万葉集考

 (最新見直し2014.02.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで万葉集について確認しておく。「ウィキペディア万葉集」、「万葉集原文」、「万葉集メニュー」、「長歌・旋頭歌・片歌 」その他を参照する。

 2006.11.22日 れんだいこ拝


【万葉集考】
 万葉集につき、広辞苑(岩波書店)は次のように記している。
 「万葉集(万世に伝わるべき集、また万の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后の歌といわれるものから淳仁天皇時代の歌(759年)まで約350余年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4千5百首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表し、調子の高い歌が多い」。

 国史大辞典(吉川弘文館)は次のように記している。
 「万葉集 飛鳥・奈良時代の歌集。20巻。〔成立〕現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字3年(759)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻1から巻6まで(これを第1部と呼ぶ)のうち、天平16年(744)7月20日の日付をもつ歌が新しく、第1部は天平17年以降の数年間に成立、巻17以降の4巻(第2部)は、少数の例外的に古い歌を除けば天平18年正月から天平宝字3年正月までの作品であり、第1部に続き天平勝宝5年(753)8月から天平宝字2年初頭までに巻17・18・19の3巻が成り、その後巻20が加えられた。20巻本編集の立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものが作られたのは延暦元年(782)から翌2年にかけてであろうと推測される。巻1・巻2に関していえば、巻1前半部が持統天皇の発意により文武朝に編纂され、後半部の追補が和銅5年(712)から養老5年(721)までに行われ、同じころに持統万葉の企図を受けついで巻2が編纂された。この巻1・巻2を母胎に16巻本、20巻本に成長したのが現在の形だろうという。なお問題も多いが、数次の編纂によることと、大伴家持の手が多く加わっていることは間違いない。(以下略)」。

 以上で万葉集の概要が分かろうが、これを、れんだいこ式で確認しておく。

 万葉集(萬葉集、まんようしゅう)は、7世紀後半から8世紀後半頃の759(天平宝字3)年以後から810年頃にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌4540首(4516歌ともある)で構成され二十巻に纏められている。
その内訳は短歌4207首、長歌265首、旋頭歌62首、仏足石歌1首、連歌1首となっている。方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。

 万葉集の歴史的意義は和歌のみにあるのではない。「添え書き地文」にも大いなる意味があり分類名、作者名、題詞、訓注、左注などを記載している。題詞、訓注、左注で和歌が歌われた時の情景、情況を補足している。記紀、風土記の記述との違いがあり、そういう意味での史書にもなっている。これについてはさほど研究されていないようであるが、万葉集をこの見地から読み直すことが必要であるように思われる。

  原文は漢文体で表記され且つ日本語の語順で書かれている。和歌は日本語のリズムに乗って詠われている。日本語は神意から汲み出されており、和歌は神意との交信歌とも云える。これにより「言霊思想(ことだましそう)」を内在している。元々の「言挙げ(ことあげ)」、呪詞(じゅし)の口伝・口承が言語化されたものとも云える。古事記、日本書紀、古史古伝に収録された和歌を「上代歌謡」と云う。記紀に載せられている歌謡を特に「記紀歌謡(ききかよう)」と呼ぶ。

 万葉集に記されている漢字を万葉仮名と云う。万葉仮名は、漢字の意味とは関係なく、日本語の音に当て嵌まる漢字の音を見つけ、借用して表記したものである。その意味で、万葉仮名とは漢字を用いながらも日本語であるとも云える。当時の日本人の語学センスの良さを感じさせる発明になっている。同時に、日本史書に登場した最初の漢字文字とも云える。一例として、大伴家持の歌の「剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)」は次のように表記されている。「都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾」。山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌「いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)」は次のように表記されている。「去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武」。奈良時代当時の音節数は清音60・濁音27だったことが分かっている。現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多く、現在同じ発音の「い」などの表記は複数存在し、音節は「い」、「ゐ」の2種類といった具合で現代日本語より多様である。万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。この流れで平仮名と片仮名が創造されたと云われている。現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。

 万葉集の名前の意味について諸説ある。一つは、「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解する。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の万葉集註釈では、古今和歌集の「仮名序」に、「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とあるのを引いている。他にも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、古事記の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。

 万葉集は鎌倉時代に天台僧の仙覚が校訂した仙覚系写本のほか写本・刊本が存在している。一方、仙覚系写本とは異なる藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集も存在し、1993(平成5)年、関西大学教授の木下正俊、神堀忍により、元同大学教授の広瀬捨三所蔵本(広瀬本)が冷泉本であることが確認された。広瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)の名が記されており、広瀬本の書写作業は甲斐国で行われていたと考えられている。

 内容上から雑歌(ぞうか)、相聞歌、挽歌の三大部類になっている。雑歌(ぞうか)とは、 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。行幸や遊宴など公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。祝祭儀礼歌、集団歌舞歌、作業歌、遊行漂泊芸謡、宮廷化芸謡など種類も分類も様々である。相聞歌(そうもんか)とは、お互いの消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。挽歌(ばんか)とは、棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。関東・東北地方を舞台に詠まれた「東歌(あずまうた)」や、筑紫・九州北部での軍備・警護に当てられた人々の哀歌「防人歌(さきもりうた)」なども含んでおり、地域性も豊かである。

 歌体は、短歌、長歌、旋頭歌(せどうか)の三種に区別されている。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。短歌は、五七五七七の五句からなる。長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、4分の4拍子に合わせて五七、五七を続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶ。5音7音の句を3つ以上繰り返し、最後7音で締める構成以外には何の制約もない。万葉集(まんようしゅう)には260首もの長歌が収録されている。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌と云われる。五七七の句に対し、五七七でと返すといった具合に片歌を反復したもの。五七七五七七の6句よりなり、神と人との問答を原型にしたとされる古い旋律の歌であり、下三句が頭三句と同形式を反復することから名が付いたとされる。山上憶良や大伴家持らの有名な歌人も作ったが、民謡が多く、かつ方言が使われているものが多い。

  「仏足石歌(ぶっそくせきか)」とは五七五七七七の6句からなり、普通の和歌の形式(短歌)の後に、最後1句が繰り返しや歌い換えになっているもの。「仏足石」とは仏(釈尊)の足の形を石に刻んだもののことで、奈良時代に日本に伝播したのち各地で作られたという。その石に刻まれた歌を仏足石歌と呼び、一番古いものは薬師寺にある。「連歌(れんが)」は、五七五の句と七七の句を交互に多数の作者が詠み継ぎ一定の句数で完結させるものである。大伴家持と尼との唱和が万葉集に収録されており、これが最古とされる。後に「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」と呼ばれる百句まで読み継ぐものが生まれている。江戸中期以降は「歌仙連歌(かせんれんが)」と呼ばれ36句を詠み継ぐものになっている。

 巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ない。首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。歌を作った時期により4期に分けられる。第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇、天智天皇、有間皇子、鏡王女、藤原鎌足らの歌もある。第2期は、遷都(710年)までで、代表は柿本人麻呂、高市黒人(たけちのくろひと)、長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇、持統天皇、大津皇子、大伯皇女、志貴皇子などである。第3期は、733(天平5)年までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。第4期は、759(天平宝字3)年までで、代表歌人は大伴家持、笠郎女、大伴坂上郎女、橘諸兄、中臣宅守、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)、湯原王などである。

 万葉集は竹取物語や浦島太郎などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、竹取物語においては巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、竹取物語(かぐや姫物語)との関連が指摘され、巻9の高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型とも解釈できる内容が歌われている。

 2006.12.4日 れんだいこ拝


【万葉集の編纂時期と選者考】

 「成立過程と編纂者の問題」その他を参照する。

 「万葉集」の成立過程に関していまだに定説として信ずるに足るものをみない。最も古い伝承は、平城京を離れて百年近くも経った頃の貞観年間(855-76)後半のことと思われるが、清和天皇が、万葉集はいつばかり作れるぞ」と問わせたまひ、文屋有季が「神無月しぐれ降りおけるならの葉の名におふ宮の古言ぞこれ」(古今997)と「奈良時代の古歌です」と答えている。同真名序に、「昔、平城天子侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ。それより以来、時は 代を歴、数、百年に過ぎたり」などとあるのを拠り所としている。元暦校本の巻第一目録の頭書の「裏書云、高野姫天皇天平勝宝五年左大臣橘諸兄萬葉集を撰ぶ」の書き入れがある。「高野姫天皇」は孝謙天皇、その四年前の天平勝宝元年(749)、聖武天皇が退位した後即位した。その五年というと、巻第十九の巻末から巻第二十の巻首にかけての時期で、裏書の言うとおりであれば巻第二十の成立はそれ以後ということになる。橘諸兄は同八年に致仕し、九年に薨ずる。万葉最後の歌は更にその二年後の作であるから、天平勝宝五年撰ということは有り得ないが諸兄の撰という点は考慮に値する。


 万葉集の編者に関して詳しくわかっておらず、勅撰説、左大臣まで登った橘諸兄説、大伴家持説など古来種々の説がある。万葉集最後の歌が大伴家持の歌であることも論拠として家持説が最有力である。江戸時代の契沖によれば、大伴家の私撰和歌集だとの説を打ち出している。ちなみに万葉集最後の歌は天平宝字二年(758年)正月に大伴家持が詠んだ次の歌である。「 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰」(新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと))(万4516)。
   

 但し、万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、最終的に家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。橘諸兄、山上憶良が関わっている形跡が認められる。いずれにせよ、先行する歌人の柿本人麻呂、山上憶良大伴旅人、山部赤人の和歌をふんだんに取り入れた上で大伴家持の歌も載せているところに特徴がある。興味深いことは、「柿本人麻呂、山上憶良大伴旅人、山部赤人、大伴家持」が、れんだいこ史観によるところの原日本派であることである。即ち出雲王朝、三輪王朝系譜の者達である。万葉集の魅力は、出雲王朝、三輪王朝追慕の和歌を遺しているところにある。ここを伺わない万葉集論は幾ら精解しようとも味気ないものになろう。要するに、ただの歌集ではない。

 万葉集は、天平宝字三年(759)以後にも多少の手直しがなされており、新しいところでは、延暦四年(785)家持が死んだ後にも改竄・修補が加えられた形跡がある。その原本も成立過程においては一種類に限らず、複数あっていろいろに分かれたと考えることができる。


 れんだいこのカンテラ時評bP211  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月30日
 れんだいこの万葉集読解法考

 2014(平成26)年初頭、れんだいこの古代史考は天皇制論を経て古代史書考に向かい、今は古代史書の正四書の一つである万葉集にくびったけとなっている。ここで万葉集読解法につき述べておく。

 これから確認することになろうが、既成のそれは、れんだいこ史観に基づく「原日本新日本論」を獲得していないので、その分歌意を理解し損ねている面があるのではなかろうか。僭越ながらこう申し上げて叱責を甘受したいと思う。と云うのも、万葉集和歌を理解するには、和歌が歌われた時の情況、情況を書き付けている「添え書き地文」とワンセットでせねばならず、その「添え書き地文」の正しき理解の下に歌意を受け取らねばならないのが当然であると思うからである。しかして、「添え書き地文」の正しき理解の為には「原日本新日本論」を介在せねばならず、これを欠いたままの歌意解釈は甚だ心もとない。既成のそれは能く為しえているだろうかと云う疑念がある。

 既説は如何にも文学的な読み取りをしているのだろうが、今調べたところでは、その文学的な読み取りでさえかなり粗雑な解釈が横行しているようである。歴史構図的に失敗するような頭脳では文学的読み取りも同じで能く解し得ないと云うことではなかろうか。万葉集は日本上古代史、古代史の政変を踏まえて詠われているのであり、このプリズムを通さないと和歌の真意が見えてこないのではなかろうか。万葉集は、後の古今和歌集その他の和歌集と比べて古代史の国譲り政変事情と密接に関係している故に、ここを窺わない万葉集読解はあり得てならない。これにつき追々にはっきりさせてみようと思う。

 そういう訳で、万葉集は殊のほか史書としての値打ちが高い。つまり単なる文学的和歌集と云うより歴史的和歌集的性格を帯びている。即ち記紀、風土記を補完し、あるいは時に訂正する威力さえ漂わせている。例えば相聞歌にせよ古代への偲び歌にせよ、単なる相聞歌、偲び歌ではない。こういう解釈が多いようだが、「原日本新日本論」的史実を踏まえてのものであり、これを逆に云えば史実を遺している意味もある。万葉集のこういう重厚さをも踏まえ、詠み手が歴史と応答している様を味わうべきだろう。情景歌、人生歌の場合には時空を超えるので必ずしも要件としないが、その際でさえ「原日本新日本論」的歴史観の下での理解の方がよりしっくり来るのではなかろうか、と思っている。この謂いを例題を挙げて論証すれば説得力を増すが、長文化するので別の機会に論じようと思う。

 こういう意図の下での読み直しによる万葉集読解をサイトアップしてみたいと思う。万人が万葉和歌集を愛好する手引き書として世に奉(ささ)げんと思う。万葉集は日本人必須の教養として納めておかねばならない知的財産であり世界遺産と思う故にである。問題は次のことにある。戦後日本は、こういう日本古代史が持つ世界に冠たる文化遺産に余りにも盲目にされ過ぎて来た。これは政治の責任であるが、半面は読もうとすれば読めるのに読まなかった側の私どもの能力問題でもあろう。これを痛苦に受け止め、本来の日本人的感性、宗教的情動、道理道徳観を呼び戻したいと思う。この言は論より証拠で、読めば分かろう。

 還暦過ぎて分け入ることになったが遅過ぎることはない、今読めて幸せと思う。但し、分け入ったは良いが4500余首もあるため出口は見つからない。ガイダンス的には三年、内容に深く立ち入ればひょっとすると気の遠くなるほどの一生ものになるかも知れない。困ったようなうれしいようなことではある。以上、れんだいこの性によって歯に衣着せず物言いさせてもらったが若気の自負と受け止めてもらえれば幸いである。

 万葉集考(kodaishi/kodaishico/manyosyuco/top.html)

 れんだいこのカンテラ時評bP212  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 2月21日
 れんだいこの万葉集読解法考その2

 先の「れんだいこの万葉集読解法考」で、万葉集の読解を文学的にのみ読むのではなく歴史学的にも読むべきとしたが、もう一つ思想的にも読むべきとの提言をしておく。実に万葉集は日本文学の祖であり且つ記紀、風土記に並ぶ政治史書であり且つ思想書でもある。思想書とは、当時の人々の生態、思想が披瀝されていると云う意味と、日本の国体を明らかにしていると云う両面の意味を持たせている。このことを強調しておきたい。

 僭越ながら言わせてもらうと、従来の万葉集研究は、文学的読み取りにおいては辟易するほど精緻に為されていよう。特に文法的解析、語彙的解説は参考になる。但し、その精緻さの結果として歌意をいかほど正確に為しえているかと云うと心もとない。「山に拘り森を見ず」の例えに似た偏狭解釈が横行している面もあるように見受けられる。しかしながら何とかして正解的な解釈を生み出すべく向かうべきだろう。文学的研究が基礎であろうから、この営為を続けねばならない。

 万葉集読解の次の要請は歴史書的且つ政治書的な読み取りであろう。この方面の研究はそれなりに進められているようだが未だ未開であるようにも思われる。それと云うのも、大和王朝御用化の為に編纂された記紀神話的構図下にあるので一向に進まないのではなかろうか。課題は、記紀神話的構図下から出藍することにある。この方面の研究は緒についたばかりなので致し方ない面もある。しかしながら先の「文学的読み取り」も「歴史書的な読み取り」と密接不可分な訳だから同時並行的に進めねば実りあるものにはならないだろう。こう云わせていただいておく。

 さて、本稿の眼目である「思想的な読み取り」はどうだろうか。これは、未だ緒にもついていない未踏の分野なのではなかろうか。れんだいこ的には、万葉集の思想的読み取りにこそ真髄があると見立てている。万葉集を思想的に読み取るとはどういうことか、これにつき言及しておく。要するに、日本古代史上の国譲り政変が大きく関係しており、国譲りさせられた方の大和王朝前の政権であった出雲王朝、三輪王朝時代の日本国体と、国譲りさせた方の大和王朝政権の国体との間に認められる「歴史の溝」を確認し、それを座るべき歴史の椅子に腰掛けさせねばならない。こう認識せねば解けない。

 実に日本古代史とは、この「歴史の溝」をどう練り合わせていくのかの御苦労史である。そのハイライトが大化の改新と壬申の乱である。それはかっての国譲り政変のリバイバルでもあった。この一連の政治動乱過程でどういう新たな国体が創出されたのか、ここにテーマがあり、ここを紐解かねばならない。練り合わされた部分と練り合わされずに併走する両面を嗅ぎ取らねばならない。ざっと云えばこういうことになる。抽象的に述べているので分かり難いかも知れないが、これを具体的に述べるよりも逆に分かり易いとも云えるだろう。

 その上で今最も関心が注がれるべきは、大和王朝前の政権であった出雲王朝、三輪王朝時代の日本国体の解明である。これは国家論、民族論、政体論を主とするが、関連して当時の民俗論、生態論、思想論、宗教論へと繋がる。れんだいこは、万葉集こそが、これを濃厚に伝えていると見立てている。ここに万葉集の特筆すべき値打ちがあると見立てている。

 これの探訪の旅は、日本のアイデンティティーが意図的故意に圧殺されようとしている目下の政治状況下にあっては、これを解明解析することが逆バネの作用を持つと信じている。仮にこう難しく構えなくても、当時のいわば原日本の真姿を知ることは何かと有益ではないかと思う。かなり高度な文明だったのではないかと思っている。故に、いざ同朋よ手を繋げんと思う。万葉集寺小屋を共に創造したいと思う。以上。これを「万葉集読解法考その2」として補足しておく。

 先の「れんだいこの万葉集読解法考1、2」で、万葉集の読み方に言及したが、もう少し触れておく。万葉集は、全4540首(4516歌ともある)で構成され二十巻に纏められている。その内訳は短歌4207首、長歌265首、旋頭歌62首、仏足石歌1首、連歌1首となっている。このうちの長歌にこそ味わい深い歴史の秘密が宿されているように思われる。短歌は気に入りの句を見出して暗誦し易いが、松尾芭蕉の名俳句「古池や蛙飛びこむ水の音」同様に凝縮され過ぎており歴史知識を得るには至らない。その点で、長歌は対象を具体的に伝えており、これを通して歴史知識を得ることができると云う違いがある。そういう訳で、万葉集を記紀、風土記と対等の史書と読もうとする試みからすれば、長歌は見逃せない。

 その長歌の詠み人を一覧で確認したいが今のところ分からない。ごく有名なのは柿本人麻呂のそれである。ほぼ共通して昔の王朝を偲び、現代のそれに何らかの教示を与えようとしている。興味深いことは、柿本人麻呂の長歌がまさしく、れんだいこの「原日本新日本論」に符号していることである。柿本人麻呂の長歌は専ら原日本御代を懐旧し、その時代の政体を和歌を通して追憶させ、当時に生かそうとして吟じているように思える。これを確認すれば、199番歌「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも」以下で壬申の乱時の大海人皇子(後の天武天皇)の奪権闘争を肯定的に歌っている。天武天皇御世下で、それまでの原日本と新日本の対立抗争から出濫する新たな日本国体論を打ちたてようとしているように見える。36番歌「やすみしし 我が
大王(おほきみ)の きこしをす」以下、38番歌「やすみしし わご大君(おほきみ) 神ながら 」以下、45番歌「やすみしし わご大君 高照らす」以下、194番歌「飛ぶ鳥の 明日香の河の つ瀬に」以下、196番歌「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に」以下がそうである。原日本御代の懐旧として出雲王朝についても詠い上げている。131番歌の「石見の 浦廻を 浦なしと」以下、167番歌の「天地の 初めの時し ひさかたの」以下がそうである。

 これは柿本人麻呂ばかりではない。山上憶良、山部 赤人(やまべのあかひと)らが然りである。

 他にも四国の伊予と讃岐の歌を歌っている。伊予については***。讃岐については220番歌の「玉藻よし 讃岐の国は 
国柄か」以下がそうである。阿波については***。原日本に於ける四国の意味及び意義、それに纏わる伊予、讃岐、阿波の関わりが分からないが、よほど重要な地位と役割をしていたことが分かる。これは今後の検討課題である。

 問題は、かく受け取ることができるのに、従来の万葉集研究が当然のこの「読み」に至ろうとしない「読み」に耽っているように思えることである。文法や語彙については辟易するほど丹念な考証をしているが、この肝腎な、万葉集を通じて何を学ぶのかの原点で失格している。このように言わせてもらおうと思う。

【万葉集研究史考】
 近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖荷田春満賀茂真淵加藤千蔭田安宗武鹿持雅澄長瀬真幸本居宣長らが万葉集研究を展開した。近現代には文学論や国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉折口信夫佐佐木信綱土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝武田祐吉五味智英犬養孝伊藤 博中西進多田一臣上野誠佐竹昭広曾倉岑内藤明らが万葉集研究を展開した。

 万葉集は非常に謎の多い歌集である。その成立年代、編者、製作の背景から、歌の選び方にしてもすべてが謎に包まれている。万葉集が歴史上に姿を現してからというもの、数々の学者や研究者たちが万葉集について様々なことを考え、予測し、意見を戦わせ、いくつもの「仮説」を作ってきた。

 歌の表記は、作者の身分によって書き分けられている。「御製歌」は天皇、「御歌」は皇后など天皇の后、皇子、皇女など天皇の子供。「歌」は、それ以外の皇族や臣下、庶民。但し、「万葉集があばく捏造された天皇・天智」(渡辺康則、大空出版、2013.10.15日初版)によると、大化の改新で蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は舒明天皇の子供であるのに単に「歌」とされているとの指摘がなされている。「日本書紀の中大兄もなぜか、皇子がつきません」と述べている。

 万葉集と記紀の編集が相互に連動している。万葉集は純粋文学ではない。朝廷の政治的空気を映している。

 日本書紀完成直後に書記編集を主導した右大臣藤原不比等が亡くなる。翌5年、不比等の後をついで長屋王が右大臣につく。反藤原の旗頭。この長屋王の周りに山上憶良らを召集する。
 日本書紀に異議申し立てする歴史書、政治書。

 「『万葉集』は歴史をくつがえす 古田武彦」を転載する。

 『新・古代学』 第4集 へ 「701 人麻呂の歌に隠された九州王朝」の解説へ(DVDはここから) 『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社


 古田でございます。本日は私の話を聞きにおいで頂いて、たいへん光栄に存じます。特に今日はお話ししたい、最近はわたし自身も仰天しているようなテーマが次々ありまして、それらを申し上げたいのですが、時間に制約があります。大きいテーマがひとつありますと、それぞれに付属するテーマがいっぱいぶら下がってくるのですが、わたしはそれをいちいち検討してきたのですが、全部をお話ししていると時間がなくなってしまうので、枝の方はカットしまして、いきなり本題の方に入らせていただきまして、残りはご質問の時間等にまわさせていただきます。

 まず方法に関することを申し上げたいのですが、わたしの方法論。要するに、万葉集をどう攻めようとしたのか、その結果どうなったのかを、まずお話ししたい。わたしが古代史に取り組んだ初めは、東大の史学雑誌に「邪馬壹国」、それから著書『「邪馬台国」はなかった』で発表したのですが、要するにその、「原文を書き換えてはいけない」ということ。特に「都合の悪い部分は原文を書き換える」、これは絶対にダメ。わたしが親鸞研究から得てきた方法であることは、わたしの本をご覧になった方はご存知のとおりでございます。この主要な方法論は二十数年たつが全く変っていません。これが第一点。

 さて、本日のテーマである万葉集ですが、レジュメに本日とりあげる歌について、岩波書店の古典文学大系からのコピーを入れましたのでご覧ください。万葉集は写本に恵まれておりまして、まず元暦(げんりゃく)校本万葉集と呼ばれるもの、これは平安朝末期の成立で全体の七割程度が残っていてありがたい。わたしはこれの全部のコピーを入手して持っております。ほかに西本願寺本、これは鎌倉末期のものですが、これもたいしたもの。全巻揃っている。このように写本に恵まれている。これらの写本を大切にせにゃならぬ。勝手に原文を変えて読んではならぬ。万葉集についてもそんなことをやっている人がいるのかと思われるでしょうが、万葉集についても同じなんですよね。「『万葉集』よ、お前もか」(笑)。邪馬台国について、『三国志』の原文には「邪馬壹国」とある。この「壹」を勝手に「臺」と直していいのか?

 わたしは『三国志』全体の用例を調べて、直してはダメだとやったのですが、万葉集の場合、事情が違う。作者が一人でなくて、たくさんの作者の歌の集合体である。問題はそこに、まえがき、あとがきがついておりますよね。それは歌の作者当人がつけたものかどうかわかりませんよ。それは当人がつけたとしか思えぬものもある。大伴家持のとかはそうじゃないですか。しかし、どこにも「保証がない」。

 他の例をあげますと、記紀のなかの歌、作者がまちがいないかというと、同じ歌で、作者が古事記と日本書紀では違うのがある。「やまとは国のまほらま、青垣山こもれる、大和しうるわし・・・・」、この歌は書紀では景行天皇の歌で、九州で歌ったもの。古事記ではヤマトタケルノミコトが三重県の能煩野で歌った歌になっている。両方が本当のハズはない。あるいは両方ともウソかもしれない。この歌は景行紀では天皇の九州討伐譚の中にありますが、この物語をわたしは『盗まれた神話』の中で分析した。この話が大和を原点にしたらおかしい。大和に近い側の九州の東南を討伐し、遠い側の西北は巡行になっている。逆じゃないか、大和の景行天皇を主語とすると理解不能である。ところが筑前・吉武高木を原点とする筑紫の君(前ツ君)が、未征服の九州一円を討伐したものとすると理解できる。筑後では大歓迎を受けている。この王者の原点は、博多と前原の間の高祖山連峯と理解したわけですね。ですから、筑紫を原点にして、筑後、肥後を勢力下に納め、次に豊前、豊後から鹿児島方面を支配下に入れた英雄譚であった。

 その後の研究の発展も面白いのですが、別の機会に聞いていただくとして、取り敢えず言いたいことは、記紀の歌がこのような状態だから、万葉集だって作者名とか、まえがき、あとがきをそのまま信じることはできないということ。古事記・日本書紀が出来たのは八世紀で元明・元正天皇のころ。万葉集の編纂もこのころじゃないですか。万葉集の編纂は誰が行ったか? 大伴家持だとか、いや平安時代に入ってからだとか、いろいろの説があるが、万葉集が一度に成立したとは誰も言いませんので、何回にも分けて編集されたことは万人が認めているじゃないですか。スタイルも違いますしね。このことは異論がないと言ってよいのじゃないでしょうか。また、愛好者も多い巻一・巻二が、最初に成立したことにもまず異論がない。巻一・巻二がいつ成立したかというと、柿本人麻呂の歌が殆どであって、最後の方に和銅四年とか霊亀元年とかの数首がつけ加わった形をしているが、八世紀前半ごろ ーー文武・元明・元正のころであろうーー というのが、わたしが言っているのではなくて、多くの万葉学者が言っている常識論。

 これが持つ意味は、万葉集の成立は古事記と日本書紀の成立と同じ頃、同じ王朝ということで、巻一・巻二はそのころに成立しているとみて間違いはないだろう。古事記・日本書紀に「これこれの天皇がお作りになった」とあっても、それをアテにできませんというのが、現在の多くの学者が言っている常識ですね。念のため、もうひとつ例を挙げますと、神功紀と倭人伝をくらべるとわかる。神功紀には「倭国の女王」が中国の魏・晋と通交した記事があり、西晋の「起居注」という西晋の記録官の記録を引用してある。こんな文献をどこで発掘したのか、よく入手したものだと思いますが、この資料は当然西晋時代の壹与について書いたものですわね。

 これと倭人伝をくらべると、卑弥呼と壹与の二人の女王の事跡が、神功紀のなかに投込まれている。八世紀では、みんなが倭人伝なんて読んでいるわけではないから、気がつかれなかったが、ふたりの女王が神功皇后ひとりと一緒ということはありえない。ウソに決まっている。大切なこと、編者はウソに決まっていることを知っていることだ。知らぬハズはない。だのに平気でウソをつく。そういう姿勢で編述されている。これはやりきれないのですけれどね。わたしはイデオロギー的に天皇家を良く言うとか、悪く言うとか、どう思うかなどということとは関係なく、こういう姿勢を信用しない。無関係に事実をみるというのが、わたしの方法の第二点でございます。

 さて、日本書紀は残念ながらそういう性格の本である。世にも不思議なことですが、記紀はおかしいとしながら、こういう考えを始めた津田左右吉さんは文化勲章を貰ったが ーーこれはお墨付きを貰っちゃったのですねーー なぜか同じ文献としての性格を持っている万葉集は誰も疑ってない。雄略天皇の歌、舒明天皇の歌とあれば、その天皇の歌と、そう書いてあればその天皇の歌と思い込んでいる。みなさん、そうじゃありません? わたしもそうだったからおおきなことは言えませんが、根本的に批判したのを見たことがない。

 歌は本人が作っているが、まえがき、あとがき云々は編者がつけている。日本書紀・古事記の場合とおなじように、編者がそう置いていることは明らかです。だからそれが本当かどうかは「わかりません」という立場で見るべきでありますわね。歌そのものは第一資料、歌そのものも書き換えてあるかも知れないが、その証拠はない。証拠もないのに、この歌はこうだったのだろうなどというのは学問じゃない。ただし、まえがき・あとがきは第二資料・・・・編者が読者にそう思わせたい知識・・・・として見るべきである。これが資料扱いの基本原則であると思います。分り切ったことですが・・・・。しかし、万葉集のような文芸作品にいちいちシカツメらしく、そんなことを考えるのでは楽しくない、そうまで思わないでもよかろうという、情緒的な気分をもつ方もいらっしゃるだろう。これも間違いのないことだと思います。

 そこで、わたしが、なぜそう言わなければならなくなったかの簡単なうちあけ話をしますと、これは今までに書いたこともありますが、それが、実はあの「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」の歌だった。わたしは二十代の青年教師であったころ、この歌を松本深志高校で教えた。この歌は『古今集』にあり、阿倍仲麻呂が中国から帰ろうとしたとき、明州というところで船出するとき、別れの宴会があった。月が上がってくるのを見て作ったと書いてある歌。そのとおりの、『古今集』に書いてある紀貫之の立場で解説したんですが、授業のあと、生徒たちに廊下で質問の包囲攻撃を受けました。「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」。いま考えても鋭い質問ですよね。春日なんて中国人が知っている筈はないと言っても言い過ぎじゃない、大和なら知っていておかしくない。この鋭い質問に立ち往生しました。これが解けてきたのは、古代史の世界に入って二十数年もしてからですが、博多湾から対馬へ行くときに船に乗って、目の前に壱岐島の北端が見えるところにさしかかった。偶然ですが、丁度甲板におりまして、こられた船員さんに「ここはどこですか?」と聞くと、「あまのはらです」と答えられたので、わたしはドキッとした。壱岐の「天の原」遺跡の近くだった。天の原遺跡というのがあって、銅鉾が三本出たというのは考古学上の知識としては知っておったが、その場所がどこかまではこまかく追跡してなかった。そうなると、わたしの知っていることがあった。わたしの親友だった堀内君、残念ながら最近亡くなりましたが、春日市に自宅があった。夏休みに彼の家へ泊めてもらって ーー金がなかったせいだと思うんですがーー あの辺を歩き回ったのですが、そのときに春日というところがあるのは知っておったし、その東に宝満山(ほうまんざん)というのがあるのを知っておった。宝満山は三笠山とも呼ばれる。宝満山は漢語ですからね、もとが御笠山(三笠山とも書く)。ここには博多湾へ流れ込む御笠川があり、近くに御笠郡もある。ここにも大和と同じ様に、春日と三笠がある。偶然の一致かなあと思っておった。その宝満山から月が出る。太宰府とか筑紫野市とか大野城市の大部分とかからですときれいに見えるが、春日市では近すぎて、頭の上になっちゃって、出るという感じじゃない。しかし西の方へすこし離れれば、この山から月が出る。春日は古い地名である、なぜかというと、あそこに粕屋郡というのがありまして、カスガとカスヤは「カス」が同じ。ヤとガは接尾語でしょう? 同じ一連の地名じゃないですか。

 カは神様で「神聖な」意味、スは住い。鳥栖とか春日市の須玖岡本遺跡、三種の神器が出た王墓、あの「スグ」の「ス」。神聖な神様の住居。当然、太宰府とか大野城なんていうのはあとでできた言葉じゃないですか、人間が作った機構の名前などから来ていて、もちろん後から付けられた地名ですが、カスガはもともとの自然地名。宝満山は、九百メートル近い山、わたしは三回ばかり登ったのですが、頂上に石のほこらがありまして、現在ではコンクリートになっている ーー風が強いからコンクリートにしたと思うんですがーー そのうしろに三列石がありまして、それが江戸時代にひとつ落ちちゃったという。本来は三つ。それが社殿の形になっている。頂上は平になっていて、三分の二がその社殿部分。東側の三分の一には、例の女性の巨大な陰部の形をした岩がある。足摺岬でもさんざんお目にかかったのだが、縄文につながる古い信仰の対象。今の問題はいわゆるその三列石が信仰の対象だった。縄文につらなる古い三笠山であり、春日であった。ついでに言っちゃいますと、それに比べると、大和の三笠山は新しい。関西に帰ってきて、近いからいろいろ調べて、古田史学の会の水野孝夫さんは、奈良市に住んでおられて、いろいろ資料を送って下さったり、案内して貰ったりしたのだが、結論は今はハッキリした。レジュメにわたしが図を書いておりますが、オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑) ーーそこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。

 それはね、大極殿からみて御蓋山の上の方向に月が見えますよ。それで「まさに三笠の山に月が出た」なんて随筆に書いている人がいる。そんなのが奈良あたりではよく出る。それは甘く見ているのです。だって、歌は「三笠山から」月が出ているという意味じゃないですか。昔から、現地の人はよくわかっていますので、新たな候補が生れた。それが若草山。しかし現地の(現在)地名では三笠山と呼ばない。その証拠には、ふもとにあるのが若草中学(笑)。若草山だったら場所を選べばここから出るチャンスもあるんだ ーーといいますのは若草山の北西よりのある一角だと、若草山から月が出ると見える可能性がある。さきほどの阿倍仲麻呂は、その一角に住んでいる家があったんじゃないかと、わたしも授業で教えましたかね。今から考えるとヘリクツです。それでも「なぜ大和なる三笠の山といわないんだい?」という先ほどの質問には答えられない。このへんは詰めをいろいろやったので、話しているときりがないが、結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島 ーー金印で有名なーー にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。そのことを教えてくれた生徒に感謝したい。彼らも、もうみな紳士になっていますが。さて、そういう立場で『万葉集』そのものに入らせていただきたいと思います。

 まず一番歌、雄略天皇の歌とされる有名な歌。レジュメは読み下しと原文の比較を入れましたが、読みにくければ、あとで岩波書店本で確認してください。

 巻第一、雑歌、泊瀬朝倉宮御宇天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕
 天皇御製
 籠(こ)もよ み籠持ち、掘串(ふくし)もよ、み掘串もち、この岳(おか)に、菜摘(つ)ます児、家聞かな、告(の)らさね、そらみつ大和のくには、おしなべて、吾こそ居(お)れ、しきなべて、吾こそ座(ま)せ、われにこそは、告(の)らめ、家をも名をも。
 原文
 籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家吉閑名 告沙根 虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母(『万葉集』岩波・日本古典文学大系)

 こういう歌ですね。ポイントを申しますと、この「しきなべて」の部分、原文「師吉名倍手」のところで、「吉」の字に黒丸の「校異」のしるしがついておりますね、どういう校異が書いてあるかと申しますと・・・・実はこれは、この字は全写本とも一致してる、告げる」の「告」という字である。これを岩波・日本古典文学大系本では「吉」になおしてある。誰が直したのかと言うと本居宣長。普通は校異と申しますと、A写本はこれこれの字である、B写本はこうなっている、というように写本間の異同を示すものですね。ここはそうじゃない。どの写本にもない字に直してある。これは一体なにか。これは学者が自分の考えで直したのですね。高名な本居宣長先生がお直しになった。これが採用されている。

 「原文は直さない」というわたしの方針をハッキリ申しましたのでね、その方針で読んでみよう。それで読んだわたしの理解を申させていただきます。ここには当然「告名倍手(つげなへて)」あるいは告名をひっくりかえして読めば「名をのべて」となります。しかし告名(のりな)というのは熟語になっている・・・・現在の「名乗り」のことですね・・・・この例がありますので「告名(のりな)経て」がよいと思います。名を名乗るというのは万葉では重要なテーマになっている。恋をするときに、名を聞かせてくださいとか、いやです告げたくありませんとか、いっぱいある。この告名(のりな)と理解しましてね、「告名(のりな)経て」と理解しております。そうすると意味は「わたしは自分の名前を名のりが済んで、ここにこうしております」ということですね。「吾許背歯」のところは「われ乞はせば」こういう意味ですね。背中の背は「セ」と読めますわね。西本願寺本には「者」字が(吾許者背歯)とありますが、この写本も調べましたが、これは読み注なんですね。別の本とはいえない。で、「われ乞はせば」、女性に対してお願いしている。そうすると後半部分にはへんなところはない。スーッと読めて行く。ごく自然に読めます。なぜこれでは宣長らは困ったかというと、名乗りが前半で済んでいなければならない。作者がはじめに自分の名を言っていて、はじめて話が続くわけです。次に「そらみつ大和の国」とありますね。いろいろ解釈もあっておもしろいのですが、ここは省略して、奈良県のヤマトのくにと思うのです。その次です。

 「押奈戸手」と書いてありますね。「押」という字は音は「あふ」ですね。指紋押捺(あふなつ)の「あふ」、それと奈良の「奈」で「あふな」。戸手(トデ)というのは名前としてふさわしいと思いません? 関東のあの石碑に ーー韋提という人がでてくるじゃないですか、そのほかにも万葉集じゃ「××手」という人名は結構ありますよ。戸手というのは、この時代の名前としてわたしはふさわしいと思うのです。アフナとはなにか。ナというのは那津(ナノツ)のナですからね。水へりの土地を ーー海辺でも川辺でもいいのですがーー ナといいますよね。「アフ」は「合ふ」。川が集まっている地形を「カアイ」、そこにいる神様をさすばあいに「カワチ」といいますね。「あふな」は水辺の土地が集まっている、そういう地形。こういう表現になると思うんです。

 わたしが理屈でだけいうのではない証拠には、有名な人物いや神様がいますよ。オウナムチノミコト。いろいろむづかしい字でかかれていますけれど。ムは主人公で中心、チは神様の古い呼びかたですから、ムチは主神という意味です。これは称号ですが固有名はオウナ。水辺の土地が集まっている地形ですね。いまの奈良県の吉野川のところ、吉野町にもオオナムチノミコトはちゃんと祭られていますよ。そういう地形なんですね。ついでにふれておきますと、オウナムチはオオクニヌシと同じだとされていますよね。わたしはいつも言っているんですが、AとBが実は同じだといっているのは別である証拠。例えば天照大神と大日如来が同じだといいますよね。神仏習合についても触れたいが時間がない。要するにAという神々の体系と、Bという神々の体系があって、Aの主神とBの主神をイコールで結びつけようとする言い方。対応を言うときにこういう言い方があらわれる。オウナムチと大国主が同じだというのはもともと違う証拠。大国主はもちろん出雲の神様で、オウナムチは大和の神様じゃないかとわたしはにらんでいるのですが。

 「そらみつ大和の国は」と大和の地名を出して、そこにオウナという場所がチャンとある。地形名詞ですから、それで「押奈戸手(おうなとで)」。ヤマトのオウナに居たトデと申します。異国の少女に呼び掛けていると言っちゃロマンチックすぎますが、だから歌っている場所はヤマトではない。ヤマトの外へ出て歌っている。オウナという、地名にしても姓みたいなものをもっていますから、庶民でなく豪族でしょうけどね。とにかく自分の身あかしをしている。「籠もよ、み籠もち・・・・」と、この歌われた現地があるのじゃないかとわたしは疑いをもっておりまして、ありうるんですね。たとえば、あの京都府の舞鶴の近くの籠(この)神社なんか有力候補になるのじゃないか、元伊勢と言っていますけどね。そうかと思うと、また和歌山県の吉野川下流にも籠(こ)があるんですよ。こっちかも知れん。ここならすぐご近所だから、「大和から吉野川を下ってここへやってまいりました」と、こういう話になってくるんですがね。まぁこんな決めれないものを無理に決めることはないですけどね、とにかくここに見事に名乗りをしているワケ。

 読み方の問題として、岩波本 :家吉閑名 告沙根(家きかな、のらさね)。講談社本:家吉閑 名告沙根(家きかん、名のらさね)。どちらも可能ですね。ここからは、わたしの単なる感触に過ぎませんけど、岩波の方が自然のように思う。違いは「家と名」の両方を聞くのか、まず「家」だけ聞くのかですが、いきなり「家も名も言え」というよりは、まず「家を教えて呉れませんか?」というのが聞きやすいかなと。そこから入って行った。そう言っておいて、「私の名乗りは済ませましたので、お願いでございますが、あなたの家も名も聞かせてくださいませんか」というのが、ごく自然な会話。これを宣長はまえがきによって、「雄略の歌」だという前提にあわせて読んでいったわけ。雄略天皇がこんなことを詠んでいては困りますよね。名前を「オウナトデ」なんて言っては困りますね。名乗りの点が邪魔になるので書き換えた。ここは歌のキーポイントですからね。「告」を「吉」に替えて、「師」を下側の句につけて、シキナベテと読んだ。「師」は江戸時代までは上側の句につけて読まれてきておった、それを宣長は新案特許みたいに、シキナベテと読んだ。天皇にふさわしいと。しかし、天皇にふさわしいかも知れないけど、ちょっとグロテスクだと思うんですよ。だって、そんな、菜を摘んでいる女の子に名を聞くのに、そんなに力んで、「なにをかくそう、わしは王だ。大和を支配している。名を告げよ」なんていいますか? いかにも独断的というか、人間知らず、女の子知らず、恋知らずというかね、そういうドグマチックな王者にみえておった。やっぱりヘンだ。よい歌じゃない。それを昔はそうだったなどと説明を聞かされて納得させられていた。

 恋人に名前を聞くのはたいへん自然な動作です。名前を聞かれたときは恥ずかしくて、そして嬉しいじゃないですか。そしてそれなのに、さきに「わししか王者はおらん」などというのはヘンだ。これは、まえがき、あとがきに合せて読んだからだ。わたしの目から見ますと、ベッドの長さに合せて人間の手足を斬るのに等しい。そのやり方なんですね。わたしにはやはり人間の方が大切であると思う。それで、わたしは徹底的に原文どおりに読んだら、自然な恋の歌になった。それならベッドの方を、「雄略の歌だ」という方を棄却しなければならない。これが結論です。この歌の作者を雄略としたらおかしいですよ。なぜか。雄略の歌がこの『万葉集』編纂のときまで伝わっていたのなら、雄略から舒明の間の歌は伝わらなかったのか? その間にも天皇はたくさんいたじゃないですか。疑問をだれでも持ちますよね。その間の天皇は歌をつくらなかったのか? 歌ったけど伝わらなかった? そんなこと信じられますか? 庶民の歌ならともかく、天皇ともあろうひとの歌を忘れるなんて、わたしには考えられない。これが資料批判の出発点です。それなのに、『万葉集』の詞書をそのまま信じて、「雄略の時代は画期的な時代だった」などと歴史学の史料にまで使っているのを見て、わたしはアレアレと思っていたのでございます。これが第一の歌でございます。まぁ、もと歌は、雄略時代の歌だった可能性は高いんじゃないかと思いますが。

 第二歌 舒明天皇の国見の歌。これも有名な歌ですが、舒明天皇歌とされるもの。天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまう時の御製歌。「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ちたつ 海原は鴎(かまめ)立ちたつ うまし国そ あきづ島 大和の国は」(原文 天皇登香具山望国之時御製歌 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 国見乎為者 国原波煙立龍 海原波加萬目立多津 柯怜国曽 蜻島 八間跡能国者)。

 これは昨年末にも講演したので、結論のみを簡略に申し上げて、その後の発展したテーマに絞りたいと思いますが、この歌については、これまでも懇親会などのたびにご質問が出ていました。オカシイ歌だと。大和で海が見えるか?と。健全な常識をもった人ならだれでもそう思いますよね。わたしはそのたびに「よく勉強してみます」と、苦しい返事をしてきました。関西へ帰ってきたおかげで、現地へ足を運んだのですが、大和の香具山は山の高さが、ふもとから百メートルたらず程度。登ったのは雨の後の日で、滑らぬように用心しながら登っても十五分くらいだった。晴れていれば十分も掛からないだろう。海というのは「ハニヤスの池」のことかとされるが、そのハニヤスの池というのが山頂から見えないんです。樹木を払ったとしても見えるかどうか。こんな場合にいつも持出されるのは「詩人の空想力」で、そんな解説がされていますが、伝承地「ハニヤスの池」というのは、この講演会場の二倍か三倍くらいの小さい溜池なんです。これを海原というか?

 ほかに、わたしが、歌自身を精密に理解する立場からは、これはダメだと思った点があります。それは、まず、「とりよろふ」ということば。学者の注釈はいろいろありましたが、結局「目立っている」というほめ言葉。ところが澤潟久孝さんの本から、写真を引用しましたが、天の香具山は、いわゆる大和三山の中でいちばんきわだっていないじゃないですか。畝傍山、耳成山はそれなりに目立っていますが、香具山はわかりにくい。わたしも比較できる写真を撮ろうといろいろ苦労しましたが、香具山は目立たなくてうまく撮れなかった。それを「大和には 群山あれど とりよろふ」とは、これはダメですよ。だからここの山のことではないなと思わざるを得なかった。では、どこか? 歌の中にヒントがある。最後に「あきづ島、ヤマトの国は」とある、この表記がおかしい。まず最初の「山常には」。常という字は「常世とこよ」の「とこ」とも読むから、「やまと」と読めないわけではないが、『万葉集』の中に他に例がない。「常」は「つね」とも読むから山常は「やまね」なら落ち着くように思う。「ね」は日本語によくある、幹に対する根、「島根」などの「ね」。山のふもと。

 わたしの同級生には、小学校から大学までいつも「やまね」君がいましたよ。「八間跡乃国者」の「八間跡」も他に例がない。不思議な表記だが、それはあとに置いといて、かんじんの論証に向かうと、「あきづしま」はわたしの『盗まれた神話』をお読みになった方はご存知のとおりで、その中で分析しましたが、豊アキツは豊国のアキツ、大分県の国東半島には、安岐町があり、安岐川が流れている、別府湾の入り口だ、豊アキツは別府湾を指すのではと論じたことがある。反論を受けたことはない。そこで、別府湾を原点として九州島全体を、あきづ島と読んでいるのはないかと考えてきた。「国原はけぶり立ち立つ」。わたしは教師時代に仁徳天皇が「民のカマド」から立つ煙を見たという話を引いて生徒に教えたが、よく見ると「民のカマド」など、この歌のどこにもでてこない。カモメは飼われているわけじゃない、自然現象だから、同じく自然現象として国土に煙が立つと見るべきではないか。この方が「民のカマド」より自然なんですよね。変な記憶ですが、青年教師時代、長野県松本市の浅間温泉に下宿していた。朝、出勤で坂を降りて行くと温泉のお湯を流しているミゾがある。そこから外気にふれて湯けむりが立っていた。なかなか風情があった。それを思い出した。浅間は小さい温泉だが、別府は温泉だらけ、湯煙だらけ。これは別府の歌ではないかと、こわごわですがね、そうなっていった。キーポイントは「天のカグヤマ」。実は、倭名抄では、ここに海部(アマベ)郡がある。現在は南海部郡はずいぶん広いが、北海部郡は別府湾の南端に非常に小さく残っている。これはおそらく別府とか大分といった都市部に切り取られて、海部(アマベ)郡が小さく押込められた姿を示していると思うんです。それでカグヤマですが、地図を見て頂きますと、鶴見岳が海から見て別府市のすぐ後に聳えている。ここへ行った。火男火女(ほのおほのめ)神社があった。社は山の上下に二つあるが、どちらも「ホノカグツチの神」を祭る。「ホノ」はもちろん火山を、チはテナヅチ・アシナヅチなどの神様を示すことばで、「ツ」は「津」だから「ツチ」は港の神、固有名詞部分は「カグ」なんですね。近くに神楽女湖(かぐらめこ)がありましてね、すばらしく神秘的な湖。晴れた日に行かれた方は、光景は生涯忘れられないものになりますよ、観光ルートにならないことを祈ってますがね。ここも「ラ」はよくある接尾語で、固有名詞は「カグ」。だから鶴見岳が「アマノガクヤマ」であった。

 さて、もう一歩すすめて申しますと、国見という地名はないかなと思って、これを探そうとした。「別府市誌」を図書館で取り寄せて貰って調べると、中に「字(あざ)地名表」がついてる。このなかに、なんと「登立のぼりたち」が二つもあってびっくりしました。これは見てみなくっちゃと関西汽船で別府へ再度行きました。実際は「のぼりたて」と読むのが正しいのですが、天間(あまま)区に登立がある。もうひとつは別府駅に近い、すぐ南隣の浜脇区にある。両方行ってみた。天間区の登立は崖にはなっていて、あたりは見渡せるが、そこからは海が見えない。浜脇区の登立、ここは海側から登って行ったドンツキにあたる場所で、高崎山の駐車場に近く、ここからは海が良く見える。カモメさんはその時は見えなかったが、普段は良く飛んでいるそうです。かもめは何でも食べる雑食性の渡り鳥で、冬に多い。アメリカン・フードなんか大好きで、子供がポテトチップスなんかを撒いてやると、ワーッと寄ってきて、そのあたりをわがもの顔に歩いているそうで、子供が泣き出したりして、むしろ鳥害 ーーこんなことばは使われませんでしたがーー が心配されている。さらにオマケつきですが、鶴見岳に近い、奥まった温泉が多い地区に、のきなみ「原」の字がつく「××原」という地名が多い。「国原は・・・・」というのも関係がありそう。ここまで土地カンがあるとは予想しませんでした。わたしは、この歌はまちがいなく鶴見岳で作られた歌だと考えます。時代は舒明時代かも知れないが、舒明歌とされて、それを長い間信じてきたというこわい話だった。

 もう一つの、第二十八番の歌 天皇御製の歌。「春過ぎて、夏来たるらし、白妙の衣乾したり、天の香具山」(原文 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香具來山)。持統天皇の歌として有名ですね。万葉集の好きな方が代表として挙げられる歌だと思うんです。ところが、この歌もおかしいじゃないかという説は、いっぱいあった。わたしだけじゃなくて、学者の注釈書に出てくる。なぜ問題か? 地図を見ていただきますと、藤原宮があって、一・五キロのところに香具山がある。持統天皇が藤原宮で作ったとすると、藤原宮から眺めて香具山に衣が干してあっても「見えん」(笑)。単純なことで困っている。わたしは水野さんたちと行ったのだが、藤原宮跡から眺めて、小さく白っぽく見えるものがあるかないか ーーそのときは、なんともいえませんなあーー という感じ。いくつも説が出た。山ではなくて、山の方向のもっと手前の家に干してあったのだろうという説もあった。もうひとつの解釈は、持統天皇に散歩してもらうんです(笑)。これなら行ける。また一枚や二枚じゃなくて軒並にズラーッと干してある? それなら見えるでしょうね ーーこういう説もあった。

 なんともいえませんなあで、そのときは帰ったが、富本銭問題で再度現地を訪問した。奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部のすぐ前に、天の香具山案内所というのがあった。もとJR職員で、ボランティアの方がやっておられる無料相談所。ここでいまの問題を聞いてみた。そしたら、言われるには「その問題を私も調べてみました。特に最近意識したのは、中国の学者から質問の手紙が来たからで、その方は日本研究のかたで、飛鳥へ来られて、いろいろ調べて資料を集めて帰られたぐらいだから、しっかり返事しなけりゃと思って、シーツを二枚張って実験した。藤原宮から観察して、見えることは見えるが非常に小さくて、シーツと認識できない。だからあの歌は、もっと手前のほうに干されていたものを見たのだと思うと、中国へ返事した」と。それを聞いてわたしたちだけじゃなくて、そんなことを考えたひともいたんだなあと思った。

 NHKテレビでも実験したことがあって、見えないという結論になったと、森さんという方の本に出てくるので、ご覧になったかたもあるかも知れません。で、よく考えてみると、もっと近くに乾してあったとは、「この歌自身」からは出てこない。現地を立てるなら、こうでも解釈すれば行けるという説。しかしそれなら、もっとそれらしい歌を ーー散歩していたのなら散歩していたらしくーー 作れるじゃないですか? 「われ、いでゆけば、衣ありて」 ーーとかね(笑)。

 また軒並説については、この歌は「まだ春だ春だと思っていたら、もう夏になっているんだよ」という春のおわりの歌だから、従って「夏もさかり」で軒並干してあるという歌じゃない。どのようにも解釈できるのを「動く解釈」という。芭蕉が動く解釈ができる句はダメなんだ」と批評したのは有名ですが、この言葉を借りれば「動く解釈」。この歌も別府での歌じゃないかという解釈は一度は考えて、無理にそうすることもないと、ペケにしたが、あたらめて別府を考え直すことにした。

 鶴見岳のロープウェイ乗り場近くに火男火売神社がある。火男火売神社は平地と山中の二ケ所あって、江戸時代には本家争いがあったということでしたが、この平地にある町に近い方の神社を考えて見ても、海から一キロのところにある。一キロでもダメなんですね、やっぱりさっきのような問題にひっかかる。考えて、鶴見岳の「中で」作った歌じゃないかと思い当った。鶴見岳にむかしも神社があったことがわかる。鶴見岳は貞観六年に爆発を起こした記録がある。『三代実録』によると、太宰府からの報告として、火山爆発の様子が詳しく報告されている。三日三晩岩が飛び散って、硫黄が流れ出して、何千何万の魚が死んだと、リアルに描写され、そのあとで近畿天皇家が、平安時代ですから、神様をなだめるためでしょう、ふたつあった火男神社、火女神社にそれぞれ位を授けている。山顛にふたつの神社があったと書かれている。爆発したのは山頂で、山頂と山顛は使い分けられている。山顛は山頂ではないが、平地ではなくて、尾根なんかをいうのでしょう。爆発以前に山の中に神社があったことは疑いないことです。ですから山へ入っていくときは、現代のような、いきなり登山でなく、神社へ向かうのだと思う。そうすると宮司さん、巫女さんが住んでいます。いまはロープウェイ乗り場に近いから家が一杯あります。昔はそんなに一杯はなかっただろうが、昔も神社はあって、人は住んでいた。住んでいたら衣を干すじゃないですか。「天の香具山に登ったら、白い衣が乾してあった、ああ夏が来たんだなあ」といういう歌だった。

 わたしの好きな歌に、西行の「年たけて また 越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山」というのがあります。西行は若い頃武士であった。野心に燃えた武士だった。そのとき通ったのでしょうかね。坊さんになって ーー世の中に絶望したのでしょうかねーー 老年にまた同じ場所を通った。 ーー世の中はすっかり変ってしまった、これも運命だったーー 。わたしはこの歌を思い出した。小夜の中山というのは東海道の掛川市ですね。当然山の中で作っているわけ。「衣乾したり天の香具山」も山の中で作った歌です。歌自身からすればそう考えるのが当然なわけですよね。奈良の香具山ではそうはゆかない。土地では神聖な山、雨乞いの山で、衣なんか乾せないと現地の方がさかんにいわれる。そう言われればそうかなと思う。鶴見岳なら、千三百メートルの山ですから、神社があって、住んでいる宮司さん、巫女さんの衣を干してあっておかしくない。だからここならピッタリ。持統天皇の歌にしちゃったからおかしかった。そういうことで、七転八倒、長いこと苦労したけど、多くの方のご協力でやっと結論を得た。「万葉集おして知るべし」ということで、終らせていただきます。(拍手)

 日時:一九九九年四月二十五日 場所:日本教育会館一ツ橋ホール(東京都千代田区)






(私論.私見)