田中角栄のロッキード事件語録

 更新日/2017.4.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄のロッキード事件語録を採り上げる。姉妹版「ロッキード事件の見方その4、角栄かく語りきー」。

 2017.4.10日 れんだいこ拝


 1976.4.2日、田中は、砂防会館で、田中派7日会の臨時総会で「私の所感」を発表し疑惑を否定した。かく「ロッキード釈明」をしているが、この田中釈明も掻き消されてしまった。角栄の「ロッキード釈明」は次の通りである。
 ロッキード釈明   昭和51年4月2日

 一、国際通貨危機や石油問題の発生によって、国際的にも国内的にも、激動が4、5年続きました。経済の安定、不況からの脱出など、国民が今国会に期待したものは、たくさんあります。我々は戦後20年に終止符を打ち、新しいスタートを切るよう強く求められています。その意味で、私は今こそ、与党、野党を問わず、内外に山積する諸問題と正面から取り組み、具体的な施策を国民に打ち出すべき国会にしなければならないと考えておりました。

 二、しかるところ、ロッキード問題によって、国会審議は完全に停滞し、政局は予想もできない混迷に陥りました。いうまでもなく、ロッキード問題は、徹底的に究明されなければなりません。また私は、真理の解明が必ず為されるものと確信しており、それを心から望んでおります。本件については、すでに日米両国政府の間で、資料の提供など相互協力について合意が得られました。国内捜査権はすでに発動されております。今後の問題の解明は挙げて当局の努力に待つべきであり、それが三権分立を基本とする民主国家の原則であります。我々もまた当局を信頼すべきであります。

 三、政治は今、経済的混迷の中で、景気の回復を軌道に乗せるよう、国民から緊急に求められています。一部では雇用不安、社会不安の発生も予想されております。我々は国民の要請に応えなければなりません。今為すべきは昭和51年度予算案、及び関係法案を一日も早く成立させるため全力を傾けることであります。このため党執行部が明確なる方針を打ち出し、行動に出れば、我が7日会は率先して、これに全面協力すべきであります。

 政府、自民党は今こそ一体になって、この難局処理に当たるため結集しなければなりません。議員個人の立場や派閥の思惑を先行させることは厳に慎むべきであります。政府、自民党に課せられた政治責任を、いかに果たすかという責めに対してのみ、我々は決断し行動すべきであると考えます。

 四、今日、ロッキード問題を廻り、あらゆる揣摩臆測(しまおくそく)が乱れ飛んでいることは、きわめて遺憾であります。しかし真相は必ず解明されます。また、私は自分自身に対し、ひそかに誇りを持っております。各位に置かれましても、今後の政局に臨むに当たっては、自信を持って、堂々と行動されるよう願いたいのであります。

 五、ロッキード問題に関連して、私のことがいろいろ取沙汰され、各位にも少なからず迷惑を掛けていることと思います。私が今日まで発言に慎重であったのは、一党の総裁、とくに一国の代表として公的な立場にあった者は、その職を離れてからも言動に慎重を期さなければならないと判断していたからであります。

 しかし、今日の状況からみて、私がこれまでの状態を続けることは、私自身、政治家としての責任を果たす上で障害になるばかりでなく、各位の今後の政治活動に影響を及ぼしかねないと考えるに至りました。従って、このさい若干の発言をしたいと思います。

 六、昭和47年8月、ハワイで行われた日米両国首脳会談で、ロッキード問題に関して何らかの取引があったのではないかという言動が見受けられます。この会談については、当時発表された「日米共同声明」に、すべてのことが盛り込まれており、私として、これに付け加えるものは何もありません。また航空機の問題については、鶴見・インガソル会談に関する発表がすべてであります。互いに一国を代表する首脳会談の席で、一民間航空会社の問題が議論されるなどあり得るはずもなく、事実、まったくなかったことをあきらかにしておきます。

 七、いわゆる久保発言についていえば、四次防大綱を読み、これを二次防大綱と比較して分かるように、政府がPXLの国産化を決めたことは一度もありません。PXLの輸入か国産かの問題は、我が国最高の専門家が英知を傾けて決定すべきものであります。政治が介入する余地の全くない問題であることは、2月21日、坂田防衛庁長官の「久保発言は事実誤認」という発言によって明確になったと思います。

 小佐野賢治君は、私の古くからの友人ですが、互いの交際の中で、公私のけじめをはっきりさせてあります。今回の問題は一小佐野君との関連はまったくありません。なお私は、この15、6年間、児玉誉士夫氏と会ったこともなく、公私いずれの面に於いても付き合いがないことは、世間衆知の通りであります。

 八、今回の問題が発生して以来、巷(ちまた)には憶測や独断にもとづく無責任な言動が横行しております。憲法に保障された基本的人権、プライバシーの権利などを論ずるまでもなく、こうした風潮は、真の民主体制を維持し、発展させていく上で、はなはだ憂うべき現象であります。しかし、伝聞、風説、噂、デマなどにもとづく奔流のような言動に対し、ひとつずつ反論を加え、完璧な対応をすることは困難なことであります。時の流れの中で真実が明らかにされることと思います。

 しかるところ、先日、社会党の石橋書記長が遊説先で演説し、私の名誉を傷つける発言をしたことが一部に報道されたことは、ご承知のことであります。一党の責任者の発言として黙過できないので、二階堂代議士を通じただちに抗議したところ、同書記長から、「報道は事実を伝えていない」旨の釈明がありましたので申し上げておきます。

 九、この際、私のいわゆる資産形成について一言いたします。この問題については、公正な第三者による事実調査と確認などの作業が続けられておりますので、結果が確定すれば、これを明らかにし、世の指摘に応え得るものと考えます。

 十、現在、政府も党執行部も局面の打開に尽くしておりますが、本年度予算成立のメドさえ立っていないのが国会の実情であります。我が7日会も、政府、党執行部と渾然一体となり、難局の打開に全力を傾けるべき時を迎えました。国権の最高機関たる国会は、今や、その責任を果たし、国民の負託に応えるべき関頭(かんとう)に立っておると思います。

 我々は、戦後30年の長い間、困難な国政処理に当たり、今日の我が国を築きあげてまいりました。我々は、そうした実績と誇りの上に立ち、全党員一致結束して、限りない前進をすべき時であります。ご清聴を感謝いたします。
(私論.私見) 「角栄の『ロッキード釈明』」について
 今日冷静に見るに、角栄は終生疑惑を否定している。それを居直りと受け取る向きもあろうが、この強い否定の仕方から見て冤罪説は傾聴するに十分に値するのではなかろうかと思われる。

 今日角栄を擁護する者の中にも、5億円授受をあったとしてそれでも角栄を支持するというスタンスの者が多い。しかし、真実角栄は貰っておらず全くの濡れ衣的冤罪として見直してみる余地があり過ぎるのではなかろうか、というのがれんだいこ見解である。もしこれが真相だったとなると、角栄政界追放過程に荷担した者は、相応の責任を負わねばならないであろう。少なくとも坊主ザンゲで済まそうとするのは虫が良すぎよう。

 考えて見れば、角栄は、民族派的誇りの強い党人派政治家であり、国内の金はともかく外国のエージェント機関から金を貰うことに対しては慎重であった、と考えることが十分可能である。確かに角栄は、金配りの名人であった。しかし、金の集め方にはナイーブであり、それが証拠に財界に頭を下げて出向くことを良しとしなかった。ある種の拘りを持ち、筋道の通らない金の調達を避けており、秘書軍団にも徹底させていたことが明らかにされている。児玉の如き口と腹が異なる作風を最も軽蔑する人士でもあった。こういうことを勘案すると、角栄の否定にこそ真実があり得る、と私は考えている。

 
ロッキード社からカネがばら撒かれたことが事実だったとしても、それが誰に渡ったのかまではコーチャンは証言していない。私には、角栄には渡っていない可能性のほうが高いように思われる。後に見るが、現金授受の様子は漫画的且つスリラーもどきであり、当時そのような危ない目をして金を貰う作法は角栄及びその秘書軍団にはなく、仮にそのような受け渡しがあったとしても、意図的に角栄にすりかえられている可能性がある。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第13弾である。

 
2005.1.11日 れんだいこ拝

 1976.10.1 田中前首相、「月刊越山」に「私のとるべき道」と題しての初心を発表。逮捕容疑を全面否定して次のように述べている。
 「ロッキード事件という想像もできなかったことに巻き込まれて、国民の皆様に多大な迷惑をかけたことに心から恐縮しております」。

 1976.10.20日、角栄が、越山会の機関紙「月刊越山」紙上に、「私のとるべき道」と題した所信を発表。1・ロッキード社から政治献金は全く受けていない、2・ロッキード社とは、通産大臣当時の表敬訪問一回以外、一切接触も無い等々と述べており、逮捕容疑を全面的に否定している。この頃、角栄は佐藤昭に次のように言ったと伝えられている。
 「俺は絶対にこの汚名をそそいでやる。百年戦争になっても構わない」。

 1976.11.15日、任期満了に伴う第34回総選挙公示。「ロッキード選挙」(田中角栄逮捕後初の総選挙)と云われた。公示後選挙区をくまなく「辻説法」して回る。次のように述べている。
 「一言で言えば、私は事件に関係ない日米両国のためにも真相が解明されなければならない。公人として逃避は許されない。私は敢えてイバラの道を踏んだ」。

 1977(昭和52).1.27日、ロッキード事件丸紅ルート初公判が始まった岡田光了裁判長の指揮の下で東京地裁7階の701号室(地裁では一番大きい法廷)と定まった。以降公判は毎週1回開かれ、回数にして191回、「公判三千日」を重ねていくことになる。この異例の裁判の長期化がこの後悪弊として先例となり、今日まで続いている。この異常な裁判の長期化が、ロッキード事件の胡散臭さ第24弾である。主任検事・吉永祐介、被告席には裁判長席に近い順から田中・榎本・檜山・伊藤・大久保が並んだ。検察側の冒頭陳述で幕を開けた。田中角栄は受託収賄罪及び外為法違反で、榎本敏夫は外為法違反で、檜山広・大久保利春・伊藤宏らは贈賄、外為法違反、議院証言法違反で起訴されていた。

 人定質問の後、田中前首相は次のように述べ、容疑を全面否認した。
 概要「外為法違反について、この事件について、私は何の関わりもありません。ロッキード社から、いかなる名目にせよ、現金5億円を受領したことはありません。受託収賄について、この事件についても、私は何の関わりもありません。このような犯罪の容疑を受けたことは全く心外でなりません」。
 概要「かりそめにも前総理が、このような罪名で逮捕、起訴されたことは空前絶後である。痛恨の極みであります。一国の総理が外国からカネを貰うことがあり得るか。この事実だけははっきりしておかないと、日本の総理大臣、ひいては日本国の権威に関わる」。
 「私の違法な行為が無かったことを裁判所の法廷を通じて証明することによって、新憲法における内閣総理大臣の名誉と権威を守り通さねばならない。それが新憲法下における民主主義的治政の常道であるし、私の公人としての責任であることの確信を抱くに至りました」。

 つまり、事実無根を主張し真っ向から闘っていくこと、徹底抗戦の姿勢を明確にして陳述した。

 小室直樹氏は、著作「田中角栄の遺言」において、「角栄裁判は、日本人における裁判観を、あますことなく露呈してくれた。その意味で、この上なく貴重である」と書いている。その趣旨は、戦後旧刑事訴訟法が書き改められ、近代的デモクラシー原理が取り入れられたにも関わらず、法の番人の世界の人心変わらず、相変わらず「お白洲裁き」の旧態依然が罷り通っているという告発である。小室氏の指摘する様を追っていきたい。

 「ロッキードは、もういいッ。今、田中に、もっと経済政策をやらせろという声がホウハイとしてある。そのことなんです。このままでは潰れる。潰れたら大変なんですよ。人が死んでから医者が来てどうなりますか。皆さんッ。重症にならぬうちに、危篤にならぬうちに、社会的混乱を起こさぬうちに政策を行うのが、政治の責任でなくて、一体なんでありましょうか」。

 1982(昭和57).6.17日、角栄は、東京目白台の田中邸近くのホテル椿山荘で開かれた代議士の「励ます会」に出席した後、取材記者を自宅に招き、応接間で次のように述べている(「週刊現代2009.8.22-29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
 「俺は小唄から常盤津まで何でも歌えるんだ。覆面でレコード出したら100万枚売れる。大正時代に発禁になった歌なんかも全部知っている。ニューオータニのピアニストに『音程は政治家の中で一番しっかりしているから、もう少し練習してレコードを出したら』と云われているんだ。(こう言って、『誰か故郷を思わざる』など数曲を歌った。情感がこもり、胸が熱くなってくる歌声だった。歌い終わると言った) この10年いろいろ楽しいこと、悲しいこと、苦しいことがあった。或る奴は俺に3か月ぐらいでおかしくなると言った。俺だって石油をぶっかけて焼き殺したい気持ちの時もあったよ。しかし、道祖神、いや滝に打たれている不動明王みたいなもんだ」。

 1982.12.22日、ロッキード丸紅ルート第183回公判。裁判所が田中被告の被告人質問を行い、事実審理終了。この時田中は全面否認し、次のように質問に答えている。 
 「いやしくも現職の内閣総理大臣に対して、『成功したら報酬を差し上げる』などといったとしたら、言語道断であり即座に退出を求めたはずです。政治家の第一歩は、いかなる名目でも第三国人からせ維持献金を受けてはならない、ということです。5億円授受は全くありません。事実上も、職務上もございませんっ」。


 1983.9.22日、角栄が小千谷片貝の後援会で次のように述べている。
 「私を死ねばいいと思っているヤツがいる。とんでもない野郎だ。これでもハラの虫を抑えてしゃべっているんだッ。裁判のことは裁判所に任せている。とやかく言うことはない」。

 1983年夏、軽井沢の別荘を訪れた時事通信記者の番記者・田崎史郎に次のように述べている。
 「政治と裁判は関係がない。10月12日(の判決)でどうこうなるなんて力がない奴が言うんだ。人が死ねば----というのと同じだ。どうにもなりません。そもそも裁判官が予断を与えている。裁判所自身が憲法違反を犯しているんだ」。

 1983(昭和58).10.12日、最初の公判から6年後、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。
 角栄は目白の自宅に帰り、家の子郎党70人を前に、次のように語って、判決に激怒した様子を伝えている。
 「一審判決は、私にとって残念な結果だが、この事実は厳粛に受け止めている。私は真実の探求を願っており、これらは控訴審で主張し、判断を求めていく」。
 「風雪十年と云うが、私はそういう意味では7年だ。私は自信を持って今日の判決を聞いていた。本当だ。しかし、デタラメな判決だ。そんなに簡単なことではないんだ。あんなこと(判決)をやれば国会議員は全部、有罪だ」。
 「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ」。
 「皆には迷惑をかけて済まなかった。しかしこれは間違いなく仕掛けられた罠だ。裁判の手続きや検察の言い分は、この国では筋の通らぬことばかりだ。だからこれからの裁判では必ず勝つ。推論で人に罪を被せるようなことは絶対に許さん」(石原慎太郎「天才」155P)。
 「この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」と述べている(佐藤昭子伝)。

 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「今後とも不退転の決意で闘い抜く」とする「田中所感」を読み上げた。

 概要「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。違法な行為がなかったことを裁判所の法廷を通じて、証明することが厳粛な国民の信託を受けている者としての義務である。私は無罪の主張を貫く為に直ちに控訴した。遠からず、上級審で身の潔白が証明されることを確信している。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後とも不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠のない憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続けるつもりである」。

 1983.12.3日、総選挙告示。角栄はこの日、柏崎市で支持者を前に次のように述べている。
 「ロッキード事件はトラばさみにかけられた。足を取られた方が悪いのか、トラばさみを仕掛けた方が悪いのか、後世の学者が判断するものだ。私は断じて何もしておりません」。

 1984(昭和59).7.6日、角栄は、時事通信記者・田崎史郎に次のように述べている(「週刊現代2009.8.22-29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
 「酔っ払った調子で云うがね。この10年間叩かれぱなしだったが、もった。仕事をやれるのはあと10年。君ら、俺を敵に回すのもいいが、俺と苔むすまで付き合ってみようと思わんか?」。

 次のような司法権力批判もしている。
 「司法は本来、行政権力から国民を守るためにあるべきだ。しかし実際は、行政権と司法権が結託して、デモクラシーを死の淵においやっている。だから国会議員は、毎日猛勉強し、国会で堂々と議論し、役人を心服させるのだ」。

 「なぜ見も知らぬ、コーチャンという男のために被告席に座らされ、何一つ抗弁を許されないまま、有罪判決を受けなければならなないのか」。

 1993(平成5)年12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した(享年**歳)。





(私論.私見)