神武天皇系大和王朝建国神話考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古事記は中巻(なかつまき)で、1代・神武天皇76年、2・綏靖天皇、3・安寧天皇、4・懿徳天皇、5・孝昭天皇、6・孝安天皇102年、7・孝霊天皇、8・孝元天皇、9・開化天皇、10・代崇神天皇68年、11・垂仁天皇69年、12・景行天皇60年倭建命、13・成務天皇60年、14仲哀天皇神功皇后、15・応神天皇41年。下巻(しもつまき)で、16・仁徳天皇87年、17・履中天皇、18・反正天皇、19・允恭天皇、20・安康天皇、21・雄略天皇、22・清寧天皇、23・顕宗天皇、24・仁賢天皇、25・武烈天皇、26・継体天皇、27・安閑天皇、28・宣化天皇、29・欽明天皇、30・敏達天皇、31・用明天皇、32・崇峻天皇、33・推古天皇までが記されている。仮に建国神話として、15代までの逸話撰をここに記す。

 全体のモチーフは、大和王朝の政権足固め、全国平定の様を記述することで貫かれている。但し、戦前の皇国史観が避けているところであるが、国譲り以来政治から手を引いた旧出雲王朝勢力との暗闘が裏面史となっている。ここを見て取らないと味気ない大和王朝建国神話譚になってしまおう。実際は味気なく語られている。それをもって日本神話とするには片手落ちと云うべきだろう。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


【「欠史八代」考】
 二代綏靖天皇から九代開化天皇の時代は系譜を記すだけで治績が書かれていない。このことを理由に、記紀の創作だとして「欠史八代」と呼んで実在を否定する説がある。但し、大平裕氏は、それぞれの后・妃の出自等や、その氏族の活躍記録から詳しく論証し天皇の実在説を唱え欠史八代説を手厳しく批判している。

2代、綏靖天皇の御世

【神武天皇崩御、手研耳命(たぎしみみのみこと)の反逆事件譚】
 神武東征で日向から父の神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこの尊、神武天皇)と一緒に上って来られた異母兄の手研耳尊(たぎしみみの尊、タギシ美美の尊、以下「タギシミミ尊」と記す)は先妻の皇子であり、第一皇子の立場にあられた。タギシミミ尊は先帝・神武天皇の皇后で、自身にとっては継母の媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)を正妃としておられた。

 タギシミミ尊は父帝・神武天皇が異母弟にして末弟の神渟名川耳命を皇太子とされたことに不満を抱かれていた。或る時、媛蹈鞴五十鈴媛命が、夫・タギシミミ尊異母弟の神渟名川耳命たち兄弟を亡き者にしようと謀っているとの重大事を和歌に託して神渟名川耳命たちにお知らせになられた。この陰謀を知らされた神八井耳命、彦八井命、神渟名川耳命の三兄弟は、片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝市・上牧町付近か)の大室に臥せっておられたタギシミミ尊を襲い誅された。兄の神八井耳命はこの時手足が震えて矢を射ることができず、弟の神渟名川耳命がその弓を取って手研耳命を射殺された。神八井耳命はこれを恥じて弟の神渟名川耳命に即位を願い、自らは神々の祀りを受け持たれる。神渟名川耳命はすでに皇太子であるから当然ともいえるが、この事件で末子の神渟名川耳命が第二代天皇に即位されることが確定した。かく、タギシミミ尊の皇后であり、神渟名川耳命の母である媛蹈鞴五十鈴媛命がタギシミミ尊の反逆を密告するということで、この皇位継承に決定的役割を果たされた。

 兄の神八井耳命は日本最古の皇別氏族・多臣(おおのおみ)の始祖である。多氏は後に「太氏」、「大氏」、「意富氏」などとも記される。また、九州の阿蘇氏、関東の千葉氏などの多くの皇別氏族の祖となられた。なお、皇別氏族とは皇族の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族をいう。他に「神別氏族」「諸蕃」があり、「神別氏族」は天津神・国津神の子孫で、神武天皇以前の神代に分かれたとされる氏族であり、「諸蕃」は支那大陸・朝鮮半島から渡来したと称する諸氏の末裔である。秦氏・漢氏・百済氏などが「諸蕃」に分類される。彦八井耳命(日子八井命)については日本書紀には記載がない。

 神武天皇崩御後内紛が起こり、イスケヨリ姫から生まれた三人の息子の末弟のカムヌナカハミミの命が後継したことを次のように伝えている。
 神武天皇が崩御した。神武天皇には、日向にいたときの妻アヒラ姫の子タギシミミ尊と、カシハラノ宮で即位した際に皇后にしたイスケヨリ姫から生まれた三人の息子がいた。家督騒動が起こった。長兄タギシ美美が家督権を主張し、先の皇后イスケヨリ姫を妻にし后にすると宣言した。タギシミミ尊は、イスケヨリ姫の三人の息子たちを殺そうとした。

 イスケヨリ姫がタギシミミ尊の陰謀を伝える秘密の手紙を届けてきた。歌が2首入っていた。
 「狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」。
 (さい川よ、雲が立ち上がり、畝傍山では今にも木の葉ざわめき風が吹こうとしておりますよ)
 「畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる」。
 (畝傍山は昼は雲と一つになってじっとしていますが、夕方になると風が吹くでせう。木の葉がざわめいております)

 息子たちはタギシミミ尊の悪巧みを知り、逆に兵を集め、先手を取って義理の兄タギシミミ尊を殺しに向かった。弟の神(カム)ヌナカハ耳の命が「兄上、あなた様が武器を持ってタギシミミ尊を討ってください」と述べ、兄の神ヤイ耳の命が討とうとしたが、いざとなると手足が震えて矢を放てなかった。この様子を見た神ヌナカハ耳の命が兄の武器を貰い受けタギシミミ尊を殺した。これにより建(たけ)ヌナカハ耳の命とも呼ばれるようになった。兄は弟に皇位を譲り言った。「弟よ、私は敵を殺すことができなかった。しかし、お前はそれができた。私は兄であるが上に立つべきではない。お前が天皇になって天下を治めなさい。私はあなたを助けて祭事をつかさどる者となってお仕えいたします」。

 こうして、神ヌナカハミミが第2代スイゼイ(綏靖)天皇になった。綏靖天皇は、葛城の高丘宮(たかおかのみや)に遷都し天下を治めた。正后として、姫タタラ五十鈴姫の命の妹のイスズヨリ姫(五十鈴依姫)を迎えた。イスズヨリ姫は、事代主の命の少女(おとむすめ)と云われている。(し木の県主(あがたぬし)の祖である河俣姫を娶った、ともある) 御子はし木津彦玉手見の命。スイゼイ天皇の治世は33年、病気で崩御された。日本書紀は享年84歳と記す。大和の衝田(つきだ)の丘の上の桃花鳥田丘上陵()に埋葬された。
 神武天皇が東征して大和に入られてから後、前632年(神武29年)(皇紀29年)、神武天皇の第三皇子として誕生された神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)(古事記では神沼河耳命)で、母は事代主神の長女で、先帝・神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。神武天皇には、皇后との間に神八井耳命(かんやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと、日子八井命)、神渟名川耳命の3人の皇子がおられた。皇紀42(神武42)年正月3日、末子の神渟名川耳命が14歳で立太子される。神渟名川耳命が立太子されてから34年後の皇紀76年(神武76)年3月、先帝・神武天皇が崩御される。
 タギシミミの尊=手研耳尊、当芸志美美。カムヌナカハミミの尊=神渟名川耳尊、神沼河耳尊。カムヤイミミの尊=神八井耳尊
(私論.私見)
 「神武天皇崩御、綏靖天皇後継譚」は、天孫族と出雲王朝系の血筋を分け持つ綏靖天皇が後継したことを伝えている。

【第2代 綏靖天皇(世系7、即位52歳、在位33年、宝算84歳)】
 2019年03月04日公開、吉重丈夫「綏靖天皇(第2代)と安寧天皇(第3代)」参照。  

 神渟名川耳命の即位に当たっては、先帝・神武天皇の崩御後に手研耳命の反逆事件があって3年遅れたが、神武天皇の定められた皇太子・神渟名川耳命が予定通り、皇紀80(綏靖元)年正月8日、即位された。都は大和国葛城高丘宮に置かれた。

 初代神武天皇から第2代綏靖天皇への皇位継承は決して平和裏での継承ではなかった。タギシミミ尊弑逆事件は初代から第2代への皇位継承に当たっての、悲劇の大事件であった。古事記、日本書紀は、先の大戦以後、天皇、皇族を権威づけるために朝廷が拵えた架空の物語を綴った偽書であるということになっているが、初代から2代への極めて重要な皇位継承に当たっての記述で、この悲劇が語られている。

 皇紀81(綏靖2)年春1月、事代主神の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を立てて皇后とされる。先代・神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の妹で叔母に当たる。

 皇紀84(綏靖5)年、磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと)が綏靖天皇の皇子として誕生された。母は先帝・綏靖天皇の皇后で事代主命(ことしろぬしのみこと)の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)で、初代神武天皇の皇后・媛蹈鞴五鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の妹である。

 皇紀104(綏靖25)年春1.7日、皇子の磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと、21歳)を皇太子に立てられる(立太子)。


 皇紀112(綏靖33)年夏5.10日、在位33年、ご不例(病)で崩御される(宝算84歳)。綏靖(すいぜい)天皇のおくり名(和風諡号)はカムヌナカワミミ。古事記は神沼河耳命、日本書紀は神渟名川耳尊と記す。

3代、安寧天皇の御世

【安寧天皇譚】
 皇紀112(綏靖33)年7.9日、父帝・綏靖天皇の崩御を受け、綏靖天皇とイスズヨリ姫の息子の磯城津彦玉手看命がが29歳で第3代天皇として即位(アンネイ(安寧)天皇)した。皇子は磯城津彦玉手看命だけで、この皇位継承には何らの問題もなかった。翌安寧2年、宮を大和国片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや、奈良県大和高田市)に遷し天下を治めた。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。

 皇紀115(安寧3)年春1.5日、事代主命の孫の鴨王(かものきみ)の女(むすめ)「鴨君の女」(ヌナソコナカツヒメの命、渟名底仲媛、ヌ名底仲媛命)を迎え皇后とされた。してみれば初代の神武、二代の綏靖、三代の安寧まで出雲系の事代主の命の血族が続けて縁戚関係に入ったことになり、大和王朝建国過程での出雲王朝との繋がりの深さが分かる。

 河俣姫の兄である県主・波延(はえ)の娘・あくと姫を娶って、常根津彦伊呂泥(とこねつひこいろね)の命、大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命、し木津彦(しきつひこ)の命の御子をもうけた。

 皇紀123(安寧11)年春1.1日、第二皇子の大日本彦耜友命(おおやまとひこすぎとものみこと)を立てて皇太子とされる。第一皇子に同母兄・息石耳命(おきそみみのみこと)がおられたが第二皇子が立太子された。即位後11年にして早々に第二皇子・大日本彦耜友命を皇太子に立てておられるので、この立太子は天皇の明確な意思と見てよい。古事記には息石耳命については記載がなく、皇位継承で混乱した形跡はない。しかし、息石耳命には皇女・天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)がおられ、次代の懿徳(いとく)天皇の皇后となっておられる。もう一人の皇子で弟の磯城津彦命(しきつひこのみこと)は猪使連(いつかいのむらじ)の始祖となられた。

 葛城山麓に都を定め云々。

 皇紀150(安寧38)年冬12.6日、治世38年で崩御した(宝算67歳、日本書紀は享年57歳と記す)。畝傍山の西南の御影井上陵(みほどのいのうえののみささぎ)に埋葬された。
 安寧(あんねい)天皇のおくり名(和風諡号)はシキツヒコタマテミ。古事記は師木津日子玉手見命、日本書紀は磯城津彦玉手看尊と記す。

4代、懿徳天皇の御世

【懿徳天皇譚】
 第四代懿徳天皇は安寧天皇の第二子の大倭彦すき友(おおやまとひこすきとも)の命。即位の翌年、宮を軽の地に遷し、これを曲峡宮(まがりおのみや)という。古事記には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」と記す。治世34年に崩御され、畝傍山の南山麓に埋葬された。
 懿徳(いとく)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトヒコスキトモ。古事記は大倭日子?友命、日本書紀は大日本彦耜友尊と記す。

5代、孝昭天皇の御世

【孝昭天皇譚】
 第五代孝昭天皇は、即位の年に宮を掖上(わきがみ)に遷した。日本書紀はこの宮を池心宮(いけのこころのみや)、古事記は「葛城掖上宮」と記す。伝承によると掖上池心宮は「よもんばら」 あるいは「よもぎ原」という場所にあったとされる。治世83年で崩御され、掖上博多山上陵に埋葬された。日本書紀はその時期を治世38年目と記す。
 孝昭(こうしょう)天皇のおくり名(和風諡号)はミマツヒコカエシイネ。古事記は御真津日子訶恵志泥命、日本書紀は観松彦香殖稲尊と記す。

6代、孝安天皇の御世

【孝安天皇譚】
 第六代孝安天皇は孝昭天皇の第2子である。即位の翌年に宮を室(むろ)に地に遷した。これを室秋津島宮(むろのあきつしまみや)という。孝安天皇の事績は不明。
 玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に埋葬された。孝安(こうあん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトタラシヒコクニオシヒト。古事記は大倭帯日子国押人命、日本書紀は日本足彦国押人尊と記す。
 孝安天皇社。奈良県御所市玉手、治定・孝安天皇玉手丘上陵の傍に鎮座する。創建、御由緒は不明。尾張連の祖・奥津余曽の妹で皇后である世襲足媛尊が母とされている。綏靖天皇、安寧天皇、考昭天皇、孝安天皇と、欠史八代とされる天皇の宮は葛城に多い。

7代、孝霊天皇の御世

【孝霊天皇譚】
 第七代孝霊天皇は孝安天皇の皇太子である。宮を黒田に遷した。これを庵戸宮(いおとのみや)という。孝霊天皇は治世76年目に崩御し、片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に埋葬それた。
 孝霊(こうれい)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコフトニ。古事記は大倭根子日子賦斗邇命、日本書紀は大日本根子彦太瓊尊と記す。

8代、孝元天皇の御世

【孝元天皇譚】
 第8代孝元天皇は孝霊天皇の太子だった。宮を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。その宮の伝承地が橿原市大軽町にある。孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御した。劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に埋葬された。
 孝元(こうげん)天皇のおくり名(和風諡号)はオオヤマトネコヒコクニクル。古事記は大倭根子日子国玖琉命、日本書紀は大日本根子彦国牽尊と記す。

9代、開化天皇の御世

【開化天皇譚】
 第九代開化天皇は第二子。日本書紀は孝元天皇の治世22年に、年16歳で皇太子になられたと記す。しかし、孝元天皇が治世57年に崩御されたのを受けて皇位を着いたのは、それから35年後のことである。即位の翌年、都を春日の地に移された。これを率川宮(いざかわのみや)という。
 開化天皇(かいか)天皇のおくり名(和風諡号)はワカヤマトネコヒコオオビビ。古事記は若倭根子日子大毘々命、日本書紀は稚日本根子彦大日日尊と記す。





(私論.私見)

 事代主の娘の名前が踏鞴五十鈴姫。その娘が天村雲の嫁になり、二代天皇を生んでいる。また、その妹の五十鈴依姫は二代天皇の嫁になって三代天皇を生んでいる。さらに踏鞴五十鈴姫の兄の子のぬ名底姫は三代天皇の嫁になって四代天皇を生んでいる。これは斎木雲州氏提示の系図と、小野寺直氏の「大日本皇統譜」に基づく。これにより、事代主の子孫が歴代天皇の嫁になっていることが分かる。 のは大したものである。