ホツマツタヱ考

 (最新見直し2008.7.2日)

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【秀真伝(ほつまつたゑ)とは】 
 秀真伝(ほつまつたゑ)のホツマの意味は、ホは秀でたこと、ツは強調、マはマコトの意で、これを繋ぐと「ひいでたまこと」、「まことの中のまこと」という意味となる。ツタヱは「伝え・言い伝え」であり、ホツマツタヱは、「まことの中のまことの言い伝え」の意味となる。江戸時代には漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」などと表記されたこともある。内容的に「三笠記」(みかさふみ)と姉妹関係にある。

 秀真伝は、「ヲシテ(ホツマ文字)」(以下、「ホツマツタエ文字」と記す)と呼ばれる神代文字で書かれている。「ホツマツタエ文字」は1音1字の文字である。母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。これについては「神代文字考」でも言及する。

 ヲシテ(ホツマ文字)は天地の成り立ちを象徴すると記述されている。ヲシテに、教える手段という意味を読み取り、ノリ(法)を書き記すための公文書用の文字として作られた可能性を指摘する人もいる。同時代のヲシテ(ホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣クシナズオオカシマ命が記したミカサフミ、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられているフトマニなどが発見されている。この3書に使われている文字はほぼ同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、過去の経緯から「ホツマ文字」、「秀真文字」、「伊予文字」と呼ばれたり、「オシテ」「ヲシデ」と表記される場合もある。

 秀真伝は、神代文字の五七調の和歌の長歌体で叙事詩風に記されている。五七調は天の節と云われ、宇宙の振動に関係していると考えられている。5.7.5.7.7の31文字は、古代対陰暦の1ヶ月の日数を意味している。

 秀真伝は、全40紋(アヤ、章)1万行で構成されている。1紋から28紋は、神武天皇の御代、オオナムチの命の子孫のオオモノヌシクシミカタマノミコト(同じく大物主櫛甕玉命)が編纂し、後半部の29紋から40紋は、オシロワケ(同じく景行天皇)の御代、オオタタネコの命(太田田根子)が加え、126年、景行天皇の御世に献上したと伝承されている。縄文時代後期から古墳時代までの出雲系の神々の事跡を伝えている。

 この時、鏡の臣で伊勢の神臣であるオオカシマの命も、同じくヲシテ(ホツマ文字)で書かれた先祖アマノコヤネの命から伝わる三笠紀(ふみ)を捧げている。天皇も自ら天皇家伝来の文である「香具御機」(かぐみはた)を編纂し、この三種の文が揃ったことを「三種の道の備わりて幸得る今」と慶んでいる。40紋の原文に、「この文は、昔、大物主、勅(みことのり)受けて作れり。阿波宮に入れ置くのちの」とある。

 ホツマツタヱには、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもある。現本のその成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。


【秀真伝(ほつまつたゑ)の経緯】

 三輪季聡(すえとし)が大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、景行朝に朝廷に献じたもの。季聡は大田田根子であるとする。九鬼(くかみ)文書によれば、仏教伝来時の物部-蘇我の抗争時に多くの国書が焼かれ、貴重な古伝承が失われた。秀真伝は、大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の地で密かに伝承され、江戸時代に大物主櫛甕玉命78世の子孫にして三輪神道系の和仁估(三輪)容聡(ワニコ・ヤストシ)の手になり、徳川時代の安永年間(1772年 - 1780年)まで家宝として所蔵していた。和仁估家に後嗣がなかったので、近江国三尾神社に奉納したという。

 高島郡誌(大正15年)では、容聡は修験者として安曇村田中横井川または三尾川(現滋賀県高島郡安曇川)に住みつき、本名は井保勇之進で、子孫は安曇村西万木にあるとしている。また、山伏和仁古容聡が安永年間に滋賀県高島郡安曇川近辺の神社の本土記を書いたという。なお容聡の先祖に大鶴軒孝阿(伊保坊23代で進藤孝尚の息子『万木森薬師如来縁起』による)がいるとされる。


 1779(安永8)年、春日山紀(溥泉)に秀眞政傳紀が引用されている。1793(寛政5)年、和字考(園城寺住職の敬光)に秀眞政傳紀が引用されている。この時期まで、近世の国学者、平田篤胤の懸命な捜索にもかかわらず見つからなかった幻の書であつた。

 1830(天保元)年、近江高島郡藤田家において京都天道宮神主・小笠原通當(みちまさ 吉田神道)によって秀眞政傳紀が発見された(『秀眞政傳紀傳來由緒書』野々立蔵明治22年による)。1851(嘉永4)4年、神代巻秀眞政傳紀(10巻 小笠原通當が天保14年(1843年)に書く)が出版されている。以来、小笠原家に伝えられてきた。

 
1874年、小笠原通當の甥の小笠原長弘氏が、ホツマツタヱを筆写して宮中に捧げることを試みたこともある。この写本は別名「奉呈本」と呼ばれている。

 1966(昭和41).8月、自由国民社の編集者であった松本善之助が東京、神田の古書店で、平田篤胤が「神字日文伝」(文政2年)の巻末の「疑字篇」に示した出雲に伝わる秀真伝(ホツマツタヱ)の写本と明治初めの国学者落合直澄(1840 - 1891)が書いた解説書を写本を偶然発見したとされている。このときは、ホツマツタヱ全40アヤのうち3アヤしか発見できなかった。

 しかし、古書探索に必要な手がかりを得たことで各地をあたり、後日、四国の宇和島にある小笠原長種宅にて、全40アヤが完本で発見された。この完本のもとは近江三尾神社の神宝を天保14年に小笠原通当が『神代巻秀真政伝紀』12巻として著したものだったという。松本氏はそれまで翻訳事業に深く携わっていたが、ホツマツタヱとの出会い以来、写本の発見とその校正、読解に心血を注ぎ、古事記・日本書紀との三書対照を踏まえて、ホツマツタヱこそが、記紀の原典であると確信するに至った。

 1971.6月、覆刻版ホツマツタへとして出版されて世に出た。また、内閣文庫に完写本(「内閣本」と呼ばれる)が所蔵されていることも判明した。

 1992.5月、ホツマツタヱの別系統の写本である「容聡本」が発見された。滋賀県にある日吉神社の御輿庫の棚の奥に、3cmほどほこりが積った桐細工の箱が三つあり、ほこりを払うと秀真の文字が現われた。長弘本と異なり、ヲシテ(ホツマ文字)に漢字の訳が添えられた構成になっていた。この発見によって、1874年に時の政府へ奉呈を試みたとされる長弘本は、容聡本を基にしてヲシテ(ホツマ文字)のみで書かれた漢訳の付いていない写本、という位置づけになることが判明した。容聡本を含む公開された全ての写本を校正し、記紀との比較対照を可能とした完本は『定本 ホツマツタヱ』として出版されている。

 近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校正、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある。ホツマツタヱを真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。


【目録】

 目録

  • アのヒマキ(天の巻)
    • コトノベのアヤ        (序)
    • キツのナとホムシさるアヤ(1.東西の名と穂虫去る紋)
    • アメナナヨトコミキのアヤ(2.天七代、床御酒の紋)
    • ヒヒメミオうむトノのアヤ(3.一姫三男生む殿の紋)
    • ヒノカミのミズミナのアヤ(4.日の神の瑞御名の紋)
    • ワカのマクラコトハのアヤ(5.和歌の枕言葉の紋)
    • ヒノカミソフキサキのアヤ(6.日の神十二后の紋)
    • ノコシフミサガをたつアヤ(7.遺し文サガお絶つ紋)
    • タマがえしハタレうつアヤ(8.魂返しハタレ撃つ紋)
    • ヤクモウチコトつくるアヤ(9.ヤクモ撃ち琴つくる紋)
    • カシマたちツリタイのアヤ(10.鹿島断ちツリタイの紋)
    • ミクサゆつりみうけのアヤ(11.三種神器譲り、御受けの紋)
    • アキツヒメアマカツのアヤ(12.アキツ姫、天が児の紋)
    • ワカヒコイセススカのアヤ(13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿の紋)
    • ヨツギのるノトコトのアヤ(14.世継ぎ告る祝詞の紋)
    • ミケヨロツなりそめのアヤ(15.御食、万、生成の紋)
    • はらみつつしむヲビのアヤ(16.胎み慎しむ帯の紋)
  • ワのヒマキ(地の巻)
    • カンカガミヤタのナのアヤ(17.神鏡八咫の名の紋)
    • ヲノコロとまじなふのアヤ(18.オノコロとまじなふの紋)
    • ノリノリヒトヌキマのアヤ(19.ノリノリヒトヌキマの紋)
    • スメミマゴトクサゑるアヤ(20.皇御孫十種神宝得る紋)
    • ニハリミヤノリさたむアヤ(21.宮造り法の制定)
    • ヲキツヒコヒミツのハラヒ(22.オキツヒコ火水の祓)
    • ミハさためツルキナのアヤ(23.御衣定め剱名の紋)
    • コヱクニハラミヤマのアヤ(24.コヱ国ハラミ山の紋)
    • ヒコミコトチをゑるのアヤ(25.ヒコ命鉤を得るの紋)
    • ウカヤアヲイカツラのアヤ(26.ウガヤ葵桂の紋)
    • ミオヤカミフナタマのアヤ(27.御祖神船魂の紋)
    • キミトミノコシノリのアヤ(28.君臣遺し法の紋)
  • ヤのヒマキ(人の巻)
    • タケヒトヤマトうちのアヤ(29.神武大和討ちの紋)
    • アマキミミヤコトリのアヤ(30.天君、都鳥の紋)
    • ナヲリカミミワカミのアヤ(31.ナオリ神ミワ神の紋)
    • フジとアワウミミズのアヤ(32.富士と淡海瑞の紋)
    • カミあがめヱヤミたすアヤ(33.神崇め疫病治す紋)
    • ミマキのミヨミマナのアヤ(34.ミマキの御世任那の紋)
    • ヒボコきたるスマイのアヤ(35.ヒボコ来る角力の紋)
    • ヤマトヒメカミしつむアヤ(36.ヤマト姫、神鎮む紋)
    • トリあわせタチバナのアヤ(37.鶏合せ、橘の紋)
    • ヒシロノヨクマソうつアヤ(38.ヒシロの世、クマソ撃つ紋)
    • ホツマうちツズウタのアヤ(39.ホツマ撃ち、つず歌の紋)
    • アツタカミヨをいなむアヤ(40.アツタ神、世をいなむ紋)

【内容】

 ホツマツタヱは、天地開闢にはじまり、日本国の建国から人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年に至るまでが、ほぼ記紀と同様の構成で叙述されている。宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされている。その他、記紀のアマテラスが男神アマテルとして語られたり、高天原が日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする東北王朝史を記している。天孫降臨がニギハヤヒとニニギの二度あったとすること等で特徴が認められる。

 記紀よりも内容に整合性があり、天上でのできごとであるとされている神代の事柄が地上での実在の人物によるできごととして記述されていることなどから、記紀の原典ではないかと、比較研究を進めている研究も存在する。

 「ホツマツタヱ」を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。 『ホツマツタヱ』を真書とするならば、天照大神を始めとする記紀神話の神々は実在した人物だったことになり、神格化される前に人として生きた姿を最も正確に知ることができることになる。

 「ホツマツタヱ」は、自然を構成するのは空・風・火・水・土の五元素としている。この五元素はホツマ文字の母音(あいうえお)とも対応している。自然と人間の調和を尊重した優れた自然哲学を伝えている。

 「ホツマツタヱ」には、記紀に記さていない、当時の出来事や人物の活動が、高い整合性を持って詰め込まれており、天皇のイミナ(真名、実名、お名前)なども知ることが出来る。真書であれば貴重な史料ということになる。注目すべきは、他文書で女神とされているアマテラスが男神となっている点である。アマテラスに幾人もの妃がいたことも伝えている。

 歴史だけでなく、宇宙の成り立ちと構造、宇宙と人間の関係、生死の意味、女男の分離、その役割と宇宙の関係、人間が食べる物の意味と望ましい食事方法、人と社会、技術との関係、国家の成立、国家の本質、アマキミ(天皇)の発祥、国家の統治の法、三種神器の発祥とその意味、家族の意味、子供の意味、望ましい教育方法、人間の不幸の原因、社会の乱れの原因、犯罪の原因と対処方法、刑罰の意味、皇室の起源と社会的役割、哲学的意味、いくつかのヤマト言葉の語源などもまた記されている。


【偽書説考】

 12世紀初頭に成立した類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ホツマツタヱは少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡小笠原通当等が真書であると主張した。

 真書であるとする研究者は、日本の正史を再確認できるだけでなく、日本が当初から立憲君主国であったこと、神道の教義や日本の建国の理念、皇室の発祥が明確になり、各地の地名のいわれや、古い神社の祭神を正確に知ることができ、また漢字や漢文の影響をうけない大和民族固有の哲学を知るよすがとなる可能性があると主張している。

 漢字で記された記紀の編纂は、渡来人の指導の下で行われたことが判明している。真書であるとする研究者は、記紀の編纂を指揮する渡来人に対して、ヲシテホツマ文字)で書かれた『ホツマツタヱ』の内容が分かるように漢文に仮翻訳した編纂用の資料が作成され、それをもとに記紀を編纂したのではないかと推測するものもいる。

 秀真伝は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であること。また漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章とが思えないこと。序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていること。「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくること。秀真文字による花押が存在するが、花押は950年以降に登場すること。秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され、五十音図の存在を前提とするものであるため、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくいこと、などから偽書であるとされている。





(私論.私見)