【外務省・農水省関係】 ブラジルとのセラード農業開発協力事業

 (最新見直し2011.9.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 田中政権は、その末期に、注目すべきブラジルとの国際協力事業に着手している。「セラード農業開発協力事業」と云われているものであるが、これを確認しておく。戦後日本外交史上極めて特異な親アラブ政策となっている中東政策と共に白眉の良質政治となっている。この史実が秘匿されている観がある。そこで、れんだいこが許さじとばかりにサイトアップしておく。

 2011.9.6日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№995 れんだいこ 投稿日:2011年 9月 9日
 【野田政権に対するれんだいこ書簡その2、ブラジルとの合弁事業「セラード農業開発協力事業」考】

 「野田政権に対するれんだいこ書簡その1」で、角栄の国内産業に対する英明なる振興策を確認したが、「書簡その2」では角栄の対外支援の英明策としての「日本―ブラジル間のセラード農業開発協力事業」を確認する。

 この功績は余り知られていない。れんだいこもごく最近知り本稿を書き起こすことになった。一事万事の理で国内を能く制する者は国外をも能く制する、逆は逆であることが分かれば良い。

 1974.9.12日、田中首相が中南米のメキシコ、ブラジル、米国、カナダの4カ国歴訪に出発している。これが田中政権の6番目にして最後の外交となる。9.14日、メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、 エチェベリア大統領との首脳会談で、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表している。

 9.18日、ブラジル-訪問。ガイゼル大統領と首脳会談し、日本とブラジルが共同して農業開発プロジェクトに着手することに合意し共同声明を発表する。これより早く次のような根回しが行われている。1973年、農林省がブラジル農業開発輸入検討に調査団派遣。1974.3月、コチア産業組合中央会(CAC)がミナスジェラィス州サンゴタルドに入植する。1974.8月、国際協力事業団(JICA)が発足する。

 日本とブラジルの共同声明の約束は守られ、1975年、ブラジル政府がPOLOCENTRO計画を策定する。同5月、経団連、日伯経済協力委員会の下部組織として日伯農業開発協力委員会を設置する。同6月、倉石農林大臣、9月、福田副総理がブラジルを訪問する。同10月、JICA、政府・民間関係者によるミッンョン(農林省国際協力課菊池課長補佐及び伊藤忠商事越後部長役)をブラジル派遣し基本的枠組みを決める。11月、JICAが調査団を派遣する。同12月、日伯農業開発協力推進議員懇談会が結成される(会長・倉石農林大臣)。

 1976.4月、「日本―ブラジル(日伯)セラード農業開発協力事業(PRODECER)」が設置される。同9.17日、日本政府がセラード開発計画を閣議了解する。ガイゼル大統領が来日し、セラード開発について「討議議事録」に署名する。これにより総事業費684億円が拠出されることになった。

 具体的には、多数の農業専門家の派遣、入植者717戸(内、154戸が日系農家)に対する融資、農地造成、灌漑整備の導入等々、ブラジルの近代農業を推進する事業となった。こうして田中首相が支援を約束してから約5年の準備期間を経て日伯合弁会社が設立され、国際協力事業団(現JICA)が出資する形で2001.3月までの21年間3期に分けて実施された。

 JICAのセラード農業開発プログラムは、日本のODA事業の中でも極めて規模の大きな事業となり、ミナス、ゴヤス、バイア、トカンチンスなど9州にまたがる(首都ブラジリアもこの地域に含まれる)熱帯サバンナ地帯の約面積2億ヘクタール(2,045,064km?、メキシコ並み且つ日本の約5.4倍ほどの面積)の潅木林地帯で土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。

 これにより同地帯は一大穀倉地帯に変貌した。2008年のFAO(国連食糧農業機関)の農産物生産統計によれば、ブラジルはサトウキビ、オレンジ、コーヒー豆が1位、大豆が5924万トンと米国に次いで2位、トウモロコシも含めた輸出大国となっている。「セラード農業開発は、20世紀農学史上最大の偉業のひとつ」と評価されており、「セラード農業開発協力事業」は世界の食料供給基地をアメリカとブラジルの二極化することに貢献した。

 「セラード農業開発協力事業」2000年で一応終了し、その後を継いだ小泉政権以降の歴代政権は新方針を打ち出さぬ為に尻ぼみの状態になっている。尤も、現代においては森林資源保護と云う地球環境保護問題が絡み始めており、新たな政治能力が要求されている。それはそれとして、角栄政治がブラジルに貢献した偉業、世界の食料供給事情の二極化の成果を確認せねばなるまい。

 現在、この経験を生かしてブラジルと日本によるアフリカ支援へと繫がっている。2009.4月、日伯間で対アフリカ熱帯サバンナ開発協力の合意文書が結ばれ、その協力対象国として公用語がブラジルと同じポルトガル語のモザンビークが選ばれ三角協力の実施が決定した。同9.17日、モザンビークの首都マプト市で、日本、ブラジル、モザンビークの代表が、熱帯サバンナ農業開発推進合意文書に署名した。ブラジルのセラード地帯で日本とブラジルが行った熱帯サバンナ農業開発協力の知見をモザンビークひいては将来的にアフリカの熱帯サバンナ地域の農業開発に生かそうとしている。

 2010.5月、ブラジルは初めてアフリカ全土から農業大臣を招聘し、「ブラジルーアフリカ対話」会議を主宰した。ルーラ大統領は次のように述べている。「ブラジルは先進諸国に対して一緒にアフリカでの農業開発協力に取り組もうと長らく訴え続けてきた。そして、一カ国、日本と共同にてモザンビークで取り組むことが決まった」、「アフリカ熱帯サバンナはブラジル・セラードの農業潜在力をはるかに凌駕する。我々はセラード技術をこの広大な農業フロンティアに導入することができる」。

 以上の総評として次のように述べておく。ここにも角栄政治の卓見と功績を見て取ることができる。れんだいこが調査して判明する限り、角栄政治の秀逸さ―それぞれの課題に対して国家百年の見地から有能な判断と処理を為すことで日本丸を充分に舵取りしていたこと―に驚かされるばかりである。

 そういう意味で、角栄政治を悪しざまに罵る者の政治、評論ほどお粗末なものはない。近いところでは小泉、菅が角栄政治の真逆を行い国運を誤らしめ、にも拘わらずマスコミが提灯報道し続けたのは衆知の通りである。立花隆その他の売国奴エピゴーネンが未だに角栄批判のボルテージを上げ続けている。ことあるごとに角栄政治との距離を測り、接近しようとすると批判の太鼓を打ち鳴らし、反角栄政治にシフトすると喝采すると云う痴態を演じ続けている。

 この政治、論調にどう終止符を打ち、日本が自由、自主、自律の国内国際政治を御していくことができるのかが問われている。第二次世界大戦での敗戦から65年余、一時1970年代初頭に田中―大平同盟政治により半ば達成したかの感のあった主権政治がロッキード事件の喧騒を通じて元の木阿弥的植民地政治に戻されてしまって今日に至っている。与野党問わず政界上層部に屯(たむろ)するのはシオニスト宦官ばかりと云う痴態に陥っている。この不義を如何せんか。

 2011.9.9日 れんだいこ拝

【本郷豊・氏の「熱帯サバンナ開発にみる食料安全保障」論】
 これにつき、「熱帯サバンナ開発にみる食料安全保障」が次のようにサイトアップしている。語り手は本郷豊(1948年、宮城県生まれ。1974年にブラジルへ赴任したのをきっかけにセラード地帯の開発協力に2001年まで携わる。現在はJICA中南米部常勤嘱託)、インタビュアーは杉下恒夫(JICA国際協力専門員)、文責は広報室広報デスクの鈴木明日香任とのことである。これを転載しておきたいが著作権が煩いので、その他の情報も加えながら要旨を素描しておく。「ブラジル最大の穀倉地帯・セラード」、「第2部(1)不毛の大地を誇りに変えた セラード開発」、「セラード開発年表フォーム(表形式)」も参考にする。
 要約概要「日本のODA事業の中でも極めて規模の大きな事業としてブラジルとの合弁で国際協力事業団(現JICA)によるセラード農業開発が始まり、「世界の食料供給基地をアメリカとブラジルの二極化することに貢献した」。この成功経験を元手にして今や、日本とブラジル両国が協力して「アフリカ熱帯サバンナ農業開発協力」への取り組みが検討されている。2009年4月3日、ブラジルを訪問した大島賢三JICA副理事長はブラジル国際協力庁長官との間で、アフリカ熱帯サバンナ農業開発協力を進めていくことで合意した。

 日本のセラード開発援助は、1974年に田中角栄元首相がブラジルを訪問したのを機に、日本はセラード地帯の開発支援をブラジル政府に約束する。日本は、1970年代の穀物価格の暴騰被害をまともに受けて、アメリカ一国に依存していた食料輸入先を多角化させることが急務であった。しかし当時、「不毛の地・セラード」の農業開発は無謀だとの強い非難もあった。田中元首相が支援を約束してから約5年の準備期間を経て、「日伯セラード農業開発協力事業」の監督・調整機関として日伯合弁会社が設立された。JICAがこの事業に出資し、セラード農業開発協力事業は1979年に始まった。その後、第2期、第3期と2001年まで続いた。この間、セラード地域に21の開発拠点(合計33万4000ヘクタール)を建設した。日本のセラード農業開発は、資金協力と技術協力を車の両輪として実施した。

 セラード地帯がやがて穀倉地帯に変わっていった。成功のカギは土壌改良にあった。セラード土壌は強酸性で、作物の生育を阻害するアルミニウムの濃度が高く、栄養分が溶脱した『出がらし土壌』を特質としていたので、石灰を散布して土壌酸度を矯正し、肥料を加えることで土壌改良を図った。大豆、トウモロコシ、小麦といった温帯作物の熱帯性品種を育種したことも成功の要因に挙げられる。この他、開発モデルとして「組合主導入植方式によるフロンティア地帯での拠点開発事業」を導入したこと、ブラジル南部から日系やヨーロッパ系移民の優良農家が入植したこと、民間の合弁会社に監督・調整を任せたこと、比較的流通インフラが整備されていたこと、ブラジルが自国内で農業生産資機材を製造する能力を有していたこと等が成功要因として挙げられる。

 セラードの開発経験が、ブラジルと日本によるアフリカ支援を支えることになる。両国は長期にわたる技術協力事業を通じて強い信頼関係を構築し、成熟した国際協力のパートナーになっている。日本はTICAD(アフリカ開発会議)に代表されるようにアフリカ支援を強化しており、ブラジルもポルトガル語圏アフリカ諸国等を中心に援助を強化している。一方、アフリカ諸国は農業振興による経済発展を希望し、他方世界は新たな食料生産・輸出基地を求めている。アフリカの熱帯サバンナ農業開発は、関係国のみならず世界共通の利益になるものと期待されている。

 この事業に深くかかわった本郷豊・氏は次のようにメッセージしている。『セラード開発が議論された70年代、“前例がない”ということで慎重論や反対論がありました。アフリカ熱帯サバンナ農業開発が注目され始めた今日、やはり“前例がない。開発モデルがない”との慎重論があります。失敗のリスクとそれに伴う非難を恐れて何もしないのではなく、若い人ならではの大胆な発想と知恵を結集して、難問に取り組むチャレンジ精神を期待します。また、自分の意見が通らないと嘆く前に、『己の見識を世に問え』と勧めたい。専門誌やメディアに発表し、世論の支持や評価が得られるか試す気概を持ってほしいと思います』」。





(私論.私見)