皇紀2600年&日本国体&建国記念日考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇紀2600年問題、日本国体問題を愚考することにする。 2006.12.3日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№972 2011年 8月17日 |
【皇紀2600年考その1】 「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考」を愚考する。その始まりは「皇紀2600年問題」となる。これが新邪馬台国論とどう関係するのか。 戦前の1940(昭和15)年2月11日、日本政府は、皇紀2600年祝祭行事を盛大に挙行した。ここでは、これに悶着つけようというのではない。ひたすら初代天皇即位年月日の真実を探ろうとしている。余りにも史実と離れ過ぎていると思うからである。 皇紀2600年とは、日本神話上の天孫族による東征に基づく大和平定後の橿原宮での初代天皇即位(践祚)記念を云う。この栄誉を担ったのが神武天皇であり、御年52歳、神武天皇御代は76年、127歳にして崩御云々とされている。ちなみに神武天皇の即位前の名は古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」。「かむやまといわれひこのみこと」と訓読みされる。神武天皇は漢風諡号(しごう)であり「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)とも称されている。 神武天皇即位年月日につき、日本書紀は「辛酉年春正月庚辰朔」と記している。これを西暦で計算すると紀元前660年2月11日になる。れんだいこはこれに疑問を持つ。この際、神武天皇実在、非実在は問わない。初代天皇の即位日をのみ問題にしようとしている。 記紀神話によると初代天皇の即位は大和平定後のことである。「大和平定後」がなぜ紀元前660年2月11日になるのか、これが解せない。そこで、「初代天皇の即位日=紀元前660年2月11日」の真否を確かめたい。繰り返すが、これは神武の問題ではない。大和平定後の初代天皇の即位日の問題である。初代天皇の即位日を日本書紀が何故に「紀元前660年2月」になるように「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位日」と記したのかを問おうとしている。この辺りの日本書紀の記述はどこまでが真実でどこからが詐術なのか、これを問いたい。 思うに記紀神話の説く「大和平定後の初代天皇の即位」は史実であろう。故に、ここは問わない。問うのは、「大和平定後の初代天皇の即位」の年月日である。日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」は明らかにオカシイ。なぜなら、中国史書各書が紀元3世紀に所在したと記している邪馬台国の取り扱いができなくなるからである。「辛酉年春正月庚辰朔」は、そういう難題を孕(はら)んでいる。このことを、邪馬台国研究者はもっと大々的に指摘すべきではなかろうか。畿内大和説の側からすれば無論のこと、九州説、その他説でも事態は変わらない。なぜなら、九州説、その他説であろうとも、邪馬台国後の大和王朝建国史を前提としているからである。大和王朝建国後の邪馬台国論をぶつ者は一人として居るまい。 即ち、日本古代史の流れを検証すれば、「大和平定後の初代天皇の即位日」は必ずや邪馬台国後の即位でなければ辻褄が合わない。然るに、その邪馬台国が紀元3世紀に確かめられると云うのに、日本書紀は何故に邪馬台国史よりはるか900年も遡(さかのぼ)る昔の「紀元前660年2月11日」になるような「辛酉年春正月」に神武初代天皇の即位を記述したのだろうか、ここが訝られねばならない。 考えられることは、「辛酉年春正月即位」の読み解きにおいて、戦前の皇国史観系政府及び歴史学会が間違っていたと云うことである。これを仮に「読み解き間違い説」と命名する。それならば今からでも改めて計算し直せば良い。然るべき論拠を添えて「新皇紀2600年」を打ち出せば良い。戦後になっても特段に動きがないと云うことは興味がない為だけではなく、読み解きが間違いなく「紀元前660年2月」になる故ではなかろうか。この場合、日本書紀が何故に900年にも及ぶ時差を記したのかを問わねばなるまい。この議論は尽くされているのだろうか。これを誰かが解明せねばならない。 考えられることはもう一つ、魏志倭人伝を代表とする中国史書各書が記す邪馬台国が捏造記載であった可能性である。こうなると、邪馬台国について記す中国史書全冊を偽書とせねばならないことになる。これを仮に「邪馬台国記述偽書説」と命名する。しかしながら、邪馬台国に関する下りの中国史書全冊を偽書とするならば中国側も黙ってはおるまい。中国歴代史家の責任問題に発展し、場合によっては日中間の国際紛争になりかねまい。現代日本の史家にそこまで主張する度胸があるだろうか。偽書説が当っている場合なら許されても、暴論ともなると謝罪が要求されることになろう。 これをどう読むべきかが問われている。れんだいこは第三説を唱えたい。第三説とは、「辛酉年春正月庚辰朔」が歴史考証的に「紀元前660年2月11日」になるならば記述間違いであるとして、初代天皇の即位日を邪馬台国平定後の何日かに訂正せねばならないとする説である。これを仮に「日本書紀記述詐欺説」と命名する。詐欺とするのは、日本書紀の記述「辛酉年春正月庚辰朔」に意図的故意の詐術を認めるからである。 これを古事記で確認したいところである。古事記では、初代天皇の即位日をどう記述しているのだろうか。これを知りたいが分からない。推定として、古事記は日本書紀が記しているような即位日を記していないことが考えられる。もし記しているのなら、日本書紀ではこう古事記ではこうとする併記が常用なところ、日本書紀の記述する即位日しか知らされないからである。 神武天皇の即位前の名前につき、古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」と記し、その履歴を記している。つまり、古事記は、神武天皇について記しているにも拘わらず、即位日の記載を避けているのではなかろうかと思われる。れんだいこには断言する知識がないので、その通りとか、そうではないかくかくしかじかと記述しているとする、どなたからかのレクチャーを頼みたい。 2011.8.17日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№973 2011年 8月17日 |
【皇紀2600年考その2】 この問題になぜ拘るのか。それは、記紀が「大和平定後の初代天皇の即位日」を意図的故意に隠蔽ないしは撹乱していると思うからである。古事記が敢えて沈黙したところを日本書紀が敢えて蛮勇を振って「紀元前660年2月」になるような「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位」と詐術記述したのではないかと思うからである。「大和平定経緯」に知られたくない事情、それを記し難い事情があったと思うしかない。 衆知の通り、日本神話に従えば、初代天皇神武の即位は出雲王朝の国譲り後である。その後に天孫降臨している。続いて天孫族の東征が記されている。艱難辛苦の末に大和を平定し、その後の神武天皇即位と云う流れになっている。この順序に従えば、神武天皇即位日「辛酉年春正月=紀元前660年2月11日」とした場合、天孫軍の東征はそれ以前になる。天孫降臨は更にそれ以前、出雲王朝の国譲りは更にそれ以前と云うことになる。結果的に、出雲王朝の国譲りがはるか昔のことになる。 古事記は神武天皇以下33代の推古天皇(在位590―620年代)まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690年代)までの歴代天皇の御代の事蹟を年次毎に記述している。他方、魏志倭人伝を始めとする中国史書各書には厳然と紀元3世紀の倭国日本に於ける邪馬台国連合国を主とする当時の倭国の克明な記録を記している。 然るに、記紀は揃いも揃って紀元3世紀頃の倭国に存在していた筈の邪馬台国について言及していない。僅かに片言隻句を記している個所があるに過ぎない。それは記紀だけではない。記紀派が偽書と断ずる古史古伝各書に於いてさえ記されていない。まことに不思議なことと云わざるを得ない。ここに歴史の闇があると思う。 この闇を解明したいと思う。時の政府が、1940(昭和15)年に紀元二千六百年記念行事を挙行したのは政治の論理である故に敢えて責任を問わない。しかし史家の論理は政治の論理に屈してはならない。史家が、史家の論理を持たぬまま今日まで経緯しているのは不正、不見識なのではなかろうかとして詰(なじ)りたい。 れんだいこは、記紀が邪馬台国を記述しなかった不正、このことに関連すると推理しているが、初代天皇神武の即位日を古事記が記さず、日本書紀は記したものの邪馬台国時代よりはるか900年も昔のことにしている不正を見逃さない。この背後には、「大和平定事情」記述がウソであると云うことを裏筆法で示唆していると見る。 こうなると逆に「大和平定事情」を解き明かしたくなるのが人情ではなかろうか。そう云う意味で「大和平定後の初代天皇の即位日」を探索することは後世の史家の責務だと思う。初代天皇の即位年及び即位経緯全体を史実的に再検証せねばならない必要を感じる。 この言は、皇国史観を否定せんが為に云っているのではない。よしんば皇国史観を信奉するにせよ歴史の検証に耐える史観で構築せねばなるまいと申し立てている。戦前式皇国史観は、記紀が裏筆法で書いているところまで鵜呑みにして天孫族の聖戦を美化したイデオロギー的な歴史観であり、盲信狂気理論と断定する。史家足る者は、そういう戦前式皇国史観批判で事足れりとするのではなく、これを突き抜けて本来の皇国史観即ち国體論に向かうべしであったと思う。もとへ。これが云いたいのではない。れんだいこの真意は、記紀が語り得なかった、否意図的故意に隠蔽した「大和平定事情」をこそ解明したいと思っている。 日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」とする神武天皇即位日は意図的故意の詐術記述である。故に、史実に基づいて初代天皇の即位年及び即位経緯を解明したい。なぜなら、これが邪馬台国興亡史に深く関係していると看做すからである。思えば、日本古代の政治史上の最大政変は国譲りであった。次が邪馬台国興亡史ではなかろうか。次に壬申の乱なのではなかろうか。この辺りを史実に基づいて解明するのが日本古代史の要諦であり、史家は挑まねばならないのではなかろうか。 れんだいこの邪馬台国新論は、実はこの皇紀2600年説の不実を暴くところから始まる。初代天皇即位が邪馬台国興亡史、大和王朝建国史に大いに関係していると思うからである。日本書紀が記すような邪馬台国時代より900年も昔ではなく邪馬台国滅亡後の出来事と推理するからである。これを解き明かすのがもう一つの邪馬台国論になるべきではなかろうか。 2011.8.17日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評534 | れんだいこ | 2009/02/11 |
【建国記念日考】 今日は建国記念の日であった。これを機会に建国記念日の歴史を確認しておく。 日本書紀は、神武天皇が、辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てたと記している。明治維新政府は、この記述を、カムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇が即位した日と読み取り、日本国創建日として称え祝日とすることにした。但し、時の明治政府は、旧正月を日本国創建日と定め祀ることを良しとしなかった。なぜなら、和暦から西欧暦への転換を押し進めており、旧正月を祝うのではなく西洋式の正月を祝わせようとしていたからである。 ちなみに、日本が西暦を導入したのは、1872(明治5)年で、この年の12月2日で太陰太陽暦法(月の満ち欠けを基準にした暦)の天保暦を打ち切り、翌日を1873(明治6)年1月1日とした。これにより、太陽暦が使われるようになった。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。 これにより、月の満ち欠けと密接に結びついていた農業や漁業などのサイクルや、七夕や十五夜などといった生活習慣がうまく対応できなくなり、旧暦が生まれることにもなった。旧暦は天保暦の計算方法を用い、実際の計算に使う数値(1太陽年など)はグレゴリオ暦に使われる値を使って計算したものを云う。つまり、旧暦とは過去に用いられた天保暦を太陽暦と折衷したカレンダーということになる。正式な暦ではないが、現在まで重宝されている。 もとへ。旧正月と日本国創建日が重なることは、西欧暦に転換させ旧正月を廃止せんとする政府の意向に添わなかった。そこで、水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正氏に命じて、日本書紀の期日を西欧暦に当てはめ換算させた。これにより、「神武天皇の辛酉の年の春正月庚辰朔」は「BC660.2.11日」とされた。 1872(明治5)年、2.11日を紀元節祝日とする法が制定された。これにより、紀元節祝日には全国の神社で紀元節祭とよばれる祭事が行われ、庶民の間でも建国祭として祭典が行われた。 1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。 これによれば、紀元節の創設そのものが、明治維新政府の西欧暦導入に象徴されるような欧化主義、その奥に潜んでいる国際金融資本のシナリオに沿って創設されたものに過ぎない、少なくとも明治維新政府の目指す天皇制国家主義が国際金融資本の植民地主義のシナリオ下に於いて機能させられていたという政治性が見て取れよう。ここまで窺うのは窺い過ぎだろうか。 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止された。これに伴い日本国憲法の精神にそぐわない、紀元節を認めることで天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか、というGHQの意向を汲んで紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。 ところが、1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、1957(昭和32)).2.13日、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として建国記念日制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が、建国記念日の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」との理由により反対したため廃案となった。以降9回の議案提出、廃案を繰り返す。この間、テレビ局が行ったアンケート調査により、全国民の80%以上の人が建国を記念する日を望んでいるということがわかつた。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協した。 1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加した。同6.25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」第2条で、建国記念の日の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定している。 但しこの時、同附則3項は、「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定め、日附の確定を審議に委ねた。 内閣は「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定め、建国記念日審議会を発足させた。議論の末、委員9名中7名の賛成により戦前の紀元節と同日の2.11日とする答申を纏め、同年12.8日に提出され、翌日政令が公布された。これにより、1967(昭和42).2.11日より施行されることになった。 概略以上のような流れが確認できる。れんだいことしては、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。もっとも「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと」のは元一日にならない。それより以前の国の成り立ちをも視野に入れて、この国及び民族の過ぎ越しこの方、行く末を考える祝日としたい。以上コメントしておく。 2009.2.11日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1103 投稿者:れんだいこ投稿日:2013年 2月11日 |
2013.2.11建国記念日に思う 2.11日は世間では建国記念日である。れんだいこにはサイト開設記念日である。開設したのは2000(平成12)年であるので、かれこれ13年になる。あの頃より政治情勢、生活状態が良くなったのだろうかと問うと否定的に答えざるをえない。これは寂しいことである。れんだいこの認識は進化したが、この後も進化し続けていくであろうが、それが世界に反映されない、そのことにもどかしさがある。しかし何事もあきらめてはいけない。生ある意味を歴史に刻み続け子孫に遺し伝えればならないと改めて思う。 政治情勢的には、この十数年間で見るべきものは殆どない。わずかに小沢党が生活党と云う種を残し生育中と云うことぐらいだろうか。後は全体にますます右寄り、と云うか国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き色を強め続けている。これは与野党問わない。与党は表からの御用聞き、野党は裏からの御用聞きの政治集団に過ぎない。こういう日本に未来はない。ただあきらめるのは早い。この御用聞き集団が纏めて歴史の屑かごに入れられる日が来る。これも歴史の法理である。そう思う故に、さほど気にならない。 やはり問題は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き政治を撃つ側の政治能力だろう。個々には優れた狙撃手が登場しつつある。問題は、狙撃手の共同戦線運動の構築にあるのではなかろうか。狙撃手は狙撃手に止まってはいけないとも思う。目指すべきは政権政治であり、狙撃手が撃とうとした政治の反対の信に足りる政治施策の実現に向かわねばならない。つまり、批判の刃は責任の餅臼に向かわねばならない。れんだいこの目の黒いうちに可能になるかどうか分からないが絶えず目指し続けねばならない、と思う。 狙撃手の共同戦線運動の構築について。狙撃手にはそれぞれ得手不得手がある。それぞれが得手の部分で良き狙撃手となり、不得手の部分を他の狙撃手の能力で補完せねばならない。これが共同戦線運動の意味である。自由、自主、自律の規約を旨として極力統制色を薄めたもので構築しなければならない。新しい政治は新しい質のもので担われなければならないと信ずるからである。そういう規約論、組織論、運動論を構築せねばならない。これまでのように言葉に酔うだけの党中央統制型の運動を排さねばならない。そろそろ、せめてこれぐらいの確認をしても良いのではなかろうか。 さて、建国記念日に一言申し上げておく。建国記念日とは、2009.2.11日付けれんだいこのカンテラ時評534「建国記念日考」で言及している。これを手短かに確認する。 (kodaishi/kodaishico/koki2600nenco.html) 建国記念日とは、日本書紀記述の「神武天皇が辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てた」を由来としている。明治政府は、この記述をカムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇即位日と読み取り、この日を日本国創建日として称え祝日とすることにした。既に西欧暦である太陽暦を採用していたので、これを西欧暦で換算させたところ「西欧暦紀元前660.2.11日」とされた。これにより1872(明治5)年、2.11日、紀元節祝日法が制定され、1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年とする「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。これが建国記念日の発祥である。 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止され、これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、廃案の繰り返し後の1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加して復活した。れんだいこは、「建国記念の日」を設けることに反対はしない。問題は、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。 ところで興味深いことがある。建国記念日を「西欧暦紀元前660.2.11日」としていることについて共に悩みたい。これを理解するには実は相当な史観が要求される。と云うのは、建国記念日は邪馬台国滅亡後の紀元3世紀頃に設定しなければ史実に合わない。何故に紀元前7世紀に設定したのかが問われねばならない。紀元前7世紀の日本がどういう国体状況だったのかと云うと、恐らく日本列島各地で部族国家の形成が進みつつある頃であり大和王朝的統一王朝が出現するような時期ではない。にも拘わらず大和王朝建国をこの時期に求めたのはどういう意味なのか。「辛酉の年の春正月庚辰朔」から類推すれば「西欧暦紀元前660.2.11日」となったとの説明は苦し過ぎる。 れんだいこは、「辛酉の年の春正月庚辰朔=西欧暦紀元前660.2.11日」が日本書紀独特の詐術記述に合わせての単なる辻褄合わせだった可能性と、日本建国の何らかの史実と対応している可能性の二通りを考えている。辻褄合わせ説には意味がないので思考しない。日本建国の何らかの史実対応説に思いを馳せたい。そう思えば2.11建国記念日はなかなか味わい深い。そういうことも含めて、建国記念の日を、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。れんだいこのサイト開設記念日をこの日に設けたことの偶然的意味を感謝したい。 |
れんだいこのカンテラ時評№974 れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日 |
【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その1】 「皇紀2600年考」で、初代天皇たる神武天皇即位が邪馬台国の時代よりも900年前の出来事とするのは意図的故意の詐欺記述であることを指摘した。日本書紀は何故にそういう詐欺記述をしたのか、これを詮索する必要がある。狙いは、神武天皇即位を邪馬台国時代よりもはるか昔の話にすることにより、出雲王朝の国譲り、それより始まる大国主の命と邪馬台国との深い関係を隠す為であった。その隠蔽工作フィクションであった。れんだいこはかく解する。 ならば、初代天皇即位はいつごろの話なのか、これを推理したい。出雲王朝の国譲り、神武天皇の東征譚、邪馬台国史は案外歴史的に近い出来事だったのではないかと見立てている。場合によっては、出雲王朝の国譲り後に邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立があり、国譲りの主役である大国主の命(又はその次代の後継者)がこれに関わっているのではないかと推理している。 即ち、国譲り後の大国主の命の履歴と邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立は同時代的な史実だったのではないかと思っている。邪馬台国女王卑弥呼の御代は60年余続き、晩年に天孫族の総攻撃を受け、卑弥呼はその激動のさ中に死去する。邪馬台国連合は後継ぎに13歳の台与を立て懸命に巻き返しを図ったが善戦空しく滅亡させられた。代わりに登場したのが大和王朝である。こう構図したい。 邪馬台国史は、出雲王朝の国譲りから大和王朝の建国までの間の架け橋の如くに介在している貴重な国史なのではなかろうか。記紀神話は、この史実を不自然過ぎる形で隠蔽しているのではなかろうか。これを論証したいが、人をして得心させる論証を為すには古代史文献に通暁する必要があり、れんだいこの能力と労力では今更無理である。故に大まかな見通しだけ綴っておきたい。ここでは断片的なことをのみ記し確認しておく。邪馬台国論については「邪馬台国の研究」、出雲王朝論については「出雲王朝神話考」に記している。ここでは、国譲り前後の大国主の命の大和との関係を確認しておく。 大国主の命の履歴は「出雲王朝神話考」の「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」と「大国主の命考」に記している。それによると、大国主の命の出雲王朝経営に有力な助っ人としてスクナヒコナの命が登場していたが、「或る日、スクナヒコナの神は、淡路島でアワの茎に乗って遊んでいたところ、茎のしなりにはじかれ常世国に飛んでいってしまった」。大国主の命が嘆いていたところ、概要「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神が登場し、大国主の命は以降、大トシの神と共に国土経営して行った」(古事記)とある。これが、れんだいこの知る限り、大国主の命と大和の関わりの初見である。 日本書紀には、国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。この記述の意義は、国譲り直前時点において大国主の命と三輪山が繫がっていることを伝えていることにある。出雲王朝と大和―三輪山の深い歴史的繋がりを見てとることができる。 古事記は、大国主の命が大和の国に向ったことを記している。国譲り前の履歴なのか後の履歴なのかは分からないが国譲り後のことではないかと思われる。とすれば、国譲り譚で、「大国主の命は国譲り後、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びた」としているのは半面の史実であり、実際には出雲王朝の政権を明け渡した後、大和へ向かったと解するべきではなかろうか。これは事代主の命も然りであり、国譲り後、「拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」とされているが、実際には大和へ向かっている形跡が認められる。 この時、大国主の命と正妻のスセリ姫が永遠の別れになることを覚悟してと思われる情熱的な惜別恋慕の歌を交わしている。これを仮に「大国主の命とスセリ姫のぬば玉歌」(略称「ぬば玉歌」)と命名する。 「ヌナカワ姫の元から戻ってきた大国主の命に対して、正妻のスセリ姫の嫉妬が激しかった」なる言を添えている解説があるが余計であろう。歌意の解説は「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記し、ここでは省く。「ぬば玉歌」逸話の重要性は、大国主が大和の国に向ったことを示唆していることに歴史的意味がある。 ところで、「ぬば玉歌」で、大国主の命が大和入りしたことが判明するが、大和入り後の大国主の命の足跡を記すものが奇妙なほど何もない。関連として大和三輪の大神神社を始めとする数社で祭神として祀られていることが判明するぐらいのものである。これを不自然と思うのは、れんだいこだけだろうか。ちなみに、この頃の大和は葦原中国と呼ばれていたようである。思うに豊葦原の瑞穂の国が倭国全体、出雲―大和が葦原中国と呼ばれていたようである。 2011.8.20日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№975 れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日 |
【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2】 大和へ向かった後の大国主の命の履歴を確認したいが史書には全く出てこない。これは記紀然り、古史古伝然りである。代わりにニギハヤヒ(速日)の命が登場する。古事記では邇芸速日命、日本書紀では饒速日命、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ、あまのほあかり、くしたま、にぎはやひのみこと)、他に天火明櫛玉饒速日命、大物主とも記されている。このニギハヤヒの命の素性を廻って天孫系、出雲系、その他系の三説ある。 先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒの尊が、「天磐船に乗り、天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと)と名づく」、「河内国の河上のいかるが峯(みね)に天降りまし」とある。これを仮に「ニギハヤヒの命のいかるが峯降臨譚」と命名する。その後、大倭国(やまとのくに)の生駒山付近の鳥見(とみ)の白辻山(白庭山)に居を構えている。 興味深いことは、ここに「日本」(ひのもと)の命名が登場することである。これによると、日本と云う国名は天孫系を是とする皇国史観によって定まったのではなく、それ以前のニギハヤヒの尊の逸話に出てくる国名をそのまま踏襲していることになる。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も然りと考えられる節がある。「日の丸、君が代論」の際には、こういうところも押さえておきたいと思う。 もとへ。ニギハヤヒの尊は、土地の豪族の盟主であった鳥見の豪族・ナガスネ彦(那賀須泥毘古、長髄彦、トミビコとも云う)と和議を結び、ナガスネ彦の妹のミカシギヤ姫(三炊屋媛)を娶り、戦わずして配下におさめている。政略結婚による閨閥的同盟化は大国主の命の得意とする政治手法であり、ここでも確認できる。ミカシギヤ姫は嫁してトミヤス姫(登美夜須毘売)と名乗った。先代旧事本紀には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃とし、天上に天香語山命(あめかごやまのみこと)を生む」と記している。二人の間に生まれたのがウマシマジの命(宇摩志麻遅命)であり、物部連、穂積臣、采女臣の祖とされている。 ニギハヤヒの命は、その後、奈良盆地の東端の三輪山(当時は三諸山)麓に本拠を移して日本(ひのもと)王朝を創始する。記紀は記さず代わりに古史古伝の先代旧事本紀(旧事紀)、「秀真伝」(ほつまつたえ)その他がこの経緯を記しており、これが大和国の始まりとしている。 但し、この時代をBC101~102年頃のこととして、その時の氏族や部隊の面々の名前を克明に記している。但し、天孫族、国津族の神々を混在させており難が認められる。BC80年頃、ニギハヤヒは65才前後で大和で亡くなり、「櫛玉」を追贈されて「櫛玉(櫛甕玉)饒速日尊」と尊称され三輪山の磐座に埋葬された云々と記している。この記述に信を置けば、大国主の命が国譲り後に大和へ下り邪馬台国の卑弥呼を共立したとするれんだいこの見立てとは時期が合わなくなる。この場合、れんだいこの見立ての誤りとすれば簡単なのであるが、「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」にもう少し拘りたい。 れんだいこには、ニギハヤヒの命と大国主の命が二重写しになってしようがない。ニギハヤヒの命が大国主の命その人ではないとしたら、大国主の命の直系譜の者と推定したい。ニギハヤヒの命を天孫族系に捉え、神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨とみなす説もあるが、この説は採らない。国譲り後の出雲王朝系の大国主の命その人か直系譜の者の大和降臨とみなした方が辻褄が合う。 ニギハヤヒの命が如何に正真正銘の皇統の者であったのかにつき「天孫族と国津族の王権誇示譚」が次のように記している。天孫軍と国津軍の両軍対峙し最後の決戦となった際の金鶏譚によれば、その後段に国津軍の代表たるナガスネ彦と天津軍の代表たるワケミケヌの命が、ニギハヤヒの命と東征神のどちらが正統の王朝なのか確かめる為に双方の神璽を見せ合う場面がある。 ナガスネ彦がニギハヤヒの命を正統とする証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せ、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった云々。これによると、神璽比べでは決着がつかなかった即ち双方が正真正銘の皇統の証となる神璽を持っていた即ちニギハヤヒの命が相当の人物であったことになる。 「天孫族と国津族の王権誇示譚」はニギハヤヒの命が正真正銘の皇統の者であったことを示している。古史古伝はこの逸話を記しながらも、「天孫族系にして神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨」と捉えている。れんだいこは、この捉え方を否定し、「出雲王朝系の大和降臨」として捉えたい。とすれば、これに相応しい者は大国主の命ないしはその直系譜の者としか考えられない。「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」が自然な所以である。 2011.8.18日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№976 れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日 |
【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その3】 「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」を、ニギハヤヒが葬られたと云う三輪山の縁起伝説から確認してみたい。 先代旧事本紀(旧事紀)は、ニギハヤヒ=大物主として奈良県桜井市三輪の大神神社の祭神であるとしている。且つ記紀が編纂される7世紀末頃までは天照大神が男神であったとした上で尊崇されていたこと、天照大御神を女神とするのは記紀編纂時における改竄であると断罪している。ここではこの吟味をしないが天照大神=男神説は大いに成り立つと見立てる。記紀は共に天照大神を天孫系の女神として記しているが、皇紀2600年問題に繫がる神武天皇即位年と同様、詐術している可能性がある。天照大御神は元々国津系の最高神であり、その称号を天津系が取り入れている可能性が強い。 もとへ。大神神社は、大物主大神、大己貴神、少彦名神を主祭神としている。識別すると主祭神は大物主大神であり、大己貴神、少彦名神を配祀していると捉えることができる。先に「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神」とする記述もあるので、元々は大トシの神が主祭神であり、後に大物主大神へ移行していると考えられる。大トシの神を大物主大神とする記述もあり史書間で混乱している。いずれにしても、大神神社は出雲王朝との関わりが深いことが垣間見える。 ところで、大己貴神は大国主の命の別名である。大物主大神はニギハヤヒの尊である。仮説であるが、 れんだいこは、ニギハヤヒの尊は大和へ向かった大国主の命の大和入り以降の別名ではないかと見立てている。少彦名神は、大国主の命と力を合わせて国づくりした神である。してみれば、大神神社は、出雲王朝に於いては大国主の命、その大和入り後の名のニギハヤヒの尊(大物主大神)と少彦名神を祀っていると云える。即ち、大神神社は出雲王朝の大国主の命と少彦名神を祀っていることになる。 大神神社の縁起には、イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)と「高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。古事記の崇神天皇7年の条では、大物主大神の末裔である意富多多泥古(大田田根子)譚が語られている。それによると、崇神天皇の御世に疫病が流行り人心が定まらなかった。この時、大神神社が永らく荒んでいたらしく、その崇(たた)りとの託宣が有り、大物主神の末裔である「意富多多泥古(大田田根子)」を八方手を尽して探し出し、これを祭祀主として御諸山に迎えたところ国が平安になった云々。 この逸話は、大和王朝時代に、出雲王朝―邪馬台国の御代を粗末にして来たことによる崇(たた)りが記されていること、出雲王朝―邪馬台国系の末裔を迎えることにより人心が安定したことを知らせている点で貴重である。大和王朝史の底流に出雲王朝―邪馬台国勢力の処遇を廻る暗闘があり、これを見ないと流れが見えない。 日本書紀の崇神天皇10年9月の条では、倭迹迹日百襲媛の命(古事記では夜麻登登母母曾姫の命)譚が語られている。そこで同女の「出雲系を暗示する高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。その逸話の結びに「姫は悔いて、どすんと腰を着いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなられた。姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」と記されている。「悔いて」、「どすんと腰を着いた拍子に」、「箸で陰部を突いて亡くなられた」は全て暗示的表現であるが、これを仔細に解説するのも一興であるがここでは触れない。末尾の「箸墓古墳の被葬者が倭迹迹日百襲媛の命」と記していることが貴重である。 その箸墓古墳が紀元3世紀頃に築造された古墳であることが現代考古学で判明しつつある。これらの神話譚を踏まえると、大国主の命即ち大物主大神(ニギハヤヒの命)と倭迹迹日百襲媛を結ぶ線が見えるように思われる。全て仮定ではあるが、こういう推論が可能と云うことである。 倭迹迹日百襲媛の命=卑弥呼とする説がある。倭迹迹日百襲媛が葬られたのが箸墓古墳であり、その箸墓古墳が魏志倭人伝に記す卑弥呼の墓であると云うことになれば、そういうことになる。この説がよしんば間違いであろうとも、倭迹迹日百襲媛と卑弥呼―その後継者台与が非常に近い関係であり、同じ出雲系政治圏のほぼ同時代の人物であることは、墓の年代論で推定できる。 少なくとも、ここに「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線」が見えると窺うべきではなかろうか。次に「日本の国体史を貫く出雲王朝と邪馬台国の点と線」を確認する必要があるが、ひとまず筆を置くことにする。 2011.8.20日 れんだいこ拝 |
【倭国から日本国への国名改称経緯考その1】 |
ここで日本の国体論に向かいたい。れんだいこは今、国としての日本、民族としての大和民族が溶解的危機に立ち至っていると見立てている。これを攻撃する勢力が国際ユダ邪であり、連中は思想的に最も鋭角的に対立することによると思われるが何としてでも日本を解体せしめんと策を凝らしている。そのシナリオに基づく多面的多角的な日本解体策動が発令されており、このまま行くと日本は近未来の或る日に強制終了させられる。そういうアジェンダになっていると思っている。こういう見方を陰謀論と云う。評判の悪い見方であるが、陰謀論に沿って判断すると不思議なほど辻褄が合う。これに対して、国際ユダ邪被れどもが合唱して、ならばそれを証明して論ぜよと云う。れんだいこが答えておく。こういうものは事が成る前に証明できるものではない。その前に感知して対策を練るべきものである。このことが分からん者をタワケと云う。 れんだいこは、日本の国体的危機を感知した頃より日本国体の解明をしておきたくなった。何が壊されようとしているのか、それは護るべきものなのか壊されても致し方ないものなのか、それを見極める為である。そういう思いから、「日本建国の元一日考」として既に「皇紀2600年考その1、その2」、「建国記念日考」、「2013.2.11建国記念日に思う」、「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その1、その2、その3」を発表している。ここに、新たに「日本国体考」を加え「日本建国の元一日考」の続編とする。その第1章として「倭国から日本国への国名改称経緯考」をものしておく。ここに重大な日本国体の秘密が宿されていると嗅ぎ取るからである。 中国、朝鮮の史書によれば日本の元の国名は倭国と記されている。恐らく当時の日本自身が自らの国名を「Wa」と発音呼称しており、それを中国の使者が本国に伝え、本国の史家が「倭」と宛がい、この表記が定着したものと思われる。その倭国が現在では日本と呼ばれている。日本の由来は別途論ずることにする。問題は、その倭国から日本国への転換が何時頃為され、定着したのか、倭国から日本国への転換は倭国の延長線上のものなのか別系のものなのかがはっきりしないことにある。これが5W1H手法で確認されることがなく漠然としており、れんだいこのモヤモヤが続いていた。 これにつき、斉藤忠・氏の「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎」(学研、2011.3.8日初版)が「大宝革命論」を唱え、大宝期に倭国から日本国への転換が為されたこと、倭国から日本国への転換が別系のものであったこと、この頃に日本国としての諸制度が整ったことを論述している。この見解は秀逸と思われるので受容したい。れんだいこは爾来、古代史上最大政変である出雲王朝の国譲り、邪馬台国の国譲り、その後の大和王朝史についてを原日本新日本論で確認し、壬申の乱までは辿ってきていたが、原日本と新日本の再統合による日本国始まり史については曖昧であった。今ここに「大宝革命論」を知り、この時期であったのかと知ることができた。このことを謝したい。 「大宝革命」の「大宝」とは元(年)号のことである。西暦で701年より始まり慶雲に至るまでの704年の4年間を指す。日本における元(年)号の使用は645年の大化に始まるとされている。その後、元(年)号制度が崩れており元(年)号のない天皇の御代年で表記していた。ひさかたの改元として大宝が登場し元(年)号制度が再開された。以降、途切れることなく現在に至るまで続いている。この時代に、一般に思われている以上の日本史上重大な諸変革が行われており、これにより「大宝革命」と云う。 神話時代以降の日本古代史の流れは、645年の大化の改新、その凡そ30年後の672年の壬申の乱、その凡そ30年後の「大宝革命」と云う流れとなっている。この時の天皇は42代の文武天皇であるが、この御代に於いて藤原不比等が急速に台頭し、れんだいこ史観の原日本新日本論に照らせば新日本側が凱歌を挙げる形で決着している。その良し悪しは別にして、「大宝革命」の意義は日本古代史上の国体骨格が新たに定まり、その後の日本がこれより再始発していると云う意味で重大である。この指摘を本稿の眼目とする。 |
【倭国から日本国への国名改称経緯考その2】 |
「大宝革命」直前の動きとして相当規模の政争動乱があったようである。記紀等の日本系史書は記していないが、朝鮮の「三国史記」新羅本紀の孝照王8年(699年)の条が日本列島で兵乱のあったことを暗喩的に次のように記している。「7月に東海の水が血の色になったが、5日後に復した。9月に東海まで戦いの声がし、王都まで聞こえた。兵庫の武器がひとりでに鳴った」。 「大宝革命」のハイライトの一つは、701年より始まる大宝直前の700(文武4)年、神武天皇系の天皇制年号とは別系に存在してきたいわゆる「倭国年号」が終焉していることである。このことが案外と知られていないので本稿末尾で確認しておく。こういう「倭国年号」が裏史実的に存在し、この時期に終焉したことが確かなようである。 「倭国年号」は正四書以下の正統派的史書には表立って記されることはない。次の史書に裏史実的に登場している。鎌倉時代後期(1318-1339年)に編纂された百科辞典「二中歴」(にちゅうれき)、1401年編纂の「麗気記私抄」(れいききししょう)、1570年頃成立の「如是院ねんだいき」(にょぜいんねんだいき)、鶴峯戌申(つるみねしげのぶ)が1820年に著した「襲国偽僭考」(そこくぎせんこう)等。外国系史書では1471年成立の朝鮮国の申叔舟(しんしゅくしゅう)が著した「海東諸国記録」、1604-09年成立のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドりゲスが著した「日本大辞典」でも確かめられる。「倭国年号」を記す史料はかなりの数が確認されている。「評(こほり)」の場合と同様で全国的な広がりを持つ。北は1606年に墨書きされた山形県の「羽黒山棟札」に「照勝(しょうしょう)四戊辰」。1764年に書かれた埼玉県の「増補秩父神社由来」の「明要六年初勧請」。南は大分県の宇佐八幡宮に伝わる「八幡由来記」の「善記元年壬申寅」。福岡県の英彦山の「彦山流記(ひこさんるき)」。その数凡そ500以上と云われている。 この「倭国年号」が「大宝革命」直前の700(文武4)年に終焉している。これをどう読み解くべきか。れんだいこは次のように解く。終焉そのものに意味があるのではない。終焉の意味するところのものが問われている。れんだいこの原日本新日本論に照らせば、ここまでの日本古代史の期間、古代史上最大政変である出雲王朝の国譲り、邪馬台国の国譲りが事件化したにも拘らず、実際には神武天皇を祖とする外航族政権と倭国の正統政権であった出雲王朝-邪馬台国(三輪王朝)の武闘的決着がつかず、両政権が鼎立していた可能性が高い。それぞれが対中、対朝外交を展開していた可能性が高い。このことにつき、記紀神話はひたすらに隠しているが、それは勝者側の歴史観によりそうなっているに過ぎない。補足しておけば、「謎の倭の五王」は出雲王朝-邪馬台国(三輪王朝)系譜の王である可能性が強い。してみれば、神武天皇を祖とする天皇史の中より任意の天皇を宛がって理解するのはお門違いと云うことになろう。 もとへ。「倭国年号終焉」は、そういう鼎立が「大宝革命」直前に最終的に終焉したことを意味している。この時、外航族政権と在地族政権とが歴史的和解をしていわば二重政権化時代を終わらせ、以降は国名も日本国として再出発しているのではなかろうか、これより今日の日本が生まれているのではなかろうかとの仮説を生む。「700(文武4)年、倭国年号終焉」はかくも重大な意味を持つ。留意すべきは、日本国体論に大いに関連してくるが、この再出発は力で捻じ伏せられたものではなく、伝統的な倭国族王権と神武天皇以来の外航族王権の抗争の決着がつかなかったことにより、外航族政権優位の構図下で倭国族王権側が呑めるような形で取り込む手打ちが為されたと解すべきである。 「倭国年号」は次の通り。 善記(522、継体16年~)から始まり、正和(526、継体20年~)、教(發)到(531、継体25年~)、僧聴(536、宣化1年~)、明要(541、欽明2年~)、貴楽(552、欽明13年~)、法清(554、欽明15年~)、兄弟(558、欽明19年~)、蔵和(559、欽明20年~)、師安(564、欽明25年~)、知僧(565、欽明26年~)、金光(570、欽明31年~)、賢称(576、敏達5年~)、鏡常(581、敏達10年~)、勝照(585、敏達14年~)、端政(589、崇峻1年~)、告貴(594、推古2年~)、願転(601、推古9年~)、光充(605、推古13年~)、定居(611、推古19年~)、倭京(618、推古26年~)、仁王(623、推古31年~)、僧要(635、舒明7年~)、命長(640、舒明12年~)、孝徳(645、大化1、孝徳1)年)、常色(647、大化3、孝徳3年~)、白雉(はくち、652、白雉3、孝徳8年~)、白鳳(661、斉明7年~)、朱雀(684、天武13年~)、朱鳥(しゅちょう、686、天武15年~)を経て大化(695、持統即位6年~)、大長(704、慶雲1、文武8年~)を最後としている。 |
【倭国から日本国への国名改称経緯考その3】 |
しかもこの時、両政権が相当に高度な誓約書を交わしている。これが「大祓詞(おおはらへののりと)」である。そういう意味で、「大祓詞」こそが「日本国としての再出発」時の元一日の言葉である。現代風に言えば日本国創始時の憲法である。「大祓詞」は両者の当時の拮抗関係を反映して外航族王権側が倭国族王権側を取り込む形の祝詞(のりと)文になっているが、見て取るべき真意は「双方の手打ち」ぶりであろう。これほどまでに「大祓詞」の意義は高い。その成立時期につき、賀茂真淵は天智-天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えている。れんだいこ史観に照らせば、本居宣長の文武天皇朝説が正しい。まさしく文武天皇御代の「大宝革命」期の国体文とみなすべきだろう。 |
【倭国から日本国への国名改称経緯考その4】 | |
日本国の名の由来を確認しておく。通説は、「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。しかしこの説は首肯し難い。神武らの外航族の渡来以前にヤマトの地を治めていた饒速日命が既に「虚空見つ日本の国」と日本を呼んでいるからである。これを確認するのに、既に「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2」で次のように記している。
「日本」以外の呼称を確認すると、和語では「あしはら」系として「葦原中国」(記紀)、「豊葦原(とよあしはら)」、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(古事記)、「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(日本書紀)。 「あきつ島」系(「秋津」は「とんぼの島」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる)として「秋津島」、「大倭豊秋津島」(古事記)、「大日本豊秋津洲」(日本書紀)。 「しきしま」系(欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる)として「師木島」(古事記)、「磯城島」、「志貴島」(万葉集)、「敷島」。 「だいやしま」系として 「大八島」、「大八洲」(養老令)、「大八洲国」(日本書紀)。他にも「磯輪上秀真国」、「細矛千足国」、「玉垣内国」(神皇正統記)、「大和」、「大和国」、「瑞穂」、「浦安国」、「日出処」。
国号の「日本」への改称の具体的な成立時点は史料によって特定されていない。推定する見解は2説に絞られる。(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。但し日本書紀の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、日本書紀(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。 「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年、臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。 8世紀前半の唐で成立した唐暦には、702(大宝2)年に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した旧唐書、新唐書にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、旧唐書は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、新唐書は日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。旧唐書、新唐書が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である。平安時代初期に成立した弘仁私記序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた日本書紀の講読の様子を記す日本書紀私記諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。隋書東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典「大智度論」に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。 |
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日本古代史は、律令国家となった645(大化元)年の「大化の改新」を境として、それ以前を「大和政権」、以降を「大和朝廷」として識別する必要がある。更に言えば、「大和朝廷」前の「大和政権」を更に区分して、神武天皇即位前を「ヤマト政権」、即位後を「大和政権」と表記して識別する必要がある。なお、「やまと」を「大和」とする表記するのは7世紀以降からである。それ以前の文献や金石文、木簡などには「大和」という漢字表記は見られない。それ以前の日本は、中国史書では「倭」、「大倭」、「大養徳」などと表記されている。それを「やまと」と読ませることもあるが特には定まっていない。「やまと」の表記が「大和」に統一されたのは757(天平宝字元)年頃からであり、同年発布された「養老律令」が「大和」表記の普及に大きな影響を果たしたと考えられている。「大和政権」に先立つ「ヤマト政権」時代より、自分たちのアイデンティティを「ヤマト」と認識していたと考えられる。これに邪馬台国が関係しているように思われるが、仮にそうであったとしても史実的にはまだ解明されていない。その当時、中国大陸や朝鮮半島では「倭国」と呼んでいた。4世紀初頭から5世紀初頭にかけて、東晋から梁に至る中国の歴代王朝に朝貢したとされる「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)が自らを「倭国王」と称しているのが証左である。但し、「倭」という漢字には矮小の「矮」と被る意味があり、ヤマトの頃より「倭」という表記は早晩改めなければならないと考えていた節がある。その証拠のひとつとして、607(推古15)年、厩戸皇子(聖徳太子)が、倭の五王以来実に120年ぶりくらいに中国大陸に使者を送り、隋を通して大陸との国交を再開させた際、その国書に「倭」の表記を用いず、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言にしている。「日本」という国号については、中国史書の旧唐書東夷伝に、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に日本を以て名と為す」と説明している。「ヤマト政権」、「大和政権」、「大和朝廷」へと続く政権の権力者達は、中国や朝鮮の使う「倭国」という呼び方から「日本」という国号へ改めていった。そこには、政治体制の整った国家としての国體を自負する意味合いもあった。 |
【倭国改め日本国への国名改称経緯考その2】 | |
これらの全ての営為に藤原不比等が絡んでいる。丁度この頃の政治ユーモアとして竹取物語が執筆されている。「石作(いしつくり)の皇子(みこ)」、「車持(くらもち)の皇子」、「右大臣阿倍のみむらじ」、「大納言大伴のみゆき」、「中納言石上(いそのかみ)のまろたり」と云うほぼ実在の人物たる五人の貴公子がかぐや姫に求婚し、いずれも失敗する筋書きの物語となっている。描写が興味深いものとなっていることに気づく。れんだいこの解釈では、五人の貴公子が求めたのは、かぐや姫が体現していた倭国族王権の後継と云う宝物であり、そのかぐや姫が逆に世上の宝物を列挙し、五人の貴公子それぞれにお題を与え失敗させると云う筋書きが面白過ぎる。 この時期、続日本紀に「文物の儀、ここに於いて備われり」と記されている。宮廷儀式、文書等々の作法が定められたことになる。「律」6巻、「令」11巻の全17巻から成る大宝律令が制定されている。この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官(太政官、神祇官)八省(中務省、式部省、治部省、民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、兵部省)の官僚機構を骨格とする本格的な中央集権統治体制が成立した。新官僚制として、冠位制が廃止され律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。地方官制については国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。「大宝革命」が日本古代史書の正四書(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)の編纂さ中であることも興味深い。これについては既述なので割愛する。 「大宝革命論」の更なる要素として大伴氏の没落が確認できる。701(大宝元)年、正月15日、大納言の大伴宿禰御行が逝去している。大伴宿禰御行は、壬申の乱に際して大伴宿禰御行が弟の安麻呂、叔父の吹負(ふけい)らと共に天武軍に身を投じて天武軍優勢の流れを作った。以来、壬申の功臣として名を馳せ大将軍的栄誉を称えられてきた。天武王朝の原日本回帰(倭国王朝の復権)の立役者として重臣足りえていた。その大伴宿禰御行が没するや藤原不比等が頭角を現してくる。藤原不比等は日本書紀献上の720(養老4)年に逝去している。非常に興味の涌く人物であり別途に考察したい。707(慶雲4).4.15日の条、余命2ヶ月の文武は、勅(みことのり)を以って藤原不比等及び鎌足以来の藤原朝廷家を顕彰している。「汝、藤原朝廷の仕え奉る状は、今(文武朝)のみにあらず。(中略)かけまくもかしこき天皇の御世御世に仕え奉りて、今もまた朕の卿(重臣)となりて云々」。707(慶雲4).6.15日、崩御(享年25歳)。諡号は二つあり、続日本紀は「倭根子豊祖父天皇」(やまとねことよおほぢのすめらみこと)、続日本紀は「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)と記している。この間、藤原不比等が政治を補佐し、その間30数回吉野を行幸している。 ここで、703(大宝3)年、粟田真人が遣周(唐)使の長として長安に赴き、時の皇帝・則天と謁見すると云う外交的成果を上げるが、その粟田真人一行が大陸沿岸に着いた時の逸話が続日本紀に次のように記されている。
唐人は日本国ではなくて大倭国について認識しており、「君子国にして敦(あつ)く礼儀が行われていると聞いている」としている。この逸話は「倭国から日本国への変遷」を垣間見せる点で貴重である。これをもう少し詳しく確認してみる。 旧唐書(くとうじょ)東夷列伝、旧唐書に遅れること16年、北宋代の961年に完成した唐会要(とうかいよう)が、倭国の条と日本国の条を二本立てで並立記述している。唐会要は唐代に編まれた底本(現存しない)たる800年頃に成った「会要」とその50年ほど後に成った「続会要」とを基に著述されている。この二書が後の日本国に当時においては倭国と日本国が鼎立していたことを物語っており、倭国の条で「倭国は、古の倭奴国なり」、日本国の条で「日本国は、倭国の別種なり」と記している。異伝として「倭国が国号を更えて日本と為す」と「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」を記している。後者は、日本国が倭国を併合したと云う主旨であり、倭国の王統(皇統)を廃し、日本国の王家が倭国の王家を臣下に組み込んだか滅ぼしたかを意味する。「日本国は、倭国の別種なり」とは、「日本国は倭国と同じ言葉を話す同種族だが、王家を異にする異なる国である」と解することができる。朝鮮の史書「三国史記」の新羅本紀の文武王10年12月の条に「倭国更(か)えて日本を号す」とある。大宝年間を境に倭国号が廃され日本国号が用いられるようになったのではなかろうか。 旧唐書より前の隋書及びそれ以前の正史では倭国ないし「たい国」とあり、日本国なるものは登場していない。対して、それより後の新唐書や宋史などの正史では日本国のみの登場となる。旧唐書と唐会要が倭国と日本国を併記している。 宋史外国伝の日本国の条は次の逸話を記している。宋史に採録されており史料の信頼度は高い。日本の東大寺僧のちょう然が入宋し宋帝に謁見した時、筆談で次のように語った。「国王は王を以って姓と為し、その王統は64世続いている」。宋史は続いてちょう然が提出した「王年代記」に触れ、神武以下「王」姓の64世王統に属さない倭王・自多利思比孤(じたりしひこ)に言及し、「按ずるに」と断った上で、「その姓を阿毎(あめ)とし、その王統は後に(日本国王朝の国使である)朝臣真人らを遣わした」としている。 国号につき、古事記は倭国、日本書紀は日本国、続日本紀は奈良盆地一体を倭及び大倭、総国名としては日本国と表記する。国号に国外証言が残されている。唐代中期の736年に成立した張守節の「史記正義」に「武后、倭国を改めて日本国と為す」、「倭国、武皇后改めて日本国と云う」と記している。これによれば、女帝の武則天が倭国から日本国へ改めさせたと云うことになる。朝鮮の正史「三国史記」新羅本紀には、天智朝の時、即ち670年に当る文武王10年12月に「倭国、更(か)えて日本を号す」とある。「新唐書」にも670(完亨元)年の遣唐使記事に続けて「後に倭名を悪(にく)み、更(か)えて日本と号す」とある。 大宝元年を境に倭国号が廃されて日本国号が用いられるようになった。 |
れんだいこのカンテラ時評№1247 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 2月11日 |
2015.2.11建国記念の日に思う 今日は2015.2.11日、「建国記念の日」による祝日である。この建国記念の日を左翼的に批判するのではなく、右翼をたじろがせる建国日論を発信して撫で斬りにしておきたい。「建国記念の日」の理論的考察、登場までの歴史的経緯については既に「建国記念日考」、「2013.2.11建国記念日に思う」で述べているので繰り返さない。本稿は新たな発信をしておくことにする。 「皇紀2600年&日本国体考」 (kodaishi/kodaishico/koki2600nenco.html) 「2.11建国記念の日」をどう拝するべきか。この祝日を規定した側は、日本書紀記述の「神武天皇が辛酉の年の庚辰朔の年の正月に橿原に宮を建てた」のを由来として西暦換算による「紀元前660.2.11日」を建国記念日としている。しかしながら、少し古代史を学んだ者には自明であろうが、紀元前7世紀頃に神武天皇が橿原に宮を建てたとするのはかなり無理がある。記紀神話の他の記述と辻褄の合わないことが多過ぎるからである。にも拘らず「紀元前660.2.11日を紀元元年」としたのはどういう訳か。実は「日」自体には意味がなく、建国記念日を設けることに意味があった故と云うことになる。 ところで、れんだいこは、別の基準で「西暦紀元前660.2.11日を日本皇統史元年」とすることに納得しようとしている。どういう理論によって首肯できるのか、それを開陳しておく。 建国記念日を「神武天皇が辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てた」に置くのがそもそものナンセンスである。日本古代史上、避けて通れないのが邪馬台国であり、この国が存在したのが紀元3世紀頃とすると、れんだいこ史観によれば神武天皇は邪馬台国滅亡と絡んでいるはずであるから紀元3世紀頃とせざるをえない。ここからは「紀元前660.2.11日を紀元元年」とする理由が出てこない。 ところが、「紀元前660.2.11日」を紀元元年にし得る理論がある。それは、この日を、出雲王朝形成期の元一日とすることによってである。あるいは出雲王朝の次の段階としての八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅの命)の「国引き譚」記念日に該当させるべきかも知れない。れんだいこ史観によれば、出雲王朝は「国引き」により「八雲立つ出雲」から連合王朝に向かう。こうした出雲王朝形成の元一日を「紀元前660.2.11日」に求めると奇妙に符合するから不思議である。 神武天皇を初代とする大和王朝が皇統の万世一系を云うならば、直前の邪馬台国王朝、更にその前の出雲王朝の皇統まで辿ることが是となり、その出雲王朝の元一日が「紀元前660.2.11日」だとすれば、この日まで遡って、この日をもって建国記念の日とすることには合理性があると云うことになる。 明治政府の歴史認識は、「神武天皇が辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てた」を「紀元前660.2.11日」と定め建国記念日とした訳であるけれども、この日を日本皇統譜の始まりである出雲王朝創生の元一日として位置づけ、この日を建国記念の日として祝うことは可能な訳である。 今日、建国記念日そのものを分裂的に方や称え、方や批判するのが流行である。それは日の丸、君が代、菊花弁に対しても然りである。しかしながら奇妙なことに日の丸、君が代、菊花弁は皆な出雲王朝系の産物である。国旗としての日の丸、国歌としての君が代、家紋としての菊花弁は、それを悪用した者と善用した者により醸し出されるものが違う訳で、それ自体としてはそれぞれ秀逸なものである。こう考える必要があるのではなかろうか。 建国記念日、日の丸、君が代、菊花弁そのものを批判するサヨ、称えるウヨの論理式は実は一緒である。裏で操る者がいて繋がっていると考えた方が良い。我々が採るべき態度はこうである。悪法は変えれば良い、と云うか変えるべきである。ところが良いものであったら良きものと見定め称え護リ、悪用を許さず善用せしめて行くことが肝心である。これはまったく憲法論にも通じている。 |
(私論.私見)