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大君は神にしませば天雲の雷のうへに廬せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿
天皇(持統天皇)雷岳(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献った歌である。
一首の意は、天皇は現人神にましますから、今、天に轟く雷の名を持っている山のうえに行宮を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随にましますというのである。
これは供奉した人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。雷岳は藤原宮(高市郡鴨公村高殿の伝説地)から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或は、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或は支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎み、歌を味うものは心を引締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出来る。人暦は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知るに近いのであるが、賀茂真淵此歌を評して、「岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり」(新採百首解)と云ったのは、真淵は人麿を理会し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに従った。此は荒木田久老(真淵門人)の訓である。
この歌、或本には忍壁皇子に献ったものとして、「大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます」となっている。なお「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井を京師となしつ」(巻十九・四二六〇)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ」(同・四二六一)、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」(巻三・二四一)等の参考歌がある。
右のうち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行で大伴安麿の兄に当り、高市大卿ともいい、大宝元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺に馬の臥しているさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、巻十九で云うのを此処で一言費すことにした。四二六一は異伝で童謡風になっている。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いたのは、天平勝宝四年二月二日だとことわってあるから、その辺の事情は好く分からない。
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否といへど強ふる志斐のが強ひがたりこの頃聞かずてわれ恋ひにけり 〔巻三・二三六〕 持統天皇
否といへど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏せ強語と詔る 〔巻三・二三七〕 志斐嫗
この二つは、持統天皇と志斐嫗との御問答歌である。此老女は語部などの職にいて、記憶もよく話も面白かったものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう沢山だといっても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなった。第二の歌は嫗の和え奉った歌で、もう御話は止しましょうと申上げても、語れ語れと御仰せになったのでございましょう。それを今無理強いの御話とおっしゃる、それは御無理でございます。二つは諧謔的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによって知ることが出来る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麿の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ「天皇」とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考えている。さすれば天皇の歌人としての御力量は、「春過ぎて夏来るらし」の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当らぬものだかということを証明するものである。「志斐い」の「い」は語調のための助詞で、「紀の関守い留めなむかも」(巻四・五四五)などと同じい。山田博士は、「このイは主格を示す古代の助詞」だと云っている。
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大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声 〔巻三・二三八〕 長意吉麻呂
長忌寸意吉麻呂が詔に応え奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう。
海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人数を揃えいろいろ差図手配する海人のこえが、離宮の境内まで聞こえて来る、という歌である。応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでいる。併しありの儘を詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨く行くものでは無い。
また、この歌は応詔の歌であるが、特に帝徳を讃美したような口吻もなく、離宮に聞こえて来る海人等の声を主にして歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっているのを見ると、万葉集に散見する献歌の中に、強いて寓意を云々するのは間違だとさえおもえるのである。例えば、「うち手折り多武の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(巻九・一七〇四)という、舎人皇子に献った歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく「詔」でも、属目の歌を求められる場合が必ずあるだろうとおもうからである。
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滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに 〔巻三・二四二〕 弓削皇子
弓削皇子(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。滝は宮滝の東南にその跡が残っている。三船山はその南にある。
滝の上の三船の山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分等はああいう具合に常住ではない。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨があって、人麿の、「いさよふ波の行方しらずも」などとも一脈相通ずるものがあるのは、当時の人の心にそういう共通な観相的傾向があったとも解釈することが出来る。なお集中、「常にあらぬかも」、「常ならめやも」の句ある歌もあって参考とすべきである。いずれにしても此歌は、景を叙しつつ人間の心に沁み入るものを持って居る。此御歌に対して、春日王は、「大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(巻三・二四三)と和えていられる。
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玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の埼に船ちかづきぬ 〔巻三・二五〇〕 柿本人麿
これは、柿本朝臣人麻呂 旅歌八首という中の一つである。 旅八首は、純粋の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ帰る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思う。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬を通って、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島の埼に近づいた、というのである。
内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純が好いので、そのため、結句の、「船ちかづきぬ」に特別の重みがついて来ている。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂う意味の内容が簡単になるわけである。この歌の、「船近づきぬ」という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。万葉集中では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・四八)、「風をいたみ奥つ白浪高からし海人の釣舟浜に帰りぬ」(巻三・二九四)、「あらたまの年の緒ながく吾が念へる児等に恋ふべき月近づきぬ」(巻十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客観的であって、感慨のこもっているものである。第三句、「夏草の」を現実の景と解する説もあるが、これは、「夏草の靡き寝」の如きから、「寝」と「野」との同音によって枕詞となったと解釈した。またこう解すれば、「奴流」(寝)は「奴島」(巻三・二四九)のヌと同じく、時には「努」(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎(巻十七・三九七八)の、「奴由伎」は「野ゆき」であるから、「奴」、「努」の通用した実例である。即ち甲類乙類の仮名通用の例でもあり、野の中間音でヌと発音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だということも分かるのである。また現在淡路三原郡に沼島村があるのは、野島の変化だとせば、野島をヌシマと発音した証拠となる。
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稲日野も行き過ぎがてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ 〔巻三・二五三〕 柿本人麿
人麿作、これも八首中の一つである。稲日野は印南野とも云い、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石三郡にわたる地域をさして云っていたようである。約めていえば、稲日野は加古川の東方にも西方にも亙っていた平野と解釈していい。可古島は現在の高砂町あたりだろうと云われている。島でなくて埼でも島と云ったことは、伊良虞の島の条下で説明し、また後に出て来る、倭島の条下でも明かである。加古は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
一首の意は、広々とした稲日野近くの海を航していると、舟行が捗々しくなく、種々ものおもいしていたが、ようやくにして恋しい加古の島が見え出した、というので、西から東へ向って航している趣の歌である。
「稲日野も」の「も」は、「足引のみ山も清に落ちたぎつ」(巻六・九二〇)、「筑波根の岩もとどろに落つるみづ」(巻十四・三三九二)などの「も」の如く、軽く取っていいだろう。「過ぎがてに」は、舟行が遅くて、広々した稲日野の辺を中々通過しないというので、舟はなるべく岸近く漕ぐから、稲日野が見えている趣なのである。「思へれば」は、彼此おもう、いろいろおもうの意で、此句と、前の句との間に小休止があり、これはやはり人麿的なのであるから、「ものおもふ」ぐらいの意に取ればいい。つまり旅の難儀の気持である。然るに従来この句を、稲日野の景色が佳いので、立去り難いという気持の句だと解釈した先輩(契沖以下殆ど同説)の説が多い。併しこの場合にはそれは感服し難い説で、そうなれば歌がまずくなってしまうと思うがどうであろうか。また用語の類例としては、「繩の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(巻三・三五四)があって、私の解釈の無理でないことを示している。
この歌は 旅中の感懐であって、風光の移るにつれて動く心の儘を詠じ、歌詞それに伴うてまことに得難い優れた歌となった。そして、「心恋しき加古の島」あたりの情調には、恋愛にかようような物懐しいところがあるが、人麿は全体としてそういう抒情的方面の豊かな歌人であった。
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ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 〔巻三・二五四〕 柿本人麿
人麿作、 旅八首中の一。これは西の方へ向って船で行く趣である。
一首の意は、〔ともしびの〕(枕詞)明石の海門を通過する頃には、いよいよ家郷の大和の山々とも別れることとなるであろう。その頃には家郷の大和も、もう見えずなる、というのである。「入らむ日や」の「や」は疑問で、「別れなむ」に続くのである。
歌柄の極めて大きいもので、その点では万葉集中稀な歌の一つであろうか。そして、「入らむ日や」といい、「別れなむ」というように調子をとっているのも波動的に大きく聞こえ、「の」、「に」、「や」などの助詞の使い方が実に巧みで且つ堂々としておる。特に、第四句で、「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で、「家のあたり見ず」と独立的にしたのも、その手腕敬憬すべきである。由来、「あたり見ず」というような語には、文法的にも毫も詠歎の要素が無いのである。「かも」とか、「けり」とか、「はや」とか、「あはれ」とか云って始めて詠歎の要素が入って来るのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、「あたり見ず」で充分詠歎の響があり、結句として、「かも」とか、「けり」とかに匹敵するだけの効果をもっているのである。この事は、万葉の秀歌に随処に見あたるので、「その草深野」、「棚無し小舟」、「印南国原」、「厳橿が本」という種類でも、「月かたぶきぬ」、「加古の島見ゆ」、「家のあたり見ず」でも、また、詠歎の入っている、「見れど飽かぬかも」、「見れば悲しも」、「隠さふべしや」等でも、結局は同一に帰するのである。そういうことを万葉の歌人が実行しているのだから、驚き尊敬せねばならぬのである。こういう事は、近く出す拙著、「短歌初学門」でも少しく説いて置いた筈である。
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天ざかる夷の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より倭島見ゆ 〔巻三・二五五〕 柿本人麿
人麿作、 旅八首中の一。これは西から東へ向って帰って来る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思いつづけて来たのであったが、明石の海門まで来ると、もう向うに大和が見える、というので、 旅の歌としても随分自然に歌われている。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊かだということである。そしていて、浮腫のようにぶくぶくしていず、遒勁とも謂うべき響だということである。こういう歌調も万葉歌人全般という訣には行かず、家持の如きも、こういう歌調を学んでなおここまで到達せずにしまったところを見れば、何の彼のと安易に片付けてしまわれない、複雑な問題が包蔵されていると考うべきである。この歌の、「恋ひ来れば」も、前の、「心恋しき」に類し、ただ一つこういう主観語を用いているのである。一、二参考歌を拾うなら、「旅にして物恋しきに山下の赤のそほ船沖に榜ぐ見ゆ」(巻三・二七〇)は黒人作、「堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける」(巻二十・四四六一)は家持作である。共に「恋」の語が入っている。
なお、人麿の 旅歌には、「飼飯の海の庭よくあらし苅ごもの乱れいづ見ゆ海人の釣船」(巻三・二五六)というのもあり、棄てがたいものである。飼飯の海は、淡路西海岸三原郡湊町の近くに慶野松原がある。其処の海であろう。なお、人麿が筑紫に下った時の歌、「名ぐはしき稲見の海の奥つ浪千重に隠りぬ大和島根は」(同・三〇三)、「大王の遠のみかどと在り通ふ島門を見れば神代し念ほゆ」(同・三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が余り多くなるので、従属的に此処に記すこととした。新羅使等が船上で吟誦した古歌として、「天離るひなの長道を恋ひ来れば明石の門より家の辺見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている。
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矢釣山木立も見えず降り乱る雪に驟く朝たぬしも 〔巻三・二六二〕 柿本人麿
柿本人麿が新田部皇子に献った長歌の反歌で、長歌は、「やすみしし吾大王、高耀る日の皇子、敷きいます大殿の上に、ひさかたの天伝ひ来る、雪じもの往きかよひつつ、いや常世まで」という簡浄なものである。この短歌の下の句の原文は、「落乱、雪驪、朝楽毛」で、古来種々の訓があった。私が人麿の歌を評釈した時には、新訓(佐佐木博士)の、「雪に驪うつ朝たぬしも」に従ったが、今回は、故生田耕一氏の「雪に驟く朝楽しも」に従った。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久とあって、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであろう。この歌は、大体そう訓んで味うと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。「矢釣山木立も見えず降りみだる」あたりの歌調は、人麿でなければ出来ないものを持っている。結句の訓も種々で考のマヰリクラクモに従う学者も多い。山田博士は、「雪にうくづきまゐり来らくも」と訓み、「古は初雪の見参といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候すべき儀ありしなり」(講義)と云っている。なお吉田増蔵氏は、「雪に馬並めまゐり来らくも」と訓んだ。また、「乱」をマガフ、サワグ等とも訓んでいる。これは、四段の自動詞に活用しないという結論に本づく根拠もあるのだが、私は今回もミダルに従った。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、「ふる雪を腰になづみて参り来し験もあるか年のはじめに」(巻十九・四二三〇)が参考となる歌である。
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もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも 〔巻三・二六四〕 柿本人麿
柿本人麿が近江から大和へ上ったとき宇治川のほとりで詠んだものである。「もののふの八十氏」は、物部には多くの氏があるので、八十氏といい、同音の宇治川に続けて序詞とした。網代木は、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚を捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って狭くなるように打ったと思うが、其処が水流が急でないために魚が集って来る、それを捕るのである。其処の棒杭に水が停滞して白い波を立てている光景である。
この歌も、「あまざかる夷の長道ゆ」の歌のように、直線的に伸々とした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、「いさよふ波の行方知らず」にこもっていることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却って下の句の効果を助長せしめたと解釈することも出来るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に伝わり来るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だろうとも説かれている。これは否定出来ない。なおこの哀韻は支那文学の影響、或は仏教観相の影響だろうとも云われている。人麿ぐらいな力量を有つ者になれば、その発達史も複雑で、支那文学も仏教も融けきっているとも解釈出来るが、この歌の出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係を前後混同して彼此云ったところで、所詮戯論に終わるので、理窟は幾何精しいようでも、この歌から遊離した上の空の言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。
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苦しくも降り来る雨か神が埼狭野のわたりに家もあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
長忌寸奥麻呂(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東牟婁郡の海岸にあり、狭野(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、愬えるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基(春日蔵首老)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原にひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。
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淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何か不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千鳥、湖上の低い空に群れ啼いている千鳥で、古代造語法の一つである。一首の意は、淡海の湖に、その湖の夕ぐれの浪に、千鳥が群れ啼いている。千鳥等よ、お前等の啼く声を聞けば、真から心が萎れて、昔の都の栄華のさまを偲ばれてならない、というのである。
この歌は、前の宇治河の歌よりも、もっと曲折のある調べで、その中に、「千鳥汝が鳴けば」という句があるために、調べが曲折すると共に沈厚なものにもなっている。また独詠的な歌が、相手を想像する対詠的歌の傾向を帯びて来たが、これは、「志賀の辛崎幸くあれど」とつまりは同じ傾向となるから、ひょっとしたら、巻一の歌と同時の頃の作かも知れない。
巻三(三七一)に、門部王の、「飫宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに」があり、巻八(一四六九)に沙弥作、「足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ」、巻十五(三七八五)に宅守の、「ほととぎす間しまし置け汝が鳴けば吾が思ふこころ甚も術なし」があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人麿の此歌を学んだものかも知れない。
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鼠は 木ぬれ 求むとあしひきの 山の 猟夫にあひにけるかも 〔巻三・二六七〕 志貴皇子
志貴皇子の御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇(天智天皇第二皇女)の御弟、光仁天皇の御父という御関係になる。
一首の意は、 鼠が、林間の梢を飛渡っているうちに、猟師に見つかって獲られてしまった、というのである。
この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒らに大望を懐いて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、 鼠の事が歌ってあるのだから、第一に 鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味うべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味えば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指しているのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに属している。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全体を破壊してしまうのである。天平十一年大伴坂上郎女の歌に、「ますらをの高円山に迫めたれば里に下りける 鼠ぞこれ」(巻六・一〇二八)というのがあり、これは実際この小獣を捕えた時の歌で寓意でなく、この小獣に注して、「俗に牟射佐妣といふ」とあるから愛すべき小獣として人の注目を牽いたものであろう。略解に、「此御歌は人の強ひたる物ほしみして身を亡すに譬たまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり」とあるなどは寓意説に溺れたものである。(檜嬬手も全く略解の説を踏襲している。)
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旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖に榜ぐ見ゆ 〔巻三・二七〇〕 高市黒人
高市連黒人の 旅八首中の一つである。この歌の、「山下の」は、「秋山の下ぶる妹」(巻二・二一七)などの如く、紅葉の美しいのに関係せしめて使って居るから、「赤」の枕詞に用いたものらしい。「そほ」は赭土から取った塗料で、赭土といっても、赤土、鉄分を含んだ泥土、粗製の朱等いろいろであった。その精品を真朱といって、「仏つくる真朱足らずは」(巻十六・三八四一)の例がある。「赤のそほ船」は赤く塗った船である。「沖ゆくや赤羅小船」(同・三八六八)も赤く塗った船のことである。そこで一首の意味は、旅中にあれば何につけ都が恋しいのに、沖の方を見れば赤く塗った船が通って行く、あれは都へのぼるのであろう。羨しいことだ、というので、今から見れば 旅の歌の常套手段のようにも取れるが、当時の歌人にとっては常に実感であったのであろう。黒人の歌は具象的で写象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切実でないから、「もの恋しき」と云ったり、「古への人にわれあれや」等と云っても、稍通俗に感ぜしめる余裕がある。巻一(六七)に、「旅にしてもの恋しぎの鳴くことも聞えざりせば恋ひて死なまし」は持統天皇難波行幸の時、高安大島の作ったものだが、上の句が似ている。
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桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる 〔巻三・二七一〕 高市黒人
黒人作。 旅八首の一。「桜田」は、和名鈔の尾張国愛知郡作良郷、現在熱田の東南方に桜がある。その桜という海浜に近い土地の田の事である。或は桜田という地名だという説もある。「年魚市潟」は、和名鈔に尾張国愛知郡阿伊智とあり、熱田南方の海岸一帯が即ち年魚市(書紀に吾湯市)潟で、桜はその一部である。今の熱田新田と称する辺も古えは海だったろうと云われている。一首の意味は、陸の方から海に近い桜の田の方へ向って、鶴が群れて通って行くが、多分年魚市潟一帯が潮干になったのであろう、というのである。一首の中に地名が二つも入って居て、それに「鶴鳴きわたる」を二度繰返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響を保持しているのは、内容がこせこせしない為めであり、「桜田へ鶴鳴きわたる」という唯一の現在的内容が却って鮮明になり、一首の風格も大きくなった。そのあいだに、「年魚市潟潮干にけらし」という推量句が入っているのだが、この推量も大体分かっている現実的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、桜田が主で、桜田を眺める位置に作者が立っている趣で、あゆち潟というのはもっと離れているところであろう。一首の形態からいうと、前出の、「吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝榜ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江に鶴鳴きわたる志珂の浦に沖つ白浪立ちし来らしも」(巻十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる舟人」(巻三・二八三)は、少しく楽過ぎて、人麿の「乱れいづ見ゆあまの釣舟」(同・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持っていないものがあるから、それを見のがさないように努むべきである。
此処の、「四極山うち越え見れば笠縫の島榜ぎかくる棚無し小舟」(同・二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を与えたものである。四極山、笠縫島は参河という説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国幡豆郡磯泊(之波止)説に従って味うこととする。また、「妹も吾も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる」(同・二七六)というのもある。三河の二見は御油から吉田に出る二里半余の道だといわれている。「妹」は、かりそめに親しんだそのあたりの女であろう。上句は、お前も俺も一体だからだろうと気転を利かしたいい方である。黒人のには上半にこういう主観句のものが多い。それが成功したのもあればまずいのもある。
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何処にか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば 〔巻三・二七五〕 高市黒人
黒人作。 旅歌つづき。「高島の勝野」は、近江高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の 旅の歌はこれを見ても場処の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現実的内容で、「何処にか吾は宿らむ」はそれに伴う自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂うことが出来るであろう。この詠歎は率直簡単なので却って効果があり、全体として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に関係あるものは、「磯の埼榜ぎたみゆけば近江の海八十の湊に鶴さはに鳴く」(巻三・二七三)、「吾が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり」(同・二七四)がある。「沖へな放かり」というのは、余り沖遠くに行くなというので特色のある句である。「わが舟は明石の浦に榜ぎはてむ沖へな放かりさ夜ふけにけり」(巻七・一二二九)というのは、黒人の歌が伝誦のあいだに変化し、勝手に「明石」と直したものであろう。
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疾く来ても見てましものを山城の高の槻村散りにけるかも 〔巻三・二七七〕 高市黒人
黒人 旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群をいふ成べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国綴喜郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉の小菅」、「山城の石田の杜」などあるのを参考し、「山城の高の槻村」だとした。爾来諸学者それを認容するに至った。
一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高という村の槻の林の黄葉も散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさりして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。
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此処にして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて来にけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
志賀に行幸あった時、石上卿の作ったものであるが、作者の伝は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田久老は、大宝二年太上天皇(持統天皇)が三河美濃に行幸あった時、近江にも立寄られたのだろうと云っている。そうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じているから、後人が題詞を書いたとせば、「卿」でもよいのである。併し養老元年九月の行幸(元正天皇)の時だとすると、やはり槻落葉でいったごとく石上豊庭だろうということとなる。この豊庭説が有力である。
旅を遙々来た感じで、直線的にいい下して、相当の感情を出している歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫や何処白雲の棚引く山の方にしあるらし」(巻四・五七四)というのがあって、形態が似ている。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、「白雲の棚引く山を越えて来にけり」も、近江で詠んだのだから、直接性があるし、旅人のは京にあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓に和えた歌だから、そういう意味で心に直接性があるのである。
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昼見れど飽かぬ田児の浦大王のみことかしこみ夜見つるかも 〔巻三・二九七〕 田口益人
田口益人が和銅元年上野国司となって赴任の途上駿河国浄見埼を通って来た時の歌である。国司は守・介・掾・目ともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原郡の海岸で今の興津清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原の清見が埼の三保の浦の寛けき見つつもの思ひもなし」(巻三・二九六)というのがある。三保は今は清水市だが古えは廬原郡であった。「清見が埼の」も、「三保の浦の」も共に「寛けき」に続く句法である。「田児浦」は今は富士郡だが、古えは廬原郡にもかかった範囲の広かったもので、東海道名所図絵に、「都て清見興津より、ひがし浮島原迄の海浜の惣号なるべし」とある。
さて、此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。そして、なぜ夜見たとことわったかというに、山田(孝雄)博士の考証がある(講義)。駿河国府(静岡)を立って、息津、蒲原と来るのだが、その蒲原まで来るあいだに田児浦がある。静岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日の行程とすると、蒲原に着くまえに夜になったのであろう、というのである。
この歌は右の如く、事実によって詠んだものであるが、この歌を読むといつも不思議な或るものを感じて今日まで来たのであった。それは、「夜見つるかも」という句にあって、この「夜」というのに、特有の感じがあると思うのである。作者は、「夜の田児浦」をばただ事実によってそういっただけだが、それでもその夜の感動が後代の私等に伝わるのかも知れないのである。
補記。近時沢瀉久孝氏は田児浦を考証し、「薩 峠の東麓より、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入海を上代の田児浦とする」とした。
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田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける 〔巻三・三一八〕 山部赤人
山部宿禰赤人が不尽山を詠んだ長歌の反歌である。「田児の浦」は、古えは富士・廬原の二郡に亙った海岸をひろく云っていたことは前言のとおりである。「田児の浦ゆ」の「ゆ」は、「より」という意味で、動いてゆく詞語に続く場合が多いから、此処は「打ち出でて」につづく。「家ゆ出でて三年がほどに」、「痛足の川ゆ行く水の」、「野坂の浦ゆ船出して」、「山の際ゆ出雲の児ら」等の用例がある。また「ゆ」は見渡すという行為にも関聯しているから、「見れば」にも続く。「わが寝たる衣の上ゆ朝月夜さやかに見れば」、「海人の釣舟浪の上ゆ見ゆ」、「舟瀬ゆ見ゆる淡路島」等の例がある。前に出た、「御井の上より鳴きわたりゆく」の「より」のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大体の約束による用例に拠って極めればよく、それも幾何学の証明か何ぞのように堅苦しくない方がいい。つまり此処で赤人はなぜ「ゆ」を使ったかというに、作者の行為・位置を示そうとしたのと、「に」とすれば、「真白にぞ」の「に」に邪魔をするという微妙な点もあったのであろう。
赤人の此処の長歌も簡潔で旨く、その次の無名氏(高橋連虫麿か)の長歌よりも旨い。また此反歌は古来人口に膾炙し、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。赤人のものは、総じて健康体の如くに、清潔なところがあって、だらりとした弛緩がない。ゆえに、規模が大きく緊密な声調にせねばならぬような対象の場合に、他の歌人の企て及ばぬ成功をするのである。この一首中にあって最も注意すべき二つの句、即ち、第三句で、「真白にぞ」と大きく云って、結句で、「雪は降りける」と連体形で止めたのは、柿本人麿の、「青駒の足掻を速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」(巻二・一三六)という歌と形態上甚だ似ているにも拘わらず、人麿の歌の方が強く流動的で、赤人の歌の方は寧ろ浄勁とでもいうべきものを成就している。古義で、「真白くぞ」と訓み、新古今で、「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ」として載せたのは、種々比較して味うのに便利である。また、無名氏の反歌、「不尽の嶺に降り置ける雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり」(巻三・三二〇)も佳い歌だから、此処に置いて味っていい。(附記。山田博士の講義に、「田児浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその立てる地も田子浦の中たるなり」と説明して居る。)
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あをによし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛なり 〔巻三・三二八〕 小野老
太宰少弐小野老朝臣の歌である。老は天平十年(続紀には九年)に太宰大弐として卒したが、作歌当時は大伴旅人が太宰帥であった頃その部下にいたのであろう。巻五の天平二年正月の梅花歌中に「小弐小野大夫」の歌があるから、この歌はその後、偶々帰京したあたりの歌ででもあろうか。歌は、天平の寧楽の都の繁栄を讃美したもので、直線的に云い下して毫も滞るところが無い。「春花のにほえ盛えて、秋の葉のにほひに照れる」(巻十九・四二一一)などと云って、美麗な人を形容したのがあるが、此歌は帝都の盛大を謳歌したのであるから、もっと内容が複雑宏大となるわけである。併し同時に概念化してゆく傾向も既に醸されつつあるのは、単にこの歌のみでなく、一般に傾向文学の入ってゆかねばならぬ運命でもあるのである。またこの歌の作風は旅人の歌にあるような、明快で豊かなものだから、繰返しているうちに平板通俗にも移行し得るのである。人麿以前の歌調などと較べるとその差が既に著しい。「梅の花いまさかりなり思ふどち 頭にしてな今さかりなり」(巻五・八二〇)という歌を参考とすることが出来る。
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わが盛また変若めやもほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ 〔巻三・三三一〕 大伴旅人
太宰帥大伴旅人が、筑紫太宰府にいて詠んだ五首中の一つである。旅人は六十二、三歳頃(神亀三、四年)太宰帥に任ぜられ、天平二年大納言になって兼官の儘上京し、天平三年六十七歳で薨じている。そこで此歌は、六十三、四歳ぐらいの時の作だろうと想像せられる。
一首の意は、吾が若い盛りが二たび還って来ることがあるだろうか、もはやそれは叶わぬことだ。こうして年老いて辺土に居れば、寧楽の都をも見ずにしまうだろう、というので、「をつ」という上二段活用の語は、元へ還ることで、若がえることに用いている。「昔見しより変若ましにけり」(巻四・六五〇)は、昔見た時よりも却って若返ったという意味で、旅人の歌の、「変若」と同じである。
旅人の歌は、彼は文学的にも素養の豊かな人であったので、極めて自在に歌を作っているし、寧ろ思想的抒情詩という方面にも開拓して行った人だが、歌が明快なために、一首の声調に暈が少いという欠点があった。その中にあって此歌の如きは、流石に老に入った境界の作で、感慨もまた深いものがある。
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わが命も常にあらぬか昔見し象の小河を行きて見むため 〔巻三・三三二〕 大伴旅人
旅人作の五首中の一首である。一首の意は、わが命もいつも変らずありたいものだ。昔見た吉野の象の小川を見んために、というので、「常にあらぬか」は文法的には疑問の助詞だが、斯く疑うのは希う心があるからで、結局同一に帰する。「苦しくも降りくる雨か」でも同様である。この歌も分かり易い歌だが、平俗でなく、旅人の優れた点をあらわし得たものであろう。哀韻もここまで目立たずに籠れば、歌人として第一流と謂っていい。やはり旅人の作に、「昔見し象の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも」(巻三・三一六)というのがある。これは吉野宮行幸の時で、聖武天皇の神亀元年だとせば、「わが命も」の歌よりも以前で、未だ太宰府に行かなかった頃の作ということになる。
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しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ 〔巻三・三三六〕 沙弥満誓
沙弥満誓が綿を詠じた歌である。満誓は笠朝臣麻呂で、出家して満誓となった。養老七年満誓に筑紫の観世音寺を造営せしめた記事が、続日本紀に見えている。満誓の歌としては、「世の中を何に譬へむ朝びらき榜ぎ去にし船の跡なきが如(跡なきごとし)」(巻三・三五一)という歌が有名であり、当時にあって仏教的観相のものとして新しかったに相違なく、また作者も出家した後だから、そういう深い感慨を意識して漏らしたものに相違なかろうが、こういう思想的な歌は、縦い力量があっても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。
この綿は、真綿(絹綿)という説と棉(木綿・もめん綿)という説とあるが、これは真綿の方であろう。真綿説を唱えるのは、当時木綿は未だ筑紫でも栽培せられていなかったし、題詞の「緜」という文字は唐でも真綿の事であり、また、続日本紀に「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運二太宰府綿二十万屯一、以輸二京庫一」とあるので、九州が綿の産地であったことが分かるが、その綿が真綿だというのは、三代実録、元慶八年の条に、「五月庚申朔、太宰府年貢綿十万屯、其内二万屯、以レ絹相転進レ之」とあるによって明かである。以レ絹相転進レ之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の末だというし、我国では延暦十八年に崑崙人(印度人)が三河に漂着したが、其舟に木綿の種があったのを栽培したのが初だといわれている。また、木綿説を唱える人は、神護景雲三年の続日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によったもので、支那との貿易はそれ以前から行われていただろうというのである。それに対して山田博士云、「遣唐使の派遣が大命を奉じて死生を賭して数年を費して往復するに、綿のみにても毎年二十万屯づつを輸入せりとすべきか」(講義)と云った。
一首の意は、〔白縫〕(枕詞)筑紫の真綿は名産とはきいていたが、今見るとなるほど上品だ。未だ着ないうちから暖かそうだ、というので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の眼にも珍らしかったからに相違ない。何十万屯(六両を一屯とす)という真白な真綿を見て、「暖けく見ゆ」というのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且つなかなか佳い歌である。
そういう珍重と親愛とがあるために、おのずから覚官的語気が伴うと見え、女体と関聯する寓意があろうという説もある。例えば、「満誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし」(攷證)というたぐいである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉体的なものを持っている証拠ともなり、却ってこの歌を浅薄な観念歌にしてしまわなかった由縁とも考え得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出来上った歌はもっと暗指的な象徴的なものになっている。結句、旧訓アタタカニミユであったのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なおこの歌につき、契沖は、「綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ」(代匠記精撰本)「綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、 慢の人には 慢の相あらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべき哥にや」(代匠記初稿本)と云ったが、真淵は、「さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし」(考)と云った。
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憶良等は今は罷らむ子哭くらむその彼の母も吾を待つらむぞ 〔巻三・三三七〕 山上憶良
山上憶良臣宴を罷る歌一首という題がある。憶良は、大宝元年遣唐使に従い少録として渡海、慶雲元年帰朝、霊亀二年伯耆守、神亀三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀文(巻五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙弥満誓、防人司佑大伴四綱の歌等があるから、太宰府に於ける宴会の時の歌であろう。
一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いていようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待っていようぞ、というのである。「其彼母毛」は、ソノカノハハモと訓み、「その彼の(子供の)母も」という意味になる。
憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで来た眼には、急に変ったものに接するように感ぜられる。即ち、一首の声調が如何にもごつごつしていて、「もののふの八十うぢがはの網代木に」というような伸々した調子には行かない。一首の中に、三つも「らむ」を使って居りながら、訥々としていて流動の響に乏しい。「わが背子は何処ゆくらむ沖つ藻の名張の山をけふか越ゆらむ」(巻一・四三)という「らむ」の使いざまとも違うし、結句に、「吾を待つらむぞ」と云っても、人麿の「妹見つらむか」とも違うのである。そういう風でありながら、何処かに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわないのが其特色である。またそういう滑かでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめて居る。
諧謔微笑のうちにあらわるる実生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂うべきであろう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林を編んだのを見ても分かる。併し大体として、日本語の古来の声調に熟し得なかったのは、漢学素養のために乱されたのかも知れない。巻一(六三)の、「いざ子どもはやく大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という歌は有名だけれども、調べが何処か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、「いざ児ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ」(巻三・二八〇)の方が優っているのではなかろうか。そういう具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
大伴家持の歌に、「春花のうつろふまでに相見ねば月日数みつつ妹待つらむぞ」(巻十七・三九八二)というのがある。此は天平十九年三月、恋緒を述ぶる歌という長短歌の中の一首であるが、結句の「妹待つらむぞ」はこの憶良の歌の模倣である。なお「ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我待つらむぞ」(巻十八・四〇七二)、「居りあかし今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴きわたらむぞ」(同・四〇六八)というのがあり、共に家持の作であるのは吾等の注意していい点である。
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験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし 〔巻三・三三八〕 大伴旅人
太宰帥大伴旅人の、「酒を讃むる歌」というのが十三首あり、此がその最初のものである。「思はずは」は、「思はずして」ぐらいの意にとればよく、従来は、「思はむよりは寧ろ」と宣長流に解したが、つまりはそこに落着くにしても、「は」を詠歎の助詞として取扱うようになった(橋本博士)。
一首の意は、甲斐ない事をくよくよ思うことをせずに、一坏の濁酒を飲むべきだ、というのである。つまらぬ事にくよくよせずに、一坏の濁醪でも飲め、というのが今の言葉なら、旅人のこの一首はその頃の談話言葉と看做してよかろう。即ち、そういう対人間的、会話的親しみが出ているのでこの歌が活躍している。独り歌った如くであって相手を予想する親しみがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、旅人の作った最初の歌がやはりこれでなかっただろうか。
酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ (巻三・三三九)
古の七の賢しき人等も欲りせしものは酒にしあるらし (同・三四〇)
賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔哭するし益りたるらし (同・三四一)
言はむすべせむすべ知らに(知らず)極まりて貴きものは酒にしあるらし (同・三四二) なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染みなむ (同・三四三) あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る(よく見ば猿にかも似む) (同・三四四)
価無き宝といふとも一坏の濁れる酒に豈まさらめや (同・三四五)
夜光る玉といふとも酒飲みて情を遣るに豈如かめやも (同・三四六)
世の中の遊びの道に冷しきは酔哭するにありぬべからし (同・三四七) この代にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも吾はなりなむ (同・三四八)
生者遂にも死ぬるものにあれば今世なる間は楽しくをあらな (同・三四九)
黙然居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ如かずけり (同・三五〇)
残りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、顧れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選抜の歌に限あるため、一首のみを取って全体を代表せしめることとした。
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武庫の浦を榜ぎ回む小舟粟島を背向に見つつともしき小舟 〔巻三・三五八〕 山部赤人
山部赤人の歌六首中の一首である。「武庫の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「粟の小島し見れど飽かぬかも」とある、「粟の小島」と同じ場処であろうが、現在何処に当るか不明である。淡路の北端あたりだろうという説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、というので、「小舟」を繰返していても、あらあらしくないすっきりした感じを与えている。あとの五首も大体そういう特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
繩の浦ゆ背向に見ゆる奥つ島榜ぎ回む舟は釣し(釣を)すらしも (巻三・三五七)
阿倍の島鵜の住む磯に寄する浪間なくこのごろ大和し念ほゆ (同・三五九)
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吉野なる夏実の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして 〔巻三・三七五〕 湯原王
湯原王が吉野で作られた御歌である。湯原王の事は審でないが、志貴皇子の第二子で光仁天皇の御兄弟であろう。日本後紀に、「延暦廿四年十一月(中略)壱志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子」云々とある。「夏実」は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。(土屋氏に新説ある。)
一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ、というので、これは現に鴨の泳いでいるのを見て作ったものであろう。結句の、「山かげにして」は、鴨の泳いでいる夏実の淀淵の説明だが、結果から云えば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此処にこもり、意味は場処の説明でも、一首全体の声調からいえばもはや単なる説明ではなくなっている。こういう結句の効果については、前出の人麿の歌(巻三・二五四)の処でも説明した。此歌は従来叙景歌の極致として取扱われたが、いかにもそういうところがある。ただ佳作と評価する結論のうちに、抒情詩としての声調という点を抜きにしてはならぬのである。また此歌の有名になったのは、一面に万葉調の歌の中では分かり好いためだということもある。一首の中に、「なる」の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。
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軽の池の浦回行きめぐる鴨すらに玉藻のうへに独り宿なくに 〔巻三・三九〇〕 紀皇女
紀皇女の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穂積皇子の御妹にあられる。一首の意は、軽の池の岸のところを泳ぎ廻っているあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寝るということがないのに、私はただ一人で寝なければならぬ、というのである。万葉では、譬喩歌というのに分類しているが、内容は恋歌で、鴨に寄せたのだといえばそうでもあろうが、もっと直接で、どなたかに差し上げた御歌のようである。単に内容からいえば、読人知らずの民謡的な歌にこういうのは幾らもあるが、この歌のよいのは、そういう一般的でない皇女に即した哀調が読者に伝わって来るためである。土屋文明氏の万葉集年表に、巻十二(三〇九八)に関する言い伝を参照し、恋人の高安王が伊豫に左遷せられた時の歌だろうかと考えている。
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陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆとふものを 〔巻三・三九六〕 笠女郎
笠女郎(伝不詳)が大伴家持に贈った三首の一つである。「真野」は、今の磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう。一首の意は、陸奥の真野の草原はあんなに遠くとも面影に見えて来るというではありませぬか、それにあなたはちっとも御見えになりませぬ、というのであるが、なお一説には「陸奥の真野の草原」までは「遠く」に続く序詞で、こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に浮んでまいります。私の心持がお分かりになるでしょう、と強めたので、「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般にいうような云い方をして確めるので、この云い方のことは既に云ったごとく、「見ゆというものなるを」、「見ゆるものなるを」というに落着くのである。女郎が未だ若い家持に愬える気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。また序詞などを使って幾分民謡的な技法でもあるが、これも前の紀皇女の御歌と同じく、女郎に即したものとして味うと特色が出て来るのである。
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百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 〔巻三・四一六〕 大津皇子
題詞には、大津皇子被レ死之時、磐余池般流レ涕御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反が露われ、朱鳥元年十月三日訳語田舎で死を賜わった。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜二死皇子大津於訳語田舎一、時ニ年二十四。妃皇女山辺被レ髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われている。「百伝ふ」は枕詞で、百へ至るという意で五十に懸け磐余に懸けた。
一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、というので、「雲隠る」は、「雲がくります」(巻三・四四一)、「雲隠りにき」(巻三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、「金烏臨二西舎一、鼓声催二短命一、泉路無二賓主一、此夕離レ家向」という五言臨終一絶を作り、懐風藻に載った。皇子は夙くから文筆を愛し、「詩賦の興は大津より始まる」と云われたほどであった。
この歌は、臨終にして、鴨のことをいい、それに向って、「今日のみ見てや」と歎息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に云ったために却って結句の「雲隠りなむ」が利いて来て、「今日のみ見てや」の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むものが出来て来ている。これは歌風の時代的変化である。契沖は代匠記で、「歌ト云ヒ詩ト云ヒ声ヲ呑テ涙ヲ掩フニ遑ナシ」と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、万葉集中の傑作の一つである。また妃山辺皇女殉死の史実を随伴した一悲歌として永久に遺されている。因に云うに、山辺皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄の女である。赤兄大臣は有間皇子が、「天与二赤兄一知」と答えられた、その赤兄である。
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豊国の鏡の山の石戸立て隠りにけらし待てど来まさぬ 〔巻三・四一八〕 手持女王
石戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなく 〔巻三・四一九〕 同
河内王を豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王の詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥となった方で、持統天皇八年四月五日賻物を賜った記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の伝は不明である。「石戸」は石棺を安置する石槨の入口を、石を以て塞ぐので石戸というのである。これ等の歌も追悼するのに葬った御墓のことを云っている。第一の歌では、「待てど来まさぬ」の句に中心感情があり、同じ句は万葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に専属のものだという気味がするのである。第二の歌の、「石戸わる手力もがも」は、その時の心その儘であろう。二つとも女性としての云い方、その語気が自然に出ていて挽歌としての一特色をなしている。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであろう。
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八雲さす出雲の子等が黒髪は吉野の川の奥になづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
出雲娘子が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、もう一つのは、「山の際ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬の烟の事を歌っている。この歌の、「八雲さす」は「出雲」へかかる枕詞。「子等」の「等」は複数を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかった娘子の黒髪が吉野川の深い水に漬ってただよう趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであろう。いずれにしてもその事柄を中心として一首を纏めている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。
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われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処 〔巻三・四二三〕 山部赤人
山部赤人が下総葛飾の真間娘子の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名は処女の義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」の添わったものと云われている。真間に美しい処女がいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒らに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代の語ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。
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吾妹子が見し鞆の浦の室の木は常世にあれど見し人ぞ亡き 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
太宰帥大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦には榁の大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦の室の木は、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので、「吾妹子」と、「見し人」とは同一人である。「人」は後に、「根はふ室の木見し人」、「人も無き空しき家」といってある如く、妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。旅人の歌は明快で、顫動が足りないともおもうが、「見し人ぞ亡き」に詠歎が籠っていて感深い歌である。
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妹と来し敏馬の埼を還るさに独して見れば涙ぐましも 〔巻三・四四九〕 大伴旅人
前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句は、万葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁徳巻に、「やましろの筒城の宮にもの申すあが背の君は(吾兄を見れば)泪ぐましも」の一首がある。この句は、この時代に出来た句だから、大体の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通会話なりに多く用いる、「涙ぐましい」という語は不調和である。
この歌は、余り苦心して作っていないようだが、声調にこまかいゆらぎがあって、奥から滲出で来る悲哀はそれに本づいている。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠点があったが、この歌にはそれが割合に少く、そういう点でもこの歌は旅人作中の佳作ということが出来るであろう。旅人は、讃酒歌のような思想的な歌をも自在に作るが、こういう沁々としたものをも作る力量を持っていた。なおこの時、「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも」(巻三・四五〇)という歌をも作った。やはり哀深い歌である。
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妹として二人作りし吾が山斎は木高く繁くなりにけるかも 〔巻三・四五二〕 大伴旅人
旅人が家に帰って来て、妻のいない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻三・四五一)、「吾妹子がうゑし梅の木見る毎に心むせつつ涕し流る」(同・四五三)の二首を作っているが、共にあわれ深い。
此一首の意は、亡くなった妻と一しょになって、二人で作った庭は、こんなにも木が大きくなり、繁茂するようになったというので、単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。結句の、「なりにけるかも」というのは、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「竹敷のうへかた山は紅の八入の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)、「石ばしる垂水のうへのさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」(巻八・一四一八)等の如くに成功している。同じく旅人が、「昔見し象の小河を今見ればいよいよ清けくなりにけるかも」(巻三・三一六)という歌を作っていて効果をおさめているのは、旅人の歌調が概ね直線的で太いからでもあろうか。
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あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき吾が大きみかも 〔巻三・四七七〕 大伴家持
天平十六年二月、安積皇子(聖武天皇皇子)薨じた時(御年十七)、内舎人であった大伴家持の作ったものである。此時家持は長短歌六首作って居る。一首の意は、満山の光るまでに咲き盛っていた花が一時に散ったごとく、皇子は逝きたもうた、というのである。家持の内舎人になったのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに属するであろうが、こころ謹しみ、骨折って作っているのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのような歌人であり、夙くから人麿・赤人・憶良等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格を具えているのである。 |