別章【壬申の乱前後考】 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).11.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
高天原王朝と出雲王朝による国譲り譚が日本古代政治史上最大の政変とすれば、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟とされる大海人皇子の間で繰り広げられた「壬申の乱」は大和王朝史上最大の政変と云うべきであると同時にミステリーとなっている。以下、これを検証する。 2008.8.2日再編集 れんだいこ拝 |
第38代、天智天皇の御代 |
【百済滅亡】 |
660(斉明天皇7)年、百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の名将・鬼室福信が唐と新羅を相手に百済復興の抵抗運動を始めた。中大兄皇子は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。 |
【豊璋と鬼室福信間に紛争が起る】 |
ところが、豊璋と鬼室福信間に紛争が起り、豊璋が鬼室福信に謀叛の疑いがあるとして捕縛し、首を刎ねて首を切り落とした。関裕二氏は、著書「蘇我氏の正体」の中で、この豊璋が再来日して中臣鎌足と名乗った形跡があるとして同一人物説を打ち出している。 |
661(斉明天皇7年).5月、斉明天皇、自ら九州の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に赴く。斉明天皇は、遠征の軍が発する前に亡くなった。
662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。 |
【白村江の戦い】 |
663(天智天皇2)年、即位以前のこの年、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。これを白村江の戦いと云う。この戦いで大敗を期し、百済復興戦争は大失敗に終わった。このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させた。 |
【中大兄皇子の治世】 |
664(天智3)年、更に細分化され冠位二十六階に改訂されている。これらは、冠位十二階に組み込まれなかった大臣(おおおみ)などを冠位制の序列に組み込もうとした試みだと考えられる。しかしながら大臣は依然として旧冠を使用していたと云われている。 天智天皇の御世、国内の政治改革も急進的に行われた。しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだ。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族、民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。 |
665年、唐の使節の劉徳高が2千名で来日。
【中大兄皇子が大津宮に遷都し即位する】 |
667(天智6)年、中大兄は都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江大津宮に遷都した。 668(天智7).1月、中大兄が即位する。 同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方もある)。 |
【新羅が高句麗を滅ぼす】 |
668(天智7)年、新羅が唐と共に高句麗を攻め滅ぼす。 |
【大海人皇子】 |
大海人皇子の子(おおあまのみこ、日本書紀は「皇太弟」と記す)。父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟とされている。但し、これを疑う説もある。 |
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大海人皇子と天智天皇の同母弟関係つまり兄弟とすると生年の辻褄が合わない事が確認されつつある。してみれば、天智朝を支える「弟的扶翼関係」を意味して兄弟としているとも考えられる。天智を天津正系、大海人皇子を国津出雲系と捉え、天智朝は両者の均衡と拮抗の上に成立していたと考えるべき余地があると思う。 2008.8.2日 れんだいこ拝 |
正妻は初め大田皇女で、二人の御子が大津皇子と大伯皇女である。その死後、菟野皇女(後の持統天皇)に代わったものと思われる。菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。御子には他にも、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子、弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)、新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子、紀皇女、田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子、礒城皇子、泊瀬部皇女、多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。 なお諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、新撰姓氏録には右京、摂津国居住の凡海連が見える。ほかにも周防、長門、尾張など各地に居住したことが史料から窺える。(「天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎」参照) 天智天皇の皇太弟として立太子し、改新政治に参与した。 668(天智7).5月、蒲生野の狩猟に従駕する。大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、天智改革への不満の醸成が後の壬申の乱の下地を作り、天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。 また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は万葉集に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。 |
670年3月、「冊府元亀」(11世紀に王欽若らが撰述)や新唐書、「史記正義」が、倭国使が上洛したと記す。これが中国史書に於ける倭国最後の消息となっている。 |
【大海人皇子が吉野に逃亡】 |
671(天智天皇10).10月、天智天皇が病に伏せ、大海人皇子に後継を持ちかけた。何らかの禅譲約束があったのかも知れない。天智天皇は当初は大海人皇子に皇位を譲る気で居たが、大友皇子に譲ることを考え始めた。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(即ち、大友皇子への継承)の導入を目指しており、大海人皇子勢力の不満を高めていた。 |
【天智天皇崩御】 |
671.12.3日、近江宮において天智天皇が崩御(享年46歳)。24歳の大友皇子が後継宣言する(近江朝)。 |
【天武と蘇我の関係考】 | |||
「嘘八百のこの世界」の「スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性」
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第39代、弘文天皇の御代 |
【大海人皇子が挙兵】 |
672.5月、舎人の朴井連雄君は近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めており、大海人皇子の命を狙っているとの情報を齋す。同じ頃、近江京と倭京の間に監視が置かれているなどの報も入り、大海人は身の危険を悟る。翌6.22日、村国連男依らを美濃国安八磨郡に派遣し、兵を起して不破の道を塞ぐことを命じる。 6.24日、大海人皇子は先手を取るべく吉野を出発し宇陀、伊賀、伊勢国を経由して尾張に向かった。この時同行したのは菟野皇女・草壁・忍壁以下、二十数名の舎人、十数名の女嬬のみであった。同日菟田の吾城に至り、大伴連馬来田・黄文造大伴らが吉野より追いつく。ここから、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子が皇位を廻る争いが勃発した。 途中、近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流。6.26日、朝明郡迹太川(朝明川)の辺で天照大神を望拝。数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り挙兵の準備をさせ、美濃の不破関に着き本陣を構えた。この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。6.27日、高市皇子の要請により大海人は不破に入る。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。郡家に至った頃、尾張国守小子部連{金偏に且}鉤(さひち)が2万の兵を率いて帰順。大海人は野上で高市皇子に逢い、軍事を一任。また吹負を倭(やまと)の将軍に任命し、奈良に軍を派遣。美濃に入り、東国からの兵力を集めた。 |
【壬申の乱】 |
大友皇子は、先手をとられて戦の準備に手間取った。7.2日、大海人皇子は、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。紀臣阿閉麻呂ら、数万の兵を率いて伊勢大山より倭に向かう。また村国男依らは数万の兵を率いて不破より近江に入る。近江側は不破を撃つため犬上川の辺に軍を敷いたが、内紛などのため進軍できず。近江の将軍羽田公矢国らは吉野に来帰し、越の国に向かう。 7.7日、二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、7.22日、瀬田川を挟んだ勢田橋(滋賀県大津市唐橋町)の最終決戦で勝利した。大友皇子は宮を脱出したが、7.23日、山崎で自害した。左右大臣群臣、みな散亡。乱は収束した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱となった。約1ヶ月に渡る後継者争いは大海人皇子の勝利となった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申(じんしん、みずのえさる)に当ることによる。 |
大海人皇子(天智天皇の弟)は、昔より「美濃国を制する者が天下を制する」と言われて来たのを受け、天智天皇の弟として美濃国に領地を賜り、金産山から産出する鉄や銅の鉱石の管理を一手に任され、美濃国の赤坂の地にある金産山(かなぶやま)の金や銅の鉱石を制し、秋(とき)を侍していた。「いつかは日を見る時が来る」と信じ、その時に備えて武器を造らせていた。 私的な武器を密かに大量に蓄えている事が発覚すると、いち早く察知された大海人皇子は素早く吉野山を脱した。美濃国赤坂の我が領地に帰り、直ちに皇祖を巡る天皇家の確執の違いを盾に美濃尾張の人々人民に武装させ、先ず金産山を制圧し、続いて近江朝廷軍を岐阜県不破の関峠に撃破し、大友皇子(第39代弘文天皇)を自決に追い込み、皇位を継承されて天武天皇となられた。 |
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乱の原因は単に親族の相続争いではなく、当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが背景にあったと見る見方もある。又、天武天皇の出自に大きな疑問があることを取り上げ、多くの人が論を繰り広げている。 |
40代、天武天皇の御代 |
【天武天皇即位】 |
673(天武2).2月、大海人皇子は天武天皇と称し飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。正妃に菟野皇女を立てて皇后とする。 天武天皇は大臣を置かず、皇后や皇子らとともに天皇の親族や皇族からなる皇親政治体制を確立した。留意すべきは、中臣鎌足-息子の藤原不比等を政権から締め出していることであり、このことが政局流動の原因を為す。 兄の天智天皇の遺業を発展させ、法典である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や、八色姓(やくさのかばね)の身分制度の制定、冠位制度の改定等に取り組み、中央集権の国家の体制づくりをめざした。大和朝廷がそれまでの「倭」を改めて、「日本」という国号を使いはじめたのもこの時期であるといわれている。 |
【天武天皇の御世】 |
同年3月、川原寺に一切経の書写を始めさせる(国史に残る最初の写経事業)。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。12.5日、大嘗祭に奉仕した中臣・忌部氏らに賜物(即位後の大嘗祭に関する確実な記事として最初のもの)。 |
【古事記編纂の詔】 |
673(天武紀2)年、天武帝の詔(みことのり)「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」を請けて古事記の編纂が開始された。 |
675(天武4).1.5日、初めて占星台を建てる。2.9日、諸国に歌の上手・小人・伎人を奉ることを命ずる。4.18日、麻續王を因幡国に配流。678(天武7).4.7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。 |
675(天武天皇4)年4月、肉食を禁止する「殺生肉食禁断の詔勅」を発布したと日本書紀に記されている。この詔では「犬・牛・馬・猿・鶏」の五畜(ごちく)の肉食を禁じている。五畜以外の、シカ、イノシシ、キジなどの肉は可とされていた。禁止期間は4月1日から9月30日までの農繁期だけの措置であった。この禁令はこれより江戸幕末の孝明天皇の御代まで1200年間続くことになる。この伝統は世界史的に極めて珍しい。 「殺生肉食禁断の詔勅史」は次の通り。721年、元正天皇の御代、「殺生禁断・放鳥獣」。725年、聖武天皇の御代、「殺生禁断」。736年、「牛馬の屠殺禁止」。752年、孝謙天皇の御代、「殺生禁断」の詔を宣下している。1127年、崇徳天皇の御代、「天下殺生の禁止・魚網の放棄・放鳥」。1130年、「狩猟禁止」。1188年、後鳥羽天皇の御代、「諸国殺生禁断」の詔を下している。かく肉食禁止の思想は広く浸透していった。 但し、在日宣教師のジョン・クラセの日本西教史によれば、当時の日本では肉と野菜をピラミッド状に山盛りにした料理が流行していたと記している。江戸時代の1643年の料理物語には、「シカは汁・煎焼、イノシシは汁に田楽、ウサギ、タヌキ、クマ、カワウソ、イヌなどを汁にして食す」と記されている。1815年の松屋筆記には、「文化・文政年間より、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これを食べる者がおり、イノシシの肉を山鯨(やまくじら)、「シカの肉を紅葉(もみじ)と称す」。「クマ、オオカミ、タヌキ、イタチ、キネズミ、サルなども食べられているのは、哀しむべし、嘆くべし」と書かれている。十四代将軍家茂の時代には「鳥はウズラやカリの外は一切用いず、獣肉はウサギの外は一切用いず」との記録がある。その一方、天明から嘉永年間には、彦根城主から寒中見舞として、牛肉の味噌漬が将軍家に献上されている記録がある。 |
677(天武天皇6)年、「天武天皇6年」と記載の物と共に「天皇聚露弘(天皇が露(つゆ)を聚(あつ)めて弘(ひろ)く)」と書かれた木簡が奈良県飛鳥池古墳から出土した。この考古学的発見によって、それまでの「大王」から「天皇」への改称がなされた時期が、天武天皇(第40代)~持統天皇(第41代・天武天皇の皇后)の時代であることが判った。672年の壬申の乱後の頃から「天皇」が登場したことになる。 |
679(天武8).5.5日、吉野行幸。翌5.6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。同年10月、勅で僧尼の民間活動を禁ずる。11月、竜田山・大阪山に関所を設け、難波に羅城(城壁)を築く。 |
680(天武9).5.1日、綿布などを京内の24寺に施入。この日、初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。11.12日、皇后、不豫。治癒を願って薬師寺の建立を始める。11.26日、天皇、不豫。僧百人を得度するとしばらくの後平癒。 |
681(天武10).2.25日、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。同日、草壁皇子、立太子(20歳)。一切の政務に与からせる。 |
【日本書紀編纂の詔】 |
681(天武10).3.17日、天武天皇が、川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、美努王(栗隈王の子)、中臣連大嶋ら12名に「帝紀及び上古諸事」記定を命ず。これが日本書紀修史事業の始まりとされている。歴代天皇の記録「帝記」、上古諸事の記録「旧辞」を検証、撰録し、国家の精神的支柱としての「王化之鴻基」(天皇の徳に感化させる基礎理論書)の体系を作る意図があった。これにより、高天原糸と出雲系の神話の調整が進められ、ニギ速日の命の取り扱いに悩むこととなった。これが、714(和銅7)年の古事記編纂、720(養老4)年の日本書紀編纂に受け継がれていく。 |
681(天武10).7.4日、遣新羅使・遣高麗使。 |
682(天武11).9.2日、跪礼・匍匐礼を禁じ、難波朝廷(孝徳)の時の立礼を用いる。12月3日、諸氏の氏上を申告制とする。 |
683(天武12).正月、天皇を「明神(あきつかみ)御大八洲(みおおやしましらす)倭根子(やまとねこ)天皇(すめらみこと)」と記す詔勅を下す。 同2.1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。3月2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。 |
684(天武13)年閏4.5日、政治における軍事の重要性を説き、文武官に武器の用法と乗馬の練習を課す。また衣服の規定を設ける。10.1日、八色の姓制定。 685(天武14).1月、冠位四十八階を制定。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。 |
3.27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7.26日、朝服の色を定める。9.24日、不豫。11.24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。
686(天武15).5.17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6.10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7.15日、政を皇后・皇太子に託す。7.20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。 |
投稿者:守谷健二の2016-11-04 1 「[2034]天武天皇の正統性について」の「大伴安麿の妻・石川郎女について」。
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【天武天皇崩御】 |
686(天武15).9.9日、崩ず。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)に葬られる。『皇胤紹運録』は享年65とするが、中大兄より年長となり信じ難い。56歳の誤りと見る説もある。万葉集には上記3首(01/0021・0025・0027)のほか、藤原夫人(不比等の異母妹五百重娘。氷上大刀自ともいう)に賜う歌(02/0103)がある。また皇后(持統天皇)作の挽歌がある(02/0159~0161)。 天武即位前紀によれば、大海人皇子は生まれつき勝れた容姿をもち、長じて雄々しく武徳を備え、天文・遁甲(占術)を能くした。菟野皇女を正妃とし、天智元年(天智が即位した年、すなわち天智称制7年を指すか)に東宮となった、とある。 天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進する一方、仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。 |
41代、持統天皇の御世 |
【持統天皇即位】 | ||
天智天皇の第2皇女(皇后)にして母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉に大田皇女(大津皇子の母)がいる。 657(斉明3))年、13歳の時、叔父の大海人皇子に嫁す。 661(斉明7)年、斉明天皇の新羅遠征の際、夫と共に九州へ随行する。 翌年、筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。 同年、父中大兄皇子が皇位を継承し天智天皇となり、夫の大海人は皇太子に就いた。673年の天武天皇即位後、皇后となった。在位は686ー697年。和風諡号として、「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)、「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)。第42代文武天皇、第44代元正天皇の祖母、大友皇子(第39代弘文天皇)の異母姉。 直後の10月、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子にして甥の大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んだ。飛鳥浄御原令を施行した。 686年1月、天武天皇の皇后・鸕野皇女 (うののさららのひめみこ、菟野讃良皇女、645ー703(大宝2).1.13日)が招請(しょうせい)され飛鳥浄御原宮で即位し第41代持統天皇となられた。以後、政務をとった。 689(持統3)年、2.26日、浄広肆の竹田王、直広肆の土師宿禰根麻呂、大宅朝臣麻呂、藤原朝臣史、務大肆の当麻真人桜井、穂積朝臣山守、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、大三輪朝臣安麻呂を判事となす。
藤原不比等を大抜擢した。 696(持統10)年、7.10日(8月13日)、軽皇子の伯父に当る高市皇子が薨ず。
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持統天皇は天皇家始まって以来初めて御詫びの為の伊勢神宮の御遷宮を執り行い、伊勢の神【天照皇大御神】にお詫びになられた。しかもこのお詫びを風化させない為に弐拾年毎に造り替えをする【式年遷宮制度】を定めになった。吉野では、丹生家筆頭の️役小角がが中心となり、18家(天皇家の分家)で20年毎に交代して、吉野山の水分神社をお守りしていた。これに従いそのままに式年遷宮制度を定めた。 持統天皇の天武死後の31回もの吉野詣でが注目されている。(以下、「法螺と戯言」の2013.7.15日付けブログ「持統天皇吉野詣時系列から検出される千日周期」を参照する) 日本書紀巻三十(持統天皇紀)が記す全ての旅行記事(広瀬・龍田を除く)をまとめると、最短で3日(7回目)、最長で20日(13回目)にわたる吉野詣でが繰り返されている。且つ「千日詣で周期」が確認できる。最初の吉野詣では天武死去後865日目であるが、天武死去の公式発表が操作されていたと考えられる。11回目がその千日後、31回目が3千日後になっている云々。 |
42代、文武天皇の御世 |
【文武天皇即位】 |
697(持統11)年、2.16日(3.13日)、父・草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)、母・阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。 同(文武天皇元)年、8.1(8.22)日、祖母・持統天皇が譲位し、軽皇子が15歳にして第42代、文武天皇として即位した。持統天皇が天皇を後見し、 初めて太上天皇(上皇)を名乗った。8.17(9.7)日、即位の詔を宣した。 文武天皇即位事情につき「懐風藻」が次のように記している。持統天皇が皇位継承者である日嗣を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。その際に葛野王が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。弓削皇子が何か発言をしようとしたが葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんだ。持統天皇は、この一言が国を決めたと大変喜んだ。そもそも天武、持統両天皇の御代、後継者として草壁皇子を定め皇太子に立てていた。その草壁皇子が即位目前の589年に没し、持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させようとして、その成長を待つ間は自ら皇位についた。但し、天武天皇には草壁皇子以外にも母親の違う皇子がほかにおり皇位継承は常に難事にして波乱含みであった。 |
698(文武2)年、3.10日の条、諸国の郡司が任命され、且つ郡司任命に際しての規範が詔をもって示された。
【藤原朝臣不比等の登用】 |
698(文武2)年、8.19日、文武天皇が次のように詔された。藤原朝臣に賜った姓は、その子の不比等に継承させる。ただし意美麻呂は、氏族本来の神祇のことを司っているから旧姓の中臣に戻すべきである。 |
698(文武2)年、11.23日、大嘗祭を行った。 |
700(文武4)年、6.17日、浄大参の刑部親王(おさかべのみこ)、直広壱の藤原朝臣不比等、粟田真人らに勅して律令を選定させられた、その人々に対して、身分に応じて物を賜った。(続日本紀) |
【この頃の兵乱】 |
朝鮮の「三国史記」新羅本紀の孝照王8年(699年)の条は次のように記し、日本列島で兵乱のあったことを暗示している。「7月に東海の水が血の色になったが、5日後に復した。9月に東海まで戦いの声がし、王都まで聞こえた。兵庫の武器がひとりでに鳴った」。 |
【二重年号の終焉】 |
700(文武4)年、大和王朝史年号とは別に存在してきた、いわゆる「倭国年号」が終焉している。「倭国年号」とは、522年の善記から始まり、正和、教到、僧聴と続き、日本書紀で言及されている白雉(はくち)、朱鳥(しゅちょう)を経て695年の大化が最後となっている別系年号である。これを証するのが鎌倉時代後期(1318-1339年)に編纂された百科辞典「二中歴」(にちゅうれき)、1401年編纂の「麗気記私抄」(れいききししょう)、1570年頃成立の「如是院ねんだいき」(にょぜいんねんだいき)等である。1471年成立の朝鮮国の申叔舟(しんしゅくしゅう)が著した「海東諸国記録」、1604-09年成立のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドりゲスが著した「日本大辞典」でも確かめられる。鶴峯戌申(つるみねしげのぶ)が1820年に著した「襲国偽僭考」(そこくぎせんこう)も記している。 「倭国年号」を記す史料はかなりの数が確認されている。「評(こほり)」の場合と同様で全国的な広がりを持つ。北は1606年に墨書きされた山形県の「羽黒山棟札」に「照勝(しょうしょう)四戊辰」。1764年に書かれた埼玉県の「増補秩父神社由来」の「明要六年初勧請」。南は大分県の宇佐八幡宮に伝わる「八幡由来記」の「善記元年壬申寅」。福岡県の英彦山の「彦山流記(ひこさんるき)」。その数凡そ500以上と云われている。 |
701(大宝元)年、正月元日、朝賀。続日本紀は「文物の儀、ここに於いて備われり」と記す。
【この頃の政争】 |
この頃の政争が興味深い。これに関連して言及しておくと、竹取物語は大宝元年の世が物語の舞台設定である。かぐや姫に五人の貴公子が求婚しいずれも失敗する筋書きの物語となっているが、「石作(いしつくり)の皇子(みこ)」、「車持(くらもち)の皇子」、「右大臣阿倍のみむらじ」、「大納言大伴のみゆき」、「中納言石上(いそのかみ)のまろたり」の描写が興味深いものとなっていることに気づく。 |
【大伴宿禰御行の逝去、柿本人麻呂の失脚】 |
701(大宝元)年、正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで直広肆(従五位相当)の榎井朝臣倭麻呂らを使わして葬儀を指揮させられた。直広壱(正四位相当)の藤原朝臣不比等らを邸に使わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。 (続日本紀)。他方、大伴宿禰御行逝去の翌日、朝廷は皇親、百寮(百官)を朝堂に集めて踏歌の宴会を催し歓楽を極めている。 |
【藤原朝臣不比等の権勢絶頂期に入る】 |
701(大宝元)年、3.21日、対馬が金を献じた。そこで新しく元号を立てて大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。(以下略)。
左大臣で正広弐)正二位相当)の治比真人嶋正に正冠の二位。大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱(正四位上相当)の石上朝臣麻呂と直広壱(正四位下相当)の藤原朝臣不比等ら正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐(従四位下相当)の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。また諸王十四人と諸臣百五人については、それぞれの位号おをあらため、地位に応じて位階を昇進させた。 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日中納言の官職を廃止した。 |
【大宝律令】 |
701(大宝元)年、文武天皇の時代、藤原不比等を用いて「律」6巻、「令」11巻の全17巻から成る大宝(寳)律令を完成させ、翌年公布した。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。唐の律令を参考にしたと考えられており、日本も唐に学んで法治国家となっ。大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700(文武4)年に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701(大宝元)年、8.3日、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂らである。 |
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。 大宝律令を全国一律に施行するため、同年8.8日、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702(大宝2)年、2.1日、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10.14日には大宝律令を諸国に頒布した。
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。 大宝律令において初めて日本の国号が定められた。冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。以下は復元の一例である。
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702(大宝2)年、正月、朝賀に際して「親王と大納言以上の官人は、始めて礼服を着し、諸王とそれ以外の官人は朝服を着した」。
2.13日、諸国の国造たちを都に呼びつけ、祭祀に用いる大幣(おおぬさ)を班給した。
3月、続日本紀が「初めて度器と量器を天下の諸国に頒布した」と記す。日本版度量衡の統一化であり、物差しと桝(ます)を全国に配ったことになる。
4.13日の条、国造となるべき氏族を定める。先代公事本紀によれば、国造の多くは古からの世襲であり、列島に135家あったとされている。
【倭国から日本国への変遷】 | |||
斉藤忠「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎」(学研パブリッシング、2011.3.8日初版)その他を参照する。
703年、粟田真人を正使とする一行が長安に着き、時の皇帝・則天との謁見が叶う。真人は東夷人でありながら容姿端麗であり、中国のエリート官僚(科挙の上位合格者)のように「四書五経」を読み、自ら文章を書くとして唐(則天武后の周)で絶讃されている。他に高橋笠間ら。これらの者に大寳律令を持たせ唐へ派遣した。このとき遣唐使は初めて「倭國」からではなく、「日本國」からの朝貢であると名乗った。 唐人は日本国ではなくて大倭国について認識しており、「君子国にして敦(あつ)く礼儀が行われていると聞いている」としている。この逸話は「倭国から日本国への変遷」を垣間見せる点で貴重である。これをもう少し詳しく確認してみる。 945年、後晋(936-946)の時代、旧唐書(舊唐書、くとうじょ)が著わされる。中国の正史である。唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれている。その第199巻東夷列伝の「日本國」の条に粟田真人の証言に基づいて次の意味のことが書かれている。
704年、粟田真人は帰国の途についた。663年の白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて途中五島列島に漂着するも無事帰朝した。 明の時代の1532年に描かれた「四海華夷總圖」では、「日本國」と「大琉球」との間に「倭」が描かれている。粟田真人の証言は重視されていて、中国は、日本國はかつての大国である女王國・倭國とは異なると認識した。魏に朝貢した記録がある「倭」は日本國に併合されても九州に存在するとして長く認識されていたことが分かる。なお、図の西(左のほう)にある「大秦國」はローマ帝国。ハリウッド映画「グラディエーター」に出てくる「マルクス帝」の名は西暦166年に後漢に伝わっていた。 旧唐書に遅れること16年、北宋代の961年に完成した唐会要(とうかいよう)が、倭国の条と日本国の条を二本立てで並立記述している。唐会要は唐代に編まれた底本(現存しない)たる800年頃に成った「会要」とその50年ほど後に成った「続会要」とを基に著述されている。この二書が後の日本国に当時においては倭国と日本国が鼎立していたことを物語っており、倭国の条で「倭国は、古の倭奴国なり」、日本国の条で「日本国は、倭国の別種なり」と記している。異伝として「倭国が国号を更えて日本と為す」と「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」を記している。後者は、日本国が倭国を併合したと云う主旨であり、倭国の王統(皇統)を廃し、日本国の王家が倭国の王家を臣下に組み込んだか滅ぼしたかを意味する。「日本国は、倭国の別種なり」とは、「日本国は倭国と同じ言葉を話す同種族だが、王家を異にする異なる国である」と解することができる。朝鮮の史書「三国史記」の新羅本紀の文武王10年12月の条に「倭国更(か)えて日本を号す」とある。大宝年間を境に倭国号が廃され日本国号が用いられるようになったのではなかろうか。 旧唐書より前の隋書及びそれ以前の正史では倭国ないし「たい国」とあり、日本国なるものは登場していない。対して、それより後の新唐書や宋史などの正史では日本国のみの登場となる。旧唐書と唐会要が倭国と日本国を併記している。 宋史外国伝の日本国の条は次の逸話を記している。宋史に採録されており史料の信頼度は高い。日本の東大寺僧のちょう然が入宋し宋帝に謁見した時、筆談で次のように語った。
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同年12月、持統太上天皇崩御。諡号は「大倭根子天之広野日女尊」(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)。
この年、大宝律令を施行。諸国に度量器を頒布。
703(大宝3)年、刑部親王(忍壁皇子)を知太政官事に任ずる。庚午年籍を造籍する。
704(大宝4)年、国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定された(例、科野→信濃)。
704(慶雲元)年、元年(704)正月11日、二品の長親王・舍人親王・穂積親王、三品の刑部親王の封戸を、それぞれ百戸宛増加させた。益封各二百戸。三品の新田部親王・四品の志紀親王にそれぞれ百戸宛を、右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千一百七十戸を、大納言で従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を、その他の三位以下、五位以上の14人には、それぞれ差はあったが増封された。
【版図拡大】 |
南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。藤原不比等の女宮子を夫人とし、首皇子(のちの聖武天皇)をもうけた。 |
707(慶雲4).4.15日の条、余命2ヶ月の文武は、勅(みことのり)を以って藤原不比等及び鎌足以来の藤原朝廷家を顕彰している。「汝、藤原朝廷の仕え奉る状は、今(文武朝)のみにあらず。(中略)かけまくもかしこき天皇の御世御世に仕え奉りて、今もまた朕の卿(重臣)となりて云々」。
【文武天皇崩御】 |
707(慶雲4).6.15日、崩御(享年25歳)。諡号は二つあり、続日本紀は「倭根子豊祖父天皇」(やまとねことよおほぢのすめらみこと)、続日本紀は「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)と記している。この間、藤原不比等が政治を補佐し、その間30数回吉野を行幸している。 夫人は公式記録の続日本紀には妃や皇后を持った記録はない。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、 何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。このことについて梅原猛はその著書『黄泉の王』で、文武の妃は紀皇女だったが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのがこの説の核心となっている 皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。 子女は首皇子(聖武天皇)、皇居は藤原京。陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字栗原にある檜隈安古岡上陵(桧隈安古岡上陵、ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。考古学名は栗原塚穴古墳。ただし、八角墳であり横口式石槨を持つ明日香村平田の中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力である。 |
(私論.私見)