【郵政省関係】 民放テレビ36局の一括予備免許の一挙認可

 更新日/2019(平成31).4.12日

【角栄郵政大臣の民放テレビ36局の一括予備免許の一挙認可】

 田中は1957(昭和32).7.10日、岸内閣の改造人事で郵政大臣に就任している。初当選から10年目の39歳での入閣であった。30代の大臣誕生記録は戦後最年少で、明治の尾崎行雄以来であった。

 さて、岸内閣の郵政大臣になった角栄には、「放送局の免許交付問題」が待ち受けていた。「NHKがテレビ放送を開始したのは1953(昭和28).2月。初の民放である日本テレビの開局は同年8月。田中が大臣になったとき運営されていたテレビ局は、NHKが11局、民放が日本テレビ、ラジオ東京(TBSの前身)、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビの5局にすぎなかった。フジやNETには予備免許が下りていたが、まだ放送は始まっていない。しかし、テレビの受信契約数は、1956.6月20万、11月30万、57.6月50万と着実に増え続けていた」(参考「放送事件史「田中角栄」<前編>」)。

 「間違いなくテレビ時代が到来する」ことが誰の眼にも明らかになった。先行局が活況にわくのを見て、全国各地から郵政大臣宛てに放送局の開局申請が相次いでいた。免許問題は歴代郵政相の懸案事項だった。全国からテレビ会社設立申請が殺到、実に86社、153局の申請があった。全国で電波利権獲得の抗争が起きていた。申請者の多くは新聞社が主体の上、地方の財界有力者も絡んで、どれを採りどれを捨てるかは至難のワザであった。田中以前の歴代郵政相は、この決定をひたすら先に延ばすことで、お茶を濁してきていた。あちらを立てればこちらが立たずで身動きできなかったということである。

 これに対して、郵政省は電波監理局を中心として一括大量免許に慎重な立場を取った。松田郵政相から寺尾郵政相(田中の次)まで電波監理局長には浜田成徳が就任していた。浜田は、硬骨漢で「一波一億円」という利権がらみの喧騒に耳を貸さず、「いかに大臣の要請でも、電波監理審議会にはかり、承諾を得なければ、認可はできません」と筋を通していた。「一般の娯楽番組など、たくさんあってもしようがない。テレビは教育テレビだけあればいい。それに、申請者の中に、読売新聞のような新聞社が多い。新聞社に民間放送を任せてしまうと、どうしても持ち株比率が多くなる。報道の独占になってしまう」という考えであったようである。その他電波の混線を心配していた。

 「放送事件史「田中角栄」<前編>」によれば、「浜田成徳は、田中角栄に『テレビ局が全国にできれば家電・電子工業界に大きなプラスとなる』と吹き込んだ人物だといわれている」とあり、前述見解と逆のことを書いている。れんだいこには真偽が分からない。それはともかく、「当時は技術的にも経営的にも時期尚早」というのが郵政の立場だった(同)という見方は一致している。

 角栄は、この経過について、「歴代郵政大臣回顧録」(逓信研究会)で次のように書いている。

 「ある朝、登庁したら大きな大臣用の机の上に部厚い書類がのせられていたので荘電波監理局次長を呼んで『結論はどうなんだ』とただしたら、『たくさん理由は書いてありますが結論はノーです』と答えた。私は、早速、浅野文書課長を呼んで、『事務当局はダメだといってきたが私は許可するつもりだ。手続きについてはどういう手順をとればよいか』とただしたら、同君の答えは簡明直截であった。『大臣の決定は即ちこれ法律と同じです』。

 私は浅野文書課長と入れ違いに小野次官を呼んだ。やがて小野次官がやってきたので、『電波の事務当局から一括免許に反対という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか、自分は日本の将来の電波に重大な歴史をつくるときだと考えている。全国的混乱には終止符を打ち、今こそ放送局の免許を大量に許可すべき時期に来ていると思うのだが、正直、あんたはどう思う』。

 小野次官は冷静な人だが『それは大臣のご決心次第です』と明快に答えてくれたので部厚い書類の表紙(係官、課長、局長と印鑑の朱で赤くなっている)全面に赤いペンで大きな×印を書いてから、この表紙だけ『本件許可しかるべし』と取り換えて欲しい、と依頼した」(れんだいこ注・浅野賢澄・文書課長は後にフジテレビ会長に、・小野吉郎・次官は後にNHK会長となる)。

 角栄は、局長、課長、係官のハンコで真っ赤になっている「不許可」の書類の表紙を「許可」に変えた。菅の民放の申請36社、NHK7局全てに、一括免許を与える「免許申請大量一括許可裁定の歴史的瞬間」だった。

 混線問題に対して、角栄は、八木アンテナで有名な八木博士を呼んで、電波技術上問題ないことを諄々と説いてもらっている。となると、「テレビ局開設は、単に報道機関が増えるということではなく、日本の産業の発展に寄与する」ことを納得させることであり、角栄は、浜田と議論を続け、ようやく「分かりました」を取りつけることに成功した。こうして事務当局の難色を解決した。こうなると、角栄の行動は素早かった。電光石火の「大臣決定」で、直ちに電波管理審議会に諮問した。

 その後の経過について、「歴代郵政大臣回顧録」(逓信研究会)は次のように記している。

 「土曜と日曜の二日間に開局申請者全部を郵政本省大臣室に呼び出すように指示しておいたので、全国各地から偉い人がいっぱい集まった。全国文化人大会のような観があった。各申請者には15分か20分ずつ折衝に当たった。『申請者はたくさんおられるが、皆さん一緒になって新会社をつくって欲しい。新会社の代表者は――申請代表の某氏とする。A申請人の持ち株は―%、B申請人は―%、C申請人は―%とする。AとBからは代表権を持つ取締役各一名、CとDは取締役各一名、E代表は監査役一名』という形式で懇談というより郵政大臣案の申し渡しである」。

 角栄が描いた「絵」に対してその場の誰もが納得し感心し受け入れた。それは、田中の名裁定であった。この調整振りについて、立命館大学教授・松田浩氏は、「実は誰もが恩を感じるような配慮がなされている」と認めている。これを、「つまり、それは『利害調整』という名の『利益誘導』だった」と云いなすのは為にする批判であろう。

 34社の一括予備免許は1957.10月に下りた。NET、フジなどと並んでこれら大量免許グループが1958年13社、59年20社とぞくぞく開局する。受像機の普及も58〜59年ころから加速度的に進み、本格的なテレビ時代が開幕するのである。

 こうして、角栄はバタバタと予備免許43局を決めてしまった。その手際は語り継がれるに値する。角栄は、「一切の私情を排して、日本全体を見渡して、今一番テレビ局が必要な地域はどこか、そして申請者の資格、能力などを調べ、的確な判断を下していった」(岩崎定夢「角さんの功績、真の実力この魅力」)とある。「就任から免許までの4か月で、角栄は一貫目ほど(4キロ弱)やせてしまった。だが、苦労した甲斐はあった」。

 補足すれば、「田中角栄こそは、テレビとは何か、それが与える産業効果というものについてもっとも正確に理解していた最大の政治家であった」ということになろう。「種をまいた田中の放送界への功績は大きい。テレビが世話になった政治家の筆頭は間違いなく田中角栄である」。

 2007.5.17日 れんだいこ拝


【角栄と放送の繋がり】
 放送事件史「田中角栄」<前編>は、次のような逸話を伝えている。れんだいこは真偽不明ないし悪脚色し過ぎと見るが、捨てるのは惜しいので引用しておく。
 「田中角栄のマスコミ支配を象徴する有名な発言がある。首相就任直後の1972年8月に田中が番記者9人に対して語ったもので、『軽井沢発言』として知られている。番記者だけを集めて、田中はこんなことをいった。『俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる』、『いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる』、『つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる』。

 驚くべき発言である。これだけで新聞のトップニュースになる。アメリカで大統領が同じことをいえば、全マスコミがこぞって弾劾しただろう。しかし、日本の新聞は一切報じなかった。報じなかったどころではない。巨大新聞や放送局の記者たちは『軽井沢の約束』を守ったのだ。その結果、新聞・テレビは田中の金権政治を何ひとつ撃つことができなかった。それは立花隆が『文芸春秋』でやったのだ。筆者は、長く自民党の中枢にいて選挙のプロ中のプロとして知られた政治評論家から、『角番記者には、田中に家を建ててもらった者がいる』と聞いたことがある。それは、軽井沢の約束の代価に違いなかった。

 しかし、マスコミは現場記者の家屋敷などとは比較にならない大きな恩恵を、田中角栄から受けたのだ。放送事件史の田中角栄編とは、そんな恩恵にまつわる物語である」。

【角栄の大出俊秘書スカウト考】
 2019.4.12日付け夕刊フジ「恩讐を超え、敵対人物に会う勇気 「角栄流」上司の心得」。

 【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】究極の人心収攬術

 田中角栄は昭和32(1957)年、第1次岸信介改造内閣で、郵政大臣として初入閣を果たした。当時39歳。明治期以来、「憲政の神様」こと尾崎咢堂(行雄)は40歳の若さで入閣した。田中も大いに“気概”を示したのだった。就任後の年末年始のラジオ、テレビへの出演回数は実に12回、タレント並みの忙しさで“庶民性”を売りまくった。

 また、折から86社153局が乱立して争っていた民間放送テレビ免許の申請を、一挙にNHKを含めて39社43局に絞り込む裏ワザを披露した。新聞社系の放送免許を優先したことで、メディアに自らのクサビを打ち込むという、辣腕(らつわん)ぶりも見せたのだった。

 そうした一方で、「全逓」(=旧郵政省職員らの労働組合)の春闘に絡み、幹部7人の解雇を含め、減給、戒告、訓告約2万2000人という、異例の大量処分を行った。クビを切った幹部の一人に当時、「全逓」書記長で、後に社会党代議士となる大出俊(おおいで・しゅん)がいた。大出は頭脳明晰(めいせき)、駆け引きも巧み、性格もさっぱりしていたことなどから、郵政省幹部からも人物として好感を持たれていたのだった。田中もまた、この大出を買っていた。クビは切ったが、その後、「ワシの会社へ来ないか。嫌なら秘書でどうか。とにかく、君が欲しいのだ」と執拗(しつよう)に誘いをかけたのだった。これだと目を付けた人物を取り込んでいくのも、田中の組織戦術の1つだった。しかし、大出は感謝しつつも、筋を通してこれを断り続け、やがて代議士として国会で田中と向き合う道を選んだ。このあたりは知る人が多いが、さらに後日談として続く。その後、大出は最愛の夫人を亡くすことになる。関係者によると、その通夜の席、あの田中がひょっこり現れたというのである。

 田中と大出の個人的関係は途切れている。大出はもとより、夫人が亡くなったことも知らせていない。だが、どこで耳にしたか現れた。それも、葬儀に行くと目立って迷惑だろうと、あえて通夜に足を運んだということだった。大出は、田中の突然の弔問にびっくりしたが、田中が去った後、こう嘆息したというのである。「角さんの発想は、飛び抜けているな。すごい人だ。これ以上、魅力的な人物はそうはいない」。人の不幸を、常に自分の痛みとした田中。敵対した人物とも、サラリ恩讐を超えて、自ら手を擦りにもいく。この勇気あってこそ、人脈という重い扉は、初めて開くことになるようである。=敬称略(政治評論家・小林吉弥)





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