古史古伝文献 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「古史古伝文献」を確認しておく。いわゆる鬼門筋の学問になるが、表からばかりではなくこういう裏からの思案もいるのではなかろうか。 2023(栄和5).2.21日 れんだいこ拝 |
【古史古伝の名称の由来と検証の意義考】 |
日本の古代史資料には、記紀その他の基本史書の他にそれらとは内容が著しく異なる異種史書が多数存在する。これらは一括して「古史古伝」と云われている。但し、その多くが「偽史」扱いされている。吾郷清彦、佐治芳彦らの研究が知られているが本格的な研究はこれからである。 いわゆる「古史古伝」をどう読むか。れんだいこの関心は、記紀神話に明らかにされている天地創造譚、皇統譜とは別系の歴史記述を知ることにより思案を深めたいことにある。この観点で見れば、宮下文書、竹内文書、秀真伝等々の「古史古伝」はなかなか味わい深い。もう一つ、思想的に見て古神道的世界を伝授しており、この面からも学ぶに値しよう。古神道には、「自然との共存」を可能にし、他の宗教、人種、民族とも共存出来る「和」の思想がある、と云われている。竹内家は、「天神地祗八百万神」を祭神とする「古神道本庁」を設立しているほどである。「古神道本庁の神道ルネッサンス運動により、民族宗教神道は、世界宗教の根源たる古神道に甦る」とも述べている。但し、「古史古伝」以下、これを検証する。 「ウィキペディア古史古伝」その他を参照する。 |
1970年代、古代史研究家の吾郷清彦氏が、「日本超古代秘史研究原典」その他で、神代を記述する古文書を分類し、神代文字に関する伝承を部分的に含むものを「古史」、全文が神代文字で書かれたものを「古伝」と呼称した。この名称が妥当かどうか、逆に全文神代文字古文書を「古史」、部分神代文字古文書を「古伝」と命名する方が相応しいのではなかろうかと疑問する余地も残るが、神代記述古文書をかく位置づけた功績は大きい。後に、古代史研究家の佐治芳彦氏が、吾郷氏の分類法を継承しつつ、「古史」や「古伝」を一括して「古史古伝」の総称で括り、記紀前の歴史文書とする観点を打ち出した。その後、偽書論争が喧騒し、「古史古伝」の意義が薄められて今日に至っている。 れんだいこは、「古史古伝」を再検証する必要を感じている。なぜなら、記紀の神代史記述が大和王朝を正統づける狙いで編纂されており、記紀神話だけでは、幾ら精緻に研究しようとも必ずしも神代史が解明されないと心得るからである。記紀神話に代わる「古史古伝神話」をも比較対照することによってこそ神代史の実相が見えてくると確信するからである。もとより「古史古伝」の正確さには疑いがあるところである。後世の創作の余地もあるし、転写過程での誤写、改竄も考えられよう。しかしながら、そのことをもって「古史古伝」の記述全体を偽作視するのも早計ではなかろうか。望まれている学的態度は、全文棄却ではなく、「古史古伝」の中身に立ち入り、記紀との比較対照を通じて、神代史に光を当てることではなかろうか。 そういう意味で、単なる偽書論争は却って有害でしかないと思う。問題は、排斥すべき記述と耳を傾けるべき記述をふるいにかけ、記紀の不足を補い、或いは記紀の政治主義的記述を訂正することではなかろうか。即ち、「古史古伝」を排斥するのではなく、「古史古伝」に踏み分け入るべきではなかろうか。偽書論争でもって門前排斥するのは学的態度ではなかろう。この平凡なことが理解されないのはアサマシイ話である。 れんだいこの仕分けによると、「古史古伝」は、記紀と独立して記述されている別書と、記紀を補足して記述されている補書と、記紀に対抗して記述されている抗書の三書に分類できるように思われる。この三書のうち特に意義深いのが抗書であるように思われる。これは、記紀神話に記述されている国譲りを廻って、記紀神話が国譲りさせた側の正統史となっており、抗書が国譲りさせられた側の鬱憤史となっていることで際立つ差異となっている。もとより、抗書も一様ではなく、書かれた立場の違いにより様々な記述になっている。何度も書き直されており、その過程で改竄されている恐れもあり、どこまでが原書であるのかの吟味が為し難い。それでも分け入るに価値ある古文書ではなかろうかと思っている。 それを思えば、偽書論争で鬼の首を取ったかのように勝ち誇り、「古史古伝」を単に排斥して事足れりとする陣営には与し難い。「古史古伝」研究は緒についたばかりであり、大いに分け入り、日本神代史、古代史の扉を開けるべきである。今やAIの時代に入っている。AIを活用すれば、かってより相当容易に解析できよう。これを、れんだいこの「古史古伝」論とする。 2010.12.31日 れんだいこ拝 |
【古史古伝文献分類】 |
日本の古代史資料を内容選別すると、記紀その他の「基本正史書」と「古史古伝」に分かれる。「古典基本正史書」とは、古事記、日本書紀の「記紀」を基本二書とし、これに万葉集、風土記が加わる。更に、新撰姓氏録、古語拾遺、先代旧事本紀(旧事紀10巻本)が加わる。旧事紀には異本があり、先代旧事本紀大成経(旧事紀の異本72巻本)、白河本旧事紀(旧事紀の異本30巻本)、大成経鷦鷯伝(旧事紀の異本31巻本)が存在する。他に天書(「天書紀」ともいう)、日本国総風土記、前々太平記の三書を異端古代史書として加える説もある。いずれも古代文書として認められ実在するものを云う。参考までに、吾郷清彦による分類は、「古典三書」として古事記、日本書紀、先代旧事本紀(旧事紀)。これに古語拾遺を入れて「古典四書」としている。 上記以外の古代史書を「古史古伝」と云う。この言い方は、吾郷清彦が著書「古事記以前の書」(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」、「古伝三書」、「古史三書」と分類されていたが、著書「日本超古代秘史資料」(新人物往来社、1976年)で、「古典四書」、「古伝四書」、「古史四書」、「異録四書」と分類した。初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わず、あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりで、この謂いが定着した。第二次世界大戦前には「神代史」、「太古史」などと云われ、戦後も1970年代頃までは吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」、「偽史」、「偽典」などといっていたが、「偽書」、「偽典」は用語として既に確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。 |
「古史古伝」は、「カタカムナ文書」を別枠で取り入れるとして、「古伝四書」、「古史四書」、「異録四書」、東亜四書、その他に分類される。このうちウエツフミ(大友文書、大友文献ともいう)、ホツマツタヱ、ミカサフミを「古伝三書」、これにカタカムナのウタヒ(いわゆる「カタカムナ」を加えて「古伝四書」と云う。これらはいずれも全文が神代文字で書かれている。 他にフトマニという書があり、ホツマツタヱ、ミカサフミとともにこの三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」叉は「ヲシデ文献」と一括してよばれる。このフトマニは普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷清彦氏は「カンオシデモトウラツタヱ」(神璽基兆伝)と名付けている。「カタカムナのウタヒ」、「神名比備軌」(かむなひびき)、「間之統示」(まのすべし)という漢字文献は「カタカムナ系の文献」として一括できる。これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は歴史書ではない。「古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念である。 |
「古史四書」とは、九鬼神伝精史(いわゆる九鬼文書。天津鞴韜秘文(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)、竹内太古史(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」、「磯原文書」ともいう)、富士高天原朝史(「富士谷文書」、「宮下文書」、「富士宮下古文献」ともいう)を「古史三書」と云い、物部秘史(「物部文書」)を含めて「古史四書」と云う。「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれている。「古史四書」は吾郷清彦が独自に名付けたものである。九鬼文書と富士文書は複数の書物の集合体であって全体のタイトルがなかったことにより含まれていない。竹内文書、大友文書、富士文書を三大奇書とも云う。 |
「異録三書」とは、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし。「和田家文書」ともいう)、但馬故事記(たじまこじき。「但馬国司文書」。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)、忍日伝天孫記(おしひのつたえてんそんき)を云う。これに神道原典を加えて「異録四書」ともいう。忍日伝天孫記と神道原典は古文書、古文献ではなく、前者は自動書記、後者は霊界往来による霊感の書である。 吾郷氏は、上記の他にも超古代文書として異称日本伝、神伝上代天皇紀、春日文書を取り上げている。このうち異称日本伝は松下見林による江戸時代の有名な著作であり、超古代文献とはいえない。香山宝巻も同様である。春日文書は言霊(ことだま)関係の文献であり歴史書ではない。が、古史古伝には歴史書以外も含みうるのはカタカムナの場合と同じである。 |
東亜四書とは、契丹古伝(「神頌叙伝」ともいう)、桓檀古記、香山宝巻、宝巻変文類を云う。他に、竹書紀年、穆天子伝、山海経、封神演義、癸園史話、檀奇古史等がある。 |
その他、「地方四書」がある。阿蘇幣立神社文書(『高天原動乱の秘録』ともいう)、美杜神字録(「美しの杜物語」ともいう。落合直澄による著作(解読文)は『美杜神字"解"』という)、甲斐古蹟考、真清探當證(ますみたんとうしょう)の四書を云う。「美杜神字録」は神代文字で書かれており定義からいえば「古伝四書」の方に入れてもよさそうではあるが入れられていない。 地方色豊かなものとして原田実はさらに伊未自由来記(いみじ・ゆらいき)、肯搆泉達録(かんかんせんだつろく)をあげている。 「秘匿四書」があり、「阿部文書」(阿部でなく「安倍文書」とする説もある)、「斎部文書」、「清原文書」、「久米文書」を云う。上記の四書は未確認文献である。これらは神代文字を伝えているとか竹内文献と共通する内容があるとかウガヤフキアヘズ朝についての記述があるとか、戦前には様々な噂が広がっていた。阿部文献については、三浦一郎は九鬼文書の研究の中で、また宇佐美景堂は命根石物語の中で、ともに豊後の阿部家に伝わる古代文字文献について述べており、戦前からの研究者である山根キクや大野一郎らは神武以前の天皇名などを伝えている個所があると主張していた。が、現在のところ何も見つかっていない。残りの三書「斎部文書」、「清原文書」、「久米文書」も噂の域をでず詳細不明であり、実在しない可能性が高い。 他に、上代天皇紀、春日文書、「大伴文書」がある。「春日文書」は言霊(ことだま)関係の文献であり歴史書ではない。さらに大伴氏伝承、物部氏伝承、忌部氏伝承 などがあるともいわれている。 |
神典は次の通り。古事記、古語拾遺、新撰姓氏録、先代旧事本紀(十巻本)、日本書紀、古風土記、万葉集、住吉大社神代記。それ以外に、旧事紀異本、先代旧事本紀大成経(七十二巻本)、白河本旧事紀(三十巻本)、大成経鷦鷯伝(三十一巻本)、山海経、前々太平記、天書(天書紀ともいう)、神道五部書、竹書紀年、日本国総風土記、穆天子伝、封神演義。
|
他にも次のような記述がある。京都の藤原北家九条流嫡流の九条家の蔵の書庫から粟鹿大神元記(通称「元記」)が発見された。粟鹿神社祭主の大国主の子孫/神部直根マロが勘注上申した神社の縁起や伊邪那岐、伊邪那美から始まる神部氏の竪系図の書物である。和銅元年8月13日と表記されており、本物とすれば日本最古文書の古事記よりも4年早い古文書になる(鎌倉あたりの写本である記紀も原本はなく写本である)。正倉院文書、上宮記、天寿国曼荼羅繍帳銘、元興寺の露盤・丈六光背銘、これらは古事記、日本書紀との上代語との整合性があり、稀代の古記、脅威に値する文献と云われている。現在は宮内庁書陵部に厳重に保管されている。古事記よりも古いとされている帝紀、帝王本紀、先紀が但馬國一宮の粟鹿神社に伝えられている。現在は失われたと云われる。大国主の11代目の孫の太多彦命の肩書きは但馬國朝来郡栗鹿神部直と言い、代々この神社に奉仕している家柄である。本殿の裏の陵は開化天皇の第三皇子/日子坐王命の陵だと伝えられている。
|
【「古史古伝」】 |
【カタカムナ文書】 |
Re別章【カタカムナ文書考】に記す。 |
【上記(うえつふみ)】 |
上記(うえつふみ)は「大友文書」とも云う。序文によると、1223年、鎌倉時代の源頼朝の庶子(妾腹の子)の豊後守護代初代・大友能直(よしなお)父子及び家臣7名によって領内の古老の伝承、「新治(はり)の記」、「高千穂宮司家文」、「日向国主元雄の伝書」等の古文書に基づき編纂されたと云う。これにより「大友文書」ともいう。写本には大分県臼杵の大友家に伝わる大友本と宗像大宮司家に伝わる宗像本とがある。 大友本は、1831(天保2)年に豊後国大分郡大分町に住む国学者・幸松葉枝尺(さきまつはえさか)によって旧家から発見され、明治6年、幸松葉枝尺が筆写し世に出し知られるところとなった。全文記号式の「豊国文字」と云われる神代文字で綴られていた。「山人族」の研究で著名な三角寛博士の研究によると、古来よりサンカと呼ばれる独特の社会を形成し山々を渡り歩く民、山人族のあいだで用いられていたものであると云う。これを「上つ記」と云う。が、明治6年の出水の際に流失したと云う。 1877(明治10)年、宗像本を抄訳した吉良義風の「上記鈔譯」が出版された。吉良氏の「上記鈔訳」が、ウガヤフキアエズ王朝を記す他の古史古伝(竹内文書、九鬼文書、富士古文献など)に影響を与えたと云われている。1935(昭和10)年、安藤一馬が神代文字で記された上記の謄写版を持参して上京し、上記原文を刊行する。竹内文献の信奉者で法学博士の高窪喜八郎が、この刊行に手を貸す。1975(昭和50)年、吉田八郎氏が「上つ記」、同年、吾郷清彦氏が「ウエツフミ全訳」を刊行した。 神代から神武天皇までの歴史が全文、豊国文字と云われる神代文字で記されている。豊国新字は山窩(さんか)文字との類似が指摘されており、上記は明治初期の九州の山窩(サンカ、日本のジプシーといわれた漂泊の山の民集団)の伝承と類似しており、サンカが作ったという説がある。序文は偽作という見方がされているが、本文が文体・用語の面で記紀・万葉集の時代でさえ死語となっていたような語彙が使われているなど、上記の価値は定まっていない。 上記(うえつふみ)は神代の百科事典と云われる。時代区分として、別天神8代、神世16代、ナギ・ナミ二神の国生みと神生み、出雲朝も含む高天原朝、ニニギ朝、火火出見朝、第一ウガヤ朝、第二ウガヤ朝、神武朝という流れを記述している。特色は、1・元始神の天の御中主神から神武天皇までの時代史を、神話、民族に限らず、政治、経済、社会、産業、交通、外交、軍事、天文、暦制、度量衡、医薬、保険、職業、教育、風俗、海外、探検、植民地等々博物誌的な記述も含まれており多岐に亘って詳しく記していることにある。猿の解剖投薬実験が行われたことなど異様な記述もある。記紀には天体の伝承が欠落しているが、上紀には多彩な星辰伝承が記述されている。天御中主―オオミ星、高御魂―ムスビ星、神御魂―ミムス星、しなつ彦―タセ星、かぐつち―トム星というような神格との対応が語られる。因みにトム星は北極星、タセ星は金星に相当するとされる。大友能直は古老の平一郎なる者の案内で御宝山にて神仙にまみえたという伝承もあり、神仙道、星神信仰を軸とする秘教ネットワークの存在が浮上する。オルシという民族が大船団で越の国に来寇したと記す。沿海州のオロチョン族と考えられ、環日本海文化圏の存在が注目される。延喜式神名帳によれば陸奥国栗原郡に遠流志別(オルシワケ)神社があり、同地に住みついたオルシ族の祭祀が伝承されたと考えられる。2・古事記との関連が著しいが、古事記より詳細な記述も多く、説話に女権的色彩が濃い。3・ニニギに先立ちスサノオに始まる出雲七代の歴史が記されており、古事記よりも詳しく記している。高天原で争い追放されたスサノヲが改心し出雲朝を開く。その後、出雲朝7代目のオオクニヌシがニニギに国譲りをしている。4・古事記では一代であるウガヤ朝が、上記では神武以前にウガヤフキアエズノミコトを世襲する72代の継続王朝を介在させており、それぞれの事蹟が記されている等々にある。 ウガヤ朝は、豊後、肥後、日向を主な根拠地としていたらしい。ウガヤ朝時代にオルシ(北方系民族?)という民族が日本列島に来寇し、朝廷が軍を出して撃退したと伝えている。ウガヤ71代の時、大和のナガスネヒコが新羅と結びウガヤ王朝に反乱を起こし、これを鎮圧するため戦争となり、神武の兄イツセが滅亡する。はじめは丹波に派遣されていた神武はナガスネヒコを討ち、ウガヤ王権を継承した。神武天皇はウガヤ朝73代目になる。 本州の大八島豊葦ゲ原15国を記している。15国は次の通り。大和国(アキツネワケ)、津国(クサキネワケ)、近江国(アワミネヒコ)、伊勢国(イセツヒメ)、遠江国(トウツミワケ)、武生国(ムサツミワケ)、飛騨国(ヨチヂヒメ)、信濃国(サヨリシヌヒコ)、野国(ヌチヂヒメ)、道奥国(チヂノクワケ)、越国(コシネワケ)、丹波国(タニハワケ)、出雲国(イヅモワケ)、穴門国(アナトネワケ)、吉備国(キビツネワケ)。ナギナミ二神がエゾ、オロ、イクツムロ、イクツフキ、カル、リキウ、アモ・アカ、ココカル・ウカルの外八州を生んだと伝えている。リキウは琉球、エゾは蝦夷と思わるが、他の和語とは思えぬ地名は推定不能。 |
田中勝也「註釈上紀上下巻」その他参照。 |
【秀真伝(ほつまつたえ)】 |
「ホツマツタヱ考」に記す。 |
【三笠記(「神載山書記」)】 |
「秀真伝」同様、宇和島小笠原家で松本善之助が“発見”したもので、「神載山書記」ともいう。やはりホツマ文字で綴られていた。カタカムナ文字(上津文字)で綴られているとする説もある。これは、カタカムナ文字とホツマ文字との類似性による。斯界では楢崎皐月による「カタカムナのウタヒ」を基本資料にしている。秀真伝の合わせ鏡とも云われる。 |
【九鬼(くかみ)文書】 | ||
和歌山県熊野本宮大社の九鬼家伝来の文書を九鬼隆治が、元大本教幹部の三浦一郎を通して「九鬼文書の研究」(昭和16年)として一部公開したもの。春日文字が見られるという。出雲王朝の正統性を説く異端の書となっている。 | ||
大中臣神道宗家の九鬼家(熊野別党宗家)の遠祖で天児屋根命(あるあめのこやねのみこと)の時代に記録された神代文字の原文を藤原不比等が漢字に書き改めたもので、丹後綾部の九鬼氏が保管してきたという。天児屋根命は、記紀では皇孫邇邇芸能命(ににぎのみこと)に従って高天原から高千穂に降り立った天津神の一人とされる神である。
「造化準備作用時代23世」を「母止津和太良世乃大神」が司どり2万3千年続いたと云う。「造化時代13世」を天津身光(あまつみひかり)大神、天地万有造根(あめつちよろづつくらしね)の神、天津身光生命主(あまつみひかりいのちぬし)の神、天御中柱天地豊栄(あめのみなかはしらあめつちとよさか)大神が司どり約5万年続いたと云う。「修理固成時代」を天之御中主(あめのみなかぬし)神、次に「天皇の御代144代」として天之御中主天皇、高皇産霊(かむみむすび)天皇、甘葦牙比者地(うまあしかびひこじ)天皇、天常立(あめとこたち)天皇を経て「神皇12世」と云われる国常立(くにとこたち)天皇、豊雲野(とよくもの)天皇、宇比知爾(うそちじ)天皇―須比知美(すひちみ)皇后、活*(いくぐい)天皇―角*(つのぐい)皇后、面足(おもたる)天皇―*根(あやかしこね)皇后、イザナキ天皇―イザナミ皇后が司どり、約2万年経過したと云う。
日本とユダヤの交流を記している点でも異色で、この文書の公開を働きかけ、「九鬼文書の研究」を書いた三浦一郎は日ユ同祖論者として知られていた。九鬼文書は竹内文書の影響が強いと指摘され、出現経緯や内容・表現から見て、近代以降の成立である事は明らかである。また綾部の大本教との関係が深いともされる。 |
【竹内文書】 |
「天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考」に記す。 |
【物部文書】 |
物部文書は、岩手の小保内樺之介が陳述したという「天津祝詞の太祝詞の解説」にもとづく文書で、阿比留草文字で綴られたといわれる。
成立・編者ともに不明。物部氏は、仏教受容の可否をめぐって蘇我氏と聖徳太子と争った。争いに敗れた物部守屋の子、那加世(なかよ)は当時三歳であったが、秋田地方へ亡命した。そのとき那加世が持参した古代史料の写しが物部文書であるとされている。秋田県仙北郡の唐松神社の神主・物部家に伝来した。その祖は物部守屋の子・那加世とされている。 |
【宮下文書(富士文献、徐福文書) 】 |
秦の方士徐福が八五隻の大船団を率いて渡来し、紀州熊野に到着した。その後富士山麓に土着し、甲斐国郡内地方の大明見(おおあすみ、現在の山梨県富士吉田市大明見)の阿祖山(あそさん)太神宮に伝わる伝承を編纂した。この徐福伝を原本とし、度重なる書写と編集を経た一連の古文書、古記録の総称を云う。阿祖山太神宮の宮司である宮下家に伝えられていたが、噴火や火災によって殆どが失われ、残ったものが明治になって封を解かれ、大正十年に三輪義X(よしひろ)が整理・編集し「神王紀」として出版した。富士高天原王朝の盛衰史を記している。富士文献、徐福文書ともいう。 |
創世記として、天の世7代、天の御中世15代、高天原天神7代、豊阿始原世地神5代、不合朝51代を記し、神武朝の各代にわたる神統譜と皇統譜を記している。多くの伝承が混交しており、文書同士の矛盾も多いが、富士山こそ蓬莱山であり、高天原が富士山麓にあったとする主張は全編を貫いている。日本の神々はもともと大陸で発祥し、高皇産霊神とその后のカムミムスビが東方進出を志し、子の国狭槌尊と共に蓬莱山を目指して出発する。 一行は九州沖を過ぎ、佐渡島に着いた。その後対岸に渡り、能登を経て加賀へ向かった。若狭(分佐)、稲葉(稲場)、但馬(田路地)、播磨(針美)、飛騨(飛太)を経由し、木曽路(記曾炉)を辿り三河(三川野)に辿り着いた。ここに暫く滞在したので駿河野(住留家野)と云う。叉とない美しい山に出くわしたので「不二山」と名付け、「日向高地火の峯」とも呼ぶ事にした。こうして富士山麓に都を置いた。高皇産霊神の死後、国狭槌尊は先遣隊を率いて先に日本列島に来ていた兄・国常立尊と再会し、日本列島を分割統治した。重要問題は富士高天原で協議した。 また、三貴子としてスサノオのかわりにヒルコが登場し、スサノオはアマテラスと対抗して皇位継承を要求する乱暴者とされている点も特徴である。古事記等では日神となっているアマテラスが地神となっている。また、アマテラスはスサノヲと姉弟ではないとしている。スサノヲはタカ王とも呼ばれ、高天原を占領しようとした。その後、八千の軍勢がスサノヲほろぼした。 宮下文書も竹内文書同様、ウガヤ王朝の記述が上記と符号し、また木花咲耶姫尊の悲劇的な説話がラーマーヤナと酷似するなど問題点は多いが、古史古伝のなかで唯一原本の影印版が刊行されており、今後の研究が待たれる。 ウガヤ朝が51代続いたとしている。その間の王妃による摂政治世を含めると70代以上になり、上記の記述と整合する。フキアエズ朝の末期、当時、日本列島内の大国十八州の最高行政官であった初世太記頭(はせたきがしら)であったナガスネ彦を指導者とする全国の68将が反乱を起こし、神皇軍が反乱鎮圧に向かったが、皇太子の五瀬(いつせ)命が戦死したのを始め各地で苦戦した。臨終の場に駆けつけた神皇自身も急病で逝去した。第二、第三皇子も熊野沖で白木水軍との戦いで戦死し、第四皇子の佐野王命が全軍の指揮権を握り、悪戦苦闘の末遂にナガスネ彦軍を破った。佐野王命が神武天皇として即位した。伝承の一致から上記との共通性が認められる。神武天皇以降で興味を引くのはヤマトタケル伝説である。富士文書でのヤマトタケル東征の目的は富士高天原王権の復旧を企てて、富士周辺や東北地方の豪族が兵を挙げたとしている。 |
【東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし) 】 |
別章【東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)】に記す。 |
【先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ) 】 |
別章【先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)考】に記す。 |
【先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう) 】 | |
(旧事紀の異本72巻本)。秀真伝に関係の深い伊雑の宮(いざわのみや)から長野采女(うぬめ)が発見し、1678(延宝7)年、上野国(こうずけのくに、群馬県)で観音信仰で名を馳せた黄檗宗の高僧・潮音道海禅師が一部を出版し、順次刊行して行った。これが「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)」である。別名「延宝本(えんぽうほん)」とも云われ、「先代旧事本紀」よりも詳細な72巻もの分量となっている。潮音は、「先代旧事本紀」を「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)」を抄録(ダイジェスト)したものだと述べている。1682(天和2)年、徳川幕府は没収し、焼却処分を命じている。
これによれば、聖徳太子が推古天皇の命を受け編纂したものとされる。伊雑宮(いさわのみや)の神庫から長野采女によって発見され、1679年に出版された高野本が流布した。歴史的記述と文化的各論を加えた膨大なスケールの文献で、全編に神儒仏三教一致思想が流れており、特に教典というものを持たない神道の教典的性格を有する。 |
|
先代旧事本紀は、江戸時代以来、偽書であるとの評価が一般的である。しかし、その価値を全面否定はせず、記紀に次ぐ重要な「神典」とみなされてきた事実もある。この本来の旧事紀(十巻本)とは別に異本の先代旧事本紀大成経(72巻本)、白河本旧事紀(30巻本)、大成経鷦鷯伝(31巻本)が存在する。これらも古史古伝に含めるのか議論が定まっていない。同様に、天書(天書紀ともいう)、日本国総風土記、前々太平記の三書を異端古代史書として古史古伝と同様に扱おうとする説(田中勝也など)もあるが議論が定まっていない。同様史書として住吉大社神代記がある。天平年間成立とされているが平安時代中期頃の偽書と考えられる。今のところこれを古史古伝扱いする議論は出現してないようである。神道五部書は奈良時代以前の成立とされているが鎌倉時代の偽書と考えられている。神道五部書は直接には古史古伝ではないが、そのうちの倭姫命世紀と神祇譜伝図記に神代の治世の年代が記されており、これが古史古伝の幾つかにあるウガヤフキアエズ王朝と同質の発想があるという指摘がある。 |
他にも、甲斐国司の末裔の家に伝わる古文書を編纂したと云う「甲斐古蹟考」、平安時代に但馬(たじま)国ガで編纂されたと云う「但馬国司文書」、隠岐の島の古代史を記した「伊未自由来記」(いみじゆうらいき)等が知られる。韓国にも、「桓檀古記」(かんだんこき)、「檀奇古誌」(だんきこし)なやどがある。
【古史古伝の登場史】 |
「歴史系『偽書』の史的展開」その他を参照する。 いわゆる古史古伝各書が存在する。上記(うえつふみ、「大友文書」)、秀真伝(ほつまつたえ)、三笠記(「神載山書記」)、九鬼(くかみ)文書、竹内文書、物部文書、宮下文書(富士文献、徐福文書) 、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)等である。これらは、どこまでが原本でどこから書き加えられたものか分からなくなっているが、偽書として却下する必要はないと思われる。記紀の神話譚を読むように聞き流せば良く、その限りでは考究に値すると思われる。世の偽書派が排斥する傾向は理解できない。 我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺。「蓋し聞く−上古の世いまだ文字あらず」で始まる。815年に新撰姓氏録と云う順になる。 これに旧事本紀が加わる。旧事本紀は、古史古伝に加えられるが、記紀外伝として記紀との三部作として位置づけられるのが正しいのではなかろうか。 「大和葛城寶山記」(仮託:行基)とある。何のことかわからない。 鎌倉中期の神道家の卜部懷賢が「釈日本紀」を著す。 鎌倉後期、伊勢の神道五部書(天照坐伊勢二所皇太神宮御鎭座次第記、伊勢二所皇御太神御鎭座傳記、豐受皇太神御鎭座本紀、造伊勢二所太神宮寶基本記、倭姫命世記)が成立する。 1320(元応2)年、伊勢外宮の渡会家行は「類聚神祇本源」を著し、神道五部書を基礎に教義を集大成する。旧事本紀を重視して、神主仏従の立場で聖徳太子を聖人視する思想を体系化する。 1332(元弘2)年、楠木正成の挙兵と同じ年、卜部の一族である慈遍が「旧事本紀玄義」を著し、伊勢神道に添って逆本地垂迹説を展開する。 1339(延元4)年、北畠親房が「大日本は神国なり」で始まる「神皇正統記」を執筆して南朝正統論を展開する。 1421(応永28)年、室町期の応永の外寇の翌々年に当たるこの年、良遍が「神代巻見聞」を著し、「旧事本紀は、もと神代文字で書かれて史料を聖徳太子が漢訳したもの」と説く。 1500年頃、吉田神道の創唱者吉田兼倶(1453〜1511)が神儒仏三教同根説を唱道。記紀とともに旧事本紀を重視し、太子を神儒仏三教一致の聖人とする位置づけを確立する。 1658(万治元)年、伊勢別宮の一つである伊雑宮が、再建願申請書に添付した資料の神書について、偽作疑惑が訴訟となるという事件が発生する。(⇔詳細:伊雑宮偽書事件顛末記)。伊雑側の「古文書」の主張は、「本来は、伊雑宮が天照大神を祀る日神の宮であり、現在天照大神を祀る内宮は格下の星神の社であった。外宮は月神の宮である」というものであった。これに対し、内宮側が偽作と訴え出た。事件は暗闘に発展し、死者も出る事態に発展した。 1663(寛文3)年、偽書(公文書偽造)の廉等で伊雑宮の神官が処分を受けた。伊雑宮は再建されるが、伊勢別宮として位置づけられるということで一応の決着をみ。 1670(寛文10)年、旧事本紀の異本の一つである三一巻本(鷦鷯本;版元:京極内蔵助)が刊行される(『先代旧事本紀大成経』:宮東斎臣註解:先代旧事本紀刊行会刊)。 1675(延宝3)年、経教本紀の一部「宗徳経」や憲法本紀に当たる「聖徳太子五憲法」が上梓される。 1676(延宝4)年、経教本紀の一部「神教経」が梓される。これらは儒仏神三教調和思想を基調とした従来路線に沿いつつも、神統譜に於てかなり大胆な「異説」が導入されている。中世に盛んに出現した聖徳太子の『未来記』も、「未然本紀」という形で取り込まれ、一大聚合体となった。 1678(延宝6)年、外宮の度会延佳がオリジナルの十巻本を校定再刊した。 1679(延宝7)年、、七二巻本(『神代皇代大成経』高野本;版元:戸嶋惣兵衛)が本格刊行される。これら『大成経』は短期間に広く流布し、当時の知識人・宗教家等に与えた影響も大きなものであった。 1681(天和元)年、家綱沒後の磔茂左衛門騒動の同年、江戸最初の禁書事件が勃発する。この禁書事件自体は、本来は下馬將軍酒井雅楽を追い落とした綱吉が家綱時代の懸案事件を片づけた。 発行当事者の処分のみならず、1683(天和3)年、内宮の執拗な要求に応え、版木も焼却処分される徹底した対処がとられた。 1731(享保16)年、大成経事件から半世紀を経た頃、古事記偽書説の嚆矢で知られる多田義俊(南嶺)が「旧事記偽書明証考」を著す。多田氏は「大清経異考」をも著しているが、書名が伝わるのみとなっている。 1738(元文元)年、吉見幸和(1673〜1761)が「五部書説弁」を著して神道五部書偽書説を立証する。 17788(安永7)年、伊勢貞丈が「旧事本紀剥偽」を著す。神皇正統記まで偽書に列せられた。 1779(安永8)年、井保勇之進(和仁估容聡)が、近江国三尾神社に"長期孤立文献"『秀真伝』を奉納した。大成経と秀真伝の派生関係については、大成経序の「泡輪宮の土簡の記述等に基づき、聖徳太子・蘇我馬子が撰」という来歴が、秀真伝の出現譚と類似しているところから、支持者の間で議論となった。 1819(文政2)年、平田篤胤が『古史徴開題記』刊行。神世文字肯定論を展開、古語拾遺の「上古の世いまだ文字あらず」に対し、釈日本紀を根拠に論陣を張る。 1830(天保元) 豊後の国学者・幸松葉枝尺が『上記』(宗像本四十一巻)を見出し刊行する。 同じ頃、垂加流,吉田神道を修めた京都の神道家;小笠原通当(1792〜1854)が『秀真伝』を再発見、書写し、秀真に立脚した神道活動を展開する。 1877(明治10)吉良義風『上記鈔訳』を刊行。 1908(明治41)藤岡勝二『國語略史』で神代文字を否定。 1911(明治44)木村鷹太郎『世界的研究に基づける日本太古史』を刊行。 1921(大正10)三輪義[冫煕]『神皇紀』(宮下文書)を刊行 1922(大正11)竹内巨麿(天津教)、「神宝」の供覧開始 1936(昭和11)竹内巨麿、不敬罪容疑で検挙 1936(昭和11)狩野亨吉『天津教古文書の批判』発表 1943(昭和18)山田孝雄『所謂神代文字の論』発表 1961(昭和36)橋本進吉『国語学概論』で神代文字を否定 (⇔大意) |
(私論.私見)