2.26事件史その3、鎮圧考

2.26事件史その3、鎮圧考

 (最新見直し2011.06.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、2.26事件の鎮圧経緯を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


 この前は【2.26事件史その2、決起考】に記す。


【昭和天皇が鎮圧決断】

 午後8時40分、閣議が開かれ戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。この勅令によって戒厳令は施行され、26日から7.18日(叛乱軍将校の処刑後)まで帝都は戒厳令下となった。行政戒厳であった。

 午後9時、後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。

 緊急勅令
 朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項に依り一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ

 御名御璽 昭和十一年二月二十六日

 戒厳令施行については川島(元)陸相が必要なしと主張したのに対し、杉山参謀次長が強く施行を主張した。宮中での川島陸相と杉山参謀次長の対話は次の通り。杉山「それは次官の申すとおり、この場合は戦時警備令だけでは不充分です。どうしても戒厳令までいかねばなりません」。川島「貴官は戦時警備上奏の時、これで十分目的を果たせると言っていたではないか」。杉山「情勢の変化もあります。同時に戒厳を令すれば、警察、通信、集会その他行政権を掌握するという便利があります」。川島「・・・・そうかな」。この経緯で、統制派が事態収拾の主導権を握ったことになる。

 午後9時、主立った反乱部隊将校の香田、対馬、栗原、村中、磯部の5名が陸相官邸で皇族を除いた荒木、真崎、阿部、林、植田、寺内、西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の山下少将、小藤大佐、鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉が列席した。まず香田があらためて蹶起の趣旨と「陸軍大臣要望事項」を説明し会見は始まった。 参議官側からは荒木が真っ先に質問する。荒木「大権を私議するようなことを君らが云うのなら我輩は断然意見を異にする、お上がどれだけ御軫念になっているか考えてみよ」。 磯部「何が大権私議だ。この国家の重大の時局に、国家のためにこの人の出馬を希望するという赤誠国民の希望がなぜ大権私議か。君国のために真人物を推すことは赤子の道ではないか。とくに皇族内閣説が幕僚間に蔓延している時、もし一歩過らば、国体を傷つける大問題が生じる瀬戸際ではないか」と反論。さらに村中が皇族内閣不可能説を理路整然と説いた。これには大将連には一言もなかった。磯部に言わせれば「すっかり吾人の国体信念にまいった様子」を見せた。真崎は次のように述べている。
 「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」

 磯部は、遺書となった手記に次のように記している。
 「(この時の様子を、)親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた」。
 「この会見はまったくウヤムヤに終わってしまい、どちらもたいした意見を言えず単なる顔合わせになってしまったのは、へきとうの荒木の一言が有害であった。『陛下』『陛下』でおさえられてお互いに口が利けなくなってしまったのだ。もし、同席してた山下少将や満井、鈴木の内誰か一人が奇策をもってこの会見を維新的に有利に導くことが出来たら、天下はこの一夜で決まったのだ・・・」。

 夜、臨時の陸軍省、参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。

 なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。

 午後10時25分、東京警備司令部は「戦時警備に関する告諭」を官民両方に対し発した。

 師戦警第一号
 歩兵第三連隊長は本朝より行動しある部隊を併せ指揮し担任警備地区を整備し、治安維持に任ずべし。但し歩一の部隊は適時歩三の部隊と交代すべし。

 師戦警第二号
歩兵第一連隊長は朝来行動しある部下部隊及歩兵第三連隊、野重砲七の部隊を指揮し、概ね桜田門、日比谷公園西北側角、議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ぬる線内の警備に任じ、歩兵第三連隊長は其他の担任警備地区の警備に任ずべし。

 これによれば、叛乱部隊は、占拠している地区を警備司令部とともに一括して警備の任にあたらせるお墨付きを得たことになる。この命令によって蹶起部隊は一時的にとは言え、賊軍(叛乱軍)ではなく官軍になった。ここまでは蹶起部隊にとって事態の進行はまことにもって順調だった。蹶起将校の中には気をよくして歩一連隊長に対し、全面的に指揮下に入らず独自の権限を求めるという自信ぶりを示したりしていた。この情況が戒厳令を境に一変することになる。

【2.27日の経緯。戒厳令敷かれる】

 2.27日午前1時過ぎ、石原莞爾作戦課長、満井佐吉中佐、三月事件、十月事件の立案者である橋本欣五郎大佐(野戦重砲第二連隊の連隊長)が帝国ホテルに集まり、玄関応接室で善後処置を協議した。橋本は事件発生の報を受けて直ちに旅団長に上京の許可を貰い、この帝国ホテルにやってきた。事態収拾の方策が検討され、「陛下に石原が直接上奏して叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件の下に叛乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政権を樹立し収拾する」方針で意思一致させた。後継内閣について議論が分かれ、石原が皇族の東久邇宮を推し、橋本は建川美次中将、満井は真崎を推した。妥協案として橋本が山下英輔海軍大将を推し、「まぁそれでいいだろうと」他の二人も納得した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見を一致させた。

 山下への工作を行うとともに叛乱軍の村中を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せて撤退を勧告し、村中はこれを了承して帰った。村中が帰って同志らに「皇軍相撃ちはとにかくいけない」云々の説得をするが、磯部らが大反対した。「皇軍相撃ちがなんだ。同士討ちは革命の原則じゃないのか」などと激しく反論し、この案は蹴られた。一方、石原も憲兵隊司令部に帰り、協議の内容を杉山参謀次長に報告したが「陛下に陸軍よりかくの如き事項を要望書に奏上するは断じて不可なり」と一蹴されている。結局この密談は何の成果ももたらさなかった。

 午前2時40分、宮中の枢密院会議で戒厳令の施行が決定され、陛下に奏上し裁可をいただいた。侍従「くれぐれも叛乱軍に悪用されないように慎重に行って欲しいとの陛下のお言葉です」。枢密院会議とほぼ同時刻、岡田内閣が正式に内閣総辞職を決定した。後藤内相兼臨時首相代理が閣僚の辞表をとりまとめて天皇に奉呈し、聖旨により後継内閣組閣まで政務を続けることになった。

 天皇は、一番重い責任がある川島陸相の辞表文が他の閣僚とほぼ同内容であることを指摘し、虎ノ門事件の責任者後藤新平の例をとって激しく非難した。この一件は、天皇に陸軍を不信させ、陸軍が事態を収拾できないなら、自ら近衛師団を率いて鎮圧するという決意を固めさせたと思われる。これは重臣の大反対で実現されなかったが、遠藤喜一海軍侍従武官(後の二代目総力戦研究所長)が次のように回想している。遠藤は、昭和10年春から三年間侍従武官として側近に奉仕していた。

 「事件が起こりました当時、先輩の武官は御差遣のため不在中であり、海軍武官として私一人が宮中に留まっておりました。非常に重大な事件でありますので、私どもはまことに「恐懼措く所を知らず」という状態で、折に触れて御用を奉仕するため、御側に出たのであります。今上陛下は、平素はまことに穏やかな御方で在らせられる。しかし、その時は私どもはある戦慄きを感ずるような、雄々しい凄味を帯びた御姿でありました。私どもは、陛下は神ながらの天職を犯す者に対する熱烈真剣な御気持をお有ちになっていると拝した次第であります」。

 午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固かった。

 午前4時40分、「戒厳司令部作戦命令第1号」が発布され、警備司令部はそのまま戒厳司令部となった。戒厳司令官は香椎中将、安井参謀長もそのまま戒厳参謀長となった。参謀本部の石原莞爾作戦課長なども戒厳参謀となり、統制派による事態収拾第一歩が刻まれた。

 早朝、岡田啓介首相の生存を知った首相秘書官らは、首相を弔問客に変装させて官邸から救出に向かった。午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。


 午前8時20分、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。

 午後0時45分、天皇は、拝謁に訪れた川島陸相に対して、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン」と強い意志を表明し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。御意を受け、戒厳令が公布されることになった。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命された。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。

 午後2時、陸相官邸で真崎、西、阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。真崎大将をもって事態を収拾しようとした叛乱軍は「真崎大将に陸相官邸に来てもらいたい」と申し出て、真崎が赴こうとすると、「真崎大将単独で行くのは後日紛議の種になる」と阿部、西の両大将が同行したことにより三者となった。叛乱軍将校ほぼ全員と山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉を加えて会見が始まった。

 この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。野中大尉は、「事態の収拾を真崎大将にお願いします。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致意見としてご上奏願いたい」と述べた。これに対し、真崎大将らは「時局収拾の道は維新部隊が速やかにご統率のもとに復帰するにあるのみ。戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反するときは、錦旗に反抗することになるぞ・・・。早く撤収あるのみだ」、「我々軍事参議官は、お上のご諮問ありてはじめて働くものにして他に職種なし。ただ軍の長老として座視するに忍びず道徳的に働くのみである。事態の収拾には努力する」と述べ、青年将校らに原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と返答している。磯部の獄中文書は次のように記している。

  「この会見がとりとめのないものに終わったのが維新派敗退の大きな原因だった。吾人はなんとしても正義派参議官に食いつき、真崎、川島、荒木などにダニのごとく喰いついて離れなければよかったのだ」。

 午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。

 午後5時、秩父宮が弘前より上京、上野着。

 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。

 夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った。


【2.28日の経緯。反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令下る】

 2.28日午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。

 晩には戦車が降伏勧告のビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、閑院宮館、陸軍省、首相官邸、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。また、叛乱軍は戦線を縮小して山王ホテル、幸楽、三宅坂での決戦を考えた。磯部は「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる」と檄を飛ばしている。鎮圧に踏み切った戒厳司令部・軍本部もこうした叛乱軍側の覚悟を感じて緊張が高まった。

 午前5時8分、絶対神聖なる奉勅命令が戒厳司令官に下達された。

 臨時変更参謀本部命令第三号
 戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て速に現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復帰せしむべし

 奉勅     参謀総長 載仁親王

 クーデター開始から2日後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下された。この命令により、叛乱軍は原隊にもどらねば、また事態をそのままにしておくだけで勅命に抗した逆賊になった。この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。命令書を見ると参謀総長が命令してるように受け止められるが、参謀総長は天皇の命令の伝達者として記名されている。これがいわゆる奉勅伝宣である。

 午前5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令された。

 6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。

 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。

 午前9時頃、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。

 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と激怒し拒絶した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。

 自決と帰営の決定事項が料亭行楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤、安藤隊は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。

 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除した(同第11号)。

 午後7時30分頃、満井中佐の提言で、戒厳司令部に荒木、林の軍事参議官と、今井軍務局長、飯田参謀本部総務部長、石原(戒厳)作戦課長、川島(元)陸相、杉山参謀次長が集まった。石原が強硬に軍事参議官の干渉を拒絶し、退席させようとした。荒木は、「一同相談の結果、叛軍を武力討伐するにおいては、きわめて重大な影響あるにつき、ここに次の意見を出す」と前置きし、皇軍相撃を避けよと力説したが、石原は頑と動じず、遂に二人を追い出すこととなった。香椎戒厳司令官が改まった態度でこう言った。

 「この機会に及びて平和解決の唯一の手段は、昭和維新断行のため御聖断を仰ぐにあり。自分は今より参内上奏せんと考う。上奏の要点は、昭和維新を断行する御内意を拝承するにあり。目下の情況においては、叛乱軍将校は、たとえ逆賊の名を与えらるるも奉勅命令に従わずという決心を有す。奉勅命令未だ出しあらざるも、これを出すときは皇軍相撃は必然的に明らかなり。兵にまったく罪はなし。幹部の責任のみ。しかして罪は独り将校の負うべきものにして、罪は軍法会議において問えば可なり・・・・・・本来自分は彼らの行動を必ずしも否認せざるものなり。特に皇軍相撃に至らば、彼らを撤退せしむべき勅命の実行は不可能とならん」。

 これに対し、杉山参謀次長が断固として反対した。

 「全然不同意なり。もはやこれ以上軍紀維持上よりするも許し難し。また陛下に対し奉りこの機に及んで昭和維新の断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に絶えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り討伐せよ」。

 香椎は数分にわたって沈黙し、ふと顔を上げこう言った。「決心変更、討伐を断行せん」。ここに叛乱軍の命運は決した。

 後は討伐の方法が検討されることになった。既に討伐に向けて佐倉、甲府連隊が上京しており、さらに仙台駐屯の第2師団、宇都宮駐屯の第14師団からの兵力抽出も決定されていた。奉勅命令には歩兵第一師団に討伐するよう命じられていたが、参謀本部では歩一、歩三をアテにせず地方連隊による討伐を計画していた。歩兵第1連隊長の小藤大佐は自分の職責、そしてなにより軍首脳の意向、省部の意向を誰よりもよく知っていたので事件の帰趨を察知して、事件が片づいたら辞めると覚悟していた。討伐命令が下されれば、「討つも歩一、討たるるも歩一」という連隊長として悲痛な運命が待っていた。会議が討伐でまとまるのをみて、石原大佐はただちに命令受領者の集合を命じ、即時攻撃の開始を伝えようとした。戒厳司令部の安井参謀長がまず「奉勅命令の徹底が充分でないおそれがある」として、しばらく発令を見合わせさせた。そうしてると今度は堀第1師団長が「大臣告示の趣旨実現に努めたく、また流血を避けるため説得に努めるから、奉勅命令の下達時機は第一師団長に一任されたい」と申し出があり、香椎がこれを認め、堀師団長は陸相官邸に出掛けて叛乱軍将校の説得を始めた。

 堀師団長の説得には山下少将、鈴木貞一大佐、山口大尉、栗原中尉、そして村中が同席し、いちおう撤退するということで話がまとまった。しかし、先に戒厳司令部に行っていた磯部が戻ってくるなり、「おーい、いったいどうするというのだ。いま引いたらたいへんになるぞ。絶対引かないぞ」と叫ぶ。とりあえず、堀や山下が帰った後で相談をする。ここでは徹底抗戦派の安藤大尉、磯部らと、香田、村中、栗原の自決・撤退派がお互い論戦となった。栗原「統帥体系を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。奉勅命令が出るとかでないとかいうがいっこうにワケがわからん。お伺い申し上げた上で我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときは勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなればしあわせではないか」。磯部も統帥体系を通じた上奏、つまり「小藤→堀→香椎→陛下」という順序でお上に自分らの真精神を伺うというのはこの際極めて的を得たものであると思い、賛成した。

 しかし、陛下の大御心がまったく異なっていることを彼らは知らなかった。山下少将は川島陸相と堀第一師団長を説き伏せ、宮中に参内して本庄侍従武官長を訪ねた。そこで青年将校が陛下に罪を謝するために切腹する覚悟であり、下士官以下は直ちに原隊に帰し、その罪のお許しを願っていること。自刃にあたり特別のお慈悲をもって侍従武官の御差遣を賜い、彼らに死出の光栄を与えてくれるよう伝奏を申し入れた。本庄は事件発生以来の軍の処置に対しお上はご不満の様子だから出来ないと断ったが、山下の熱意におされて伝奏をひきうけた。「本庄日記」によると「・・陛下に伝奏せし処、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なり」と仰せられ、「又師団長が積極的に能はずとするは(積極的に行動にでないのは)自らの責任を解せざるものなりと、未だもって拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙る」とある。これで叛乱軍将兵の希望は潰えた。これを受けて戒厳司令部では速やかに討伐準備が整えられていった。

 この時の山下の行動が天皇の心証を害してしまった。陛下は先の返答につづけて、「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」と、普段臣下を名指しで批判したことのない天皇が言った。それを耳にした山下は愕然としたという。宮中を下がる悄然たる姿は同行した川島陸相の脳裏にも深く残っていたほどだ。後日、「山下は陛下に嫌われている」と軍中央で噂されるようになったのもこの一件による。

 午後11時、司令部が、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう包囲軍に下命した(同第14号)。

 戒厳司令部作戦命令第十四号
 叛乱部隊は遂に大命に服せず、依って断固武力を以て当面の治安を恢復せんとす。第一師団は明20日午前5時までに概ね現在の○○堅持に首尾し、随時攻撃を開始しうるの準備を整え、戦闘地域内の敵を掃討すべし。 戒厳司令官  香椎浩平

 また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。

 夜、新井中尉が配置部署を離れ部下の中隊を率いて靖国神社に参拝した。軍当局は、事件前に叛軍の会合に出席していたこともある新井中尉に対し極度の警戒をもって受け留めた。この行動により新井中尉は事件後、禁固6年の刑を言い渡されている。新井中尉はこの判決は不当だと抗議した。

 また、東久邇宮を擁して叛乱軍が攻撃を開始するとウワサが流れ、戒厳司令部は東久邇宮邸を戦車4台を含む部隊で包囲した。名目は保護・警戒ということだった。相沢事件の際、相沢が上京して永田軍務局長を斬殺しようとするとき、わざわざ大阪の第4師団長の東久邇宮と面会してから行ったという経緯があるので、皇道派との結びつきを警戒していたことになる。


2.29日の経緯。「 下士官兵ニ告グ」の奉勅命令

 「2/29戒厳司令部告諭第二号」は次の通り。

 本職は更に戒厳令第14条全部を適用し断固麹町区付近において騒動を起こしたる叛徒の鎮圧を期す。しかれどもその地域は狭小にして波及大ならざるべきを予想するをもって官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的をよく理解し特に平静なるを要す。戒厳司令官 香椎浩平

 
「2/29戒厳司令部発表 戒厳令第14条」は次の通り。
 戒厳地境内においては司令官左に列記の諸件を執行するの権を有す、但し其の執行より生ずる損害は要償することを得ず。
第一 集会若しくは新聞雑誌広告等の時勢に妨害ありと認むる者を停止すること
第二 軍需に供す可き民有の諸物品を調査し、又は時機によりその輸出を禁止すること
第三 銃砲弾薬兵器火具その他危険に渉る諸物品を所有する者ある時はこれを検査し時機により押収すること
第四 郵信電報を開緘し出入の船舶及び諸物品を検査し並びに陸海通路を停止すること
第五 戦状により止むを得ざる場合においては人民の動産不動産を破壊毀焼すること
第六 合囲地境内においては昼夜の別なく人民の家屋建造物船舶中に立入検査すること
第七 合囲地境内に寄宿する者あるときは時機によりその地を退去せしむること

万一流弾あるやも知れず戦闘区域付近の市民は次のように御注意下さい

(一)掩護物を利用し難を避けること (二)低いところを利用して避けること (三)屋内では銃声のする反対側にいること (四)立退き区域 市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎ノ門、桜田門、警視庁前、三宅坂の結び線は戦闘区域になるから立退きのこと  (五)立退き随意区域 半蔵門前警視総監官舎から弁慶橋をつなぐ外廊をゆき黒田侯邸から大倉商業、霊南坂上、虎ノ門をめぐる地域 (六)その外廊は交通停止区域

 29日午前5時10分、討伐命令が発せられた。早朝、突如包囲部隊側から突撃ラッパが鳴り響き、バリケード近辺の叛乱軍側は緊張状態になった。戦車数両が轟音を響かせながらバリケードに接近し、横を通り過ぎるさまビラを配る。また戦車には降伏勧告のビラが貼りつけてあった。戦車には「謹んで勅令に従ひ」、「武器を捨て、我方に来れ」などと書かれたビラが貼りつけてあった。ビラが配布されたが横を走りながらであったため叛乱軍側の陣地には飛んでいかなかった。続いて、飛行機が叛乱軍側の占拠している陣地上空を飛び、ビラを配った。このときまかれたビラで有名なのが、「下士官兵ニ告グ」で初まるビラである。

下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前逹ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒嚴司令部

 午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣の麹町、赤坂住民に避難勧告を出し、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みた。投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。「勅命下ル軍旗に手向フナ」の文字がアドバルーンが上げられ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。

 午前8時55分、ラジオ(中村茂アナウンサー)で「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」(原文は全て繋がっている)と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。特設されたスピーカーから叛乱軍側の下士官・兵に語りかけた。

 兵に告ぐ

 勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から、何時までも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体も、それを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。 戒厳司令官 香椎中将

 ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。

 兵の動揺は最大に達した。磯部は、「これは卑劣なる敵の分断工作だ」、「参謀本部の幕僚どもの陰謀だ」と叫んだが、叛乱軍将校の間に「部下の兵隊を犬死にさせたくない」、「兵に罪はない」という意識が膨らんでいった。

 午後1時頃、兵をホテルの庭に集合させ、決別の挨拶をし永田、堂込曹長指揮の下原隊へ兵を帰した。その時、「原隊に帰るまで昭和維新の歌を歌いながら行進していってくれ」と部下に訓辞し、部下が去っていく中、一歩二歩と下がり、やにわに拳銃を取り出し、自決を図った。しかし、安藤大尉はかろうじて一命を取り留め、後の軍法会議で処刑されることになった。首相官邸に布陣していた中橋基明隊が解散した。同官邸に布陣していた栗原も戦意喪失していた。同じく清原少尉、ドイツ大使館前の坂井隊も解散、中島隊が続いて解散した。

 多くの兵士が脱落し始め、これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、その多くは戦死している。

 山王ホテルに陣取った安藤隊だけは最後まで止まり最後まで徹底抗戦を主張した。同じ場所に居た丹生隊が引き揚げても、兵は軍歌を歌い、尊皇討奸の旗の下、抗戦の意志を堅持していた。一人の脱走者もなかった。叛乱に加わるまでは非常に慎重であった安藤大尉が徹底した抗戦派になった。

 午後2時、下士官と兵は全員原隊に戻り、残る将校達は陸相官邸に集まった。時を同じくして、討伐部隊は歩兵第1連隊旗を奉じて陸相官邸、その他の叛乱軍陣地に侵入し、各要所を奪回した。

 午後5時、岡部適三憲兵大尉指揮の憲兵が香田大尉以下全将校を武装解除させた。反乱はあっけない終末を迎えた。階級章を剥ぎ取られ、拳銃その他の装具も没収され軍刀のみ携帯を許された。将校が武装解除されている間、別室にいた首謀格である野中大尉が拳銃で自決した。叛乱軍将校は第二応接室に収容され、自決用のピストルが渡され自決が強要された。陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備していた。青年将校のうち安藤大尉と野中大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議を受けて立つ腹を固めた。村中・磯部らはすでに免官となっており、軍服を着ているとはいえ民間人なので捕縛された。27日に西田税宅から叛乱軍に加わった渋川善助は上半身にぐるぐると縄をかけられた。午後6時頃、全員が護送車によって代々木にある陸軍刑務所に収容された。ここに2・26事件は終結した。結果、両軍ともに一発の発砲もなかった。

 中村アナウンサーのラジオ説得の際に、「今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」という一節が問題となった。放送は戒厳司令部にいた大久保少佐、根本大佐、山下少将の独断で文案を決めたものであり、事態解決に貢献したのは否定できないが、「今までの罪も許される」の部分は大問題となった。これは軍の統帥の問題で、「一体誰が許したか」ということになった。参謀本部内には作戦行動に必然的に伴う謀略として許せるという意見もあったが、結局、部内では『この言葉は大久保少佐の書いた原稿にはなかったが、中村アナウンサーが感極まって付言したものである』として処理された。

 永井荷風の断腸亭日乗の昭和11年2月26日に次のように書かれている。
 「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔この間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁を襲び同時に朝日新聞社日〜新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ」。
 文の途中「〔この間約四字抹消。以下行間補〕」と書かれているが、これは元々は具体的に「麻布連隊」と書かれていたのではないかと思われる。憲兵に踏み込まれた時に問題になるのではないかと思い削除したと思われる。

【戒厳令下の動き】
 同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。  

 3.1日、殺害された高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎は、天皇陛下から「優渥なる御沙汰」をもって「位一級」追陞、さらに高橋是清、斉藤実には大勲位菊花大綬章、渡辺錠太郎には旭日大綬章が追陞された。同日、陸普第980号が出された。

 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第1衛戍病院に収容されていた河野大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分、死亡した。

 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。


【事件による警察官の殉職】

 事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。

 村上嘉茂衛門 巡査部長。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
 土井清松 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。(赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた石川光陽とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。)
 清水与四郎 巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。
 小館喜代松 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
 皆川義孝 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
 玉置英夫 巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。

 また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。


【事件に対する海軍の動き】 

 襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。 26日午前10時、伏見宮海軍ゝ令部総長は海軍省一階正面玄関の階段の上に立ち、集まった判任官以上の軍人に対して天皇の決意を述べ、海軍の断固鎮圧方針を主張した。

 26日午後、横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍横須賀第一水雷戦隊の陸戦隊を芝浦に上陸させ、陸軍叛乱部隊との交戦を予想して重要書類は全て雑のうに入れ地下に移送。土嚢を積み上げた。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。

 12時頃、伏見宮から高橋三吉連合艦隊司令長官に緊急暗号無線が打たれた。 「今朝、東京市内に重大事件発生せり。連合艦隊は直ちに東京湾および大阪湾の警備につくべし。第一艦隊は東京湾、第二艦隊は大阪湾」。当日土佐沖で演習中であった連合艦隊第一艦隊は連合艦隊旗艦長門を先頭に約40隻、東京湾御台場沖に急行。到着したのは27日午後4時である。そして艦隊は東京市内にむかって一列に並び砲門を向けた。さらに陸戦隊を編成し上陸させた。この部隊は機関砲に加え野砲も擁する重装備の部隊で、この部隊でも鎮圧できない場合は国会議事堂を艦砲射撃するという案が近藤信竹第一艦隊司令長官と高橋連合艦隊司令長官との間に決まった。陸軍が鎮圧できないのであれば海軍がこれを行う決意を示していた。26日、午後8時頃、豊田副武海軍軍務局長は陸軍に対し、大臣告示に強硬な抗議をした。陸軍にやる気(鎮圧する)があるのかないのか、血の気の多い豊田は噛み付かんばかりの勢いだったと伝えられている。

 この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2.29日に任務を解かれ、翌3.1日午後1時に出航して作業地に復帰した。


反乱軍部隊の改編
 反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
東京警備司令部  司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、香椎浩平中将から岩越恒一中将へ交代。香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。
近衛師団  師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、橋本虎之助中将から香月清司中将へ交代。橋本中将は同年、予備役編入。
近衛歩兵第3連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、円山光蔵大佐から井上政吉大佐へ交代。
第1師団  師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、堀丈夫中将から河村恭輔中将へ交代。堀中将は、同日3月23日、同年7月6日に予備役編入。
歩兵第1連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、小藤恵大佐から牛島満大佐へ交代。
歩兵第3連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、渋谷三郎大佐から湯浅政雄大佐へ交代。

 この後は【2.26事件史その4、処刑考】に続く。





(私論.私見)