別章【壬申の乱前後考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).11.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 高天原王朝と出雲王朝による国譲り譚が日本古代政治史上最大の政変とすれば、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟とされる大海人皇子の間で繰り広げられた「壬申の乱」は大和王朝史上最大の政変と云うべきであると同時にミステリーとなっている。以下、これを検証する。

 2008.8.2日再編集 れんだいこ拝


第38代、天智天皇の御代

【百済滅亡】
 660(斉明天皇7)年、百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の名将・鬼室福信が唐と新羅を相手に百済復興の抵抗運動を始めた。中大兄皇子は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。

【豊璋と鬼室福信間に紛争が起る】
 ところが、豊璋と鬼室福信間に紛争が起り、豊璋が鬼室福信に謀叛の疑いがあるとして捕縛し、首を刎ねて首を切り落とした。関裕二氏は、著書「蘇我氏の正体」の中で、この豊璋が再来日して中臣鎌足と名乗った形跡があるとして同一人物説を打ち出している。

 661(斉明天皇7年).5月、斉明天皇、自ら九州の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に赴く。斉明天皇は、遠征の軍が発する前に亡くなった。


 662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。

【白村江の戦い】
 663(天智天皇2)年、即位以前のこの年、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。これを白村江の戦いと云う。この戦いで大敗を期し、百済復興戦争は大失敗に終わった。このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させた。

【中大兄皇子の治世】
 664(天智3)年、更に細分化され冠位二十六階に改訂されている。これらは、冠位十二階に組み込まれなかった大臣(おおおみ)などを冠位制の序列に組み込もうとした試みだと考えられる。しかしながら大臣は依然として旧冠を使用していたと云われている。

 天智天皇の御世、国内の政治改革も急進的に行われた。しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだ。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族、民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。

 665年、唐の使節の劉徳高が2千名で来日。


【中大兄皇子が大津宮に遷都し即位する】
 667(天智6)年、中大兄は都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江大津宮に遷都した。

 668(天智7).1月、中大兄が即位する。

 同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方もある)。

【新羅が高句麗を滅ぼす】
 668(天智7)年、新羅が唐と共に高句麗を攻め滅ぼす。

【大海人皇子】
 大海人皇子の子(おおあまのみこ、日本書紀は「皇太弟」と記す)。父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟とされている。但し、これを疑う説もある。
(私論.私見)
 大海人皇子と天智天皇の同母弟関係つまり兄弟とすると生年の辻褄が合わない事が確認されつつある。してみれば、天智朝を支える「弟的扶翼関係」を意味して兄弟としているとも考えられる。天智を天津正系、大海人皇子を国津出雲系と捉え、天智朝は両者の均衡と拮抗の上に成立していたと考えるべき余地があると思う。

 2008.8.2日 れんだいこ拝
 正妻は初め大田皇女で、二人の御子が大津皇子と大伯皇女である。その死後、菟野皇女(後の持統天皇)に代わったものと思われる。菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。御子には他にも、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子、弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)、新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子、紀皇女、田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子、礒城皇子、泊瀬部皇女、多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。

 なお諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、新撰姓氏録には右京、摂津国居住の凡海連が見える。ほかにも周防、長門、尾張など各地に居住したことが史料から窺える。(「天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎」参照)

 天智天皇の皇太弟として立太子し、改新政治に参与した。

 668(天智7).5月、蒲生野の狩猟に従駕する。大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、天智改革への不満の醸成が後の壬申の乱の下地を作り、天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。 また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は万葉集に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。

 670年3月、「冊府元亀」(11世紀に王欽若らが撰述)や新唐書、「史記正義」が、倭国使が上洛したと記す。これが中国史書に於ける倭国最後の消息となっている。

【大海人皇子が吉野に逃亡】

 671(天智天皇10).10月、天智天皇が病に伏せ、大海人皇子に後継を持ちかけた。何らかの禅譲約束があったのかも知れない。天智天皇は当初は大海人皇子に皇位を譲る気で居たが、大友皇子に譲ることを考え始めた。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(即ち、大友皇子への継承)の導入を目指しており、大海人皇子勢力の不満を高めていた。

 同年10.17日、病に臥していた天智天皇は東宮を臥内に召し入れ、「後事を以て汝に属(つ)く」云々と伝えるが、危険を察知した大海人皇子は、「洪業を奉じて大后に付属せむ。大友王をして諸政を奏宣せしめむ。臣は天皇の奉為に出家修道せむことを」と請願した。天武即位前紀によれば、東宮に派遣された蘇我臣安麻呂が大海人に「注意深く発言されますように」と忠言し、これにより大海人は天皇に謀略があることを疑い、天智天皇の寵愛する太政大臣・大友皇子を推挙し自ら出家を申し出固辞した。こうして身の危険を避けたと云う事になる。

 大海人皇子は、先手をとって大津宮(当時の都)を離れ、大和(奈良県)の吉野に遁世することを言上する。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れ、同月19日、吉野での修行仏道を天皇に請い許される。大海人は直ちに内裏仏殿に向かい、剃髮して沙門となった。ここうして、出家して妻子と共に吉野へ向かった。反大海人皇子派は、「虎に翼を与えて放したようなものだ」と口惜しがった、と云う。

 671年、唐の郭務宗が3千名で来日。唐が、高句麗や新羅を攻めるので援軍を出せとの脅迫的要求に来たものである。
【天智天皇崩御】
 671.12.3日、近江宮において天智天皇が崩御(享年46歳)。24歳の大友皇子が後継宣言する(近江朝)。

【天武と蘇我の関係考】
  「嘘八百のこの世界」の「スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性
 「天武天皇 隠された正体」関裕二

 1991年の書である。前回取り上げた「聖徳太子は蘇我入鹿である」の続編である。「古代史に燦然とその姿を登場させた天智天皇と天武天皇~両雄の骨肉の争いは、やがて壬申の乱へと進んでいく。この争乱によって、天智の弟とされる天武は、天智の子・大友皇子と皇位継承をめぐって争い、最終的に天智王朝を奪ったとされている。だが、近年、壬申の乱や天武の実像について、数々の疑問が投げかけられはじめた。そこで、壬申の乱に登場する人々の足跡をあらためて追い直したところ、
天武と蘇我一族が、意外な事実関係で結びついていることに気づいたのである。さらにこの乱を追求していく過程で、通説とは異なる天武の実像が浮上してきた。天武本人の編纂とされてきた日本書紀にすら明記されなかった天武の前半生が、はっきりとつかめたのである」とのことで、壬申の乱及び天武天皇の真相に迫っている。以下、一部引用する。

*大和王朝の初代天皇は、天照大神(以下アマテラス)を皇祖とする神武天皇であった。九州の日向(ひむか・現在の宮崎県)から大和に向かった神武は、大和地方の豪族長髓彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあい苦戦するが、ついにこれを平定し王朝を開いた。実は、この日本書紀の神武天皇東征説話には大和朝廷の成立以前の実体を浮かび上がらせる重大なヒントが隠されている。というのも、
神武天皇が大和に入る前に、既にその地で王として君臨していた人物がいたと明記してあるからだ。その王の名を饒速日(ニギハヤヒ)といい、日本書紀は、神武に抵抗した長髓彦がニギハヤヒを大王として仰いでいたこと、ニギハヤヒが天神の子であること、そしてニギハヤヒが物部氏の祖であることを記している。この記述は、古代史を根本からくつがえす重要な示唆を我々に与えてくれる。なぜならば、今まで単なる一豪族とみなされてきた物部氏が、実は神武東征以前の大和の王だった可能性が出てくるからである。少なくとも、その事実を日本書紀は否定していない。「事不虚」、つまり、ウソではない、といっていることからもわかる。

 では、この謎の人物「ニギハヤヒ」とはいったい何者なのか? そして日本書紀は、なぜ大和の王だったニギハヤヒについて多くを語ろうとしなかったのか?(中略)古事記や日本書紀のなかであれだけけなしている神々を、その裏では丁重に祀り上げているこの事実の裏には、いったい何が隠されているのだろう。その謎をみごとに解き明かした人物がいた。
故原田常治氏である。氏は日本の古代史というものが、古事記や日本書紀に書かれた内容だけを根拠に推論していくには限界があることに気づき、“神社伝承”を駆使したユニークな方法で、これらの謎を解いていった。その結果、いままで神話の世界の話として、歴史の世界から無視されていたスサノオやアマテラスといった神々が実在していたと氏は断言したのである。

 
スサノオは大和朝廷が成立する以前に出雲を治めていた王、つまり出雲王朝の始祖であり、アマテラスは現在の宮崎県にあった九州王朝の始祖であったというのだ。さらに原田氏の指摘は重要な点は、スサノオの息子ニギハヤヒの実像を掘り出したことである。このニギハヤヒこそが、実は大和朝廷の始祖として歴代の天皇によって崇められた日本の古来の太陽神だったのだ。その名は、天照国照彦火明奇櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこほあかりくしみかだまにぎはやひのみこと)という。日本書紀は、ニギハヤヒがスサノオの子であることを巧妙なトリックでおおい隠し、さらにはスサノオの子孫が物部氏であることも同時に歴史から抹殺したのである。(中略)

 そして、今まで単なる天皇家のお家騒動としてとらえられてきた壬申の乱も、本当のところは、出雲王朝と九州王朝の長年にわたる葛藤が、遂には大々的な武力衝突にまで発展したということにほかならない。この乱によって政権を勝ち取った天武天皇は、出雲王朝最後の大王として飛鳥の地に君臨したのである。やがて、天武とその子大津皇子(おおつのみこ)の死とともに指導者を失った出雲王朝は衰退し、この二朝間の争いは幕を閉じることになる。そして最終的に勝者となった九州王朝は、巨大で強力な仇敵であった出雲王朝とその一族の影を消し去り、九州王朝こそが唯一正統なる王朝であることを後世に知らすべく策謀をめぐらしていくのである。その手段として巧みに利用されたのが、皮肉なことに、天武が編纂を命じたといわれる日本書紀であった。この一冊の書物の中に敗者たちは長い時間真実の姿を知らせるすべもなく閉じこめられていく。


 *日本書紀天智八年(669)、是歳条に気になる記述がある。それによると、朝廷は河内直鯨(かわちのあたいくじら)を唐に遣わし、そして唐からは二千人の使者が日本にやってきたという。唐からの二千人にのぼる使者とは、いったい何の目的があって来日したのだろうか。一説によると、白村江の戦いにおいて捕虜となった日本人を返しにきたのだろうともいわれ、また一方、天智十年(671)十一月に、同じく郭務悰が二千人を引き連れて来日した記事の重複であろうという意見もある。天智八年(669)は前述したように、新羅が半島独立をめざして唐と戦争状態に入った年である。しかし、この年の日本書紀の外交記事のなかで、唐からの使者に関する記事は、これ以外にまったくみられない。唐が日本をもっとも必要としはじめたこの年に、この使者が来日していないとは考えられない。むしろ日本に対して執拗に働きかけがあって当然のことだろう。

 問題は、なぜ二千人にものぼる使節団を唐が送ってきたかということだ。当然これは軍隊としか考えられない。それでは唐は何を目的として、日本に軍勢を送る必要があったのか。それは、法隆寺、斑鳩寺を中心とした都の周辺に、反唐・親新羅勢力が盤踞(ばんきょ)していたからである。極東アジアにおいて、同盟できる陸続きの国をいっさい失った唐にすれば、半島の統一をめざす新羅を圧迫するには日本の協力がぜひとも必要だった。親唐派に転向した天智が、都の周辺で「反覇権主義」の不満分子が騒いでいると唐に報告すれば、唐もあわてて兵を送ったことだろう。いっぽうの天智は、新羅による反唐の旗揚げを利用し、唐の軍事力を背景に国内では出雲勢力の一掃を、そして百済の再興をもくろんだにちがいない。


 そして、この推論を確定的にしたのが郭務悰らの二度目の来朝記事である。日本書紀によると、天智十年(671)十一月に来日した唐の使者二千人は、その翌年の天武元年五月に帰っていったという。この半年間の滞在中、二千人の人々は何をしていたのか。実は、何もしていなかったのだ。それでは、彼らは何を目的に日本にやって来たのか。問題はそのタイミングである。壬申の乱の直前、天武が天智天皇のもとを去り、吉野にこもったのが天智十年十月。唐の二千人が来日したのが同十一月。天智崩御が同十二月。そして、翌年の天武元年五月に唐の使者は日本を離れた。そして同六月、壬申の乱勃発。つまり、唐の二千人の滞在と天武の吉野での隠遁生活の期間が、ピッタリ一致するのだ。この符号は、はたして偶然なのであろうか。いや天智の病状の悪化を聞きつけた唐が、反唐・親新羅政策を打ち出していた天武の動きを牽制するためにやってきたとみるのが自然であろう。要するに、天智八年、同十年と二回にわたる唐からの二千人の使者は、どちらも天智天皇の政策に反発する勢力を牽制するために来日していたのだ。


*斉明天皇即位前紀によれば、斉明天皇は、舒明天皇の皇后となり、天智や天武を産む前に、用明天皇の孫とされる高向王(たかむくのおう)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を産んだという。日本書紀のこの証言は重要である。なぜならば、用明天皇は妹・推古天皇同様、蘇我色の強い天皇である。その蘇我(出雲)系の天皇の孫と九州系の斉明は、結婚していた過去があるというのだ。(中略)九州王朝の王として多武峰に立てこもっていたにもかかわらず、斉明天皇は出雲王朝の本拠地における高向王との楽しかった生活と、「吾が若き子」漢皇子を思う心でいっぱいだった。そして、その事実を、日本書紀があらゆるトリックを使って否定したことには、重大な意味がこめられている。(中略)

 ところで、死して地獄に堕ちたとされる斉明天皇には、生前、正体不明の化け物がつきまとっていたという話がある。この証言は、数々の文献に記されているだけでなく、四国の神社にも伝わっているぐらいだから、よほど世間に流布していた話だったと思われる。(中略)この化け物がもし豊浦大臣ならば、斉明の葬儀にまで姿をあらわした鬼=豊浦大臣とはいったい何者なのか。そして、斉明にどんな恨みをもっていたのか。また人々はその鬼のなにを恐れたのか・・・・・!? 日本書紀によれば、豊浦大臣とは蘇我蝦夷のことをさす。だが、先代旧事本紀の伝承から、蘇我入鹿こそ豊浦大臣と呼ばれていたことがわかっている。だとすれば、斉明天皇につきまとう鬼とは入鹿だったということになる。ところで、大化改新における皇極(斉明)天皇の態度は解せぬ、という意見が一部にある。さらに、そのことが思わぬ憶測を呼び、入鹿と皇極の間には男女の結びつきがあったという説さえある。それはなぜかというと、次のようなやりとりがあったからだ。中大兄皇子に斬りつけられた入鹿は、皇極天皇にこの事態の説明を求めた。すると皇極天皇はあわてふためき、入鹿に対して自分がこの凶行に関与していないことを叫び、さらに中大兄皇子を責めるかのように、その行動を問いただしているのである。そして中大兄皇子が、入鹿には皇室をくつがえす野望があるのだ、と叫ぶように訴えると、皇極天皇は黙ったまま奥にひっこんだといわれている。女帝のうろたえぶりはなにかあるといわざる得ない。(中略)斉明につきまとう鬼をみた時の人々は、迷うことなく入鹿の亡霊であると決めつけた。そして斉明のまわりで人々が多く死ぬのをみて、これこそ入鹿の仕業だと確信する。人々のそのような恐れようからして、日本書紀には記されていない裏側で、入鹿と斉明とのあいだに断ち切ることのできない関係があったと考えてよい。

 *斉明天皇と蘇我入鹿(高向王)が結ばれていたことが、これで明らかになった。そうなると当然、両者の子・漢皇子なる人物は、どこでなにをしていた者なのかという新たなる疑問が生じてくる。漢皇子が入鹿の子であるとすれば、それは当然聖徳太子の子供ということになる。それでは、日本書紀の中に聖徳太子の子としての漢皇子に比定しうる人物が実際にいたのだろうか。(中略)私は、この漢皇子こそが、壬申の乱で出雲王朝の絶大なる支持を得た、天武天皇その人ではないかと思うのだ。それはとりもなおさず、天武が蘇我入鹿の子供であったという事実につながる。そして、入鹿の子が天武だとすると、大化改新から壬申の乱にいたるまでの多くの謎は、一挙にして整然と説明がついてしまうのである。大化改新で天武が入鹿討伐に参加しなかったのは、天武が入鹿の子供であったからだ。あるいは、白村江の戦で天武の姿がみられなかったのも、天武が入鹿(太子)同様、九州王朝の極端な百済支持に同調できなかったからである。さらに、天武が尾張氏を筆頭とする出雲系の豪族の絶大なる支持を得ていた壬申の乱において、近江朝の蘇我氏がすべて寝返ったのは、天武が出雲王朝の正統な皇子、つまり大王・入鹿(太子)の子供だったからにほかならない。天武が九州王朝の持統によって前半生を抹殺されたのも、すべては天武が出雲王朝の大王だったからなのである!
(私論.私見)
 「アマテラスは現在の宮崎県にあった九州王朝の始祖」とする見解は、れんだいこのアマテラス論と相違するので同意し難いが、その他は全体的に傾聴に値する論になっている。

第39代、弘文天皇の御代

【大海人皇子が挙兵】
 672.5月、舎人の朴井連雄君は近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めており、大海人皇子の命を狙っているとの情報を齋す。同じ頃、近江京と倭京の間に監視が置かれているなどの報も入り、大海人は身の危険を悟る。翌6.22日、村国連男依らを美濃国安八磨郡に派遣し、兵を起して不破の道を塞ぐことを命じる。

 6.24日、大海人皇子は先手を取るべく吉野を出発し宇陀、伊賀、伊勢国を経由して尾張に向かった。この時同行したのは菟野皇女・草壁・忍壁以下、二十数名の舎人、十数名の女嬬のみであった。同日菟田の吾城に至り、大伴連馬来田・黄文造大伴らが吉野より追いつく。ここから、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子が皇位を廻る争いが勃発した。

 途中、近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流。6.26日、朝明郡迹太川(朝明川)の辺で天照大神を望拝。数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り挙兵の準備をさせ、美濃の不破関に着き本陣を構えた。この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。6.27日、高市皇子の要請により大海人は不破に入る。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。郡家に至った頃、尾張国守小子部連{金偏に且}鉤(さひち)が2万の兵を率いて帰順。大海人は野上で高市皇子に逢い、軍事を一任。また吹負を倭(やまと)の将軍に任命し、奈良に軍を派遣。美濃に入り、東国からの兵力を集めた。

【壬申の乱】

 大友皇子は、先手をとられて戦の準備に手間取った。7.2日、大海人皇子は、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。紀臣阿閉麻呂ら、数万の兵を率いて伊勢大山より倭に向かう。また村国男依らは数万の兵を率いて不破より近江に入る。近江側は不破を撃つため犬上川の辺に軍を敷いたが、内紛などのため進軍できず。近江の将軍羽田公矢国らは吉野に来帰し、越の国に向かう。

 大海人の東国入りを知った近江朝廷の天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)側は、東国・倭京・筑紫・吉備に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。筑紫大宰栗隈王は挙兵を拒絶。この頃、大伴吹負は倭京に留まり、吉野側への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。7.4日、吹負は近江の将大野君果安と奈良山で合戦するが、敗走。

 この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの増援が到着して吹負の窮境を救った。東道将軍紀阿閉麻呂、置始莵(おきそめのうさぎ)と合流し、大和(奈良県)の三輪山の西方、大物主の妻である倭迹迹日百襲姫命が眠る箸墓の北側で、大友皇子朝廷軍の軍に対し、大伴吹負(おおとものふけい)将軍と共に武人・置始菟(おきそめのうさぎ)率いる軍が、地元豪族の三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)の力を借りて再戦し、今度は勝利した(「箸墓の戦い」)。この勝利が、大海人皇子軍の勝利の帰趨を決めることなった。

 7.7日、二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、7.22日、瀬田川を挟んだ勢田橋(滋賀県大津市唐橋町)の最終決戦で勝利した。大友皇子は宮を脱出したが、7.23日、山崎で自害した。左右大臣群臣、みな散亡。乱は収束した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱となった。約1ヶ月に渡る後継者争いは大海人皇子の勝利となった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申(じんしん、みずのえさる)に当ることによる。

 一方、敗走した吹負は再び兵を集め、當麻の衢で壱伎史韓国の軍と衝突。勇士来目らの功により近江軍を大破し、7.22、倭京を平定。7.26日、諸将は不破宮に参向。8.25日、近江群臣の重罪者を処刑。大海人皇子は挙兵のコースを逆にたどり、9.15日、飛鳥岡本宮に戻った。

 大海人皇子(天智天皇の弟)は、昔より「美濃国を制する者が天下を制する」と言われて来たのを受け、天智天皇の弟として美濃国に領地を賜り、金産山から産出する鉄や銅の鉱石の管理を一手に任され、美濃国の赤坂の地にある金産山(かなぶやま)の金や銅の鉱石を制し、秋(とき)を侍していた。「いつかは日を見る時が来る」と信じ、その時に備えて武器を造らせていた。 私的な武器を密かに大量に蓄えている事が発覚すると、いち早く察知された大海人皇子は素早く吉野山を脱した。美濃国赤坂の我が領地に帰り、直ちに皇祖を巡る天皇家の確執の違いを盾に美濃尾張の人々人民に武装させ、先ず金産山を制圧し、続いて近江朝廷軍を岐阜県不破の関峠に撃破し、大友皇子(第39代弘文天皇)を自決に追い込み、皇位を継承されて天武天皇となられた。

(私論.私見)
 乱の原因は単に親族の相続争いではなく、当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが背景にあったと見る見方もある。又、天武天皇の出自に大きな疑問があることを取り上げ、多くの人が論を繰り広げている。

40代、天武天皇の御代

【天武天皇即位】
 673(天武2).2月、大海人皇子は天武天皇と称し飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。正妃に菟野皇女を立てて皇后とする。

 天武天皇は大臣を置かず、皇后や皇子らとともに天皇の親族や皇族からなる皇親政治体制を確立した。留意すべきは、中臣鎌足-息子の藤原不比等を政権から締め出していることであり、このことが政局流動の原因を為す。

 兄の天智天皇の遺業を発展させ、法典である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や、八色姓(やくさのかばね)の身分制度の制定、冠位制度の改定等に取り組み、中央集権の国家の体制づくりをめざした。大和朝廷がそれまでの「倭」を改めて、「日本」という国号を使いはじめたのもこの時期であるといわれている。

【天武天皇の御世】
 同年3月、川原寺に一切経の書写を始めさせる(国史に残る最初の写経事業)。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。12.5日、大嘗祭に奉仕した中臣・忌部氏らに賜物(即位後の大嘗祭に関する確実な記事として最初のもの)。

【古事記編纂の詔】
 673(天武紀2)年、天武帝の詔(みことのり)「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」を請けて古事記の編纂が開始された。

 675(天武4).1.5日、初めて占星台を建てる。2.9日、諸国に歌の上手・小人・伎人を奉ることを命ずる。4.18日、麻續王を因幡国に配流。678(天武7).4.7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。

 675(天武天皇4)年4月、肉食を禁止する「殺生肉食禁断の詔勅」を発布したと日本書紀に記されている。この詔では「犬・牛・馬・猿・鶏」の五畜(ごちく)の肉食を禁じている。五畜以外の、シカ、イノシシ、キジなどの肉は可とされていた。禁止期間は4月1日から9月30日までの農繁期だけの措置であった。この禁令はこれより江戸幕末の孝明天皇の御代まで1200年間続くことになる。この伝統は世界史的に極めて珍しい。

 「殺生肉食禁断の詔勅史」は次の通り。721年、元正天皇の御代、「殺生禁断・放鳥獣」。725年、聖武天皇の御代、「殺生禁断」。736年、「牛馬の屠殺禁止」。752年、孝謙天皇の御代、「殺生禁断」の詔を宣下している。1127年、崇徳天皇の御代、「天下殺生の禁止・魚網の放棄・放鳥」。1130年、「狩猟禁止」。1188年、後鳥羽天皇の御代、「諸国殺生禁断」の詔を下している。かく肉食禁止の思想は広く浸透していった。

 但し、在日宣教師のジョン・クラセの日本西教史によれば、当時の日本では肉と野菜をピラミッド状に山盛りにした料理が流行していたと記している。江戸時代の1643年の料理物語には、「シカは汁・煎焼、イノシシは汁に田楽、ウサギ、タヌキ、クマ、カワウソ、イヌなどを汁にして食す」と記されている。1815年の松屋筆記には、「文化・文政年間より、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これを食べる者がおり、イノシシの肉を山鯨(やまくじら)、「シカの肉を紅葉(もみじ)と称す」。「クマ、オオカミ、タヌキ、イタチ、キネズミ、サルなども食べられているのは、哀しむべし、嘆くべし」と書かれている。十四代将軍家茂の時代には「鳥はウズラやカリの外は一切用いず、獣肉はウサギの外は一切用いず」との記録がある。その一方、天明から嘉永年間には、彦根城主から寒中見舞として、牛肉の味噌漬が将軍家に献上されている記録がある。

 677(天武天皇6)年、「天武天皇6年」と記載の物と共に「天皇聚露弘(天皇が露(つゆ)を聚(あつ)めて弘(ひろ)く)」と書かれた木簡が奈良県飛鳥池古墳から出土した。この考古学的発見によって、それまでの「大王」から「天皇」への改称がなされた時期が、天武天皇(第40代)~持統天皇(第41代・天武天皇の皇后)の時代であることが判った。672年の壬申の乱後の頃から「天皇」が登場したことになる。

 679(天武8).5.5日、吉野行幸。翌5.6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。同年10月、勅で僧尼の民間活動を禁ずる。11月、竜田山・大阪山に関所を設け、難波に羅城(城壁)を築く。

 680(天武9).5.1日、綿布などを京内の24寺に施入。この日、初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。11.12日、皇后、不豫。治癒を願って薬師寺の建立を始める。11.26日、天皇、不豫。僧百人を得度するとしばらくの後平癒。

 681(天武10).2.25日、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。同日、草壁皇子、立太子(20歳)。一切の政務に与からせる。

【日本書紀編纂の詔】
 681(天武10).3.17日、天武天皇が、川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、美努王(栗隈王の子)、中臣連大嶋ら12名に「帝紀及び上古諸事」記定を命ず。これが日本書紀修史事業の始まりとされている。歴代天皇の記録「帝記」、上古諸事の記録「旧辞」を検証、撰録し、国家の精神的支柱としての「王化之鴻基」(天皇の徳に感化させる基礎理論書)の体系を作る意図があった。これにより、高天原糸と出雲系の神話の調整が進められ、ニギ速日の命の取り扱いに悩むこととなった。これが、714(和銅7)年の古事記編纂、720(養老4)年の日本書紀編纂に受け継がれていく。

 681(天武10).7.4日、遣新羅使・遣高麗使。

 682(天武11).9.2日、跪礼・匍匐礼を禁じ、難波朝廷(孝徳)の時の立礼を用いる。12月3日、諸氏の氏上を申告制とする。

 683(天武12).正月、天皇を「明神(あきつかみ)御大八洲(みおおやしましらす)倭根子(やまとねこ)天皇(すめらみこと)」と記す詔勅を下す。

 同2.1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。3月2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。

 684(天武13)年閏4.5日、政治における軍事の重要性を説き、文武官に武器の用法と乗馬の練習を課す。また衣服の規定を設ける。10.1日、八色の姓制定。

 685(天武14).1月、冠位四十八階を制定。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。

 3.27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7.26日、朝服の色を定める。9.24日、不豫。11.24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。

 686(天武15).5.17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6.10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7.15日、政を皇后・皇太子に託す。7.20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。

 投稿者:守谷健二の2016-11-04 1 「[2034]天武天皇の正統性について」の「大伴安麿の妻・石川郎女について」。
 大伴安麿の二度目の妻・石川郎女は、皇太子・草壁皇子と大津皇子が争った曰く付きの石川郎女であった。皇太子・草壁皇子の求婚を蹴って大津皇子に走ったことは、当時の大スキャンダルであった。大納言兼大将軍大伴卿の歌一首(巻四、517)「神樹(かむき)にも 手は触るとふを うつたへに 人妻といへば 触れぬものかも」(大意)神聖な御神木でさえ手で触っていいのに、人妻と云うだけで絶対に触って悪いというのか。人妻と云うのは、大津皇子の妻・石川郎女である。大津皇子は、天武天皇崩御の直後、皇太子に対する謀反の罪を着せられ殺害されていた。この歌は石川郎女に対する求愛の歌である。

 石川郎女の歌、即ち佐保大伴の大家(おほとじ)ぞ(巻四、518)「春日野の 山辺の道を 恐(おそり)なく 通ひし君が 見えぬころかも」(大意)春日野の山辺の道を、なに畏れることなく通ってお出でになっていたあなたが、この頃さっぱりお顔をお見せになりませんね。

 佐保大伴は、大伴安麿の宅が佐保にあった事に依る。大家(おほとじ)は、主婦の尊称。石川郎女は、石川氏のお嬢さん。石川氏は「壬申の乱」以前の蘇我氏である。蘇我氏は、滅ぼされた大友皇子(天智天皇の長男)軍の中核であった。一方、大伴氏は一族結束して天武に味方した。安麿は、その大伴氏の中で最も活躍した人物であり、天武の王朝の真の主宰者・高市皇子の篤い信頼を得ていた。春日野の山辺の道は、蘇我氏の勢力圏です。大伴安麿は、蘇我氏の恨みを買っていたのです。そんなことは少しも恐れずに石川郎女に求愛し通っていた。

 安麿には最初の奥さんとの間に三人の息子が居りました。長男は大伴旅人と云い『万葉集』に優れた歌を多く残しています。次男は、田主と云い、三男は、宿奈麿と云います。次男の田主が、父・安磨の再婚に懸念を持ったようです。無理もありません、相手は皇太子・草壁皇子を振ったあの石川郎女ですから。持統天皇の怒りを買った女性です。

 巻二の126~128に、石川郎女が田主の理解を得ようとする興味深い歌の遣り取りと物語が残されています。大津皇子の侍(まちかた)石川郎女、大伴宿禰宿奈麿に贈る歌(巻二、129)「古りにし 嫗(おみな)してや かくばかり 恋に沈まむ 手童(たわらは)の如(ごと)」(大意)年老いたお婆さんなのに、こんなにも恋に沈むものなのでしょうか、まるで幼い子供のように。

 大伴宿奈麿は、安麿の三男。古にし嫗と言っているが、石川郎女はまだ三十前のはずだ。安麿は、和銅七年(714年)正三位、大納言兼大将軍で亡くなるが、石川郎女は、天平七年(735年)でも健在であった。安麿が石川郎女に求婚したのは、草壁皇子が亡くなった持統三年(689年)以後だろう。また安麿の息子たちは、二十歳を過ぎていた。私が石川郎女にこだわるのは、柿本人麿の正体を解く鍵は石川郎女にあると確信しているからだ。柿本人麿こそ、万世一系の天皇制の歴史を創造した中心人物と確信している。

【天武天皇崩御】
 686(天武15).9.9日、崩ず。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)に葬られる。『皇胤紹運録』は享年65とするが、中大兄より年長となり信じ難い。56歳の誤りと見る説もある。万葉集には上記3首(01/0021・0025・0027)のほか、藤原夫人(不比等の異母妹五百重娘。氷上大刀自ともいう)に賜う歌(02/0103)がある。また皇后(持統天皇)作の挽歌がある(02/0159~0161)。

 天武即位前紀によれば、大海人皇子は生まれつき勝れた容姿をもち、長じて雄々しく武徳を備え、天文・遁甲(占術)を能くした。菟野皇女を正妃とし、天智元年(天智が即位した年、すなわち天智称制7年を指すか)に東宮となった、とある。

 天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進する一方、仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。

 41代、持統天皇の御世

【持統天皇即位】
 天智天皇の第2皇女(皇后)にして母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉に大田皇女(大津皇子の母)がいる。
 657(斉明3))年、13歳の時、叔父の大海人皇子に嫁す。
 661(斉明7)年、斉明天皇の新羅遠征の際、夫と共に九州へ随行する。
 翌年、筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。
 同年、父中大兄皇子が皇位を継承し天智天皇となり、夫の大海人は皇太子に就いた。673年の天武天皇即位後、皇后となった。在位は686ー697年。和風諡号として、「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)、「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)。第42代文武天皇、第44代元正天皇の祖母、大友皇子(第39代弘文天皇)の異母姉。

 直後の10月、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子にして甥の大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んだ。飛鳥浄御原令を施行した。

 686年1月、天武天皇の皇后・鸕野皇女 (うののさららのひめみこ、菟野讃良皇女、645ー703(大宝2).1.13日)が招請(しょうせい)され飛鳥浄御原宮で即位し第41代持統天皇となられた。以後、政務をとった。

 689(持統3)年、2.26日、浄広肆の竹田王、直広肆の土師宿禰根麻呂、大宅朝臣麻呂、藤原朝臣史、務大肆の当麻真人桜井、穂積朝臣山守、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、大三輪朝臣安麻呂を判事となす。 藤原不比等を大抜擢した。

 689(持統3)年、4.13日(5.7日)、天武天皇の第二皇子にして皇太子の草壁皇子に先立たれ、以後は孫の軽皇子の成長に望みをかけた。

 690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作る。

 691(持統5)年、八月、日本書紀の編纂が続き、大三輪氏、大伴氏、平群(へぐり)氏など十八の大豪族に先祖の事績を述べた墓記(おくつきのふみ)を提出させている。「同年九月と翌六年十二月には書紀の撰述を促すために唐人の続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)を授賞したり、あるいは両氏死去後には文章学者の山田史(やまだのふひと)御方(みかた)に撰述を担当させ、述作を促すために慶雲四年(707)六月には学士として授章している」(森博達(もりひろみち)著「日本書紀の謎を解く」中公新書)。

 694年、現在の奈良県橿原市醍醐町に、天武天皇の御代に計画された日本最初の都城制に基づく首都を造営し藤原宮に遷都した。大官大寺と薬師寺が東西に配され、古代の主要道路である中ツ道、下ツ道、横大路、山田道を都の端とした東西約1km・南北約3kmの規模と推定されている。近年の発掘ではこの範囲外にも道路や宅地が広がっていたことが分かり、2~3万人の人が居住したと推定され、後継の平城京を凌ぐ規模があったと看做されている。藤原宮は僅か16年間の短い期間で廃都とされ平城京に遷されることになる。

 696(持統10)年、7.10日(8月13日)、軽皇子の伯父に当る高市皇子が薨ず。

 696(持統10)年、10.22日、正広参位の右大臣丹比真人に仮に資人一百二十人を使用することを許された。正広肆の大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行にはそれぞれ八十人を、直広壱の石上朝臣麻呂・直広弐(48階の12位)の藤原朝臣不比等などにそれぞれ資人五十人を使用することを許された。

 持統天皇は万葉歌人としても知られ、万葉集巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇])天皇御製歌として名を留めている。
 「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
 (春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり  天の香具山)

 持統天皇は天皇家始まって以来初めて御詫びの為の伊勢神宮の御遷宮を執り行い、伊勢の神【天照皇大御神】にお詫びになられた。しかもこのお詫びを風化させない為に弐拾年毎に造り替えをする【式年遷宮制度】を定めになった。吉野では、丹生家筆頭の️役小角がが中心となり、18家(天皇家の分家)で20年毎に交代して、吉野山の水分神社をお守りしていた。これに従いそのままに式年遷宮制度を定めた。

 持統天皇の天武死後の31回もの吉野詣でが注目されている。(以下、「法螺と戯言」の2013.7.15日付けブログ「持統天皇吉野詣時系列から検出される千日周期」を参照する) 日本書紀巻三十(持統天皇紀)が記す全ての旅行記事(広瀬・龍田を除く)をまとめると、最短で3日(7回目)、最長で20日(13回目)にわたる吉野詣でが繰り返されている。且つ「千日詣で周期」が確認できる。最初の吉野詣では天武死去後865日目であるが、天武死去の公式発表が操作されていたと考えられる。11回目がその千日後、31回目が3千日後になっている云々。

 42代、文武天皇の御世

【文武天皇即位】
  697(持統11)年、2.16日(3.13日)、父・草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)、母・阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。
 同(文武天皇元)年、8.1(8.22)日、祖母・持統天皇が譲位し、軽皇子が15歳にして第42代、文武天皇として即位した。持統天皇が天皇を後見し、 初めて太上天皇(上皇)を名乗った。8.17(9.7)日、即位の詔を宣した。

 文武天皇即位事情につき「懐風藻」が次のように記している。持統天皇が皇位継承者である日嗣を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。その際に葛野王が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。弓削皇子が何か発言をしようとしたが葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんだ。持統天皇は、この一言が国を決めたと大変喜んだ。そもそも天武、持統両天皇の御代、後継者として草壁皇子を定め皇太子に立てていた。その草壁皇子が即位目前の589年に没し、持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させようとして、その成長を待つ間は自ら皇位についた。但し、天武天皇には草壁皇子以外にも母親の違う皇子がほかにおり皇位継承は常に難事にして波乱含みであった。


 698(文武2)年、3.10日の条、諸国の郡司が任命され、且つ郡司任命に際しての規範が詔をもって示された。


【藤原朝臣不比等の登用】

 698(文武2)年、8.19日、文武天皇が次のように詔された。藤原朝臣に賜った姓は、その子の不比等に継承させる。ただし意美麻呂は、氏族本来の神祇のことを司っているから旧姓の中臣に戻すべきである。


 698(文武2)年、11.23日、大嘗祭を行った。


 700(文武4)年、6.17日、浄大参の刑部親王(おさかべのみこ)、直広壱の藤原朝臣不比等、粟田真人らに勅して律令を選定させられた、その人々に対して、身分に応じて物を賜った。(続日本紀)


【この頃の兵乱】
 朝鮮の「三国史記」新羅本紀の孝照王8年(699年)の条は次のように記し、日本列島で兵乱のあったことを暗示している。「7月に東海の水が血の色になったが、5日後に復した。9月に東海まで戦いの声がし、王都まで聞こえた。兵庫の武器がひとりでに鳴った」。 

【二重年号の終焉】
 700(文武4)年、大和王朝史年号とは別に存在してきた、いわゆる「倭国年号」が終焉している。「倭国年号」とは、522年の善記から始まり、正和、教到、僧聴と続き、日本書紀で言及されている白雉(はくち)、朱鳥(しゅちょう)を経て695年の大化が最後となっている別系年号である。これを証するのが鎌倉時代後期(1318-1339年)に編纂された百科辞典「二中歴」(にちゅうれき)、1401年編纂の「麗気記私抄」(れいききししょう)、1570年頃成立の「如是院ねんだいき」(にょぜいんねんだいき)等である。1471年成立の朝鮮国の申叔舟(しんしゅくしゅう)が著した「海東諸国記録」、1604-09年成立のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドりゲスが著した「日本大辞典」でも確かめられる。鶴峯戌申(つるみねしげのぶ)が1820年に著した「襲国偽僭考」(そこくぎせんこう)も記している。

 「倭国年号」を記す史料はかなりの数が確認されている。「評(こほり)」の場合と同様で全国的な広がりを持つ。北は1606年に墨書きされた山形県の「羽黒山棟札」に「照勝(しょうしょう)四戊辰」。1764年に書かれた埼玉県の「増補秩父神社由来」の「明要六年初勧請」。南は大分県の宇佐八幡宮に伝わる「八幡由来記」の「善記元年壬申寅」。福岡県の英彦山の「彦山流記(ひこさんるき)」。その数凡そ500以上と云われている。

 701(大宝元)年、正月元日、朝賀。続日本紀は「文物の儀、ここに於いて備われり」と記す。


【この頃の政争】
 この頃の政争が興味深い。これに関連して言及しておくと、竹取物語は大宝元年の世が物語の舞台設定である。かぐや姫に五人の貴公子が求婚しいずれも失敗する筋書きの物語となっているが、「石作(いしつくり)の皇子(みこ)」、「車持(くらもち)の皇子」、「右大臣阿倍のみむらじ」、「大納言大伴のみゆき」、「中納言石上(いそのかみ)のまろたり」の描写が興味深いものとなっていることに気づく。

【大伴宿禰御行の逝去、柿本人麻呂の失脚】

 701(大宝元)年、正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで直広肆(従五位相当)の榎井朝臣倭麻呂らを使わして葬儀を指揮させられた。直広壱(正四位相当)の藤原朝臣不比等らを邸に使わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。 (続日本紀)。他方、大伴宿禰御行逝去の翌日、朝廷は皇親、百寮(百官)を朝堂に集めて踏歌の宴会を催し歓楽を極めている。

 大伴氏はヤマト王権の近衛軍隊長的部門の棟梁である。6世紀頃から物部氏や蘇我氏に押されて退勢傾向にあったが、壬申の乱に際して大伴宿禰御行が弟の安麻呂、叔父の吹負(ふけい)らと共に天武軍に身を投じて天武軍優勢の流れを作った。以来、壬申の功臣として名を馳せ大将軍的栄誉を称えられてきた。天武王朝の原日本回帰(倭国王朝の復権)の立役者として重臣足りえていた。


【藤原朝臣不比等の権勢絶頂期に入る】

 701(大宝元)年、3.21日、対馬が金を献じた。そこで新しく元号を立てて大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。(以下略)。 左大臣で正広弐)正二位相当)の治比真人嶋正に正冠の二位。大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱(正四位上相当)の石上朝臣麻呂と直広壱(正四位下相当)の藤原朝臣不比等ら正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐(従四位下相当)の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。また諸王十四人と諸臣百五人については、それぞれの位号おをあらため、地位に応じて位階を昇進させた。 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日中納言の官職を廃止した。

 大宝年号が建言された日の5日後の3月、丹後風土記が、丹後の国の凡海郷(おほしあまのさと)が大地震により海中に沈んだと伝えている。凡海氏は天武を養育した里親であった。中々暗喩的である。してみれば「大宝革命」を仮設すれば、「大宝革命」は天武王朝体制の否定の狼煙となっている。この年を境に倭国王朝が廃され代わりに日本国王朝による大八洲の国が成立した。

 7月、続日本紀が「律令を選定する。ここに於いて始めて成る」と記している。

 8.3日、三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連博徳・伊余部連馬養らに命じて、大宝律令を選定させていたが、ここに初めて完成した。大略は飛鳥浄御原の朝廷の制度を基本とした。この仕事に携わった官人に、身分に応じて禄を賜った。 翌年公布。

 混乱していた冠位制を廃止させ、新たに律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

 8.14日、柿本人麻呂が紀伊国への温泉行幸に随伴。


【大宝律令】
 701(大宝元)年、文武天皇の時代、藤原不比等を用いて「律」6巻、「令」11巻の全17巻から成る大宝(寳)律令を完成させ、翌年公布した。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。唐の律令を参考にしたと考えられており、日本も唐に学んで法治国家となっ。大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700(文武4)年に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701(大宝元)年、8.3日、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂らである。
 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。 大宝律令を全国一律に施行するため、同年8.8日、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702(大宝2)年、2.1日、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10.14日には大宝律令を諸国に頒布した。 大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。

 大宝律令において初めて日本の国号が定められた。冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。以下は復元の一例である。
  1. 官位令
  2. 官員令(養老令では職員令)
  3. 後宮官員令(養老令では後宮職員令)
  4. 東宮家令官員令(養老令では東宮職員令・家令職員令)
  5. 神祇令
  6. 僧尼令
  7. 戸令
  8. 田令
  9. 賦役令
  10. 学令
  11. 選任令(養老令では選叙令)
  12. 継嗣令
  13. 考仕令(養老令では考課令)
  14. 禄令
  15. 軍防令(養老令では宮衛令・軍防令)
  16. 儀制令
  17. 衣服令
  18. 公式令
  19. 医疾令
  20. 営繕令
  21. 関市令
  22. 倉庫令
  23. 厩牧令
  24. 仮寧令
  25. 喪葬令
  26. 捕亡令
  27. 獄令
  28. 雑令


 701(大宝元)年、文武(もんむ)天皇と宮子夫人(藤原不比等の娘)との間に、第一皇子として首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が誕生。この時文武天皇19歳。

 702(大宝2)年、正月、朝賀に際して「親王と大納言以上の官人は、始めて礼服を着し、諸王とそれ以外の官人は朝服を着した」。


 2.13日、諸国の国造たちを都に呼びつけ、祭祀に用いる大幣(おおぬさ)を班給した。


 3月、続日本紀が「初めて度器と量器を天下の諸国に頒布した」と記す。日本版度量衡の統一化であり、物差しと桝(ます)を全国に配ったことになる。


 4.13日の条、国造となるべき氏族を定める。先代公事本紀によれば、国造の多くは古からの世襲であり、列島に135家あったとされている。


【倭国から日本国への変遷】

 斉藤忠「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎」(学研パブリッシング、2011.3.8日初版)その他を参照する。

 701(大宝元)年正月、大寳律令の編纂に加わった粟田真人(あわたのまひと、640年頃-719年)が、第8次遣周(唐)使の長たる日本国君主の名代たる執節使に任じられた。同年、大和朝廷の第八次遣唐使派遣。九州を発したが暴風雨に阻まれた。

 702.6月末に再出航。粟田真人一行が大陸沿岸に着いた時の逸話が続日本紀に次のように記されている。 

 「現在の江蘇省北東部に着岸すると唐人が現れ、(筆談によって)真人らにいずれの使人か問うた。日本国使だと答え、ここは唐の何州に属すか尋ねた。唐人は大周の楚州だと答えた。なぜ大周と云うのかと訳を問うと、唐人は天皇太帝(てんこうたいてい)が崩御し、皇太后が登位して国号を替えたからだと答えた。そして、海東に大倭国があり、君子国にして敦(あつ)く礼儀が行われていると聞いているが、使者等の身なり(儀容)はその通り(大浄)であり、伝聞は納得できると語り、去った」。

 703年、粟田真人を正使とする一行が長安に着き、時の皇帝・則天との謁見が叶う。真人は東夷人でありながら容姿端麗であり、中国のエリート官僚(科挙の上位合格者)のように「四書五経」を読み、自ら文章を書くとして唐(則天武后の周)で絶讃されている。他に高橋笠間ら。これらの者に大寳律令を持たせ唐へ派遣した。このとき遣唐使は初めて「倭國」からではなく、「日本國」からの朝貢であると名乗った。

 唐人は日本国ではなくて大倭国について認識しており、「君子国にして敦(あつ)く礼儀が行われていると聞いている」としている。この逸話は「倭国から日本国への変遷」を垣間見せる点で貴重である。これをもう少し詳しく確認してみる。

 945年、後晋(936-946)の時代、旧唐書(舊唐書、くとうじょ)が著わされる。中国の正史である。唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれている。その第199巻東夷列伝の「日本國」の条に粟田真人の証言に基づいて次の意味のことが書かれている。
 「大和朝廷の日本國はかって魏に朝貢した九州の女王國・倭國とは異なる。大和朝廷は日出ずる国であるという理由で「日本」を国号とした。あるいは、大和朝廷は自ら「倭國」の呼び名が雅(みやび)ではないのを悪(にく)んで改めて「日本」とした。日本國はもと(葦原中國という)小国であったが、女王國・倭國を併合した(日本國者倭國之別種也以其國在日辺故以日本爲名或曰倭國自悪其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地)」。

 704年、粟田真人は帰国の途についた。663年の白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて途中五島列島に漂着するも無事帰朝した。 

 明の時代の1532年に描かれた「四海華夷總圖」では、「日本國」と「大琉球」との間に「倭」が描かれている。粟田真人の証言は重視されていて、中国は、日本國はかつての大国である女王國・倭國とは異なると認識した。魏に朝貢した記録がある「倭」は日本國に併合されても九州に存在するとして長く認識されていたことが分かる。なお、図の西(左のほう)にある「大秦國」はローマ帝国。ハリウッド映画「グラディエーター」に出てくる「マルクス帝」の名は西暦166年に後漢に伝わっていた。

 旧唐書に遅れること16年、北宋代の961年に完成した唐会要(とうかいよう)が、倭国の条と日本国の条を二本立てで並立記述している。唐会要は唐代に編まれた底本(現存しない)たる800年頃に成った「会要」とその50年ほど後に成った「続会要」とを基に著述されている。この二書が後の日本国に当時においては倭国と日本国が鼎立していたことを物語っており、倭国の条で「倭国は、古の倭奴国なり」、日本国の条で「日本国は、倭国の別種なり」と記している。異伝として「倭国が国号を更えて日本と為す」と「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」を記している。後者は、日本国が倭国を併合したと云う主旨であり、倭国の王統(皇統)を廃し、日本国の王家が倭国の王家を臣下に組み込んだか滅ぼしたかを意味する。「日本国は、倭国の別種なり」とは、「日本国は倭国と同じ言葉を話す同種族だが、王家を異にする異なる国である」と解することができる。朝鮮の史書「三国史記」の新羅本紀の文武王10年12月の条に「倭国更(か)えて日本を号す」とある。大宝年間を境に倭国号が廃され日本国号が用いられるようになったのではなかろうか。

 旧唐書より前の隋書及びそれ以前の正史では倭国ないし「たい国」とあり、日本国なるものは登場していない。対して、それより後の新唐書や宋史などの正史では日本国のみの登場となる。旧唐書と唐会要が倭国と日本国を併記している。

 宋史外国伝の日本国の条は次の逸話を記している。宋史に採録されており史料の信頼度は高い。日本の東大寺僧のちょう然が入宋し宋帝に謁見した時、筆談で次のように語った。
 「国王は王を以って姓と為し、その王統は64世続いている」。
宋史は続いてちょう然が提出した「王年代記」に触れ、神武以下「王」姓の64世王統に属さない倭王・自多利思比孤(じたりしひこ)に言及し、「按ずるに」と断った上で、「その姓を阿毎(あめ)とし、その王統は後に(日本国王朝の国使である)朝臣真人らを遣わした」としている。
 

 同年12月、持統太上天皇崩御。諡号は「大倭根子天之広野日女尊」(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)。


 この年、大宝律令を施行。諸国に度量器を頒布。


 703(大宝3)年、刑部親王(忍壁皇子)を知太政官事に任ずる。庚午年籍を造籍する。


 704(大宝4)年、国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定された(例、科野→信濃)。


 704(慶雲元)年、元年(704)正月11日、二品の長親王・舍人親王・穂積親王、三品の刑部親王の封戸を、それぞれ百戸宛増加させた。益封各二百戸。三品の新田部親王・四品の志紀親王にそれぞれ百戸宛を、右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千一百七十戸を、大納言で従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を、その他の三位以下、五位以上の14人には、それぞれ差はあったが増封された。


【版図拡大】
 南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。藤原不比等の女宮子を夫人とし、首皇子(のちの聖武天皇)をもうけた。

 707(慶雲4).4.15日の条、余命2ヶ月の文武は、勅(みことのり)を以って藤原不比等及び鎌足以来の藤原朝廷家を顕彰している。「汝、藤原朝廷の仕え奉る状は、今(文武朝)のみにあらず。(中略)かけまくもかしこき天皇の御世御世に仕え奉りて、今もまた朕の卿(重臣)となりて云々」。


【文武天皇崩御】
 707(慶雲4).6.15日、崩御(享年25歳)。諡号は二つあり、続日本紀は「倭根子豊祖父天皇」(やまとねことよおほぢのすめらみこと)、続日本紀は「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)と記している。この間、藤原不比等が政治を補佐し、その間30数回吉野を行幸している。

 夫人は公式記録の続日本紀には妃や皇后を持った記録はない。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、 何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。このことについて梅原猛はその著書『黄泉の王』で、文武の妃は紀皇女だったが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのがこの説の核心となっている

 皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。

 子女は首皇子(聖武天皇)、皇居は藤原京。陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字栗原にある檜隈安古岡上陵(桧隈安古岡上陵、ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。考古学名は栗原塚穴古墳。ただし、八角墳であり横口式石槨を持つ明日香村平田の中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力である。




(私論.私見)