2.26事件史その2、決起考

 (最新見直し2011.06.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、2.26事件の決起の様子を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


 この前は【2.26事件史その1、決起前までの経緯考】に記す。

【2.26未明蹶起の様子】

 2.25日夜半から26日未明、東京は30年ぶりという記録的な大雪であった。前夜からの雪の中、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、香田清貞、栗原安秀中尉、中橋基明、丹生誠忠中尉、磯部浅一、村中孝次ら尉官クラスの陸軍皇道派青年将校22名に率いられた反乱軍(近衛師団の近衛歩兵第3連隊、第1師団の歩兵第1連隊、歩兵第3連隊の1483名。そのうち歩兵第3連隊は937名)が完全武装で整列した。指揮将校の訓辞を受け実弾を渡された。次のように訓辞している。

 「・・・国民大衆が今どれだけ苦しんでいるか、お前達の家庭を顧みればわかるだろう。満州や北支の前線では姉や妹達がその身を売らなければその日の糧を口に出来ない状態だ。天皇陛下はこんな国民の惨状を決してお望みではない。陛下を取り巻く特権階級の連中が国民の本当の姿を見せまいとしているんだ。・・・」。

 下士官以上の同志の標識として三銭郵便切手を各自随意の場所に添付することを定め1日分の食料を持ち出発した。こうしてク−デタ−に決起した。政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破せんとして「昭和維新断行、尊皇討奸」、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」を名目に決起した。首相官邸や侍従長邸ほか重臣私邸を襲撃、首都中枢部(首相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁など永田町一帯)を占拠するというクーデター事件が発生した。これを世に「二・二六事件」と云う。事件後しばらくは「不祥事件」、「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。

 反乱軍は、連隊の武器で装備を固め陸軍将校等の指揮により出動した。歩兵第1連隊の週番司令・山口一太郎大尉は黙認し、歩兵第3連隊の週番司令・安藤輝三大尉自身が指揮をした。反乱軍は概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官・憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官、憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将は拳銃で応戦したとされている。

 決起部隊の行動が始まった時間について、松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。

 「歩兵第一連隊の栗原安秀中尉が機関銃隊の兵約三百名に非常呼集を行ったのは、二十六日午前三時三十分ごろであった。…丹生誠忠中尉は栗原の機関銃隊より三十分早く第十一中隊の兵全員に非常呼集をかけた。丹生は中隊長代理である。 ・・・歩兵第三連隊では安藤輝三大尉が、『私ノ中隊及機関銃隊四ケ分隊、機関銃四門、計二百四名ヲ指揮シ午前三時三十分二連隊ヲ出発した』(安藤調書)。安藤の第六中隊の非常呼集は午前零時、舎前整列は三時ごろである。…近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉は、『二十六日午前四時二十分非常呼集ヲ以テ近歩三ノ七中隊全員二集合ヲ命ジ』(中橋調書)ている」。

 2.26日午前3時30分、歩兵第3連隊の安藤輝三大尉は、第6中隊の兵、機関銃隊4箇分隊、機関銃4挺など204人を率いて連隊を出発した。午前4時20分、丹生誠忠中尉が率いる歩1部隊は、香田清貞大尉、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵170人で営門を出発し、陸相官邸、参謀本部、陸軍省を警戒し、官邸入出を制限、監視下におくことを伝えた。物々しく機銃陣地が随所に作られた。こうして1400名の決起部隊が政治―軍の中枢である霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠した。陸軍省、参謀本部の幕僚たちは、皇居の反対側の九段の憲兵司令部や偕行社などを仮住まいとして対峙することになった。

【反乱軍の警視庁襲撃の様子】
 午前4時30分頃、クーデターが一斉に開始される。野中四郎大尉指揮の約500名からなる警視庁襲撃部隊が、野中の「攻撃目標は、赤坂、警視庁!、合言葉は士気団結!出発!!」の号令と共に営庭を出発した。

 5時頃、 同庁司法省側および桜田門側道路数カ所に機銃陣地が作られ、同庁の出入り口を封鎖し、要地に歩哨をたてて監視した。電話交換室内にも兵を配置して外部との連絡を遮断した。警備にあたっていた特別警備隊に機銃を向けて威嚇した。常磐稔少尉は野中四郎大尉と共に警視庁特別警備隊長らに蹶起の趣意を告げ、警察権の発動を停止させた。警視庁全体を制圧し、「警察権の発動の停止」を宣言した。当時、警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威とされた。警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣、警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。

 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
 「警視庁占拠を担当する歩三野中四郎(第七中隊長)の部隊は二十六日午前零時に非常呼集を行った。野中部隊は途中まで栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)の後尾につくので、合流時刻の打合せに安藤が常盤を栗原のもとに遣ったのである。こうして野中部隊は歩一の裏門に午前四時半に到着するように歩三を出発した。歩一と歩三の間は歩いて五分くらいである。溜弛までは歩一の栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)、丹生部隊(陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸襲撃部隊)、歩三の野中部隊の順で縦列行進だったが、そこから栗原部隊は永田町の首相官邸へ、丹生部隊は陸相官邸へ、野中部隊は外桜田町の警視庁へと分れた。野中部隊の下士官兵は約五百名。警視庁を占拠し、かつ、警視庁特別警備隊を撃退するのが目的だ」。
 「陸軍大臣官邸を占拠する目的の丹生誠忠中尉の歩一部隊は、香田清貞大尉(第一旅団副官)、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉(豊橋教導学校)、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵約百七十名…午前四時二十分営門を出発して、栗原部隊の後尾から赤坂溜池を経て首相官邸の坂を上ったのだが、途上、首相官邸内から栗原隊の放つ銃声を聞いた。陸相官邸に着いてからのことは磯部の「行動記」に出ている。「香田、村中、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余(磯部)は遅れて到着す。…香田、村中は国家の大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと言つて、憲兵と押問答してゐる。…憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと言ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に言つて来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気味だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物を着て是非出て釆て会つて戴きたいと懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。…主力部隊は官邸表門に位置している。裏門も、道路も一切塞いでいる。陸軍省、参謀本部(この二つは一つの建物で隣合っている)の各門には機関銃分隊、軽機関銃分隊を配置して歩哨線をかためている」。

 歩3の鈴木少尉は下士官・兵60名を率いて後藤内務大臣官邸を襲撃した。後藤内相は親軍的な官僚だったが、統制派寄りの人物であった為に襲撃対象にされた。軽機3挺を持した襲撃隊は警備の警官・看守等を拘束し、官邸内外を捜索したが、後藤内相は不在のため難を逃れた。部隊はそのまま内相官邸を占拠した。

【反乱軍の首相官邸襲撃の様子】

 総理官邸襲撃の全体の指揮を栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第一連隊機関銃隊)が執り、約300名の部隊を率いた。第1小隊を栗原中尉、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長、他に封馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)を指揮者とした。

 午前4時、営庭に将校・下士官・兵が整列し、4時半に出発した。首相官邸前に到着したのは午前五時少し前。各指揮官の命令で一斉に着剣し、栗原中尉は拳銃を手に自ら先頭に立ち小銃隊を引き連れ官邸に乱入した。官邸には警備の警官4名が配置されていた。拳銃を所持していたのみであるが果敢に抵抗した為、村上嘉茂衛門巡査部長を官邸内で殺害した。土井清松巡査は林八郎を取り押さえようとして殺害された。清水与四郎巡査が庭で、小館喜代松巡査が官邸玄関で拳銃で応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害された。

 その間、岡田の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵・予備役陸軍大佐が電灯を消しに走り回った後、反乱将校らの前に自ら踊り出て銃殺された。松尾はもともと岡田と容姿が似ていた。松尾は兵に「首相閣下ですか?」と問われ、首相の身代わりとなる覚悟をしていたのか「いかにも・・・」と答え、兵に庭に連れ出され、「天誅!」の絶叫と共に射殺された(松尾の死には他にも説があり、庭に据えられた重機が日本間に連射され、中にいた松尾は壁により掛かったまま射殺されたとも云う)。銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認し目的を果たしたと思いこんだ。岡田首相は、寝室から風呂場、女中部屋の押入れへと転々と隠れ難を逃れた。新聞は、岡田首相殺害と報道した。

 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助・憲兵曹長、青柳利之・憲兵軍曹及び小倉倉一・憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日、事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れている。


【反乱軍のその他の襲撃の様子】

 別部隊が首相官邸の岡田啓介、赤坂の高橋是清・蔵相私邸、四谷の斎藤実・内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎・教育総監私邸(陸軍大将)、麹町の天皇側近の鈴木貫太郎・侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃した。斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監、高橋是清・蔵相の重臣が殺害された。鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負い、岡田啓介・首相は襲撃を受けるも、義弟の私設秘書松尾伝蔵大佐と間違えられ、からくも脱出した。

 高橋蔵相私邸襲撃の様子は次の通りである。中橋基明歩兵中尉が指揮を執り、斉藤特務曹長と近衛師団司令部付大江曹長を引き連れ、部隊130名で、午前4時に非常呼集がかけられ兵舎前に整列した後、4時半に出発。午前5時、赤坂表町3丁目の高橋是清蔵相私邸に到着した。高橋蔵相は予算の軍事費、国債費の比重が極端に偏りすぎているとして軍事費を削る等をして財政を健全にしようとしていたことが反感をかっていた。中橋は表門から、中島莞爾歩兵少尉は東門の塀を乗り越えて邸内に入った。警備にあたっていた警官は銃剣を突きつけられつつ監視され、まったく身動きがとれなかった。家人を脅して、蔵相の部屋に案内させ、2階の部屋でまだ就寝中の高橋是清を発見すると、中橋基明は掛蒲団を撥ね除け、天謙と叫びつつ拳銃数弾を発射し、中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺した。5時15分に、兵は引き上げ陸相官邸へ向かっていった。

 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。

 「近歩三の中橋基明の部隊が 赤坂表町三丁目(当時赤坂区)の高橋蔵相私邸の前に着いたのは午前五時ごろであった。…中橋が部下の第七中隊の下士官兵約百三十名を宮城の守衛隊控兵と、高橋邸襲撃を任務とする突入隊とに分け、控兵隊は中橋が今泉義道少尉に率いさせた。…中橋は表門から、中島は東門の塀を乗り越えて邸内に入った。判決文によれば、両名は邸内に侵入して内玄関の扉を被壊し、兵若干名を指揮して屋内に乱入し、高橋蔵相の所在を捜索し、奥二階十畳の間に臥床中の同人を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙一叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺したとある」。

 鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃の様子は次の通りである。鈴木貫太郎侍従長を襲撃したのは歩兵第3連隊の安藤輝三大尉で、その第6中隊の兵と、機関銃隊4箇分隊、機関銃4挺、計204名をもって午前3時半に連隊を出発した。4時50分頃、麹町区三番町の鈴木賞太郎侍従長官邸に到着し、表・裏門に機関銃を配置し、午前5時、襲撃を開始した。 邸内は広く、なかなか侍従長を発見できなかったが、2階の部屋に夫人がいるのを発見し、「あちらにおられるのが閣下ですか」と堂込曹長が聞く。隣の部屋には十数人の兵が侍従長らしき人物を取り囲んでいた。堂込曹長は、「閣下は俺が撃つ」と兵に言って、「閣下、昭和維新断行の為、一命を頂戴します」といって拳銃の引き金を引いた。永田曹長も加わり計4発が打ち込まれ、鈴木侍従長は前のめりに倒れた。安藤大尉が来て、侍従長に両膝をついて一礼し、夫人に蹶起趣意を述べようとした時、堂込曹長が「中隊長殿、武士としてのとどめを」と言い、安藤が軍刀を抜きかけたが、夫人の鈴木たかが「放って置いてもまもなく死ぬからそれだけはやめて欲しい」と懇願したので止めを刺さず敬礼をして立ち去った。鈴木貫太郎侍従長はとどめをさされなかった為、一命をとりとめた。

 「鈴木貫太郎自伝」は次のように記している。
 「二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になる ものはないかと、床の間にあった自鞘の剣をとろうとした」。

 斎藤實内大臣私邸襲撃の様子は次の通りである。坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉らが率いる部隊210名は、4時20分に営門を出て青山1丁目、信濃町、四谷仲町のコースで午前5時少し前に四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣私邸に到着、襲撃した。麦屋少尉が重機等をもって邸外を警戒する中、坂井中尉が表門から、安田少尉は裏門から侵入していった。警備にあたっていた警官は銃剣を突きつけられつつ監視された為に身動きがとれなかった。斉藤内大臣が寝室から出てきたところを対峙し、夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と夫をかばい重傷を負い、斉藤実は殺害された。計47ヶ所に銃弾を撃ち込み、さらに数十ヶ所も斬り付け、遺体からはもはや流れる血もなかったと云う。殺害後、裏門から出たある将校は警戒中の麦屋隊の下士官、兵らに返り血を見せ、「見よ、国賊の血を!」と叫んでいる。 5時15分、引き上げ、坂井・麦屋は主力を率いて陸軍省付近へと向かう。

 内大臣斎藤實の養子である斉藤斉の妻の弟、有馬頼義(直木賞作家)が、向かいの屋敷の窓から襲撃の様子を目撃して次のように記している。
 「自分で目が覚めたのか、誰かに起こされたのだか、今になっては、記憶は定かではない。私が寝ていた部屋は、道路に面していたが、どういうわけか、私は、斉夫婦の一人娘、即ち私の姪の部屋へ行って、カーテンの隙間から、すぐ下の道路をみた。雪は、しんしんと、つもつていた。多分、降ってはいなかっただろうと思う。雪の夜は、静寂であった。しかし私は、道路を見て愕然とした。ちょうど、目の下に、内大臣斎藤實の鉄の門があり、それはひらかれていた。その門外の正面に、軽機関銃が据えられ、一人の将校が、そのうしろに立っていた。それだけではない。そこから、大通りへ通じる四メートル幅の狭い道には、四列縦隊の兵隊が、雪の上に折敷をして、その長さは、三百メートルに及んだ。…どの位待っただろうか。一人の将校と、一コ分隊位の兵隊が、斎藤内大臣邸の正面玄関を出、雪をけたてて、門の方へ近付いてきた。将校は、大きな声で云った。「目的は、成功した。われわれは、これから大内山へ向う」分隊毎か、小隊毎に、小さい声で号令が起り、折敷をしていた兵隊は立って、整列し、それから、門から遠い方から順に、粛々として引き上げていった」。

 渡辺教育総監私邸襲撃の様子は次の通りである。教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃したのは、内大臣斎藤實私邸を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎少尉、安田優少尉と、下士官以下兵30名。高橋少尉以下は、斎藤邸から赤坂離宮正門まで出て、そこで、田中部隊のトラックに乗り荻窪に向った。記録では渡辺邸に着いたのは6時過頃となっている(松本清張の「昭和史発掘」では7時頃)。間髪入れず玄関に機銃を乱射した。すると中から警備に当たっていた憲兵2名が拳銃で応戦、仕方なく裏口へ回り込み屋内に侵入した。その際夫人は「軍人としてあまりに乱暴ではないか」と身を挺して制止したが、蹶起部隊は構わず乱射、庭には機銃が据えられ、これまた猛射。渡辺大将は拳銃で高橋、安田らに応戦したが、全身数十ヶ所に銃創、切創を受け死亡した。6時30分、襲撃隊は陸軍省方面へと引き上げていき、先に分かれた坂井隊と合流した。

 渡辺教育総監宅と二軒隣の並びに住んでいた渡辺教育総監の長女政子が次のように証言している。
 「朝方、六時ごろでございましたでしょうか。私はもう起きておりましたが、突然、けたたましい銃声がきこえたのでございますよ。一体、なんだろうと私の家でも大さわぎになったのですが、私の夫は??兵隊が演習でもはじめたのだろう″といっておりました。そのうち、父の家の女中から電話があり、おびえた声で??奥さま、たいへんでございます″といってきたのです。電話室にも銃砲のタマがうちこまれているようで、受話器をとおして、その音がきこえてくるのでございます。…??ご主人さまがお亡くなりになりました″といつてまいりました。電話を受けたのは私でございますが、父の死を知った私の夫は、やにわにピストルを持って、外へとび出そうとするのでございます。…そして、兵隊たちが引きあげて行くのを見きわめてから、父の家にかけつけたのでございます。その間、ものの五分、長くて十分〔註・記録では三十分となっている〕ぐらいのものでございました。父の家にかけつけてみると、タマの跡と煙りがもうもうと狭い家の中に立ちこめておりました」。

 渡辺大将は月給の大半を本代にあてていた学者肌で、軍に対し独自の論理を持っていた。1・軍の権限を侵すような外からの干渉は一切拒絶する。2・軍も他の国政機関の持つ権限には干渉しない。3・軍備は国家予算によって賄われるので、陸相を通じて軍の意見を入れて、政府と協力の上、政府の決定した予算枠内で軍備を整えなければならない。4・軍の要求を強引に通すことは日本の政治体制の崩壊につながる。5・青年将校の行動は軍秩序の破壊に他ならない。6・天皇機関説排撃運動にも疑問を持ちかけ、「国体明徴などとあまり騒ぐのはよくない。これをつきすすめると、南北朝の正閏問題にまで遡ってしまう」と述べ、青年将校等の憤激を買っていた。青年将校の拠り所である真崎大将を蹴落として教育総監に就任したと見られ、これらが渡辺大将が襲撃される要因であった。

 牧野元内府(湯河原伊藤旅館別館)襲撃の様子は次の通りである。河野寿・航空兵大尉が指揮を執り、水上、宇治野、黒沢、宮田、中島、黒田、綿引らがハイヤー2台に分乗し、4時頃、湯河原に到着。前内府の牧野伸顕が宿泊する湯河原の伊藤屋旅館を襲撃した。玄関、裏手に機銃を据え、河野大尉が「電報、デンポウ」と叫んで台所の戸をたたくが、開く気配がないので蹴破ることとした。異変に気づいた警備の警官(皆川巡査)が玄関先に様子を見に行ったところ、扉がドンドン叩かれており、慌てた警官は皆に知らせようと奥へ走ろうとしたその時、扉が破られて、拳銃を持った河野大尉らが乗り込んできた。「牧野のところまで案内しろ」と脅された警官は両手を上げ奥に向かって歩き出し、河野らも後に続いた。その時、警官は振り向き様に隠していた拳銃で発砲した為に河野大尉は胸を撃たれ、河野に続いた宮田曹長も首を打たれた。直後、皆川巡査も撃たれたが即死には至らず倒れながらも発砲を続けた。水上の号令で機銃が乱射され、皆川巡査は殺害された。旅館に火を付け、牧野を探したが、焼け跡には牧野の死体はなかった。牧野伸顕は、「女はかわいそうだから逃がす」とされたことに乗じて、岩本屋旅館の岩本亀三らにおぶさって難を逃れた。河野大尉はこの後3.5日、入院中の病院で自殺を図る。  

 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
 「前内府(前官礼遇)牧野伸顕を湯河原の旅館に襲う河野寿航空兵大尉を長とするいわゆる湯河原組も、午前五時を期して決行に移った。…四時半頃、再び車を走らせ湯河原を徐行、伊東(藤)屋旅館の前の橋で自動車の向きを変え、同旅館の前に横付けにした。夜は白々明けはなれた。二、三人が行き交う。私はピストル、刀をさして同志と共に隊長(河野大尉)に従った。旅館前の幅七、八間の小川の橋を渡り、坂道を二十間程上る。玉突場のある家の前に止った。大尉は此処だと玉突場の前の家を指した。平屋建、地形は崖の上で、片方は山になっている。石垣でたたんだ一隅にこの家はあるのだ…予備曹長宮田晃は、早くも奥から射ってくる拳銃で負傷した。「私は奥に駆けこむ。弾がビューンとかすめる。私は座敷に向けて五、六発達射する。薄暗い、何人いるか分らぬが、守衛のいることは分る」守衛ではなく、牧野の護衛警官だった」。

【反乱軍の各方面への根回し】
 栗原中尉、中橋中尉、田中中尉(野戦重砲第七連隊)、池田少尉らは、それぞれの最初の襲撃を終えた後、軍用トラック3台に兵60人と機銃3と共に分乗し、各新聞社を襲撃した。中でも、東京朝日新聞社には午前8時55分ごろ到着し活字ケース等を破壊し、引き上げの際、栗原中尉は、「国賊朝日新聞は多年自由主義を標榜し重臣ブロックを擁護し来れり。今回の行動は天誅と思え」と叫んだ。他にも日本電報通信社、国民新聞社、報知新聞、東京日日新聞、時事新報社に現れ、蹶起趣意書を新聞等に掲載するよう強要した。

【反乱軍の各方面への根回し】

 反乱軍は政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求し、軍首脳を経由して昭和天皇に対し天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待していた。

 事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。

 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」、「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた。

 5時20分頃、襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃、参内した。すぐに常侍官室に行き、既に到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。

 反乱軍は、日本の政治の心臓部をこの日から4日間占拠することになる。夜が明けるにつれ襲撃された人々の殺害方法が判明してきて、各方面に与えた衝撃は凄まじかった。建軍以来最大の叛乱事件だったからである。陸軍内部の考えは3派に分かれた。叛乱軍に同調派は皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎両大将、さらに東京警備司令官である香椎浩平中将。断固鎮圧派は統制派の参謀本部の作戦課長石原莞爾大佐、陸軍省内の武藤章中佐らであった。26日午前には省内で岡村寧次第二部長を中心とする部長会議が開かれ断固鎮圧方針を決定し杉山次長に進言している。第12師団長の香月中将のように最初から断固鎮圧を示しいち早く関門海峡を封鎖した者もいる。中間で叛乱軍に同情的な派に川島義之陸相、第一師団長の堀丈夫中将。


【反乱軍の要望事項朗読、「蹶起趣意書(二・二六事件)」】

 午前5時頃、反乱部隊将校の香田清貞大尉、村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊と共に陸相官邸を訪れ、川島陸相との面会を強要し憲兵と押問答している。香田大尉は受付の憲兵伍長に拳銃を突きつけ、「国家重大事に関し、大臣に報告したい旨あり、取り次ぐよう」さらに「官邸の周囲は重機で包囲してある」と脅した。

 午前6時40分頃、香田大尉らが陸相官邸で川島義之陸相と会見し、決起趣意書と7項目からなる要望書(「真崎甚三郎を首相にし、処理を一任する」)を提出して昭和維新の断行を迫った。香田大尉が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。村中が補足説明した。陸軍中央部に対し「断乎たる決意」で「速やかに本事態の収拾」に向かうことを求めた。

 川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じ、「陸軍大臣に事後処理を委任し、文字通り『上長を推進し維新へ』という姿勢を示した」。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。

 陸軍大臣に対する要望事項は次の通り。

事態ノ収拾ヲ急速ニ行ウト共ニ、本事態ヲ維新回転ノ方向ニ導クコト。決行ノ趣旨ヲ陸相ヲ通ジテ天聴ニ達スルコト。
警備司令官、近衛第一師団長及憲兵司令官ヲ招致シ、ソノ活動ヲ統一シテ、皇軍相打ツコトナカラシムルヨウ急速ノ処置ヲトルコト。
兵馬ノ大権ヲ干犯シタル宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将ノ即時逮捕。
軍権ヲ私シタル中心人物、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐ノ即時罷免。
蘇国(ソビエト)威圧ノタメ荒木大将ヲ関東軍司令官ニ任命スルコト。
重要ナル各地ノ同志将校ヲ即時東京ニ招致シ事態収拾ニ当タラシムルコト。
前各項実行セラレ事態ノ安定ヲ見ルマデハ、蹶起部隊ヲ警備隊編入、現占拠位置ヨリ絶対ニ移動セシメザルコト。
次ノ者ヲ陸相官邸ニ招致ス。
 −以下略−
  • 現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
  • 皇軍相撃つことは避けなければならない
  • 全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
  • 警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
  • 南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
  • 速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
  • 軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
  • 林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
  • 荒木大将を関東軍司令官に任命すること
  • 同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
  • 同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
  • 報道を統制するため山下少将を招致すること
  • 次の者を陸相官邸に招致すること
  • 26日午前7時までに招致する者 
  • 古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
  • 午前7時以降に招致する者
  • 本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐

 蹶起趣意書(二・二六事件)」の文面は次の通り。

 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。

 中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。

 昭和十一年二月二十六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎外 同志一同

 謹(つつし)んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥(ごとうすい)の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終(つい)には八紘一宇を完(まっと)うするの国体に存す。この国体の尊嚴秀絶(しゅうぜつ)は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々(ますます)体制を整へ、今や方(まさ)に万邦(ばんほう)に向って開顯(かいけん)進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

 しかるに頃來(けいらい)遂(つい)に不逞兇惡(ふていきょうあく)の徒簇出(そうしゅつ)して私心私欲を恣(ほしいまま)にし、至尊絶体の尊嚴を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働らき、万民の生々化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦に呻吟(しんぎん)せしめ、随(したが)って外侮(がいぶ)外患(がいかん)日を逐(お)うて激化す。いわゆる元老、重臣、軍閥、官僚、政党等(とう)はこの国体破壞の元兇(げんきょう)なり。倫敦海軍条約(ろんどんかいぐんじょうやく)並びにに教育総監更迭(こうてつ)に於(お)ける統帥權干犯(かんぱん)、至尊兵馬大權(へいばたいけん)の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいはは學匪(がくひ)、共匪(きょうひ)、大逆教團等(とう)の利害相結んで陰謀至らざるなき等(とう)は最も著(いちじる)しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪惡は流血憤怒眞(まこと)に譬(たと)ヘ難(がた)きところなり。 

 中岡(艮一、こんいち、大正10年原敬首相刺殺者)、佐郷屋(さごや、留雄とめお、昭和5年浜口雄幸首相狙撃者)、血盟団の先駆捨身(せんくしゃしん)、五・一五事件の噴騰(ふんとう)、相沢中佐の閃發(せんはつ)となる実に故(ゆえ)なきに非(あら)ず。而(しか)も幾度(いくど)か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ來(きた)って今尚(いまなお)些(いささか)も懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲にニ居(お)って苟且偸安(こうしょとうあん、なすべきことをなおざりにして目前の安楽をむさぼること)を事(こと)とせり。露、支、英、米との間(あいだ)一触即發して祖宗遺垂(いすい)のこの神洲を一擲(いってき)破滅に墮(だ)らしむるは火を見るよりも明(あきら)かなり。内外(ないがい)眞(まこと)に重大危急、今にして国体破壞の不義不臣をヲ誅戮(りゅうりく)し稜威(りょうい)を遮(さえぎ)り御維新を沮止し來(きた)れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非(あら)ずして皇謨(こうぼ=天皇が国家を統治する計画)を一空(いっくう)せん。

 あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊(よくさん)を誓い殉国捨身(じゅんこくしゃしん)の奉公を期(き)し來(きた)りし帝都(ていと)衞戍(えいじゅ)の我等同志は、將(まさ)に万里征途(そうと)に上(のぼ)らんとして而(しか)も顧(かえり)みて内(うち)の世状(せじょう)に憂心(ゆうしん)轉々(うたた)禁ずる能(あた)わず。君側(くんそく)の奸臣(かんしん)軍賊(ぐんぞく)を斬所(ざんしょ)して彼(か)の中枢を粉碎するは我等の任として能(あたは)く爲すべし。

 臣子(しんし)たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽くさざれば、破滅沈淪(ちんりん)を飜(ひるが)へすに由(よし)なし。ここニ同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正(ただ)し、国体(こくたい)の擁護開顯(いけん)に肝腦(かんのう)を竭(つく)し、もって神洲赤子(せきし)の微衷(びちゅう)を獻ぜんとす。皇祖皇宗の神靈冀(こいねがわ)くば、照覽冥助(めいじょ)を垂(た)れ給はんことを。

 昭和十一年二月二十六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同


 「決起趣意書」は、野中四郎大尉が起草したものに文才に長けた村中孝次が筆を加えたものと云われている。格調ある漢文調で書かれて、当時の30歳前後の将校たちの頭脳明晰さと教養の高さが窺い知ることができる内容の文章となっている。


 
周囲が、「皇軍相撃は絶対にさけよ、蹶起将校の今度の手段はともかく彼らの精神を生かさねば、こういう事件は何回でも起こるだろう」川島に決断を迫ったが、結局返答を留意した。川島陸相はこの時点ではまだ叛乱軍につくか、省部につくか迷っていた。

【2.26事件の展開】

 午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。 磯部は車を降りた真崎大将に対し、「閣下、統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況をご存じでありますか」と訪ね、真崎は「とうとうやったか、お前達の心はよーくわかっとる、よーくわかっとる」と答え、磯部の「どうか善処していただきたい」の言葉に頷きながら邸内に入っていった。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。

 蹶起の際の暗殺リストにあった石原莞爾大佐が広間の椅子に座して栗原と問答した。石原は、「言うことを聞かねば軍旗をもってきて討つ」と断言し、険悪な空気が流れた。問答の末に栗原は拳銃を石原に突きつけ、「どうしましょうか」と磯部らを振り返ったが磯部が何も言わなかった為、何事も起こらなかった。一方、同じく暗殺リストに名があった片倉衷少佐は叛乱軍の制止を振り切り邸内に入ろうとしたところ、磯部に拳銃で撃たれ頭をかすめ負傷した。

 午前9時頃、川島陸相が軍事参議官会議出席の為、官邸を出た。一方、省部の高級将校はこの時点では事件を知らないものが普段通り登庁しようとして、または事変を聞いて駆けつけた将校らは叛乱軍に阻止された。蹶起部隊将校に、「階級章にモノを言わせてどうしても入るというなら銃弾に代えても阻止する他はありませんな」と言われ、高級将校らは憤激しながら、臨時に参謀本部・陸軍省の置かれた憲兵隊司令部(3階)にぞろぞろと集まってきた。事件を予見していた統制派幕僚でさえも体勢を整えるのには時間を必要とした。

 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」、「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。

 午前9時30分、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」、「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。

 午前10時前後、決起将校らの期待を背にして川島陸相や真崎大将らが宮中に入る。前後して宮中には軍事参議官の全員が集まってきていた。軍事参議院(官)とは、天皇の諮問機関である軍事参議院(会議)を構成する要員であり、現役の大将・中将が任命され、毎年改変される軍の動員計画によって軍務が定められている。平時はそれぞれの役職(師団長等)に就き、天皇の諮問があれば軍事参議官会議を開き天皇に奉答する。会議の幹事は軍務局長が務める。軍事参議官の本来の権限は天皇の諮問に答えるのみであり、事態収拾権限までは付与されていない。

 杉山参謀次長は宮中で川島陸相に対し、「軍事参議官は陛下の御諮問ありてはじめて御奉答申し上ぐべき性質のものなるに、いろいろ干渉せられては困る。事態の収拾は責任者たる三長官において処断すべきものなり」と述べ、川島の了解を得ている。三長官とは「陸軍大臣」、「参謀総長」、「教育総監」を指す。参謀総長の閑院宮載仁元帥は病気で小田原の別荘にあり、渡辺教育総監は殺害された。川島陸相が一人残されたが任が重過ぎた。川島陸相は、石原、武藤らの省部は統制派、これに対する荒木、真崎らの参議官の皇道派と云う図式の渦中で翻弄されることになる。軍事参議官会議では叛乱軍に同調とまでは行かないまでもそれに近い態度を示していた。それに引き替え参謀本部は最初から断固鎮圧の方針を堅持していた。統制派の杉山参謀次長が「事態の収拾」に乗り出し、事件解決を次長を頭とする参謀本部によって行うと主張した。軍事参議官に対抗した形になる。

 かねてよりの打ち合わせであったか、侍従武官長・本庄繁、陸軍大臣・川島義之、真崎甚三郎・大将らは「彼等の精神は、君国を思う心より出たもので、必ずしも咎むべきものではない」としてこの決起に連動した。が、結論は、穏便に対処するべきか軍隊を用いて鎮圧すべきかを廻って判断を持ちこした。
 
正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。

 杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

 
午後、清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。


【昭和天皇と軍部の拮抗】
 事件の報に接した天皇は次のように述べたとされる。
 「朕が股肱の老臣を殺戮す。この如き凶暴の将校等、その精神に於ても何の恕(ゆる)すべきものなりや。朕が最も信頼せる老臣を悉く(ことごとく)倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」。
 「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」、「速やかに暴徒を鎮定すべき」、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」。

 天皇は、「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁・中将に対して次のように厳しく叱責している。
 「それは私利私欲のためにやったのではないと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことはできない。もし陸軍ができないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」。

 天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印された。

 石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。

 陸軍首脳部は、昭和天皇の鎮圧命令が出たにも拘わらず武力鎮圧を躊躇した。事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。

 会見の間に、山下奉文少将、真崎甚三郎大将、古荘陸軍次官らが呼び出され、また、青年将校運動で「別格」と呼ばれた山口一太郎大尉を先導役として、決起部隊の歩哨線を通過してきた小藤恵第一連隊長や石原莞爾参謀本部作戦課長などいろいろな人物が登場する。山口大尉が決起将校の間を動き回り、彼等と軍事参議官らとの会見に立ち合っている。

 正午頃、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。軍事課長・村上大佐が部下2名に命じて草案を起草させた。

 午後2時頃、川島陸相が召集した非公式の軍事参議官会議が宮中の東溜の間で開かれた。軍事参議官全員(荒木貞夫、真崎勘三郎、林銑十郎、阿部信行、西義一、植田謙吉、寺内寿一、皇族の朝香宮鳩彦王、梨本宮守正王、東久邇宮稔彦王)、川島陸相、杉山参謀次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官兼東部防衛司令官、山下軍事調査部長、村上軍事課長らが集った。

 会議冒頭、杉山次長が「軍事参議官の干渉は避け、三長官による処断」云々を申し入れた。荒木大将らは「もとより軍事参議官において三長官の職務遂行を妨害する意志はない。ただ軍の長老として道徳上、この重大時を座視するに忍びず奉公するものだ」という趣旨を答えた。会議の席上、問題となったのは叛乱軍に対する対策をどうするかであった。川島陸相が案を出した。1・勅命を仰いで屯営に帰還すべく諭す。2・聴かざれば戒厳令を布く。3・次いで内閣を組織する。これに対して荒木は、川島案の前に我々はなすべきことがあるとし、「軍事参議官一同が死をもって事態を収拾するから、お前達は原隊に帰れ。後国運の進展に努力するを得ん」との主旨で説得し、これに応じないときは川島案のような勅命を拝し、これでも応じないときは討伐する。なによりこの際最も注意すべきは左翼団体の暴動であると述べた。真崎も荒木に同調し、「左翼団体の警戒に全力を注ぐを要す。これがため維新部隊(叛乱軍)をその警備に充つるごとくを取扱うを可とす」と意見した。つまり左翼警戒を名目に叛乱軍の占拠行動を正当化しようとした。

 こうして、参議官の鎮撫、原隊復帰を第一とする立場から「陸軍大臣告示」の原文となった「申合書」が作成された。山下少将が一筆書き、それに植田大将がところどころに修正・挿入をした。山下少将が原文の作成をしており、会議の前に既に原案があった可能性が認められる。これに関しては、軍法会議でも問題究明が行われなかった。荒木大将が、「軍事参議官は全部こういうことだから兵隊をすぐ帰すように。お前、青年将校の方へ持っていってくれ」と言った。が、「これは筋が違う。権限がない軍事参議官がやってはおかしいではないか」という意見が出た。そこで、「陸軍大臣も同席していることだし、『陸軍大臣告示』という形でやってはどうか」という意見が出て川島が「それでは陸軍大臣告示ということでよろしいのですね」と問うと全員うなずき、文章ができた。

 川島陸相は軍事参議官たちに主導権を渡してしまい、決起側に渡すために作られた文書に「陸軍大臣ヨリ」とか「陸軍大臣告示」という題名をつけることを了承しただけで、以後表面から姿を消している。また「強力内閣」や「大詔煥発」を構想していたという真崎大将にしても、午前中の宮中での行動は明らかでなく、午後には軍事参議官の一員としての立場に終始するようになった。 事件処理の中心に軍事参議官や陸軍大臣告示が浮かび上がった時点で、決起側が何らかの成果を得る見込みがなくなっていたことが理解できる。

 午後3時頃、「維新大詔」の草案作成が半分ほど書き上げられた頃、村上大佐が現れ、「半分でもいい」と言って持ち出し、首相官邸に車をとばし、さらに叛乱軍将校にもこの草案を見せ、大詔渙発も近いと伝えた。青年将校は、戒厳令施行と大詔の話は維新断行の段取り通りなので事態の前進とうけとめた。しかし、この大詔渙発の話は草案と共に忽然と消えることになる。叛乱軍側はこの時点でも真崎内閣のもと維新断行という路線を堅持していた。が、中間派の鈴木貞一大佐や満井中佐などから「戒厳令下の軍隊に入ったということだけは明らか」とだけ云われ、今は戦時と同じで命令、刑罰の重さを暗に諭され、不安を覚えた。統制派の重要人物である武藤章中佐中心の軍務課の態度が強硬だった。

 午後3時、東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7.18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。

 午後3時30分、 東京警備司令部より「陸軍大臣告示」(二月二六日午後三時三十分、東京警備司令部)が印刷・下達され、直ちに警備司令部から第一師団長、近衛師団長に印刷され送られた。堀第一師団長はすぐ部下一同に示したが、橋本近衛師団長は「なんだ、こんな怪文書」と握りつぶし下達されなかった。

一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 
荒木大将の戦後の談話で重要なことが述べられているので記しておく。
  「軍事参議官一同の意向を文章にしてこれを叛乱軍に示して鎮撫せんとしたのである。ところが朝香宮、東久邇宮の両大将もまた軍事参議官であってこの会議にも列席しておられたから軍事参議官一同の意向として発表することは皇室に累を及ぼす虞があるという意見も出たので同席の陸軍大臣川島義之大将の承諾を得て・・・」。

 これによれば、端から「天皇の意志に反しているばかりか、天皇に累が及ぼすおそれさえある」ことが認識されていたことになる。第一項の「天聴に達せられあり」は、 最初の申合書には「天聴に達し」となっていた。それに植田大将が「あり」という文字を追加した。これにより、まったく意味が違ってくることになった。「達し」では、「天皇に完全に申し上げてある」の意味になるが、「達しあり」となると、「ともかく申し上げてはあるが、その後のことはわからない」の意味になる。この違いは大きい、次に「諸子ノ行動」という文字が「諸子ノ真意」へと書き換えられていた。それが正文とされている。「行動」とあれば「統帥を乱し、重臣を襲撃した事柄までも認めることになる」が、「真意」では「行動の是非は別として気持ちは認めるいう、漠然とした抽象的なものになり、あとでなんとでもその解釈は変更できる」。但し、最初は「至誠」だったのが「真意」に改められたものであり、「行動」とは記されていなかったという話もある。

 叛乱軍にとって告示は陸軍の首脳に皇族も加わって宮中で作製されたということは下士官・兵はもちろん、将校に天皇の親裁を予想させるのに十分であった。この「告示」をめぐって軍首脳と叛乱軍との溝が広がり、叛乱軍に不信感を抱かせ、後の奉勅命令を懐疑する原因となったのは否定できない。この一件は事件の収拾をより困難にしてしまった。

  山下少将は、叛乱軍将校に「告示」をするため宮中を出て、それとともに警備司令官を通じ近衛、第一師団長にも示し、こういう趣旨で説得するということを部下に伝達することとなった。そこで香椎東京警備司令官は宮中から電話で警備司令部(近衛第一師団、第一師団を統率している機関)の安井籐治参謀長に「告示」を伝えた。電話を受けた安井参謀長は復誦を二度も行い、香椎中将に確認した。そして、安井参謀長は電話を聞きながら部下の福島参謀に口述筆記させた。

 告示が、山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられた。が、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と「行動」に差し替えられた。反乱部隊への参加者を多く出した第一師団司令部では現状が追認されたものと考え告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする向きもあった

 参謀本部は、叛乱軍の行動を容認するとは何事だ、「だいいち荒木がいかん、真崎がいかん」と騒ぎ出した。 翌日27日、村上軍事課長が安井参謀長の下に訪れ警備司令部発表した告示に誤りがあり、その責任は参謀長にあると言い出した。安井参謀長は憤然とし、「参謀長が司令官の命令を誤ってうけるとは何事だ、自分は言われたとおりにしたのだ」と反論。険悪な空気が漂った。 結局、村上大佐に「ともかく戦術上ああなったのだ、参謀長一人悪者になってくれ」と言われようやくおさまった。

 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト。二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル。

 前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。


【反乱部隊支援の動き】
 反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。この動きについて史実から消されている。これにつき判明次第書きつけることにする。

 この後は【2.26事件史その3、鎮圧考】に続く





(私論.私見)