斎藤茂吉の万葉秀歌考巻3

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

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 2015.09.07日 れんだいこ拝


斎藤茂吉の万葉秀歌考巻3

巻第三


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大君おほきみかみにしませば天雲あまぐもいかづちのうへにいほりせるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿
 天皇(持統天皇)雷岳いかずちのおか(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿のたてまつった歌である。
 一首の意は、天皇は現人神あらひとがみにましますから、今、天にとどろいかずちの名を持っている山のうえに行宮あんぐうを御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随かむながらにましますというのである。
 これは供奉ぐぶした人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率しんそつな態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。雷岳は藤原宮(高市郡鴨公村高殿の伝説地)から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或は、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或は支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心につつしみ、歌を味うものは心を引締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出来る。人暦は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知るに近いのであるが、賀茂真淵此歌を評して、「岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり」(新採百首解)と云ったのは、真淵は人麿を理会し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに従った。此は荒木田久老ひさおい(真淵門人)の訓である。
 この歌、或本には忍壁皇子おさかべのみこに献ったものとして、「大君は神にしませば雲隠る雷山いかづちやま宮敷みやしきいます」となっている。なお「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井たゐ京師みやことなしつ」(巻十九・四二六〇)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼みぬま皇都みやことなしつ」(同・四二六一)、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」(巻三・二四一)等の参考歌がある。
 右のうち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱じんしんのらん平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行おおとものみゆきで大伴安麿の兄に当り、高市大卿ともいい、大宝元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺に馬のしているさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、巻十九で云うのを此処で一言費すことにした。四二六一は異伝で童謡風になっている。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いたのは、天平勝宝四年二月二日だとことわってあるから、その辺の事情は好く分からない。

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いなといへどふる志斐しひのがひがたりこのごろかずてわれひにけり 〔巻三・二三六〕 持統天皇
いなといへど語れ語れとらせこそ志斐しひいはまを強語しひがたりる 〔巻三・二三七〕 志斐嫗
 この二つは、持統天皇と志斐嫗しいのおみなとの御問答歌である。此老女は語部かたりべなどの職にいて、記憶もよく話も面白かったものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう沢山だといっても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなった。第二の歌は嫗のこたえ奉った歌で、もう御話は止しましょうと申上げても、語れ語れと御仰せになったのでございましょう。それを今無理強いの御話とおっしゃる、それは御無理でございます。二つは諧謔かいぎゃく的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによって知ることが出来る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麿の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ「天皇」とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考えている。さすれば天皇の歌人としての御力量は、「春過ぎて夏来るらし」の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当らぬものだかということを証明するものである。「志斐い」の「い」は語調のための助詞で、「紀の関守い留めなむかも」(巻四・五四五)などと同じい。山田博士は、「このイは主格を示す古代の助詞」だと云っている。

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大宮おほみやうちまできこ網引あびきすと網子あごととのふる海人あまごゑ 〔巻三・二三八〕 長意吉麻呂
 長忌寸意吉麻呂ながのいみきおきまろが詔にこたえ奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮ながらのとよさきのみや。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう。
 海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人数をそろえいろいろ差図手配する海人あまのこえが、離宮の境内まで聞こえて来る、という歌である。応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでいる。併しありの儘を詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、いて心持を出そうなどと意図しても、そううまく行くものでは無い。
 また、この歌は応詔の歌であるが、特に帝徳を讃美したような口吻もなく、離宮に聞こえて来る海人等の声を主にして歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっているのを見ると、万葉集に散見する献歌の中に、強いて寓意ぐういを云々するのは間違だとさえおもえるのである。例えば、「うち手折たを多武たむの山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(巻九・一七〇四)という、舎人皇子とねりのみこに献った歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく「詔」でも、属目しょくもくの歌を求められる場合が必ずあるだろうとおもうからである。

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たぎうへ三船みふねやまくもつねにあらむとわがはなくに 〔巻三・二四二〕 弓削皇子
 弓削皇子ゆげのみこ(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。たぎは宮滝の東南にその跡が残っている。三船山はその南にある。
 滝の上の三船の山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分等はああいう具合に常住ではない。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨があって、人麿の、「いさよふ波の行方しらずも」などとも一脈相通ずるものがあるのは、当時の人の心にそういう共通な観相的傾向があったとも解釈することが出来る。なお集中、「常にあらぬかも」、「常ならめやも」の句ある歌もあって参考とすべきである。いずれにしても此歌は、景を叙しつつ人間の心に沁み入るものを持って居る。此御歌に対して、春日王かすがのおおきみは、「大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(巻三・二四三)とこたえていられる。

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玉藻たまもかる敏馬みぬめぎて夏草なつくさ野島ぬじまさきふねちかづきぬ 〔巻三・二五〇〕 柿本人麿
 これは、柿本朝臣人麻呂※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょ歌八首という中の一つである。※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首は、純粋の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ帰る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思う。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
 一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬みぬめとおって、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島の埼に近づいた、というのである。
 内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純が好いので、そのため、結句の、「船ちかづきぬ」に特別の重みがついて来ている。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂う意味の内容が簡単になるわけである。この歌の、「船近づきぬ」という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。万葉集中では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・四八)、「風をいたみおきつ白浪高からし海人あまの釣舟浜に帰りぬ」(巻三・二九四)、「あらたまの年の緒ながく吾がへる児等に恋ふべき月近づきぬ」(巻十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客観的であって、感慨のこもっているものである。第三句、「夏草の」を現実の景と解する説もあるが、これは、「夏草の靡き」の如きから、「」と「」との同音によって枕詞となったと解釈した。またこう解すれば、「奴流」(寝)は「奴島」(巻三・二四九)のヌと同じく、時には「努」(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎アシヒキノヤマコエヌユキ(巻十七・三九七八)の、「奴由伎」は「野ゆき」であるから、「奴」、「努」の通用した実例である。即ち甲類乙類の仮名通用の例でもあり、野の中間音でヌと発音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だということも分かるのである。また現在淡路三原郡に沼島ぬしま村があるのは、野島の変化だとせば、野島をヌシマと発音した証拠となる。

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稲日野いなびぬぎがてにおもへればこころこほしき可古かこしまゆ 〔巻三・二五三〕 柿本人麿
 人麿作、これも八首中の一つである。稲日野いなびぬ印南野いなみぬとも云い、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石あかし三郡にわたる地域をさして云っていたようである。つづめていえば、稲日野は加古川の東方にも西方にもわたっていた平野と解釈していい。可古島は現在の高砂たかさご町あたりだろうと云われている。島でなくて埼でも島と云ったことは、伊良虞いらごしま条下じょうかで説明し、また後に出て来る、倭島やまとしまの条下でも明かである。加古は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
 一首の意は、広々とした稲日野いなびぬ近くの海を航していると、舟行が捗々はかばかしくなく、種々ものおもいしていたが、ようやくにして恋しい加古の島が見え出した、というので、西から東へ向って航しているおもむきの歌である。
「稲日野も」の「も」は、「足引のみ山もさやに落ちたぎつ」(巻六・九二〇)、「筑波根つくばねの岩もとどろに落つるみづ」(巻十四・三三九二)などの「も」の如く、軽く取っていいだろう。「過ぎがてに」は、舟行が遅くて、広々した稲日野の辺を中々通過しないというので、舟はなるべく岸近くぐから、稲日野が見えている趣なのである。「思へれば」は、彼此かれこれおもう、いろいろおもうの意で、此句と、前の句との間に小休止があり、これはやはり人麿的なのであるから、「ものおもふ」ぐらいの意に取ればいい。つまり旅の難儀の気持である。然るに従来この句を、稲日野の景色が佳いので、立去り難いという気持の句だと解釈した先輩(契沖以下殆ど同説)の説が多い。併しこの場合にはそれは感服し難い説で、そうなれば歌がまずくなってしまうと思うがどうであろうか。また用語の類例としては、「繩の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(巻三・三五四)があって、私の解釈の無理でないことを示している。
 この歌は※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅中の感懐であって、風光の移るにつれて動く心の儘を詠じ、歌詞それに伴うてまことに得難い優れた歌となった。そして、「心こほしき加古の島」あたりの情調には、恋愛にかようような物懐しいところがあるが、人麿は全体としてそういう抒情的方面の豊かな歌人であった。

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ともしびの明石あかし大門おほとらむわかれなむいへのあたりず 〔巻三・二五四〕 柿本人麿
 人麿作、※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首中の一。これは西の方へ向って船で行く趣である。
 一首の意は、〔ともしびの〕(枕詞)明石あかし海門かいもんを通過する頃には、いよいよ家郷の大和やまとの山々とも別れることとなるであろう。その頃には家郷の大和も、もう見えずなる、というのである。「入らむ日や」の「や」は疑問で、「別れなむ」に続くのである。
 歌柄の極めて大きいもので、その点では万葉集中まれな歌の一つであろうか。そして、「入らむ日や」といい、「別れなむ」というように調子をとっているのも波動的に大きく聞こえ、「の」、「に」、「や」などの助詞の使い方が実に巧みで且つ堂々としておる。特に、第四句で、「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で、「家のあたり見ず」と独立的にしたのも、その手腕敬憬けいけいすべきである。由来、「あたり見ず」というような語には、文法的にも毫も詠歎の要素が無いのである。「かも」とか、「けり」とか、「はや」とか、「あはれ」とか云って始めて詠歎の要素が入って来るのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、「あたり見ず」で充分詠歎の響があり、結句として、「かも」とか、「けり」とかに匹敵するだけの効果をもっているのである。この事は、万葉の秀歌に随処に見あたるので、「その草深野」、「棚無し小舟」、「印南いなみ国原」、「厳橿いつかしが本」という種類でも、「月かたぶきぬ」、「加古の島見ゆ」、「家のあたり見ず」でも、また、詠歎の入っている、「見れど飽かぬかも」、「見れば悲しも」、「隠さふべしや」等でも、結局は同一に帰するのである。そういうことを万葉の歌人が実行しているのだから、驚き尊敬せねばならぬのである。こういう事は、近く出す拙著、「短歌初学門」でも少しく説いて置いた筈である。

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あまざかるひな長路ながぢひ来れば明石あかしより倭島やまとしまゆ 〔巻三・二五五〕 柿本人麿
 人麿作、※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首中の一。これは西から東へ向って帰って来る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思いつづけて来たのであったが、明石の海門まで来ると、もう向うに大和が見える、というので、※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅の歌としても随分自然に歌われている。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊かだということである。そしていて、浮腫ふしゅのようにぶくぶくしていず、遒勁しゅうけいともうべき響だということである。こういう歌調も万葉歌人全般というわけには行かず、家持の如きも、こういう歌調を学んでなおここまで到達せずにしまったところを見れば、なんのと安易に片付けてしまわれない、複雑な問題が包蔵されていると考うべきである。この歌の、「恋ひ来れば」も、前の、「心こほしき」に類し、ただ一つこういう主観語を用いているのである。一、二参考歌を拾うなら、「旅にして物恋ものこほしきに山下のあけのそほ船沖にぐ見ゆ」(巻三・二七〇)は黒人作、「堀江より水脈みをさかのぼるかぢの音の間なくぞ奈良は恋しかりける」(巻二十・四四六一)は家持作である。共に「恋」の語が入っている。
 なお、人麿の※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅歌には、「飼飯けひの海のにはよくあらしかりごものみだれいづ見ゆ海人あまの釣船」(巻三・二五六)というのもあり、棄てがたいものである。飼飯の海は、淡路西海岸三原郡みなと町の近くに慶野松原がある。其処そこの海であろう。なお、人麿が筑紫つくしに下った時の歌、「名ぐはしき稲見いなみの海の奥つ浪千重ちへかくりぬ大和島根は」(同・三〇三)、「大王おほきみとほのみかどと在り通ふ島門しまとを見れば神代しおもほゆ」(同・三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が余り多くなるので、従属的に此処ここに記すこととした。新羅しらぎ使等が船上で吟誦した古歌として、「天離あまざかるひなの長道ながぢを恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている。

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矢釣山やつりやま木立こだちえずみだゆきうくつあしたたぬしも 〔巻三・二六二〕 柿本人麿
 柿本人麿が新田部にいたべ皇子にたてまつった長歌の反歌で、長歌は、「やすみしし吾大王おほきみ、高耀ひか皇子みこきいます大殿おほとのの上に、ひさかたの天伝あまづたひ来る、雪じもの往きかよひつつ、いや常世とこよまで」という簡浄なものである。この短歌の下の句の原文は、「落乱、雪驪、朝楽毛」で、古来種々の訓があった。私が人麿の歌を評釈した時には、新訓(佐佐木博士)の、「雪にこまうつあしたたぬしも」に従ったが、今回は、故生田耕一氏の「雪にうくつく朝楽しも」に従った。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久ウクヅクとあって、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであろう。この歌は、大体そう訓んで味うと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。「矢釣山木立も見えず降りみだる」あたりの歌調は、人麿でなければ出来ないものを持っている。結句の訓も種々でこうのマヰリクラクモに従う学者も多い。山田博士は、「雪にうくづきまゐり来らくも」と訓み、「古は初雪の見参といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候しこうすべき儀ありしなり」(講義)と云っている。なお吉田増蔵氏は、「雪に馬めまゐり来らくも」と訓んだ。また、「乱」をマガフ、サワグ等とも訓んでいる。これは、四段の自動詞に活用しないという結論にもとづく根拠もあるのだが、私は今回もミダルに従った。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、「ふる雪を腰になづみてまゐり来ししるしもあるか年のはじめに」(巻十九・四二三〇)が参考となる歌である。

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もののふの八十やそうぢがは網代木あじろぎにいさよふなみのゆくへらずも 〔巻三・二六四〕 柿本人麿
 柿本人麿が近江から大和へ上ったとき宇治川のほとりで詠んだものである。「もののふの八十氏やそうぢ」は、物部もののふには多くのうじがあるので、八十氏やそうじといい、同音の宇治川うじがわに続けて序詞とした。網代木あじろぎは、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚ひおを捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って狭くなるように打ったと思うが、其処が水流が急でないために魚が集って来る、それを捕るのである。其処の棒杭に水が停滞して白い波を立てている光景である。
 この歌も、「あまざかるひな長道ながぢゆ」の歌のように、直線的に伸々のびのびとした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、「いさよふ波の行方ゆくへ知らず」にこもっていることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却って下の句の効果を助長せしめたと解釈することも出来るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に伝わり来るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
 この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だろうとも説かれている。これは否定出来ない。なおこの哀韻は支那文学の影響、或は仏教観相の影響だろうとも云われている。人麿ぐらいな力量をつ者になれば、その発達史も複雑で、支那文学も仏教もけきっているとも解釈出来るが、この歌の出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係を前後混同して彼此かれこれ云ったところで、所詮しょせん戯論に終わるので、理窟は幾何いくらくわしいようでも、この歌から遊離したうわそらの言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。

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くるしくもあめみわさき狭野さぬのわたりにいへもあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
 長忌寸奥麻呂ながのいみきおきまろ(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東牟婁むろ郡の海岸にあり、狭野さぬ(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、うったえるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基べんき春日蔵首老かすがのくらびとおゆ)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原すみたかはらにひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
 近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉いずみ日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。

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淡海あふみうみ夕浪ゆふなみ千鳥ちどりけばこころもしぬにいにしへおもほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
 柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何どうか不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千鳥、湖上の低い空に群れ啼いている千鳥で、古代造語法の一つである。一首の意は、淡海おうみの湖に、その湖の夕ぐれの浪に、千鳥が群れ啼いている。千鳥等よ、お前等の啼く声を聞けば、しんから心がしおれて、昔の都の栄華のさまを偲ばれてならない、というのである。
 この歌は、前の宇治河の歌よりも、もっと曲折のある調べで、その中に、「千鳥汝が鳴けば」という句があるために、調べが曲折すると共に沈厚なものにもなっている。また独詠的な歌が、相手を想像する対詠的歌の傾向を帯びて来たが、これは、「志賀の辛崎さきくあれど」とつまりは同じ傾向となるから、ひょっとしたら、巻一の歌と同時の頃の作かも知れない。
 巻三(三七一)に、門部王かどべのおおきみの、「飫宇おうの海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに」があり、巻八(一四六九)に沙弥さみ作、「足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ」、巻十五(三七八五)に宅守やかもりの、「ほととぎすあひだしまし置け汝が鳴けばふこころいたすべなし」があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人麿の此歌を学んだものかも知れない。

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※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)むささびぬれもとむとあしひきのやま猟夫さつをにあひにけるかも 〔巻三・二六七〕 志貴皇子
 志貴皇子しきのみこの御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇(天智天皇第二皇女)の御弟、光仁天皇の御父という御関係になる。
 一首の意は、※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)むささびが、林間のこずえを飛渡っているうちに、猟師に見つかってられてしまった、というのである。
 この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、いたずらに大望をいだいて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)鼠の事が歌ってあるのだから、第一に※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味うべきである。寓意の如きは奥の奥へひそめて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味えば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指あんじしているのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに属している。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全体を破壊してしまうのである。天平十一年大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの歌に、「ますらをの高円たかまと山にめたれば里にりける※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)むささびぞこれ」(巻六・一〇二八)というのがあり、これは実際この小獣を捕えた時の歌で寓意でなく、この小獣に注して、「俗に牟射佐妣むささびといふ」とあるから愛すべき小獣として人の注目をいたものであろう。略解りゃくげに、「此御歌は人のひたる物ほしみして身を亡すにたとへたまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり」とあるなどは寓意説に溺れたものである。(檜嬬手ひのつまでも全く略解の説を踏襲している。)

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たびにしてものこほしきに山下やましたあけのそほぶねおきゆ 〔巻三・二七〇〕 高市黒人
 高市連黒人たけちのむらじくろひと※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首中の一つである。この歌の、「山下やましたの」は、「秋山のしたぶる妹」(巻二・二一七)などの如く、紅葉の美しいのに関係せしめて使って居るから、「赤」の枕詞に用いたものらしい。「そほ」は赭土しゃどから取った塗料で、赭土といっても、赤土、鉄分を含んだ泥土、粗製の朱等いろいろであった。その精品を真朱まそほといって、「仏つくる真朱まそほ足らずは」(巻十六・三八四一)の例がある。「赤のそほ船」は赤く塗った船である。「沖ゆくや赤羅あから小船」(同・三八六八)も赤く塗った船のことである。そこで一首の意味は、旅中にあれば何につけ都が恋しいのに、沖の方を見れば赤く塗った船が通って行く、あれは都へのぼるのであろう。羨しいことだ、というので、今から見れば※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅の歌の常套じょうとう手段のようにも取れるが、当時の歌人にとっては常に実感であったのであろう。黒人の歌は具象的で写象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切実でないから、「もの恋しき」と云ったり、「古への人にわれあれや」等と云っても、稍通俗に感ぜしめる余裕がある。巻一(六七)に、「旅にしてものこほしぎの鳴くことも聞えざりせば恋ひて死なまし」は持統天皇難波行幸の時、高安大島たかやすのおおしまの作ったものだが、上の句が似ている。

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桜田さくらだたづきわたる年魚市潟あゆちがた潮干しほひにけらしたづきわたる 〔巻三・二七一〕 高市黒人
 黒人作。※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首の一。「桜田さくらだ」は、和名鈔の尾張国愛知郡作良さくら郷、現在熱田の東南方に桜がある。その桜という海浜に近い土地の田の事である。或は桜田という地名だという説もある。「年魚市あゆち潟」は、和名鈔に尾張国愛知郡阿伊智あいちとあり、熱田南方の海岸一帯が即ち年魚市(書紀に吾湯市)潟で、桜はその一部である。今の熱田新田と称する辺もいにしえは海だったろうと云われている。一首の意味は、陸の方から海に近い桜の田の方へ向って、鶴が群れて通って行くが、多分年魚市潟一帯が潮干になったのであろう、というのである。一首の中に地名が二つも入って居て、それに「鶴鳴きわたる」を二度繰返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響を保持しているのは、内容がこせこせしない為めであり、「桜田へ鶴鳴きわたる」という唯一の現在的内容が却って鮮明になり、一首の風格も大きくなった。そのあいだに、「年魚市潟潮干にけらし」という推量句が入っているのだが、この推量も大体分かっている現実的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、桜田が主で、桜田を眺める位置に作者が立っている趣で、あゆち潟というのはもっと離れているところであろう。一首の形態からいうと、前出の、「吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし知多ちたの浦に朝ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江かしふえに鶴鳴きわたる志珂しかの浦に沖つ白浪立ちし来らしも」(巻十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉すみのえ得名津えなつに立ちて見渡せば武庫のとまりゆ出づる舟人」(巻三・二八三)は、少しくらく過ぎて、人麿の「乱れいづ見ゆあまの釣舟」(同・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持っていないものがあるから、それを見のがさないように努むべきである。
 此処の、「四極しはつ山うち越え見れば笠縫かさぬひの島榜ぎかくる棚無し小舟をぶね」(同・二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を与えたものである。四極しはつ山、笠縫かさぬい島は参河みかわという説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国幡豆はず郡磯泊(之波止シハト)説に従って味うこととする。また、「妹も吾も一つなれかも三河なる二見ふたみの道ゆ別れかねつる」(同・二七六)というのもある。三河の二見は御油ごゆから吉田よしだに出る二里半余の道だといわれている。「いも」は、かりそめに親しんだそのあたりの女であろう。上句は、お前もおれも一体だからだろうと気転を利かしたいい方である。黒人のには上半にこういう主観句のものが多い。それが成功したのもあればまずいのもある。

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何処いづくにかわれ宿やどらむ高島たかしま勝野かちぬはらにこのれなば 〔巻三・二七五〕 高市黒人
 黒人作。※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅歌つづき。「高島の勝野」は、近江おうみ高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅の歌はこれを見ても場処の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現実的内容で、「何処にか吾は宿らむ」はそれに伴う自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂うことが出来るであろう。この詠歎は率直簡単なので却って効果があり、全体として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に関係あるものは、「磯の埼ぎたみゆけば近江あふみ八十やそみなとたづさはに鳴く」(巻三・二七三)、「吾が船は比良ひらの湊に榜ぎてむ沖へなさかりさふけにけり」(同・二七四)がある。「沖へな放かり」というのは、余り沖遠くに行くなというので特色のある句である。「わが舟は明石あかしの浦に榜ぎはてむ沖へなかりさ夜ふけにけり」(巻七・一二二九)というのは、黒人の歌が伝誦のあいだに変化し、勝手に「明石」と直したものであろう。

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てもてましものを山城やましろたかつきむらりにけるかも 〔巻三・二七七〕 高市黒人
 黒人※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉つきのおちばでタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群こむらをいふなるべし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国綴喜つづき郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城のいづみの小菅」、「山城の石田いはたもり」などあるのを参考し、「山城のたかの槻村」だとした。爾来じらい諸学者それを認容するに至った。
 一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城のたかという村の槻の林の黄葉もみじも散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさりして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。

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此処ここにしていへやもいづく白雲しらくも棚引たなびやまえてにけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
 志賀に行幸あった時、石上卿いそのかみのまえつきみの作ったものであるが、作者の伝は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田久老ひさおいは、大宝二年太上天皇おおきみすめらみこと(持統天皇)が三河美濃に行幸あった時、近江にも立寄られたのだろうと云っている。そうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じているから、後人が題詞を書いたとせば、「卿」でもよいのである。併し養老元年九月の行幸(元正天皇)の時だとすると、やはり槻落葉つきのおちばでいったごとく石上豊庭いそのかみのとよにわだろうということとなる。この豊庭説が有力である。
 旅を遙々来た感じで、直線的にいい下して、相当の感情を出している歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫つくし何処いづく白雲の棚引く山のかたにしあるらし」(巻四・五七四)というのがあって、形態が似ている。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、「白雲の棚引く山を越えて来にけり」も、近江で詠んだのだから、直接性があるし、旅人のはみやこにあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓さみのまんぜいこたえた歌だから、そういう意味で心に直接性があるのである。

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ひるれどかぬ田児たごうら大王おほきみのみことかしこみよるつるかも 〔巻三・二九七〕 田口益人
 田口益人たぐちのますひとが和銅元年上野国司かみつけぬのくにのつかさとなって赴任ふにんの途上駿河するが浄見きよみ埼を通って来た時の歌である。国司はかみすけじょうさかんともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原いおはら郡の海岸で今の興津おきつ清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原いほはらの清見が埼の三保の浦のゆたけき見つつもの思ひもなし」(巻三・二九六)というのがある。三保は今は清水市だが古えは廬原郡であった。「清見が埼の」も、「三保の浦の」も共に「寛けき」に続く句法である。「田児浦」は今は富士郡だが、いにしえは廬原郡にもかかった範囲の広かったもので、東海道名所図絵に、「すべて清見興津より、ひがし浮島原迄の海浜の惣号そうがうなるべし」とある。
 さて、此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。そして、なぜ夜見たとことわったかというに、山田(孝雄)博士の考証がある(講義)。駿河国府(静岡)を立って、息津おきつ蒲原かんばらと来るのだが、その蒲原まで来るあいだに田児浦がある。静岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日の行程とすると、蒲原に着くまえに夜になったのであろう、というのである。
 この歌は右の如く、事実によって詠んだものであるが、この歌を読むといつも不思議な或るものを感じて今日まで来たのであった。それは、「夜見つるかも」という句にあって、この「夜」というのに、特有の感じがあると思うのである。作者は、「夜の田児浦」をばただ事実によってそういっただけだが、それでもその夜の感動が後代の私等に伝わるのかも知れないのである。
 補記。近時沢瀉おもだか久孝氏は田児浦を考証し、「※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)さった峠の東麓より、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入海を上代の田児浦とする」とした。

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田児たごの浦ゆうち出でて見れば真白ましろにぞ不尽ふじ高嶺たかねゆきりける 〔巻三・三一八〕 山部赤人
 山部宿禰赤人やまべのすくねあかひと不尽山ふじのやまを詠んだ長歌の反歌である。「田児の浦」は、いにしえは富士・廬原の二郡に亙った海岸をひろく云っていたことは前言のとおりである。「田児の浦ゆ」の「ゆ」は、「より」という意味で、動いてゆく詞語に続く場合が多いから、此処は「打ち出でて」につづく。「家ゆ出でて三年がほどに」、「痛足あなしの川ゆ行く水の」、「野坂の浦ゆ船出して」、「山の出雲いづもの児ら」等の用例がある。また「ゆ」は見渡すという行為にも関聯しているから、「見れば」にも続く。「わが寝たる衣の上ゆ朝月夜あさづくよさやかに見れば」、「海人あまの釣舟浪の上ゆ見ゆ」、「舟瀬ふなせゆ見ゆる淡路島」等の例がある。前に出た、「御井みゐの上より鳴きわたりゆく」の「より」のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大体の約束による用例に拠って極めればよく、それも幾何学の証明か何ぞのように堅苦しくない方がいい。つまり此処で赤人はなぜ「ゆ」を使ったかというに、作者の行為・位置を示そうとしたのと、「に」とすれば、「真白にぞ」の「に」に邪魔をするという微妙な点もあったのであろう。
 赤人の此処の長歌も簡潔でうまく、その次の無名氏(高橋むらじ虫麿か)の長歌よりも旨い。また此反歌は古来人口に膾炙かいしゃし、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。赤人のものは、総じて健康体の如くに、清潔なところがあって、だらりとした弛緩しかんがない。ゆえに、規模が大きく緊密な声調にせねばならぬような対象の場合に、他の歌人の企て及ばぬ成功をするのである。この一首中にあって最も注意すべき二つの句、即ち、第三句で、「真白にぞ」と大きく云って、結句で、「雪は降りける」と連体形で止めたのは、柿本人麿の、「青駒の足掻あがきを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」(巻二・一三六)という歌と形態上甚だ似ているにもかかわらず、人麿の歌の方が強く流動的で、赤人の歌の方は寧ろ浄勁じょうけいとでもいうべきものを成就じょうじゅしている。古義で、「真白くぞ」と訓み、新古今で、「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ」として載せたのは、種々比較して味うのに便利である。また、無名氏の反歌、「不尽ふじに降り置ける雪は六月みなづき十五日もちに消ぬればその夜降りけり」(巻三・三二〇)も佳い歌だから、此処に置いて味っていい。(附記。山田博士の講義に、「田児浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその立てる地も田子浦の中たるなり」と説明して居る。)

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あをによし寧楽ならみやこはなにほふがごとくいまさかりなり 〔巻三・三二八〕 小野老
 太宰少弐小野老朝臣だざいのしょうにおぬのおゆのあそみの歌である。おゆは天平十年(続紀には九年)に太宰大弐だざいのだいにとしてそっしたが、作歌当時は大伴旅人が太宰帥だざいのそちであった頃その部下にいたのであろう。巻五の天平二年正月の梅花歌中に「小弐小野大夫おぬのまえつきみ」の歌があるから、この歌はその後、偶々たまたま帰京したあたりの歌ででもあろうか。歌は、天平の寧楽ならの都の繁栄を讃美したもので、直線的に云い下してごうとどこおるところが無い。「春花のにほえさかえて、秋の葉のにほひに照れる」(巻十九・四二一一)などと云って、美麗な人を形容したのがあるが、此歌は帝都の盛大を謳歌おうかしたのであるから、もっと内容が複雑宏大こうだいとなるわけである。併し同時に概念化してゆく傾向も既にかもされつつあるのは、単にこの歌のみでなく、一般に傾向文学の入ってゆかねばならぬ運命でもあるのである。またこの歌の作風は旅人の歌にあるような、明快で豊かなものだから、繰返しているうちに平板通俗にも移行し得るのである。人麿以前の歌調などと較べるとその差が既に著しい。「梅の花いまさかりなり思ふどち※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしにしてな今さかりなり」(巻五・八二〇)という歌を参考とすることが出来る。

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わがさかりまた変若をちめやもほとほとに寧楽ならみやこを見ずかなりなむ 〔巻三・三三一〕 大伴旅人
 太宰帥大伴旅人だざいのそちおおとものたびとが、筑紫太宰府にいて詠んだ五首中の一つである。旅人は六十二、三歳頃(神亀三、四年)太宰帥に任ぜられ、天平二年大納言になって兼官の儘上京し、天平三年六十七歳で薨じている。そこで此歌は、六十三、四歳ぐらいの時の作だろうと想像せられる。
 一首の意は、吾が若い盛りが二たび還って来ることがあるだろうか、もはやそれはかなわぬことだ。こうして年老いて辺土に居れば、寧楽ならの都をも見ずにしまうだろう、というので、「をつ」という上二段活用の語は、元へ還ることで、若がえることに用いている。「昔見しより変若をちましにけり」(巻四・六五〇)は、昔見た時よりも却って若返ったという意味で、旅人の歌の、「変若」と同じである。
 旅人の歌は、彼は文学的にも素養の豊かな人であったので、極めて自在に歌を作っているし、寧ろ思想的抒情詩という方面にも開拓して行った人だが、歌が明快なために、一首の声調にうんが少いという欠点があった。その中にあって此歌の如きは、流石さすがに老に入った境界の作で、感慨もまた深いものがある。

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わがいのちつねにあらぬかむかしきさ小河をがはきて見むため 〔巻三・三三二〕 大伴旅人
 旅人作の五首中の一首である。一首の意は、わが命もいつも変らずありたいものだ。昔見た吉野の象の小川を見んために、というので、「常にあらぬか」は文法的には疑問の助詞だが、斯く疑うのはねがう心があるからで、結局同一に帰する。「苦しくも降りくる雨か」でも同様である。この歌も分かり易い歌だが、平俗でなく、旅人の優れた点をあらわし得たものであろう。哀韻もここまで目立たずにこもれば、歌人として第一流と謂っていい。やはり旅人の作に、「昔見しきさの小河を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(巻三・三一六)というのがある。これは吉野宮行幸の時で、聖武天皇の神亀元年だとせば、「わが命も」の歌よりも以前で、未だ太宰府に行かなかった頃の作ということになる。

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しらぬひ筑紫つくし綿わたにつけていまだはねどあたたけく見ゆ 〔巻三・三三六〕 沙弥満誓
 沙弥満誓さみのまんぜい綿わたを詠じた歌である。満誓は笠朝臣麻呂かさのあそみまろで、出家して満誓となった。養老七年満誓に筑紫の観世音寺を造営せしめた記事が、続日本紀しょくにほんぎに見えている。満誓の歌としては、「世の中をなにたとへむ朝びらきにし船の跡なきがごと(跡なきごとし)」(巻三・三五一)という歌が有名であり、当時にあって仏教的観相のものとして新しかったに相違なく、また作者も出家した後だから、そういう深い感慨を意識して漏らしたものに相違なかろうが、こういう思想的な歌は、たとい力量があっても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。
 この綿は、真綿まわた(絹綿)という説とわた木綿もめん・もめん綿)という説とあるが、これは真綿の方であろう。真綿説を唱えるのは、当時木綿は未だ筑紫でも栽培せられていなかったし、題詞の「緜」という文字は唐でも真綿の事であり、また、続日本紀しょくにほんぎに「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運太宰府綿二十万モチ、以輸京庫」とあるので、九州が綿の産地であったことが分かるが、その綿が真綿だというのは、三代実録、元慶八年の条に、「五月庚申朔、太宰府年貢綿十万屯、其内二万屯、以絹相転進之」とあるによって明かである。以絹相転進之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の末だというし、我国では延暦えんりゃく十八年に崑崙こんろん人(印度人)が三河に漂着したが、其舟に木綿の種があったのを栽培したのが初だといわれている。また、木綿説を唱える人は、神護景雲三年の続日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によったもので、支那との貿易はそれ以前から行われていただろうというのである。それに対して山田博士云、「遣唐使の派遣が大命を奉じて死生をして数年をついやして往復するに、綿のみにても毎年二十万屯づつを輸入せりとすべきか」(講義)と云った。
 一首の意は、〔白縫〕(枕詞)筑紫の真綿まわたは名産とはきいていたが、今見るとなるほど上品だ。未だ着ないうちから暖かそうだ、というので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の眼にも珍らしかったからに相違ない。何十万屯(六両を一屯とす)という真白な真綿を見て、「暖けく見ゆ」というのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且つなかなか佳い歌である。
 そういう珍重と親愛とがあるために、おのずから覚官的語気が伴うと見え、女体と関聯する寓意ぐういがあろうという説もある。例えば、「満誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし」(攷證)というたぐいである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉体的なものを持っている証拠ともなり、却ってこの歌を浅薄な観念歌にしてしまわなかった由縁とも考え得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出来上った歌はもっと暗指的な象徴的なものになっている。結句、旧訓アタタカニミユであったのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なおこの歌につき、契沖は、「綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ」(代匠記精撰本)「綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)けうまんの人には※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)慢のさうあらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべきうたにや」(代匠記初稿本)と云ったが、真淵は、「さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし」(考)と云った。

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憶良等おくららいままからむくらむそのははつらむぞ 〔巻三・三三七〕 山上憶良
 山上憶良臣やまのうえのおくらのおみうたげまかる歌一首という題がある。憶良は、大宝元年遣唐使に従い少録として渡海、慶雲元年帰朝、霊亀二年伯耆ほうき守、神亀三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀ちんあじあい文(巻五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙弥満誓、防人司佑大伴四綱さきもりのつかさのすけおおとものよつなの歌等があるから、太宰府に於ける宴会の時の歌であろう。
 一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いていようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待っていようぞ、というのである。「其彼母毛」は、ソノカノハハモと訓み、「そのの(子供の)母も」という意味になる。
 憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥あすか朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで来た眼には、急に変ったものに接するように感ぜられる。即ち、一首の声調が如何にもごつごつしていて、「もののふの八十やそうぢがはの網代木あじろぎに」というような伸々のびのびした調子には行かない。一首の中に、三つも「らむ」を使って居りながら、訥々とつとつとしていて流動の響に乏しい。「わが背子は何処ゆくらむ沖つ名張なばりの山をけふか越ゆらむ」(巻一・四三)という「らむ」の使いざまとも違うし、結句に、「吾を待つらむぞ」と云っても、人麿の「妹見つらむか」とも違うのである。そういう風でありながら、何処かに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわないのが其特色である。またそういうなめらかでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめて居る。
 諧謔かいぎゃく微笑のうちにあらわるる実生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂うべきであろう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林るいじゅうかりんを編んだのを見ても分かる。併し大体として、日本語の古来の声調に熟し得なかったのは、漢学素養のために乱されたのかも知れない。巻一(六三)の、「いざ子どもはやく大和やまと大伴おほとも御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」という歌は有名だけれども、調べが何処か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、「いざ児ども大和へ早く白菅しらすげ真野まぬ榛原はりはら手折たをりて行かむ」(巻三・二八〇)の方がまさっているのではなかろうか。そういう具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
 大伴家持の歌に、「春花のうつろふまでに相見ねば月日みつつ妹待つらむぞ」(巻十七・三九八二)というのがある。此は天平十九年三月、恋緒を述ぶる歌という長短歌の中の一首であるが、結句の「妹待つらむぞ」はこの憶良の歌の模倣である。なお「ぬばたまの夜渡る月を幾夜みつついも我待つらむぞ」(巻十八・四〇七二)、「居りあかし今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴きわたらむぞ」(同・四〇六八)というのがあり、共に家持の作であるのは吾等の注意していい点である。

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しるしなきものおもはずは一坏ひとつきにごれるさけむべくあるらし 〔巻三・三三八〕 大伴旅人
 太宰帥大伴旅人の、「酒をむる歌」というのが十三首あり、此がその最初のものである。「思はずは」は、「思はずして」ぐらいの意にとればよく、従来は、「思はむよりは寧ろ」と宣長流に解したが、つまりはそこに落着くにしても、「は」を詠歎の助詞として取扱うようになった(橋本博士)。
 一首の意は、甲斐ない事をくよくよ思うことをせずに、一坏の濁酒にごりざけを飲むべきだ、というのである。つまらぬ事にくよくよせずに、一坏の濁醪どぶろくでも飲め、というのが今の言葉なら、旅人のこの一首はその頃の談話言葉と看做みなしてよかろう。即ち、そういう対人間的、会話的親しみが出ているのでこの歌が活躍している。独り歌った如くであって相手を予想する親しみがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、旅人の作った最初の歌がやはりこれでなかっただろうか。
酒の名をひじりおほせしいにしへおほひじりことのよろしさ (巻三・三三九)
いにしへななさかしき人等ひとたちりせしものはさけにしあるらし (同・三四〇)
さかしみとものふよりはさけ飲みて酔哭ゑひなきするしまさりたるらし (同・三四一)
はむすべせむすべ知らに(知らず)きはまりてたふときものはさけにしあるらし (同・三四二)
なかなかにひととあらずは酒壺さかつぼに成りてしかもさけみなむ (同・三四三)
あなみにくさかしらをすとさけまぬ人をよくればさるにかもる(よく見ば猿にかも似む) (同・三四四)
あたひたからといふとも一坏ひとつきにごれるさけあにまさらめや (同・三四五)
よるひかたまといふともさけみてこころるにあにかめやも (同・三四六)
なかあそびのみちすずしきは酔哭ゑひなきするにありぬべからし (同・三四七)
このにしたぬしくあらばにはむしとりにもわれはなりなむ (同・三四八)
生者いけるものつひにもぬるものにあれば今世このよなるたぬしくをあらな (同・三四九)
黙然もだりてさかしらするはさけみて酔泣ゑひなきするになほかずけり (同・三五〇)
 残りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、かえりみれば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選抜の歌に限あるため、一首のみを取って全体を代表せしめることとした。

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武庫むこうら小舟をぶね粟島あはしま背向そがひつつともしき小舟をぶね 〔巻三・三五八〕 山部赤人
 山部赤人の歌六首中の一首である。「武庫の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「粟の小島し見れど飽かぬかも」とある、「粟の小島」と同じ場処であろうが、現在何処に当るか不明である。淡路の北端あたりだろうという説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、というので、「小舟」を繰返していても、あらあらしくないすっきりした感じを与えている。あとの五首も大体そういう特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
なはの浦ゆ背向そがひに見ゆるおきつ島む舟は釣し(釣を)すらしも (巻三・三五七)
阿倍あべの島の住む磯に寄する浪なくこのごろ大和しおもほゆ (同・三五九)

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吉野よしぬなる夏実なつみかは川淀かはよどかもくなるやまかげにして 〔巻三・三七五〕 湯原王
 湯原王ゆはらのおおきみが吉野で作られた御歌である。湯原王の事はつまびらかでないが、志貴皇子しきのみこの第二子で光仁天皇の御兄弟であろう。日本後紀に、「延暦廿四年十一月(中略)壱志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子」云々とある。「夏実」は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。(土屋氏に新説ある。)
 一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ、というので、これは現に鴨の泳いでいるのを見て作ったものであろう。結句の、「山かげにして」は、鴨の泳いでいる夏実の淀淵の説明だが、結果から云えば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此処にこもり、意味は場処の説明でも、一首全体の声調からいえばもはや単なる説明ではなくなっている。こういう結句の効果については、前出の人麿の歌(巻三・二五四)の処でも説明した。此歌は従来叙景歌の極致として取扱われたが、いかにもそういうところがある。ただ佳作と評価する結論のうちに、抒情詩としての声調という点を抜きにしてはならぬのである。また此歌の有名になったのは、一面に万葉調の歌の中では分かり好いためだということもある。一首の中に、「なる」の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。

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かるいけうら回行みゆきめぐるかもすらに玉藻たまものうへにひと宿なくに 〔巻三・三九〇〕 紀皇女
 紀皇女きのひめみこの御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穂積皇子ほづみのみこの御妹にあられる。一首の意は、軽の池の岸のところを泳ぎ廻っているあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寝るということがないのに、私はただ一人で寝なければならぬ、というのである。万葉では、譬喩歌ひゆかというのに分類しているが、内容は恋歌で、鴨に寄せたのだといえばそうでもあろうが、もっと直接で、どなたかに差し上げた御歌のようである。単に内容からいえば、読人知らずの民謡的な歌にこういうのは幾らもあるが、この歌のよいのは、そういう一般的でない皇女に即した哀調が読者に伝わって来るためである。土屋文明氏の万葉集年表に、巻十二(三〇九八)に関するつたえを参照し、恋人の高安王たかやすのおおきみが伊豫に左遷せられた時の歌だろうかと考えている。

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陸奥みちのく真野まぬ草原かやはらとほけども面影おもかげにしてゆとふものを 〔巻三・三九六〕 笠女郎
 笠女郎かさのいらつめ(伝不詳)が大伴家持やかもちに贈った三首の一つである。「真野」は、今の磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう。一首の意は、陸奥の真野の草原かやはらはあんなに遠くとも面影に見えて来るというではありませぬか、それにあなたはちっとも御見えになりませぬ、というのであるが、なお一説には「陸奥の真野の草原かやはら」までは「遠く」に続く序詞で、こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に浮んでまいります。私の心持がお分かりになるでしょう、と強めたので、「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般にいうような云い方をしてたしかめるので、この云い方のことは既に云ったごとく、「見ゆというものなるを」、「見ゆるものなるを」というに落着くのである。女郎いらつめが未だ若い家持にうったえる気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。また序詞などを使って幾分民謡的な技法でもあるが、これも前の紀皇女きのひめみこの御歌と同じく、女郎いらつめに即したものとして味うと特色が出て来るのである。

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ももつた磐余いはれいけかも今日けふのみてや雲隠くもがくりなむ 〔巻三・四一六〕 大津皇子
 題詞には、大津皇子被死之時、磐余池ツツミナミダ御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反むほんあらわれ、朱鳥あかみとり元年十月三日訳語田舎おさだのいえで死を賜わった。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜死皇子大津於訳語田舎、時年二十四。妃皇女山辺ヤマノベ髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われている。「百伝ふ」は枕詞で、ももへ至るという意で五十に懸け磐余いわれに懸けた。
 一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、というので、「雲隠る」は、「雲がくります」(巻三・四四一)、「雲隠りにき」(巻三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、「金烏臨西舎、鼓声催短命、泉路無賓主、此夕離家向」という五言臨終一絶を作り、懐風藻かいふうそうに載った。皇子ははやくから文筆を愛し、「詩賦のおこりは大津より始まる」と云われたほどであった。
 この歌は、臨終にして、鴨のことをいい、それに向って、「今日のみ見てや」と歎息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に云ったために却って結句の「雲隠りなむ」が利いて来て、「今日のみ見てや」の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むものが出来て来ている。これは歌風の時代的変化である。契沖は代匠記で、「歌ト云ヒ詩ト云ヒ声ヲ呑テ涙ヲおほフニいとまナシ」と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、万葉集中の傑作の一つである。また妃山辺皇女やまべのひめみこ殉死の史実を随伴した一悲歌として永久に遺されている。ちなみに云うに、山辺皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄あかえむすめである。赤兄大臣は有間皇子が、「天与赤兄知」と答えられた、その赤兄である。

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豊国とよくにかがみやま石戸いはとこもりにけらしてどまさぬ 〔巻三・四一八〕 手持女王
石戸いはと手力たぢからもがも手弱たよわをみなにしあればすべらなく 〔巻三・四一九〕 同
 河内王かふちのおおきみを豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王たもちのおおきみの詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥だざいのそちとなった方で、持統天皇八年四月五日賻物はふりものを賜った記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の伝は不明である。「石戸」は石棺を安置する石槨せっかくの入口を、石を以て塞ぐので石戸というのである。これ等の歌も追悼するのに葬った御墓のことを云っている。第一の歌では、「待てど来まさぬ」の句に中心感情があり、同じ句は万葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に専属のものだという気味がするのである。第二の歌の、「石戸わる手力もがも」は、その時の心その儘であろう。二つとも女性としての云い方、その語気が自然に出ていて挽歌としての一特色をなしている。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであろう。

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八雲やくもさす出雲いづも子等こら黒髪くろかみ吉野よしぬかはおきになづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
 出雲娘子いずものおとめが吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、もう一つのは、「山のゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬のけむりの事を歌っている。この歌の、「八雲さす」は「出雲」へかかる枕詞。「子等」の「等」は複数を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかった娘子の黒髪が吉野川の深い水につかってただよう趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであろう。いずれにしてもその事柄を中心として一首をまとめている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。

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われもひとにも告げむ葛飾かつしか真間まま手児名てこな奥津城処おくつきどころ 〔巻三・四二三〕 山部赤人
 山部赤人が下総葛飾の真間娘子ままのおとめの墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名てこな処女おとめの義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」のわったものと云われている。真間に美しい処女おとめがいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併しいたずらに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代のかたらひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。

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吾妹子わぎもこともうらむろ常世とこよにあれどひとき 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
 太宰帥だざいのそち大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後びんご鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦にはむろの大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦のむろは、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので、「吾妹子」と、「見し人」とは同一人である。「人」は後に、「根はふ室の木見し人」、「人も無き空しき家」といってある如く、妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。旅人の歌は明快で、顫動せんどうが足りないともおもうが、「見し人ぞ亡き」に詠歎が籠っていて感深い歌である。

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いも敏馬みぬめさきかへるさにひとりしてればなみだぐましも 〔巻三・四四九〕 大伴旅人
 前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句は、万葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁徳巻に、「やましろの筒城つつきの宮にもの申すあがきみは(吾兄わがせを見れば)なみだぐましも」の一首がある。この句は、この時代に出来た句だから、大体の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通会話なりに多く用いる、「涙ぐましい」という語は不調和である。
 この歌は、余り苦心して作っていないようだが、声調にこまかいゆらぎがあって、奥から滲出で来る悲哀はそれに本づいている。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠点があったが、この歌にはそれが割合に少く、そういう点でもこの歌は旅人作中の佳作ということが出来るであろう。旅人は、讃酒歌さけをほむるうたのような思想的な歌をも自在に作るが、こういう沁々しみじみとしたものをも作る力量を持っていた。なおこの時、「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも」(巻三・四五〇)という歌をも作った。やはりあわれ深い歌である。

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いもとして二人ふたりつくりし山斎しま木高こだかしげくなりにけるかも 〔巻三・四五二〕 大伴旅人
 旅人が家に帰って来て、妻のいない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、「人もなきむなしき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻三・四五一)、「吾妹子わぎもこがうゑし梅の木見る毎に心むせつつなみだし流る」(同・四五三)の二首を作っているが、共にあわれ深い。
 此一首の意は、亡くなった妻と一しょになって、二人で作った庭は、こんなにも木が大きくなり、繁茂するようになったというので、単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。結句の、「なりにけるかも」というのは、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「竹敷たかしきのうへかた山はくれなゐ八入やしほの色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)、「石ばしる垂水たるみのうへのさわらびえいづる春になりにけるかも」(巻八・一四一八)等の如くに成功している。同じく旅人が、「昔見しきさの小河を今見ればいよいよさやけくなりにけるかも」(巻三・三一六)という歌を作っていて効果をおさめているのは、旅人の歌調がおおむね直線的で太いからでもあろうか。

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あしひきのやまさへひかはなりぬるごときおほきみかも 〔巻三・四七七〕 大伴家持
 天平十六年二月、安積皇子あさかのみこ(聖武天皇皇子)薨じた時(御年十七)、内舎人うどねりであった大伴家持の作ったものである。此時家持は長短歌六首作って居る。一首の意は、満山の光るまでに咲き盛っていた花が一時に散ったごとく、皇子はきたもうた、というのである。家持の内舎人になったのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに属するであろうが、こころ謹しみ、骨折って作っているのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのような歌人であり、はやくから人麿・赤人・憶良等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格をそなえているのである。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻4


やま味鳬あぢ群騒むらさわくなれどわれはさぶしゑきみにしあらねば 〔巻四・四八六〕 舒明天皇
 岳本天皇おかもとのすめらみこと御製一首並短歌とある、その短歌である。岳本天皇は即ち舒明天皇を申奉るのであるが、御製歌には女性らしいところがあるので、左注には後岳本天皇のちのおかもとのすめらみこと即ち斉明さいめい天皇の御製ではなかろうかと疑問を附している。それだから此疑問は随分古いものだということが分かるが、その精しい考証は現在の私には不可能である。攷證では、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」と明かにしている。
 一首の意は、山の端をば味鴨あじがもが群れ鳴いて、騒ぎ飛行くように、多くの人が通り行くけれども、私は寂しゅうございます、その人々はあなたではありませぬから、というので、やはり女性の歌として解釈するのである。そんなら作者は後岳本天皇即ち斉明天皇にましますかというに、それも私にはよく分からぬ。ただ岳本天皇御製とあるのだから、天皇がこういう恋愛情調をたたえた民謡風な抒情詩を御作りになったと解釈申上げてもよく、或は岳本天皇時代のこの抒情詩が、天皇御製歌として伝誦せられ来ったとも解釈することが出来るのである。いずれにしても歌は女性の口吻こうふんであること既に前賢が注意したごとくである。次に、この歌の、「あぢ群さわぎ行くなれど」の句をば、実際あじ鴨の群が飛んでゆくのを御覧になったのか、それとも譬喩ひゆで、あじ鴨が騒いで飛行くように人が群れ騒ぎ行くというのか、先輩の解釈にも二とおりある。けれども私は「山の端にあぢ群さわぎ」は、「行く」に続く意味のある序詞だと解した。そして誰が「行く」のかといえば、「人」が行くのであって、これは長歌の方で、「人さはに国には満ちて、あぢ群の去来ゆききは行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」とあるのに拠っても分かる。即ち、あじ群の騒ぎ行くように人等が行くけれどもと解釈したのであって、その方が寧ろ古調だとおもうのである。
 私はこの御製を、素朴な抒情詩の優れたものとして選んだ。特に、「あぢむら騒ぎ」という句に心をかれたのであった。こういう実景を見つつ、その写象によって序詞を作ったのを感心したためであった。もっとも、此用法は、「奥べには鴨妻ばひ、つべにあぢむら騒ぎ」(巻三・二五七)、「なぎさには味むら騒ぎ」(巻十七・三九九一)の如く実際味むらの居る処として表わしたものもあり、「あぢむらの騒ぎきほひて浜に出でて」(巻二十・四三六〇)のごとく、実際あじ群の居るのでなく、枕詞に使った処もあるが、いずれにしても古風な気持の好い用い方である。ことに、短歌の方で、単に「行くなれど」と云って、長歌の方の、「人さはに」という主格をも含めた用法にも感心したのであった。この歌に比べると、「秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不楽さぶし君にしあらねば」(巻十・二二九〇)、「み冬つぎ春は来れど梅の花君にしあらねば折る人もなし」(巻十七・三九〇一)などは、調子が弱くなって、もはやたるんでいる。また、「うち日さす宮道みやぢを人は満ちゆけど吾がおもきみはただ一人のみ」(巻十一・二三八二)という類似の歌もあるが、この方はもっと分かりよい。
 この次に、「淡海路あふみぢ鳥籠とこの山なるいさや川此頃このごろは恋ひつつもあらむ」(巻四・四八七)という歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のような語気だから、或はこれが御製で、「山の端に」の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあろうか。
 以上、「あぢむら騒ぎ」までを序詞として解釈したが、「夏麻なつそ引く海上潟うなかみがたの沖つ洲に鳥はすだけど君はおともせず」(巻七・一一七六)、「吾が門のもりむ百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(巻十六・三八七二)というのがあって、これは実際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、「あぢむら騒ぎ」も実景としてもいいかも知れぬが、この巻七の歌も巻十六の歌もよく味うと、やはり海鳥を写象として、その聯想によって「すだけど」、或は「来れど」と云っているのだということが分かり、属目光景では無いのである。
 この御製を、女性らしい御語気だと云ったが、代匠記では男の歌とし、毛詩鄭風ていふうの、出其東門、有女如雲、雖則如シト一レ雲、匪我思スルニを引いている。即ち「君」を女と解している。攷證でも、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」、「吾は君とは違ひて、サソふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也」と云っている。どちらが本当か、後賢の判断をっている。

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きみつとれば屋戸やどすだれうごかしあきかぜく 〔巻四・四八八〕 額田王
 額田王ぬかだのおおきみが近江天皇(天智天皇)をお慕いもうして詠まれたものである。王ははじめ大海人皇子おおあまのみこ(天武天皇)のもとに行かれて十市皇女とおちのひめみこを生み、のち天智天皇にちょうせられたことは既に云ったが、これは近江に行ってから詠まれたものであろう。
 一首の意は、あなたをお待申して、慕わしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおとずれてまいります、というのである。
 この歌は、当りまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味の籠った不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。そこで知らず識らずこういう歌が出来るので、この歌の如きは王の歌の中にあっても才鋒さいほうが目立たずして特に優れたものの一つである。この歌でただ、「簾動かし秋の風吹く」とだけ云ってあるが、女性としての音声さえ聞こえ来るように感ぜられるのは、ただ私の気のせいばかりでなく、つまり、結句の「秋の風ふく」の中に、既に女性らしいうったえを聞くことが出来るといい得るのである。また、風の吹いて来るのは恋人の来る前兆だという一種の信仰のようなものがあったと説く説(古義)もあるがどういうものであるか私にはく分からない。ただそうすれば却って歌柄うたがらが小さくなってしまうようだから、此処は素直に文字どおりにただ天皇をお慕い申す恋歌として受取った方が好いようである。
 この歌の次に、鏡王女かがみのおおきみの作った、「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か歎かむ」(巻四・四八九)という歌が載っている。王女は額田王の御姉に当る人で、はじめ天智天皇に寵せられ、のち藤原鎌足かまたりの正室になった人だから、恐らく此時近江の京に住んでいたのであろう。そして、額田王の此歌を聞いて、額田王にやったものであろう。この歌にも広い意味の贈答歌の味いがあり、姉妹のあいだの情味がこもっている。併し万葉集には、妹にこたえた歌とは云っていない。

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今更いまさらなにをかおもはむうちなびきこころはきみりにしものを 〔巻四・五〇五〕 安倍女郎
 安倍女郎あべのいらつめ(伝不詳)の作った二首中の一つである。女性の声の直接伝わり来るような特色ある歌として選んだが、そうして見ると、素直でなかなか佳いところがある。前に既に「君に寄りななこちたかりとも」(巻二・一一四)の歌を引いたが、この歌はもっと分かり易くなって来て居る。
 なお、この歌の次に「吾背子は物なおもほし事しあらば火にも水にも吾無けなくに」(巻四・五〇六)という歌があって、やはり同一作者だが、女性の情熱を云っている。併しこれも女性の語気として受取る方がよく、此時代になると、感情も一般化して分かりよくなっている。寧ろ、「事しあらば小泊瀬山をはつせやま石城いはきにもこもらば共にな思ひ吾が」(巻十六・三八〇六)の方が、古い味いがあるように思える。巻十六の歌は後に選んで置いた。

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大原おほはらのこの市柴いつしば何時いつしかといも今夜こよひへるかも 〔巻四・五一三〕 志貴皇子
 志貴皇子の御歌で「市柴いつしば」は巻八(一六四三)に「この五柴いつしばに」とあるのと同じく、繁った柴のことだといわれている。「いつしかと」に続けた序詞だが、実際から来ている序詞である。「大原」は高市郡小原の地なることは既に云った。この歌で心をいたのは、「今夜逢へるかも」という句にあったのだが、この句は、巻十(二〇四九)に、「天漢あまのがは川門かはとにをりて年月を恋ひ来し君に今夜こよひ逢へるかも」というのがある。
 なお、この巻(五二四)に、「むしぶすまなごやが下に臥せれども妹としねばはだし寒しも」という藤原麻呂の歌もあり、覚官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いようである。此等の歌は取立てて秀歌という程のものでは無いが、ついでを以て味うの便となした。

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には麻手あさてかりししきしぬ東女あづまをみなわすれたまふな 〔巻四・五二一〕 常陸娘子
 藤原宇合うまかい(藤原不比等第三子)が常陸守になって任地に数年いたが、任果てて京に帰る時、(養老七年頃か)常陸娘子ひたちのおとめが贈った歌である。娘子は遊行女婦うかれめのたぐいであろう。「庭に立つ」は、庭に植えたという意。「麻手」は麻のことで、巻十四(三四五四)に、「庭に麻布あさて小ぶすま」の例がある。類聚古集にって「手」は「乎」だとすると分かりよいことは分かりよい。「刈り干し」までは、「しきしぬぶ」の序のようだが、これは意味の通ずる序だから、序詞をも意味の中に取入れていい。地方にいる遊行女婦が、こうして官人を持成もてなし優遇し、別れるにのぞんでは纏綿てんめんたる情味を与えたものであろう。そして農家のおとめのような風にして詠んでいるが、軽い諧謔かいぎゃくもあって、女らしい親しみのある歌である。「東女あづまをみな」と自ら云うたのも棄てがたい。
 巻十四(三四五七)に、「うち日さす宮の吾背わがせ大和女やまとめ膝枕ひざまくごとにを忘らすな」というのがある。これは古代の東歌というよりも、京師から来た官人の帰還する時に詠んだおもむきのものでこの歌に似ている。遊行女婦あたりの口吻だから、東歌の中にはこういう種類のものも交っていることが分かる。

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ここにありて筑紫つくしやいづく白雲しらくも棚引たなびやまかたにしあるらし 〔巻四・五七四〕 大伴旅人
 大伴旅人が大納言になって帰京した。太宰府に残って、観世音寺造営に従っていた沙弥満誓さみのまんぜいから「真十鏡まそかがみ見飽みあかぬ君におくれてやあしたゆふべにさびつつ居らむ」(巻四・五七二)等の歌を贈った。それにこたえた歌である。旅人の歌調は太く、余り剽軽ひょうきんに物をいえなかったところがあった。讃酒歌さけをほむるうたでも、「猿にかも似る」といっても、人を笑わせないところがある。旅人の歌調は、ふるえが少いが、家持の歌調よりも太い。

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きみひいたもすべなみ平山ならやま小松こまつしたなげくかも 〔巻四・五九三〕 笠女郎
 笠女郎かさのいらつめが大伴家持に贈った廿四首の中の一つである。平山ならやまは奈良の北にある那羅山ならやまで、其処に松が多かったことは、「平山ならやまの小松がうれの」(巻十一・二四八七)等の歌によっても分かる。これは家持に向ってうったえているので、分かりよい、調子のなだらかな歌である。この歌の次に、「わが屋戸やど夕影草ゆふかげぐさの白露の消ぬがにもとなおもほゆるかも」(巻四・五九四)というのもあり、極めて流暢りゅうちょうに歌いあげている。相当の才女であるが、この時代になると、歌としての修練が既に必要になって来ているから、藤原朝あたりのものとも違って、もっと文学的にならんとしつつあるのである。併し此等の歌でも如何に快いものであるか、後代の歌に較べて、いまだ万葉の実質の残っていることをおもわねばならない。

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あひおもはぬひとおもふは大寺おほてら餓鬼がきしりへにぬかづくごとし 〔巻四・六〇八〕 笠女郎
 笠女郎が家持に贈ったものである。当時の大寺には種々の餓鬼が画図として画かれ、或は木像などとして据えてあったものであろうか。あなたのように幾ら思っても甲斐ない方は、伽藍がらんの中に居る餓鬼像を後ろから拝むようなものではありませんか、というので、才気のまさった諧謔かいぎゃくの歌である。仏教の盛な時代であるから、才気の豊かな女等はこのくらいの事は常に云ったかも知れぬが、後代の吾等にはやはり諧謔的に心の働いた面白いものである。そしてこの歌でよいのは女の語気を直接に聞き得るごとくに感じ得る点にある。

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おきいまいもがためわがすなどれる藻臥束鮒もふしつかふな 〔巻四・六二五〕 高安王
 高安王たかやすのおおきみが鮒の土産みやげ娘子おとめに呉れたときの歌である。高安王は天平十四年正四位下で卒した人で、十一年大原真人おおはらのまひとの姓を賜わっている。一首の意味は、この鮒は、深いところから岸の浅いところ方々ほうぼう歩いて、つかまえた藻の中にいた大鮒だが、おまえに持って来た、というぐらいの意で、「藻臥」は藻の中に住む、藻の中に潜むの意。「束鮒」は一束ひとつか、即ち一握ひとにぎり(二寸程)ぐらいの長さをいう。この結句の造語がおもしろいので選んで置いた。巻十四(三四九七)の、「河上の根白高萱ねじろたかがや」などと同じ造語法である。

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月読つくよみひかりませあしひきのやまへだててとほからなくに 〔巻四・六七〇〕 湯原王
 湯原王ゆはらのおおきみの歌だが、娘子おとめが湯原王に贈った歌だとする説(古義)のあるのは、この歌に女性らしいところがあるためであろう。併しこれはもっとらくに解して、女にむかってやさしく云ってやったともいうことが出来るだろう。また程近い処であるから女に促してやったということも云い得るのである。こたうる歌に、「月読の光は清く照らせれどまどへる心堪へず念ほゆ」(巻四・六七一)とあるのは、女の語気としてかまわぬであろう。

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夕闇ゆふやみみちたづたづしつきちてかせ吾背子わがせこそのにもむ 〔巻四・七〇九〕 大宅女
 豊前国の娘子大宅女おおやけめの歌である。この娘子の歌は今一首万葉(巻六・九八四)にある。「道たづたづし」は、不安心だという意になる。「その間にも見む」は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方もこまかく、姿態しなこまやかになっていたものであろう。良寛の歌に「月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解りゃくげで万葉を勉強し、むずかしくない、らくなものから入っていたものと見える。

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ひさかたのあめをただひと山辺やまべればいぶせかりけり 〔巻四・七六九〕 大伴家持
 大伴家持が紀女郎きのいらつめに贈ったもので、家持はいまだ整わない新都の久邇くに京にいて、平城ならにいた女郎に贈ったものである。「今しらす久邇くにみやこいもに逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(巻四・七六八)というのもある。この歌は、もっと上代の歌のように、蒼古そうこというわけには行かぬが、歌調が伸々のびのびとして極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであろうか。




(私論.私見)