昭和時代史2、2.26事件までの流れ(1931年から1935年)

 (最新見直し2011.05.21日)

【以前の流れは、「昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部−南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。

 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。



1931(昭和6)年、満州事変発生後の動き

 (この時代の総評)


【柳条湖事件勃発→満州事変発生】

 9.18日、柳条溝事件が発生した。ここから満州事変と云われる一連の経過が始まる。柳条湖事件とは、9.18日夜、奉天に近い(奉天駅から8キロ北東に位置している)柳条溝付近で、南満州鉄道の線路が何者かの手によって爆破され、関東軍がこれを張学良系中国軍の仕業だとして一挙に軍事行動を満展開していくことになったその引き金になった事件のことを云う。関東軍は、これを中国軍の仕業として守備隊が付近の張学良指揮下の中国軍北大営を奇襲攻撃した。睡眠中の中国兵は算を乱して逃亡し、19日午前2時、日本軍弟29連隊は奉天城に無血入城した。

 翌9.19日の朝日新聞報道は次の通り。

 「奉天発18日、至急電。本日午後10時半、北大営の西北において支那兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃したので、我が守備兵は時を移さずこれに応戦し大砲をもって北大営の支那軍を砲撃し、その一部を占領した」。

 ちなみに関東軍とは、日露戦争後の1906(明治39)年に遼東半島南端の関東州租借地と満鉄付属地の守備のために組織された関東都督府陸軍部が前身。簡単に言えば、日露戦争で得た、満鉄・租借地などの中国での日本の利権を守るための植民地駐留軍ということになる。

 今日では時の関東軍参謀・大佐板垣征四郎、関東軍参謀(作戦主任参謀・中佐)石原莞爾、奉天特務機関員・花谷正、張学良顧問補佐・今田新太郎などが参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らと連絡を取り合いながら仕掛けた謀略であり、火付け実行役は無政府主義者大杉栄を殺害した甘粕大尉グループが請け負ったとされている。ちなみに、甘粕大尉は大杉栄夫妻と橘宗一殺人の咎で10年の刑期を受け服役していたが、三年で千葉刑務所から出所していた。


 石原たちは満州の関東軍(約1万)を勝手に動かし、中国北方軍閥の張学良軍(約22万)に戦いを挑み、見事にこの事変を成功させる。この満州事変は国家の閉塞状況を打破してくれる物として不況のさなか国民の拍手喝采を浴びる。この事変を成功させた石原は国民的英雄となった。


【政府「事件の不拡大方針、現地解決」方針を決定】
 事件の翌日9.19日早朝ラジオの臨時ニュースは、興奮におののくアナウンサーの声で柳条湖事件の勃発を伝えた。第二次若槻内閣は緊急閣議を招集し、「事件の不拡大、現地解決方針」を決定し、陸軍三長官(南陸相・金谷参謀総長・武藤教育総監)に杉山次官、小磯軍務局長を交えた陸軍三長官会議が開かれここでも不拡大方針を決定している。とはいえ、「軍の安全を保障する上において占拠せる諸地確保のため必要ならば障害除去のため積極的行動を採るもやむを得ぬ」としていた。但し、関東軍を抑え、軍事行動を抑止する具体的な措置は何も採られなかった。

【抑制派(石原完爾)とヨウ懲派(東条英機)が対立。勢いとまらず関東軍の暴走始まる】

 この時石原完爾は、ソ連南下防止のため日支が提携する必要を力説し、「平和的な解決を目指せ、戦争は阻止しなければならない」と説得に努めている。 しかし、「暴れる支那は懲らしめるぺ゛し(暴支ヨウ懲)」と主張する関東軍参謀の東条英機、参謀副長の今村均らの勢いが勝り、政府や軍中央が事件の処理方針を廻って議を練っている間にも現地では新たな軍事行動を発生させていた。9.19日本庄繁関東軍司令官に圧力をかけ関東軍を出撃させ満鉄沿線を制圧。

 9.21日、関東軍司令官・本庄繁と朝鮮軍司令官・林銑十郎は、柳条溝事件勃発直後打ち合わせ、在満居留民への驚異をあおり、それを理由に独断で部隊を越境派兵。海外に派兵する為には天皇の奉勅が必要で、これ無しのままの派兵は重大な軍規違反であったが、軍中央に事後承認を迫った。

 この時陸軍参謀総長は内閣の閣議決定を待たずに直接、天皇に上奏しようとするが、これに猛反発したのが永田鉄山(陸軍省軍事課長・大佐)。「閣議の承認を得ずに上奏するのは、天皇に対する道でない」と主張し強硬に反対。直接上奏は取りやめられ、閣議決定を待つことになる。つまりたかが軍事課長の意見が陸軍トップの三長官の考えをひっくり返している。

 9.22日、閣議で朝鮮軍の越境が承認される。軍中央は、この林の天皇の統帥権干犯罪に値する独断の報に接しても問題とせず、翌日の閣議において朝鮮軍出兵を認めさせ、天皇の事後承諾を仰いでいる。天皇のしぶしぶながらも裁可が為され、こうして既成事実の追認化への道が開かれていくことになった。現地関東軍はこれに味を占め、その後更に軍事行動を拡大していくことになった。こうして、柳条溝事件に端を発して満州事変が勃発していくことになり、日本帝国主義はこれを契機に暴力的な局面へと傾斜していくこととなった。

 9.24日、政府は日本軍の行動を自衛のためとし、事態不拡大をうたった声名を発表。

 張学良指揮下の中国軍隊は寝込みを襲われ敗走させられている。続いて早くも二日後吉林に進撃、10.8日には退却を続ける中国軍を追って張学良政権の移転先であった錦州を爆撃、調子づいた関東軍は北部満州にも軍を進めハルピンを陥落させ、11.9日にはチチハルを占領した。こうして、日本軍はまたたくまの短期間で全満州を手中にした。

 翌昭和7年2月5、ハルビン占領。これで満州の主な都市を全て占領。以後、満州国樹立に向かう。同年3月1日、満州国設立宣言。清朝最後の皇帝溥儀を皇帝として担いだが、完全に関東軍の傀儡政権。政府の実体を見ても、名目上は大臣に満人を据えたものの、実権は日系官僚が握っていた。


【昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 】

 (出典元失念)
 
張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。
 「この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中総理は最初私に対し、この事件ははなはだ遺憾なことで、たとえ自称にせよ、一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、ということであった。……田中は再び私のところにやって来て、この問題をうやむやのなかに葬りさりたいということであった。それでは前言とはなはだ相違したることになるから、私は田中に対し、それでは前と話がちがうではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった」。(この部分『昭和天皇の謎』より引用。鹿島が現代かなづかいに直している)

 鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。

 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。

 天皇の国家統治の大権(明治憲法による)は、国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった。次のように機能を分けていた。
国務  政府(行政)、議会(立法)、裁判所(司法)の各機関が輔佐し、内閣の輔弼により、これを総撹。
統帥  参謀総長(参謀本部)と軍令部総長(軍令部)の輔翼により、これを総攬。

 参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。
参謀本部  平時における国防用兵の府(常設組織)。
大本営  国家非常(有事)の際に臨機設置される大本営は陸軍と海軍の二指揮系統に分かれ次のように構成されていた。
陸軍 参謀本部  大本営陸軍部の主体となる。
参謀総長  大本営陸軍部幕僚長となる。
陸軍省十参謀本部  (昭和一九年以降、東條陸軍大臣が参謀総長を兼ねる)
海軍 軍令部  大本営海軍部の主体となる。
軍令部総長  大本営海軍部幕僚長となる。
海軍省+軍令部 (昭和一九年以降、嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼ねる)

 これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。

 「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。
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 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する

 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。

 ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。

 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。

 関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。

 だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。

 そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。

 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。

 満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。

 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。
 「日本人は、今後、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、慎重に研究して選ぶべきである」。


【中国国内で排日から抗日運動への転換。「打倒日帝運動」開始される】
 これに対し、中国国内では排日から抗日運動への転換が為され、「打倒日本帝国主義」の声が怒涛の如く広がっていくことになった。

 満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明。「隣邦中国に対する政府並びに軍部の取りつつある帝国主義政策は、世界戦争を誘発すべき危険をはらむものとして我等は断乎反対する」。党内に「対支出兵反対闘争特別委員会」を設置し、長老・堺利彦が委員長、委員として宮崎竜介、河野密、加藤勘十、室伏高信、田部井健治、岡田宗司、織本、山花秀雄、三輪寿荘、水谷長三郎、浅原健三、川上丈太郎、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎らが名を連ねている。


【満州事変の諸影響としての軍部の台頭考】

 あの戦争の原因は次のように記している。

 概要「満州事変は、石原完爾の構想では、意図的に対外危機を作り出し、それをテコに国家改造も成し遂げようという、いわば対外クーデターと見るべき事件です。早い話が、たかが植民地軍の一部の軍人達が謀略を企て、それが不況で苦しんでいた国民の指示を得たため、政府もその独断専行を処罰するどころか、その動きを追認した。つまりこの時点で政治の主導権を握っていたのは首相でなく満州で勝手に軍事行動をしている石原達軍人の手に移っている。対外クーデターはひとまず大成功といったところ。あとは自分達軍の主導で、国体改革を実現すればよい」、「この石原・永田の二つの事例が示しているのは、『無為無策』の政府、『事なかれ主義』の軍上層部、などの情けない指導層に対して軍の中堅クラスの実力者が上からの指示を受けずに独自に動き始めており、また指導層はこれを止める実力もなくただ右往左往して事態に流されるだけの存在に成り下がっている。つまり指導層が指導層としての役目を果たせなくなっているわけで、石原はこの状態を見抜き「独断専行」により事変を成功させたわけである。(中国が内戦中のため、行動するのに最適の時期であった事も大きい)これ以降この「独断専行」と実力のある者が上部を無視して行動する『下克上』の雰囲気が軍部に蔓延する」。

 「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」は次のように記している。

 概要「前年に発生した1929年の国際的経済危機は、日本経済を直撃した。日本農村は深刻に疲弊した。1931年満洲事変が発生する。満洲事変は日本にとって運命的な岐れ道となった。この間農村では、小作人と地主間の争議が続いており、この時期になると、小作料減免をめぐる経済闘争から、地主的土地所有の廃止が農民の要求になりかけていた。これに軍部が介入し始め、30年暮から31年夏にかけ、全国的に満蒙開拓の大宣伝運動を敢行した。165万人を動員し、1866回の講演会をひらいている。参謀本部や陸軍省の作成した種本にもとづき、佐官たちがはげしい煽動演説を試みた。彼らは農民の歓心を買うため、窮乏脱出の手段として地主制度の廃止をさえ叫んでいた。詰まるところ、日本における人口過剰と土地狭小の現状では、たとえ土地分配を実行しても零細所有に変りはなく、空しく餓死するよりは、満蒙の沃野を入手せよ。そうすれば、農家は一躍して十町歩の地主になれる。そのためには、天皇をいただき国内政治を一新しなければならない、と世論誘導していった。自由主義者も左翼もこの悪煽動に抗し得なかった。露骨な満蒙侵略論がこうして世論になった。日本の農村は軍部のヘゲモニーのもとに組織された。1880年の軍人勅諭が、とくに全国各地の在郷軍人会支部網をつうじて、農村を天皇信仰の碁盤にしてきた事実がある」。

 9.21日、イギリスが金本位制停止。「従来の国際金融市場において卓越する地位を占め、ポンド貨こそは世界貨幣であるとまで云われたそのイギリスが金の輸出を禁止するに至ったのであるから、この報道を受けた我が国では為替市場のみならず、金融財界全般に亘って非常な衝撃を受けた」(斎藤栄三郎「昭和経済50年史」)。以降、ポンドに変わってドルが台頭していくことになる。


【桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる】

 10.21日、満州事変と呼応する形で、桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる。第一師団の10個中隊を動員して政財界の要人を殺害するという本格的暴力的手段を用いての国内クーデターを起こす計画で、橋本欣梧郎、大川周明、北一輝、西田税、井上昭、橘孝三郎らが首謀し、若槻首相、幣原外相、牧野内大臣、その他清浦、斉藤実、岡田啓介、伊沢多喜美、後藤文夫、郷誠之助、池田成彬、岩崎小弥太らを殺害対象、西園寺元老、一木喜徳宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら6名を襲撃対象にしていた。計画成就後は、東郷平八郎元帥を首班とし、田中国重、末次信正、荒木貞夫らを閣僚に予定していた。

 が、計画は事前に軍首脳部に漏れ、首謀者らは憲兵隊に拘束されて未遂に終わる。例によってこの事件も軍部の方針によりもみ消され箝口令が敷かれた。桜会は解散させられたが、最も重い処分は橋本の重謹慎20日。

 この事件はかなり情けない事件だったらしく、首謀者達は明治維新の志士気取りで待合いで豪遊していたうえに、クーデター後、首相に担ぐ予定の荒木貞夫にはなんの話も付けていなかった(このルートで漏れたらしい)という状態ですから、失敗するのも当然の話。桜会は所詮、陸大出の陸軍省エリート将校を中心とした集まりであるため、何か世間とずれていた様です。クーデター未遂事件に対して、処分は謹慎だけと言うのも酷い話で、軍上層部の「事なかれ主義」的処分が、軍内部に「なにをしても罰せられない」という雰囲気を作り上げることになる。

 この不明朗な結果に対して、クーデターの実働部隊として参加していた、若い尉官クラスの将校たちが、あきれ果てて桜会グループから離脱。国家改造を目指して独自の活動を開始する。この活動は20代から30代前半の陸軍将校が中心だったため、後に「青年将校運動」と呼ばれる。


 国内の世相としてやたらと愛国的な風潮になり、右翼が活況を呈する。彼等の主張を要約すると・陸軍の支援、・英米依存外交を排し自主外交の確立、・財閥と結んだ政党政治の打破、・強力政権の樹立。


 財政的には、満州事変による緊急事態を名目にした軍事費膨張により、井上蔵相の緊縮財政、完全に破綻。財源不足のため、年度末には減債基金繰り入れ中止(国債償還の停止)4400万円のほか、「満州事変公債」7700万円を含めて一般・臨時軍事費特別会計における新規公債発行は1億8900万円にたっする。11月には井上蔵相も昭和7年度予算では歳入補填公債、つまり赤字公債を発行せざるを得ないことを認めた。


 11月、清朝最後の皇帝溥儀が、天津の自宅から旅順の関東軍の本拠地へ脱出した。


【若槻内閣→犬養毅内閣】

 12.11日、若槻内閣は、幣原外交と軍部との対立、イギリスの金本位制問題、安達内相による連立内閣提案を廻る閣内不一致、その他軍部の独走を止められず総辞職を余儀なくされた。

 12.12日、安達内相は、同志7名を連れて民政党を脱党、国民同盟を結成した。

 後継に元老・西園寺公は、政党政治の長老犬養毅を最後の切り札として、天皇に奉請した。昭和天皇は軍部の横暴と政治干渉を深慮されていた。

 12.13日、犬養毅内閣(政友会)成立。(犬養首相の履歴は「5.15事件と2.26事件の相似と差異考」に記す)

 犬養首相は衆院で171名の政友会少数党で内閣を発足させた。犬養首相は外相を兼任、蔵相には高橋是清が再び登板、陸相には荒木貞夫大将、海相には大角*生大将。軍部との協調路線に進む。

 就任直後には、経済政策を180度転換し、前蔵相・井上のとった金の輸出を再び禁止し、金本位制を停止させた。第60議会で、金輸出問題を廻って、高橋蔵相と井上前蔵相が論争した。筋金入りの積極財政論者である高橋は赤字国債を伴う財政出動に踏み切った。かくて「デフレーションからインフレーションへ」の財政政策転換が大胆に為されていくことになった。結果的に、軍事インフレ路線に転換させた。


 12月、全国労農大衆党の運動方針で、麻生久が「帝国主義ブルジョアジーとの徹底的な闘争を回避して実現せんとする社会主義は、究極においては社会ファシズムに転落せざるを得ない」と主張している。この後、近衛内閣擁立運動に乗り出すことになる。


1932(昭和7)年の動き

 (この時代の総評)

 昭和恐慌の頂点の頃であり、恐慌のさなか、資産が五大財閥特に三井、三菱に集中するようになりその経済的支配力を高めていた。さらに政党と結びついた金権政治への世間の反発も激しく、この為財閥は左右両翼の非難の的になっていた。


【高橋是清蔵相による積極財政政策】
 高橋是清蔵相は、経済不況を脱出するため積極財政を開始した。金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いたと指摘し、景気回復のため財政政策を積極政策に転換させた。この積極政策の財源は公債による赤字財政に拠った。高橋蔵相は、「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」と考えていた。

 その政策の内容は、

軍備拡張  井上財政では予算の3割に満たなかった軍事費は、高橋財政では5割近くに膨張し、満州事変の原資とさせた。軍需物資、特に重化学工業製品の生産が増え、雇用も増えた。つまり満州での軍事的緊張を国内の景気・雇用対策に利用したということになる。
農林土木事業  農民経済を救済し、農村不安を鎮静する事を中心政策に掲げた斉藤内閣は、8月の臨時議会で時局匡救事業を提案、主として農林土木費に財政支出を増やした。7年度から10年度まで継続事業で実施されることになった。これは公共土木事業を中心とし、農家負債の整理、農村金融の拡充等を目的とした諸政策である。
輸出振興  輸出振興のため政府は外国為替の低位安定政策を採る。さらに井上前蔵相の「産業合理化」政策の効果が出てきており、日本企業は国際競争力をつけていた。このため世界中の貿易が沈滞している中、日本の輸出だけが躍進。特に綿製品の輸出増加はめざましく、インド市場を巡ってイギリスと激しい争奪合戦。日英綿戦争とまで言われる。しかしこれには諸外国からダンピングだとの批判もでる。

 この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)を発行し、それを高橋蔵相が深井英五・日本銀行総裁と組んで、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行した。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになった。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られることになったということである。

 この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施している。 これらの政策のため一般会計歳出は、・昭和6年度 14億8000万、・昭和7年度 19億5000万、・昭和8年度 22億5000万と次第に膨張していく。

  元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。

 公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。

 この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。

 とはいえ、取りあえずは日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出することに成功し、ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達する好況の時代を迎えることになった。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。(「あの戦争の原因」)

【マスコミ提灯記事で関東軍の暴走を煽る】
 正月の朝日新聞社説は、関東軍の暴走を諌めるどころか「我が東洋民族が共存共栄のため、宿載(しゅくさい)の禍を転じて、永遠の福をもたらさんとする意図に発するもの」と論じ、自存自衛の正しき軍事行動論で提灯記事を掲載している。これが当時の進歩的文化人の思潮であった。

【国際連盟動く、リットン委員会が現地調査

 1.4日、国際連盟は、英国のリットン伯を団長とする米仏独伊各国委員計5名の調査団を編成。1.29日国際連盟派遣の現地調査段(リットン委員会)が東京に到着し、数日の滞在後上海から南京、満州へと向かった。リットン調査団は、3、4月は中国を、4、5、6月は満州を調査。 


【桜田門外事件】
 1.8日、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件が発生した。これを「李奉昌事件」あるいは「桜田門不敬事件」又は「李奉昌不敬事件」と云う。

 時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9.30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932.10.10日、市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。(→桜田門事件

【上海事変前兆事件】
 昭和七年の年が明けると、満洲情勢は一層緊迫の度を増していた。

 1.18日、上海で日蓮宗僧侶殺害される。上海江湾路にある妙法寺の僧侶2名が、上海の市街をうちわ太鼓を叩きながら托鉢に歩いていた。それは排日に興奮している中国人に対する挑発のような役割を持ち、憤激した三友実業公司の労組員が取り囲み、1名を撲殺し1名が重傷を負った。

 翌1.19日、日本側の自衛団体・上海青年同士会の十数名が三友実業公司に殴り込みをかけ、日華双方に多数の死傷者を出した。翌20日には日本人倶楽部で、上海居留民大会が開かれ、陸軍の即時派兵を要請することが決議された。大会の散会後、居留民はデモに移り領事館に押しかけ出兵要求を突きつけ、武器の引き渡しを迫り、70挺ばかりの拳銃を受け取った。次に海軍陸戦隊本部へ向かい、即時行動開始を要求し、共々戦うとの気勢を挙げている。

 日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。


 1.21日、上海危機の報に軍艦大井その他4隻の駆逐艦が呉軍港を出港し、1.23日の夕方上海に入港。直ちに特別陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたった。中国側に対して上海市内に武装警官8千、警備軍2個師団を配備し、境界線に土嚢、鉄条網などの防御工事を進め始めた。上海の形成悪化は日増しに増していった。  

 1.21日、衆院解散。


【上海事変勃発】

 1.28日、北西川路の衝突。上海事変勃発。「果然、事件は事件を生み、中国側を一層興奮させたばかりでなく、日本側居留民も激昂した」(川合貞吉「ある革命家の回想」141P)とある。

 2.1日、現地より出兵要請。2.2日、閣議で出兵決定。2.5日、ハルピン占領。2.7日、下元旅団上海に上陸。2.7日、日本政府は第12師団の前原混成旅団を派遣。2.13日、には第9師団が増援された。2.20日、第9師団攻撃開始。中国軍も兵力を増強し、双方の死力戦が繰り広げられた。2.29日、上海派遣軍司令官・白川大将は、幕僚と共に新たに増援された第11師団、第14師団の後を追って揚子江に到着、戦闘は全面的に拡大した。3.1日、上海派遣軍が上海上陸。


【血盟団事件】

 2.9日、前蔵相にして民政党の領袖・井上準之介が右翼血盟団・小沼正のテロにより暗殺される。2.20日予定の第18次総選挙の選挙戦の最中であった。

 3.5日、三井財閥総帥、三井合名理事長・団琢磨氏が右翼血盟団・菱沼五郎のテロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループに属する菱沼五郎の犯行だった。(「血盟団事件」)。

 「血盟団事件」とは、国家改造運動グループの一つであった血盟団(日蓮僧・井上日召とその門下生)が、政財界及び特権階級の要人に対する「一人一殺」を標榜して行ったテロ活動によって引き起こされた事件の事を云う。

 井上日召はもと、大陸で活動する軍事探偵であったが、帰国後、大陸で学んだ野孤禅を更に深め、田中光顕の周旋で水戸大洗の立正護国堂の住職となり、加持祈祷のかたわら朴訥な農村青年を集めて国家改造について語り合い、題目を唱えて修行した。その思いが嵩じて、「一人一殺」テロ活動を目指すようになった。当初、日召は、西田貢などのグループとともに行動するつもりであったが、西田が荒木新陸相に期待して自重的になると西田を見捨てて、門下の青年とともに孤立してテロに走った。襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っていた。

 井上日召は、井上、団の射殺の後、頭山満のもとへ脱出したが、ついに進退窮まって自首した。このテロの動きは護国堂に出入りしていた海軍将校たちに引き継がれ、五・一五事件へと進展してゆく。


第18次総選挙
 2.20日、総選挙が行われ、政友会303名、民政党146名、その他17名となった。政友会は圧勝し、議会始まって以来の多数を獲得、わが世の春を迎えた。待っていたのは、軍部の反乱であった。

 2月、昭和天皇が、「安岡正篤、近衛文麿らと当局懇談、革命の危険性について語り合う」(木戸幸一日記)。


【海軍が国産軍用機の開発に着手】

 日本海軍は、この時の戦争で航空戦の重要性を認識するようになり、国産軍用機の開発に乗り出すことになった。横須賀海軍航空隊の隣に海軍航空廠を設立し、航空本部技術部長・山本五十六海軍少将の指揮の下、日本独自のオール国産航空機の設計−製作に着手した。それまでの外国戦闘機の性能は、複葉型二枚翼が多く、時速270キロ程度であったのを、「最高時速325〜370キロ、3千メートルまでの上昇時間4分以内、翼は無支柱単葉型とする」という性能を目標にした。

 三菱、愛知、中島の3社に試作機開発が言い渡され、中でも三菱航空機製造所の堀越二郎技師グループが傑出し、昭和10.1月に九試単座(一枚翼)戦闘機を完成していくことになる。テスト飛行で時速450キロを実証し驚かせた。その後、エンジンの変更、機体の一部改良を経て、昭和11年(紀元2596)に「96式艦上戦闘機」として実践配備されていくことになる。「96式艦上戦闘機」は、三菱名古屋製作所で782機、佐世保海軍工廠ともう一社で200機、合計で約1千機が生産された。又、航続距離の長い96式陸上攻撃機も三菱で636機が生産された。(吉村昭「零式戦闘機」その他参照)


【新官僚の登場】
 この頃、官僚内部にも新官僚と呼ばれる革新派が登場してきた。彼等の集まりであった国維会は、後藤文夫・近衛文麿などを理事として昭和7年1月に結成された。一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。一、大いに国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。一、軽佻詭激なる思想を匡正し、日本精神の世界的光被を期す、を綱領として掲げた。

 同会は、満州事変を契機とする日本内外の事態を国家滅亡の危機と捉え、これに対処して維新を遂行する志士を結集するものとしてスタート。一方でこの危機を招いてかつ、これを克服できない既成政党を批判し、他方でこの危機を利用して革命を成し遂げようとする共産主義者を排して、日本精神による維新を成し遂げようとした。

 国維会は昭和9年には解散しているので考えが同じであった訳ではないが、共通していたのは腐敗した既成政党の官僚支配に対する反発であった。実際、彼等の行った選挙粛正運動(選挙に金が掛かりすぎるため政党が腐敗する。政治の腐敗を無くすには正しい選挙を行う必要がある。という運動)は既成政党に打撃を与えている。(「あの戦争の原因」)

【満州国建国】

 3.1日、中国東北部に満洲国の独立が宣言された。3.9日、清朝最後の皇帝・溥儀(宣統帝)を執政に就任した。溥儀政権を傀儡政権と見るかどうかという問題がある。

 満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められた。これを理想と見るか、実質と見るかという問題がある。後年、陸軍の指導者が「八紘一宇」を喧伝することになったが、この思想の実体的根拠として満州国が利用されることになった。


 この頃、これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。 


 3.3日、上海派遣軍に停戦命令。


 4.15日、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が日本に対する宣戦布告。


 5.5日、日華上海停戦協定成立。


【5.15事件】

 5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。

 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。

 「日本国民に檄す。日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事! 何処に皇国日本の姿ありや。政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と、悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と! 日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ。武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外の何物もない。国民よ! 天皇の御名に於いて君側の奸を葬る屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を鷹懲(ようちょう)せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ。 而して、陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を活用し、朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ! この建設を念願しつつ先ず破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ! 」。

 この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい)

 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。


【犬養毅内閣→斎藤内閣】

 犬養首相の兇変直後、高橋是清蔵相が首相を臨時に兼任し内閣総辞職を行う。

 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し、斎藤内閣が成立した。「自立更生」をスローガンに発足した。政友会から3人、民政党から2人を閣僚に入れ「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。

 この人事に反対だった近衛は次のように評している。

 「政治の責任者は責任をとれる者でなければ駄目だ。軍部がその善悪は別として事実上の政治推進者であるのに責任をとらない。従って、軍部に責任を負わせて組閣させるか、そうでないのならあくまで政党内閣を貫くべきだ。どっちつかずの中間内閣は不可だ」。


 議会側では政党内閣が後退し、憲政の危機と認識、政党のあり方をはじめ議会政治の改革のため、秋田清衆院議長の提唱により「議会振粛委員会」が設置された。副議長の複数制や委員会制度の改革、明治以来の議会慣行の改革が議論されたが、成果を得るに至らなかった。この議会改革が実らなかったことが、戦時体制へと進む要因のひとつとなった。


【リットン委員会が再度現地調査】
 7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。

 7.18日、日本軍が熱河浸入。


【政府が満州国を承認】
 9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している。日本軍が満州国内に駐留するようになる。

【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】

 9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。

 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。満州事変の契機となった日本軍の行動を正当な自衛権と認めないことを中心とする報告書を提出。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。

 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。


【松岡首席全権の国連総会演説】

 10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。


 12.8日、山海関で日華両軍衝突。


【皇道派と統制派の対立】
 この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月には真崎甚三郎が参謀次長に、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。

 彼らの社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。


 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。

 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
 「本件に参加したのは、若者ばかりである。こうした純真な青年たちがこうしたことをやった心情を考えると、涙の出る思いがする。彼らは名誉や私欲のためにやったのではない。真に皇国のためになると信じてやったことである。だからこの事件を事務的に処理すべきではない」。

 両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。


 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
 「軍人の政治活動は軍人勅諭によって禁じられた事であり、軍人は全て組織の統制に従うべきである。そんなことを認めれば国家のためになるなら、上官の命令に反抗しても良いことになる。これでは軍の規律が緩んでしまう。厳しく統制することにより、国家の危急に備えなければならない」。

 皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。

 永田は皇道派を次のように批判している。
 「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、清竜刀式頭脳、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大のものなるべし、此の欠陥を糊途するため粉飾するために、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、これを実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」

 陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。

 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことは出来ず、議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。

 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」)

1933(昭和8)年の動き

(この時代の総評)

 重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」

 1月、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が紅軍に対して抗日戦線の構築を命じる指令を下達。しかし、この頃国民党政府は抗日戦争には向かわず、江西省瑞金に築かれていた朱毛紅軍の本拠地へ攻撃を開始し始めたため、抗日戦の構築は進まなかった。


 1.30日、ヒットラーが首相に就任。


 2月、昭和天皇が、「近衛文麿と共に平泉澄博士と会食、大学の赤化状況を聞く」(木戸幸一日記)。


 2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。

 「今や欧米の世論は、世界平和の名に於て日本の満洲に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振りかざし或は不戦条約を盾として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさへある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。ただ、日本は此の真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」。

 2.20日、斉藤実内閣が、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げ、国際連盟脱退も止む無しと決めた。


 2.24日、国連総会で、リットン報告書の採択が為され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決、松岡洋右は、予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで国際連盟総会会場を退場した。


 2.25日、関東軍熱河討伐声明。


 3.4日、ルーズベルト大統領就任。「ニューディール政策」[救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3R政策]を掲げた。


【国際連盟が、リットン報告書を採択】

 3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。


日本が国際連盟を脱退

 3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。

 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。

 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。


 4月、米国が金本位制停止。


【関東軍が華北に侵入】

 5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状−深刻な農業恐慌と政治の腐敗−にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。


【「京大(滝川)事件」】
 京大(滝川)事件」を参照(転載)する。

日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。ことの発端は、のちに天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃する貴族院の菊池武夫議員が貴族院で、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授の「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容(犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき、という意味)を「赤化教授」、「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる(「自由主義は共産主義の温床」との思想がその背景にあった)。

これを受けて当時の鳩山一郎文相(戦後公職追放されるが、その後解除され、1954年に首相となる)は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判、大学の最高法規「大学令」に規定した「国家思想の涵養」義務に反すると非難した。1933年4月10日には、内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年4月22日には、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。

 これに対し京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省は同年5月26日、京大法学部の意見を無視、滝川教授の休職処分を強行する。

 当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況下の京大では、宮本英雄法学部長・佐々木惣一・末川博両教授を筆頭に15人の教授の内8人の教授と、18人の助教授内13人が文部省に抗議の意思を貫き、「死して生きる途」(恒藤恭教授の言)を選び辞任し、一部の京大法学部の学生は、教授を支援する戦いを展開した。だが、京大の他学部教官をはじめ全国の大学の教員や学生は、権力の強権政治の前に屈伏して沈黙を守った。もっとも、東大の美濃部逹吉・横田喜三郎両教授らごく少数の教授は、京大法学部教官支持の論陣をはった。しかし東大法学部としてはなんの態度表明も行わなかった(敗戦後、東大総長に就任し、講和条約締結に際して全面講和論を展開して、当時の吉田首相から「曲学亞世(きょくがくあせい)の徒」と批判された南原繁博士は、このことを「終生遺憾」とした)。そのため全国的運動に発展せず、京大事件は教授辞職で終結をむかえることとなった(なお、滝川教授は36年弁護士を開業)。

さて、戦後教育界の民主化政策の下での1945(昭和20)年11月19日、京都大学法学部は、全学生を法経第1教室に集め、「京大(滝川)事件」に関して、黒田法学部長が、時の鳩山文相が、京大法学部教授会の意向を無視、さらに小西総長の文部省に対する教授辞職の具申もないままに、法学部の滝川幸辰教授に辞職を迫った(形の上ではは休職処分)ため、ついに時の京大法学部全教授も辞表提出を見るにいたったという全貌を説明するとともに、学内自治による清新な京大再建の方針を明らかにし、すでに定年年令をすぎていたため、名誉教授として復帰の佐々木愡一教授と南方にいる宮本英雄教授を除く滝川幸辰(後京大総長に就任)、恒藤恭、田村徳治教授と立命館大学の学長に就任していた末川博教授に対して、直ちに大学への復帰を懇請した(また、同月21日には九州帝大法学部教授会が、向坂逸郎、石浜知行、高橋正雄、佐々弘雄、今中次麿教授ら5人の復職を、東北帝大は服部英太郎と宇野弘蔵両教授の、23日東京産業大学〔後の一橋大学〕は大塚金之助教授の復帰をそれぞれ決定した)。

ただ京大(滝川)事件の真相に関しては、たとえば、その真相にせまる一つの資料である滝川教授の処分を決定した「文官高等分限委員会」の議事録が、国立公文書館に保管されているが、政府はその公表を、事件からすでに70年近くが経過しているにもかかわらず、拒否し続けている。それはそこに、これまでの研究で明らかになったものとは異なる事実が記載されており、今日においても、権力を維持してきた一定の勢力にとって問題になるほどに重要な内容を含んでいるとしか思えない措置である。それにしても、国民としての知る権利が、政府によって閉ざされている現実は、戦後半世紀しか経過していない日本における民主主義の歴史の軽さと、その成熟度の程度を見せつけている。

 京大事件の結末そのものは、強大な天皇制国家権力の前に敗北という形で終結したが、京大教授や学生のかかる権力に対して行った教授支援運動が、敗戦後、誤った歴史とそれに抗して運動を学ぶ契機となり、それが学問の自由と大学の自治法理確立の礎になった。

 憲法第23条が保障する学問の自由の原理と、教育公務員特例法第4条〜第12条が明記する採用、昇任、転任、降任、免職、休職、懲戒、勤務評定等々関しては、大学の管理機関の審査が必要としたことに代表されるような大学自治の原理は、歴史的には、京大事件の顛末がその起源といえる。


 5月、昭和天皇が、「十一会にて赤の問題、滝川事件等論議する」(木戸幸一日記)。


 6月、昭和天皇が、「池田克司司法書記官より、学習院赤化事件の様子を聞く」(木戸幸一日記)。

 10月、国民党の兵力50万人が約100機の航空機に支援されて、共産党の根拠地江西省瑞金への第5次攻撃を開始。四方から包囲された共産党軍10万は、瑞金の放棄を余儀なくされることになる。


 10.14日、ドイツ、国際連盟脱退。


 この年、ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードが、ロンドンの道路を横断中、中性子による核分裂の連鎖反応が原子爆弾の仕組みになり得るとひらめく。(リチャード・ローズ「原子爆弾の誕生」)


1934(昭和9)年の動き

 (この時代の総評)

 1.23日、陸相が荒木から統制派の林銑十郎に交代し、軍務局長には永田が抜擢された。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除されている。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。

 基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したということになる。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。

 この頃軍は、軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。


 1月、米国でドル通貨の40.94%切り下げ。


【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】

 溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられ、「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。


【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】

 昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。 時事新報の記事で帝国人造絹糸会社(帝人)株をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、4月、検察が、台湾銀行所有の帝国人絹株の売買に背任、贈収賄の疑惑があるとして、台湾銀行幹部や帝人重役河合良成(かわいよしなり)、永野護(ながのまもる)らを逮捕起訴した。5月、大蔵省幹部も収賄の疑いで相次いで逮捕され、政治家や官僚16人を起訴し政財界に大きな衝撃を与えた。

 7月、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。内閣総辞職後、斎藤内閣の中島久万吉(くまきち)商工相、三土忠造(みつちちゅうぞう)鉄道相らも検挙された。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする大疑獄事件となった。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。検挙当局の被検挙者に対する取調べ状況が明らかになるにつれ、その不当性を非難する声が高まり、司法ファッショのことばが生まれた。事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。1935年に公判が開始され265回にわたる公判のすえ、1937(昭和12)年、全員に無罪判決が下っている。

 この事件の背後には、前年末以来中島商工相、河合良成ら財界グループ「番町会」のメンバーが推進していた政民連携運動を挫折(ざせつ)させ、斎藤内閣を倒壊させることをねらった政友会久原房之助(くはらふさのすけ)派、司法界の長老平沼騏一郎(きいちろう)枢密院副議長、軍部、右翼の策謀があったとされている。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があった。

 事件の黒幕とされている平沼騏一郎は、明治43年の大逆事件で、検事として社会主義者、幸徳秋水らに死刑を求刑。大本教弾圧にも指揮をとっている。 

 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめもなく、後には司法次官に栄転する。「これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも身内優先、事なかれ主義という腐敗が蔓延していた様です」とコメントされている。

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79」の新世紀人 氏の2010.2.3日付け投稿「帝人事件、1934年(昭和9年)」を転載しておく。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/29_framepage.html

【◎】 番町会事件(帝人事件、1934年)
【参考】『角川 日本史辞典』(1966.12)

 一九三四年、番町会の会員が検挙された事件。一九三三年ごろから、郷誠之助の番町私邸に集まった財界若手実業家水野護、長崎英造、河合良成、小林中、正力松太郎らのグループを番町会という。一九三三年、帝国人絹株高騰で番町会メンバーが台湾銀行から鈴木商店担保株を買い受け、これをスキャンダルとして武藤山治が「時事新報」で暴露。平沼騏一郎、政友会久原房之助派らはこれを政民連携運動の破壊に利用。一九三四年、帝人事件として番町会メンバー、中島知久平商相らは検挙されたが、一九三七年、全員無罪となる。【参考】大内力著『ファシズムへの道』(中公文庫・日本の歴史 )

 この本では、この事件に4ページ近く費やされている。大事件であったらしい。齋藤内閣打倒の動き=@昭和九年に入ると、そろそろ齋藤内閣も人々にあきられ、いろいろな方面から政局の転換を促す動きが現れはじめた。たとえば軍部は、さらに強力な内閣を出現させて、自分たちの政策をもっとおしすすめようという意図を露骨に持ち始めていた。高橋(是清)蔵相の財布のひもが案外かたく、軍備拡張がおもうにまかせないこともその一つの理由であった。とくに海軍は一九三五〜六年の危機をさかんに唱え、軍縮条約の破棄を主張していたが、財政上の理由もあって、齋藤はそれを抑えるほうにまわっていた。陸軍は華北への進出をあせっていたが、昭和八年九月、広田弘毅が外務大臣になってからは、多少ともブレーキがかけられた。イギリスとの話し合いによって中国問題の打開をはかろうというのが、広田の基本方針だったからである。(中略)

 このころ政党の内部にも、また官僚の一部にも軍部の横暴にたいする反発があったが、そういうことも軍部を刺激する要素となった。(中略)。政党も軍部の進出を抑えるべく財界とも共同して戦線統一をはかりはじめていた。河合良成、郷誠之助、永野護など若手財界人の結成する番町会が肝煎りになって、政民両党(立憲政友会、立憲民政党)の連合運動をすすめ、議会政治擁護の気勢をあげたのは昭和八年(1933)末から九年一月にかけてであった。第六十五議会では、珍しく政民両党から軍部にたいする攻撃がさかんにおこなわれた。

 とくに、陸軍省調査部長の東条英機の主張でだされたといわれる、軍民分離を促す言動にたいする警告という陸海軍の共同声明(1933年12月9日)は、議会の攻撃のまととなり、それは軍部の狼狽を現すものだとか、軍人の政治介入であるとかといった批判やら非難が軍部大臣に集中した。(中略) しかし政党のほうは、軍と対立することで統一されていたわけではむろんない。軍と提携して勢力を伸ばそうとするもの、もう一度政党に政権をとり戻そうと考えるものなど、さまざまの動きが渦をまいていた。またこの軍部に対する攻撃にしたところで、むしろそれによって政治を窮地に追い込むことが目的だったのであって、かならずしもファシズムから日本を守ろうとするほどの意識の高いものではなかった。

 したがって同じ第六十五議会では、中島商相にたいする「足利尊氏問題」とか、鳩山文相にたいする樺太工業問題とかの追及がおこなわれた。(中略)。こうした一連の事件は、とくに政友会の久原房之助の画策にでたものだが、この 各個撃破によって齋藤内閣は大いによろめいた。

 もう一つ、この内閣の大きな敵役になったのは枢密院の平沼だった。これより先、昭和九年(1934)五月に枢府議長の蔵富勇三郎が辞任したが順調に行けば副議長の平沼が昇格するところだった。ところが西園寺(公望)が平沼を嫌っていたこともあって、齋藤は一木喜徳郎(前宮相)を議長にすえた。このことから平沼は大いに齋藤にふくみ、久原と結んで倒閣運動にのりだすのである。中島や鳩山の問題も平沼の差し金だというし、やがておこる帝人事件は、検察のボス平沼のうった大芝居であった。

帝人事件=@帝人事件の発展は、当時、鐘紡をやめた武藤山治が社長をしていた『時事新報』が、一月十六日から「番町会を暴く」という記事をのせはじめたことにある〔これを書いたのが和田日出吉氏〕。これは、・ 政党と政商の結託暗躍はあらゆる社会悪の源となり、つひに五・一五事件の洗礼を受けた非常時内閣下において政党政商等はしばらくその爪牙をかくして世の指弾を避くるに汲々たる折柄、ここにわれらは、わが政界財界のかげに奇怪な存在をきく。曰く『番町会』の登場がそれである。すなはち彼等はいまや、その伏魔殿にたてこもり、かつて政党政商がなせるが如き行為、紐育(ニューヨーク)『タマニー』者流にも比すべき吸血となしつつ政界財界を毒しつつあるといふ。しかもこの『番町会』のメムバーとして伝えられるものに、某財界の巨頭(郷誠之助)を首脳としこれを囲繞するものに現内閣の某大臣(中島久万吉)あり、新聞社員(正力松太郎)あり、政権を笠に金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する異常は眼にあまるものあり・・


 という書き出しのように、一種の暴露ものであった。武藤がなぜこういう記事をのせはじめたのかは、かならずしもはっきりしないが、長く少数党(実業同志会)を率いて政界にあり、しかも番町会の外にあった武藤には、筆誅をくわえたいという意図も動いていたことはたしかだろう。それに新聞の販売政策がからんでいたのである。

 この記事は、番町会の罪悪をたくさん並べたてて暴露していたが、その一部として帝人問題がとりあげられた。帝人=帝国人絹というのは鈴木商店系の人絹会社であるが、このころの人絹ブームにのって、営業成績は向上をつづけていた。ところが金融恐慌以来、この会社の株二十二万株あまりが台銀の担保に入っていた。この株価の上昇が見込まれていたので、金子直吉(鈴木商店)らは、このさい台銀からそれを買い戻そうということになり、その斡旋を番町の面々に依頼した。とくに水野護がその中心になり、正力が永野の依頼で活躍したといわれているが、かれは、そこで鳩山一郎・黒田英雄大蔵次官らに働きかけ、島田茂台銀頭取を動かして、ついに十一万株の払い下げを実現させた。

 そのさい、株価の問題で金子らと折り合いがつかなかったので、永野らは別に買受団をつくり、一株百二十五円でこれを買い取った。だが、それと同時に帝人が増資を決めたので、この株はたちまち百四十ー五十円にあがり、永野らは大儲けをした。・・これが、暴露されたことのおおよその内容であった。

 この記事がでたあと、検事局が動き出し、四月十八日には台銀の島田頭取、帝人の高木復亨社長および永野、河合良成、長崎英造など番町会メンバーが召喚された。そして五月に入ると大蔵次官黒田英雄、銀行局長大久保偵次らが収賄容疑で拘引され、やがて起訴された。また中島も召喚されたが、そのとき参考人としてよばれた三土忠造は、検事の主張する事実を否認したので偽証罪に問われた。こうして、帝人事件は空前の大疑獄となったが、齋藤内閣は黒田次官の起訴確定後、七月三日、ついに責任を取って辞職した。倒閣がここに成功をみたわけである。


 ところで、この帝人事件の裁判は昭和十年(1935)六月からはじまり、十二年十月までかかったが、結果は全員無罪であった。(中略)。この事件は、一方では明らかに倒閣を目的とした政治疑獄であり、それとしては十分目的を達していた。その張本人が平沼であった。かれは、その主催していた右翼団体国本社の一員であった検察の大物塩野季彦(第一次近衛内閣の法相)を使って、この事件をデッチあげさせたといわれている。事実、このときの検事の取調べは猛烈で、中島以下にも拷問に近いことまでし、虚偽の自白を強要した。検察ファッショという言葉が生まれたのもこのときからである。平沼の背後にはむろん右翼や軍部があったし、平沼は、今度こそ政権は自分のところに転がりこむと読んでいた。それをまたかついでいたのが久原の一派であった。(中略)

 なお、この事件の最中の昭和九年(1934)三月九日には、武藤山治が北鎌倉の自宅から駅に向う途中、福島某なる青年にピストルで撃たれて死ぬという事件がおこった。これは一時は背後に番町会があるのではないかとして騒がれたものだったが、実は武藤の恐喝に失敗した肺患の青年がやった単なる偶発事件にすぎなかった。

◎関連人物と『長篇 人絹』の登場人物(【・・・】は作中変名)。以下のリストは仮テキストで調べ切れていません。

武藤山治(「時事新報」)【武藤山治。実名で登場】/報知新聞記者(和田日出吉)【輪田、大森山人】/報知の森田久
金子直吉【兼子】/郷誠之助【谷請之介男爵】/水野護【長井】/長崎英造 /河合良成【相川】/正力松太郎【羽戸】 
島田茂台銀頭取【田島頭取】/高木復亨帝人社長【木谷帝人社長】
平沼騏一郎(枢密院、検察のボス)/中島知久平商相/中島久万吉商工相【嶋中九萬吉商工大臣、政民連携運動】/鳩山一郎/久方日銀総裁/黒田英雄大蔵次官【目黒次官】/久原房之助(政友会)/検察の大物塩野季彦/銀行局長大久保偵次【久保銀行局長】/三土忠造鉄道大臣【三浦鉄相】
福島某【福馬進市】


【斎藤内閣→岡田啓介内閣】

 7.8日、岡田啓介内閣が成立。蔵相には高橋是清が再び留任。


 8.2日、ヒットラー総統に就任。


 9月、昭和天皇が、「今西京子と中条百合子の件」(木戸幸一日記)。


【中国共産党紅軍が長征開始】
 中国共産党紅軍は、8月より36年(昭和11)の10月にかけて約1万キロの長征に成功している。毛沢東と朱徳、周恩来らに率いられた紅軍は、西に向かって大きく迂回した後、チベットの高山地帯を通過して北へと転じ、一年後の35.10月には甘粛省と*西町の境界に位置する新たな根拠地・呉起鎮へと辿りついた。後に「長征」と呼ばれることになるこの脱出行は、全行程約1万2500キロに及ぶ苛酷極まりない徒歩行軍であり、紅軍はその道程で兵力の約9割を失ったと云われている。だが、これによって生き延びた共産党勢力は、新天地の呉起鎮を拠点として、勢力を扶植拡大させていくことになった。

 11月、陸軍の皇道派と統制派の厳しい派閥対立下、「11月事件」(「士官学校事件」とも云う)が起こる。後の2.26事件の首謀者村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、証拠不十分で不起訴になった。これが2・26事件の出発点となった。

【日本政府がワシントン海軍軍縮条約の破棄通告】

 12.29日、日本政府は、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を閣議決定し、通告。


1935(昭和10)年の動き

 (この時代の総評)

【東大教授・美濃部達吉氏の「天皇機関説」が非難される】

 2.28日、帝国議会で、東大教授・美濃部達吉(1873−1948)の「天皇機関説」が非難され、右傾軍国主義のスピードを増した。この問題では、政党が進んで軍部のお先棒を担ぎ、学問と言論の自由圧殺に加担した。

 天皇機関説は美濃部達吉が東大教授時代に主張した学説で、明治の終わり以降、通説となっていたが、1935年頃、陸軍皇道派や民間右翼はこれを批判し始めた。美濃部は貴族院議員として弁明したが批判はやまず、不敬罪で起訴され貴族院議員を辞職、二・二六の数日前に暴漢に襲われている。美濃部は当時次のように述べて天皇大権としての統帥権を批判している。

 「統帥大権の作用が国務大臣の責任の外におかれることは…不当にその範囲を拡張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て国政を左右し、軍国主義の弊きわまるところなし」。

 1935〔昭和10〕年2月25日、第67回帝国議会貴族院で、美濃部議員(63歳)は、近衛文麿議長の指名で天皇機関説に関するいわゆる「一身上の弁明なる弁明演説をした。次のように述べている。
 「・・・日本の憲法の基本主義と題しましては其の最も重要な基本主義は、日本の国体を基礎とした君主主権主義である。之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である・・・我々は統治の権利主体は、国体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換えれば国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬した給ひ、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、その自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして、天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在(まし)まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ、天皇が国法に従つて行はせられます行為が、即ち国家の行為たる効力を生じると云ふことを言ひ現すものであります」。

昭和天皇「独白録」は次のように記している。

 「天皇機関説が世間の話題となった。私は国家を人体にたとえ、天皇は脳髄であり、機関というかわりに器官という文字を用うれば、わが国体との関係はすこしもさしつかえないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝えさしたことがある。真崎はそれで判ったといったそうである。また現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だというから、私はふつうの人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことをいわれては迷惑だといったことがある」。

 3.16日、ドイツ再軍備宣言。


 5.29日、華北問題重大化。


 6.28日、フランス人民戦線結成。


 7.25日、第7回コミンテルン大会。


 7月、統制派にかつがれていた参謀総長閑院官が、林銑十郎陸軍大臣、統制派の永田鉄山軍務局長とつるんで、皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こる。皇道派の相沢三郎中佐は、永田軍務局長が「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意する。

 8.1日、中国共産党が抗日救国声明。


【「相沢事件」】
 8.10日、陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この日陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢中佐に斬殺される事件が起きた(「相沢事件」)。相沢は翌1936年7月死刑になったが、この事件が2・26事件へと発展する。

 後に2.26事件に連座して4年の禁錮刑になった大蔵栄一大尉は次のように述べている。
 「私は相沢さんが心の底から怒ったことを二度知っている。その一つは、(相沢が)池田純久(11月事件を辻政信らと図る。のち関東軍参謀副長、内閣総合計画局長官)に会った直後、相沢さんは『池田はまず、お前たちで勝手にやるがいい。あとは俺たちがひきうけると、とんでもないことをいった』と顔を青くして怒った」。

 この言は、相沢が単独でテロを働いたのは事実としても、相沢を教唆するグループがあったことを窺わせる。

 9.5日、川島陸相就任。


 10.6日、グルー駐日米国大使は日本政府に対して抗議の書簡を送る。日本は門戸解放・機会均等の原則を守らず、中国におけるアメリカの正当な権益を侵していると抗議。これに対して近衛首相は二度の声名を発し、「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存すまた国民政府といえども、「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらずと述べた。つまり日中戦争の目的とは、アジアから欧米の影響を排して、日本主導による新秩序を作り出すことである、というもの。いわゆる「東亜新秩序」宣言。


 10.末、土肥原華北派遣。


 11.12日、関東軍兵力を山海関に集中。


 12.5日、ソ連で新憲法が制定される。


【積極財政行き詰まる】
 積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6〜11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。

@・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。
A・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。
B・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。
C・これにより一般貸し出し金利が上昇する。
D・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。

E・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。

この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。

 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円)

 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」)

1936(昭和11)年の動き

(この時代の総評)


 海軍が、「96式艦上戦闘機」を完成させた。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。海軍大臣は米内光政。


【日本政府がロンドン軍縮会議から脱退】

 1.15日、日本政府は、ロンドン軍縮会議から脱退通告。


 【以降の流れは、「昭和時代史3、2.26事件」の項に記す】





(私論.私見)


日本近現代史 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zibiki/ke.htm


憲政の常道」(けんせい−の−じょうどう)

 西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924−1932)に積み重ねた、政権交代の慣例のこと。
 簡単に言えば、「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例である。
 しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は、政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのは、その内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 政権与党 野党第一党 内閣総辞職理由
24 第一次加藤高明内閣 憲政会政友会・革新倶楽部 政友・革新閣僚による閣内不統一
25 第二次加藤高明内閣 憲政会 政友会 加藤首相病死
26 第一次若槻礼次郎内閣 憲政会 政友会 緊急勅令案否決
27 田中義一内閣 政友会 憲政会(民政党) 張作霖爆殺事件処理の不手際
28 濱口雄幸内閣 民政党 政友会 濱口首相テロで重傷
29 第二次若槻礼次郎内閣 民政党 政友会 安達内相による閣内不統一
30 犬養毅内閣 政友会 民政党 五・一五事件による犬養首相横死
 犬養首相がテロで倒れたとき、「憲政の常道」原則によれば次は政友会内閣が来るはずであった。
 ところが内閣奏薦の任に当たる西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず、中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図する。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。しかし結局、戦前期において再び政党内閣が復活することは、なかったのである。

元老」(げんろう)

 明治維新とそののちの近代国家建設にあたって功績のあった、政界最長老のことを言う。
 一般にはそのメンバーは、伊藤博文山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨西郷従道、大山巌、西園寺公望の八名で、場合によっては桂太郎を加えることもある。西園寺以外はいずれも薩長藩閥の出身者で、内閣制度発足当時はこれらの人々がかわるがわる出て、薩長間のバランスを崩さぬよう、組閣と施政にあたった。
 では、元老の資格とはなんであろうか。もともと元老とは、法的規定のあった存在ではなく、最初にマスコミが言い始めたものであった。上の八名の中で特に別格と見なされていたのは、伊藤博文であったが、彼に対する天皇の親任は殊の外篤く、彼が枢府議長の職を辞すると、天皇から前官礼遇と元勲優遇の特別の勅書が降った。のち、黒田清隆が首相を辞すると黒田にも同じ勅諚が、また明治天皇薨去ののち、踐祚した大正天皇は、山縣、井上、大山、桂の五名に対して、また西園寺に対しても別個に重臣優遇の勅諚を下した。
 この「元勲優遇」「重臣優遇」の勅諚が、元老と見なされる資格の一つであったことはおそらく間違いないが、もう一つの事実上の資格とは、「元老会議」とマスコミ一般に呼ばれた、次期首班選考会議に出席できたか否か、ということにあると思われる。桂は第三次桂内閣の後継首班選考に出席したが早々に中座し、その後会議に参加することなく死去したため、元老として見なしがたいのではないかと私は考える。

 さて、元老は、補充されない。明治の御代に死んだ黒田、西郷、伊藤ののち、元老の勢力は第一次護憲運動によって衰退する。官僚閥を形成し、その頂点にいた山縣の影響力が桂新党(立憲同志会)設立によって減殺されると、最大の影響力を持つ山縣元老は、政党首領である原敬を、次期首班に推さざるを得なくなる。
 また、その山縣の死に前後して、大山と松方が死ぬと、西園寺が唯一の元老となったが、彼は元老を再生産する意志はなく、むしろ山本権兵衛、清浦奎吾などの準元老たろうとする動きを封殺し続けた。そして西園寺は、宮中と協力して天皇に後継首班を奉答するシステムを作り上げたが、それも「憲政の常道」原則、また政党政治の終わりと同時に凋落していった。
 西園寺は自分の死去後のシステムを模索していき、ついに奏薦制度自体を内大臣を中心とする宮中に移して、元老の下問奉答慣例を廃止に持ち込んでいった。昭和十五年、西園寺死去。ここに元老は消滅した。