田中角栄のロッキード事件語録 |
更新日/2017.4.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、田中角栄のロッキード事件語録を採り上げる。姉妹版「ロッキード事件の見方その4、角栄かく語りきー」。 2017.4.10日 れんだいこ拝 |
1976.4.2日、田中は、砂防会館で、田中派7日会の臨時総会で「私の所感」を発表し疑惑を否定した。かく「ロッキード釈明」をしているが、この田中釈明も掻き消されてしまった。角栄の「ロッキード釈明」は次の通りである。
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今日冷静に見るに、角栄は終生疑惑を否定している。それを居直りと受け取る向きもあろうが、この強い否定の仕方から見て冤罪説は傾聴するに十分に値するのではなかろうかと思われる。 今日角栄を擁護する者の中にも、5億円授受をあったとしてそれでも角栄を支持するというスタンスの者が多い。しかし、真実角栄は貰っておらず全くの濡れ衣的冤罪として見直してみる余地があり過ぎるのではなかろうか、というのがれんだいこ見解である。もしこれが真相だったとなると、角栄政界追放過程に荷担した者は、相応の責任を負わねばならないであろう。少なくとも坊主ザンゲで済まそうとするのは虫が良すぎよう。 考えて見れば、角栄は、民族派的誇りの強い党人派政治家であり、国内の金はともかく外国のエージェント機関から金を貰うことに対しては慎重であった、と考えることが十分可能である。確かに角栄は、金配りの名人であった。しかし、金の集め方にはナイーブであり、それが証拠に財界に頭を下げて出向くことを良しとしなかった。ある種の拘りを持ち、筋道の通らない金の調達を避けており、秘書軍団にも徹底させていたことが明らかにされている。児玉の如き口と腹が異なる作風を最も軽蔑する人士でもあった。こういうことを勘案すると、角栄の否定にこそ真実があり得る、と私は考えている。 ロッキード社からカネがばら撒かれたことが事実だったとしても、それが誰に渡ったのかまではコーチャンは証言していない。私には、角栄には渡っていない可能性のほうが高いように思われる。後に見るが、現金授受の様子は漫画的且つスリラーもどきであり、当時そのような危ない目をして金を貰う作法は角栄及びその秘書軍団にはなく、仮にそのような受け渡しがあったとしても、意図的に角栄にすりかえられている可能性がある。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第13弾である。 2005.1.11日 れんだいこ拝 |
1976.10.1 田中前首相、「月刊越山」に「私のとるべき道」と題しての初心を発表。逮捕容疑を全面否定して次のように述べている。
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1976.10.20日、角栄が、越山会の機関紙「月刊越山」紙上に、「私のとるべき道」と題した所信を発表。1・ロッキード社から政治献金は全く受けていない、2・ロッキード社とは、通産大臣当時の表敬訪問一回以外、一切接触も無い等々と述べており、逮捕容疑を全面的に否定している。この頃、角栄は佐藤昭に次のように言ったと伝えられている。
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1976.11.15日、任期満了に伴う第34回総選挙公示。「ロッキード選挙」(田中角栄逮捕後初の総選挙)と云われた。公示後選挙区をくまなく「辻説法」して回る。次のように述べている。
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1977(昭和52).1.27日、ロッキード事件丸紅ルート初公判が始まった。岡田光了裁判長の指揮の下で東京地裁7階の701号室(地裁では一番大きい法廷)と定まった。以降公判は毎週1回開かれ、回数にして191回、「公判三千日」を重ねていくことになる。この異例の裁判の長期化がこの後悪弊として先例となり、今日まで続いている。この異常な裁判の長期化が、ロッキード事件の胡散臭さ第24弾である。主任検事・吉永祐介、被告席には裁判長席に近い順から田中・榎本・檜山・伊藤・大久保が並んだ。検察側の冒頭陳述で幕を開けた。田中角栄は受託収賄罪及び外為法違反で、榎本敏夫は外為法違反で、檜山広・大久保利春・伊藤宏らは贈賄、外為法違反、議院証言法違反で起訴されていた。 人定質問の後、田中前首相は次のように述べ、容疑を全面否認した。
つまり、事実無根を主張し真っ向から闘っていくこと、徹底抗戦の姿勢を明確にして陳述した。 小室直樹氏は、著作「田中角栄の遺言」において、「角栄裁判は、日本人における裁判観を、あますことなく露呈してくれた。その意味で、この上なく貴重である」と書いている。その趣旨は、戦後旧刑事訴訟法が書き改められ、近代的デモクラシー原理が取り入れられたにも関わらず、法の番人の世界の人心変わらず、相変わらず「お白洲裁き」の旧態依然が罷り通っているという告発である。小室氏の指摘する様を追っていきたい。 |
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1982(昭和57).6.17日、角栄は、東京目白台の田中邸近くのホテル椿山荘で開かれた代議士の「励ます会」に出席した後、取材記者を自宅に招き、応接間で次のように述べている(「週刊現代2009.8.22-29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
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1982.12.22日、ロッキード丸紅ルート第183回公判。裁判所が田中被告の被告人質問を行い、事実審理終了。この時田中は全面否認し、次のように質問に答えている。
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1983.9.22日、角栄が小千谷片貝の後援会で次のように述べている。
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1983年夏、軽井沢の別荘を訪れた時事通信記者の番記者・田崎史郎に次のように述べている。
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1983(昭和58).10.12日、最初の公判から6年後、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。 | ||||||
角栄は目白の自宅に帰り、家の子郎党70人を前に、次のように語って、判決に激怒した様子を伝えている。
この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「今後とも不退転の決意で闘い抜く」とする「田中所感」を読み上げた。
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1983.12.3日、総選挙告示。角栄はこの日、柏崎市で支持者を前に次のように述べている。
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1984(昭和59).7.6日、角栄は、時事通信記者・田崎史郎に次のように述べている(「週刊現代2009.8.22-29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
次のような司法権力批判もしている。
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1993(平成5)年12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した(享年**歳)。 |
(私論.私見)