【郵政省関係】 東京タワー建設

 更新日/2018(平成30).11.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄の郵政大臣就任と歩を合わせてこの頃、東京タワー(正式名称は日本電波塔)の建設が始まっている。これを確認しておく。ここでも角栄の名采配が確認できる。ウィキペディア東京タワー」その他参照。


【東京タワー建設事情】
 昭和30年代前半、テレビ局の電波塔が6箇所あったが、それを1つにまとめる構想が持ち上がった。郵政省が総合電波塔の構想をしていることを知り、名乗りを上げたのが「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉だった。千葉県にある”マザー牧場”の企画創設者でもある。1957年5月、前田久吉が日本電波塔株式会社を設立し総合電波塔建設にゴー発信させた。日本電波塔は、エフエム東京(TOKYO FM)の大株主(学校法人東海大学に次ぐ第2位)でもある。Kiss-FM KOBE破綻による新会社・兵庫エフエム放送にTOKYO FMとともに19.2%を出資。またエフエム大阪の株式20%も2010年10月1日現在、日本電波塔名義となっている。

【東京タワー建設経緯】
 建築設計は、構造学を専門とする学者で、戦艦大和の鉄塔や名古屋テレビ塔や大阪の通天閣の設計も行い さらに数十本におよぶラジオの電波塔を設計した実績があり、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲(たちゅう)及び日建設計株式会社が共同で行った。東京全域に電波が届くようにするためには高さが必要だった。当時、エッフェル塔の高さが312m(現在は放送用アンテナが設置されたため324m)。この高さを意識して、前田久吉は、「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。千三百余年も前に既に高さ57m余もある立派な塔(五重塔)が日本人の手でできたのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張し、設計の条件として提示したのは、アンテナを含めた塔の高さが380mで、高所に展望台を設置し、塔の下に5階建ての科学館をつくることを挙げた。

 但し、高さを380mとして計算すると風の影響でアンテナが数メートルも大きく揺れ画像が乱れる可能性が高かった。このため、先端のアンテナの揺れを数十cm程度に抑え、放送に悪影響が起きず且つ関東地方全部を守備範囲にできるぎりぎりの寸法についてさまざまに計算したところ「全高333m」という数字が導き出され、偶然「3」が続く語呂合わせのような高さになった。こうして東京タワーの高さ333mが決まった。この高さはフランス・パリのエッフェル塔の312mより21m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高という条件を満たしていた。

 建設後、電波塔集約で不満をもつ読売グループ(読売新聞、日本テレビなど)などから「エッフェル塔の猿まね」と批判されたが、内藤は「ある人はエッフェル塔そっくりだという。これは人が人に似ているというようなもので、一理ある見方ともいえよう。私としては端然とした姿である。この塔が好ましいと思っている」と答えている。構造美については「タワーの美しさについて別に作為はしませんでした。無駄のない安定したものを追求していった結果できたものです。いわば数字のつくった美しさとでも言えましょう」と答え、批判に対して反論するような不毛な議論は一切しなかった。

 内藤は当時話題を提供していたドイツのシュトゥットガルトテレビ塔(216.6m)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行うが、特に基礎に関して敷地の関係などかなりの困難が伴うとの判断から鉄塔で計算を進める方針となった。当初は最上部で風速90m、下部で風速60mの強風と大地震(同タワーの耐震設計で考慮された水平震度は0.99Gで関東大震災時に小田原付近で推定された加速度の約2倍に相当)に遭遇しても安全な様に、軽量化に有利な電気溶接ではなく重量がかさむが当時では確実な技術としてリベットによる接合での構造設計がなされた。風力係数は当時の建設省建築研究所の亀井勇教授に依頼し風洞実験を行った。地震力はまだ静的解析の時代であり、鉄塔では風圧力の方が支配的であったこともあり建築基準法の地震力算定法通りk=0.16+h/400を水平震度として適用した。解析、計算は全て手計算でトラスの解法として一般的であったクレモナ図解法とカスティリアーノの定理が使用された。

 構造計算書の最終チェックは自身の設計事務所の田中彌壽雄、日建設計の鏡才吉とともに熱海にある早稲田大学の保養所「双柿舎」に3日間缶詰状態で行われた。設計を終えた内藤は「どうかね、こんなに素晴らしい眺めはない」と言った。後に立体骨組モデル応力解析ソフトウェア“FRAN”で耐力を検証しているが、かなりの精度で一致していた。また加藤勉(東京大学名誉教授・(財)溶接研究所理事長)による「東京タワーの構造安全性について」(2007年)によって、東京タワーの構造の信頼性は高いという第三者評価を受けている。当時の建築基準法では建築物の高さは最大100尺(約31m)以下と決められていたが、タワーは工作物と見なされ建築が可能となった。当初、地上約66m付近にビアレストランを設置する計画だったが実現しなかった。これは、レストランにすると建築基準法に抵触したためと考えられている。


【東京タワー建設に於ける田中角栄の後押し】
 2014/3/15(「『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』読みました」を転載し、コメントをつける。
 昭和の政治家としては、抜群の知名度を持った政治家です。総理になった時には「今太閤」と言われ、ロッキード事件の時は「金権政治」と言われ、その後は「闇将軍」と言われた政治家ですが、実際にはどんな人物だったのか、以前から興味があったので読んでみました。

・出身は新潟県柏崎市(旧刈羽郡二田村)。いきなり東電の原発あるところじゃないですか。あの原発は角栄が誘致したんですなあ(れんだいこ注/これは言い過ぎの間違い。角栄の直接的な関与は認められない)

・父は角次、母はフメ。父は牛馬商(牛や馬を売り買いする博打性の高い商売)、母は百姓で「いつ寝るんだろう」と言われるくらいの働き者。角栄の商売上手、勝負強さ、勤勉さはこの両親のDNAだと。

・尋常小学校しか出ていないというのは事実。学校の成績は非常に優秀で、8年間ずっと級長を務めていたらしい。その時の校長先生は、初めて角栄が地元から選挙に出た時、人脈を持たない角栄にかわり率先して選挙運動に走り回ったとのこと。角栄にとっては終生の恩人だと。

・小学校卒業後、土木工事の作業員(土方)として働く。そこで先輩から、「パナマ運河を開いて太平洋と大西洋を繋いだり、スエズ運河で地中海とインド洋を繋いだのもみんな土方だ。だがら土方は地球の彫刻家だ」という話に感激し、後に国会議員になった時も「土方代議士」と自称。

・その土方仕事で認められ、地元出身の名士の書生として東京の学校に行けると言う話になって上京。しかしその名士の家にたどり着いて面会をこうと、「殿様はもうお休みになりました。そんな話は知りません」との一言で書生の夢は破れる。それでも伝手を辿って住みこんだ町工場で、昼は働き、夜は夜学に通い猛勉強する。

・その後、雑誌記者、貿易商と職を替えながらも、「広辞林やコンサイスを一枚ずつ破いて、暗記したら捨てる」やり方で猛勉強をする。

・19歳で「共栄建築事務所」の看板を掲げて独立。偶然再会した先の地元の名士の殿様からの仕事をこなし、日中戦争が始まり、軍需用の機械を設計、製造して事業を成功させる。

・やがて徴兵されて満州に。そこで兵隊たちの兵站(食料や生活用品)徴収、管理の才能を発揮。しかしやがて肺炎となり内地に送り返され除隊。

・戦後に結婚。奥さんの名前は「はな」。「出て行けといわぬこと、足げにせぬこと、将来二重橋を渡る日があったら(=皇居に渡る)、同伴すること。それ以外は、どんなことにも耐えます」というのが奥さんとの結婚の際に要求された誓い。角栄はその後、いろいろなところでただならぬ女性関係を持つが、この誓いだけは終生守った。

・28歳の時、新潟の地元で立候補して初当選。その選挙で群馬から中曽根康弘も同じく初当選。角栄は最初の国会で「日本の寒村地帯に東京への直通道路を造り、工場を誘致し、ダムを造るべき」と日本列島改造論の原型を演説。中曽根は「天皇制を維持し、民族の個性と伝統を守りながら独立に向かうべし」と演説。

国会議員になってすぐに角栄は逮捕される(れんだいこ注/「すぐ」と云うほど短期ではない。然るべき活動後のGHQ采配による政略絡みの逮捕であった)。当時国会で法案成立を目指していた「石炭国管法案」に反対する目的に、炭鉱会社から多額の運動資金が、角栄が経営する田中土建工業に流れたため。角栄1回目の堀の中。

・この疑惑のため国会は冬に解散。角栄は東京拘置所から立候補を表明し、保釈後、地元新潟三区(魚沼地方)、風雪の中、他の候補者があまり出向かない農村地を、角栄は人力のソリに乗って選挙活動を行い再び当選。この選挙によって角栄は、犯罪の疑惑は選挙で勝つことで「みそぎ」をする手法を体現する。

・その選挙で誕生した吉田内閣で、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約が締結され、日本は独立。朝鮮戦争が勃発し、アメリカは日本の再軍備を促したが、吉田はNO。そこで軍隊ではない、国内の治安維持を目的とした「警察予備隊」、後の自衛隊が誕生する。

・これについて中曽根は「国家の気骨を重んじない」と憤慨。「警察予備隊は外国の侵略に対して戦うのか?」と吉田を追求。憲法9条を改正し、軍を保持すべきと主張したが、角栄は「百年の説法屁ひとつ」と、理屈をこねるよりも現実を一歩進める吉田を支持。

・当選後角栄が取り組んだのは、空襲で焼け野原になった国土に、住宅建設を加速させること。そのための「住宅金融公庫法改正」と「公営住宅法」を提案し成立させた。

・それと「道路立法」抜本改正の成立。道路立法は大正時代に成立した法律で、その法律は、国道は天皇向け、軍用向けを目的としていたもので、それを「国民のための道路」と目的を変更し、同時に、「有料道路法」も成立させた。これが高速道路つくりの始まり。この時角栄34歳。

・しかし新しく道路を造るための財源がない。そこで「道路整備費の財源に関する臨時措置法案」いわゆる「ガソリン税法案」を提出、可決させる。これまで税金はすべて一般財源であったが、これが最初から使途の決まった目的税の最初。

・角栄39歳で郵政大臣に。当時の郵政省は労働組合の力が強く、郵政省の門には「全逓信労働組合」の大きな看板が掲げられていたが、それを即時撤去。抗議する組合に「店子に家賃を払っているのか」と恫喝。

当時東京タワーが建設されていたが、建築基準法に引っ掛かり、工事が中断しているとの報告を受けた角栄は、「あの法律を作ったのは自分だ。テレビ塔は建物ではないから問題ない」と談判して工事は再開。かくして今の東京タワーは完成した。

・郵政大臣としての仕事の一つが、大量のテレビ事業者免許交付。当時はNHKと日本テレビだけだったのが、「今後必ずテレビ時代が来る」といって、事務局は「反対」の書類を持ってきたものを、資料を差し替え、NHK7局、民放36局に免許を交付した。こうして日本のテレビ時代が始まった。

もうひとつが「特定郵便局」の拡大。世襲制の特定郵便局を二万局設置するとぶちまけた。特定郵便局が集める貯金が、税金とは別の財布になると判断。もちろん世襲を認められた特定郵便局長会は角栄に感謝し、ここに自民党を支える郵政族が誕生、大きな集票マシーンとなる。あの小泉元総理が訴えた「郵政民営化」は、角栄が築いた郵政システムとの戦いだったのですね。

・44歳の時、「所得倍増計画」の池田内閣で史上最年少で大蔵大臣に就任。その2ケ月後、ワシントンのIFM総会に出席。そこで角栄は英語で演説して、当時日本の輸出にかけられていた差別的制限の撤廃を訴えた。全く英語ができない角栄は、米国留学から帰ってきたばかりの娘・田中真紀子が吹き込んだテープで猛勉強して習得したとのこと。

・そして、日本はOECDに加盟し、「先進国」クラブの仲間入りを果たす。東京オリンピックが開催される。

・その後の佐藤内閣で自民党幹事長に就任。佐藤内閣の最初の仕事は、戦後処理としての日韓関係の修復。池田内閣時代に、韓国とは「無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力1億ドル」の供与で合意していたが、「韓国との条約締結は、北朝鮮の存在を否定する」と社会党が反対。

・角栄はそれを強行採決による強行採決で野党の抵抗を正面突破して、日韓基本条約の調印にこぎつけた。韓国はこの莫大な日本からの無償援助を得て、「韓川(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる戦後の復興を果たす。

・佐藤内閣時代は学生運動が盛んで、東大安田講堂事件なんかも起こっていた。国会では、大学での紛争が続けば、国がその大学を一時休校させる、さらに続けば閉校、さらには廃校の措置がとれる法案が提出され、野党が大反発。

・しかし、小学校しか出ていない角栄にしてみると、「大学まで行ってなにが不満なんだ。学生を持つ親は、自分たちの食うものも削って仕送りしているんだぞ」と激怒。これまた強行採決して法案は成立。これがきっかけになって、学生運動はあっという間に消滅していく。ユーミンが作詞作曲した「いちご白書をもう一度」は、こんな時代にできたんですね。

・沖縄返還を果たした佐藤内閣が退陣し、福田赳夫との総裁選挙を制した角栄は、念願の総理総裁に。

・就任後直ちに取りかかったのが日中国交正常化。ここでも交渉の問題は戦後処理。周恩来と、訪中した社会党委員長や公明党代表と交渉してまとまった条件は、台湾は中国の領土、戦争状態の終結、中国は戦争による日本からの損害賠償責任を放棄する、というもの。

・角栄はそれを聞いて一気呵成に国交正常化に進む。「損害賠償責任を放棄する、というのは中国の創業者じゃないとできないんだ。創業者だから国民も納得する。2代目になるとできないんだ」というのが判断理由。もしこの時決断していなかったら、日本は後年、韓国以上に莫大な損害賠償を中国に払うことになっていたかもしれない。

・角栄といえば「日本列島改造論」。しかしこれは地価の高騰を招き、国内は相当混乱し、支持率は急降下。それに火を注いだのが石油危機。エジプトがイスラエルを攻撃し、スエズ運河が封鎖。原油価格が高騰し、トイレットペーパーがなくなる事態に。

・角栄は慌ててアラブ諸国を回り、「友好国」として関係を強化。ついには輸出制限を免れることに成功。ところが、アラブ諸国と敵対し、イスラエル支持のアメリカがこれに激怒。キッシンジャーは「今アメリカは中東和平工作を進めている。日本はアラブ寄りの姿勢を改めてほしい」と提案してきたが、角栄は「代替えの石油をアメリカは保障できるのか」と突っぱねる。この時の咎で、アメリカはロッキード事件を日本に流し、角栄を潰したとの説もある。

・この「石油危機」を経て、日本は原発政策を強化する。「電源三法」という原発推進のための法律を角栄は提出。原発反対の住民を、地元に「地域整備費」という名目で札束を落とすことで説得し、過疎対策を兼ねた原発建設が各地で行われる。

・そんな角栄内閣を激震させたのが、立花隆の「田中角栄研究-その金脈と人脈」。後にジャーナリストの金字塔といわれるこの論文で、立花隆は、角栄がいかに土地の転売や、企業からの裏金で政治資金を増やし、議員たちにばらまき、権力を掌握してきたかを詳細に分析してみせ、これがきっかけで角栄は退陣。

・更にはアメリカから、「ロッキード事件」が報じられる。ロッキード社航空機の日本への売り込みに、時の総理が関与したこの事件は、「ピーナッツ」とか「記憶にございません」とか「蜂の一刺し」といった話題も提供しつつ、ついに角栄逮捕に繋がる。

・しかしその後も、角栄は選挙で圧勝。田中派はキングメーカーとして、福田内閣、鈴木善幸内閣、中曽根内閣を陰で操ることになる。

・そして「脳梗塞」で倒れた角栄は、それでも選挙に出て当選したが、1989年引退。1993年に死去。

 ざっとかいつまんで記載しても相当長くなってしまいました。しかし間違いなく戦後の日本を導いた政治家であったということが理解できます。
金権政治については確かに許されるものではなく、今の日本が抱える借金は角栄が造ったと言ってもいいかもしれません(れんだいこ注/この人は何を根拠に「今の日本が抱える借金は角栄が造ったと言ってもいいかもしれません」なんて云うのだろう)。しかし、やはり大きな決断のできる、天才肌の政治家だったことは間違いないでしょう。これからの日本の政治は、この人物の残した正の遺産をどう継承し、負の遺産をどう処分していくのか、そんな見方で見ることもできるかもしれません。
 「当時東京タワーが建設されていたが、建築基準法に引っ掛かり、工事が中断しているとの報告を受けた角栄は、「あの法律を作ったのは自分だ。テレビ塔は建物ではないから問題ない」と談判して工事は再開。かくして今の東京タワーは完成した」につき、以下補足する。政治評論家・小林吉弥「『私が処理してやる!』田中角栄氏が東京タワー建設で見せた“手法”とは? 『角栄流』上司の心得」。
 日本のシンボルである東京タワーは、スカイツリーができてもその輝きを失うことがない。19588年にわずか1年半の工事で完成した東京タワーは、60年近く東京を見守ってきた。その東京タワーに関して、千原ジュニアは「東京タワーに存在感があるのは、田中角栄の機転のおかげ」と出題。田中角栄は、東京タワーを建築物ではなく広告物とみなすことにより、333mもの高さを実現できた。

【東京タワー建設】
 角栄の郵政大臣就任と歩を合わせてこの頃、後々まで東京のシンボル、観光名所となった東京タワー(正式名称は日本電波塔)の建設が始まっている。塔の建設に先立ち「日本電波塔株式会社」が設立された。この塔の正式名称は建築主にちなみ日本電波塔と云う。発信される電波のサービスエリアは関東の半径150km圏をカバーする。1957.5月、タワーの建設に先立って日本電波塔株式会社が設立され、建築構造学者の内藤多仲と日建設計株式会社が共同で設計し、施工はゼネコンの竹中工務店。塔体加工は新三菱重工(現・三菱重工業)、松尾橋梁。鉄塔建築は宮地建設工業(現・宮地エンジニアリング)が請け負った。現場指揮官は直前にNHK松山放送局電波塔を担当していた同社の竹山正明(当時31歳)。現場でのヘルメットの色は白・監督管理関係、黄・竹中工務店の社員、緑・鉄塔建方関係、灰・設備関係で色分けされた。

 同6.29日、起工。1957年5月から6月末までの約45日間でボーリング調査を行った時点で設計は未完成であったが、短期間に完成させなければならないため、この日に増上寺の墓地を一部取り壊して既に設計の決まっていた基礎部の工事が開始された。7.15日に最終的な設計図が完成。9.21日、鉄骨の組み立てが始まった。


 基礎は海抜0mの砂利層まで掘り下げてコンクリートを打ち込み直径が2m、長さ15mで底の直径が3.5mのコンクリート製の円柱を1脚に8本打った(後のデジタルアンテナ増設時に2本ずつ増設)。塔脚にはカールソン型応力計を埋めておき、脚を支えるための支柱をオイルジャッキで持ち上げて脚の傾きを調節する際など、各塔脚に加わる重量の計測に利用している。タワーは脚を広げた形をしているため重みで脚が外へ広がろうとする力が加わるが、直径5cmの鋼棒20本を各脚に地中で対角線上に結んで防いでいる。
高さ40mのアーチライン最上部までは長さ63mのガイデリックを使用し、次に80mまで組み立てるためガイデリックを地上53mのマンモス梁までせり上げ鉄骨を組み立てていった。80mからの組み立てはエレクターを用いて、鉄骨はエレベーターシャフト内を持ち上げていった。

 12月、塔脚4本が地上40mでアーチ形に組まれた。この時、アーチ中央部が加工の段階で設計より15mm沈んでおり、梁の結合ができずに1週間原因究明に時間を費やした。しかしこの問題は、鉄骨に開けられていたリベットを差し込む穴を15mmずらすことで解決した。高所までの移動は、80mの足場まで4分で昇る2m四方のゴンドラ3台で対処した。高さ141.1m(H.14)地点まではリベットで組み立て、それ以上は防さびのため部材に亜鉛メッキを行ったことでボルト接合になっている。ボルトは締めた後に溶接して固めるが夏場の鉄塔は40-50度まで上昇し、とび職達を苦しめた。リベットは168,000本、本締めボルトは亜鉛メッキ部材の現地接合に45,000本使用している。

 アンテナの設置は当初、名古屋テレビ塔や東京スカイツリーのように塔体内を吊り上げる予定であったがアンテナ工事は台風の多い9月に開始されたため工事が遅れてしまいアンテナを上げる前にエレベータ設置工事を始めないと工期に間に合わなくなってしまった。そのためにアンテナは塔本体の上に30mの仮設鉄塔を組んで仮設鉄塔の一面を開けておき、8つに分かれたアンテナ部材(最大14トン)を下の部材から順に塔の外側から吊り上げていった。塔体内では吊り上げた部材に順次ボルト接合を施して組み立てていき1958.10.14日15時47分、アンテナが塔頂部に据え付けられた。凡そ4,200tの鋼材を使った。参考までに324mのエッフェル塔は7,300トンの鉄を使っている。

 現場鳶職人は初期に20人。仕事が増えるにつれ常時60人、タワー上部では6-7人で組み立てを行っていた。若頭は当時25歳の桐生五郎。桐生はタワー完成翌日に、建設中に見合いをした女性と結婚式を挙げた。建設には渡り職人も参加している。当時の鳶の平均日給は500円、タワーでは750円だった。高さを増す毎に強風に苦しめられたが、納期があるために風速15m/sまでは作業を実施した。しかし建設中の1958.6.30日10時に、昇っていた鳶職1人が強風に煽られて高さ61mから転落死し、麓にある増上寺で葬儀を行っている。

 1958.10.14日、着工から1年3か月後(543日間、1,974,015時間)、延べ21万9335人の鳶職人の手作業により竣工した。高さは333mと広報されており(より正確には332.6m、海抜351m)、塔脚の間隔は88.0m。総工費約30億円、現在の価値に換算すると約300億円。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔である。特別展望台の真上に、鉄塔本体の最上部に建設に携わった96人の技術屋たちの名前が刻まれた金属製の銘板が据えられた。12.23日、正式オープンで一般公開された。


【東京タワーの名称
 「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)で、続いて「日本塔」、「平和塔」だった。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果1958年10月9日に「東京タワー」に決定した。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%、13位)であり、抽選で神奈川県の小学校5年生女子児童に賞金10万円が贈られた。

【東京タワー竣工後】
 日本電波塔株式会社
本社所在地 東京都港区芝公園4丁目2-8
設立      1957年5月8日
事業内容   総合電波塔の設置経営・観光施設の経営・不動産賃貸業
資本金    12億円
従業員数   162人
主要子会社 東京タワースタジオ

 1958年、前田久吉はタワーの完成とほぼ同時、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長・水野成夫に譲渡してその経営から手を引いた。東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで前田家主導で独自の経営をしていた。


 この塔の完成に先行し開局していたNHK総合、日本テレビ、東京放送(TBS)はそれぞれ自局の敷地に170m程の電波鉄塔を建設しテレビ放送を行っていた。そのため当初は1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて新たに開局したフジテレビ、テレビ朝日、NHK教育が利用していた。後にTBSも合流した。NHKと民放6局のアンテナを一本化する予定だったが、調整の段階で日本テレビが「参加条件が不満」という理由で不参加。しかし、実際はフジテレビの前田久吉と、日本テレビ創設者の正力松太郎との産経新聞と読売新聞の覇権争いと云われる。このタワーの完成後も、日本テレビは麹町の自社敷地内のアンテナから電波を発信し続けたが、他局に比べ放送エリアが劣るのは否めなかった。そこで日本テレビは自社の所有地である新宿(現在の東新宿駅付近)にこのタワーの2倍もの高さを持つ電波塔「正力タワー」建設計画を発表するが、莫大な建設費用が掛かる事からその計画は頓挫した。同社は、正力没後の翌1970(昭和45)年になって麹町の本社からこのタワーへメインアンテナを移転することにした。1980(昭和55)年、NHKが教育テレビ送信所を移し、全放送局がこの塔に揃った。

 1964年、敷地内に東京タワー放送センター(現・東京タワースタジオ)を建設し、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京が1985年まで本社として使用していた。テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000年より日本電波塔による自主運営となり2005年7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(現・東京タワースタジオ)に移管され、2012年に閉鎖されるまでテレビスタジオとして利用された。

 1970(昭和45)年、 東京タワー蝋人形館がオープン(2013年9月1日閉館)。”東京タワーをつくった男”と呼ばれるようになる前田久吉の蝋人形が飾られている。1971(昭和46)年8月18日、来塔者数が5千万人。1973(昭和48)年10月10日、体育の日に大展望台までの外階段を駆け上る体力テストを開始。1978(昭和53)年4月28日、東京タワー水族館オープン。1995(平成7)年1月、来塔者数が1億2千万人(日本の総人口並み)。1998(平成10)年12月、大展望台外壁を黄赤色から白色へ変更した。





(私論.私見)