2.26事件史その1、決起前までの経緯考 |
(最新見直し2011.06.04日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、2.26事件に至る経緯を確認する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【2.26事件の伏線】 |
1936(昭和11)年の2.26事件に至る伏線を確認しておく。陸軍内で皇道派と統制派が対立していた。既に1920年代に「改造・革新」に向かう青年将校が現れ、次第に「維新」の方向に覚醒し始めていた。その関係が「運動」の形をとるのは、1931年の三月事件クーデターが未遂に終った後の8.26日、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであると推定できる。そこで藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校が十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。この間、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼等は幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する。続いて民間・海軍グループが血盟団事件、五・一五事件を引き起こすが、この過程で決別し、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発する。 9.5日、林銑十郎陸相が辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任した。この頃、第1師団の満州への派遣が内定している。安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行き内定に対して、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べている。1935.1月の中隊長昇進の際には、連隊長・井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束している。 |
【皇道派と統制派の発生抗争史考】 |
陸軍内での皇道派と統制派の発生と対立、抗争史を確認しておく。「陸軍と派閥」その他を参照する。 |
【当時の農村の疲弊と惨状考】 |
1929(昭和4)年、アメリカはニューヨークのウォール街では株の大暴落でパニックにつつまれた。アメリカの恐慌は日本をも直撃し、日本のアメリカへの主力輸出品である生糸の暴落へと導いた。生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落へと連動し、農家の生計は崩壊した。追い打ちをかけたのが東北地方の凶作飢饉だった。農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要とされていた。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じている。 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、昭和9年1月から11月までの間に山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人、公娼1420人、私娼1629人と記録している。「娘身売りの場合は、当相談所に御出下さい」と張り紙をした村役場も、東北地方では珍しくなかった。1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録している。 |
【「蹶起趣意書」考】 | ||||
2.13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せている。蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、「依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す」と述べている。山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、一言も発しなかったと云われている。蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。 磯部は、獄中手記で次のように決起の心情を吐露している。
村中の憲兵調書には次のように記されている。
本庄日記にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可すると彼らが考えたとしても無理もないことになる。
青年将校らが折に触れて歌ったのが「昭和維新の歌」、正式には「青年日本の歌」であった。作詞作曲は、首相官邸で犬養毅首相を襲った「五.一五事件」の実行犯である三上卓(みかみたく/たかし1905−1971)海軍中尉。
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【蹶起直前の申し合わせ】 |
2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問している。山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」、「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。 |
【憲兵隊の諜報活動と不審な傍観考】 |
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。クーデターの情報は、憲兵隊にも警視庁にも事前に入っていた。2月の初め頃、東京憲兵隊長に「歩一では山口、歩三では安藤が週番司令になった時一番あぶない」という情報が入っていた。 2.19日、三菱本社秘書課から「栗原安秀中尉一派が二五日頃重臣襲撃を決行する」との報告が憲兵隊にもたらされた。しかし東京憲兵隊は軍首脳に護衛をつけ、青年将校に尾行をつけたのみで、クーデターそのものを未然に防ぐための対策は何一つとらなかった。 2.25日過ぎ、いよいよ情勢逼迫とみた憲兵隊本部は、全国から300名の応援憲兵を東京に召集、東京憲兵隊の兵力と合わせて警備する「非常警備計画案」を策定し、坂本俊馬東京憲兵隊長から憲兵司令官へ上申した。しかし司令官は病欠で代理の憲兵司令部総務部々長は「陸軍省が反対だ」という理由で、この案を握り潰している。陸軍省を占めているのは統制派で、統制派は事件を待っていた感がある。 |
この後は【2.26事件史その2、決起考】に続く
(私論.私見)