壬申の乱前後神話考

 (最新見直し2008.8.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 高天原王朝と出雲王朝による国譲り譚が日本古代政治史上最大の政変とすれば、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟とされる大海人皇子の間で繰り広げられた「壬申の乱」は大和王朝史上最大の政変と云うべきであると同時にミステリーとなっている。以下、これを検証する。

 2008.8.2日再編集 れんだいこ拝


 653(白雉4)年、孝徳天皇の御世、皇太子中大兄が難波より倭京に遷ることを奏して許されず、皇祖母尊(前天皇皇極)・間人皇后らと飛鳥河辺行宮に移ったとき、これに同行する。この時の日本書紀の記事には「皇弟」とある。

 654(白雉5).10月、天皇の不豫に際し、皇太子と共に難波に赴く。この年か翌年、長男高市が生れる。

 662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。

【白村江の戦い】
 663(天智天皇2)年、即位以前のこの年、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。これを白村江の戦いと云う。この戦いで大敗を期し、百済復興戦争は大失敗に終わった。このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させた。

【天智天皇即位】
 667(天智6)年、中大兄は都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江大津宮に遷都した。

 668(天智7).1月、中大兄が即位。

 同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方もある)。

【天智天皇の御世】
 664(天智3)年、更に細分化され冠位二十六階に改訂されている。これらは、冠位十二階に組み込まれなかった大臣(おおおみ)などを冠位制の序列に組み込もうとした試みだと考えられる。しかしながら大臣は依然として旧冠を使用していたと云われている。

 天智天皇の御世、国内の政治改革も急進的に行われた。しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだ。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族、民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。

大海人皇子
 大海人皇子の子(おおあまのみこ、日本書紀は「皇太弟」と記す)。父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟とされている。但し、これを疑う説もある。

(私論.私見)

 大海人皇子と天智天皇の同母弟関係つまり兄弟とすると生年の辻褄が合わない事が確認されつつある。してみれば、天智朝を支える「弟的扶翼関係」を意味して兄弟としているとも考えられる。天智を天津正系、大海人皇子を国津出雲系と捉え、天智朝は両者の均衡と拮抗の上に成立していたと考えるべき余地が有ると思う。

 2008.8.2日 れんだいこ拝

 正妻は初め大田皇女で、二人の御子が大津皇子と大伯皇女である。その死後、菟野皇女(後の持統天皇)に代わったものと思われる。菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。御子には他にも、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子、弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)、新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子、紀皇女、田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子、礒城皇子、泊瀬部皇女、多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。

 なお諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、新撰姓氏録には右京、摂津国居住の凡海連が見える。ほかにも周防、長門、尾張など各地に居住したことが史料から窺える。(「天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎」参照)

 天智天皇の皇太弟として立太子し、改新政治に参与した。

 668(天智7).5月、蒲生野の狩猟に従駕する。大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、天智改革への不満の醸成が後の壬申の乱の下地を作り、天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。 また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は万葉集に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。

【大海人皇子が吉野に逃亡】

 671(天智天皇10).10月、天智天皇が病に伏せ、大海人皇子に後継を持ちかけた。何らかの禅譲約束があったのかも知れない。天智天皇は当初は大海人皇子に皇位を譲る気で居たが、大友皇子に譲ることを考え始めた。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(即ち、大友皇子への継承)の導入を目指しており、大海人皇子勢力の不満を高めていた。

 同年10.17日、病に臥していた天智天皇は東宮を臥内に召し入れ、「後事を以て汝に属(つ)く」云々と伝えるが、危険を察知した大海人皇子は、「洪業を奉じて大后に付属せむ。大友王をして諸政を奏宣せしめむ。臣は天皇の奉為に出家修道せむことを」と請願した。天武即位前紀によれば、東宮に派遣された蘇我臣安麻呂が大海人に注意を促し、これにより大海人は天皇に謀略があることを疑い、天智天皇の寵愛する太政大臣・大友皇子を推挙し自ら出家を申し出固辞した。こうして身の危険を避けたと云う事になる。

 大海人皇子は、先手をとって大津宮(当時の都)を離れ、大和(奈良県)の吉野に遁世することを言上する。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れ、同月19日、吉野での修行仏道を天皇に請い許される。大海人は直ちに内裏仏殿に向かい、剃髮して沙門となった。ここうして、出家して妻子と共に吉野へ向かった。

【天智天皇崩御】
 671.12.3日、近江宮において天智天皇が崩御(享年46歳)。24歳の大友皇子が後継宣言する(近江朝)。

【大海人皇子が挙兵】
 672.5月、舎人の朴井連雄君は近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めており、大海人皇子の命を狙っているとの情報を齋す。同じ頃、近江京と倭京の間に監視が置かれているなどの報も入り、大海人は身の危険を悟る。翌6.22日、村国連男依らを美濃国安八磨郡に派遣し、兵を起して不破の道を塞ぐことを命じる。

 6.24日、大海人皇子は先手を取るべく吉野を出発し宇陀、伊賀、伊勢国を経由して尾張に向かった。この時同行したのは菟野皇女・草壁・忍壁以下、二十数名の舎人、十数名の女嬬のみであった。同日菟田の吾城に至り、大伴連馬来田・黄文造大伴らが吉野より追いつく。ここから、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子が皇位を廻る争いが勃発した。

 途中、近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流。6.26日、朝明郡迹太川(朝明川)の辺で天照大神を望拝。数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り挙兵の準備をさせ、美濃の不破関に着き本陣を構えた。この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。6.27日、高市皇子の要請により大海人は不破に入る。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。郡家に至った頃、尾張国守小子部連{金偏に且}鉤(さひち)が2万の兵を率いて帰順。大海人は野上で高市皇子に逢い、軍事を一任。また吹負を倭(やまと)の将軍に任命し、奈良に軍を派遣。美濃に入り、東国からの兵力を集めた。

【壬申の乱】

 大友皇子は、先手をとられて戦の準備に手間取った。7.2日、大海人皇子は、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。紀臣阿閉麻呂ら、数万の兵を率いて伊勢大山より倭に向かう。また村国男依らは数万の兵を率いて不破より近江に入る。近江側は不破を撃つため犬上川の辺に軍を敷いたが、内紛などのため進軍できず。近江の将軍羽田公矢国らは吉野に来帰し、越の国に向かう。

 大海人の東国入りを知った近江朝廷の大友皇子側は、東国・倭京・筑紫・吉備に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。筑紫大宰栗隈王は挙兵を拒絶。この頃、大伴吹負は倭京に留まり、吉野側への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。7.4日、吹負は近江の将大野君果安と奈良山で合戦するが、敗走。

 この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの増援が到着して吹負の窮境を救った。東道将軍紀阿閉麻呂、置始莵(おきそめのうさぎ)と合流し、大和(奈良県)の箸墓で、大友皇子の軍と再戦し、今度は勝利した。

 7.7日、二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、7.22日、瀬田川を挟んだ勢田橋(滋賀県大津市唐橋町)の最終決戦で勝利した。大友皇子は宮を脱出したが、7.23日、山崎で自害した。左右大臣群臣、みな散亡。乱は収束した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱となった。約1ヶ月に渡る後継者争いは大海人皇子の勝利となった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申(じんしん、みずのえさる)に当ることに拠る。

 一方、敗走した吹負は再び兵を集め、當麻の衢で壱伎史韓国の軍と衝突。勇士来目らの功により近江軍を大破し、7.22、倭京を平定。7.26日、諸将は不破宮に参向。8.25日、近江群臣の重罪者を処刑。大海人皇子は挙兵のコースを逆にたどり、9.15日、飛鳥岡本宮に戻った。

(私論.私見)

 乱の原因は単に親族の相続争いではなく、当時の朝鮮半島情勢(新羅、百済の争い)および、その渡来人の争いが背景にあったと見る見方も有る。又、天武天皇の出自に大きな疑問があることを取り上げ、多くの人が論を繰り広げている。


【天武天皇即位】
 673(天武2).2月、大海人皇子は天武天皇と称し飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。正妃に菟野皇女を立てて皇后とする。

 天武天皇は大臣を置かず、皇后や皇子らとともに天皇の親族や皇族からなる皇親政治体制を確立。兄の天智天皇の遺業を発展させ、法典である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や、八色姓(やくさのかばね)の身分制度の制定、冠位制度の改定等に取り組み、中央集権の国家の体制づくりをめざした。大和朝廷がそれまでの「倭」を改めて、「日本」という国号を使いはじめたのもこの時期であるといわれている。

【天武天皇の御世】
 同年3月、川原寺に一切経の書写を始めさせる(国史に残る最初の写経事業)。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。12.5日、大嘗祭に奉仕した中臣・忌部氏らに賜物(即位後の大嘗祭に関する確実な記事として最初のもの)。

 675(天武4).1.5日、初めて占星台を建てる。2.9日、諸国に歌の上手・小人・伎人を奉ることを命ずる。4.18日、麻續王を因幡国に配流。678(天武7).4.7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。

 679(天武8).5.5日、吉野行幸。翌5.6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。同年10月、勅で僧尼の民間活動を禁ずる。11月、竜田山・大阪山に関所を設け、難波に羅城(城壁)を築く。

 680(天武9).5.1日、綿布などを京内の24寺に施入。この日、初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。11.12日、皇后、不豫。治癒を願って薬師寺の建立を始める。11.26日、天皇、不豫。僧百人を得度するとしばらくの後平癒。

 681(天武10).2.25日、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。同日、草壁皇子、立太子(20歳)。一切の政務に与からせる。3月、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・美努王(栗隈王の子)・中臣連大嶋らに「帝紀及上古諸事」記定を命ず(日本書紀編述の出発点か)。7.4日、遣新羅使・遣高麗使。

 682(天武11).9.2日、跪礼・匍匐礼を禁じ、難波朝廷(孝徳)の時の立礼を用いる。12月3日、諸氏の氏上を申告制とする。

 683(天武12).2.1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。3月2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。

 684(天武13)年閏4.5日、政治における軍事の重要性を説き、文武官に武器の用法と乗馬の練習を課す。また衣服の規定を設ける。10.1日、八色の姓制定。

 685(天武14).1月、冠位四十八階を制定。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。

 3.27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7.26日、朝服の色を定める。9.24日、不豫。11.24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。

 686(天武15).5.17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6.10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7.15日、政を皇后・皇太子に託す。7.20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。

【天武天皇崩御】
 686(天武15).9.9日、崩ず。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)に葬られる。『皇胤紹運録』は享年65とするが、中大兄より年長となり信じ難い。56歳の誤りと見る説もある。万葉集には上記3首(01/0021・0025・0027)のほか、藤原夫人(不比等の異母妹五百重娘。氷上大刀自ともいう)に賜う歌(02/0103)がある。また皇后(持統天皇)作の挽歌がある(02/0159〜0161)。

 天武即位前紀によれば、大海人皇子は生まれつき勝れた容姿をもち、長じて雄々しく武徳を備え、天文・遁甲(占術)を能くした。菟野皇女を正妃とし、天智元年(天智が即位した年、すなわち天智称制7年を指すか)に東宮となった、とある。

 天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進する一方、仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。

【持統天皇即位】
 以後、天武皇后の菟野讃良皇女 (うののさららのひめみこ、645ー703(大宝2).1.13日)が政務をとり、天皇の地位を継承した。これを持統天皇と云う。

 天智天皇の第2皇女にして母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉に大田皇女(大津皇子の母)がいる。657(斉明3))年、13歳の時、叔父の大海人皇子に嫁し、661(斉明7)年、斉明天皇の新羅遠征の際、夫と共に九州へ随行する。翌年、筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。同年、父中大兄皇子が皇位を継承し天智天皇となり、夫の大海人は皇太子に就いた。673年の天武天皇即位後、皇后となった。在位は686ー697年。和風諡号として、「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)、「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)。第42代文武天皇、第44代元正天皇の祖母、大友皇子(第39代弘文天皇)の異母姉。

 直後の10月、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子にして甥の大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んだ。飛鳥浄御原令を施行し、翌年1月、第41代天皇として飛鳥浄御原宮で即位した(持統天皇)。

 689(持統3)年、天武天皇の第二皇子にして皇太子の草壁皇子に先立たれ、以後は孫の軽皇子の成長に望みをかけた。

 690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、日本最初の都城制に基づく都を造営し、694年、藤原宮に遷都した。

 696年、軽皇子の伯父に当る高市皇子が薨ず。 

 持統天皇は万葉歌人としても知られ、万葉集巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇])天皇御製歌として名を留めている。
 「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
 (春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山)

【文武天皇即位】
  697.2月、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。同8.1日、持統天皇が譲位し、軽皇子が15歳にして第42代、文武天皇として即位した。持統天皇は天皇を後見し、 初めて太上天皇(上皇)を名乗った。

 701(大宝元)年、藤原不比等を用いて大宝律令を完成させ、翌年公布。冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

 南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。藤原不比等の女宮子を夫人とし、首皇子(のちの聖武天皇)をもうけた。

 707(慶雲4).6.15日、崩御(享年25歳)。諡号は二つあり、続日本紀は「倭根子豊祖父天皇」、続日本紀は「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)と記している。この間、藤原不比等が政治を補佐し、その間30数回吉野を行幸している。




(私論.私見)