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秋の野のみ草苅り葺き宿れりし兎道の宮処の仮廬し思ほゆ 〔巻一・七〕 額田王
額田王の歌だが、どういう時に詠んだものか審かでない。ただ兎道は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹であったようだ。初め大海人皇子と御婚して十市皇女を生み、ついで天智天皇に寵せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百」であるが真淵の考では、カリホと訓んだ。
一首の意。嘗て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄・萱)を刈って葺いた行宮に宿ったときの興深かったさまがおもい出されます。
この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。
歌の左注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。
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熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな 〔巻一・八〕 額田王
斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津に御滞在になった(熟田津石湯の行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊二于伊豫熟田津石湯行宮一」とある庚戌は十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰も大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと」、「榜ぎいでな」という具合に流動の節奏を以て緊めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看ればいい。
結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓む例は、「乞我君」、「乞我駒」などで、元来さあさあと促がす詞であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於て」の意味だが、橘守部は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁の学の大切なことはこれを見ても分かる。
なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門浪いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。
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紀の国の山越えて行け吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと 〔巻一・九〕 額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿は厳かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能、伊都加斯賀母登、加斯賀母登、由由斯伎加母、加志波良袁登売、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原の畝火の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄 湯気だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而、中洲之地無風塵てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、辺土と中州を対云しに依ては、此五字を外つ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡とをば、はやき世よりよく訓人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田ノ信名ノ宿禰に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国の可怜国なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室の大相土見乍湯家吾が背子がい立たしけむ厳橿が本」と訓み、奠器円レ隣でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登を参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処に行とすべけむや、無用説といふべし」と評したが、併しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老が信濃漫録で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。
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吾背子は仮廬作らす草なくば小松が下の草を苅らさね 〔巻一・一一〕 中皇命
中皇命が紀伊の温泉に行かれた時の御歌三首あり、この歌は第二首である。中皇命は前言した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。天智天皇の皇后倭姫命だろうという説(喜田博士)もあるが未定である。若し同じおん方だろうとすると、皇極天皇(斉明天皇)に当らせ給うことになるから、この歌は後崗本宮御宇天皇(斉明)の処に配列せられているけれども、或は天皇がもっとお若くましました頃の御歌ででもあろうか。
一首の意は、あなたが今旅のやどりに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、若し屋根葺く萱草が御不足なら、彼処の小松の下の萱草をお刈りなさいませ、というのである。
中皇命は不明だが、歌はうら若い高貴の女性の御語気のようで、その単純素朴のうちにいいがたい香気のするものである。こういう語気は万葉集でも後期の歌にはもはや感ずることの出来ないものである。「わが背子は」というのは客観的のいい方だが、実は、「あなたが」というので、当時にあってはこういう云い方には深い情味をこもらせ得たものであっただろう。そのほか穿鑿すればいろいろあって、例えばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるというような事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい詮議立は罷めることにする。契沖は、「我が背子」を「御供ノ人ヲサシ給ヘリ」といったが、やはりそうでなく御一人をお指し申したのであろう。また、この歌に「小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長寿をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり」(燈)という如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に受納れる方がいいようにおもう。
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吾が欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ 〔巻一・一二〕 中皇命
前の続きで、中皇命の御歌の第三首である。野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。珠は美しい貝又は小石。中には真珠も含んで居る。「紀のくにの浜に寄るとふ、鰒珠ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。
一首の意は、わたくしの希っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに此処深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。
「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。この歌も若い女性の口吻で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず識らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。
高市黒人の歌に、「吾妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ」(巻三・二七九)があり、この歌より明快だが、却って通俗になって軽くひびく。この場合の「見せつ」は、「吾妹子に猪名野をば見せつ」だから、普通のいい方で分かりよいが含蓄が無くなっている。現に中皇命の御歌も、或本には、「わが欲りし子島は見しを」となっている。これならば意味は分かりよいが、歌の味いは減るのである。第一首の、「君が代も我が代も知らむ(知れや)磐代の岡の草根をいざ結びてな」(巻一・一〇)も、生えておる草を結んで寿を祝う歌で、「代」は「いのち」即ち寿命のことである。まことに佳作だから一しょにして味うべきである。以上の三首を憶良の類聚歌林には、「天皇御製歌」とあるから、皇極(斉明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。
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香具山と耳梨山と会ひしとき立ちて見に来し印南国原 〔巻一・一四〕 天智天皇
中大兄(天智天皇)の三山歌の反歌である。長歌は、「香具山は畝傍を愛しと、耳成と相争ひき、神代より斯くなるらし、古も然なれこそ、現身も妻を、争ふらしき」というのであるが、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の阿菩大神がそれを諫止しようとして出立し、播磨まで来られた頃に三山の争闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたという播磨風土記にある伝説を取入れて作っている。風土記には揖保郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。「会ひし時」は「相戦った時」、「相争った時」という意味である。書紀神功皇后巻に、「いざ会はなわれは」とあるは相闘う意。毛詩に、「肆伐二大商一会朝清明」とあり、「会える朝」は即ち会戦の旦也と注せられた。共に同じ用法である。この歌の「立ちて見に来し」の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうえにはあらわれていない。そこで一読しただけでは、印南国原が立って見に来たように受取れるのであるが、結句の「印南国原」は場処を示すので、大神の来られたのは、此処の印南国原であった、という意味になる。
一首に主格も省略し、結句に、「印南国原」とだけ云って、その結句に助詞も助動詞も無いものだが、それだけ散文的な通俗を脱却して、蒼古とも謂うべき形態と響きとを持っているものである。長歌が蒼古峻厳の特色を持っているが、この反歌もそれに優るとも劣ってはいない。この一首の単純にしてきびしい形態とその響とは、恐らくは婦女子等の鑑賞に堪えざるものであろう。一首の中に三つも固有名詞が入っていて、毫も不安をおぼえしめないのは衷心驚くべきである。後代にしてかかるところを稍悟入し得たものは歌人として平賀元義ぐらいであっただろう。「中大兄」は、考ナカツオホエ、古義ナカチオホエ、と訓んでいる。
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渡津海の豊旗雲に入日さし今夜の月夜清明けくこそ 〔巻一・一五〕 天智天皇
此歌は前の三山の歌の次にあるから、やはり中大兄の御歌(反歌)の一つに取れるが、左注に今案不レ似二反歌一也とあるから編輯当時既に三山の歌とすることは疑われていたものであろう。併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と看做せば解釈が出来るのである。
大意。今、浜べに立って見わたすに、海上に大きい旗のような雲があって、それに赤く夕日の光が差している。この様子では、多分今夜の月は明月だろう。
結句の原文、「清明己曾」は旧訓スミアカクコソであったのを、真淵がアキラケクコソと訓んだ。そうすれば、アキラケクコソアラメという推量になるのである。山田博士の講義に、「下にアラメといふべきを略せるなり。かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり」と云ってある。「豊旗雲」は、「豊雲野神」、「豊葦原」、「豊秋津州」、「豊御酒」、「豊祝」などと同じく「豊」に特色があり、古代日本語の優秀を示している一つである。以上のように解してこの歌を味えば、荘麗ともいうべき大きい自然と、それに参入した作者の気魄と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。その何故であるかを吾等は一たび省ねばならない。後代の歌人等は、渾身を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。第三句の、「入日さし」と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる。結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覚した、素朴で人間的直接性を有っている。(願望とする説は、心が稍間接となり、技巧的となる。)
「清明」を真淵に従ってアキラケクと訓んだが、これには諸訓があって未だ一定していない。旧訓スミアカクコソで、此は随分長く行われた。然るに真淵は考でアキラケクコソと訓み、「今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこゝろと訓し也」と云った。古義では、「アキラケクといふは古言にあらず」として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤写だろうとした。なおその他の訓を記せば次のごとくである。スミアカリコソ(京大本)。サヤケシトコソ(春満)。サヤケクモコソ(秋成)。マサヤケクコソ(古泉千樫)。サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。マサヤケミコソ(品田太吉)。サヤケカリコソ(三矢重松・斎藤茂吉・森本治吉)。キヨラケクコソ(松岡静雄・折口信夫)。マサヤカニコソ(沢瀉久孝)等の諸訓がある。けれども、今のところ皆真淵訓には及び難い感がして居るので、自分も真淵訓に従った。真淵のアキラケクコソの訓は、古事記伝・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・註疏・新考・講義・新講等皆それに従っている。ただ、燈・美夫君志等は意味を違えて取った。
さて、結句の「清明己曾」をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱える人は、万葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用いられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶対に使わぬというのである。成程万葉集の用例を見れば大体そうである。けれども「絶対に」使わぬなどとは云われない。「日月波、安可之等伊倍騰、安我多米波、照哉多麻波奴」(巻五・八九二)という憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使っているし、「月読明少夜者更下乍」(巻七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使っているのである。平安朝になってからは、「秋の夜の月の光しあかければくらぶの山もこえぬべらなり」(古今・秋上)、「桂川月のあかきにぞ渡る」(士佐日記)等をはじめ用例は多い。併し万葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として変化するものでないことは、この実例を以ても証明することが出来たのである。約めていえば、万葉時代に月光の形容にアカシを用いた。
次に、「安我己許呂安可志能宇良爾」(巻十五・三六二七)、「吾情清隅之池之」(巻十三・三二八九)、「加久佐波奴安加吉許己呂乎」(巻二十 四四六五)、「汝心之清明」、「我心清明故」(古事記・上巻)、「有リ二清心一」(書紀神代巻)、「浄伎明心乎持弖」(続紀・巻十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用いられたことが分かるし、なお、「敷島のやまとの国に安伎良気伎名に負ふとものを心つとめよ」(巻二十・四四六六)、「つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ佐夜気久於比弖来にしその名ぞ」(同・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも「名」を咏んでいるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を証明しているのである。そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも清有家里」(巻七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用いた例であるから、以上を綜合して観るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容詞は互に共通して用いられ、互に流用せられたことが分かる。新撰字鏡に、明。阿加之、佐也加爾在、佐也介之、明介志(阿支良介之)等とあり、類聚名義抄に、明可在月 アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。結論、万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない。
次に、結句の「己曾」であるが、これも万葉集では、結びにコソと使って、コソアラメと云った例は絶対に無いという反対説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、「心美しきこそ」、「いと苦しくこそ」、「いとほしうこそ」、「片腹いたくこそ」等をはじめ用例が多いから、それがもっと時代が溯っても、日本語として、絶対に使わなかったとは謂えぬのである。特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行われたと解釈すべきである。なお、安伎良気伎、明久、左夜気伎、左夜気久は謂ゆる乙類の仮名で、形容詞として活用しているのである。結論、アキラケク・コソという用法は、アキラケク・コソ・アラメという用法に等しいと解釈して差支ない。(本書は簡約を目的としたから大体の論にとどめた。別論がある。)
以上で、大体解釈が終ったが、この歌には異った解釈即ち、今は曇っているが、今夜は月明になって欲しいものだと解釈する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現実だが、下の句は願望で、月明であって欲しいという説(選釈・新解等)があるのである。而して、「今夜の月さやかにあれかしと希望給ふなり」(古義)というのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から続いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釈となったのである。結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を受納れて、相比較しつつ味うことも亦可能である。そしていずれが歌として優るかを判断すべきである。
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三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや 〔巻一・一八〕 額田王
この歌は作者未定である。併し、「額田王下二近江一時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。「味酒三輪の山、青丹よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈い積るまでに、委にも見つつ行かむを、しばしばも見放けむ山を、心なく雲の、隠さふべしや」という長歌の反歌である。「しかも」は、そのように、そんなにの意。
一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。そんなにも隠すのか、縦い雲でも情があってくれよ。こんなに隠すという法がないではないか、というのである。
「あらなむ」は将然言につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「情アラナモ」とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、暫く「情アラナム」に従って置いた。その方が、結句の響に調和するとおもったからである。結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、恰も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、毫も厭味を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。これを試に、在原業平の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が瞭然として来るのである。
カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。「奥つ藻を隠さふなみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「隠さはぬあかき心を、皇方に極めつくして」(巻二十・四四六五)の例がある。なおベシヤの例は、「大和恋ひいの寝らえぬに情なくこの渚の埼に鶴鳴くべしや」(巻一・七一)、「出でて行かむ時しはあらむを故らに妻恋しつつ立ちて行くべしや」(巻四・五八五)、「海つ路の和ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや」(巻九・一七八一)、「たらちねの母に障らばいたづらに汝も吾も事成るべしや」(巻十一・二五一七)等である。
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あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 〔巻一・二〇〕 額田王
天智天皇が近江の蒲生野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子に婚い十市皇女を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草を栽培している野。「標野」は御料地として濫りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部即ち番人である。
一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。
この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。
この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態をも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、寧ろ皇太子に愬えているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので嫉ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに諭すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬えに触れたためであろう。
「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「凡ならばかもかも為むを恐みと振りたき袖を忍びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の岑行く鹿の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。
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紫草のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも 〔巻一・二一〕 天武天皇
右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。
一首の意は、紫の色の美しく匂うように美しい妹(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云って」というのでなく、「人妻に由って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚だ多い。恋人を花に譬えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎くあらなくに」、「憎からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。
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河上の五百箇磐群に草むさず常にもがもな常処女にて 〔巻一・二二〕 吹黄刀自
十市皇女(御父大海人皇子、御母額田王)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自が波多横山の巌を見て詠んだ歌である。波多の地は詳でないが、伊勢壱志郡八太村の辺だろうと云われている。
一首の意は、この河の辺の多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗で滑かである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変りにならないでおいでになることをお願いいたします、というのである。
「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。今ならば、「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。古調という中には、一つ一つの語にいい知れぬ味いがあって、後代の吾等は潜心その吟味に努めねばならぬもののみであるが、第三句の「草むさず」から第四句への聯絡の具合、それから第四句で切って、結句を「にて」にて止めたあたり、皆繰返して読味うべきもののみである。この歌の結句と、「野守は見ずや君が袖ふる」などと比較することもまた極めて有益である。
「常」のついた例には、「相見れば常初花に、情ぐし眼ぐしもなしに」(巻十七・三九七八)、「その立山に、常夏に雪ふりしきて」(同・四〇〇〇)、「白砥掘ふ小新田山の守る山の末枯れ為無な常葉にもがも」(巻十四・三四三六)等がある。
十市皇女は大友皇子(弘文天皇)御妃として葛野王を生んだが、壬申乱後大和に帰って居られた。皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月参宮の時でもあろうか。さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。
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うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻苅り食す 〔巻一・二四〕 麻続王
麻続王が伊勢の伊良虞に流された時、時の人が、「うちそを麻続の王海人なれや伊良虞が島の玉藻刈ります」(巻一・二三)といって悲しんだ。「海人なれや」は疑問で、「海人だからであろうか」という意になる。この歌はそれに感傷して和えられた歌である。自分は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ伊良虞島の玉藻を苅って食べている、というのである。流人でも高貴の方だから実際海人のような業をせられなくとも、前の歌に「玉藻苅ります」といったから、「玉藻苅り食す」と云われたのである。なお結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新考(井上)もそれに従った。この一首はあわれ深いひびきを持ち、特に、「うつせみの命ををしみ」の句に感慨の主点がある。万葉の歌には、「わたつみの豊旗雲に」の如き歌もあるが、またこういう切実な感傷の歌もある。悲しい声であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍小きざみになっている。「いのち」のある例は、「たまきはる命惜しけど、せむ術もなし」(巻五・八〇四)、「たまきはる命惜しけど、為むすべのたどきを知らに」(巻十七・三九六二)等である。
麻続王が配流されたという記録は、書紀には因幡とあり、常陸風土記には行方郡板来村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。常陸の方は伝説化したものらしく、因幡・伊勢は配流の場処が途中変ったのだろうという説がある。そうすれば説明が出来るが、万葉の歌の方は伊勢として味ってかまわない。
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春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香具山 〔巻一・二八〕 持統天皇
持統天皇の御製で、藤原宮址は現在高市郡鴨公村大字高殿小学校隣接の伝説地土壇を中心とする敷地であろうか。藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六年五月から造営をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から眺めたもうた光景ではなかろうかと拝察せられる。
一首の意は、春が過ぎて、もう夏が来たと見える。天の香具山の辺には今日は一ぱい白い衣を干している、というのである。
「らし」というのは、推量だが、実際を目前にしつついう推量である。「来る」は良行四段の動詞である。「み冬つき春は吉多礼登」(巻十七・三九〇一)「冬すぎて暖来良思」(巻十・一八四四)等の例がある。この歌は、全体の声調は端厳とも謂うべきもので、第二句で、「来るらし」と切り、第四句で、「衣ほしたり」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。そして、結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。
この歌は、第二句ナツキニケラシ(旧訓)、古写本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であったのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。第四句コロモサラセリ(旧訓)、古写本中、コロモホシタリ(古葉略類聚抄)、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまの香具山」として載っているが、これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ。現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的即ち写生的だかということが分かる。真淵の万葉考に、「夏のはじめつ比、天皇埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまに/\のたまへる御歌也。夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也。さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。なお、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻という小字があるがあのあたりだかも知れない。なお、橋本直香(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であろう。土屋文明氏は明日香の浄御原の宮から山の陽の村里を御覧になられての御製と解した。
参考歌。「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)、「いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」(巻七・一〇九六)、「昨日こそ年は極てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布ほさるかも」(巻十四・三三五一)。僻案抄に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを怨ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、穿ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。
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ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 〔巻一・三〇〕 柿本人麿
柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)址の荒れたのを見て作った長歌の反歌である。大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔迄至っていたもののようである。此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。
一首は、楽浪の志賀の辛崎は元の如く何の変はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち甲斐が無い、というのである。
「幸くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に緊まっている。全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり気魄なりに同化せんことを努むべきである。作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。
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ささなみの志賀の大曲よどむとも昔の人に亦も逢はめやも 〔巻一・三一〕 柿本人麿
右と同時に人麿の作ったもので、一首は、近江の湖水の大きく入り込んだ処、即ち大曲の水が人恋しがって、人懐かしく、淀んでいるけれども、もはやその大宮人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。然るに、「オホワダ」をば大海即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が勢多から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗理窟で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと活きているのである。
この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の真率的な態度に本づくものと自分は解して居る。人麿は初期から斯ういう優れた歌を作っている。
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いにしへの人にわれあれや楽浪の故き京を見れば悲しき 〔巻一・三二〕 高市古人
高市古人が近江の旧都を感傷して詠んだ歌である。然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云高市連黒人と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の址を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「斯くゆゑに見じといふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。
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山川もよりて奉ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも 〔巻一・三九〕 柿本人麿
持統天皇の吉野行幸の時、従駕した人麿の献ったものである。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の交だろうと云っている。さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。
一首の意は、山の神(山祇)も川の神(河伯)も、もろ共に寄り来って仕え奉る、現神として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝の河内に、群臣と共に船出したもう、というのである。
「滝つ河内」は、今の宮滝附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。そして、「滝つ河内」という現実をも免していないものである。一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。併しマツレルでは調が悪い。結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。
補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、下市町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。
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英虞の浦に船乗りすらむをとめ等が珠裳の裾に潮満つらむか 〔巻一・四〇〕 柿本人麿
持統天皇が伊勢に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原宮(持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給う)に留まり、その行幸のさまを思いはかって詠んだ歌である。初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。併し史実上で、阿胡行宮云々とあるし、志摩に英虞郡があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「安胡乃宇良」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。
一首は、天皇に供奉して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に濡れるであろう、というのである。
行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。そういう朗かで美しく楽しい歌である。然かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を成就しているあたり、やはり人麿一流と謂わねばならない。「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。
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潮騒に伊良虞の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島回を 〔巻一・四二〕 柿本人麿
前の続きである。「伊良虞の島」は、三河渥美郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。
一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く榜ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。あの浪の荒い島のあたりを、というのである。
この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって余所余所しくない。そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。
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吾背子はいづく行くらむ奥つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ 〔巻一・四三〕 当麻麿の妻
当麻真人麿の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈従して行った夫を偲んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。
この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「息の緒に吾が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。
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阿騎の野に宿る旅人うちなびき寐も寝らめやも古おもふに 〔巻一・四六〕 柿本人麿
軽皇子が阿騎野(宇陀郡松山町附近の野)に宿られて、御父日並知皇子(草壁皇子)を追憶せられた。その時人麿の作った短歌四首あるが、その第一首である。軽皇子(文武天皇)の御即位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六、七年あたりではなかろうか。
一首は、阿騎の野に今夜旅寝をする人々は、昔の事がいろいろ思い出されて、安らかに眠りがたい、というのである。「うち靡き」は人の寝る時の体の形容であるが、今は形式化せられている。「やも」は反語で、強く云って感慨を籠めている。「旅人」は複数で、軽皇子を主とし、従者の人々、その中に人麿自身も居るのである。この歌は響に句々の揺ぎがあり、単純に過ぎてしまわないため、余韻おのずからにして長いということになる。
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ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 〔巻一・四八〕 柿本人麿
これも四首中の一つである。一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている、というのである。
この歌は前の歌にあるような、「古へおもふに」などの句は無いが、全体としてそういう感情が奥にかくれているもののようである。そういう気持があるために、「かへりみすれば月かたぶきぬ」の句も利くので、先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、稍酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る所以となった。
「野に・かぎろひの」のところは所謂、句割れであるし、「て」、「ば」などの助詞で続けて行くときに、たるむ虞のあるものだが、それをたるませずに、却って一種渾沌の調を成就しているのは偉いとおもう。それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の傾を有っている。そこで、伊藤左千夫が、「かへり見すれば」を、「俳優の身振めいて」と評したのは稍見当の違った感がある。
此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「東野のけぶりの立てるところ見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。守部此歌を評して、「一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の余光をいへるなり」(緊要)といった。
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日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向ふ 〔巻一・四九〕 柿本人麿
これも四首中の一つで、その最後のものである。一首は、いよいよ御猟をすべき日になった。御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御猟をなされたその時のように、いよいよ御猟をすべき時になった、というのである。
この歌も余り細部にこだわらずに、おおように歌っているが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして真率な作である。総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。
それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、上の空の偶像礼拝に過ぎぬ。
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※女[#「女+釆」、上-44-9]の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 〔巻一・五一〕 志貴皇子
明日香(飛鳥)の京から藤原の京に遷られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子の詠まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。※女[#「女+釆」、上-44-13](采女)は諸国から身分も好く(郡の少領以上)容貌も端正な妙齢女を選抜して宮中に仕えしめたものである。駿河※[#「女+釆」、上-44-14]女(巻四)駿河采女(巻八)の如く両方に書いている。
一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷り、都であるなら美しい采女等の袖をも飜す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬風、佐保風、伊香保風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址となって寂れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。采女の事などを主にするから甘くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽に解釈して好い。
初句は旧訓タヲヤメノ。拾穂抄タハレメノ。僻案抄ミヤヒメノ。考タワヤメノ。古義ヲトメノ等の訓がある。古鈔本中元暦校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。つまり、「采女は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。
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引馬野ににほふ榛原いり乱り衣にほはせ旅のしるしに 〔巻一・五七〕 長奥麿
大宝二年(文武)に太上天皇(持統)が参河に行幸せられたとき、長忌寸奥麿(伝不詳)の詠んだ歌である。引馬野は遠江敷智郡(今浜名郡)浜松附近の野で、三方原の南寄に曳馬村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河宝飯郡御津町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。「榛原」は萩原だと解せられている。
一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。
右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける芽子かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、続日本紀に拠るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。ここで、「榛原」は萩でなしに、榛の木原で、その実を煎じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の黄葉であるのかも知れない。(土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。)萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。つまり実際に摺染せずに薫染するような気持と解するのである。また、榛は新撰字鏡に、叢生曰レ榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり黄葉の心持である。いずれにしても、榛の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に荷田春満が云っている。「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。
そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。そういうことは少し我儘過ぎる解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。
さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに受納れることも出来るのである。次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。
次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。そして、真淵の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし課る事紀にも見ゆ、然れば前だちて八九月の比より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。私かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有べからず。草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。
また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣に摺りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染ふれど染はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。なお、「引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に扱入れつ、染まば染むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり「衣にほはせ」の気持である。なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。以上を綜合して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。以上は結果から見れば皆新しい説を排して旧い説に従ったこととなる。
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いづくにか船泊すらむ安礼の埼こぎ回み行きし棚無し小舟 〔巻一・五八〕 高市黒人
これは高市黒人の作である。黒人の伝は審でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。「船泊」は此処では名詞にして使っている。「安礼の埼」は参河国の埼であろうが現在の何処にあたるか未だ審でない。(新居崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津附近の岬だろうと考証した。)「棚無し小舟」は、舟の左右の舷に渡した旁板( )を舟棚というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。
一首の意は、今、参河の安礼の埼のところを漕ぎめぐって行った、あの舟棚の無い小さい舟は、いったい何処に泊るのか知らん、というのである。
この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と相纏っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。
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いざ子どもはやく日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ 〔巻一・六三〕 山上憶良
山上憶良が大唐にいたとき、本郷(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使粟田真人に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて吾立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに真楫榜ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜つみに蒜つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜採みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍弛んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明しも船は榜ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊に船泊てて立田の山を何時か越え往かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。
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葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴皇子
文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波宮に行幸あらせられたとき志貴皇子(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。
「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の翅を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも己が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。
志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。「葦べ行く」という句にしても稍ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。
集中には、「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる己が尾に零り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の翅の覆羽の何処もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁宿たるかも霜の零らくに」(同・二一三五)等の歌がある。
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あられうつ安良礼松原住吉の弟日娘と見れど飽かぬかも 〔巻一・六五〕 長皇子
長皇子(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘という美しい娘と共に松原を賞したもうた時の御よろこびである。この歌の「と」の用法につき、あられ松原と弟日娘と両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健とも謂うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭なる三方の海の浜清みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十の島廻を榜ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月のありあけの月夜見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
この歌の近くに、清江娘子という者が長皇子に進った、「草枕旅行く君と知らませば岸の埴土ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。この清江娘子は弟日娘子だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺って記念とする趣である。「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。情緒が纏綿としているのは、必ずしも職業的にのみこの媚態を示すのではなかったであろう。またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて円融とも称すべきものである。
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大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる 〔巻一・七〇〕 高市黒人
持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従して行った高市連黒人が作った。呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。「象の中山」は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。象という土地の中にある山の意であろう。「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、彼方(大和)を主として云っている(山田博士の説)。従って大和に親しみがあるのである。
一首の意。(今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。(家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。)
呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。「大和には」の「に」は方嚮で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。
普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師辺には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。「大和には啼きてか来らむ霍公鳥汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。なお、「吾が恋を夫は知れるを行く船の過ぎて来べしや言も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の山傍に我が来なば何方向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。
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み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我がひとり寝む 〔巻一・七四〕 作者不詳
大行天皇(文武)が吉野に行幸したもうた時、従駕の人の作った歌である。「はたや」は、「またも」に似てそれよりも詠歎が強い。この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいい下しているのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。この種の声調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になってしまうのだが、併しそのために此歌の価値の下落することがない。その当時は名は著しくない従駕の人でも、このくらいの歌を作ったのは実に驚くべきである。「ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか寝らむ」(巻一・五九)も選出したのであったが、歌数の制限のために、此処に附記するにとどめた。
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ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣楯立つらしも 〔巻一・七六〕 元明天皇
和銅元年、元明天皇御製歌である。寧楽宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。即ち和銅元年は御即位になった年である。
一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。「鞆」は皮製の円形のもので、左の肘につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。「もののふの大臣」は軍を統べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷を討った将軍は、巨勢麿、佐伯石湯だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
どうしてこういうことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。考に、「さて此御時みちのく越後の蝦夷らが叛きぬれば、うての使を遣さる、その御軍の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御哥にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。
御答歌というのは、御名部皇女で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。「吾が大王ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の現神の天皇にましますからである。
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飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君が辺は見えずかもあらむ 〔巻一・七八〕 作者不詳
元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧楽宮に御遷りになった時、御輿を長屋原(山辺郡長屋)にとどめ、藤原京の方を望みたもうた。その時の歌であるが作者の名を明記してない。併し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、御名部皇女(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。
「飛ぶ鳥の」は「明日香」にかかる枕詞。明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも飛鳥浄御原宮(天武天皇の京)とのみは限局せられない。そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。
この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を弄していないところに感の深いものがある。「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。
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うらさぶる情さまねしひさかたの天の時雨の流らふ見れば 〔巻一・八二〕 長田王
詞書には和銅五年夏四月長田王(長親王の御子か)が、伊勢の山辺の御井(山辺離宮の御井か壱志郡新家村か)で詠まれたようになっているが、原本の左注に、この歌はどうもそれらしくない、疑って見れば其当時誦した古歌であろうと云っているが、季節も初夏らしくない。ウラサブルは「心寂しい」意。サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「頻り」等の語に当る。ナガラフはナガルという良行下二段の動詞を二たび波行下二段に活用せしめた。事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。
一首の意は、天から時雨の雨が降りつづくのを見ると、うら寂しい心が絶えずおこって来る、というのである。
時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然とするのである。雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。
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秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上 〔巻一・八四〕 長皇子
長皇子(天武天皇第四皇子)が志貴皇子(天智天皇第四皇子)と佐紀宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡平城村、都跡村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃やかに動いているにも拘らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の 入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。 |