【郵政省関係】 | 東京タワー建設 |
更新日/2018(平成30).11.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
角栄の郵政大臣就任と歩を合わせてこの頃、東京タワー(正式名称は日本電波塔)の建設が始まっている。これを確認しておく。ここでも角栄の名采配が確認できる。「ウィキペディア東京タワー」その他参照。 |
【東京タワー建設事情】 |
昭和30年代前半、テレビ局の電波塔が6箇所あったが、それを1つにまとめる構想が持ち上がった。郵政省が総合電波塔の構想をしていることを知り、名乗りを上げたのが「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉だった。千葉県にある”マザー牧場”の企画創設者でもある。1957年5月、前田久吉が日本電波塔株式会社を設立し総合電波塔建設にゴー発信させた。日本電波塔は、エフエム東京(TOKYO FM)の大株主(学校法人東海大学に次ぐ第2位)でもある。Kiss-FM KOBE破綻による新会社・兵庫エフエム放送にTOKYO FMとともに19.2%を出資。またエフエム大阪の株式20%も2010年10月1日現在、日本電波塔名義となっている。 |
【東京タワー建設経緯】 |
建築設計は、構造学を専門とする学者で、戦艦大和の鉄塔や名古屋テレビ塔や大阪の通天閣の設計も行い さらに数十本におよぶラジオの電波塔を設計した実績があり、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲(たちゅう)及び日建設計株式会社が共同で行った。東京全域に電波が届くようにするためには高さが必要だった。当時、エッフェル塔の高さが312m(現在は放送用アンテナが設置されたため324m)。この高さを意識して、前田久吉は、「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。千三百余年も前に既に高さ57m余もある立派な塔(五重塔)が日本人の手でできたのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張し、設計の条件として提示したのは、アンテナを含めた塔の高さが380mで、高所に展望台を設置し、塔の下に5階建ての科学館をつくることを挙げた。 但し、高さを380mとして計算すると風の影響でアンテナが数メートルも大きく揺れ画像が乱れる可能性が高かった。このため、先端のアンテナの揺れを数十cm程度に抑え、放送に悪影響が起きず且つ関東地方全部を守備範囲にできるぎりぎりの寸法についてさまざまに計算したところ「全高333m」という数字が導き出され、偶然「3」が続く語呂合わせのような高さになった。こうして東京タワーの高さ333mが決まった。この高さはフランス・パリのエッフェル塔の312mより21m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高という条件を満たしていた。 建設後、電波塔集約で不満をもつ読売グループ(読売新聞、日本テレビなど)などから「エッフェル塔の猿まね」と批判されたが、内藤は「ある人はエッフェル塔そっくりだという。これは人が人に似ているというようなもので、一理ある見方ともいえよう。私としては端然とした姿である。この塔が好ましいと思っている」と答えている。構造美については「タワーの美しさについて別に作為はしませんでした。無駄のない安定したものを追求していった結果できたものです。いわば数字のつくった美しさとでも言えましょう」と答え、批判に対して反論するような不毛な議論は一切しなかった。 内藤は当時話題を提供していたドイツのシュトゥットガルトテレビ塔(216.6m)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行うが、特に基礎に関して敷地の関係などかなりの困難が伴うとの判断から鉄塔で計算を進める方針となった。当初は最上部で風速90m、下部で風速60mの強風と大地震(同タワーの耐震設計で考慮された水平震度は0.99Gで関東大震災時に小田原付近で推定された加速度の約2倍に相当)に遭遇しても安全な様に、軽量化に有利な電気溶接ではなく重量がかさむが当時では確実な技術としてリベットによる接合での構造設計がなされた。風力係数は当時の建設省建築研究所の亀井勇教授に依頼し風洞実験を行った。地震力はまだ静的解析の時代であり、鉄塔では風圧力の方が支配的であったこともあり建築基準法の地震力算定法通りk=0.16+h/400を水平震度として適用した。解析、計算は全て手計算でトラスの解法として一般的であったクレモナ図解法とカスティリアーノの定理が使用された。 構造計算書の最終チェックは自身の設計事務所の田中彌壽雄、日建設計の鏡才吉とともに熱海にある早稲田大学の保養所「双柿舎」に3日間缶詰状態で行われた。設計を終えた内藤は「どうかね、こんなに素晴らしい眺めはない」と言った。後に立体骨組モデル応力解析ソフトウェア“FRAN”で耐力を検証しているが、かなりの精度で一致していた。また加藤勉(東京大学名誉教授・(財)溶接研究所理事長)による「東京タワーの構造安全性について」(2007年)によって、東京タワーの構造の信頼性は高いという第三者評価を受けている。当時の建築基準法では建築物の高さは最大100尺(約31m)以下と決められていたが、タワーは工作物と見なされ建築が可能となった。当初、地上約66m付近にビアレストランを設置する計画だったが実現しなかった。これは、レストランにすると建築基準法に抵触したためと考えられている。 |
【東京タワー建設に於ける田中角栄の後押し】 | |
2014/3/15(「『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』読みました」を転載し、コメントをつける。
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「当時東京タワーが建設されていたが、建築基準法に引っ掛かり、工事が中断しているとの報告を受けた角栄は、「あの法律を作ったのは自分だ。テレビ塔は建物ではないから問題ない」と談判して工事は再開。かくして今の東京タワーは完成した」につき、以下補足する。政治評論家・小林吉弥「『私が処理してやる!』田中角栄氏が東京タワー建設で見せた“手法”とは? 『角栄流』上司の心得」。
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日本のシンボルである東京タワーは、スカイツリーができてもその輝きを失うことがない。19588年にわずか1年半の工事で完成した東京タワーは、60年近く東京を見守ってきた。その東京タワーに関して、千原ジュニアは「東京タワーに存在感があるのは、田中角栄の機転のおかげ」と出題。田中角栄は、東京タワーを建築物ではなく広告物とみなすことにより、333mもの高さを実現できた。 |
【東京タワー建設】 |
角栄の郵政大臣就任と歩を合わせてこの頃、後々まで東京のシンボル、観光名所となった東京タワー(正式名称は日本電波塔)の建設が始まっている。塔の建設に先立ち「日本電波塔株式会社」が設立された。この塔の正式名称は建築主にちなみ日本電波塔と云う。発信される電波のサービスエリアは関東の半径150km圏をカバーする。1957.5月、タワーの建設に先立って日本電波塔株式会社が設立され、建築構造学者の内藤多仲と日建設計株式会社が共同で設計し、施工はゼネコンの竹中工務店。塔体加工は新三菱重工(現・三菱重工業)、松尾橋梁。鉄塔建築は宮地建設工業(現・宮地エンジニアリング)が請け負った。現場指揮官は直前にNHK松山放送局電波塔を担当していた同社の竹山正明(当時31歳)。現場でのヘルメットの色は白・監督管理関係、黄・竹中工務店の社員、緑・鉄塔建方関係、灰・設備関係で色分けされた。
同6.29日、起工。1957年5月から6月末までの約45日間でボーリング調査を行った時点で設計は未完成であったが、短期間に完成させなければならないため、この日に増上寺の墓地を一部取り壊して既に設計の決まっていた基礎部の工事が開始された。7.15日に最終的な設計図が完成。9.21日、鉄骨の組み立てが始まった。 基礎は海抜0mの砂利層まで掘り下げてコンクリートを打ち込み直径が2m、長さ15mで底の直径が3.5mのコンクリート製の円柱を1脚に8本打った(後のデジタルアンテナ増設時に2本ずつ増設)。塔脚にはカールソン型応力計を埋めておき、脚を支えるための支柱をオイルジャッキで持ち上げて脚の傾きを調節する際など、各塔脚に加わる重量の計測に利用している。タワーは脚を広げた形をしているため重みで脚が外へ広がろうとする力が加わるが、直径5cmの鋼棒20本を各脚に地中で対角線上に結んで防いでいる。高さ40mのアーチライン最上部までは長さ63mのガイデリックを使用し、次に80mまで組み立てるためガイデリックを地上53mのマンモス梁までせり上げ鉄骨を組み立てていった。80mからの組み立てはエレクターを用いて、鉄骨はエレベーターシャフト内を持ち上げていった。 12月、塔脚4本が地上40mでアーチ形に組まれた。この時、アーチ中央部が加工の段階で設計より15mm沈んでおり、梁の結合ができずに1週間原因究明に時間を費やした。しかしこの問題は、鉄骨に開けられていたリベットを差し込む穴を15mmずらすことで解決した。高所までの移動は、80mの足場まで4分で昇る2m四方のゴンドラ3台で対処した。高さ141.1m(H.14)地点まではリベットで組み立て、それ以上は防さびのため部材に亜鉛メッキを行ったことでボルト接合になっている。ボルトは締めた後に溶接して固めるが夏場の鉄塔は40-50度まで上昇し、とび職達を苦しめた。リベットは168,000本、本締めボルトは亜鉛メッキ部材の現地接合に45,000本使用している。 アンテナの設置は当初、名古屋テレビ塔や東京スカイツリーのように塔体内を吊り上げる予定であったがアンテナ工事は台風の多い9月に開始されたため工事が遅れてしまいアンテナを上げる前にエレベータ設置工事を始めないと工期に間に合わなくなってしまった。そのためにアンテナは塔本体の上に30mの仮設鉄塔を組んで仮設鉄塔の一面を開けておき、8つに分かれたアンテナ部材(最大14トン)を下の部材から順に塔の外側から吊り上げていった。塔体内では吊り上げた部材に順次ボルト接合を施して組み立てていき1958.10.14日15時47分、アンテナが塔頂部に据え付けられた。凡そ4,200tの鋼材を使った。参考までに324mのエッフェル塔は7,300トンの鉄を使っている。 現場鳶職人は初期に20人。仕事が増えるにつれ常時60人、タワー上部では6-7人で組み立てを行っていた。若頭は当時25歳の桐生五郎。桐生はタワー完成翌日に、建設中に見合いをした女性と結婚式を挙げた。建設には渡り職人も参加している。当時の鳶の平均日給は500円、タワーでは750円だった。高さを増す毎に強風に苦しめられたが、納期があるために風速15m/sまでは作業を実施した。しかし建設中の1958.6.30日10時に、昇っていた鳶職1人が強風に煽られて高さ61mから転落死し、麓にある増上寺で葬儀を行っている。 |
【東京タワーの名称】 |
「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)で、続いて「日本塔」、「平和塔」だった。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果1958年10月9日に「東京タワー」に決定した。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%、13位)であり、抽選で神奈川県の小学校5年生女子児童に賞金10万円が贈られた。 |
【東京タワー竣工後】 |
日本電波塔株式会社 本社所在地 東京都港区芝公園4丁目2-8 設立 1957年5月8日 事業内容 総合電波塔の設置経営・観光施設の経営・不動産賃貸業 資本金 12億円 従業員数 162人 主要子会社 東京タワースタジオ 1958年、前田久吉はタワーの完成とほぼ同時、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長・水野成夫に譲渡してその経営から手を引いた。東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで前田家主導で独自の経営をしていた。 この塔の完成に先行し開局していたNHK総合、日本テレビ、東京放送(TBS)はそれぞれ自局の敷地に170m程の電波鉄塔を建設しテレビ放送を行っていた。そのため当初は1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて新たに開局したフジテレビ、テレビ朝日、NHK教育が利用していた。後にTBSも合流した。NHKと民放6局のアンテナを一本化する予定だったが、調整の段階で日本テレビが「参加条件が不満」という理由で不参加。しかし、実際はフジテレビの前田久吉と、日本テレビ創設者の正力松太郎との産経新聞と読売新聞の覇権争いと云われる。このタワーの完成後も、日本テレビは麹町の自社敷地内のアンテナから電波を発信し続けたが、他局に比べ放送エリアが劣るのは否めなかった。そこで日本テレビは自社の所有地である新宿(現在の東新宿駅付近)にこのタワーの2倍もの高さを持つ電波塔「正力タワー」建設計画を発表するが、莫大な建設費用が掛かる事からその計画は頓挫した。同社は、正力没後の翌1970(昭和45)年になって麹町の本社からこのタワーへメインアンテナを移転することにした。1980(昭和55)年、NHKが教育テレビ送信所を移し、全放送局がこの塔に揃った。 1964年、敷地内に東京タワー放送センター(現・東京タワースタジオ)を建設し、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京が1985年まで本社として使用していた。テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000年より日本電波塔による自主運営となり2005年7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(現・東京タワースタジオ)に移管され、2012年に閉鎖されるまでテレビスタジオとして利用された。 1970(昭和45)年、 東京タワー蝋人形館がオープン(2013年9月1日閉館)。”東京タワーをつくった男”と呼ばれるようになる前田久吉の蝋人形が飾られている。1971(昭和46)年8月18日、来塔者数が5千万人。1973(昭和48)年10月10日、体育の日に大展望台までの外階段を駆け上る体力テストを開始。1978(昭和53)年4月28日、東京タワー水族館オープン。1995(平成7)年1月、来塔者数が1億2千万人(日本の総人口並み)。1998(平成10)年12月、大展望台外壁を黄赤色から白色へ変更した。 |
(私論.私見)