2.26事件史その2、決起考 |
(最新見直し2011.06.04日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、2.26事件の決起の様子を確認する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【2.26未明蹶起の様子】 | ||
2.25日夜半から26日未明、東京は30年ぶりという記録的な大雪であった。前夜からの雪の中、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、香田清貞、栗原安秀中尉、中橋基明、丹生誠忠中尉、磯部浅一、村中孝次ら尉官クラスの陸軍皇道派青年将校22名に率いられた反乱軍(近衛師団の近衛歩兵第3連隊、第1師団の歩兵第1連隊、歩兵第3連隊の1483名。そのうち歩兵第3連隊は937名)が完全武装で整列した。指揮将校の訓辞を受け実弾を渡された。次のように訓辞している。
下士官以上の同志の標識として三銭郵便切手を各自随意の場所に添付することを定め1日分の食料を持ち出発した。こうしてク−デタ−に決起した。政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破せんとして「昭和維新断行、尊皇討奸」、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」を名目に決起した。首相官邸や侍従長邸ほか重臣私邸を襲撃、首都中枢部(首相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁など永田町一帯)を占拠するというクーデター事件が発生した。これを世に「二・二六事件」と云う。事件後しばらくは「不祥事件」、「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。
2.26日午前3時30分、歩兵第3連隊の安藤輝三大尉は、第6中隊の兵、機関銃隊4箇分隊、機関銃4挺など204人を率いて連隊を出発した。午前4時20分、丹生誠忠中尉が率いる歩1部隊は、香田清貞大尉、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵170人で営門を出発し、陸相官邸、参謀本部、陸軍省を警戒し、官邸入出を制限、監視下におくことを伝えた。物々しく機銃陣地が随所に作られた。こうして1400名の決起部隊が政治―軍の中枢である霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠した。陸軍省、参謀本部の幕僚たちは、皇居の反対側の九段の憲兵司令部や偕行社などを仮住まいとして対峙することになった。 |
【反乱軍の警視庁襲撃の様子】 | ||
午前4時30分頃、クーデターが一斉に開始される。野中四郎大尉指揮の約500名からなる警視庁襲撃部隊が、野中の「攻撃目標は、赤坂、警視庁!、合言葉は士気団結!出発!!」の号令と共に営庭を出発した。 5時頃、 同庁司法省側および桜田門側道路数カ所に機銃陣地が作られ、同庁の出入り口を封鎖し、要地に歩哨をたてて監視した。電話交換室内にも兵を配置して外部との連絡を遮断した。警備にあたっていた特別警備隊に機銃を向けて威嚇した。常磐稔少尉は野中四郎大尉と共に警視庁特別警備隊長らに蹶起の趣意を告げ、警察権の発動を停止させた。警視庁全体を制圧し、「警察権の発動の停止」を宣言した。当時、警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威とされた。警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣、警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
歩3の鈴木少尉は下士官・兵60名を率いて後藤内務大臣官邸を襲撃した。後藤内相は親軍的な官僚だったが、統制派寄りの人物であった為に襲撃対象にされた。軽機3挺を持した襲撃隊は警備の警官・看守等を拘束し、官邸内外を捜索したが、後藤内相は不在のため難を逃れた。部隊はそのまま内相官邸を占拠した。 |
【反乱軍の首相官邸襲撃の様子】 |
総理官邸襲撃の全体の指揮を栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第一連隊機関銃隊)が執り、約300名の部隊を率いた。第1小隊を栗原中尉、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長、他に封馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)を指揮者とした。 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助・憲兵曹長、青柳利之・憲兵軍曹及び小倉倉一・憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日、事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れている。 |
【反乱軍のその他の襲撃の様子】 | |||||
別部隊が首相官邸の岡田啓介、赤坂の高橋是清・蔵相私邸、四谷の斎藤実・内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎・教育総監私邸(陸軍大将)、麹町の天皇側近の鈴木貫太郎・侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃した。斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監、高橋是清・蔵相の重臣が殺害された。鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負い、岡田啓介・首相は襲撃を受けるも、義弟の私設秘書松尾伝蔵大佐と間違えられ、からくも脱出した。
鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃の様子は次の通りである。鈴木貫太郎侍従長を襲撃したのは歩兵第3連隊の安藤輝三大尉で、その第6中隊の兵と、機関銃隊4箇分隊、機関銃4挺、計204名をもって午前3時半に連隊を出発した。4時50分頃、麹町区三番町の鈴木賞太郎侍従長官邸に到着し、表・裏門に機関銃を配置し、午前5時、襲撃を開始した。 邸内は広く、なかなか侍従長を発見できなかったが、2階の部屋に夫人がいるのを発見し、「あちらにおられるのが閣下ですか」と堂込曹長が聞く。隣の部屋には十数人の兵が侍従長らしき人物を取り囲んでいた。堂込曹長は、「閣下は俺が撃つ」と兵に言って、「閣下、昭和維新断行の為、一命を頂戴します」といって拳銃の引き金を引いた。永田曹長も加わり計4発が打ち込まれ、鈴木侍従長は前のめりに倒れた。安藤大尉が来て、侍従長に両膝をついて一礼し、夫人に蹶起趣意を述べようとした時、堂込曹長が「中隊長殿、武士としてのとどめを」と言い、安藤が軍刀を抜きかけたが、夫人の鈴木たかが「放って置いてもまもなく死ぬからそれだけはやめて欲しい」と懇願したので止めを刺さず敬礼をして立ち去った。鈴木貫太郎侍従長はとどめをさされなかった為、一命をとりとめた。 「鈴木貫太郎自伝」は次のように記している。
斎藤實内大臣私邸襲撃の様子は次の通りである。坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉らが率いる部隊210名は、4時20分に営門を出て青山1丁目、信濃町、四谷仲町のコースで午前5時少し前に四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣私邸に到着、襲撃した。麦屋少尉が重機等をもって邸外を警戒する中、坂井中尉が表門から、安田少尉は裏門から侵入していった。警備にあたっていた警官は銃剣を突きつけられつつ監視された為に身動きがとれなかった。斉藤内大臣が寝室から出てきたところを対峙し、夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と夫をかばい重傷を負い、斉藤実は殺害された。計47ヶ所に銃弾を撃ち込み、さらに数十ヶ所も斬り付け、遺体からはもはや流れる血もなかったと云う。殺害後、裏門から出たある将校は警戒中の麦屋隊の下士官、兵らに返り血を見せ、「見よ、国賊の血を!」と叫んでいる。 5時15分、引き上げ、坂井・麦屋は主力を率いて陸軍省付近へと向かう。 内大臣斎藤實の養子である斉藤斉の妻の弟、有馬頼義(直木賞作家)が、向かいの屋敷の窓から襲撃の様子を目撃して次のように記している。
渡辺教育総監私邸襲撃の様子は次の通りである。教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃したのは、内大臣斎藤實私邸を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎少尉、安田優少尉と、下士官以下兵30名。高橋少尉以下は、斎藤邸から赤坂離宮正門まで出て、そこで、田中部隊のトラックに乗り荻窪に向った。記録では渡辺邸に着いたのは6時過頃となっている(松本清張の「昭和史発掘」では7時頃)。間髪入れず玄関に機銃を乱射した。すると中から警備に当たっていた憲兵2名が拳銃で応戦、仕方なく裏口へ回り込み屋内に侵入した。その際夫人は「軍人としてあまりに乱暴ではないか」と身を挺して制止したが、蹶起部隊は構わず乱射、庭には機銃が据えられ、これまた猛射。渡辺大将は拳銃で高橋、安田らに応戦したが、全身数十ヶ所に銃創、切創を受け死亡した。6時30分、襲撃隊は陸軍省方面へと引き上げていき、先に分かれた坂井隊と合流した。 渡辺教育総監宅と二軒隣の並びに住んでいた渡辺教育総監の長女政子が次のように証言している。
渡辺大将は月給の大半を本代にあてていた学者肌で、軍に対し独自の論理を持っていた。1・軍の権限を侵すような外からの干渉は一切拒絶する。2・軍も他の国政機関の持つ権限には干渉しない。3・軍備は国家予算によって賄われるので、陸相を通じて軍の意見を入れて、政府と協力の上、政府の決定した予算枠内で軍備を整えなければならない。4・軍の要求を強引に通すことは日本の政治体制の崩壊につながる。5・青年将校の行動は軍秩序の破壊に他ならない。6・天皇機関説排撃運動にも疑問を持ちかけ、「国体明徴などとあまり騒ぐのはよくない。これをつきすすめると、南北朝の正閏問題にまで遡ってしまう」と述べ、青年将校等の憤激を買っていた。青年将校の拠り所である真崎大将を蹴落として教育総監に就任したと見られ、これらが渡辺大将が襲撃される要因であった。 牧野元内府(湯河原伊藤旅館別館)襲撃の様子は次の通りである。河野寿・航空兵大尉が指揮を執り、水上、宇治野、黒沢、宮田、中島、黒田、綿引らがハイヤー2台に分乗し、4時頃、湯河原に到着。前内府の牧野伸顕が宿泊する湯河原の伊藤屋旅館を襲撃した。玄関、裏手に機銃を据え、河野大尉が「電報、デンポウ」と叫んで台所の戸をたたくが、開く気配がないので蹴破ることとした。異変に気づいた警備の警官(皆川巡査)が玄関先に様子を見に行ったところ、扉がドンドン叩かれており、慌てた警官は皆に知らせようと奥へ走ろうとしたその時、扉が破られて、拳銃を持った河野大尉らが乗り込んできた。「牧野のところまで案内しろ」と脅された警官は両手を上げ奥に向かって歩き出し、河野らも後に続いた。その時、警官は振り向き様に隠していた拳銃で発砲した為に河野大尉は胸を撃たれ、河野に続いた宮田曹長も首を打たれた。直後、皆川巡査も撃たれたが即死には至らず倒れながらも発砲を続けた。水上の号令で機銃が乱射され、皆川巡査は殺害された。旅館に火を付け、牧野を探したが、焼け跡には牧野の死体はなかった。牧野伸顕は、「女はかわいそうだから逃がす」とされたことに乗じて、岩本屋旅館の岩本亀三らにおぶさって難を逃れた。河野大尉はこの後3.5日、入院中の病院で自殺を図る。 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
|
【反乱軍の各方面への根回し】 |
栗原中尉、中橋中尉、田中中尉(野戦重砲第七連隊)、池田少尉らは、それぞれの最初の襲撃を終えた後、軍用トラック3台に兵60人と機銃3と共に分乗し、各新聞社を襲撃した。中でも、東京朝日新聞社には午前8時55分ごろ到着し活字ケース等を破壊し、引き上げの際、栗原中尉は、「国賊朝日新聞は多年自由主義を標榜し重臣ブロックを擁護し来れり。今回の行動は天誅と思え」と叫んだ。他にも日本電報通信社、国民新聞社、報知新聞、東京日日新聞、時事新報社に現れ、蹶起趣意書を新聞等に掲載するよう強要した。 |
【反乱軍の各方面への根回し】 |
反乱軍は政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求し、軍首脳を経由して昭和天皇に対し天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待していた。 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」、「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた。 5時20分頃、襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃、参内した。すぐに常侍官室に行き、既に到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。 反乱軍は、日本の政治の心臓部をこの日から4日間占拠することになる。夜が明けるにつれ襲撃された人々の殺害方法が判明してきて、各方面に与えた衝撃は凄まじかった。建軍以来最大の叛乱事件だったからである。陸軍内部の考えは3派に分かれた。叛乱軍に同調派は皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎両大将、さらに東京警備司令官である香椎浩平中将。断固鎮圧派は統制派の参謀本部の作戦課長石原莞爾大佐、陸軍省内の武藤章中佐らであった。26日午前には省内で岡村寧次第二部長を中心とする部長会議が開かれ断固鎮圧方針を決定し杉山次長に進言している。第12師団長の香月中将のように最初から断固鎮圧を示しいち早く関門海峡を封鎖した者もいる。中間で叛乱軍に同情的な派に川島義之陸相、第一師団長の堀丈夫中将。 |
【反乱軍の要望事項朗読、「蹶起趣意書(二・二六事件)」】 | ||||||||||||||||||||
午前5時頃、反乱部隊将校の香田清貞大尉、村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊と共に陸相官邸を訪れ、川島陸相との面会を強要し憲兵と押問答している。香田大尉は受付の憲兵伍長に拳銃を突きつけ、「国家重大事に関し、大臣に報告したい旨あり、取り次ぐよう」さらに「官邸の周囲は重機で包囲してある」と脅した。 陸軍大臣に対する要望事項は次の通り。
「蹶起趣意書(二・二六事件)」の文面は次の通り。
「決起趣意書」は、野中四郎大尉が起草したものに文才に長けた村中孝次が筆を加えたものと云われている。格調ある漢文調で書かれて、当時の30歳前後の将校たちの頭脳明晰さと教養の高さが窺い知ることができる内容の文章となっている。 周囲が、「皇軍相撃は絶対にさけよ、蹶起将校の今度の手段はともかく彼らの精神を生かさねば、こういう事件は何回でも起こるだろう」川島に決断を迫ったが、結局返答を留意した。川島陸相はこの時点ではまだ叛乱軍につくか、省部につくか迷っていた。 |
【2.26事件の展開】 |
午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。 磯部は車を降りた真崎大将に対し、「閣下、統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況をご存じでありますか」と訪ね、真崎は「とうとうやったか、お前達の心はよーくわかっとる、よーくわかっとる」と答え、磯部の「どうか善処していただきたい」の言葉に頷きながら邸内に入っていった。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」、「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。 午前9時30分、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」、「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。 杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。 |
【昭和天皇と軍部の拮抗】 | ||||||
事件の報に接した天皇は次のように述べたとされる。
天皇は、「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁・中将に対して次のように厳しく叱責している。
天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印された。 石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。 陸軍首脳部は、昭和天皇の鎮圧命令が出たにも拘わらず武力鎮圧を躊躇した。事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。 会見の間に、山下奉文少将、真崎甚三郎大将、古荘陸軍次官らが呼び出され、また、青年将校運動で「別格」と呼ばれた山口一太郎大尉を先導役として、決起部隊の歩哨線を通過してきた小藤恵第一連隊長や石原莞爾参謀本部作戦課長などいろいろな人物が登場する。山口大尉が決起将校の間を動き回り、彼等と軍事参議官らとの会見に立ち合っている。 川島陸相は軍事参議官たちに主導権を渡してしまい、決起側に渡すために作られた文書に「陸軍大臣ヨリ」とか「陸軍大臣告示」という題名をつけることを了承しただけで、以後表面から姿を消している。また「強力内閣」や「大詔煥発」を構想していたという真崎大将にしても、午前中の宮中での行動は明らかでなく、午後には軍事参議官の一員としての立場に終始するようになった。
事件処理の中心に軍事参議官や陸軍大臣告示が浮かび上がった時点で、決起側が何らかの成果を得る見込みがなくなっていたことが理解できる。 午後3時、東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7.18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。
荒木大将の戦後の談話で重要なことが述べられているので記しておく。
これによれば、端から「天皇の意志に反しているばかりか、天皇に累が及ぼすおそれさえある」ことが認識されていたことになる。第一項の「天聴に達せられあり」は、 最初の申合書には「天聴に達し」となっていた。それに植田大将が「あり」という文字を追加した。これにより、まったく意味が違ってくることになった。「達し」では、「天皇に完全に申し上げてある」の意味になるが、「達しあり」となると、「ともかく申し上げてはあるが、その後のことはわからない」の意味になる。この違いは大きい、次に「諸子ノ行動」という文字が「諸子ノ真意」へと書き換えられていた。それが正文とされている。「行動」とあれば「統帥を乱し、重臣を襲撃した事柄までも認めることになる」が、「真意」では「行動の是非は別として気持ちは認めるいう、漠然とした抽象的なものになり、あとでなんとでもその解釈は変更できる」。但し、最初は「至誠」だったのが「真意」に改められたものであり、「行動」とは記されていなかったという話もある。 叛乱軍にとって告示は陸軍の首脳に皇族も加わって宮中で作製されたということは下士官・兵はもちろん、将校に天皇の親裁を予想させるのに十分であった。この「告示」をめぐって軍首脳と叛乱軍との溝が広がり、叛乱軍に不信感を抱かせ、後の奉勅命令を懐疑する原因となったのは否定できない。この一件は事件の収拾をより困難にしてしまった。 山下少将は、叛乱軍将校に「告示」をするため宮中を出て、それとともに警備司令官を通じ近衛、第一師団長にも示し、こういう趣旨で説得するということを部下に伝達することとなった。そこで香椎東京警備司令官は宮中から電話で警備司令部(近衛第一師団、第一師団を統率している機関)の安井籐治参謀長に「告示」を伝えた。電話を受けた安井参謀長は復誦を二度も行い、香椎中将に確認した。そして、安井参謀長は電話を聞きながら部下の福島参謀に口述筆記させた。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。 |
【反乱部隊支援の動き】 |
反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。この動きについて史実から消されている。これにつき判明次第書きつけることにする。 |
この後は【2.26事件史その3、鎮圧考】に続く
(私論.私見)