ホツマツタヱには、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもある。現本のその成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。
ホツマツタヱ考 |
(最新見直し2008.7.2日)
「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。
【秀真伝(ほつまつたゑ)とは】 |
秀真伝(ほつまつたゑ)のホツマの意味は、ホは秀でたこと、ツは強調、マはマコトの意で、これを繋ぐと「ひいでたまこと」、「まことの中のまこと」という意味となる。ツタヱは「伝え・言い伝え」であり、ホツマツタヱは、「まことの中のまことの言い伝え」の意味となる。江戸時代には漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」などと表記されたこともある。内容的に「三笠記」(みかさふみ)と姉妹関係にある。 秀真伝は、「ヲシテ(ホツマ文字)」(以下、「ホツマツタエ文字」と記す)と呼ばれる神代文字で書かれている。「ホツマツタエ文字」は1音1字の文字である。母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。これについては「神代文字考」でも言及する。 ヲシテ(ホツマ文字)は天地の成り立ちを象徴すると記述されている。ヲシテに、教える手段という意味を読み取り、ノリ(法)を書き記すための公文書用の文字として作られた可能性を指摘する人もいる。同時代のヲシテ(ホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣クシナズオオカシマ命が記したミカサフミ、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられているフトマニなどが発見されている。この3書に使われている文字はほぼ同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、過去の経緯から「ホツマ文字」、「秀真文字」、「伊予文字」と呼ばれたり、「オシテ」「ヲシデ」と表記される場合もある。 秀真伝は、神代文字の五七調の和歌の長歌体で叙事詩風に記されている。五七調は天の節と云われ、宇宙の振動に関係していると考えられている。5.7.5.7.7の31文字は、古代対陰暦の1ヶ月の日数を意味している。 秀真伝は、全40紋(アヤ、章)1万行で構成されている。1紋から28紋は、神武天皇の御代、オオナムチの命の子孫のオオモノヌシクシミカタマノミコト(同じく大物主櫛甕玉命)が編纂し、後半部の29紋から40紋は、オシロワケ(同じく景行天皇)の御代、オオタタネコの命(太田田根子)が加え、126年、景行天皇の御世に献上したと伝承されている。縄文時代後期から古墳時代までの出雲系の神々の事跡を伝えている。 この時、鏡の臣で伊勢の神臣であるオオカシマの命も、同じくヲシテ(ホツマ文字)で書かれた先祖アマノコヤネの命から伝わる三笠紀(ふみ)を捧げている。天皇も自ら天皇家伝来の文である「香具御機」(かぐみはた)を編纂し、この三種の文が揃ったことを「三種の道の備わりて幸得る今」と慶んでいる。40紋の原文に、「この文は、昔、大物主、勅(みことのり)受けて作れり。阿波宮に入れ置くのちの」とある。 ホツマツタヱには、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもある。現本のその成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。 |
【秀真伝(ほつまつたゑ)の経緯】 |
三輪季聡(すえとし)が大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、景行朝に朝廷に献じたもの。季聡は大田田根子であるとする。九鬼(くかみ)文書によれば、仏教伝来時の物部-蘇我の抗争時に多くの国書が焼かれ、貴重な古伝承が失われた。秀真伝は、大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の地で密かに伝承され、江戸時代に大物主櫛甕玉命78世の子孫にして三輪神道系の和仁估(三輪)容聡(ワニコ・ヤストシ)の手になり、徳川時代の安永年間(1772年
- 1780年)まで家宝として所蔵していた。和仁估家に後嗣がなかったので、近江国三尾神社に奉納したという。 1992.5月、ホツマツタヱの別系統の写本である「容聡本」が発見された。滋賀県にある日吉神社の御輿庫の棚の奥に、3cmほどほこりが積った桐細工の箱が三つあり、ほこりを払うと秀真の文字が現われた。長弘本と異なり、ヲシテ(ホツマ文字)に漢字の訳が添えられた構成になっていた。この発見によって、1874年に時の政府へ奉呈を試みたとされる長弘本は、容聡本を基にしてヲシテ(ホツマ文字)のみで書かれた漢訳の付いていない写本、という位置づけになることが判明した。容聡本を含む公開された全ての写本を校正し、記紀との比較対照を可能とした完本は『定本 ホツマツタヱ』として出版されている。 近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校正、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある。ホツマツタヱを真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。 |
【目録】 |
目録
|
【内容】 |
ホツマツタヱは、天地開闢にはじまり、日本国の建国から人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年に至るまでが、ほぼ記紀と同様の構成で叙述されている。宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされている。その他、記紀のアマテラスが男神アマテルとして語られたり、高天原が日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする東北王朝史を記している。天孫降臨がニギハヤヒとニニギの二度あったとすること等で特徴が認められる。 「ホツマツタヱ」を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。 『ホツマツタヱ』を真書とするならば、天照大神を始めとする記紀神話の神々は実在した人物だったことになり、神格化される前に人として生きた姿を最も正確に知ることができることになる。 「ホツマツタヱ」は、自然を構成するのは空・風・火・水・土の五元素としている。この五元素はホツマ文字の母音(あいうえお)とも対応している。自然と人間の調和を尊重した優れた自然哲学を伝えている。 |
【偽書説考】 |
12世紀初頭に成立した類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ホツマツタヱは少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡、小笠原通当等が真書であると主張した。 真書であるとする研究者は、日本の正史を再確認できるだけでなく、日本が当初から立憲君主国であったこと、神道の教義や日本の建国の理念、皇室の発祥が明確になり、各地の地名のいわれや、古い神社の祭神を正確に知ることができ、また漢字や漢文の影響をうけない大和民族固有の哲学を知るよすがとなる可能性があると主張している。 漢字で記された記紀の編纂は、渡来人の指導の下で行われたことが判明している。真書であるとする研究者は、記紀の編纂を指揮する渡来人に対して、ヲシテ(ホツマ文字)で書かれた『ホツマツタヱ』の内容が分かるように漢文に仮翻訳した編纂用の資料が作成され、それをもとに記紀を編纂したのではないかと推測するものもいる。 秀真伝は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であること。また漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章とが思えないこと。序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていること。「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくること。秀真文字による花押が存在するが、花押は950年以降に登場すること。秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され、五十音図の存在を前提とするものであるため、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくいこと、などから偽書であるとされている。 |
(私論.私見)