万葉集の歌人考

 (最新見直し2014.01.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2006.11.22日 れんだいこ拝


【額田王(ぬかたのおおきみ)】( 生没年未詳、627-年)
 額田王の履歴は次の通り。額田王は万葉集を彩るの代表的歌人の1人であるが彼女自身について判明している事は多くない。日本書紀では額田姫王。「王」が付く事から、四世から五世くらいの皇族と考えられている。

 627(推古35)年頃生誕。父は鏡王。 天武天皇の妃の一人で、十市皇女の母。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)に嫁いだ鏡王女(かがみのおおきみ)と姉妹という説もあるが日本書紀にも万葉集にもそういう記述はない。その名前からして推古天皇と同じ額田部氏系と解される。16歳くらいで宮廷に出仕し、 皇極天皇の側近歌人となり、645(大化元)年頃、19歳くらいの時、彼女より3、4歳年下と考えられる大海人皇子(オオアマノミコ)と結婚したと解されている。結婚と同時に宮中を下がり、日本書紀の中の記述のされ方などから難波の大海人皇子の宮殿には入らず飛鳥で大海人皇子の訪れを待つ関係にあったと解されている。 結婚して一・二年後くらいには十市皇女(トオチノヒメミコ)を産んだと考えられる。この娘が後に大友皇子の后となる。その後、再び斉明天皇として即位した女帝の側近歌人として復帰し、天皇に成り代わって歌を詠むことが許されていた 「御言持ち歌人」(代作歌人)となった。

 しかし、斉明六年(660)の七月に百済が滅亡し、朝廷は翌年の斉明七年、百済救援のために朝鮮半島へ派兵する。斉明七年の一月六日、難波津を出航し、一月十四日に熟田津(現在の愛媛県松山市の辺りの港)に到着。この場所で額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな」の歌を詠んでいる。斉明七年の七月、額田王が仕えていた斉明天皇が崩御した。天智二年の八月、倭国の大船団を率いて戦われた、この「白村江の戦い」は結局倭国の大敗に終わった。天智六年の八月、近江へ遷都が行なわれる。この近江大津宮時代が額田王の歌人としての活躍の最盛期になる。

【柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)】(660-720年)
 「ウィキペディア柿本人麻呂」をその他参照する。
 柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ、「人麿」とも表記される)は万葉集第一の歌人と称され、長歌首・短歌・旋頭歌を合わせて365首ほどの歌が収録されており、官人達の儀礼的な場で詠んだ宮廷賛歌や旅の歌などが有名である。生没年は不詳だが、年代が判明している歌から、天智天皇の娘・持統天皇(690~697年)の下で活躍したと考えられている。比較的長い長歌を作り、独創的な枕詞や、序詞・枕詞・押韻などを上手く取り入れた格調高い作風で知られ、三十六歌仙の1人で「歌聖」と称されている。特に漢詩文に強く、その影響を受けつつ、複雑で多彩な対句を用いた長歌を作り、長歌を形式上・表現上の双方から一挙に完成させたことから「長歌の完成者」とも呼ばれている。

 660(斉明天皇6)年頃の生まれで、山上憶良(やまのうえのおくら)も同年生まれとされている。大伴旅人(おおとものたびと)は665(天智天皇4)年生まれである。山部赤人(やまべのあかひと)の生年は不詳であるが、ほぼ同年代と推定される。718(養老2)年生まれの大伴家持に先立つこと半世紀前の人である。飛鳥時代の歌人で、後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。万葉集第一の歌人といわれ、長歌19首、短歌75首が遺されている。但し、その履歴は不詳である。これは古代のこととて記録が残されていないと読むべきではなかろう。何やら不自然なほどに記録して伝えることが規制されていたと見なすべきだろう。それが何故なのか。これを明かすことが柿本人麻呂論になるべきだと思う。万葉集の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料であるが、これを確認しておく。
 柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。それによれば、人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。人麻呂は天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから近江朝にも出仕していたとする見解もある。賀茂真淵は草壁皇子に舎人として仕えたとしている。複数の皇子、皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではない。確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみられる。持統天皇の愛人説もあるが曲解であろう。

 万葉集巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられている。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。701(大宝元)年晩秋の行幸随伴を最後に、その冬から翌年10月の間にかけて藤原宮から遠ざけられている。以降、畿内を離れて地方を行脚し筑紫国、讃岐国などを転々とし最後の任地・石見国で没した。

 720(養老4)年頃の逝去とされている。終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが現在の島根県益田市(石見国)である。地元では高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は益田市沖合にあったとされる鴨島である。その鴨島は存在していない。そのため鴨島伝説として伝えられている。鴨島があったとされる場所は中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ正確な位置は不明である。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。

 梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え話題となった。梅原は又、人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘している。この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作「猿丸幻視行」である。続日本紀の元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。このため、井沢元彦は「逆説の日本史(2)」で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。

 その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い。「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使っているが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」、「神ながら 神さびせすと」、「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現している。この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(「万葉集評釈」)のは無理はない。死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、万葉集の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。

奈良県宇陀市大宇陀拾生にある阿騎野・人麻呂公園です。一帯は中之庄遺跡と呼ばれ、縄文時代早期から、飛鳥時代、中世に至る複合遺跡であることが分かっています。また、調査により当地に古代の薬猟の場であった阿騎野の中心施設があったことが分かっています。現在は遺跡公園として整備され、公園内には柿本人麻呂像が設けられ、堀立柱建物などが復元されています。大宇陀のほぼ中央、本後川と黒木川に挟まれた丘陵端部に位置していますが、ここから東方に高見山が望め、明け方の曙光である「かぎろひ」を見る事ができます。持統六年の冬の早朝、即位される前の軽皇子(文武天皇)の伴として当地を訪れた柿本人麻呂が、

  ひむがしの 野にかぎろひの 立つみえて

        かえりみすれば 月かたぶきぬ

...

と言う歌を残した所縁の地です。


【山上憶良(やまのうえのおくら)】(660年-733年頃)
 「ウィキペディア山上憶良」その他を参照する。

 山上憶良(やまのうえ の おくら)
 (斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?)

 奈良時代初期の貴族・歌人。名は山於億良とも記される。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。春日氏の一族で粟田氏の支族とされる。702年の第七次遣唐使船の少録に任命され同行し、唐に渡り儒教・仏教などの最新の学問を学び、帰国後は東宮侍講を経て伯耆守・筑前守と国司を歴任し、特に筑前守の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、多くの歌が残された。かの地で大伴旅人に刺激を受け、数多くの歌を詠んだとされるが、社会派の異色の歌人であり、万葉集には40才を過ぎてからの約80首が収録されている。代表的な歌に「貧窮問答歌」や「子を思う歌」などがあるが、彼が儒教や仏教の思想に傾倒していたために死・貧・老・病などの問題に敏感であり、老齢であったことから社会的な矛盾について深い観察眼をもっていたことなどが背景にある。中西進ら文学系研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。

 斉明天皇6年(660年)? 。大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時冠位は無位)。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月、「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃、藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

 仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている

 神代(かみよ)より 言(い)ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和(やまと)の国(くに)は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国(くに)と 語(かた)り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり・・・
 (「神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理」
(万葉集巻5-894)
 いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)
 (万葉集巻1-63、新古今和歌集巻10-898)
 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ  それその母も 吾(わ)を待つらむそ
 (万葉集巻3-337)
 瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
 (万葉集巻5-802)
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも
 (万葉集巻5-803)
 春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)
 (万葉集巻5-818)
 世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば
 (万葉集巻5-893)
 士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして
 (万葉集巻6-978)
 秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
 (万葉集巻8-1537)
 「類じゅう歌林」編纂。赴任先の太宰府市はもとより筑後、筑豊地方の嘉麻市などに歌碑が多数存在する(有名な句はほとんどこの地で詠まれている)。また、「子等を思う歌一首」とその反歌とが、岐阜県神戸町の神戸町役場入口ロビーに、書家の日比野五鳳による書として彫り込まれたものがある。

【山部赤人(やまべのあかひと)】(生年不詳、 -736年頃)
 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)は、柿本人麻呂より一世代後ではあるが、人麻呂と並び万葉を代表する歌人であり、大伴家持に「山柿の門」と言わしめた。<万葉歌人の双璧>とされている。万葉集には約50首採り上げられており、中でも富士の高嶺を詠んだ歌が有名で、長歌・反歌共に現代でも親しまれている。赤人もやはり人麿と同じように 身分も低く、その経歴もほとんど分かっていない。赤人の歌風としては、<自然観照>を深め、自然美を追求して、日本詩歌に 叙景の歌の伝統を確立した。人麿を「人生詩人」とすれば、赤人は「自然詩人」である。けれどもこの 「自然詩人」という見方は、赤人の一面にすぎず、他に赤人は、小さな植物や小さな動物にもやさしい まなざしを注いだ歌を残している。つまり赤人は、巨視的な目と微視的な目の双方を合わせ持った歌人と 言うことができるであろう。

大伴旅人(おおとものたびと)】(665-731)
 大伴家は神代以来の名家にして大和朝廷以来の武門の家柄である。大伴旅人は705年に大納言になった大伴安麻呂(やすまろ)の子である。安麻呂が亡くなった後養老2年(718)に納言に任じられている。養老4年(720)には征隼人持節大将軍として九州南部に住む隼人の反乱を鎮圧する功績をあげている。養老4年は藤原一族の繁栄の基礎を築いた藤原不比等(ふひと)は没した年でもある。そのため、皇親政治家長屋王(ながやおう)が太政官政治を領導することになった。

 不比等には、その遺志を受け継ぐ四人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)がいた。妹の光明子を皇后に冊立して藤原一族の繁栄を不動のものにするには、長屋王の存在は藤原四兄弟には巨大な壁に見えたに違いない。彼らは長屋王の失脚を狙って隠微な策略を巡らして行く。その一つが、実は長屋王と親しかった大伴旅人の大宰府への左遷だったとされる。神亀4年(727)の冬、旅人は太宰帥(だざいのそち、太宰府の長官)に任ぜられ、翌年の春2月ころ妻を伴って九州に赴任した。時に旅人、65歳。いかに高級官人とはいえ、還暦をすぎてからの宮仕えはきつい。 (「七二五年、六二歳で大宰帥となり九州に下った」とする説もある)

そして、旅人の 作歌時代はほとんど晩年に近い太宰府時代であった。大宰府で悠々と筑紫歌壇を主宰しながら、旅人は着々と勢力をのばしてきた藤原氏との対決が待ち受けていた。大宰府赴任から1年後の神亀6年(729)、都で長屋王の変が発生した。長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す、と誣告され、一家が即刻断罪されてしまった。 藤原氏の対抗勢力と期待した皇親政治家長屋王を失ったことで、旅人の目論見は外れ、落胆は大きかった。天平2年(730)6月、旅人は脚に瘡(かさ)ができ、苦しんで床についた。そして、上奏して義理の弟の大伴稲公(いなきみ)と甥の大伴古麻呂(こまろ、胡麻呂とも書く)の西下を請うた。一族の将来を託すべき家持は、まだ任官もしていない13歳の少年だった。大伴一族の中の有力な二人を呼び寄せて、己の死後家持の後見を頼むとともに、今後の藤原勢力との対抗策を協議したものと思われる。 だが、旅人の病は数十日後奇跡的に癒えた。その年の12月、大納言に任ぜられ、京に戻った。翌天平3年1月、旅人は従二位に昇進し、知太政官舎人親王に次ぐ政界ナンバーツーの地位を得て藤原氏の上に立った。だが、半年後の7月、病を得て没してしまう。家持14歳の時であった。

 万葉集には「大宰帥大伴卿(だざいのそちおおともきょう・おほとものまえつきみ)」「大納言卿(だいなごんきょう)」などの敬称で載っている。大らかな、風雅な情緒と、叙情に溢れる歌を詠んだ。万葉集には、76首の歌が載っているが、大宰府師であった老年以降のものしか現存していない。大宰府師の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、山上憶良らと交流し、多くの歌を残した。特に酒を讃(ほ)むる歌が13首も収録されている点などから、大変な酒好きだったことがうかがい知れる。

【大伴家持(おおとものやかもち)】(718-785年) (養老2-延暦4)
 大伴 家持(おおともの やかもち)は万葉集の成立に深くかかわっている。万葉集の成立に大きく貢献。大伴家持(おおとものやかもち)の歌は、万葉集に479首も載っている。大伴家持(おおとものやかもち)について詳しくお知りになりたい方は水垣さまの波流能由伎(はるのゆき)をご参照ください、とある。 大伴宿禰家持 」その他を参照する。三十六歌仙の一人で、長歌・短歌など最多の473首余りが万葉集に収録され、万葉集の巻17~巻20までの4巻は、大伴家持の「歌日記」とも言える内容となっている。

 養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日)。奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。万葉集の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。

 長歌・短歌など合計473首が万葉集に収められており、万葉集全体の1割を超えている。このことから家持が万葉集の編纂に拘わったと考えられている。万葉集卷十七~二十は、私家集の観もある。万葉集の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。百人一首の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、万葉集には入集していない。勅撰歌人として、拾遺和歌集(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)の作詞者でもある。

 718(養老2)年、父 : 大伴旅人(おおとものたびと)、母 : 丹比氏の郎女(丹比郎女)の長男として生まれる。同母弟に書持、同母妹に留女之女郎がいる。正妻は大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ、大伴宿奈麻呂の娘)。子に永主(ながぬし)と女子の存在が知られる。

 大伴氏(連)は、皇室に匹敵する畿内の大豪族であった。とくに大和朝廷の成立発展期に来米(久米)部、靭負部、佐伯部などの兵を率いて朝廷に仕え、物部氏とともに大連となり、大和朝廷の軍事力を担った。大伴とは朝廷に仕える伴(特定の職務をもって奉仕する集団)の有力者という意味らしい。記紀では天孫瓊瓊杵尊に従って降臨した天押日命の後裔と伝えているが、実在の人物とみられるのは室屋の時からである。室屋の孫・金村は、平群氏父子を討ち、武烈天皇擁立に功を立てて大連となり、天皇の崩後越前から継体天皇を迎えた。こうして金村は仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明の六朝に仕え、大伴氏の全盛期を迎えたが、任那の処置を誤って物部尾輿の弾劾を受け、政界を退いた。大化の改新後、大伴長徳は右大臣となり、壬申の乱に大伴吹負は大海人皇子(天武天皇)に従って挙兵し功をたてた。天武天皇13年に連姓を改めて宿禰を賜っている。
 720(養老4)年)、大伴旅人は隼人の乱を鎮め、藤原不比等のなきあと朝廷で重きをなした。
 727(神亀4)年冬か翌年春頃、父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。
 730(天平2)年、旅人とともに帰京する。6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した(04/0567左注)。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。
 731(天平3)年、7.25日(8.31日)、大伴旅人が病没する。旅人の子家持が14歳にして大伴氏の首長となり大伴宗家(佐保大伴家)を継ぐ。万葉歌人としても知られる叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が、叔父の大伴古麻呂が後見する。
 732(天平4)年頃、坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす(巻四・八)。
 736(天平8)年、9月、「大伴家持の秋の歌四首」(08/1566~1569)を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。
 737(天平9)年、長屋王の変の後の政界を牛耳ってきた藤原四兄弟が、天然痘で次々と没する。橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言、右大臣と昇叙し橘政権が誕生した。橘諸兄は唐帰りの吉備真備や僧玄昉(げんぼう)を重用した。
 738(天平10)年、内舎人。
 739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。6月、亡妾を悲傷する歌があり(03/0462・0464~0474)、これ以前に側室を失ったらしい。8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる(08/1619)。間もなく大嬢を正妻に迎えた。
 740(天平12)年、9月、九州で藤原弘嗣の乱が勃発した。藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。これを期に、聖武天皇は5年にもおよぶ彷徨が始まった。そうした中、光明皇后のバックアップを得て藤原仲麻呂(なかまろ)が台頭してきた。10月末、奈良を出発した関東行幸に従駕。11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む(06/1029、1032・1033、1035・1036)。11.14日、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。同年末、恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。
 741(天平13)年、4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する(17/3909~13)。この年か翌742(天平14)年の10.17、橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む(08/1591)。
 743(天平15)年、7.26日、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発する。家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まる。8月、「秋の歌三首」(08/1597~1599)、「鹿鳴歌二首」(08/1602・1603)・恭仁京賛歌(06/1037)を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家で催した宴に参席し、歌を詠む(06/1040)。この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。
 744(天平16)年、1.11日、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む(06/1043)。同年閏1月の難波宮行幸の途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る(03/0475~0480)。この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の旧宅で歌を詠んでいる(17/3916~3921)。
 745(天平17)年、1.7日、従五位下に昇叙せられる。
 746(天平18)年、1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る(17/3926)。3.10日、宮内少輔に任ぜられる。6.21日、越中守に遷任される。7.7日、国守として越中(えっちゅう: いまの富山県)に赴任(ふにん)する。以降、751(天平勝宝3)年まで赴任する。この間に223首の歌を詠んでいる。8.7日、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む(17/3957~3959)。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。
 747(天平19)年、2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」(17/3985~3987)、「布勢水海に遊覧の賦」(17/3991・3992)、「立山の賦」(17/4000~4002)など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。
 748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21日、元正上皇が崩御する。翌年春まで作歌は途絶える。
 749(天平21、天平勝宝元)年、3.15日、越前掾池主より贈られた歌に報贈する(18/4076~4079)。4.1日、、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」(18/4094~4097)など多くの力作を矢継ぎ早に作る。7.2日、聖武天皇が譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。藤原仲麻呂が紫微中台の長官に任命され、橘政権に対する藤原氏の逆襲が始まった。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際に妻の大嬢を伴ったと思われる。
 750(天平勝宝2)年、正月、藤原仲麻呂はまず橘諸兄の左腕だった吉備真備を筑前守に降格した。2月、「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」(18/4138)からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。3月初め、「春苑桃李の歌」(18/4139・40)など越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け挽歌を作る(18/4214~4216)。。9月には第十次遣唐使の副使に任命している。同じ時、大伴古麻呂も遣唐副使に任命されている。橘諸兄の周囲から有力者を次々と引き離すことで橘政権の弱体を狙ったものであった。大伴古麻呂は硬骨漢だった。唐の朝賀の席で新羅と席順を争って変更させたり、大使藤原清河(きよかわ)の反対を尻目に鑑真和尚の一行を船倉に匿い来日を助けたなど、有名なエピソードが残っている。当然のことながら、橘諸兄やその子の橘奈良麻呂に接近して、台頭する藤原仲麻呂に対抗しようとしていた。
 751(天平勝宝3年)年、7.17日、少納言に任じられる。(19/4248題詞) 足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5日、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る(19/4256)。都(みやこ)に戻る。10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席(18/4259)。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。
 752(天平勝宝4)年、4.9日、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る(19/4266・4267)。11.8日、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず(19/4272)。11.25日、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む(19/4278)。11.27日、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む(19/4281)。
 753(天平勝宝5)年、2.19日、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む(19/4289)。2月下旬、「興に依りて作る歌」(19/4290・4291)、雲雀の歌(19/4292)を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。5月、藤原仲麻呂邸で故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く(20/4293)。8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、歌を詠む(20/4297)。
 754(天平勝宝6)年、1.4日、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25日、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した宴に参席、歌を作る(20/4304)が、詠み出す前に諸兄は宴をやめて辞去してしまったという。以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5日、少納言より兵部少輔に転任する。
 755(天平勝宝7)年、2月、防人閲兵のため難波に赴き、検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」(20/4331~4333)・「防人の悲別の情を陳ぶる歌」(20/4408~4012)などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く(20/4442~4445)。この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する(20/4449~4451)。8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず(20/4453)。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と謀反の意図を密告される。

 756(天平勝宝8)年、2月、致仕に追い込まれる。3月、聖武上皇の堀江行幸に従駕する。5.2日、聖武太上天皇が崩御する。遺詔により道祖王が立太子する。6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲(こしび)が朝廷を誹謗していると誣告され、土佐守に左降された。仲麻呂の標的が大伴氏に移り、その最初の犠牲者が古慈悲だった。古慈悲は性質剛健で学才があり、藤原不比等の女を妻とし、考謙天皇に仕え、一時権力をのばしてきたのが、仲麻呂の標的とされた。この事件は大伴宗家の主である大伴家持にとって衝撃的で、古慈斐の失脚に危機感を覚え「族を諭(さと)す歌」(20/4465~4467)を詠んでいる。大伴の名の由来とその尊さを述べて、軽はずみな行動で仲麻呂一派につけ込まれ古慈斐の二の舞を踏まないように自重せよという内容だった。だが、家持はこの歌を日誌に書き付けただけで、公表することはなかった。11.8日、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する(20/4474)。11.23、式部少丞池主の宅の宴に兵部大丞大原今城と臨席する。

 757(天平勝宝9、天平宝字元)年、1月、大伴一族にとって頼みの綱だった前左大臣・橘諸兄が74歳で没した。紫微内相に昇叙した仲麻呂の専横は目に余るものがあった。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。6.16日、兵部大輔に昇進。6.23日、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む(20/4483)。この頃、諸兄の子・ 橘奈良麻呂は反藤原の大伴、佐伯氏に呼びかけて藤原仲麻呂(恵美押勝)暗殺計画を練った。藤原良継(宿奈麻呂)、石上宅嗣、佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされているその中心人物に叔父の大伴古麻呂がいた。7月、橘奈良麻呂らの謀反計画が露見して関係者443人が逮捕され、厳しい処罰を受けた。橘奈良麻呂をはじめととする首謀者は、獄中でむち打たれ拷問に耐えきれず絶命したという。 世に「橘奈良麻呂の乱」と云う。こうして暗殺計画は未遂に終わる。

 橘奈良麻呂の変では、大伴・佐伯氏の多くが連座しているが、なぜか家持は何ら咎めを受けた形跡がない。それどころか、事件の後、兵部大輔から右中弁に遷任されている。思うに、仲麻呂にすり寄って身の危険を回避したのだろうか。この頃、「物色変化を悲しむ歌」(20/4484)などを詠む。12.18日、再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む(20/4488)。この時右中弁とある。12.23日、大原今城宅の宴でも作歌(20/4492)。位階は天平21年(749)に叙された従五位上のままだった。家持が次の正五位下に昇叙されるのは、宝亀元年(770)になってからで、実に21年後のことである。
 758(天平宝字2)年、1.3日、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず(20/4493)。2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。6.16日、藤原氏などの排斥をうけ右中弁より因幡守(いなばのかみ)に遷任された。太政官事務局の一つ右弁官局の次官の要職・右中弁から見れば、地方の国守への赴任は明らかに左遷人事だった。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む(20/4515)。屈辱を噛みしめながら都を落ちていった。8.1日、大炊王が即位する(淳仁天皇)。
 759(天平宝字3)年、 42歳の時、元旦、因幡国の国府庁で新年の賀宴に臨み、万葉集の最後の歌を詠む。「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む(20/4516)。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。その後中央に復帰したものの藤原種継暗殺事件に関わったという疑いで、死後全ての官位が剥奪されると云う数奇な運命を辿る。
 760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している(04/0786~0792)。家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である(大伴家持全集本文篇の末尾を参照)。
 762(天平宝字6)年、1.9日、信部大輔(しんぶのだいふ)に任じられ、因幡より都(みやこ)に戻る。9.30日、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。
 763(天平宝字7)年、3-4月頃、藤原仲麻呂暗殺計画に参加していたとして大伴家持、藤原良継(宿奈麻呂)、石上宅嗣、佐伯今毛人の4人が逮捕される。藤原良継一人が責任を負ったことから家持は罪に問われなかった。家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せられる。
 764(天平宝字8)年、1.12日、薩摩守(さつまのかみ)に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。9月、仲麻呂が孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される(藤原仲麻呂の乱)。藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている。10.9日、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後、弓削の道鏡を重用した。道鏡が太政大臣禅師に任ぜられる。
 765(天平神護元)年、2.5日、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。都(みやこ)に戻る。
 766(天平神護2)年、弓削の道鏡が法王となる。称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡が権勢を振るう。
 767(神護景雲元)年、8.29日、大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられ、太宰府(だざいふ)に赴任(ふにん)する。
 769(神護景雲3)年、5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。8月、清麻呂は天皇の勅使として宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈(凡そ9m)の僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて処罰された。10.1日、詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を改めて表明する。
 770(神護景雲4、宝亀元)年、6月、53歳の時、民部少輔(みんぶのしょうふ)に任じられ、都(みやこ)に戻る。8.4日、女帝の称徳天皇が崩御する(享年53歳)。皇太子は白壁王(天智天皇の皇孫にして万葉歌人として著名な志貴皇子の子。後の光仁天皇)と決定される。白壁王は内紛相次ぐ時代を懸命にたえて生きぬいてきた人で、このとき62歳であった。この光仁朝を支えたのが、やはり隠忍をともにしたかつての盟友で、すぐに右大臣となる中臣清麻呂(大中臣)であり、内臣となる良継、そして中納言宅嗣たちであった。妹留女の夫、藤原継縄も参議のひとりとして内閣に列していた。この流れのなかで家持が登用される。他方、道鏡は下野国の薬師寺の別当として左遷(配流)された。なお、この時(宝亀元年8月21日)の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。称徳天皇の寵愛を支えに、太政大臣禅師、法王の地位まで得て、権勢を得ていた道鏡の時代が終わった。9.16日、左中弁兼中務大輔に栄進。10.1日、白壁王が即位する(光仁天皇)、この日、正五位下を授けられた。黄金出土の詔書を機に従五位上にのぼってから21年ぶりである。以後、光仁朝で聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、急速に出世階段を上っていく。11.25日、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進する。式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する。
 771(宝亀2)年、11月、54歳の時、従四位下。
 772(宝亀3)年、2月、55歳の時、左中弁兼式部員外大輔に転任する。
 774(宝亀5)年、57歳の時、3.5日、相模守に遷任される。9月、左京大夫兼上総守に遷る。
 775(宝亀6)年、58歳の時、11.27日、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就く。
 776(宝亀7)年、59歳の時、1.7日、従四位上に昇叙される。3.6日、衛門督を解かれ、伊勢守に遷任された。
 777(宝亀8)年、60歳の時、正月、従四位上。
 778(宝亀9)年、61歳の時、正月、正四位下と順調に昇進する。
 779(宝亀10)年、2.1日、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。2.9日、参議に右大弁を兼ねる。 
 780(宝亀11)年、63歳の時、参議、右大弁に任ぜられ公卿に列す。
 781(宝亀12、(天応元)年、64歳の時、2.17日、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され葬儀を司る。4.3日、病気の重くなった光仁天皇が山部親王に位を譲った。桓武天皇である。これより桓武朝に入る。4.4日、天皇にはのちに平城天皇となる安殿皇子がいたが、光仁の希望として、桓武の弟の早良親王が新たに皇太子として立てられた。天応元年家持が春宮大夫に任じられているのは、この皇太子に仕えるためで、光仁の信頼が厚かったからである。このことがまたのちに数奇な事件をよぶことになる。4.14日、右京大夫兼春宮大夫 正四位上に昇進する。5.7日、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。5-6月、母が逝去。母の喪により官職を解任される。8.8日、左大弁兼春宮大夫に復任する。11.15日、大嘗祭後の宴で従三位に叙せられる。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開ける)によるものと思われる。12.13日、光仁天皇が崩御する(享年73歳)。家持はその葬儀にさいし、山作司(御陵をつくる役職)の筆頭に任じられて奉仕のまことを尽した。
 位階昇進のさまはめざましく、11年間に6階というスピードぶりで、これまでの不遇をいっきょに挽回した観がある。宝亀11年には待望の参議に列して国政の中枢に参画し、翌天応元年(元日に改元)11月には公卿の列にはいる従三位に叙せられた。この年64歳である。
 782(天応2、延暦元)年、正月、氷上川継(ひかみのかわつぐ)の乱起る。川継は塩焼王の子である。塩焼王はかの奈良麻呂の変のときには罪を許され、のち仲麻呂が、乱のときにともなって近江に走り、天皇に擁立しようとした人で、仲麻呂とともに斬られて終わっている。したがって奈良麻呂の変で拷問の杖に打たれて死んだ廃太子道祖王は川継の叔父にあたる。事件は謎に包まれているが、天武皇統につらなる川継(天武の曾孫)が、天智皇統の桓武にたいし不穏な言動でもあったのか、またはそうしたささいな言動をとらえてフレーム・アップしたのかであろう。事件は先帝の喪服中ということで死一等が減じられ、川継は伊豆へ、母の不破内親王(聖武皇女、母は県犬養広刀自で安積皇子の妹)も淡路に流され終わった。4、5日後、家持が事件への関与を疑われて一時的に解官され都を追放される。4月、罪を赦され参議に復す。続日本紀は、4か月後の5.17日の条に「参議従三位大伴宿禰家持ヲ春宮大夫ト為ス」とその復帰を書きしるしている。6.17日、春宮大夫の現職はそのままで陸奥按察使鎮守将軍に任命される。続紀薨伝には「以本官、為陸奥按察使」とある。陸奥に赴任し多賀城へ向かう。
 783(延暦2)年、66歳の時、7.19日 、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。都では天皇の信任を一身に集めた藤原種継がめざましく台頭していた。種継は式家宇合の孫、天皇の即位を画策し成功させた百川・良継兄弟の甥にあたる。百川は以前山部王(桓武)を皇太子につけるために、前皇太子他戸とその母井上皇后とを罪におとしいれる暗躍をし、ふたりを幽閉のすえに死にいたらしめた人物である。他戸は桓武の異母弟、井上皇后はさきの川継の母不破内親王の同母の姉である。いわばこの結果帝位についた天皇には、式家にたいする負い目があり、百川の子はまだ年少ということもあり、自然に機才に富む行動家でもあった種継をこよなく寵愛し、「中外ノ事皆決ヲ取ル」(『続日本紀』)というほどであった。

 この種継の建策により山城国乙訓郡長岡の地に遷都することになる。延暦3年(784)5月、種継はみずから造長岡京使に任ぜられ、ただちに造営に着手し、その年のうちに天皇が遷御できるほどの早さで工事を進めた。そして翌4年正月1日の朝賀はこの大極殿でうけるとともに、事実上の遷都を宣する鉾と盾とがここに立てられたのであった。(正式の遷都は延暦6年10月)。
 784(延暦3)年、2月、持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)に任じられる。 節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)は蝦夷征討の将軍のことである。坂上田村麻呂がなったことで有名。「持節(じせつ)」は、天皇から刀を与えられて、天皇の権限を代行することを云う。
 785(延暦4年)、4月、「中納言従三位春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持等言ス」として、郡の機構を改める意見書を提出して許された。8.28日、亡くなる(享年68歳)。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記されている。兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国多賀城でで没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。
 9.23日、没直後にして長岡京の遷都後間もない頃、中納言の藤原種継(たねつぐ)が造宮監督中に射殺されるという事件が起こる。厳しい詮議の末、皇太子早良(さわら)親王を天皇に擁立しようとする一派の犯行と判明し、暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末、大伴継人、佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展している。

 事件直前に死去していた大伴家持が首謀者として官籍から除名された。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられた。追罰として都に戻ってきた家持の遺骨は埋葬が許されなかった。これを「藤原種継暗殺事」と云う。子の永主も隠岐国に配流となった。続日本紀は8月28日の家持の薨伝に次のように記す。
 『氷上川継ガ反スル事ニ坐シ京外ニ移サル。詔有リテ罪ヲ宥サレ、参議春宮大夫ニ復ス。本官ヲ以テ出デテ陸奥按察使ト為ル。居ルコト幾モ無クシテ中納言ニ拝ス。春宮大夫故ノ如シ。死後廿余日ニシテ、其ノ屍未ダ葬ラザルトキニ、大伴継人、竹良等種継ヲ殺シ、事発覚シテ獄ニ下ル。之ヲ案験スルニ、事家持等ニ連ル。是ニ由リ追テ名ヲ除キ、其ノ息永主等ト並ニ流ニ処セラル」。

 哀れをきわめたのは早良皇太子で、幽閉されて10日あまりも断食によって身の潔白をはげしく抗議したすえに、流罪の途中で落命する。そのあとに安殿親王が皇太子に立った。

 家持が許されて本位に復したのは、21年後の806(延暦25)年、3.17日、桓武天皇崩御の日であった。桓武天皇が病に伏し、その病気平癒のため延暦4年の事件に関わって罰せられた者を、生没にかかわらず元の位に叙すことを許したためである。 桓武天皇の周辺には恨みをいだいて死んでいった人が多い。さきに皇太子他戸とその母井上皇后、そして近くは早良皇太子、死後では家持などである。天皇はたびかさなる皇室の不幸を、怨霊のたたりによるものと恐れ、とくに早良には崇道天皇という尊号まで贈り、早くその罪を許して霊をなぐさめていたのだが、崩御に近く家持らにもその手をひろげ、ひたすら霊をなぐさめ鎮めることによって恐怖からのがれようとしたのである。
これに伴い家持の遺族も帰京を許された。
 

1037: 今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし

1040: ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜は明かして行かむ

1446: 春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ

1462: 我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す

1477: 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす

1489: 我が宿の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり

1491: 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る

1494: 夏山の木末の茂に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ

1510: なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも

1567: 雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ

1591: 黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1602: 山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして

1603: このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも

1628: 我が宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる

1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも

1572: 我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが

1632: あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ

1663: 沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕まかずひとりかも寝む

3900: 織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる

3954: 馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に

3960: 庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに

3969: 大君の任けのまにまにしなざかる.......(長歌)

3965: 春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

3966: 鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

3970: あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも

3971: 山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

3982: 春花のうつろふまでに相見ねば月日数みつつ妹待つらむぞ

3986: 渋谿の崎の荒礒に寄する波いやしくしくにいにしへ思ほゆ

3991: もののふの八十伴の男の思ふどち心遣らむと.......(長歌)

4044: 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟

4091: 卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ

4106: 大汝少彦名の神代より言ひ継ぎけらく父母を見れば貴く妻子見れば.......(長歌)

4113: 大君の遠の朝廷と任きたまふ官のまに.......(長歌)

4115: さ百合花ゆりも逢はむと下延ふる心しなくは今日も経めやも

4120: 見まく欲り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見つるかも

4122: 天皇の敷きます国の天の下四方の道には.......(長歌)

4123: この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに

4136: あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ

4140: 吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも

4148: 杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも

4150: 朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人

4151: 今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり

4185: うつせみは恋を繁みと春まけて思ひ繁けば.......(長歌)

4188: 藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻つつ年に偲はめ

4191: 鵜川立ち取らさむ鮎のしがはたは我れにかき向け思ひし思はば

4193: 霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花

4217: 卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも

4223: あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ黄葉地に落ちめやも

4225: あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく

4226: この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む

4229: 新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが

4239: 二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず

4250: しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも

4253: 立ちて居て待てど待ちかね出でて来し君にここに逢ひかざしつる萩

4255: 秋の花種にあれど色ごとに見し明らむる今日の貴さ

4259: 十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ

4291: 我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも

4292: うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば

4303: 我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむいや年の端に

4304: 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも

4305: 木の暗の茂き峰の上を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも

4306: 初秋風涼しき夕解かむとぞ紐は結びし妹に逢はむため

4307: 秋と言へば心ぞ痛きうたて異に花になそへて見まく欲りかも

4308: 初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く

4309: 秋風に靡く川辺のにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも

4311: 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ

4312: 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ

4314: 八千種に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲はな

4501: 八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな

4395: 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに

4410: み空行く雲も使と人は言へど家づと遣らむたづき知らずも

4435: ふふめりし花の初めに来し我れや散りなむ後に都へ行かむ

4443: ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背

4450: 我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも

4451: うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも

4471: 消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な

4484: 咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり

4490: あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け

4493: 初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒

4515: 秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相か別れむ

 陳防人悲別之情歌一首并短歌

 大君の 任のまにまに 島守に 吾が立ち來れば ははそばの 母の命は み裳の裾 つみ上げ掻き撫で ちちのみの 父の命は 拷綱の 白髭の上ゆ 涙垂り 歎きのたぱく 鹿子じもの ただひとりして 朝戸出の かなしき吾が子 あらたまの 年の緒長く 相見ずは 戀しくあるべし 今日だにも 言問ひせむと 惜しみつつ 悲しびいませ 若草の 妻も子どもも 彼此に さはに圍み居 春鳥の 聲のさまよひ 白たへの 袖泣きぬらし 携はり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを 大君の 命畏み 玉鉾の 道に出で立ち 丘の崎 い廻むる毎に 萬度 顧みしつつ 遥々に 別れし來れば 思ふそら 安くもあらず 戀ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島傳ひ い漕ぎ渡りて あり廻り 吾が來るまでに 平けく 親はいまさね 障無く 妻は待たせと 住吉の 吾がすめ神に 幤奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫貫き 水手調へて 朝開き 吾は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(巻20・4408)

 家人の齋へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(巻20・4409)
 み空行く雲も使と人は云へど家苞やらむたづき知らずも(巻20・4410)
 家苞に貝ぞ拾へる濱浪はいやしくしくに高く寄すれど(巻20・4411)
 島かげに吾が船泊てて告げやらむ使を無みや戀ひつつ行かむ(巻20・4412)

     二月 三日兵部少輔大伴宿祢家持
 家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。

関連サイト:家持略年譜(大伴家持の世界)
      家持資料集(同上)
      家持アルバム(同上)
      家持の歌(やまとうた)
      その他、リンク集の家持の項を参照。

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