2.26事件史その3、鎮圧考 |
2.26事件史その3、鎮圧考 |
(最新見直し2011.06.04日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、2.26事件の鎮圧経緯を確認する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
この前は【2.26事件史その2、決起考】に記す。
【昭和天皇が鎮圧決断】 | |||||||||
午後8時40分、閣議が開かれ戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。この勅令によって戒厳令は施行され、26日から7.18日(叛乱軍将校の処刑後)まで帝都は戒厳令下となった。行政戒厳であった。
戒厳令施行については川島(元)陸相が必要なしと主張したのに対し、杉山参謀次長が強く施行を主張した。宮中での川島陸相と杉山参謀次長の対話は次の通り。杉山「それは次官の申すとおり、この場合は戦時警備令だけでは不充分です。どうしても戒厳令までいかねばなりません」。川島「貴官は戦時警備上奏の時、これで十分目的を果たせると言っていたではないか」。杉山「情勢の変化もあります。同時に戒厳を令すれば、警察、通信、集会その他行政権を掌握するという便利があります」。川島「・・・・そうかな」。この経緯で、統制派が事態収拾の主導権を握ったことになる。 午後9時、主立った反乱部隊将校の香田、対馬、栗原、村中、磯部の5名が陸相官邸で皇族を除いた荒木、真崎、阿部、林、植田、寺内、西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の山下少将、小藤大佐、鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉が列席した。まず香田があらためて蹶起の趣旨と「陸軍大臣要望事項」を説明し会見は始まった。 参議官側からは荒木が真っ先に質問する。荒木「大権を私議するようなことを君らが云うのなら我輩は断然意見を異にする、お上がどれだけ御軫念になっているか考えてみよ」。 磯部「何が大権私議だ。この国家の重大の時局に、国家のためにこの人の出馬を希望するという赤誠国民の希望がなぜ大権私議か。君国のために真人物を推すことは赤子の道ではないか。とくに皇族内閣説が幕僚間に蔓延している時、もし一歩過らば、国体を傷つける大問題が生じる瀬戸際ではないか」と反論。さらに村中が皇族内閣不可能説を理路整然と説いた。これには大将連には一言もなかった。磯部に言わせれば「すっかり吾人の国体信念にまいった様子」を見せた。真崎は次のように述べている。
磯部は、遺書となった手記に次のように記している。
夜、臨時の陸軍省、参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。 なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。
これによれば、叛乱部隊は、占拠している地区を警備司令部とともに一括して警備の任にあたらせるお墨付きを得たことになる。この命令によって蹶起部隊は一時的にとは言え、賊軍(叛乱軍)ではなく官軍になった。ここまでは蹶起部隊にとって事態の進行はまことにもって順調だった。蹶起将校の中には気をよくして歩一連隊長に対し、全面的に指揮下に入らず独自の権限を求めるという自信ぶりを示したりしていた。この情況が戒厳令を境に一変することになる。 |
【2.27日の経緯。戒厳令敷かれる】 | ||
2.27日午前1時過ぎ、石原莞爾作戦課長、満井佐吉中佐、三月事件、十月事件の立案者である橋本欣五郎大佐(野戦重砲第二連隊の連隊長)が帝国ホテルに集まり、玄関応接室で善後処置を協議した。橋本は事件発生の報を受けて直ちに旅団長に上京の許可を貰い、この帝国ホテルにやってきた。事態収拾の方策が検討され、「陛下に石原が直接上奏して叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件の下に叛乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政権を樹立し収拾する」方針で意思一致させた。後継内閣について議論が分かれ、石原が皇族の東久邇宮を推し、橋本は建川美次中将、満井は真崎を推した。妥協案として橋本が山下英輔海軍大将を推し、「まぁそれでいいだろうと」他の二人も納得した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見を一致させた。
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固かった。 午前4時40分、「戒厳司令部作戦命令第1号」が発布され、警備司令部はそのまま戒厳司令部となった。戒厳司令官は香椎中将、安井参謀長もそのまま戒厳参謀長となった。参謀本部の石原莞爾作戦課長なども戒厳参謀となり、統制派による事態収拾第一歩が刻まれた。 午後0時45分、天皇は、拝謁に訪れた川島陸相に対して、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン」と強い意志を表明し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。御意を受け、戒厳令が公布されることになった。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命された。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。 午後2時、陸相官邸で真崎、西、阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。真崎大将をもって事態を収拾しようとした叛乱軍は「真崎大将に陸相官邸に来てもらいたい」と申し出て、真崎が赴こうとすると、「真崎大将単独で行くのは後日紛議の種になる」と阿部、西の両大将が同行したことにより三者となった。叛乱軍将校ほぼ全員と山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉を加えて会見が始まった。
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。 午後5時、秩父宮が弘前より上京、上野着。 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。 夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った。 |
【2.28日の経緯。反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令下る】 | ||||||||
2.28日午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。
クーデター開始から2日後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下された。この命令により、叛乱軍は原隊にもどらねば、また事態をそのままにしておくだけで勅命に抗した逆賊になった。この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。命令書を見ると参謀総長が命令してるように受け止められるが、参謀総長は天皇の命令の伝達者として記名されている。これがいわゆる奉勅伝宣である。 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と激怒し拒絶した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。 自決と帰営の決定事項が料亭行楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤、安藤隊は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除した(同第11号)。
これに対し、杉山参謀次長が断固として反対した。
香椎は数分にわたって沈黙し、ふと顔を上げこう言った。「決心変更、討伐を断行せん」。ここに叛乱軍の命運は決した。
また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。 |
【2.29日の経緯。「 下士官兵ニ告グ」の奉勅命令】 | ||||||||||||||||||||
「2/29戒厳司令部告諭第二号」は次の通り。
「2/29戒厳司令部発表 戒厳令第14条」は次の通り。
29日午前5時10分、討伐命令が発せられた。早朝、突如包囲部隊側から突撃ラッパが鳴り響き、バリケード近辺の叛乱軍側は緊張状態になった。戦車数両が轟音を響かせながらバリケードに接近し、横を通り過ぎるさまビラを配る。また戦車には降伏勧告のビラが貼りつけてあった。戦車には「謹んで勅令に従ひ」、「武器を捨て、我方に来れ」などと書かれたビラが貼りつけてあった。ビラが配布されたが横を走りながらであったため叛乱軍側の陣地には飛んでいかなかった。続いて、飛行機が叛乱軍側の占拠している陣地上空を飛び、ビラを配った。このときまかれたビラで有名なのが、「下士官兵ニ告グ」で初まるビラである。
午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣の麹町、赤坂住民に避難勧告を出し、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みた。投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。「勅命下ル軍旗に手向フナ」の文字がアドバルーンが上げられ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。
ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。 兵の動揺は最大に達した。磯部は、「これは卑劣なる敵の分断工作だ」、「参謀本部の幕僚どもの陰謀だ」と叫んだが、叛乱軍将校の間に「部下の兵隊を犬死にさせたくない」、「兵に罪はない」という意識が膨らんでいった。 午後1時頃、兵をホテルの庭に集合させ、決別の挨拶をし永田、堂込曹長指揮の下原隊へ兵を帰した。その時、「原隊に帰るまで昭和維新の歌を歌いながら行進していってくれ」と部下に訓辞し、部下が去っていく中、一歩二歩と下がり、やにわに拳銃を取り出し、自決を図った。しかし、安藤大尉はかろうじて一命を取り留め、後の軍法会議で処刑されることになった。首相官邸に布陣していた中橋基明隊が解散した。同官邸に布陣していた栗原も戦意喪失していた。同じく清原少尉、ドイツ大使館前の坂井隊も解散、中島隊が続いて解散した。 多くの兵士が脱落し始め、これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、その多くは戦死している。 山王ホテルに陣取った安藤隊だけは最後まで止まり最後まで徹底抗戦を主張した。同じ場所に居た丹生隊が引き揚げても、兵は軍歌を歌い、尊皇討奸の旗の下、抗戦の意志を堅持していた。一人の脱走者もなかった。叛乱に加わるまでは非常に慎重であった安藤大尉が徹底した抗戦派になった。 午後2時、下士官と兵は全員原隊に戻り、残る将校達は陸相官邸に集まった。時を同じくして、討伐部隊は歩兵第1連隊旗を奉じて陸相官邸、その他の叛乱軍陣地に侵入し、各要所を奪回した。 午後5時、岡部適三憲兵大尉指揮の憲兵が香田大尉以下全将校を武装解除させた。反乱はあっけない終末を迎えた。階級章を剥ぎ取られ、拳銃その他の装具も没収され軍刀のみ携帯を許された。将校が武装解除されている間、別室にいた首謀格である野中大尉が拳銃で自決した。叛乱軍将校は第二応接室に収容され、自決用のピストルが渡され自決が強要された。陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備していた。青年将校のうち安藤大尉と野中大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議を受けて立つ腹を固めた。村中・磯部らはすでに免官となっており、軍服を着ているとはいえ民間人なので捕縛された。27日に西田税宅から叛乱軍に加わった渋川善助は上半身にぐるぐると縄をかけられた。午後6時頃、全員が護送車によって代々木にある陸軍刑務所に収容された。ここに2・26事件は終結した。結果、両軍ともに一発の発砲もなかった。 中村アナウンサーのラジオ説得の際に、「今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」という一節が問題となった。放送は戒厳司令部にいた大久保少佐、根本大佐、山下少将の独断で文案を決めたものであり、事態解決に貢献したのは否定できないが、「今までの罪も許される」の部分は大問題となった。これは軍の統帥の問題で、「一体誰が許したか」ということになった。参謀本部内には作戦行動に必然的に伴う謀略として許せるという意見もあったが、結局、部内では『この言葉は大久保少佐の書いた原稿にはなかったが、中村アナウンサーが感極まって付言したものである』として処理された。 永井荷風の断腸亭日乗の昭和11年2月26日に次のように書かれている。
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【戒厳令下の動き】 |
同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
3.1日、殺害された高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎は、天皇陛下から「優渥なる御沙汰」をもって「位一級」追陞、さらに高橋是清、斉藤実には大勲位菊花大綬章、渡辺錠太郎には旭日大綬章が追陞された。同日、陸普第980号が出された。 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第1衛戍病院に収容されていた河野大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分、死亡した。3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。 |
【事件による警察官の殉職】 |
事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。 |
【事件に対する海軍の動き】 |
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。
26日午前10時、伏見宮海軍ゝ令部総長は海軍省一階正面玄関の階段の上に立ち、集まった判任官以上の軍人に対して天皇の決意を述べ、海軍の断固鎮圧方針を主張した。 12時頃、伏見宮から高橋三吉連合艦隊司令長官に緊急暗号無線が打たれた。
「今朝、東京市内に重大事件発生せり。連合艦隊は直ちに東京湾および大阪湾の警備につくべし。第一艦隊は東京湾、第二艦隊は大阪湾」。当日土佐沖で演習中であった連合艦隊第一艦隊は連合艦隊旗艦長門を先頭に約40隻、東京湾御台場沖に急行。到着したのは27日午後4時である。そして艦隊は東京市内にむかって一列に並び砲門を向けた。さらに陸戦隊を編成し上陸させた。この部隊は機関砲に加え野砲も擁する重装備の部隊で、この部隊でも鎮圧できない場合は国会議事堂を艦砲射撃するという案が近藤信竹第一艦隊司令長官と高橋連合艦隊司令長官との間に決まった。陸軍が鎮圧できないのであれば海軍がこれを行う決意を示していた。26日、午後8時頃、豊田副武海軍軍務局長は陸軍に対し、大臣告示に強硬な抗議をした。陸軍にやる気(鎮圧する)があるのかないのか、血の気の多い豊田は噛み付かんばかりの勢いだったと伝えられている。 |
【反乱軍部隊の改編】 | ||||||||||||
反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
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この後は【2.26事件史その4、処刑考】に続く。
(私論.私見)