2.26事件史その1、決起前までの経緯考

 (最新見直し2011.06.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、2.26事件に至る経緯を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【2.26事件の伏線】

 1936(昭和11)年の2.26事件に至る伏線を確認しておく。陸軍内で皇道派と統制派が対立していた。既に1920年代に「改造・革新」に向かう青年将校が現れ、次第に「維新」の方向に覚醒し始めていた。その関係が「運動」の形をとるのは、1931年の三月事件クーデターが未遂に終った後の8.26日、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであると推定できる。そこで藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校が十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。この間、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼等は幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する。続いて民間・海軍グループが血盟団事件、五・一五事件を引き起こすが、この過程で決別し、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発する。

 この運動は、「上下一貫、左右一体」スローガンを掲げ、合法的に軍上層部を動かすことを基本目標にしていた。つまり、「軍中央の『鞭撻』」を主としており、「軍中央の『応援団』的要素を強くもった運動」であった。これには、青年将校運動が陸軍中央によって上から作られたという側面があったことによる。荒木陸相以下の首脳部は、青年将校の訪問を受け入れて懇談し、機密費を供与し、人事上の便宜を与えるなどして、「陸軍中央と青年将校の一体化」を図り「人事上の便宜」を図っていた。これにより、特に歩兵第1聯隊(赤坂)、歩兵第3聯隊(麻布)に後の二・二六事件の主役となる青年将校運動の拠点が形成されることになった。


 
皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことによる。中心人物が荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文で、天皇機関説批判の中心的存在でもあった。その皇道派に対抗して組織化されたのが統制派で、クーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、いわば合法的体制的な軍統制を図ろうとしていたのが陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループであった。中心人物が永田鉄山、林銑十郎、東条英機、石原莞爾らであった。

 1934(昭和9).1.23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任した。後任に同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていたところ、反荒木派の中堅幕僚が、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして巻き返しを図り、荒木陸相の後任に統制派の林銑十郎を就任させた。

 3月、統制派の林銑十郎陸相は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門にして大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3の軍務局長に統制派の永田鉄山を起用した。永田鉄山は陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートであった。この結果、統制派が陸軍省の実権を握り、この頃より皇道派が軍中央によって圧迫され始めた。

 7月、岡田啓介(海軍大将)内閣が誕生し、陸相に統制派の林銑十郎が留任した。8.19日、ドイツで、ヒトラーが国民投票で総統に就任した。ドイツ第3帝国が成立した。9.18日、ソ連が国際連盟に加入した。


 
10月、幕僚派の主張に基づくパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍省新聞班)が発表され、皇道派青年将校らがその支持普及運動を起こす。これに対し、永田軍務局長らが不快感を示し、意見具申に行った村中達の動きを「余計なお世話である」と一蹴した。永田からみれば軍部の政策の立案実行は中央部幕僚の職務であり、兵の教育に専念している筈の隊付将校が軍中央の政策に関与しようとする事は軍秩序の紊乱であった。

 11.20日、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一大尉らの青年将校がクーデタを計画したという容疑で検挙された。これを「士官学校事件」又は「十一月事件」と云う。理由は、第66臨時議会(昭和9年11月28日〜12月9日)の開会中に村中、磯部らが首謀者となり、西田税ら民間右翼も加え、元老、重臣及び警視庁を襲いクーデターを決行しようとした容疑であった。統制派の主要メンバーが検挙に当たった為に争議となった。

 事件の経緯は次の通り。統制派の辻政信大尉が士官学校教官として赴任し、生徒である佐藤勝郎士官候補生から「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一主計、西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされた。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介、前首相の斎藤実、公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明した。辻は、「村中らのクーデター計画情報」を片倉衷少佐、塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告した。

 
軍法会議では昭和10年3月末にクーデターを計画する旨の談合はあったが、実行する企図があったかどうかは証拠不十分であるとして不起訴となった。しかし陸軍省は、村中、磯部ら3名に停職という慣例をはるかに越えた重い処分を科した。皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」として反発した。統制派は、皇道派の柳川平助第一師団長が圧力をかけて軍法会議を打ち切らせたのはクーデターを助長し軍紀を乱すものと非難した。この事件により、統制派と皇道派の対立が激化した。

 1935(昭和10).2.7日、村中、磯部が永田直系の片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが軍当局は黙殺した。3.16日、ヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言した。3.20日、証拠不十分で不起訴になった。4.1日、停職。4.2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4.6日、教育総監の真崎甚三郎は国体明徴の訓示を陸軍に通達した。4.24日、村中は告訴の追加を提出したが黙殺された。5.11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出し、磯部は5.8日と13日、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。


 
7.11日、村中、磯部が「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。この意見書は、三月事件、十月事件の責任が隠蔽されている点に軍の混乱の原因があるとして、「粛軍」という新たな闘争目標を設定した。しかし、これも黙殺される気配があったので500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。

 7.15日、統制派は、昭和10.8月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。元陸軍次官の柳川平助第一師団長、元憲兵司令官として手腕を奮った秦真次第二師団長を共に予備役編入し、変わって建川美次、小磯国昭中将、東条英機少将ら統制派幹部を陸軍首脳部に送り込もうとした。永田率いる統制派の一辺倒だった林銑十郎陸相はこれを受け入れたが、当時教育総監の地位にあった真崎甚三郎が真っ向から反対した。統制派の林陸相は、皇道派の真崎教育総監に対して、統制派の永田鉄山軍務局長、杉山元参謀次長が参加し、今井清人事局長、柳川平助陸軍次官の作成した人事案を示した。皇道派の真崎甚三郎や山岡重厚、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木率道らを排除する意図が明瞭にされていた。真崎は、「軍の最高人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で決定するという内規を無視するのか」と抗議した。


 
7.16日、統制派の林銑十郎陸相は、真崎嫌いの閑院宮参謀総長の同意を取り付けた上で皇道派の真崎教育総監を罷免し、後任に統制派の渡辺錠太郎を任命した。これを「教育総監辞任事件」と云う。真崎は、「この人事の背景には永田鉄山がいる」と皇道派将校に吹聴した。これにより統制派と皇道派の対立が深刻化した。皇道派の青年将校は、この人事を統帥権干犯として非難する言論戦を展開した。

 8.2日、士官学校事件で休職中の皇道派の村中孝次、磯部浅一が、「粛軍に関する意見書」を頒布した件で解職処分に付され免官された。皇道派には理不尽な処分であり、以降、統制派に対して激しい敵愾心を燃やすようになった。これが2・26事件の大いなる伏線となった。 皇道派は、”真相究明”を名目とする各種の地下文書を流した。文章は事件が「天皇機関説を実行し、国体を破壊し、国軍を攪乱し、昭和維新を阻止せんとする元老重臣の大陰謀」であると訴えていた。また「永田は統帥権干犯、皇軍私兵化の許されない大罪を犯した」と極言していた。更迭後も軍事参議官の要職にあった真崎は、怪文書の取り締まりを要求する渡辺教育総監を押さえ、青年将校らと接触しては永田をこきおろすなど永田批判を焚きつけていた。

 8.3日、岡田啓介内閣が国体明徴を声明した。

 8.12日白昼、統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった。これを「相沢事件」と云う。。概要は次の通り。陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(51歳)は、陸軍省軍務局長室で、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から報告を聞いてたところへ、皇道派の相沢三郎陸軍中佐(46歳)がドアを蹴破り、「天誅!」と叫んで斬りかかり、右の方へ逃げた永田の背後から一太刀浴びせた。永田は自分の机の前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとしたが、鍵がかかっていた。相沢三郎は、永田の左背部から突き刺し刺殺した。武士の作法として首筋にとどめを刺した。新聞は、「現役将校が白昼公務執行中の上官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、我が陸軍未曾有の重大事」と報じた。永田少将は陸士16期生、相沢中佐は陸士22期生で先輩・後輩の間柄であったが、相沢は青年将校らと親しく、真崎の更迭に憤っていた矢先、村中らの地下文書を見せられ永田の暗殺を決意したと云う。軍法会議で、「自分の行為は伊勢神宮のお告げに従ったもので犯罪ではない」と主張している。事件後、皇道派と統制派の対立が更に激化した。永田の「対中一撃論」はその後も統制派に引き継がれ、皇道派を放逐した後は統制派が陸軍の主流を歩むことになる。

 9.5日、林銑十郎陸相が辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任した。この頃、第1師団の満州への派遣が内定している。安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行き内定に対して、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べている。1935.1月の中隊長昇進の際には、連隊長・井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束している。

 青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していた。「第1師団の満洲行き内定」に危機感を抱き、逆に「昭和維新断行」の決意を固めた。クーデター決行は、3月になれば第一師団が東京を離れるので2月中に実行に移さねばならないことになった。その為の下士官・兵の動員態勢づくりが進められた。慎重論もあったが、「第1師団が渡満する前の蹶起」を確認した。山口一太郎大尉や民間人である北、西田は時期尚早であると主張したが、置き去りにするかたちで事態が進行し始めた。留意すべきは、この経緯を見れば、皇道派が統制派に乗せられた面も否定できないことであろう。


 9.15日、ヒトラーは、「ドイツ人の血と尊厳の保護」として、ニュルンベルク法を制定した。10.3日、イタリアがエチオピアに侵入を開始した。これをエチオピア戦争と云う。

 
9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語っている。

 10月頃、皇道派の陸軍青年将校が再び形勢を挽回するためにクーデタを計画し始めた。磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と事件後憲兵の尋問に答えている。

 12.14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎・陸軍次官、山下奉文・軍事調査部長、真崎甚三郎・軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語っている。


 
1936(昭和11).1.5日、磯部は川島陸相を官邸に訪問し約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。磯部が「何とかしてもらわねばならぬ」と追及したが、川島の応答には具体性がなく、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うと、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えている。

 1.23日、磯部が政治浪人の森伝とともに川島陸相と面会し、「渡辺教育総監に将校の不満が高まっており、このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ」と告げている。

 1.28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人の森伝を通じての500円の提供を約束した。磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。


【皇道派と統制派の発生抗争史考】

 陸軍内での皇道派と統制派の発生と対立、抗争史を確認しておく。「陸軍と派閥」その他を参照する。

 元々は、明治維新来の旧態然とした軍部の改革から生まれており、土壌は共有していたのではないかと思われる。それが、軍近代化の具体的な手法を廻って真っ向から対立することになった。既に1920年代に「改造・革新」に向かう青年将校が現れ、次第に「維新」の方向に覚醒し始めていた。その関係が「運動」の形をとるのは、1931年の三月事件クーデターが未遂に終った後の8.26日、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであると推定できる。そこで藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校が十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。この間、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼等は幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する。続いて民間・海軍グループが血盟団事件、五・一五事件を引き起こすが、この過程で決別し、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発する。

 ここで興味深いことは、陸軍と海軍の対立が既に発生しており、海軍を巻き込まず陸軍内部で抗争していることであろう。この事情を考察することも興味が湧くが、別稿で確認することにして、ここでは問わない。この運動は、「上下一貫、左右一体」スローガンを掲げ、合法的に軍上層部を動かすことを基本目標にしていた。つまり、「軍中央の『鞭撻』」を主としており、「軍中央の『応援団』的要素を強くもった運動」であった。これには、青年将校運動が陸軍中央によって上から作られたという側面があったことによる。荒木陸相以下の首脳部は、青年将校の訪問を受け入れて懇談し、機密費を供与し、人事上の便宜を与えるなどして、「陸軍中央と青年将校の一体化」を図り「人事上の便宜」を図っていた。これにより、特に歩兵第1聯隊(赤坂)、歩兵第3聯隊(麻布)に後の二・二六事件の主役となる青年将校運動の拠点が形成されることになった。

 
皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことによる。荒木は青年将校等を自由に自宅へ出入りさせ、「非常時日本」、「皇軍の危機」を常々説き、彼らの下克上精神を逆手に取ることでウマく人気を盛り上げていった。彼の弁舌は冴えに冴えていた。また、荒木は貧しい少年時代と下級将校時代を送ったことも、農村出身の青年将校らの受けがよかった。中心人物が荒木貞夫、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)、山下奉文・(軍事調査部長)、山岡重厚(軍務局長)、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木率道、古荘幹郎・陸軍次官らで天皇機関説批判の中心的存在でもあった。村中孝次大尉、磯部浅一主計、小川三郎大尉、西田税予備少尉。元陸軍次官の柳川平助第一師団長、元憲兵司令官として手腕を奮った秦真次第二師団長。

 その皇道派に対抗して組織化されたのが統制派で、クーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、いわば合法的体制的な軍統制を図ろうとしていたのが陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループであった。中心人物が永田鉄山・大佐(後、少将、軍務局長、林銑十郎陸相、杉山元参謀次長東条英機、石原莞爾(参謀本部作戦課長)らであった。辻政信大尉。片倉衷少佐、塚本誠憲兵大尉、橋本虎之助陸軍次官らが列なる。建川美次、小磯国昭中将、東条英機少将。今井清人事局長、柳川平助陸軍次官。真崎嫌いの閑院宮参謀総長。渡辺錠太郎・教育総監。


 犬養内閣成立時、荒木貞夫中将は、教育総本部長の職から颯爽と陸相に就任した。皇道派全盛の時代となる。陸軍大臣・ 荒木貞夫、陸軍次官・柳川平助、参謀次長・真崎勘三郎、軍務局長・山岡重厚、教育総本部長・香椎浩平、教育総監・武藤信義。ちなみに参謀総長の閑院宮(陸軍大将、皇族きっての生え抜きの軍人)、教育総監の林銑十郎はいわゆる反皇道派である。この皇道派の時代、荒木は「皇国の軍人精神」や「全日本国民に告ぐ」等の演説を行い、また将校の帯刀しているサーベルを日本刀に変えさせる等いろいろなことをした。

 皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らは反皇道派として団結するようになり、同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。
永田自身には派閥そのものに否定的見解を持っていたのだ。


【当時の農村の疲弊と惨状考】
 1929(昭和4)年、アメリカはニューヨークのウォール街では株の大暴落でパニックにつつまれた。アメリカの恐慌は日本をも直撃し、日本のアメリカへの主力輸出品である生糸の暴落へと導いた。生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落へと連動し、農家の生計は崩壊した。追い打ちをかけたのが東北地方の凶作飢饉だった。農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。

 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要とされていた。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じている。

 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、昭和9年1月から11月までの間に山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人、公娼1420人、私娼1629人と記録している。「娘身売りの場合は、当相談所に御出下さい」と張り紙をした村役場も、東北地方では珍しくなかった。1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録している。

【「蹶起趣意書」考】

 2.13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せている。蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、「依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す」と述べている。山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、一言も発しなかったと云われている。蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。

 磯部は、獄中手記で次のように決起の心情を吐露している。

 「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」。

 村中の憲兵調書には次のように記されている。

 「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」。

 本庄日記にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可すると彼らが考えたとしても無理もないことになる。

 菅波三郎は次のように述べている。

 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」。

 青年将校らが折に触れて歌ったのが「昭和維新の歌」、正式には「青年日本の歌」であった。作詞作曲は、首相官邸で犬養毅首相を襲った「五.一五事件」の実行犯である三上卓(みかみたく/たかし1905−1971)海軍中尉。

 一、泪羅(べきら=シナ湖南省の河の名で自殺の名所)の淵に波騒ぎ、巫山(ふざん=長江の名所三峡の一角の山塊)の雲は乱れ飛ぶ 

   混濁の世に我立てば、義憤に燃えて血潮湧く

 二、権門上(けんもんかみ)に傲(おご)れども、国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく=国家や朝廷)を思う心なし

 三、ああ人栄え国亡(ほろ)ぶ 盲(めしい)たる民世(たみよ)に躍(おど)る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

 四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫(ますらお)が 胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花(さくらばな)

 五、古(ふる)びし死骸(むくろ)乗り越(こ)えて 雲漂揺(くもひょうよう)の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫(ますらお)の歌なからめや

 六、天の怒りか地の声か そもただならぬ響きあり 民永劫(えいごう)の眠りより 醒(さ)めよ日本の朝ぼらけ

 七、見よ九(きゅう)天の雲は垂れ 四海の水は雄叫(おたけ)びて 革新の機(き)到(いた)りぬと 吹くや日本の夕嵐(ゆうあらし)

 八、あゝうらぶれし天地(あめつち)の 迷の道を人はゆく 栄華を誇る塵(ちり)の世に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺(なが)めぞや

 九、功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢の跡(あと) 消えざるものはただ誠(まこと) 人生意気に感じては 成否(せいひ)を誰かあげつらう

 十、やめよ離騒(りそう)の一悲曲(いちひきょく) 悲歌(ひか)慷慨(こうがい)の日は去りぬ 
   われらが剣(つるぎ)今こそは 廓清(かくせい)の血に躍るかな


【蹶起直前の申し合わせ】

 2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問している。山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」、「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。

 
2.18日夜、栗原安秀中尉宅での会合で西園寺襲撃が決定された。

 2.19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。

 2.20日、安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。

 2.21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。第一次目標は、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、牧野伸顕(前内大臣)、西園寺公望(元老)。第二次目標は、後藤文夫(内務大臣)、一木喜徳郎(枢密院議長)、伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)、三井高公(三井財閥当主)、池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)、岩崎小弥太(三菱財閥当主)だった。磯部は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。

 2.21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。

 2.22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。  

 2.22日、磯部らの工作で歩兵第三連隊の安藤輝三大尉が部下と共に参加すると約束した。安藤は、野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と云われ、決起参加を決断した。村中孝次は、「個人的には蹶起せず、兵力を以て起ちたい」と述べて逡巡している。

 磯部らは、この年1月から始まった相沢事件軍法会議が2.25日に結審となり、真崎も出廷し、皇道派の立場の宣伝のヤマ場を迎えると判断し、2.24日に至り、26日早朝の決起を決意した。2.25日、なぜ自分たちが重臣・元老を襲撃するのかという理由を「蹶起趣意書」に宣明し、具体的方策を「陸軍大臣要望事項」として書き上げた。この趣意書は2.24日に野中四郎が原文を書き、24日、北一輝宅で村中孝次が清書した。これらは事件当日、「陸軍大臣要望事項」と共に香田清貞が川島陸相の面前で読み上げることになる。

 2.23日、栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。

 2.24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃、夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察部長官舎に避難した。


【憲兵隊の諜報活動と不審な傍観考】
 東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。クーデターの情報は、憲兵隊にも警視庁にも事前に入っていた。2月の初め頃、東京憲兵隊長に「歩一では山口、歩三では安藤が週番司令になった時一番あぶない」という情報が入っていた。

 2.19日、三菱本社秘書課から「栗原安秀中尉一派が二五日頃重臣襲撃を決行する」との報告が憲兵隊にもたらされた。しかし東京憲兵隊は軍首脳に護衛をつけ、青年将校に尾行をつけたのみで、クーデターそのものを未然に防ぐための対策は何一つとらなかった。

 2.25日過ぎ、いよいよ情勢逼迫とみた憲兵隊本部は、全国から300名の応援憲兵を東京に召集、東京憲兵隊の兵力と合わせて警備する「非常警備計画案」を策定し、坂本俊馬東京憲兵隊長から憲兵司令官へ上申した。しかし司令官は病欠で代理の憲兵司令部総務部々長は「陸軍省が反対だ」という理由で、この案を握り潰している。陸軍省を占めているのは統制派で、統制派は事件を待っていた感がある。

 この後は【2.26事件史その2、決起考】に続く





(私論.私見)