角栄を取り巻いた人士たち |
更新日/2016.10.17日
(れんだいこのショートメッセージ) | |||
角栄は、実業界から政治家へと転身し、いつの間にか類稀なるリーダーとして孵化した。これを史上の人物に当てはめて見れば、戦国武将の豊臣秀吉像的成り上がりとアイディア、織田信長的果断と構想力、徳川家康的信義と組織力を兼ね備えた特筆級の大人物だったと思われる。その欠点を敢えて言えば、突出しすぎていたが故に角栄と伍して肩を組む戦友が少なすぎたことかと思われる。 こうした特質をもつ角栄は、「情と利」、「抗して和す」の政治を貴重としつつ、持ち前の人間透視術と人心収攬(しゅうらん)能力で、有能の士をひたすら寄せていった。以下がその人士達である。 太田龍・氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
2006.3.13日再書き込み れんだいこ拝 |
【目白邸】 |
政界では、派閥の領袖に対し私邸の地名が隠語になって使われている。吉田茂は大磯、池田隼人は信濃町、佐藤栄作は淡島、田中角栄は目白。この地は元々は角栄の故郷である二田村の旧領主・椎谷(しいや)藩堀屋敷跡だった。この目白の田中邸の敷地面積は2575坪(約8500u)、「目白御殿」と呼ばれた。角栄の死去後、60億円以上の相続税が発生し、現金納付困難の為、真紀子夫妻は敷地の一部を物納した為、その部分が目白台運動公園となっている。 |
【秘書】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
角栄には日本一といわれた「秘書軍団」がいた。最盛時、秘書は千人を超えていた。これを確認する。他の代議士事務所の秘書が比較的よく替わるのに対して、田中の秘書で途中で止めた人はあまりいない。
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【4、書生】 | ||||||||||||||||||
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【5、官僚】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「角栄は、システムとしても思考形態としても日本人の骨がらみになっている官僚主義と官僚制度を相手に、あるときは彼らを敵に回し、あるときは逆手にとり、またあるときには彼らを丸ごと味方につけ、驚くべき多くの政治的業績をあげた」(新野哲也「だれが角栄を殺したのか」83P)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【6、弁護士】 | ||||
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【7―1、政治家その1】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「田中派の流れ、『七日会』」に記す。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その殆どが党人派である。これを確認するのに、元帥/木村武雄。仲介役/西村英一、橋本登美三郎。腹心組/二階堂進、小沢辰男、久野忠治。政策面/愛知揆一、木村俊夫。花形スカウト組/江崎真澄、小坂徳三郎。官僚抜擢組/後藤田正晴。後継プリンス/山下元利。将来の後継者/小沢一郎が傑出している。
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【7―2、政治家その2、44年当選組の角栄チルドレン】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1969.12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙、佐藤首相、田中角栄幹事長)。沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は44議席失い90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。田中角栄は10期目当選、13万3042票。 この時、羽田孜・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らが初当選している。渡部恒三は追加公認。これらの新人組が当然の如く田中入りして「44年組」と云われる軍団になった。浜田幸一もこの時の当選組み。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが、福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると、史上空前の105名となった。 「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた(社労党「日本社会主義運動史」)。 |
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【7―3、政治家その3、】 |
【9、マスコミ】 |
戸川猪佐武 長年読売新聞政治部記者。「小説吉田学校」で、政界万華鏡の史的世界を描いた。 |
松崎稔 元共同通信社専務理事 「田中が成し遂げた日中国交正常化は、冷戦下日米中の二等辺三角形を作り上げ、アジアに平和と安定をもたらした。他に比べようがない平和への貢献である。政治家・田中角栄は必ず見直される時が来る」。 |
【10、芸能人】 |
美空ひばりと誼を得て、昭和43年12.11−12日、新潟県長岡市の厚生会館で「美空ひばりショー」を開催している。「ひばりさんなら、当然ここは数百万円は覚悟のところ、ところが、当時まだお元気だったひばりさんのお母さんがキッパリとおっしやられたんですね。『一銭もいりません。但し、弟に30万か50万もやってください。おカネを使う子ですから』と。結局、ひばりさん自身はノーギャラで出てくださった」(本間幸一秘書)。 |
【11、カメラマン】 |
山本こう一 |
(私論.私見)