イナセハギの命においては、大神山の裏山において、さぎの浦さぎ大明神と祀り申さん。以後、万万歳に至るまで、ほうそうの守護神として世に仰がれ給えやな」。
大国主  こは、ありがたきことにて候。このことを、イナセハギの命に伝え申さん。
両神一  他に申せしことあるか」。
大国主  されば候。高天原が政治の実権を司ることは良かれ、我々が幽事に於いて為す先祖伝来の神事につき構う事勿れ。我が国では、神と命と民百姓は氏親氏子で繋がって居る。折々の神事祭りを許し給うこと約束できるか」。
事代主  畏まりて候。高天原にその儀伝え、御命の意向を叶えん」。
大国主  さすれば、国譲りの証しとして、天の平鉾の剣を献じ申さん。以後、荒ぶる神出でたる時は、この平鉾の剣をもって、めっこみじんに打ち砕き、世を安穏に治め給えやな」。
両神一  「こは、ありがたきことにて候。平鉾の剣は堅く受け取り、日の神の納所どころに納めるにて候」。
大国主  「しからば、一首の神歌をもって宮入りなし申さん」。
神歌  「天津神(あまつかみ) 国津社(くにつやしろ)と 祝いてぞ 豊葦原の 国は治まる」。
神歌  「荒埴(あらはに)のことも 皇孫(すめみま)大君の 大国主の 神の御心」。
神歌  高御座 天津日嗣と 日御子の 受け伝えます 道はこの道
両神二  「しからば、これにて、しばらくのおいとまごいにて候」。
 大国主命、コトシロ主の命と舞い上がる
神歌  「まつろわば 神も助けん 仇(あだ)なさば 切り平らげて 国や治まる」。
 両神の幣舞
 同じく刀舞
 日本書紀第九段一書(二)が次のように補足している。
 そこでタカミムスビの尊は再び二神を還り遣して大己貴神に「今、汝が言う所の者を聞くに、深くその理(ことわり)あり。故、更に條(おちおち)にして勅(みことのり)す。それ汝が治(しら)す顯露(あらは)(現世)の事は、これ我が孫(みま)治すべし。汝は以ちて神事(かむこと)治すべし。また、汝が住むべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今、まさに供え造らん。即ち千尋(ちひろ)の繩(たくなわ)を以ちて、結(ゆ)いて百八十紐(ももあまりやそむすび)とし、その宮を造りし制(のり)は、柱は則ち高く大きに、板は則ち廣く厚くせん。また、田を供え佃(つく)らん。又、汝が海に遊び(釣り)往来の具(そなえ)て、高橋・浮橋及び天鳥船(あまのとりふね)を供え造らん。また、天安河(あまのやすかわ)にまた打橋(うちはし)造らん。また、百八十縫(ももあまりやそぬい)の白楯(しらたて)を供え造らん。また、汝が祭祀(まつり)を主(つかさど)らんは、天穗日命(あまのほひ)これなり(天穂日命に掌らせよう)」と勅(みことのり)を伝えた。 

 大己貴神は、「天神(あまつかみ)勅(みことのり)の申し出、かくは慇懃(ねんごろ)なり(行き届いている)。敢(あえ)て命(みことのり)に従がわざらんや。我が治せる顯露(あらわ)の事は皇孫まさに治すべし。我はまさに退(しりぞ)きて幽事(かくれこと)治さん」と返事をし、岐神(ふなとのかみ)を二神(ふたはしらのかみ)に薦(すす)めて「これまさに我に代りて従い奉るべし。(私に代わってお仕するでしょう)我、まさにここより避(しりぞ)き去らん」と言って、自身に瑞之八坂瓊(みづのやさかに)を身に付けて長く隱れた。 

 日本書紀は次のように記している。
 使者稻背脛が帰って報告すると、大己貴神はその子の言葉を聞いて、二神に「我が怙(たの)めし子は既に避去(さ)りぬ。故、我もまたまさに避るべし。如(も)し、吾、防禦(ふせ)がば、國の内の諸神たち、必ずまさに同じく禦(ふせ)がん。今、我、避り奉(たてまつ)らば、誰かまた敢(あえ)て順(まつろ)わん者有らん」と申し上げた。そして国を平定した時に杖(つえつき)し(用いた)廣矛(ひろほこ)を二神に授け「我、この矛を以ちて、卒(つい)に功(こと)治(な)せるあり。天孫もしこの矛を用(も)て國治(しら)さば、必ずまさに平けく安からん。今、我、まさに百不足之八十隈(ももたらずやそくまで)に隱去(かくれ)なん」と言って、言い訖(おわ)りて遂に隱れき。
 大国主の命は、出雲の国、神戸(かんど)の郡(ごおり)に社領六万石をもらい、杵築(きつぎ)大社を建て、福の神として祀(まつ)られる。今の出雲大社である。こうして大国主の命は出雲大社に拠ることとなった。その社殿は、高天原系が建立する神明造りに比して大社造りと云われる。神明造りの代表が天つ神系の伊勢神宮、大社造りの典型が国つ神系の出雲大社ということになる。神明造りは軒が正面、大社造りは破風(はふ)が正面にくる。有名なドイツの建築家・ブルーノ・タウトは、日本建築の粋として神明造りを挙げているが、神明造りも大社造りも長短つけがたい。

 また、コトシロ主の命は、美保の岬に、妻の美保津姫の命と共に美保両神社として祀られ、耕作の神となる。この間仲裁役として さんざん苦労したイナセハギの命は、島根半島西端のさぎの浦に、ほうそう(疱瘡)の神、さぎ大明神として祀られる。一説に「法曹」の守護神ともいう。こたび見せた名采配が法曹事に当てはまることからかも知れない。

【国譲り譚その12、国譲り後の葦原中國平定譚】
 国譲り後、二神は諸(もろもろ)の不順(まつろ)わぬ鬼神等を誅し(成敗)した。あるいは、邪神及び草木・石の類を誅しすっかり平定した。残る服(うべな)わぬ(従わない)者は星神香香背男(ほしのかがせお)だけであった。そこで倭文神(しとりがみ)である建葉槌命を加え遣わして服従させた。そして二神は天に報告に戻った。

 この一書では古事記に似た葦原中國平定が記されている。しかし、タケミカヅチの神はフツヌシの神の従神的役割で、さらにイナセハギという神も登場する。そして不順わぬ神、星神香香背男が登場し、その神は倭文神の建葉槌命が服従させるなど、古事記と大きく異なる点も一部にみられる。

 日本書紀第九段本文が次のように補足している。
 「一云。二神遂誅邪神及草・木・石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。故加遣倭文神。建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神。此云斯図梨俄未。果以復命」。
 「次のような伝聞がある。二神は遂に邪神及びその系類の草、木、石類に至るまで誅し、ことごとく平らげた。但し、星神の香香背男耳のみ服しなかった。故に倭文(わぶみ)神が新たに加遣され、建葉槌の命なる者を征服した。これにて二神が天に登り帰った。倭文神とは、ここで云う斯図梨俄未のことである。この神は復命を果たした」
 こうして、フツヌシの神は岐神を以ちて国の先導役とし、周囲を巡り平定していった。命(みことのり)に逆らうあれば即ち斬戮を加え(斬り殺し)、帰順(まつろ)う者には褒美を与えた。この時に、帰順(まつろ)う首渠(ひとごのかみ)は、大物主神(おおものぬし)及びコトシロ主の命であった。そして大物主の命とコトシロ主の命は八十萬神(やおよろずのかみ)を天高市(あまのたけち)に合めて、率いて天に昇り、その柔順の至りを示した。この時にタカミムスビの尊は大物主の命に「汝もし國神(くにつかみ)を以ちて妻となせば、我、猶(なお)汝に疏(うと)き心ありと謂わん。故、今、我が女(むすめ)三穗津姫(みほつひめ)を以ちて汝(いまし)に配(あわ)せて妻となさん。宜(よろ)しく八十萬神を領(ひき)いて永く皇孫の護り奉れよ」と勅し、帰り降らせた。かくて、大国主、事代主は、両神に屈し、わずかな社領で隠棲することになった。

【国譲り譚その13、軍人頭のタケミナカタの命の談判譚】
  しかし、ここに腹の虫がどうしても納まらない神がいた。大国主の二男、通称「黒鬼」と呼ばれるタケミナカタの命が登場する。文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。これを仮に「国譲り譚その13、軍人頭のタケミナカタの命の談判譚」と命名する。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。「越」の場所は諸説あるが新潟県の糸魚川に比定する説が有力である。軍事的・経済的側面から見ると富山の可能性もある。後に、長野県の諏訪湖の諏訪神社の諏訪明神。 

 備中神楽では、フツヌシの尊、タケミカヅチの尊の両神が持っている幣を幕内に投げ込むと、待っていたとばかりに、タケミナカタの命が現れる。鬼気漂うこの神を相手に、両神が合戦の準備をする舞を「幕掛かり」と云う。神楽社によっては「山懸かり」とも云う。前者は、幕内にいる鬼を迎える意味であろうが、後者は、大きな山場にかかるから、とも解釈できる。この舞は、すべての神楽舞の中で最も男性的、かつ華やかなもので、観客の心に一種の爽快さを与える。加えて太鼓のリズムが勇壮である。
 
 この役は、神楽太夫のうち、できるだけ若い方がいい。老練さは評価できても、年輩の者では物足りない。なぜならば、素顔で舞う二枚目役だからである。前半は幣(へい)を使い、後半は刀を扱う。両神の呼吸がぴったり一致し、きびきびと、しかも、切れのいい舞でなければならない。絵でこれを表現するのは難しい。

 建御名方の命が重厚な舞をしたあと、舞台の中央で素元(すもと)を杖にして一息ついているところへ、両神が躍り出て、横合いから素元を激しく叩くと、建御名方の鬼は弾かれたように一回転して、両神と向かい合う。しばらくはにらみ合いの状態で、大きく右回りをしながら、隙を狙う。ここまでを「大仕合(一)」と云う。


(解説)  記紀神話では、もう一人の息子である力持ちのタケミナカタが大きな岩を抱えて登場する。タケミナカタは、フツヌシ、タケミカヅチ両神に立ち向い、国譲りを承服できないとして拒否回答を突きつけた。次のような問答が交わされた。
タケミナカタ  「誰だ。わたしの国にやってきてひそひそと話をしているのは。人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。
両神一  「そうだ。この国をもらい受けに来た。悪鬼にして荒らぶるそなたは何者ぞ、いかなる奴か、その儀、姓名答えて参れ」。
タケミナカタ  おうー、我がことを尋ぬるかや。我こそは大国主命の二男、タケミナカタの王子なり。尋ぬるなんじら、いかなる者か。その儀、答えて参れ」。
両神一  「大国主、コトシロ主、親子勘評の結果、国は着々と受け取ったり。汝一人(いちにん)なんと手向かい申すか」。
タケミナカタ  「なに、国は着々と受け取ったと申するか。そんな暴力が許されると思うのか。我一人、国譲りの妨げをなしてみせるが、返答いかに」。
両神二  「これはアマテラス様のご命令だ。汝一人、国譲りの妨げなすとあらば、互いに素元を投げ捨て一寸のじんず比べ申そうか(真剣勝負試み申そうか)」。
タケミナカタ  「ならば一戦交えるのみである。望むところは力比べの戦場なり。しからば、いざ」。
両神  「しからば、いざ」。  
 太刀での大仕合

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。記紀神話では、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応じず、両者の力比べが始まったことを明らかにしているタケミナカタが大岩を投げ捨て、タケミカヅチの腕を握り取って掴み投げようとしたところ、タケミカヅチの腕から先が氷柱(つらら)になり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、タケミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。それを見たタケミナカタが恐れおののいて引き下がると、今度はタケミカヅチが同じようにタケミナカタの手を握ると、若い葦(あし)の芽を握りつぶすように易々と手を握りつぶした上に、そのままタケミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、タケミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩している。なお、これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる。

国譲り譚その14、鬼合戦譚】
 備中神楽では次に「太刀での大仕合(二)」に入る。太鼓が急調子に変わると、素元の打ち合いが始まる。やがて、素元を握り合ったまま押し合いとなり、鬼の方が両神を追い詰め、馬乗りになって威嚇したり、反対に両神が鬼を舞台の隅に押さえつけたりする。前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。

 軍人頭のタケミナカタは応戦したものの次第に形勢不利となり、その軍勢は科野(しなの、信濃、現在の長野県)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の古くからの在地豪族の洩矢の神(もれやの神。下社近くの御射山(みさやま、現在は霧ヶ峰という)を御神体としている)が抵抗し、力比べをして敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。

 これをタケミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したタケミカヅチと形勢不利を認めたタケミナカタは、手打ちすることになった。これを仮に「国譲り譚その14、鬼合戦譚」と命名する。

国譲り譚、出雲の國 國譲り決戦地(発祥地)譚】
 島根県出雲市斐川町の左上(北西)端の川向こうは出雲市と云う斐伊川の堤防下に位置する鳥屋社。風土記、延喜式に載る神社で、タケミナカタ(建御名方)の命を祀る。

 境内に、「出雲の國 國譲り決戦地(発祥地)」とある。鳥屋神社(とやのかみやしろ)。古事記、国譲りの条に「国譲りに最後まで反抗された、出雲国唯一剛勇の神タケミナカタは、高天原からの国譲り交渉の使者タケミカヅチ(建御雷命)に対して、千引きの岩を両手で捧げ「我が国に来てわけもないのに国を譲れとはけしからん」と、その岩を投げつけられた。しかし、タケミカヅチ巧みにそれを避けて反撃。二神の争いはしばらく続いたが、タケミナカタの力及ばず信濃の国の諏訪まで逃げられ、ついに降参され国譲りを認められた」とある。投げられた千引きの岩は内海に立ち、そこへ多くの鵠(白鳥)が群がった。里人達はその風景がまさに鳥小屋のように見えたので、この地が鳥屋という地名になったと云う。

 その岩の上に建御名方命ご鎮座の鳥屋社が造営されている。本社八尺に九尺、拝殿二間に三間、寛永年中建立の棟札。祭日五月朔日、九月十九日神事あり。(中略)「〔出雲郡〕雲陽誌 巻之八」によれば、「大川(斐伊川)広さ二百九十間、土手長さ四百八十、根置十五間、高さ二間一尺」。「本殿は大社造ではないが、出雲大社と同じ心の柱がある。ただし、上までは繋がっていない。本殿内は、ここでは緞帳(どんちょう)で仕切られているが、出雲大社と同じ向きになっている」。「この祭神は大和(現・奈良)にお尻を向けている」。

国譲り譚その15、出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの手打ち譚】
 タケミナカタの抵抗は限界に近づき、形勢不利を認め次の和睦条件を打ち出した。
1・タケミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。
2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認める。
3、タケミナカタが子々孫々にわたって信濃から出ないことを天地神明に誓う。

 タケミナカタがかく誓約し、タケミカヅチがタケミナカタの産土活動を認めたことにより和睦がなった。タケミカヅチが掃討戦を打ち切りった。これによれば条件降伏ではない。和議と解するべきだろう。タケミナカタが全面降伏且つ命乞いしたかのように記すものがあるが、虚説である。以降、タケミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売の命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった。タケミナカタのその後は「諏訪大社考」で考察する。

 信州(長野県)は北東に出れば越後。西と南に出れば美濃、尾張、三河。東に向かえば関東に出られる。東山道を使えば京の都にも出られる。諏訪の地は古代の交通の要衝であり軍事的にも重要拠点だった。
 

 この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。問題は、タケミナカタが如何なる必然性で諏訪に逃げ込んだのかであるが分からない。分からないままであるが相当の根拠があったと見なしたい。

 諏訪大社は諏訪湖を中心に神域が40ヘクタールにも及ぶ。多数の神社で構成されており、その中核は諏訪湖南岸の上社と下社、北岸の下社に分かれている。更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれていて、本宮と前宮、春宮と秋宮の間はそれぞれ1kmほど離れている。各々の御祭神は、本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神、下社はどちらも両神を祀る。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。

タケミナカタ  「いかに戦えども、負けはせぬが勝つこともできない。御命に従うとならば、その条件を示されたし」。
両神二  「神妙なることを申するかや。しからば、信州は諏訪野において、諏訪神社と祝い納むるによって、立ち上がって、宮入りなし申せ。タケミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。次に、アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認めよ。この条件でどうだ」。
タケミナカタ  「こは、ありがたきことにて候」。
(解説)  「うう~ん残念無念、情けなや、口惜しや」と悔しがっている神楽もある。いずれにせよ、双方これを受け入れ和議がなった。
 舞い上げの太鼓
 両神、建御名方命とも祝い込み
全員  さて、ありがたや。大国主命においては、出雲の国は神戸の郡に、大宮柱を等しくゆり立て、日本一社は杵築大社と祝い納める。さてまた、コトシロ主の命においては、出雲の国は美保の岬に、左の社が美保津姫命、右の社がコトシロ主の命と、美保両神社と祝い納める。さてまた、タケミナカタの王子においては、信州諏訪の大地、諏訪の神社と祝い納める。天下は泰平、国家は安全、当所は繁栄、治まる御代こそめでたかりける」。
神歌  「剣(つるぎ)をば 未だ御門(みかど)の宝にて 呪詛怨敵(じゅそおんてき)は 遠く退く」。

 「祝い込み」で完結する。これを仮に「国譲り譚その15、出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの手打ち譚」とする。

【国譲り譚その16、来航族と出雲王朝の国譲り最後の談判譚】
 タケミカヅチはこうしてコトシロ主とタケミナカタの双方を平定し、大国主の命との最後の談判が行われた。これを仮に「国譲り譚その16、来航族と出雲王朝の国譲り最後の談判譚」と命名する。この時、次のような問答が交わされた。
タケミカヅチ  「お前が申し出た二人の子は、アマテラス様の御子の命令に従うと申した。改めて問う、お前はどうなんだ」。
大国主  「わたしの子である二柱の神が従うことになった以上私も同意しのせう。葦原中国を献上しアマテラスの支配に任せませう。ただ、私どもが創始した母里の国を献上する代わりに、私の住む地を神領地として与えて下さり、天つ神の御子が日継(ひつぎ)を受け継ぐ時に住む御殿のように、そこに宮柱を太く、千木高き宮殿を建てること、私どもが神々を祀る祭祀権は認めていただきたい。それさえ保障されるなら私は顕露事の政治から身を引き、幽事のみ治め幽界(黄泉の国)に隠居することを約束する」。
タケミカヅチ  「願いを聞き届けよう」。
大国主  「もう一つ。我が王朝の有能な子供たちを登用してください。彼らが先頭にたって、あるいは後尾に立ってお仕えすれば皆が倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。
タケミカヅチ  「承った」。

 大国主は、出雲の祭祀を司る広矛を差し出した。タケミカヅチは本拠に凱旋し、大国主の命の国譲り条件の申し出をアマテラス大神とタカギムスヒ神に申し上げた。高ミムスビの神は、「勅」(みことのり)を発し、「今、汝が申すことを聞くに、深くその理有り」と了承し、次のように述べている。
 「汝は神の事を治めよ。また、汝は天日隅宮(出雲風土記の日栖宮にして杵築大社、今の出雲大社)に住むべし、いま造ろう。即ち千尋(非常に長い)の栲縄(コウゾなどの皮でよりあわせた縄)をもって結び百八十紐にしよう。その宮は柱は高く、太く、板は幅広く、厚く云云。そして汝の祭司は天穂日命とする」。

 これにより、1・汝は政治から手を引き、神事のみを司る。2・汝が住む天日隈宮の造営を認める。但し、アメノホヒの命が祭祀を司る。3・汝は国つ神と婚交せず、我が娘ミホツ姫を妻とせよ、という条件を出した。玉虫色のまま双方が条件を飲み、こうして、出雲王朝から来航族へ政治支配が移った。

 こうして、出雲の多芸志(たぎし)の小浜に天の御舎が造られた。

 水戸神の孫であるクシヤダマ神は料理人となって、天つ神のためにご馳走を作ろうと、燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりぎね)をつくって火を起こして、こう言った。「わたしが起こした火を、高天原のカミムスビ神が新しく住む住まいにまで煙が届くように、底に深くの石まで焼き固まるまで、燃やしましょう。丈夫に作った縄を打ち投げて釣りをする漁師が釣った大きなスズキを、さわさわと引き寄せて、料理を乗せる台がたわんでしまうほど大量の魚料理をお供えしましょう」。

 大国主の命のその後は「出雲大社考」で考察する。
(私論.私見)
 「来航族と出雲王朝の国譲り最後の談判譚」は、出雲王朝が、来航族の軍門に屈したことを明らかにしている。

 ところで、古事記と出雲国風土記の記述は、国譲りの描き方が食い違いっている。古事記は、大国主神が、「葦原中国はすべて献上する。ただ、我が住所すみかを壮大に造ってくれれば、根の国に隠れよう」と述べたとある。風土記は、大穴持大神(大国主)は、「我が造り治めた国は奉る。ただ、八雲立つ出雲の国は我が静まります国であり、青垣山を廻らし、玉を置いて守る」と述べたとある。つまり、王朝は譲るが、代わりに祭祀権を保障せよ、と主張していることになる。 大国主の完全屈服かどうかが問われていることになる。実際には、大国主の言い分が辛うじて通り本領安堵され、出雲王朝の命脈が保たれ、それが為その後も「眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわす」ことで隠然とした影響力を持ち続けていくことになったと思われる。補足すれば、ここで言い条されている祭祀権の内実の幅が肝要であり、宗教的祭祀権ブラスアルファートしての言語、国旗、国家、風俗、習慣、祖先崇拝等々の最低限の国體権までも視野に入れられていたものではなかろうか。もしこれが認められるならば降伏的なものではなく戦略的なものであったことになろう。私は、この後者の方の国譲りだったのではなかろうかと推理する。いずれにせよ、国譲りは、理不尽なものであった。この理不尽さがその後の来航族の東征、そこから出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。ここが日本歴史の裏面史であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。

【皇孫の火瓊瓊杵尊の葦原中國降臨時のやりとり】
 ところで、古代史上最大の政変「出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争型ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この和合融和方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに影響していくことになる。聖徳太子の「和の政治」もこれに当ると思われる。今もその影響を受けていると云うべきだろう。恐らく、それは今やDNAになっており、これを放擲して決戦的絶滅戦争型に転換するには及ばないであろう。むしろ、尊重していくことの方が望まれている、日本人の体質に合っていると窺うべきではなかろうか。

 この「硬軟両様、手打ち、和合融和」と云う日本政治の質は「現代に至る迄底流となって流れ続けており、国民性ともなる重大問題であり、日本の今後の歴史に、いろいろな面に形となって多く現われてくることであろう」。

 2006.12.15日 れんだいこ拝

 中入れ
 鬼を舞った太夫が、汗をふきながら、観客に「これをもちまして、しばらく中入れといたします」とあいさつして、国譲りの能が終わり幕を閉じる。

【来航族の火瓊瓊杵尊の葦原中國降臨時のやりとり】
 国譲り後は天孫降臨に繫がる。日本書紀第九段一書(六)は次のように記している。
 皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原中國に降臨し奉るに至るに及び、高皇産靈尊は八十諸神(やそもろかみ)に、「葦原中國(あしはらのなかつくに)は、磐根(いわね)・木株(このもと)・草葉(くさのは)も猶(なお)よく言語(ものい)う。夜は火(ほほ)の若(もろこ)に(火の粉の様に)喧響(おとな)い(喧しく)、晝は如五月蠅(さばえな)す沸き騰(あが)る」と勅す。(中略)




(私論.私見)