ホツマ伝え考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).9.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、遠景から見たホツマ伝え考をしておく。「ウィキペディアホツマツタヱ」その他を参照する。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【「ホツマ伝え」考 始めに】
 ここで、出雲王朝御世の言語及び文字について確認する。通説では、漢字渡来前の日本には文字がなかったとされている。それが証拠に古事記、日本書紀、万葉集は万葉仮名と云われる漢字で記されている。日本に固有の文字があったとするなら、その文字で記された古事記、日本書紀、万葉集が存在すべきであろうが得体のしれない古史古伝にしか記されていない。古史古伝に記された古代文字は証拠にならない云々と主張されている。これは本当だろうか。れんだいこは、出雲王朝御世の文字の存在を肯定する立場から以下論証する。

 古事記、日本書紀、万葉集は元々古代文字で記されていたものを、漢字渡来により万葉仮名と云われる漢字表記にしたものではないのか。これを証するのは、古事記序文の次のような語りである。673年、天武帝は次のような詔(みことのり)を発し、古事記の編纂が開始された。「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」。この言に従う限り、古代文字か万葉仮名のいずれで記されていたのかどうか別にして、古事記に先立つ「我が国の歴史書」があったとする見立をせねばなるまい。そういう意味で、この古事記序文の記述は非常に重要である。

 話しが一足飛びに飛ぶが、れんだいこ史観による大和王朝前の原日本の政体として位置付けられる出雲王朝、邪馬台国御世の言語及び文字はどのようなものだったのだろうか。考えられるのは、古史古伝の中でも突出して値打ちが認められるホツマ伝えに記されている秀真(ホツマ)文字であろう。秀真(ホツマ)文字とは、1音1字の図象哲理文字で、母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。アワ歌が原形で、アからワで終わる。より詳しくは、以下のサイトで確認すればよい。

 「ホツマ伝え考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/jyokodai
co/hotumatutaeco/hotumatutaecowhat.htm)

 原日本時代の文字を仮に古代文字と定義することにすると、古代文字は概略、図象文字であったと思われる。この図象はそれぞれのお国毎に異なっており、秀真(ホツマ)文字以外にも様々なものがある。恐らく、そういう様々な文字の社会淘汰が行われ、最終的に確立されていったのが秀真(ホツマ)文字なのではなかろうかと推測する。その秀真(ホツマ)文字はカタカムナ文字と通底している。カタカムナ文字が本当に存在したのかどうか分からないが図象哲理文字の極致とも云うべき文字スタイルになっている。これは以下のサイトで確認できる。

 「カタカムナ文字考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/mojikakutokuhic
o/katakamunagoco/top.htm)


 とにかく、このようにして古代日本語と古代日本文字が獲得されていた。そう窺うべきである。興味深いことは、「48音、48図象文字」の組み合わせで構築構成される原日本時代の言語と文字は、「48音、48図象文字」の発生にも関わるリズムに則り和歌体で表現されるのを正式としていたようである。それ故に、ホツマ伝えは「五、七調」、「五、七、七調」で表記されている。これより発していると思われるが、五、七、五、七、七の31文字よりなる和歌が生み出されている。この31文字は古代太陰暦の1ヶ月の日数を意味している。してみれば、和歌は日本語の根底から汲み出される日本語の生命そのものと云えるのではなかろうか。それ故にと思われるが、西欧文明に悪しく汚染される以前の日本に於いては、和歌の嗜みこそ知識人の証しであった。そういう伝統に根ざす日本語が常用されていた。

 古代文字はその後、中国文明の漢字に直面して大幅な変革を遂げた。何と「48音」を捨てずに、「48図象文字」を捨て、代わりに漢字を宛(あて)がうという芸当を見せた。これが万葉仮名と云われるものである。その万葉仮名も万葉集の宛がい漢字、古事記の宛がい漢字、日本書紀の宛がい漢字が異なる。当初は、古代日本語の音に最も的確に似た漢字を宛がっていたと思われるが、次第に漢字の象形、字義に通じるようになり、古代日本語の音と意味に最も的確に似た漢字を宛がうように変遷していくことになる。これが万葉仮名の史的変遷行程であろうと思われる。

 驚くべきは、日本語は、その万葉仮名時代に終わりを告げるかのように平仮名、カタカナを生み出し、漢字との混交文を生み出していく。注目すべきは、平仮名、カタカナが漢字を崩して生まれたとするのは俗説で、大部分は古代日本文字の図象哲理文字の崩し文字として生まれていることである。かく了解すべきである。故に、漢字の崩し文字としての平仮名、カタカナ考よりも古代日本文字の崩し文字としてのそれを検証した方が賢明と云うことになる。

 日本語に於ける平仮名、カタカナの発明につき、毛沢東が次のように述べている。時は1972(昭和47).9.27日、日中国交回復交渉時の毛沢東&田中角栄の日中最高首脳部会談の一幕である。この時、毛沢東は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。これに対し、大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応え笑談した云々。会談時の友好ムードが伝わる逸話であるが、れんだいこは、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」の言に注目している。毛主席さすがの慧眼の言ではなかろうかと思っている。

 もとへ。日本語は独り日本のみならず人類が生み出したスーパー功労賞もの言語なのではなかろうか。国際公用語として英語、ドイツ語が隆盛するのは構わない。だがしかし、日本語もまた第二国際公用語として使われていくべきではなかろうか。それに値する世界最高傑作芸術の言語足り得ていると思っている。その言語の「元一日」が出雲王朝の御世に於いて獲得されていたものであることを確認すれば、出雲王朝の御世の素晴らしさが分かろう。

 皇国史観が何故に排斥されねばならないのか。それは、日本上古代史、古代史を余りにも扁平に捉えた史観に過ぎないからである。戦後日本は本来は、皇国史観に汚染されない日本上古代史、古代史の扉を開けていくべきだった。ところが、反皇国史観と云う反動的解釈で日本上古代史、古代史の扉の開門を閉ざしたまま今日に至っている。今では日本上古代史、古代史のみならず日本史そのものを扁平にしか理解しない知識人で溢れている。そういう者がリードする政治が良い政治を行う訳がなかろう。こういう結論になる。

 2013.6.27日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その1、「ホツマ伝え」の値打ち考】
 「天照御魂大神は饒速日(大歳)尊だった」が次のように記している。参考になるので部分転載しておく。
 「古史古文の一つに、「秀真伝(ホツマツタエ)」というのがある。ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩で、縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで、約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えている。作者は、前半天の巻・地の巻を櫛甕玉命(櫛御方命)が、後半人の巻を大田田根子が編纂・筆録と記されたしている。何れもニギハヤヒの後裔である。

 そのなかに、天照神(ニギハヤヒ)の諭しことばととして、『よくよく思えよ。命と云うものは、身の宝である。これを諺にするとよい。萬世の君も、命はたった一つで取り替えることはできない。寿命をまっとうしないで、神上がるときを待たずして死ねば、魂の緒は乱れ苦しみ天界の宮居に復帰することはあたわない。寿命を保ち天に還るときは、楽しみながら身罷ることができるであろう』という前文があって、次ぎにココナシ(菊)の諭しの言葉が続く。『菊のように美しく清らかな心身となって身罷るのが一番よい。清らかな御食を食し万歳の長寿を得れば、身罷るとき匂いも菊の匂いになるというものである。遺骸はすぐに神々しい神の形となる。穢れた肉を食べていれば死んだとき匂いも臭く、魂の緒も乱れて苦しんでしまう。それを解くには祓いと日の霊気がよい。菊は日月の霊気を両方兼ね備えた植物であるので、食べれば目が明らかとなり、天御祖神の瞳と感応して、天界に帰幽することができるのである。天の道に従い清らかな食物を食む人は神が相求める。それゆえ、古来から菊を愛でる風習があるのです』」。

 「ホツマ伝え」は、より詳しくは本サイトの「ホツマ伝え考その5、ホツマ伝えの構成考」で記すが、前半の天の巻、地の巻の1綾~28綾を、出雲王朝系のオオナムチの命の子孫の第六代大物主クシミカタマの命(大物主櫛甕玉命)が神武時代の右大臣に地位にありし時に編纂した。後半部の29綾から40綾を、126年、オシロワケ(同じく景行天皇)の御代、十三代目の天皇になるはずだったヤマトタケル(日本武尊)が東征の帰途、病を得て三重県能褒野で身罷られた際の遺言により、大物主クシミカタマの命(大物主櫛甕玉命)の嫡系子孫であるオオタタネコの命(太田田根子、三輪秀聡(すえとし)とされている)が編纂筆録し献上した、と伝承されている。

 
「ホツマ伝え」は記紀とは一味違う日本神話であり、範疇として古史古伝文献の一つに入れられている。内容的に三笠記(みかさふみ)、フトマ二と兄弟姉妹関係にある。三書ともオシテ文字と云われるカタカムナ系の神代図象文字で記述されている。これを仮に「ヲシテ文書」と命名する。オシテ文字を日本古代文字と見るのか後世の作字と見るのかで論争があるが、要は中身の内容の方を精査するのを先とすべきではなかろうか。なかなか味わい深い「もう一つの日本神話」となっている。

 「ヲシテ文書」を古事記、日本書紀、もう一つ先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)と比較すると、記紀及び先代旧事本紀が「ヲシテ文書」を底本として漢字翻訳している箇所が数か所以上あり、いわばヲシテ文書が原書の地位にあると推理できる。このことを裏付けるかのように古事記の編纂者・太安万呂は、古事記編纂を振り返って次のように述べている
 「上古の時代では、言葉も心も素朴で飾り気がないので、漢字を用いた文章に書き改めることは非常に難しく、日本語と同じ意味を持つ漢字を探そうとしても、適切なものがなく、かといって同じ音の漢字を並べていったのでは、だらだらとして長い文になってしまう云々」。

 
この言を得てもなお記紀より後の作とする論もあり得ようが、仮にそうだとしても記述ケ所によっては記紀よりも「ヲシテ文書」の方が意を尽くして精密に記していることが判明する。即ち記紀でははっきりしないことが「ヲシテ文書」によって正確な理解に達することができる面がある。そういう意味においても「ヲシテ文書」の値打ちが分かろう。

 もとへ。太安万呂のこの言は、記紀編纂前に上古文字の存在と、それによる史書があったことを明らかにしている点で重要である。れんだいこが思うのに、記紀が「ヲシテ文書」を参照していたとして、「ヲシテ文書」も又それ以前の上古文字史書を参照していたのではなかろうか。もとより、「ヲシテ文書」以前の上古文字史書は恐らく現存していない。その転写史書さえ存在しない。転写ながら最も古い文献として辿り着けるのが「ヲシテ文書」と云うことになるのではなかろうか。そのホツマ伝えも元々は、「カグミハタ(香具御機)、ホツマ、ミカサフミ、フトマニ」等々幾つかの文献から構成されていたと推定されている。その一部がホツマ伝え、三笠記、フトマニの三書として伝えられていると解するべきではなかろうか。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1004  れんだいこ投稿日:2011年10月16日
 【「ホツマ伝え」共同研究の勧め】

 れんだいこが「ホツマ伝え」研究に手を染めてかれこれ1カ月を越す。同書の重要性がますます分かりかけてきた。にも拘わらず、その研究となると遅々として進まない。凝り性のれんだいこが集中して取り組んでも、やりたいこと全体の1割にも至らない。他のことができなくなるので、この辺りで一服させることにする。

 研究が進まないのは全篇40綾(文)と云う内容の膨大性のせいだけではない。この程度の分量であれば、れんだいこは既に「共産主義者の宣言」その他で為したように、さして難しくはない。「ホツマ伝え」訳文案出の困難性の真因は、前篇40章(文)の文の確定がままならぬところにある。

 元々がホツマ文字と云う世にも珍しい宇宙の交互作用を象った図象文字で記されており、和歌体文が二列に配置された形式で延々と続いている。この二歌を一行毎に組み替えるところから始めたところ、ネット上にアップされているものは一括文であるので、これを一から解(ほぐ)さねばならない。これには相当の労力が掛かり難儀している。

 それから後に次のような作業が待ち受けている。現代日本語訳を作りだす為には、その前作業として、まずホツマ文字原文を確認せねばならない。その為には、ホツマ文字の一字毎をコピー可能な状態で使えるようにならないと編集替えできない。

 既に発表されているのかも知れないが、その利用に際して煩瑣な手続きが必要なようである。これではいけない。せっかくの労でホツマ文字を記号化したのであれば無料サイトアップし、誰でも利用できるようにして普及させるのが本望ではなかろうか。そうすることにより先人の労が却って報われるのではなかろうか。箱にしまい込むようなことでは勿体なかろう。いずれ誰かが取り組み、ジョブズ的精神で公開するようになることを思えば、先行者がオープンにするのが合理的ではなかろうか。一刻も早くこれを簡便に誰でも利用できる状態にしてくれることを願う。

 次に、これの万葉仮名訳文に目を通さねばならない。次に、これのひらがな文、カタカナ文に目を通さねばならない。次にこれを日本古文に書き直さねばならない。その際には精密な審査が必要と思う。目下の翻訳はかなり悪訳な箇所が見られる。不明なところはカタカナ表記にしておき、今後の解明に待つべきではなかろうか。

 この際、れんだいこは、ホツマ伝え原文の元々は縦書きの巻物であったと思うので、現在公開されているような二文形式に捉われず、文意毎の文節に区切り替えすることにした。この方が、「ホツマ伝え」和歌文の鼓動が生き生きと伝わると確信するからである。これにより非常に読み易くなった。

 次にこれを現代日本文に書き直さねばならない。最後に注釈付きの解読書に焼き直すと云う作業が必要となる。現在、ネット上から学びとれるのは、それぞれこの行程の一部でしかない。上記の行程を比較対照的に積み重ねておらず、為に凡そ学問的域に入っていない。厳密さに欠けており、いわゆる私製入門編の類に留まっている。尤も、これあればこそ、れんだいこの意欲が増したのであるから感謝を申し上げるのが先ではあるが。

 そこで、れんだいこは提言したい。上記の行程をみんなが手分けして詰める作業がいる。これを著作権フリーでサイトアップするのが良い。本来であれば、れんだいこがまず1綾(文)のひな型を示し、共同者の手を借りて他の綾(文)でもそのようにして貰いたい。当然、そうして生み出されたものは共同成果物であり、人民大衆的に無償無通知転載可で利用されるべきものである。

 原文をこのように確定させてから翻訳過程に入ることになる。訳を生みだす過程で、パソコン上に先行者の労作を転載し、原文と読み比べながら手直ししていくのが生産的である。れんだいこ訳ができれば、先行者の訳文をも併載し、比較対照できれようにしておけば有益だろうと思う。ところが、先行者の研究物には決まって著作権規制の文言が入っており、為に転載が面倒くさいことになっている。

 「ホツマ伝え」は手前の創作文でもないのだから、その研究に徒に著作権規制を持ち込むのはいかがだろうかと思う。仮に魏志倭人伝を私製解読し、これに著作権を被せているのと同じで愚昧ではなかろうか。新解釈に著作権を被せるなどもってのほかである。もっと堂々と公開し、みんなで総力挙げての解読が望まれているのではなかろうか。

 先行者の解読文をみんなで一時共有し、なるほどと思う新訳が生まれればこれを共有し、という具合で解読を進めていくのが生産的ではなかろうか。下手な著作権論に被れるとこれができず為に学問の進歩が止まる。このことをきつく指摘しておきたい。そもそも我々の僅か数十年の生の営み道中に著作権規制を持ち込み、互いの利用を牽制するなどというのは精神の貧困の極みであろう。

 そういう手続きを得て、「ホツマ伝えのれんだいこ訳」を市井に提供したいのだが、今はまだその段階ではない。この道中を公開すれば、著作権強権派の批判を浴びる。れんだいこはかって酷い目にあわされ懲りており、連中と関わること自体が嫌なので控えざるを得ない。しかしそれは、れんだいこ一人の作業になることを意味しており、非常に生産性が悪くなる。早く徒な著作権規制のない日が訪れることを願う。

 付言しておけば、れんだいこは印税収入を否定しているのではない。それは著作者の糧であるから認められるべきである。問題は、ネット上の著作物はネットに晒した瞬間から、所定のルールとマナーさえ守れば利用されるのを当たり前と云う風に分別せねばならないと思うのに、リンク掛けにも事前通知承諾が必要とする者がいるぐらいだから推して知るべしだろう。

 れんだいこの著作「検証学生運動上下巻」は、資料的なものはネットに満載し、いつでも読めるようにしている。その為に売行きが落ちているのかどうかは分からないが、もし落ちているのなら値打ちがない故と思っている。刊行本では、ネット文を絞り込み、相対的に著者見解の比重を高め、且つ読み易くなるよう工夫した。ブックは手軽に持ち運びできるので、どこででも読める。アンダーラインも自在にできるメリットがある。そういう訳で、ネット本と書籍本は共存できると思う。今後はこう云う風に上手に使い分けられるべきではなかろうか。

 さて、「ホツマ伝え」が何故に重要なのか。それは、「ホツマ伝え」の原本は、古事記、日本書紀のいわゆる記紀前に著されている最古の日本史書と思われることにある。且つ記紀が大和王朝の正史的位置づけを狙いとして、いわば御用的に編纂されているのに比して、大和王朝に滅ぼされた側の、いわば縄文日本王朝時代の日本国家、日本精神、日本習俗を濃厚に伝えていると思われることにある。

 その「ホツマ伝え」も大和王朝の権威に迎合して折衷させているくだりもあり、「ホツマ伝え」が下敷きにした文書こそ真正の上古代日本の歴史書であると思われる。しかし、これはもう存在しない。「ホツマ伝え」は、その上古代日本の歴史書と記紀文書との間に立つ歴史的文書と云う位置付けになるのではなかろうか。

 れんだいこは既に、新邪馬台国論の扉を開けている。それによると、邪馬台国の聖地は畿内大和の三輪山であり、大和王朝創建派の外航族の渡来により滅ぼされた。実際には出雲の国譲り同様に両者激闘の決着がつかず、最終的に和睦する形で大和王朝が創建された。

 記紀神話が、外航渡来族の大和王朝創建の正義性を説き、その御代の神聖化を多く語るのに比して、「ホツマ伝え」は、外航渡来族によって滅ぼされた側の、かって先行的に存在していた出雲―三輪王朝の御代を偲び語っている。ここに「ホツマ伝え」の画期的価値が認められるのではなかろうか。「ホツマ伝え」は古史古伝の範疇に入れられているが、その中でも白眉の一級文書なのではなかろうか。

 「ホツマ伝え」は日本の原ふるさとを偲ぶいわばバイブルである。「ホツマ伝え」はこれに値する人類共有財産にするべき世界的名著であると確信する。内容については別サイトに譲るが、紀元前後時代の古文書が日本に遺されていることを誇りに思い、且つその内容の高度性を共認したいと思う。

 れんだいこの「ホツマ伝え」研究は現在のTPP騒動を前に始められている。恐らくそれは、日本の農政が民営化により滅ぼされる危機感を前にして、護るべき日本の根拠の旅になっているのではないかと思っている。これを読み易くして、現代政治家にツメの垢を煎じるようにして読ましてやりたいが、ハンドラ―ズの仰せのままに蠢く輩には通じないだろう。してみれば、これに抗する側に提供したい。精神のエートスとして味わうべきだろう。

 参考までに、れんだいこサイトを記す。なかなか進まない、今後はぼちぼち書き直していくことにする。

 「ホツマツタヱ考」
 (rekishi/jyokodaico/hotumatutaeco/top.html

 2011.10.16日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その2、「ホツマ伝え」の観点考】
 「ホツマ伝え」の観点を確認しておく。恐らくこれは従来議論されていないところのように思われる。そういう意味で、以下、れんだいこの試論を提供しておきたい。「ホツマ伝え」は前述したように出雲王朝御代の史書を下敷きにしている。これを仮に「幻の出雲王朝史書X群」と命名すると、「ホツマ伝え」は「幻の出雲王朝史書X群」を下敷きにしながら、出雲王朝史書ではないむしろ大和王朝御代の正統性を打ち出している。ここに「ホツマ伝え」の歴史的地位がある。しかしながら、「ホツマ伝え」は後の記紀次元の大和王朝御世の護教をしていない。ここに「ホツマ伝え」の特質がある。どういう特質かと云うと、これはエヘンれんだいこの「原日本論新日本論、「新邪馬台国論」を通してでなければ解けない。見えてくるものが見えない。

 これを説明すると、れんだいこの「原日本論新日本論、「新邪馬台国論」によれば、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国系譜の原日本は、外航勢力である神武軍によって滅ぼされた。これを裏から語るのが国譲り譚、神武天皇東征譚であるが、この時、勝利した神武軍は、原日本の内部分裂を誘い、その内応派を抱え込む形で大和王朝を創建している。「ホツマ伝え」は、この時の内応派の手による史書であると推定できる。故に、原日本の御代の在り姿をそのままに伝え、且つ大和王朝の正統性をも語ると云う芸当を為し得ている。ここに「ホツマ伝え」の特徴が窺える。理論的には、敗れた方の原日本系の正統性を語る史書をも綴られるべきであろうが、こういう史書は現存しない又は公開されていない。勝った方の新日本系の史書は後に記紀その他史書として御用的に編纂されることになる。

 これが「ホツマ伝え」の観点の構図である。かく踏まえて研究すれば一段と味わい深いと云うことになる。

 2013.08.27日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その3、なぜ学ぶ必要があるのか考】
 「ホツマ伝え」は古事記、日本書紀に先行する古代日本史書である。いわゆる古史古伝の範疇に入るが、なかでも「ホツマ伝え」は祖国原日本のアイデンティティーを知るのに記紀ともどもの恰好の史書であり、そういう意味で学ぶ必要があるように思われる。「ホツマ伝え」の特徴としては、出雲王朝御代の幻の文書群Xからの直接の抜書き部分が認められることである。これをベースにしつつ後の古事記、日本書紀の歴史観に繋がる大和王朝讃歌となっている。この構図を踏まえつつ、どこに共鳴するかも含めて味わい方は人それぞれであろうが、読めば必ず益することを請け合う。論より証拠である。

 ここで、今なぜ「ホツマ伝え」を読み学ぶ必要があるのかについて愚考しておく。時は今2013(平成25)年。日本政治はTPP交渉で岐路に立たされている。この動きに並行して2011.3.11の三陸巨大震災に伴う福島原発事故の後処理の混迷がある。れんだいこ的には二つの国難が同時多発で襲来しているとみなしている。共に祖国が失われようとしている危機である。こう論ずる者は少なかろうが、れんだいこの歴史認識ではそうなる。「何を為すべきか」の理論武装は、一見迂遠のようであるが、こういう上古代史からの流れを俯瞰したところから始める方が良いように思われる。

 こういう時代にあっては、我々が失われようとしている祖国日本を客観的に知っておくことが肝要で、これを為し得て後、何を護り何を譲るのかの方策を見出すことができると心得ている。戦後65年、敗戦国の悲哀で、その後の日本人は祖国に対するアイデンティティーを喪失させられるよう誘導されてきた。いわゆる西欧型と云う名の実はネオシオニズムに都合の良い形での民主主義が称揚される程度に応じて日本の民族的絆が引き裂かれてきた。戦勝国のこの策が見事に奏功して、戦後日本人は祖国日本及び日本人的人格を失わされて来た。これが為に、多くの日本人がこの国難に於いて国家としてどう対応すべきかの解を見出し得ない拱手傍観状態にあると思われる。

 ここで、れんだいこの「ホツマ伝えノート」を公開する理由は、今こそ日本及び日本民族に関するアイデンティティーの元一日を記している「ホツマ伝え」を紐解くことは益にはなっても害にはなるまいと信ずるからである。そういう思いから、まだ途上ではあるがサイトアップすることにした。原文は、ホツマ文字で記され、それのひらがな、カタカナ訳が遺され復刻されている。これを漢字かな文字文に翻訳してみる。先人の労作を下敷きにさせてもらった。ここに謝意を申し上げておく。

 「ホツマ伝え」は大和言葉の更なる祖語で書かれているので、漢字かな文字文にしたところで現代日本人には読んでも意味が通じない言葉が多い。だがしかし「読書百篇意自ずから通ず」で、噛みしめるように読めば漠然とながら理解が増してくるだろう。どこの文に感応するかは人それぞれにしても、現代人が思わず膝を打つような内容が豊富に記されていることに驚くであろう。最初は難儀しても次第に面白くなることを請け合う。論より証拠で、読み進めて貰いたいと思う。

 2013.8.25日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その4、「ホツマ文字」考】
 ここでは「ホツマ文字」について確認しておく。「ホツマ伝え」は、記紀で「巻」という所を「あや」という織物の表現を使っている。これを漢字で訳せば「紋」、「綾」、「文」と云う当て字になる。ホツマの語源的意味は、「ホ」は秀でたこと、「ツ」は強調又は「の」又は「繫がり」の意、「マ」はマコトの意と思われる。これにより解すると、「特にひいでたまこと」、「まことの中のまこと」、「真価(真に価のある重要なこと)」という位置づけとなる。ツタヱは「伝え、言い伝え」であるから、ホツマ伝えは、「まことの中のまことの言い伝え」の意味と解するのが相当と云うことになろう。

 先に、「両書ともオシテ文字と云われるカタカムナ系の神代図象文字で記述されている」と述べたが、専門的には古代大和言葉のヲシテ文字と云われるとのことである。過去の経緯からホツマ文字、秀真文字、伊予文字と呼ばれる場合もある。却って分かりにくいので、ここでは仮にホツマ文字と記すことにする。ホツマ文字の何が素晴しいかと云うと、「母音要素と子音要素の組み合わせで成り立つ1音1字の文字」にして、その文字群が高度な科学性と美しい規則性を持ち、現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字から成りたち、48文字それぞれが互いに調和していると云う独特の構造を示していることにある。変体文字を含めると197文字が確認されている。

 このことが何を意味するのか。それは、ホツマ文字が世界に先駆けて例のない高度科学文字であることを意味している。現在の日本語は、カタカムナ文字やホツマ文字の神代図象文字を継承していないが、見かけ上は代わりにひらがな、カタカナ、漢字、洋数字から成る混淆文へと転化しているが、驚くことにカタカムナ文字やホツマ文字時代に確立されていた「48文字48音」からなる言語を綿々と骨格にして今日に至っている。いわば民族の生命として今日に脈々と伝え続けている。

 「48文字48音」の素晴しさは次のことにある。それらは、1字1音が天地の成り立ち、仕組みを象(かたど)り文字化言語化されている。天地の様々なリズムと共鳴しており、故に「ホツマ文字」は「天の節」のリズムを受けて「五、七調」、「五、七、七調」で文章化されることになる。これは宇宙の振動に関係している。これが和歌の発生に繫がる。即ち、和歌は、「ホツマ文字」と云うか「48文字48音」に連動して生み出されていることになる。驚くことに、和歌の五、七、五、七、七の31文字は、古代太陰暦の1ヶ月の日数を意味している。

 日本語研究学者は、この辺りをどう説いているのか詳しくは知らない。普通には、上古代語の研究に向かっていると思われるが、他方で、漢字渡来以前に於いては日本には言語が存在しなかったとする説もあり、こういう説に立てば存在しないものを研究する必要もなくなろう。そういう訳で、上古代語の研究が疎かにされていることは十分に考えられる。れんだいこ的には、そういう学者が云う如くに、カタカムナ文字、ホツマ文字系の神代図象文字が後世の偽作であったにせよ、朝鮮のハングル文字もこれに似ているが、かなり後代の創作文字であったにせよ、では日本語独特の「48文字48音」がどこから生まれたのか、これを明らかにせねばならないと考える。日本語の「48文字48音」は今驚くべき高度なものであることが判明しつつある。詳しくは「ホツマと現代生命科学の一致考」、「神代文字考」で別途に言及したい。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その5、「ホツマ伝え」の構成考】
 「ホツマ伝え」は、そういう神代文字の一つであるホツマ文字を使って日本古代史、日本古来の思想や文化を五七調の和歌の長歌体で叙事詩風に記している。全40章1万行、12万文字で構成され、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。神武天皇の御代、オオナムチの命の子孫の第六代大物主クシミカタマの命(大物主櫛甕玉命、神武時代の右大臣)が、前半の天の巻、地の巻の1綾~28綾を編纂した。

 126年、オシロワケ(同じく景行天皇)の御代、オオタタネコの命(太田田根子、三輪秀聡(すえとし)とされている)が、ヤマトタケ(日本武尊)が東征の帰途、病を得て三重県能褒野で身罷られた際の遺言により、大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、後半部の29綾から40綾を編纂筆録し献上したと伝承されている。原文に、「この文は、昔、大物主、勅(みことのり)受けて作れり。阿波宮に入れ置くのちの」とある。

 この時、鏡の臣で伊勢の神臣であるオオカシマの命(大鹿島命、中臣氏)も、同じくヲシテ(ホツマ文字)で書かれた先祖アマノコヤネの命から伝わる三笠紀(ふみ、神戴山紀)を捧げている。天皇も自ら天皇家伝来の文である「香具御機」(かぐみはた、(香久山紀)を編纂し、この三種の文が揃ったことを「三種の道の備わりて幸得る今」と慶んでいる。

 ホツマ伝えは、縄文時代後期から弥生時代を経て古墳時代までの出雲系の神々の事跡を詳しく伝えている。恐らく邪馬台国辺りまでの日本史正系の歩みを語ろうとしているのではなかろうかと思われる。アメツチ(天地)の開闢にはじまり、カミヨ(記紀にいう神代)、人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)の大和王朝の建国を経て人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年に至るまでが、ほぼ記紀と同様の構成で叙述されている。

 その目録を記せば以下の通りである。この各アヤがそれぞれかなりの文節に分かれており、かなりの文量の叙事詩になっている。 
  • アのヒマキ(天の巻)
    • コトノベのアヤ        (序)
    • キツのナとホムシさるアヤ(1.東西の名と穂虫去る紋)
    • アメナナヨトコミキのアヤ(2.天七代、床御酒の紋)
    • ヒヒメミオうむトノのアヤ(3.一姫三男生む殿の紋)
    • ヒノカミのミズミナのアヤ(4.日の神の瑞御名の紋)
    • ワカのマクラコトハのアヤ(5.和歌の枕言葉の紋)
    • ヒノカミソフキサキのアヤ(6.日の神十二后の紋)
    • ノコシフミサガをたつアヤ(7.遺し文サガお絶つ紋)
    • タマがえしハタレうつアヤ(8.魂返しハタレ撃つ紋)
    • ヤクモウチコトつくるアヤ(9.ヤクモ撃ち琴つくる紋)
    • カシマたちツリタイのアヤ(10.鹿島断ちツリタイの紋)
    • ミクサゆつりみうけのアヤ(11.三種神器譲り、御受けの紋)
    • アキツヒメアマカツのアヤ(12.アキツ姫、天が児の紋)
    • ワカヒコイセススカのアヤ(13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿の紋)
    • ヨツギのるノトコトのアヤ(14.世継ぎ告る祝詞の紋)
    • ミケヨロツなりそめのアヤ(15.御食、万、生成の紋)
    • はらみつつしむヲビのアヤ(16.胎み慎しむ帯の紋)
  • ワのヒマキ(地の巻)
    • カンカガミヤタのナのアヤ(17.神鏡八咫の名の紋)
    • ヲノコロとまじなふのアヤ(18.オノコロとまじなふの紋)
    • ノリノリヒトヌキマのアヤ(19.ノリノリヒトヌキマの紋)
    • スメミマゴトクサゑるアヤ(20.皇御孫十種神宝得る紋)
    • ニハリミヤノリさたむアヤ(21.宮造り法の制定)
    • ヲキツヒコヒミツのハラヒ(22.オキツヒコ火水の祓)
    • ミハさためツルキナのアヤ(23.御衣定め剱名の紋)
    • コヱクニハラミヤマのアヤ(24.コヱ国ハラミ山の紋)
    • ヒコミコトチをゑるのアヤ(25.ヒコ命鉤を得るの紋)
    • ウカヤアヲイカツラのアヤ(26.ウガヤ葵桂の紋)
    • ミオヤカミフナタマのアヤ(27.御祖神船魂の紋)
    • キミトミノコシノリのアヤ(28.君臣遺し法の紋)
  • ヤのヒマキ(人の巻)
    • タケヒトヤマトうちのアヤ(29.神武大和討ちの紋)
    • アマキミミヤコトリのアヤ(30.天君、都鳥の紋)
    • ナヲリカミミワカミのアヤ(31.ナオリ神ミワ神の紋)
    • フジとアワウミミズのアヤ(32.富士と淡海瑞の紋)
    • カミあがめヱヤミたすアヤ(33.神崇め疫病治す紋)
    • ミマキのミヨミマナのアヤ(34.ミマキの御世任那の紋)
    • ヒボコきたるスマイのアヤ(35.ヒボコ来る角力の紋)
    • ヤマトヒメカミしつむアヤ(36.ヤマト姫、神鎮む紋)
    • トリあわせタチバナのアヤ(37.鶏合せ、橘の紋)
    • ヒシロノヨクマソうつアヤ(38.ヒシロの世、クマソ撃つ紋)
    • ホツマうちツズウタのアヤ(39.ホツマ撃ち、つず歌の紋)
    • アツタカミヨをいなむアヤ(40.アツタ神、世をいなむ紋)
 このホツマ伝えを学ぶことにより、上古日本語を知ることができる。同時に、その上古日本語が今なお現代日本語に脈々と受け継がれていることに驚かされる。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その6、「ホツマ伝え」と先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)、記紀史書との関係考】
 ところで、「ホツマ伝え」が古事記、日本書紀のいわば記紀原書の地位にあるとすれば、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)との関係はどうなるであろうか。これは非常に興味深い研究課題である。れんだいこは以下のように推定する。ホツマツタヱが孫引きした古代文書が更に先在する。これを仮に「古代文書X群」と命名する。「古代文書X群」は出雲王朝系の歴史書で、これこそ探し出さねばならない古代日本史の正統史書と思われるが焚書、消失、散逸により幻本となっている。

 景行天皇の御世になって、これを大和王朝の御代(みよ)用に焼き直して写筆したのが「ホツマ伝え」と考えられる。同時期に三笠紀(ふみ)、フトマ二も生まれている。問題は、「大和王朝の御代(みよ)用に焼き直して写筆したもの」が、「古代文書X群」に比してどの程度の改竄をしているのかにある。れんだいこは、国譲りの項の記述からして相当程度に筆が加えられていると読む。故に、ホツマ伝えさえ絶対視はしない。

 推古天皇の御代になって国史書の要請が強まり、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)が編纂された。先代旧事本紀は「古代文書X群」とホツマツタヱを元にして万葉仮名で清書されている。これが万葉仮名史書の嚆矢と思われる。この時点までは出雲王朝史を色濃く遺す史書となっている。

 673年、「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている、と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」との天武帝の詔(みことのり)で記紀の編纂が開始された。記紀の先後は確定し難いが一応、古事記を先とする。古事記は、「古代文書X群」、ホツマツタヱ、先代旧事本紀を踏まえて国史の体裁で書かれたものである。時の大和王朝は、出雲王朝系の故事来歴、史話が依然として多いことを気に召さず、さらなる御用史書の編纂を促した。こうして生み出されたのが日本書紀である。日本書紀の出雲王朝史の記録が滅法少ない理由はこれに拠ると推定される。先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)が記紀の削除した史実をカバーする形で編纂されていると推定できる。

 こういう流れになるのではなかろうか。これを古代文書の嫡系の歩みとしたい。傍系はこれまた尽きない。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その7、「ホツマ伝え」の内容考その1】

 「ホツマ伝え」の内容は、目録順に要約することで説明できる。但し、これをやると膨大になるので、ここではスル―する。ごく大雑把に概要を述べれば、日本の上古代史だけでなく、日本語原語とみなすべきヲシテ文字論、アワ歌48音論、マクラ言葉(枕詞)論、ヤマト言葉の語源論、和歌論、連歌(つづうた)論、暦法、宇宙観、自然観、それらと人間の関係論、生死論、女男論、皇室論、天皇論、天皇即位儀式論、国家論、統治論、三種の神器論、憲法論、国号論、歴代天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建の謂われ、祭祀論、言霊思想、禊法が記されている。個別的には乗馬法、各地の馬の品種論、技術論、葬儀法、結婚法、家族論、子供論、教育論、食事論、健康論、病気論、不幸論、治安論、犯罪論、刑罰論等々を多岐にわたって記している。

 史書的な意味では、出雲王朝論、国譲り論、神武東征論、大和王朝論についても記されている。但し、本書が大和王朝に差し出されたことからも分かるように、時の大和王朝に迎合的な記述に改竄されている。かく読み取りたい。これについては、「ホツマ伝え考その2、ホツマ伝えの観点考」で述べた通りである。

 以下、「ホツマ伝え」の要点を確認しておく。「ホツマ伝え」は、自然を構成するのは地(土)、水、火、風、空の五元素としている。この五元素はホツマ文字の母音(あいうえお)とも対応している。自然と人間の調和を尊重した優れた自然哲学を伝えている。宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされている。記紀にはこの下りの該当箇所がほとんどない。その他、記紀よりも内容に整合性があり、記紀に記されていない当時の出来事や人物の活動が高い整合性を持って詰め込まれている。天皇のイミナ(真名、実名、名前)なども知ることができる。真書であれば貴重な史料ということになる。記紀では天上でのできごとであるとされている神代の事柄が地上での実在の人物による出来事として記述されていることも注目される。

 「ホツマ伝え」は、天皇の本来の表記は「あめのしたしろしめすすめらぎ」で、あめ(宇宙)の構造や仕組み、法則性を正しく知り、政治を執り行う人と云う意味であるとしている。三種の神器について、「やたのかがみ」(八たの鏡)、「やさかにのまかりたま」(八坂にの曲玉)、「やへがきのつるぎ」(八重垣の剣)としている。記紀では、「やへがきのつるぎ」のところが「草薙(くさなぎ)の剣」となっている。これに、国を治める要諦を明らかにした「あめなるみち」を記す「みはたのふみ」(御機の文)が後継皇子に伝授されたと伝えている。これらを「ものざね」とも云う。

 「ホツマ伝え」の最大のハイライトは、天皇たるアマテラス(天照大御神)を男神アマテルとして語り、幾人もの妃がいたとしていることである。高天原が日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする東北王朝史を記している。「ホツマ伝え」のこの観点からの比較研究を進めている研究も存在する。これを仮に「ホツマ伝え=記紀原書派」と命名する。「ホツマ伝え=記紀原書派」は、「ホツマ伝え」を記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書の真書であると主張している。「ホツマ伝え」を真書とするならば、天照大神を始めとする記紀神話の神々は実在した人物だったことになり、神格化される前に人として生きた姿を最も正確に知ることができることになる。

 しかし、これはどういうことになるのか。仮に「ホツマ伝え」を真実とすると、記紀神話の高天原及び女性神としてのアマテラス(天照大御神)の位置づけ、その高天原族による国津族征伐の国盗り物語と云う構図そのものが破綻する。「ホツマ伝え」では高天原は国津族の神話上の聖地であるところ、その聖地たる高天原から降臨したとする記紀神話の構図そのものが怪しくなる。

 これにつき思うのに、「ホツマ伝え」の伝の方が正しく、高天原は出雲系国津系神話の中で捉えねばならないのではなかろうか。と云うことは、記紀神話とは、後の大和王朝の王権、皇統譜を正当化させる為にかなり悪辣な日本神話偽造改竄を仕掛けているのではなかろうか。大和王朝の王権、皇統譜の真実は、恐らく朝鮮経由外航族の来襲からもたらされており、その剥き出しの征服史を誤魔化す為に、敢えて日本神話の核である高天原及びアマテラス(天照大御神)から紐解いて皇統を正統化させるフィクションを考案しているのではなかろうか。その上で、出雲王朝の国譲り、二二ギの尊の天孫降臨、神武天皇東征譚と云う史実の正統化を図っているのではなかろうか。この流れに邪馬台国興亡史が関わっている。

 これを要約すれば、恐らく朝鮮経由外航族の来襲の不当性を隠蔽する為に、出雲系国津系の日本神話上の聖地を史書的に簒奪した上で、その聖地からの正統なる王権を委譲されたと云う立場で、征服史を聖戦化しているのではなかろうか。ちなみに、三輪流神道の伝承では、「伊勢のアマテラスと三輪の大物主神は元々同一であった」としている。謡曲「三輪」は、この説を「これほど明確な事実をなぜあらたまって云う必要がありませうか」とまで云ってのけている。この視点は、日本古代史の構図をひっくり返すことになるだろう。こういう観点を与えるのが「ホツマ伝え」であり、これを「ホツマ伝えの衝撃」と受け止めるべきだろう。


【「ホツマ伝え」考その7、「ホツマ伝え」の内容考その2】

 他にも、記紀に比して、記紀に記述のない日高見、筑波山、原見山(富士山)その他の記述があるのが目を引く。出雲王朝御代の日本列島各地の国及び宮の様子が言及されていることも銘記に値する。これを1文から確認するのに次のような山、国名、宮、が登場している。

 1文では、住吉(スミヱ)、伊雑(イサワ)の宮、紀志伊(キシヰ)国、天日(あひ)の前宮の玉津宮、和歌の国。
 2文初見では、越国、ヒナルの岳の神(かん)宮、近江(おうみ)安曇(あずみ)、ヤマト日高見、月隅葦原、阿波ソサ、ヤマト細矛チタル、オノコロ、山陰(ヰノクチ)、ササケ山。
 3文初見では、ヤマト秋津洲、淡路島、伊予、阿波、隠岐、筑紫、吉備の児島、佐渡、大島、原見の宮、大日山、ソサ国、熊野宮、筑波山、天の原見宮、淡路ツキスミ宮、熊野宮。
 4文初見では、高マ、ホツマ国、原見山(蓬莱山)、香久山、葛城(かつらぎ)の斎鳥(いとり)山、越根の国、葛城山、ケタツボのヤマテ宮、天つ宮。
 5文初見では、オト橘の阿波き宮、ソアサ国、有馬、阿波宮。
 6文初見では、大山、日高見の靖国の宮、宗像安曇、宮津、朝日宮、千足国、沖津島、江津の島、市キ島、橘の宮、大内宮、多賀。7文初見では、香久宮、根の国、白山、アカツチ宮、宇佐の宮、沖つ島、相模江の島、厳島。
 8文初見では、立山、アノ(安濃)、百笹山、猿去沢、二岩浦、高野。
 9文初見では、サホコの宮、出雲、細矛国、央州(あわしま)、玉津島。
 10文初見では、タカの首、多賀若宮。
 11文初見では、壺若宮、
 12文初見なし。
 13文初見では、筑波塩竈、伊勢、淡路、箱根。
 14文初見なし。
 15文初見なし。
 16文初見では、葛城斎鳥山、鹿島宮。
 17文初見なし。


 鳥居礼・氏の「言霊さきはふ神代の秘史 増補完訳 秀真伝」(八幡書店)は次のように解説している。

 甦る超古代伝承

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』はヲシデ(秀真文字)と称する独特の神聖異体文字で記された五・七調の長歌体叙事詩による神代の歴史秘書。全編40紋(章)からなり、そのうち前編28紋は神武天皇の勅命により大物主櫛甕玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)が撰集し、また後編は景行天皇の御代に大直根子命(おおたたねこのみこと)が完成したものとされる。その成立および伝承の過程については今なお深い謎に包まれているが、伝説によれば、かの弓削道鏡の焚書を逃れ、大加茂臣赤坂彦に伝えられ、江戸天保年間の頃まで大物主櫛甕玉命78世の孫である和仁估(わにこ)家に一子相承の秘書中の秘書として相承された後、近江国高島郡産所村(現在の安曇川町)の三尾神社に神宝として宝蔵されるに至った。

 日高見王朝の謎

 ホツマ神話によれば、日本列島には「壺」とよばれる3つの聖地がある。すなわち琵琶湖瀛の壺、富士山逢の壺、仙台の方の壺である。このうち方壺の仙台を中心とする一帯が、7代の天神によって開闢された最古の日高見国であり、地の高天原とされ、その中心は、多賀城跡付近に求められる。最近の丸山古墳の発掘など考古学的にも縄文期の古代東北が先進地帯であったことがわかってきたことから、日高見王朝伝承を根幹とするホツマの伝承資料としての意義がいよいよ高く評価される。なお、津軽神話によれば多賀にアラハバキ王のハララヤが置かれたという伝承があり、また聖地を「壺」とするホツマ伝承と、坪の石文伝説(東北のどこかにあるとされる日本中央の碑)との関連などが注目される。また、ホツマでは国譲り後の大国主命が津軽のアソベの森に隠棲したとされることもじつに重大な伝承である。

 宇宙樹「天の真栄木」の謎
 ホツマによれば、天地開闢の時に遡る天の真栄木という樹齢6万年の霊木があった。この宇宙樹は、60年に一本の枝を生じ、6万年で実を結び、枯れるとそのつど植え継がれた。50代目の天の真栄木は神武天皇の即位の頃まで存在したが、そのまま実を結ぶことなく絶滅した。つまり神々の時代の終焉とともに、この霊木も絶滅したのである。これは霊主体従の時代から体主霊従の時代への宇宙的時間軸の転換を意味しているとも考えられる。
 
 東西分治伝承
 ホツマ神話によれば、ニギハヤヒは、仙台の日高見国を進発し、鹿島から舟で難波に上陸し飛鳥宮に君臨。これに対して、ニニギ命は筑波に新治宮を造営、さらに太古からの聖地・逢壺の富士山麓に移り、一大灌漑工事によって富士五湖を造成したという。このような王統並立と東西分治の伝承は、富士文献における国常立尊の丹波桑田宮と国狭槌尊の富士阿田津宮との関連を想起させ、記紀神話の固定的な王統伝承とはまったく異質の王権伝承が、民族の太古的記憶の深層に刻印されてきたことは興味深い。
 古神道伝承の宝庫
 またホツマには古代科学や呪術に関する記述が豊富にあり、そのなかには卵子の回転数など現代科学と正確に一致すると思われるものがある。また西王母説話など神仙道系の伝承の混入、流された蛭子が金折命に拾われて養育され美しい女神になったという特異な伝承、天照大神が男神で13人の后があったとする伝承、さらに撰録者が三輪山の祭祀にかかわるオホ氏の出身であることやその浮上出現過程における謎など、その全貌は本書『完訳・秀真伝』においていよいよ開示されるのである。

【「ホツマ伝え」考その8、「ホツマ伝え」と大祓い祝詞の相関考】
 さほど指摘されていないと思うが、「ホツマ伝え」と大祓いの祝詞がハーモニーしている。記紀の観点から大祓いの祝詞を読むと解せない個所が数か所あるが、「ホツマ伝え」に照らせばすんなりと理解できる。このことは、「ホツマ伝え」の実書性を証左していないだろうか。

 古史古伝偽書論が学会の主流であるが、れんだいこは違うと思う。仮にそういう箇所があったとしても、筆写の時点での書き換え等に原因を求めるべきであり、むしろ書き換え者が下敷きにした原本があったことを窺うべきではなかろうか。書き換えカ所の指摘でもって偽書説で得心できるものは、よほど幸せな者ではなかろうか。書き換えカ所があろうがなかろうが、古史古伝の伝える内容の精査にこそ向かうべきではなかろうか。内容のお粗末さの指摘でもって初めて偽書説が有効になるとすべきではなかろうか。入り口段階での偽書説論で中身の精査に向かわないのは、粗脳特有の悪しき学風と云わざるを得ない。

 2011.10.17日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その9、「ホツマ伝え」と本居宣長式古事記読みとりの相関考】
 「ホツマ伝え」を学んで思うことは、本居宣長の古事記論との関係である。本居は、古事記を学ぶことにより、日本の心を復元させようとした。ならば、古事記よりも「ホツマ伝え」を学んだ方がより良く分かるのではなかろうかと思う。本居は、「ホツマ伝え」にどう対していたのだろうか。ホツマ伝えそのものを知らなかったのだろうか、それとも無視したのだろうか。敢えて「ホツマ伝え」を却下し、日本書紀ほどではないにせよ大和王朝御代を称える古事記を良しとしていたのだろうか。興味の湧く課題である。

 2011.10.17日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その10、「ホツマ伝え」転写考】

 九鬼(くかみ)文書によれば、仏教伝来時の物部-蘇我の抗争時に多くの国書が焼かれ、貴重な古伝承が失われた。全編12万余字から成るホツマ伝えは、大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の地で密かに伝承され、江戸時代に大物主櫛甕玉命78世の子孫にして三輪神道系の三輪安聡(和仁估安聡、わにこ・やすとし)の手になり、徳川時代の安永年間(1772-1780年)まで家宝として所蔵していた。和仁估家に後嗣がなかったので近江国三尾神社に奉納したという。書名が「秀眞政傳紀」とされている。

 高島郡誌(大正15年)によれば、和仁估(三輪)容聡(わにこ・やすとし)は山伏修験者として安曇村田中横井川または三尾川(現滋賀県高島郡安曇川)に住みつき、本名は井保勇之進で、子孫は安曇村西万木にあるとしている。安永年間に滋賀県高島郡安曇川近辺の神社の本土記を書いたと云う。なお、進藤孝尚の息子「万木森薬師如来縁起」によれば、容聡の先祖に大鶴軒孝阿(伊保坊23代)がいるとされる。

 1779(安永8)年、春日山紀(溥泉)に「秀眞政傳紀」が引用されている。1793(寛政5)年、和字考(園城寺住職の敬光)に「秀眞政傳紀」が引用されている。この時期まで、近世の国学者・平田篤胤の懸命な捜索にもかかわらず見つからなかった幻の書であった。

 野々立蔵が明治22年に著した「秀眞政傳紀傳來由緒書」によれば、1830(天保元)年、近江高島郡藤田家において伊予宇和島小笠原一族にして京都天道宮神主であった小笠原通當(みちまさ、吉田神道)によって「秀眞政傳紀」が発見された。小笠原通當が1843(天保14)年に著した「神代巻秀眞政傳紀(10巻)」が1851(嘉永4)4年に出版されている。以来、小笠原家に伝えられてきた。1874年、小笠原通當の甥の小笠原長弘氏が、「ホツマ伝え」を筆写して宮中に捧げることを試みたこともある。この写本は別名「奉呈本」と呼ばれている。小笠原家では江戸末期から大正年間まで秀真伝の研究が続けられたが、その後は中断状態になった。


【「ホツマ伝え」考その11、「ホツマ伝え」発見、研究史考】

 1966(昭和41).8月、自由国民社の編集者であった松本善之助(まつもとよしのすけ、1919-2003年)が東京神田の古書店で偶然発見したとされているが、平田篤胤が「神字日文伝」(文政2年)の巻末の「疑字篇」に示した出雲に伝わる秀真伝(ホツマツタヱ)の写本と明治初めの国学者・落合直澄(1840 - 1891)が書いた解説書を入手する。この時は、「ホツマ伝え」全40綾のうち3綾(小笠原長武、奉呈本)しか発見できなかった。

 松本氏は懇意だった国語学者と古代史の大学教授にホツマツタヱを知らせたが、けんもほろろな応対であった。しかし、松本氏のホツマツタヱ研究は嵩じ、それまで発行していた月刊誌「盲人に提灯」を「ほつま」と改題し、「ホツマツタヘ発見物語」を三回に渡り連載した。連載が終わると「ほつま」を休刊し三年間の蟄居生活に入った。これを機に、「盲人に提灯」読者に対しホツマツタヱを共に読むことを提案し、これに応じた仙台・東京・名古屋、少し遅れて大阪で月一回のホツマツタヱ研究会が発足した。この間、松本氏はホツマツタヱ情報を求めて各地をあたり始めた。

 1967(昭和42)年、松本氏が四国の宇和島の旧家小笠原家分家(小笠原長種宅)で全40アヤ完本を確認する。これを「小笠原長弘本」と云う。(ホツマツタヱ17アヤ-40アヤとフトマニ全巻(小笠原長武本)を発見した、との記述もある)。この完本の元本は、江戸時代末期の天保14年、四国宇和島の住人小笠原通当(みちまさ)が近江三尾神社の神宝を転写した「神代巻秀真政伝紀」12巻だったと云う。「秀真政伝紀」(ほつまつたゑ)は、三輪氏78世の裔孫という和仁估安聰(わにこやすとし)によって書き記されたものである。小笠原通当(みちまさ)の一族の長弘、長武らが世に出そうと図ったが受け入れられなかった。同年、フトマ二全巻を発見している。

 松本氏はそれまで「現代用語の基礎知識」や「現代の経営(ピーター・ドラッガー)」などの出版事業に深く携わっていたが、「ホツマ伝え」との出会い以来、写本の発見とその校正、読解に心血を注ぎ、古事記・日本書紀との三書対照を踏まえて、「ホツマ伝え」こそが記紀の原典であると確信するに至った。

 同時期に旧家小笠原家分家(小笠原長恭宅)でホツマツタヱ全40アヤ(小笠原長弘本)も相次いで発見する。

 昭和40年代の初め頃、ホツマ文字で記された大量の古代文書が福島県の山深い谷あいにある古い温泉宿で発見された。この文書は現在、宮内庁で保管され解明中の模様であるが、まだ発表されていない。

 1971(昭和46).6月、松本善之助氏が「覆刻版ホツマツタへ」(小笠原長弘本)を出版し世に打ち出した。同書はホツマツタヱ研究発展に重大な影響を与えた。また、内閣文庫に完写本(「内閣本」と呼ばれる)が所蔵されていることも判明した。

 1972(昭和47)年、池田満・氏が、松本塾に入門。記紀との比較、系図、年表などの基礎研究に没頭する。

 1973(昭和48)年、滋賀県高島市の野々村直大宅で、ミカサフミ9アヤ分(三輪容聡直筆)」とフトマニの異本を入手する。(ミカサフミ8アヤが発見された)。これを「和仁估安聡(わにこやすとし)本」と云う、とある。  

 1973(昭和48)年、松本善之助氏が「ホツマツタヘの成立(本文篇1)」(ホツマツタへ研究会刊)を刊行した。

 1974(昭和49)年、研究誌「ほつま」が刊行された。この年から平成6年まで248号を数えている。

 1978.3月、僧・薄泉(フセン)自筆の朝日神紀を発見する。

 1979年、松本善之助が「ホツマ入門」 (ホツマツタエ研究会)を刊行した。

 1980(昭和55)年、「トシウチ二ナスコトノアヤ」(*泉旧蔵書)が発見された。 

 1980(昭和55)年、松本善之助氏が「秘められた日本古代史」(毎日新聞社)を刊行した。

 1984(昭和59)年、松本善之助氏が「続、秘められた日本古代史ホツマツタヘ」(毎日新聞社)を刊行した。

 1985(昭和60)年、鳥居礼・氏が、「言霊ホツマ」(たま出版)を刊行した。

 1987(昭和62)年、鳥居礼・氏が、「神代の風儀(てぶり)」(たま出版)を刊行した。

 1988(昭和63)年、鳥居礼・氏が、「完訳秀真伝(上下)」(八幡書店)を刊行した。

 1989(平成元)年、鳥居礼・氏が、「ホツマツタへ入門」(東興書院)を刊行した。
 
 1991(平成3)年、池田満・氏が、「ホツマ神々の物語」(長征社)を刊行した。同年、鳥居礼・氏が、「神代巻秀真政伝」(東興書院)を刊行した。 

 1992(平成4)年、安聡末裔の井保家第21代(分家第3代)の井保孝夫氏が氏子総代として、他の三人と共に、氏神様の諸行事に携わる準備の折り、蔵奥の雑然とした棚に、昔の祝詞や壊れた馬具などに混じって置かれている古い木箱を見つけた。蓋の埃を払うと、墨字で「秀真政傳紀 人の巻き八冊」と記されており、箱の中には和綴じの書物が八冊入っていた。その一冊を取り出して開くと、神代文字と漢字ばかりで書かれていた。井保孝夫氏の脳裏に、「ホツマ」のことが思い浮かんだ。本家の井保吉平翁に聞いた事があったからである。驚いた井保孝夫氏が、三人の了解を得て、基地平翁を訪ねると、「これは貴重なものが出て来た。もう他にはなかったか?」と問われ、翁の指示で蔵へ引き返し、再度棚の屋を探してみると、埃にまみれた同様の木箱がさらに二つ出てきた。こうして、三輪(和仁*)安聡の自筆によるホツマツタエ(秀真政傳紀)の原本三箱(天、地、人各8冊)が、滋賀県高島市安曇(あずみ)川町日吉神社(祭神/ニニギノミコト)の御輿蔵より発見された。

 同年5月、滋賀県高島市安曇川町西万木在住の安聰の子孫にあたる井保吉兵、孝夫両氏からの連絡により、松本善之助氏と池田満・氏が滋賀県高島郡安曇川町鎮座日吉神社に出向き、神輿庫で秀眞政傳紀(和仁估安聰自筆漢訳付)全40アヤの完本を確認した。御輿庫の棚の奥に3cmほど埃りが積った桐細工の箱が三つあり、埃りを払うと秀真の文字が現われた。ホツマ伝えの別系統の写本であり、これを「容聡本」と云う。長弘本と異なり、ヲシテ(ホツマ文字)に漢字の訳が添えられた構成になっていた。この発見によって、1874年に時の政府へ奉呈を試みたとされる長弘本は、容聡本を基にしてヲシテ(ホツマ文字)のみで書かれた漢訳の付いていない写本という位置づけになることが判明した。

 1993(平成5)年、池田満・氏が、「和仁估容聡本ホツマツタへ」(ホツマ刊行会、新人物往来社)を復刻刊行した。 「ほつまつたゑ 全」はこの安聰本と底本として原文対照の現代文による訳文を掲げたものである。松本氏が「ホツマ古代日本人の知恵」(渓声社)を刊行した。

 1995(平成7)年、鳥居礼・氏が、「秀真伝が明かす超古代の秘密」(日本文芸社)を刊行した。

 1999(平成11)年、池田満・氏が、「ホツマ辞典」(展望社)を刊行した。同年、「校註ミカサフミ・フトマ二」(展望社)を刊行した。「合本ほつま」(月刊「ほつま」の合冊本、渓声社)が刊行された。

 2001(平成13)年、池田満・氏が、「ホツマツタへを読み解く」(展望社)を刊行した。

 2002(平成14)年、池田満・氏が、「定本ホツマツタへ」(展望社)を刊行した。容聡本を含む公開された全ての写本を校正し、記紀との比較対照を可能としている。

 2003(平成15)年、池田満・氏が、「縄文人のこころを旅する」(展望社)を刊行した。

 2003.4.7日、松本善之助氏逝去。松本氏のホツマツタヱへの情熱は最期まで尽きず、全国のホツマツタヱ研究会での講師、刊行物への原稿の依頼、ホツマツタヱのゆかりの地での講演などで多忙な人生を送った。

 2005年、11月、鳥居礼・氏が「ホツマ物語―神とオロチ」 ( 新泉社 、2005.11月)を刊行する。

 2009(平成21)年、池田満・氏監修で、青木純雄、平岡憲人著「よみがえる日本語―ことばのみなもと『ヲシテ』」(明治書院)を刊行した。

 四国・徳島邪馬台国研究学会の邪馬台国学術研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰/友行安夫(記) によると概要以下の如くに記されている。これを記録しておく。
 天照大神の秘宝!https://stonesstones.thebase.in
 天長二年(825年)に「教王護国寺」の管長になっていた空海が「阿波国太龍寺縁起」を著わし、「ホツマ国はここにあり」と書き残している。阿波には「阿波国歴史書」が見つかっていない代わりに「ホツマツタエ」が遺されている。残念なことに阿波・德島では「古代史研究家」等も含めて余り知られていない。「ホツマの国」は、「大国主」が「天照大御神」に変わり「国作り」を始めた「阿波海岸地帯」である。その国は「長の国」とも言われ、「辰砂(水銀)」の採取される「豊かな国」であった。この「豊かな国」であった「ホツマ国」には「いつも(出雲)」と言われた地区が残っている。「ホツマ国」が、「大国主」の「国作り」の「本拠地」であったことが伺われる。この地が「ホツマツタエ」発祥の地であったことになる。

 「ホツマツタエ」の元本は、「邪馬台国四国説」が残る愛媛県宇和島市にて発見されている。又、「ホツマツタヱ」の遡れる写本には二系統あると言われる。その一つが「安聰本」である。もう一方のものは「空海(弘法大師)」と関わりがあると見られる奈良の「僧溥泉本」である。「安聰」と縁のふかい「井保家」からも「ホツマツタヱ」が見つかっているという。これらの「ホツマツタエ」や「阿波国物語」の記事等は、尼崎の「友行神社」周辺を開祖した「先祖友行」の「文書」(もんじょ)から代々受け継がれた口伝を元に記事にしている。

【「ホツマ伝え」考その12、「ホツマ伝え」真書説考】
 ホツマツタヱは、日本肇国歴史を古代ヤマトの文字と言葉で綴った全編一万行をこえる一大叙事詩である。それは単なる歴史書ではなく、祭政思想の書として天地創造、人類誕生の哲理と過程、国の形とそのあり様、夫婦の務めから子どもの教育の基本的考え方までも教えている。この書に於いて、日本の文化、言葉、地名、風俗、習慣、行事などについての起源、成り立ち、神社の由緒など百科事典といってもよいほど多くの事柄が記載されている。「ホツマツタヱを学ばずして日本文化を語るなかれ」と言いたくなるほどの濃密な史書である。しかしながら、ホツマツタヱ及びその関連史書は、奈良時代の壬申の乱(西暦672年)の後、古事記、日本書紀の編纂による歴史改ざんの折、禁制の書として隠されてしまった。この時、三輪氏のホツマツタヱ執筆派がこの歴史改ざんに反対して野に下ったものと考えられる。三輪氏の名はこの後、ふたたび歴史の表舞台に登場することはなかった。しかし、その子孫たちはひそかにホツマツタヱを書き継ぎ後の世のため残してきた。
 「ホツマ伝え」真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。12世紀初頭に成立した類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)などにヲシテに関する記述が認められると理解して、「ホツマ伝え」は少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡、小笠原通当等が真書であると主張した。真書であるとする研究者は、日本の正史を再確認できるだけでなく、日本が当初から立憲君主国であったこと、神道の教義や日本の建国の理念、皇室の発祥が明確になり、各地の地名のいわれや、古い神社の祭神を正確に知ることができ、また漢字や漢文の影響をうけない大和民族固有の哲学を知るよすがとなる可能性があると主張している。

 近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、「ホツマ伝え」が再発見された1966年以降である。諸写本の校正、「古事記、日本書紀、ホツマツタヱ」の三書比較、「ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ」の総合的検証が進められつつある。「ホツマ伝え」には、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また江戸時代に漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもある。現本のその成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。

 完本として公開されている写本は次の通り。

 和仁估安聡(わにこやすとし)本。写本自序によると1775(安永4)年とある。1992年に発見され、「和仁估安聡本ホツマツタヱ」として印影版が市販された。現在につたわり公開されている写本すべての親本でカタカナ表記となっている。

 小笠原長弘本(ながひろ本)。1900(明治33)年頃の写本とされる。1967年に発見され、「覆刻版ホツマツタへ」として市販された。抜け行の多い写本。特殊ヲシテ表記が少ない。古い濁音表記が少ない。数詞ヲシテ(数詞ハネ)の表記が少ない。13アヤで8行、16アヤで8行の抜け個所がある。

 国立公文書館所蔵本。明治期の1868-1921年頃の写本で、国立公文書館で閲覧できる。小笠原長武本と同等。数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。

 漢字で記された記紀の編纂は、渡来人の指導の下で行われたことが判明している。「ホツマ伝え」を真書であるとする研究者は、記紀の編纂を指揮する渡来人に対して、ヲシテ(ホツマ文字)で書かれた「ホツマ伝え」の内容が分かるように漢文に仮翻訳した編纂用の資料が作成され、それをもとに記紀を編纂したのではないかと推測する者もいる。

【「ホツマ伝え」考その13、「ホツマ伝え」偽書説考】

 「ホツマ伝え」を偽書とする者もいる。その理由として、以下の根拠を挙げている。

 「ホツマ伝え」は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であるのに対して不自然である。
 漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章と思えない。
 序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ている。
 「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくる。
 秀真文字による花押が存在するが、花押は950年以降に登場する。
 秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され五十音図の存在を前提としているが、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくい。

 これらの理由から偽書であるとしている。明治以降の歴史学、日本語学等の学界においては、清原貞雄、武光誠、飯間浩明らにより江戸時代の神道家によって作成された偽書であるとされている。

(私論.私見)

 これについては追々に反論することにする。今は研究の方で忙しいからである。

 2011.11.18日 れんだいこ拝





(私論.私見)