ホツマ文字、言霊考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).7.12日
「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、日本語母語とも云えるホツマ文字、その言霊性、その和歌化を確認する。 2009.3.7日 れんだいこ拝 |
【ホツマ文字、言霊考】 | |||
ホツマツタヱにつき次のように評されている。
以下、れんだい式ホツマツタヱ論、ホツマ文字論を記しておく。 ホツマ伝え原文はホツマ文字(ヲシテ文字とも云う)で書かれている。ホツマ文字は、 ひらがな、カタカナでもない、ひらがな、カタカナの原語とも云うべき図象古文字である。日本には古来より、当然、漢字が伝来する前に於いて、固有の文字として大和言葉とも云うべき図象古文字のホツマ文字が存在していた。これが日本語の起源である。近現代言語学は、いわゆるこの常識を否定している。漢字渡来以前に於いては日本には言語が存在しなかったとして、日本の古くよりの図象古代文字に対する研究を放棄している。これは近現代学問の常識の方に誤りがあり早急に改訂されねばなるまい。 「ホツマ伝え考その1、れんだいこ説」にも記すが、古事記の編纂者・太安万呂は、古事記編纂を振り返って次のように述べている
太安万呂のこの言は注釈不要なほどに記紀編纂前に於ける上古文字の存在と、上古文字史書があったことを明らかにしていよう。 この文字を使用して記された三大書として、ホツマツタヱ、ミカサノフミ、フトマニがある。これを仮に「ヲシテ文書」と命名する。700年代(奈良時代)に完成された古事記や日本書紀などの漢字文献との比較研究進めた結果、ヲシテ文書の方が原本だということが判明しつつある。ヲシテ文書の成立年代ははっきりしないが、オシロワケ(景行天皇)の御代、オオタタネコの命が、大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、後半部の29綾から40綾を編纂筆録し、126年、景行天皇の御世に献上したと伝承されているので少なくとも西暦126年には確認できる。実際には縄文時代~古墳時代にかけて存在しており、紀元前約7世紀頃には既に成立していたと見なされている。 ひらがな、カタカナは「あいうえお」などの50音で構成されているが、ホツマ文字では48音である。欠けている2音はヤ行「やいゆえよ」の「い」「え」である。現代日本語の表記ではヤ行の「い」「え」は識別されていないのでホツマ文字の48音に戻っていることになる。ホツマ文字の48音に一つ一つに神的な意味が込められている。これは、宇宙天地の五元素としてのウツホ(空)、カゼ(風)、ホ(火、日)、ミヅ(水)、ハ二(土、埴)を五母音のアイウエオに形採(象、かたど)って一方の列とし、子音(アカサタナハマヤラワ)を他方の列として組み合わせることによって成り立っている。 ホツマ文字48音のそれぞれが宇宙天地の作用の一つづつを音韻化しており、それを図象化している。始まりの「ア」は父・天の意であり、終わりの「ワ」は母・地の意であり、その間に46音字が格納されている。これにより、ホツマ文字48音は非常に規則正しく構成された表意表音文字になっている。これを仮に「48音韻律」と命名する。ホツマ文字の何が素晴しいかと云うと、「母音要素と子音要素の組み合わせで成り立つ1音1字の文字」にして、その文字群が高度な科学性と美しい規則性を持ち、現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字から成りたち、48文字それぞれが互いに調和していると云う独特の構造を示していることにある。変体文字を含めると197文字が確認されている。 これによると、ホツマ文字が世界に先駆けて例のない高度科学文字であることになる。現在の日本語は、カタカムナ文字やホツマ文字の神代図象文字を継承していないが、見かけ上は代わりにひらがな、カタカナ、漢字、洋数字から成る混淆文へと転化しているが、驚くことにカタカムナ文字やホツマ文字時代に確立されていた「48文字、48音」からなる言語を綿々と骨格にして今日に至っている。いわば民族の生命として今日に脈々と伝え続けている。 「48文字、48音」の素晴しさは次のことにある。それらは、1字1音が天地の成り立ち、仕組みを象(かたど)り文字化言語化されている。ホツマ文字は言葉を霊的に捉えており、ここにホツマ文字48音の言霊性が宿っている。これを言霊思想と云う。この日本母語が日本文化の基底を為している。ホツマ文字は、この言霊思想に基づき、天地が或るリズムを以て共鳴しているとみなして、宇宙の振動及び事象を韻律で表現している。故に「天の節」のリズムを受けて「五、七調」、「五、七、七調」で文章化されることになる。これが和歌の発生に繫がる。即ち、和歌は、ホツマ文字と云うか「48文字、48音」に連動して生み出されていることになる。驚くことに、和歌の五、七、五、七、七の31文字は、古代太陰暦の1ヶ月の日数を意味している。 例えば、ホツマツタヱの「アワの国」章の一説に次の歌がある。
これによれば、イザナギとイザナミが政事をしようとしたときに、人心の乱れが言葉の乱れを招いていると考え、これを正そうとして「アワの歌」が作られたということになる。これにより国が治まり、それにちなんで国の名前も淡(あわ)の国とし、彼らの功績を讃えた。これ転じて「近江」となった云々。実際、この地にホツマ三書は保存されていた。 永らく一般には認知されることのなかったホツマツタヱに対する関心が近年高まりつつある。今なぜホツマなのか。恐らくそれは、地球が病み、当然日本も病み、様々な場面で日本らしさが失われつつある今日、その反作用として日本の再評価が進み、ホツマツタヱが語る古代日本の豊穣な「あめなるみち(天成る道)」、「やのきまり」哲理、世界観が、真逆に発達した文明の閉塞を照射しつつあるのではなかろうか。 ホツマ文字で表音表記されていた日本語は、その後の歴史の波に揉まれ姿かたちを変えていくことになるが、「48音韻律」を捨てることはなかった。否むしろ「48音韻律」を基底に据えて、表面の姿かたちを変えただけのように思う。思えば、時の王権が中国の漢字を日本の国字にしようと決めた時、通常なら中国式に漢字漢音共に取り入れるところ、大和言葉を活かす形で導入すると云う知恵を生みだしている。即ち、大和言葉の音に合わせて漢字を宛(あて)がい、訓読みで咀嚼している。日本では何故に訓読みとなったのか。それは、漢字に対峙する言語を持っていたからである。漢字導入に合わせて日本古来の文字や書籍を徹底的に焚書した為に日本古来の文字は歴史上から消えたが、読み方は生き延びた。これは仏教導入に合わせて日本古来の神道を徹底的に鎮圧した為に日本古来の神道が地下に潜ったが綿々と生き延びたことに通底していよう。 |
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ホツマ伝え原文はホツマ文字で書かれている。ヲシテ文字とも云う。ホツマ文字は、 ひらがな・カタカナでもない。ひらがな・カタカナの原語とも云うべき図象古文字である。漢字が伝来する前、日本には固有の文字として日本古来の大和言葉とも云うべきホツマ文字が存在していた。この文字を使用して記された三大書として、「ホツマツタヱ」、「ミカサノフミ」、「フトマニ」がある。成立した年代は紀元前約7世紀、縄文時代~古墳時代にかけて記されたとも、西暦126年に作成されたと云われる。この三大書は700年代(奈良時代)に完成された「古事記」や「日本書紀」などの漢字文献と比較研究された結果、「ホツマツタヱ」がこれらの原本だということがわかってきた。 現代日本語のひらがな、カタカナは「あいうえお」などの50音で構成されているが、ホツマ文字では48音である。欠けている2音は「やいゆえよ」の「い」「え」である。ホツマ文字は言葉を霊的な存在としてみなしており、ホツマ文字の48音に一つ一つに神的な意味が込められている。これは、宇宙天地の五元素としてのウツホ(空)、カゼ(風)、ホ(火、日)、ミヅ(水)、ハ二(土、埴)を五母音のアイウエオに形採(象、かたど)って一方の列とし、子音(アカサタナハマヤラワ)を他方の列として組み合わせることによって成り立っている。ホツマ文字48音のそれぞれが宇宙天地の作用の一つづつを音韻化しており、それを図象化している。始まり「ア」は父・天の意であり、終わりの「ワ」は母・地の意であり、その間に46音字が格納されている。ここにホツマ文字48音の言霊性が宿っている。これにより、ホツマ文字48音は非常に規則正しく構成された表意文字になっている。これを言霊思想と云う。これを五七調の和歌文体で表現している。この日本母語が日本文化の基底を為している。 「ホツマツタヱ」の「アワの国」章の一説に次の歌がある。
これによれば、いざなぎといざなみが政事をしようとしたときに、人心の乱れが言葉の乱れを招いていると考え、これを正そうとして「アワの歌」が作られたということになる。これにより国が治まり、それにちなんで国の名前も淡(あわ)の国とし、彼らの功績を讃えた。これ転じて「近江」となった云々。実際、この地にホツマ三書は保存されていた。 今なぜホツマ文字なのか。永らく一般には認知されることのなかった「ホツマツタヱ」ですが、近年それに関する関心が高まりつつある。さまざまな場面で日本らしさの再評価が進む現在、「ホツマツタヱ」が語る古代日本の豊穣な「あめなるみち(天成る道)」、「やのきまり」哲理、世界観が、真逆に発達した文明の閉塞を照射しつつある。 |
【出雲王朝御世の言語及び文字考】 |
ここで、出雲王朝御世の言語及び文字について確認する。通説では、漢字渡来前の日本には文字がなかったとされている。それが証拠に古事記、日本書紀、万葉集は万葉仮名と云われる漢字で記されている。日本に固有の文字があったとするなら、その文字で記された古事記、日本書紀、万葉集が存在すべきであろうが、いわゆる万葉仮名で書かれている。確認できるとしたら、「得体のしれない」との形容つきの古史古伝に記されているばかりである。しかしながら、古史古伝に記された古代文字にはいろんなものがあるがどれも証拠にならない云々と主張されている。これは本当だろうか。れんだいこは、出雲王朝御世の文字の存在を肯定する立場から以下論証する。 古事記、日本書紀、万葉集は元々古代文字で記されていたものを、漢字渡来により、日本式古代文字と漢字との比較考証の結果、漢字の採用を決め、これにより従来の日本式古代文字記述のところを万葉仮名と云われる漢字表記にしたものではないのか。これを証するのは、古事記序文の次のような語りである。673年、天武帝は次のような詔(みことのり)を発し、古事記の編纂が開始された。「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」。この言に従う限り、古代文字か万葉仮名のいずれで記されていたのかどうか別にして、古事記に先立つ「我が国の歴史書」があったとする見立をせねばなるまい。そういう意味で、この古事記序文の記述は非常に重要である。 話しが一足飛びに飛ぶが、れんだいこ史観による大和王朝前の原日本の政体として位置づけられる出雲王朝、邪馬台国御世の言語及び文字はどのようなものだったのだろうか。考えられるのは、古史古伝の中でも突出して値打ちが認められるホツマ伝えに記されている秀真(ホツマ)文字であろう。秀真(ホツマ)文字とは、1音1字の図象哲理文字で、母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。アワ歌が原形で、アからワで終わる。より詳しくは、以下のサイトで確認すればよい。 「ホツマ伝え考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/jyokodaico/hotumatutae co/hotumatutaecowhat.htm) 原日本時代の文字を仮に古代日本文字と定義することにすると、古代日本文字は概略、図象文字であったと思われる。この図象はそれぞれのお国毎に異なっており、秀真(ホツマ)文字以外にも様々なものがある。恐らく、そういう様々な文字の社会淘汰が行われ、最終的に確立されていったのが秀真(ホツマ)文字なのではなかろうかと推測する。その秀真(ホツマ)文字はカタカムナ文字と通底している。カタカムナ文字が本当に存在したのかどうか分からないが図象哲理文字の極致とも云うべき文字スタイルになっている。これは以下のサイトで確認できる。 「カタカムナ文字考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/mojikakutokuhi co/katakamunagoco/top.htm) とにかく、このようにして古代日本語と古代日本文字が獲得されていた。そう窺うべきである。興味深いことは、「48音、48図象文字」の組み合わせで構築構成される原日本時代の言語と文字は、「48音、48図象文字」の発生にも関わるリズムに則り和歌体で表現されるのを正式としていたようである。それ故に、ホツマ伝えは「五、七調」、「五、七、七調」で表記されている。これより発していると思われるが、五、七、五、七、七の31文字よりなる和歌が生み出されている。この31文字、古代太陰暦の1ヶ月の日数を意味している。してみれば、和歌は日本語の根底から汲み出される日本語の生命そのものと云えるのではなかろうか。それ故にと思われるが、西欧文明に悪しく汚染される以前の日本に於いては、和歌の嗜みこそ知識人の証しであった。そういう伝統に根ざす日本語が常用されていた。 古代日本文字はその後、中国文明の漢字に直面して大幅な変革を遂げた。何と「48音」は捨てずに「48図象文字」を捨て、代わりに漢字を宛(あて)がうという芸当を見せた。これが万葉仮名と云われるものである。その万葉仮名も万葉集の宛がい漢字、古事記の宛がい漢字、日本書紀の宛がい漢字が異なる。当初は、古代日本語の音に最も的確に似た漢字を宛がっていたと思われるが、次第に漢字の象形、字義に通じるようになり、古代日本語の音と意味に最も的確に似た漢字を宛がうように変遷していくことになる。これが万葉仮名の史的変遷行程であろうと思われる。 驚くべきは、日本語は、その万葉仮名時代に終わりを告げるかのように平仮名、カタカナを生み出し、漢字との混交文を生み出していく。注目すべきは、平仮名、カタカナが漢字を崩して生まれたとするのは俗説で、大部分は古代日本文字の図象哲理文字の崩し文字として生まれていることである。かく了解すべきである。故に、漢字の崩し文字としての平仮名、カタカナ一辺倒考よりも古代日本文字の崩し文字としてのそれを合わせて検証した方が賢明と云うことになる。 日本語に於ける平仮名、カタカナの発明につき、毛沢東が次のように述べている。時は1972(昭和47).9.27日、日中国交回復交渉時の毛沢東&田中角栄の日中最高首脳部会談の一幕である。この時、毛沢東は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。これに対し、大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた云々。会談時の友好ムードが伝わる逸話であるが、れんだいこは、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」の言に注目している。毛主席さすがの慧眼の言ではなかろうかと思っている。 もとへ。日本語は独り日本のみならず人類が生み出したスーパー功労賞もの言語なのではなかろうか。国際公用語として英語、ドイツ語が隆盛するのは構わない。だがしかし、日本語もまた第二国際公用語として使われていくべきではなかろうか。それに値する世界最高傑作芸術の言語足り得ていると思っている。その言語の「元一日」が出雲王朝の御世に於いて獲得されていたものであることを確認すれば、出雲王朝の御世の素晴らしさが分かろう。 皇国史観が何故に排斥されねばならないのか。それは、日本上古代史、その影響を取り込む古代史を遮断削除し、皇国史観が正統化する大和王朝建国史を正義とする余りにも扁平に捉えた史観に過ぎないからである。戦後日本は本来は、皇国史観に汚染されない日本上古代史、古代史の扉を開けていくべきだった。ところが、反皇国史観と云う反動的解釈で日本上古代史、古代史の扉の開門を閉ざしたまま今日に至っている。今では日本上古代史、古代史のみならず日本史そのものを扁平にしか理解しない知識人で溢れている。そういう者がリードする国造り、その政治が良い訳がなかろう。こういう結論になる。 2013.6.27日 れんだいこ拝 |
【漢字の訓読み考】 |
思えば、時の王権が中国の漢字を日本の国字にしようと決めた時、通常なら漢音で発音されるところ、日本は訓読みで咀嚼した。日本では何故に訓読みとなったのか。それは、漢字に対峙する言語を持っていたからである。日本古来の文字や書籍を徹底的に焚書したため、日本古来の文字は歴史上から消えたが、読み方は生き延びた。1966年、松本善之助が東京の古本屋で偶然発見した「ホツマツタヱ」。以後、松本、門下生の池田満による血の出るような探索の結果、ヲシテ文献の数々が発見された云々。 |
【ホツマ文字48音相関考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これを、その後のアカサタナ列で確認してみる。
これを、カタカムナ文字と併記して確認してみる。
これを、アカサタナ列で確認してみる。
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【ホツマ文字&カタカムナ文字の48音解義考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【ホツマ文字とカタカムナ文字の相関考】 |
【ホツマ文字と幻の出雲王朝御代史書X群の相関考】 |
「まとかなる やまと」を参照する。日本書記・古事記には原書があったとしてホッマ伝えを原書とする。それはその通り、しかし、そのホッマ伝えにも原書があったとして幻の出雲王朝御代史書X群を見たい。この頃に確立されていたのがヤマト言葉であり、その文字がヲシテ文字である。ヤマト言葉&ヲシテ文字は、十の「相」と、五の「態」の組み合わせでできている。十の「相」は言語学的に子音、五の「態」は母音とされている。但し、「よみがえる日本語」の著者・青木純雄氏は、今まで「子音」と呼んでいた「相」は、「父音」で、「態」が母音であると。「父音」+「母音」=「子音」と解き明かしている。 |
(私論.私見)