【通産省関係】 資源外交

更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).6.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄は、「石油ショック」に見舞われた後、資源小国日本の生き延びる道としてエネルギー資源の調達先の多様化を目指した。次のように述べている、と云う。
 「日本は、無資源国だ。太平洋戦争は、なぜ起こったのか。日本包囲網がしかれ、石油の供給がストップされた。このままじゃ半年ももたないということで、無理矢理、戦争に引き込まれていったのだ、そのことを忘れてはいけない。無資源国日本は、資源外交を積極的にやらねばならんのだ」。
 
 佐藤昭子は、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で、「田中は次のように語っている」として次のように述べている。
 「政治家というのは、それが正しい政策だと思った時は、どんな障害があってもやらなくちゃいけない。私の資源外交に対して、アメリカのメジャーからいろんな横槍があるだろうとは分かっていたが、それはしょうがない。こっちは初志貫徹だ。私だっていつまでも総理大臣の職にある訳じゃないし、殺されないうちに逃げればいいんだと思っていた。しかし、今になってみると、それがみんな実を結んでいる。自分が正しいと考えたら、恐れずにやって見るものだ」。


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 角栄、小沢、CIA(2)

 「田中は「モノと生活」の根幹を支えるエネルギー資源と向き合った。当人にすれば、住宅開発から資源外交への道行きは合理的なコースであっただろう。だが、資源を押さえる国際資本は、軍事力を背景に世界地図を天空から見下ろして切り分ける猛禽の視点が支配していた。石油は、十九世紀から二十世紀にかけてメジャーの序列が確立され、出遅れた日本はその下請けでじわじわと争奪戦に食い込むしかなかった。角栄は、石油の供給ル−トの多角化を断行した。多角化とは、要するに「自らの資源は、自らの手に」と民族主義で台東する産油国とパイプをつなぐことだった。中東に使者を送り、北海とアラスカ、東南アジアの石油をスワップし、シベリアのチュメニ油田を獲得しょうとした。インドネシアに新しい石油の供給パイプを通そうとする」。
 角栄は、1973年の石油危機を教訓に、中東原油に依存しないエネルギー政策に基づく主的な資源外交の道に踏み込んだ。田中清玄らの「資源派財界人」や、73年7月に通産省事務次官を辞めた両角良彦たちをブレーンにして、石油パニック以前から、資源小国日本のエネルギー自立の方策案を懸命に模索し始めた。

 万端整い、角栄が資源外交でアジアに発つ74.1.7日直前、1.3日にキッシンジャーは、「自国の都合だけを考えて石油危機と取り組もうとする日本の試みは、自殺行為である」と厳しい警告を発している。角栄は、警告に構わず外交を繰り広げた。

 1973.9月末から、ヨーロッパ諸国外遊に向った。フランス(ポンピドー大統領)とは、原子力発電のためのウランの濃縮加工工場の共同経営。イギリス(ヒース首相)とは、北海油田の共同開発。ドイツ(ブラント首相)とは、原子力発電の共同開発。ロシア(ブレジネフ書記長)とは、チュメニ油田の開発というように原子力と石油を廻っての資源外交を展開した。 

 アジア外交にも乗り出し、アジアの石油資源大国インドネシアとも折衝した。首都ジャカルタで、世界一の石油大国サウジアラビアの高官と日本、インドネシア間の資源協約を結ぶ下地交渉に乗り出そうとしていた。ところが、米CIAが仕組んだ激しい反日暴動に見舞われ、角栄はホテルから一歩も出られない事態に見舞われた。「これは、三者会談をしつらえた当時の通産省課長の証言である」(田原総一朗「田中角栄は『無罪』だった」諸君2001.2月号)。このジャカルタの反日暴動勃発について、「アメリカが仕掛けた」という噂が根強い。

 9月、メキシコ、ブラジル、アメリカ、カナダ。カナダでは、ウラン。ブラジルでは、名目はアマゾン開発、実は原子力開発。10.末、ニュージーランド、オーストラリア。小長啓一通産事務次官は次のように証言している。
 「オーストラリア(ホイットラム首相)では、ウラン共同開発についてし話し合い、アジア太平洋構想で意気投合した」。

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 角栄、小沢、CIA(2)

 角栄は、常々次のように言っていた。

 「平和外交を旗印に、資源の先鞭はおれがつける。相手の理解を得て、折れるところは折れて、あとは民間が実行すればいい。首脳どうしで決めれば、ほかが横槍を入れてきても、変えようがないからな。資源は戦略商品だ。トップダウンでなきや動かせないよ」。

 田中を囲む資源派は、メジャー支配からの自立を目指して「エネルギー供給源の多角化」に向かった。石油戦略の第一歩を「北海油田への開発参加」で踏み出した。清玄は英国外務省の要人と交渉を重ね、スワップ方式で第三国を介して原油を融通する方式を英国側と交渉し、九分九厘問題なしの内諾を得ていた。ところが、いよいよ議会で議案を通して詳細を発表するという日の朝、英国外務省の要人が日本側一行が泊まるホテルに駆け込んで来て、「フィナンシャル・タイムズ」を差し出した。一面トップに「不可解な事件」の見出しで次のように書かれていた。「議会の承認なしに北海油田の割譲を日本に約束し、ノース・スロープ油田とのスワップの権利を日本に与えた経緯は極めて不明朗だ。日本側が記者を集めて発表した」。新聞に秘密交渉が暴露され、英国側は議会に案を提出できなくなった。一転して手詰まりに陥った。

 情報漏洩について、田中清玄は「田中清玄自伝」に次のように書いている。

 「俺は、これは今里広記(元日本精工社長)だなとピンときた。今里も同行していたから、『おい、貴様だな。おしゃべりめ。貴様がこういう事をやるとは思っておった。お前、日本を立つ間際にしゃべったんだろう』と言ってやったんだ。土光さんも中山も言えないんだよね。俺が言った。今里は『俺じゃねえ』と言ったな。それから俺はもう今里という人間は一切相手にしなくなつた。彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用してひと儲けを企んだんですよ。今と同じです。今里はその後死んだが、俺が財界そのものを信用しない理由はそれだ」。

 だが、覆水盆に返らず。英国側がリップサービスで北海油田に触れることはあっても事業としては進展しなかった。清玄は、「田中清玄自伝」に次のように記している。

 「英国側は議会に出せないよ、そんなもの。それでおしまい。イギリスという国は実にはっきりしている。逆立ちしたって、何百億積んでもだめ。だめなものはだめ。日本の中には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱しきらなければ、日本人は本当の意味で世界の人達から尊敬されません。日本になりきり、アジアになりきり、宇宙になりきる。そういう人がいま政界でも財界でも、求められているんじゃないでしょうか」。

【イランのアザデガンの油田開発】

【インドネシア石油政策】
 インドネシアの石油に関しては次の通り。

 従来のインドネシア原油の供給ルートは、メジャーのカルテックス一日本石抽、プルタミナーファーイースト オイル トレーディングの二本が主体だった。ファーイースト石油は、岸信介の命を受けた衆議院議員、小笠公詔が電力業界や石油業界をまとめて六五年に発足させている。岸内閣で内閣官房副長官を務めた小笠は、通産省の中小企業庁長官を経て政界人りした。岸の側近中の側近である小笠は、日本とインドネシアの合弁でファーイースト石油の設立を決めると、自ら発起人代表におさまった。「昭和の妖怪」の異名を持つ岸は、ファーイースト石油をインドネシアからの政治資金の還流に使った、といわれる。

 この既得権者のスクラムに猛然と突っかかったのが、国士を自任する田中清玄だった。清玄はアブダビ王家やイギリスのブリティッシュ・ベトロリアム(BP)と油田開発の折衝をする一方で、スハルトと直接交渉して新しい原油供給ルートの開拓に奔走した。この清玄と角栄が隠然と繋がっていた形跡が認められる。或る時、角栄は清玄と対面して次のように訊ねた。「あんたはなんでそんなに熱心に石油問題をやるんだ」。清玄曰く「石油がなけりゃ民族の自立ができないじゃないか。あんたも知ってるだろう。食糧の自給とエネルギーの自給は民族自立の根幹だ。だから俺はこの問題は徹底的にやる」。

 スハルトは、液化天然ガス(LNG)プラントへの援助、ロンボク島の石油基地と米作団地建設への協力を要請した。田中通産大臣は、石油基地と聞き、「大いに協力します」と身を乗り出した。というのは、バリ島の東隣のロンボク島に石油基地ができれば、危険なマラッカ海峡を通らず、日本へ石油を運ぶ航路が確保できるからだった。二〇万トン級タンカーがひつきりなしに航行するマラッカ海峡は、平均水深が二五メートルと極めて浅く、常に危険がつきまとう。海峡の両岸は政情も不安定だ。海賊も出没する。万一国際紛争が起きれば、石油の運搬航路が断たれる。安全なルートの開拓は、石油政策の隠れた課題だった。田中は、「ロンボク島の石油基地、ぜひ、やりましょう」と力をこめた。

 角栄通産大臣が根回しをして、佐藤とスハルトは借款合意のサインを交換する。そして自民党総裁公選の前日、東京丸の内のパレスホテルで中山素平と神谷正太郎が記者会見を開き、「インドネシアに三億ドルの借款を供与する代わりに、低硫黄原油を輸入する。そのために新会社ジャパン インドネシアオイルを設立する」と発表した。

 大暴動(一九七四年(昭四十九)一月)で戒厳状態の下、田中はアサハン計画、液化天然ガス(LNG)、ロンボク島の石油基地などの開発協力をまとめた。資源外交の目的は、達成されたかにみえるが、公式記録に残されていない、重大な案件があった。それは、インドネシアの国営石油会社プルタミナから直接、欧米の石油メジャーを通さず、日本へ原油を入れる新しいルートを機能させることだった。財界資源派とともに描いた「南進」策の具体化である。


 しかし、国際石油資本を傘下に持つ「国際ユダヤ」は、こうした角栄外交を容認しなかった。アメリカ国務長官キッシンジャーが、「国際ユダヤ」の指令に基づき暗躍する。「邪魔者は殺せ!」となった。

 満を持して「角栄外交産物」を潰しに掛かった。田中角栄が資源外交で会談した大統領や首相のうち、田中も含めて何と6名がわずか2年の間に失脚している。 ヒース英首相1974.3月辞任。ポンピドー仏大統領1974.4月死去。ブラント独首相1974.5月辞任。ニクソン米大統領1974.8月辞任。 ホイットラム豪首相1975.11月辞任。1976年、ホイットラムも、オーストラリア憲政史上異例の総督による首相解任措置(総督はイギリス女王の代理人として形式上はオーストラリア首相の罷免権を持ってはいたが、それは、その時点ではもう何年間も行使されたことのない、形式的な権限に成り下がっていたはずだった)によって突然失脚させられた。

 角栄は、ロッキード事件を仕掛けられ逮捕され、以降刑事被告人にされた。新野哲也氏の「誰が角栄を殺したのか」193Pは次のように述べている。
 「キッシンジャーやチャーチが日本の政治家の中で最も警戒しているのは田中角栄氏で、彼の資源政策を、キッシンジャーは『反ユダヤ的行為』だと決め付け、チャーチ議員のスポンサーであるロックフェラーは、田中角栄氏が首相時代に、彼についの資料をひそかに集めさせた形跡があるということだ。ロッキード事件は、動機はアメリカ国内の内ゲバであり、それが日本に対しては、牙抜き、封じ込め作戦として利用されているのを、日本人は二重に誤解している」。

 アジア経済研究所の今川瑛一氏は、慎重に言葉を選びながら次のように証言している。
 「私は、75年3月までワシントンのブッキンブス研究所にいたのですが、石油危機前後からアメリカの対日政策は大きく変わったようです。ニクソン・ドクトリンでは自立路線をとるよう示唆していたのに、74年には、強引に日本を自主軍備強化路線から対米軍事依存体制に切り替えさせ、在日米軍の削減も停止していますからね。国務省、国防省の知人たちも、日本を対等外交から従属外交に切り替えた、とはっきりいっていたし、キッシンジャーや駐日大使だったインガソルがしきりに田中政権の自立政策に警告を発しています」。

 「田中角栄の失脚へのプロセスは、アメリカの意向と重大な関係があるはず」。

【「ウラン外交」】

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 角栄、小沢、CIA(2)

 
「週刊鉄学」の番組中の山岡氏の発言。

 日本では、「戦争目的では、核兵器」、「平和目的では原子力」と用語が分かれていますが、米国ではどちらも「nuclear」です……平和利用と言いながらも、米国の当時の原子力委員会の要職にいた人たちは、殆どが軍人……核兵器と開発し、戦後世界に(平和利用)技術として開放しつつ、原子力政策という産業部門で米国は世界的に以下に入って行くか…… 

 「ウラン資源」に関しては、角栄の資源外交開始の前に、米国(ガス拡散法)と、西ドイツ、英国、オランダ(遠心分離法の研究開発会社「ウレンコ」を設立)等、フランス、スペイン、イタリア、ベルギー(共同会社「ユーロディフ」)の対立も芽生えていた。「遠心分離法によるウラン濃縮」は、米国の「核の傘」の下に置かれた日本にとって、最もデリケートな問題のひとつだった。

 米国は、マンハッタン計画で造られたオークリッジ工場を筆頭に「ガス拡散法」でウランを濃縮していた。ガス拡散法の工場は、ばかでかい規模と途方もない電力を必要とした。オークリッジの敷地は二〇〇万平方フィート(約五⊥ハ万坪)に及び、ガス拡散法の濃縮工場は、年間にニューヨーク市とほぼ同じ量の電力を消費していた。かたや西ドイツが英国、オランダと研究していた「遠心分離法」は、施設を小さくでき、電力消費量がガス拡散法の五パーセントにおさまる画期的なものだった。遠心分離法を思いついたのは第二次大戦中のドイツ原爆開発チームであった。米国は、ウラン濃縮と原子炉による支配体制が崩壊してしまうことを恐れ、遠心分離法を規制した。米国は、西ドイツに遠心分離法のすべての作業を機密扱いにするよう圧力をかけた。西ドイツは遠心分離法を政府管轄下においた。但し、極秘に英国、オランダと交渉し、ロンドンに三国共同の遠心分離法の研究開発会社「ウレンコ」を設立した。遠心分離法が普及するのは時間の問題となったが、日本がそれに飛びつくわけにはいかない。米国の核の傘は、ずっしりと覆いかぶさっていた。

 やっかいなことにフランスのジロー長官がウレンコに対抗し、ガス拡散法の共同研究グループの結成を全ヨーロッパに呼びかけていた。ジロー長官はドイツに対抗してとガス拡散法を選んでいた。この選択は後々フランスの重石になっていく。ジロー長官の呼びかけにスペイン、イタリア、ベルギーが応じて共同会社「ユーロディフ」がつくられる。日本は、フランスと共同歩調をとった。この時点では、西ドイツが推す遠心分離法は乗れない話だった。但し、遠心分離法はその後しだいに広まり、現在では米国、フランス以外のドイツ、イギリス、オランダ、ロシア、中国、日本、パキスタンなどが取り入れている。 

 一九七二年(昭四十七)二月 仏原子力庁にて仏、加、南アとリオ・ティントで「秘密クラブ」ウラン・カルテル結成への予備会議が開かれる。ジロー長官(仏:原子力庁長官)の補佐役が、パリのフエデラシオン通りの豪壮な原子力庁本部にアメリカ以外のウラン生産国の代表を招いた。集まったのは、フランス、カナダ、南アフリカとリオ・ティント・ジンク。ロスチャイルド系のリオ社は、米国を除いた全世界のウラン埋蔵量の五分の一を支配していたので主権国並みの扱いだった。この予備会議で「秘密クラブ」が結成された。五月に南アのヨハネスブルグで第一回の頂上会議が開かれ、オーストラリア勢とガルフも秘密クラブに加わった。当事者は「五カ国クラブ」と呼んだが、参加したのは、リオ・ティント・ジンク、リオ・アルゴム(カナダ)、デニソン(カナダ)、ウエスタン・マイニング(豪州)、ウラネックス(フランス)、南アフリカ核燃料公社(ナフコール、南ア)などでロスチャイルド系の企業が過半を占めていた。秘密クラブは、ウラン価格を引き上げるためにさまざまなカルテルを結んでいった。

 このような「ウランをめぐる世界状況」の中、ウラン資源国に角栄氏は飛び獲得交渉に奮闘した。(1973年9月)翌二十七日、田中は、ポンピド一大続領の忠実な代理人といわれるピエール・メスメル首相と対面した。田中は、メスメルの提案を正面から受けとめ、大胆に話をまとめていった。ウラン資源の確保については、松根が座長になって始まったニジェールでの共同探鉱をレベルアップして、開発に結びつけることで意気投合した。石油では、中東での日仏の共同開発が決まる。メスメルは、輸送面で海運協定を結ぼうと呼びかけてきた。田中は事務レベルの協議開始で応じた。話はとんとん拍子で進んだ。

 が、ここまではいわばウォーミングアップだった。本題はウラン濃縮への勧誘である。メスメルは、スペインやイタリア、ベルギーと始めたガス拡散法の共同開発への参加をしつこく求めてきた。さすがの田中もウラン濃縮への直接参加はためらった。「ご提案はありがたいが、七月の日米首脳会談で、ウラン濃縮の第四工場を日米合弁でやろうと確認したところです。日米には同盟関係もあり、すぐには応じられない」。「それなら、われわれの工場で加工する濃縮ウランを購入していただけませんか」。メスメルは、懸命に濃縮ウランを売り込んできた。ベルギーやスペインとの濃縮プロジェクトの成否が、この売り込みにかかっていた。

 資源外交の山場が、いきなりやってきた。田中は熟考した。跳ぶべきか、踏みとどまるべきか。核開発につながるウラン濃縮は完全に米国に任せてきた。米国は、日本の核武装を防ぎながら原子力の元栓を握っている。日本を「核の傘」の下に入れ、他国からの核攻撃を抑止するという道義のもとに原子力利用もコントロールしていた。日米の信頼関係を築くには、こうするしかなかった。しかしこのままでいいのか。田中は脳内のコンピューターをフル稼動させた。政敵との関係、世論の風向き、国内の電力事情、反核・反原発運動の高まり……。


【ブラジルとの交渉】
 ブラジルとの交渉は次の通り。

 1974年9月12日、米大陸横断の資源外交に出発する。ブラジルの地下資源は早い段階で米系多国籍企業が分割していた。ブラジルが米国の「裏庭」と呼ばれる所以である。民族主義の抵抗で閉ざされた資源を、クーデタ一による政権転覆で開かせ、米系企業が一気になだれこんでいた。このパターンはインドネシアにそっくりだ。ブラジルでクーデターが起きたのは六四年、インドネシアで「九・三〇事件」が勃発してスハルトが政権を掌握する一年前のことだ。この時期、米国は一種の覇権主義で途上国の資源を制圧している。田中角栄の標的は、アマゾン開発であった。熱帯雨林がはてしなく広がるアマゾンには米国が先鞭をつけたとはいえ、未知の鉱物資源が大量に埋もれている。そのアマゾン開発には、もうひとつ秘めた狙いがあった。ウラン鉱の開発であった。田中は会談でウラン資源の共同開発に触れた。ブラジルは、ちょうど西ドイツとKWUの動力炉八基を含む四〇億ドルの原子力開発をまとめようとしていた。イシブラスを設立した土光は、原子炉メーカー東芝の経営者に転じており人的なつながりもある。将来を考えれば、日本との原子力事業での提携は渡りに船ともいえた。日本は、アマゾンでウランを手当てできれば、従来の供給ルートのほかにもう一本、太い供給経路をつくれる。エネルギー安全保障上、ブラジルを第三の極にできる公算が大きかった。田中はアマゾン開発の好感触をつかんだ。

(私論.私見)

 この時のブラジルとの交渉がウラン問題であったとするのは解せない。この時の交渉は日本とブラジルの穀物協定が主眼であり、日本の資金と技術援助でブラジルを穀倉地帯に変え、国際金融資本の食糧独占支配に拮抗すると云う狙いがあったと見立てるべきではなかろうか。これについては「ブラジルとのセラード農業開発協力事業」に記す。

 2011.9.6日 れんだいこ拝

 (1974年)十月十日「文芸春秋」十一月号が「田中金脈」を掲載する。二十二日 外国人記者クラブで「金脈問題」の質問攻めにあう。


【カナダとの交渉】
 は次の通り。
 田中とトルドーは、アルバータ州のタール・サンド開発に日本が資本と技術の両面で積極的にかかわることで意見が一致した。ウラン鉱についても話し合った。28日 田中首相は大洋州歴訪の資源外交へ旅たつ。オーストラリアのキャンベラに移動し、ホイットラム首相と対面した。キャンベラの首相官邸で首脳会談が始まった。田中は、「日本は豪州におけるウラン濃縮を原則として好ましいと考えるものであり、豪州と協力してその可能性を研究する」と語った。はっきりとウラン濃縮事業への参画を口にしている。角栄は、政権の剣が峰に立って、もう一度「米国の核の傘」の外へと跳んだ。必敗を覚悟の決死のダイビングだった。

 角栄は、回想録で語っている。

 「世界の核燃料体制は、やはり、アメリカが支配しているんだな。わたしはそのアメリカを逆なでして、何かをやりたいわけじゃない。しかし、石油のスワップをやったときのように、ウランについても必然的に供給の多様化を考えたわけだ。ヨーロッパ訪問でポンピド一大統領に会ったときに、日本がガス拡散方式を採用したいと申し入れた。遠心分離方式と併用でいこうと考えたわけだよ。むろん、ポンピド一大統領は、喜んで応じた。フランスのためになるんだからな。しかし、アメリカが喜ばず、反撥した。アメリカの核燃料支配に頼ってきた日本への姿勢が厳しくなったわけだ。まァ、それは仕方ないことだけど……。(中略)しかし、あんなにアメリカがキヤンキヤンいうとは思わなかったなあ。わたしとしては一生懸命になって話をまとめようとしたし、フランスも日本と一緒にやろうということで、前向きになっていた。そこを後ろからいきなりドーンとやられたようなものだ。しかし、それもまた、しようがない」。
 「わたしの資源外交に対して、アメリカのメジャーからいろんな横ヤリがあるだろうとはわかっていたが、それはしょうがない。こっちは初志貫徹だ。わたしだっていつまでも総理大臣の職にあるわけじゃないし、殺されないうちに逃げればいいんだと思っていた。短兵急だったかなと──は思ったけど、構わず、やったわけだ」。

【「中村喜四郎の悲劇」】
 以下の一文、引用先を失念したが転載しておく。
 田中角栄の「遺志」を受け継いで自民党の原発推進派の中心人物の一人として活躍していた若手代議士の中村喜四郎も掣肘された。建設族議員でもあった中村は、90年代にはいって「ゼネコン疑惑」という「別件スキャンダル」で逮捕、起訴された。「別件」にいきどおった中村は、エネルギー政策に関する自分の信念から「国会議事堂の正面玄関で逮捕してみろ!」と抗議の意志を示した。

 米保守本流の言いなりで動く日本の検察当局は構わず逮捕した。米保守本流の「御用聞き」に明け暮れる日本の「寡占性メディア」は、「建設族議員の申し子の悪あがき」と言わんばかりの報道を繰り返した。TBSテレビのブロードキャスターは、「建設族の申し子」である中村の「ゼネコン疑惑」に対する居直りで、「国会玄関での逮捕を検察当局に要求した」との報道を行った。結局、中村は逮捕・起訴され、まさに「別件」で政治生命を停止された。しかし、中村は自殺しなかった。理由は、中村の性格もあるだろうが、そもそも彼を追い込んだ側の米保守本流/国際石油資本が彼を殺す必要を感じていなかったからである。

 米保守本流/国際石油資本にとって重要なのは、中村の政治生命に傷を付けて、彼と同じ考えの日本の政治家や財界人や官僚を恫喝することであって、べつに中村を「肉体的に」殺すことなど、どうでもよかったからである。先進国の原子力開発を阻止して石油の価格を維持することは、莫大な利権のかかった問題ではあるが、しょせん経済問題にすぎず、「(アメリカの重要な同盟国の)政治家の命を奪ってまで実現すべきこと」ではなかったのである。




(私論.私見)