ロッキード事件の見方その4ー角栄かく語りきー

 更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).11.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、角栄本人の事件観を確認しておく。秘書の早坂茂三氏が貴重な証言をしている。姉妹版田中角栄のロッキード事件語録。田原総一朗の「角栄は米国にハメられた。ロッキード事件は無実だった」も確認しておく。

 2010.2.19日 れんだいこ拝


 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK80」の亀ちゃんファン氏の2010.2.19日付け投稿「田中角栄の真情。「政局を安定させ、国民の生命と財産を守るためこれからも中曽根内閣を支えてゆく」 その裏で中曽根は何を?」を転載しておく。出典は、早坂茂三著「田中角栄回顧録」(集英社文庫、1993.5月初版)。

 〔ロッキード事件──泥沼闘争のはじまり〕

 四十九年十一月二十六日、田中角栄は内閣総理大臣の辞意を表明した。マスコミは「“金脈”問題で追い詰められての退陣」などと解説し、世間の大方もまた、政治的に進退きわまって、辞める牡をくくった、というふうに受け取っていたようである。とにかく、それが一般的な見方であった。

 田中は四十七年七月七日、日中と列島改造をひっさげて、さっそうと政治の表舞台に登場した。しかし、佐藤時代から引き継がれた過剰流動性の管理の失敗と、四十八年十月、世界を直撃した原油価格の高騰で、国内の物価、地価が騰貴して、いわゆる狂乱物価が現出した。彼は心ならずも総需要抑制策に追い込まれ、政権のエネルギーを急速に失っていった。

 これは事実だが、田中自身は、辞意表明直前のころには、政治的に追い詰められるよりも先に、肉体的に消耗しきっていたのである。もともと血庄と血糖値がやや高く、加えて、バセドー氏病という厄介な持病を抱えていた彼は、総理大臣の激職に就いた後、血圧が二百の上限を超えることがしばしばであった。血糖値も二百を超えて三百から四百に近づくことがよくあった。それに、九月の北米・中米訪問、十月下旬には炎熱のニュージーランド、オーストラリア、ビルマ訪問と、大がかりな外遊が続き、さすがタフなおやじも疲労の蓄積が限界を超えていた。そして、人一倍、負けん気の強い彼の政治的ビヘイビアを生理的、心理的な面からも強く圧迫していたのである。「辞めるしかない」と彼に決意させたのは、なによりも、まず肉体的な理由であった。

 田中は「一夜、沛然(はいぜん)として降る豪雨に心耳を澄ます思いである」と総理辞任の意思を表明して、二年五カ月にわたり担ってきた政権にみずから終止符を打つ。そこには“庶民宰相”と歓迎されたときとは、まったく違った田中の顔があった。苛酷な政治の現実である。

 正式に辞任(十二月九日)した少し後、彼はホッとした心境をにじませた口ぶりで、私にこういった。「総理なんていうのは、まあ、一回やれば結構だ。あれは血圧と血糖値ばかり上がる商売だ。衆議院、参議院、予算委員会と、朝から晩まで缶詰めにされる。そして、入れ代わり立ち代わり、相手代われど主代わらずで、オレを怒らせよう、怒らせようと仕掛けてくる。あれに耐えるのは人間わざじゃない。終わったらウィスキーをがぶ飲みして、ストンと寝るようにしなけりゃ身がもたん」。

 辞任後一年余り、田中には静かな日々があった。ところが、五十一年の二月四日、海の向こうのアメリカから日本列島に向けて、何やら妙な石ころが投げ込まれた。チャーチ委員会(米上院外交委多国籍企業小委員会)におけるロッキード社問題審議のニュースである。これが後に政治家・田中角栄の運命を狂わせるドラマ開幕のベルであった。しかし、当時の私にとって、それが田中を十年以上も地獄の戦いに引きずり込む、いわば狼煙であったとは、むろん、知る由もない。

 事実、日夜かたわらで接していた私から見ても、田中自身はその問題が自分に向けられているという意識、あるいは認識はまったく持っていなかった。そんな予感や気配さえ感ドしていないようであった。

 三月に入って間もなく、田中と一緒に目白の事務所でテレビを見ていると、「ロッキード、トライスター、L1011」という機種のジェット旅客機が紹介され、アナウンサーが早口で説明している。すると、おやじが私に真顔で「おい、L1011とは、いったい何だ。トライスターというのは、どういう意味なんだ」と聞いた。私は真面目に答えた。

 しかし、ふだんと変わらない田中に関係なく、世間は“ロッキード問題”で騒然となっていった。児玉、小佐野などの名前が新聞、テレビに連日、登場する。田中の名前も出てきた。「こりゃ何かいわなきゃならんかもしれんな。お前、ちょっと書いてくれ」──三月の中旬が過ぎて、おやじは私にそう命ドした。私は原案をつくって、何回か書き直し、彼に渡すと、「うん、これでいいだろう」といって、何カ所か赤字を入れた。これが四月二日に発表された田中角栄の「私の所感」である。

 春が過ぎて、暑さに向かうにつれロッキード騒ぎは、ただならぬ様相を帯びてきた。図会のロッキード特別委員会が次々と証人を喚問し、丸紅、全日空の幹部が逮捕された。ところが、その間、私は田中の言動がおかしいとか、神経がピリピリしているとか感じたことは一度もなかった。彼はいつもと同じように、目白と平河町の田中事務所を往復し、マイペースで大勢の客に会っていた。おやじも私も、頭上に大石が落ちてくるとは、夢にも思っていなかったのである。今、考えてみれば、主従二人ともおめでたいとしか、いいようがない。だから、なにがしかの資料、書類といったものを移動させ、処分することなど、思いもよらなかった。
 
 七月二十六日の朝、当時、落選中だった福田派の福家俊一から電話があって、「福田(赳夫)がきみに会いたいといっている。角サンは無理だろうから、早坂君、来てくれんかね」といってきた。おやじに話すと、笑って「まあ、いってこい。福田君が何をいうか、聞いてくればいい」──私は夜九時、赤坂の料亭『たん熊』に入った。間もなく福田副総理(当時)が姿を見せ、お茶とメロンだけのテーブルをはさんで私と向かいあった。福田が「いろいろな動きがあるので、実は角サンのことを心配している」と切り出した。要するに、三木(首相)のやっていることはおかしい。肺に落ちない。角サンのために何か自分にできることがあれば、何でも私はやるつもりだ。遠慮なくいってくれ──ということであった。私は「ご心配ありがとうございます。副総理のお言葉は、間違いなく主人に伝えます」といって、そこからそのまま自分の家に帰った。

 翌二十七日は早朝から暑い日だった。おやじは朝が早いから、七時半ころには目白に着かなければと、身仕度をしていたら、横目で見ていたテレビの画面にニュース速報のテロップが流れた。「田中前首相、東京地検に出頭」

 私は一瞬、棒立ちになった。が、すぐに思い直して目白に電話を入れた。書生がうわずった声で「先生は先ほど東京地検の方とご一緒にお出かけになりました」と答えた。「わかった」──受話器を置くと、すぐ電話が鳴った。「福田赳夫だ。早坂君、えらいことになった。私は全く知らなかったが、何でも手伝うからいってくれ」「副総理、あなたが今朝のことを知らなかったはずはありません。それなのに、ゆうべ、わざわざ私を呼んで田中をコケにされた。もう心配は一切ご無用です」──私は激昂してガチャンと電話を切った。 こうしてロッキードの泥沼闘争が始まったのである。

 田中が逮捕された日、私は朝九時から夕方近くまで東京地検の平河町事務所授査に立ち会い、西村英二 二階堂進ら田中派幹部との善後策の協議、目白事務所、選挙区との電話連絡、記者会見など息づく暇もなかった。知人の上月一男弁護士と一緒に東京地検へ出かけ、高瀬検事正(当時)に会ったのは、夜九時すぎである。検事正は私たちを丁重に迎えてくれた。「田中に見苦しい振る舞いはありませんでしたか」「前総理は堂々たる態度でした」「特別扱いとは申しませんが、拘置所では、できるだけの便宜を計っていただきたい」「承知しました」──こうしたやり取りの後、私は検事正から田中が毛筆で認(したた)めた自民党離党届、七日会(田中派)退会届の書類二通を受けとった。中身を確かめると、いつもの端正な筆跡と少しも変わるところがなく、息づかいの乱れも感じられなかった。人目を避けて弁護士と外に出ると、東京の夜の闇は深かった。それを今でも私は鮮やかに覚えている。

 この日の夕刊、翌日の各紙朝刊は、ちょうど太平洋戦争が勃発したときのように、いずれも紙面いっぱいに大きな見出しが躍っていた。田中派は雲散霧消すると断定していた。

 しかし、その後の十二年にわたる事実の経過はどうであったろうか。おやじがどんな苦境に立っても、田中派から“脱藩者”は出なかったのである。田中は逮捕され、起訴され、実刑判決を受け、苦闘十年、ついに病に倒れた。この四つのうち一つだけでも、並みの派閥は家鳴り振動して、おかしくなったに違いない。しかし、田中派は危機あるごとに強大になっていった。おやじは内外からキングメーカーといわれ、自民党最大派閥の領袖であり続けた。日本政治史上の偉観といってよい。

 奇蹟の秘密は何か。田中角栄が政治というパケモノの正体を理解していたからである。人間洞察の深さにおいて他の政治家とケタ違いであったからだ。みずから心血を注いでつくり上げた木曜クラブ(田中派)と、その仲間たち、角栄自身と“政治”について、田中はじっくりと語っている。

 〔田中派の友人たちとわたし〕

 今の日本で、このわたしほどマスコミの標的となっている者は、ほかにいない。それで、マスコミの連中に「きみら、なんでぼくを目の敵にするんだ」って聞いたら、「あなたを本質的に目の敵にしている層がある」「田中を倒さずんば日本の保守党は倒せない、と思っているグループがある。それに狙われているんだからしようがない」なんていったのがいる。これはいったい、どういう意味なんだ。

 なるほど、わたしは総理大臣もつとめた。しかし、一方で自民党の名誉を傷つけたことは事実だし、国民にも迷惑をかけている。そういう意味ではね、わたしだって、これぐらいマスコミにアジられたり、攻撃の目標にされても止むを得ないと思ってはいるさ。しかし“闇将軍”なんていう悪辣なことは、わたしはいささかもやっていない。

 わたしだって切れば血の出る日本人だからね、八年も九年もぶっ通しでいじめられていれば、普通なら参ってしまうところだ。「これだけカンナで削られ、ヤスリにかけられていて、あなたはなんで参らんのですか」と、よその人から真顔でよく聞かれることがある。わたしが参らずに元気でやっているのは、「マスコミに指弾されるようなことは何もない」という自信を心底深く持っているからだ。もし、わたしに多少ともやましいところがあって、内心忸怩たるものがあれば血糖値が三百か四百にバネ上がって、とっくの昔に一巻の終わりになってるはずだよ。

 わたしの心の奥底に救いがなければ、これだけ朝から晩までぶったたかれておって、生きてはいられないよ。だから、自然体で元気にやっていられるんだ。目も口もあけていられないほど攻めてくる連中がいる一方で、わたしを理解し信頼し、応援してくれる人たちもまた、たくさんいる。この世の中、案外、捨てたものではないと感じるのは、わたしを内側から支えてくれるものがあるからなんだ。田中派の友人たちというのは、わたしにとって、そのような人たちだ。お互い非常に強い友情で結ばれ、みんながわたしを信用してくれている。今度の事件に対してだって、わたしへの絶対の信頼を変えずにいてくれるんだ。こんなにうれしいことがあるかい。田中派が大勢でまとまって、行動している大前提には、友情と信頼というものがある。マスコミはそのへんを見落としているんだ。打ち首場へいく人の妻や子ならば、一蓮托生ということで、行を共にするのもしようがないこともある。しかし、選挙の洗礼を経て、有権者から国政の付託を受けている者が何の自信もなく、わたしとグループを組んではいかない。

 金でつなぎ止めたという見方もあるのだろうが、わたしにそんな金なんかあるわけがない。これほどライトが当たっていて、金など集まるわけがないじゃないか。財界で田中に金を出したっていう話があれば聞きたいくらいだ。それなのに、わたしを“錬金術師”とか“私設日銀総裁”みたいにいうのはおかしな話だよ。そこへちょうど五億円という問題をぶっつけて、「これだ、これだ」と騒いでいるわけなんだ。わたしがそんなことをいってもしょうがないけど、金というものはあってもないようにいうもんだし、なくてもあるようにいうのが世間なんでね。それをいかにも金があるようにいってくれるんだから、わたしも信用がついていいけれども、正直なところ、ほどほどにしてもらいたいと思っている。

 人間だれしも、若いときはみんな偉くなりたいと思うものだ。しかし、そう簡単になれるもんじゃない。ひとかどの作家になるためには、ある意味で錯乱、狂気の人でなければなら ない。地獄の底までのぞいて、人の世の裏、表、人間のすばらしさとおぞましさを見、体験し、知っていなければ、多くの人を感動させ、後世に残るようなものを書くことはできないよ。

 経験も、知識も、素養もなくて、しゃべってばかりいるのは、バカ騒ぎを繰り広げているだけのことだ。しまいには誰も相手にしなくなる。わたしには何が何でも代議士の地位に固執しようという気持ちはない。お天気ならゴルフ日和だ。さあ、いこう、二、三ラウンドやろう。雨なら本を読もう、映画を観にいこう。ちょっと曇りだから、インドアでゴルフの練習をやろう。そんな具合でね、今は自由聞達に生きている。わたしも齢六十を過ぎて、あくせくする気持ちはなくなった。毀誉褒貶もぜんぜん気にならなくなった。これでも小さな寺の住職ぐらいにはなれると思ってるんだ。今はね。

 わたしは宗教書を読む。このあいだも三日ぐらいかけて、出雲大社の大黒様を読んだよ。日蓮でも親鸞でも空海でも最澄でも、何でも読む。その一方では、馬に関する本は世界的な種馬の本まで読んでいるんだ。馬が大好きだからね。昔は『広辞苑』を初めから終わりまで繰り返し、繰り返し読んで、とても楽しかったものだ。わたしは大学を出てないけども、旧制中学の四年修了程度までのことは全部、覚えているよ。漢詩も好きだ。「江蘇城外寒山寺」は深夜の景色か、明け方の景色か、それぐらいの判断はつく。

 大学生を対象にしたアンケート調査でね、わたしは「尊敬する人物」のトップだそうだ。しかし「好きな人」のトップではなかったらしい。だからマスコミにいじめられるのかもしれない。東京・駒場の東京大学教養学部、あそこでやっぱりアンケート調査をやったら、二十対六ぐらいでわたしのことを認めているんだ。だからといって、わたしは東大の学生を買収したことはないぞ。連中の顔も知らない。これが女の子であれば、絶対に六〇パーセント以上の支持があるとうぬぼれているんだがね。

 わたしはどこへでも出かけて、歩き回りたいんだけれども、世間がうるさくて、目こぼしをしてくれない。このあいだも郷里の新潟県から上京して、新橋で小料埋屋をやっている人がきた。「いっぺんきてくださいよ」「うん、うん、いくよ」「いく、いくといって、十年もきたためしがないじゃないのしというやりとりをして、お互いに笑ったんだけども……。

 以前、桜内義雄君と原田憲君とわたしの三人で、桜内君のいきつけのバーで飲んだことがある。とても楽しかった。三人で飲んで騒いでおったら、みんなが握手してくれと寄ってくる。帳面を出して「サインしてください」「伝票の裏に何か書いてください」といってくる。宝塚出身の女の子がやってるバーだけど、客のなかには総理官邸記者クラブの新聞記者も三人か四人いた。それで翌日、「田中が桜内、原田と一緒にへべれけになって六本木を飲み歩いていた」と、埋め草記事に使われてしまった。親友と酒を飲んで、盛り場を歩くくらい邪魔するな、といいたいが、そうはさせてくれない。こんなバカな暮らしを死ぬまで続けたくはないと、つくづく思うよ。せめて二、三年でもいいから、どこかでのんびりさせてほしいと願ってるんだがね。

 わが国の政治に対して、わたしは責任の一端を負わなければならない立場にある。自民党を支えて日本政治の安定を図らなければならない。わたしはいま党を離れてはいるけれども、自民党所属のすべての国会議員と同じ決意を持ち、責任を感じている。これまでは大平内閣、鈴木内閣の別なく、全力をあげて支えてきた。これからも中曽根内閣を支えていく。この決意に変わりはない。わたしは自民党内閣であれば誰が総理大臣になっても全力をあげて応援していくよ。自民党が一致結束して政府をバックアップする。政局を安定させる。そして、国民の生命、財産を守り、生活を向上させなければならない。これはわたしがどんな立場や境遇にあっても、自ら果たすべき責任なんだ。P-274


 早坂茂三著「田中角栄回顧録」(集英社文庫)のブックレビューは次の通り。
 「国交回復を果たした周恩来との膝詰め談判、日ソ外交史に残るブレジネフとの会談、得意の“角栄節”で愉しませたエリザベス女王との会見―。戦後の一時代を築き、ロッキード事件を経てからもその影響力を失わなかった天才政治家・田中角栄。その栄光と苦闘の歴史を、23年間腹心の秘書として連れ添ってきた著者が、田中の肉声を交えて振り返る」。

 目次は次の通り。
 序章 ひとつの時代のはじまり、そして、終わり
 第1章 青年代議士・田中角栄がみた戦後デモクラシー
 第2章 池田・佐藤政権の屋台骨を支えつづけた10年
 第3章 「列島改造」は田中政治のライトモチーフ
 第4章 教育、職業、宗教についての見方、考え方
 第5章 貿易自由化、経済自由化の本質
 第6章 決断と実行田中内閣波乱のスタート
 第7章 日ソ外交史に残る田中・ブレジネフ会談
 第8章 政治家の評価、官僚の評価、政党の評価
 第9章 自民党最大派閥田中派の役割と実績

【田原総一朗の「角栄は米国にハメられた。ロッキード事件は無実だった」】
 「田原総一朗が角栄に迫る 独占発掘! 幻の田中角栄インタビュー『角栄は米国にハメられた。ロッキード事件は無実だった』」転載。
 ロッキード事件で元首相・田中角栄が逮捕されてから40年が経った。当時、角栄は金権政治の象徴として、集中砲火を浴びることになったが、1人だけ、角栄は無実ではないか? と考えていたジャーナリストがいた。当時42歳だった田原総一朗だ。

 エネルギー外交を提唱した角栄は、米国の虎の尾を踏んでしまい、その犠牲者となったのではないか──。田原が保釈後の角栄を説得し、実現させたインタビューは、ある事情で原型をとどめないものになった。角栄は何に怯えていたのだろうか。緊急復刊した『大宰相 田中角栄』とあわせて読みたい衝撃のドキュメント。
 それ以前の私は、政治にはまったく興味を持っていなかった。当時の私は、東京12チャンネルのディレクターで「ドキュメンタリー青春」という番組をつくっていた。興味、関心は人物をいかに描くかにあり、しかも時代と激しく渡り合っている人物、たとえば学生運動をやっている連中や、サブカルチャーの旗手だった寺山修司、あるいは新宿花園神社などで赤テントを張って芝居をかけていた唐十郎など、ヒリヒリするような同世代の人物で、背広を着ていい車に乗っているような政治家、財界人にはまったく興味がなかった。ましてや国家とは、などということは考えもしていなかった。政治にも経済にも関心を持っていなかったが、そんな私でも田中角栄という人間を知らないわけではない。金権政治を臆面もなく行い、甚だ倫理に外れた汚い政治家だと。だから立花論文に私は拍手喝采したい気持ちを持った。一方、田中は巨大な権力を持ち、その権力の源泉はカネであることを知っていながら、どの新聞も追及できずにいた。そうしたときに、「文藝春秋」でフリーランスの立花隆、あるいは同じ号でこれもフリーライターの児玉隆也が「淋しき越山会の女王」という田中の金庫番である佐藤昭のことを書き、田中を失脚させた。圧倒的な取材力を持ったメディアがフリーのジャーナリストの後塵を拝したことで、新聞もテレビも相当に苛立っていた。苛立ちが極限まできていたために、すべてのメディアがロッキード事件では全面的に田中角栄を叩いた。悪の元凶であると、これでもかこれでもかと新聞もテレビも、毎日のように大々的に報道し、田中に十字砲火を浴びせかけた。

 その大報道の中で、逆にこてんぱんに追いつめられている田中角栄に対して、私は関心を持ったのだった。これはおかしい。田中角栄は、本当に天下の大悪人なのかと。というのは、それまでのドキュメンタリー番組をつくっている経験から、ある流れが決定的になるときには逆にあやしいことがある、という勘のようなものを私は持っていた。いまでもそういう考え方をしているのだが、つまり、流れが大きくなるときには、それはどこかにいかがわしいところがある、どこか問題があると疑うのが私にとって自然のことなのだ。だから、田中角栄イコール大悪人という風潮、論調は行きすぎではないかと思ったのだ。そこで初めて、私は田中角栄という政治家を調べてみることにした。幸か不幸か、ロッキード事件が起こった76年という年は、私は職場から干されていた時期だった。原子力発電という当時のタブーに切り込んだために、自ら辞職するか、さもなくば解雇されるかという立場にいて、私は迷いなく辞職することにした。
 反日暴動の糸を操っていた米国

 会社を辞めてフリーになった私には、時間がたくさんできた。そのおかげで、詳しく調査することができたのだが、権力の世界を調べるのは初めてなので、非常に新鮮だった。夢中になって調べていくうちに、実はマスコミは田中角栄がいかに悪者か、いかに汚い人物かということばかり取材をしているけれども、まったく無視しているか、気がついていない問題があることがわかった。それは、エネルギー問題だった。田中角栄は、エネルギー問題に非常に熱心に取り組んでいたのだった。1972年、ローマ・クラブの『成長の限界』という本が発行された。それまでの日本の社会的な問題といえば、公害だった。海水汚染や大気汚染、環境破壊は高度成長のマイナスの面、成長し続けるからこそ公害が発生し、それをどう抑え、回復しながらさらに成長していくかが問題だった。ところが、この『成長の限界』で、もうそんな時代ではないと警告が発せられた。これから食糧がなくなる、資源がなくなるぞと。人口が増え続ける一方で、食べるものがなくなる、石油が枯渇すると。これが成長の限界だった。

 日本は石油がほとんど採れない国で、今でも中東に80パーセント以上依存している。特に70年代はアメリカのオイル・メジャーと呼ばれる巨大石油会社が、エネルギー供給をほぼ独占していた。つまり、日本は生殺与奪の権をアメリカに握られていたのだった。そこで、田中角栄はエネルギーを自前で確保しよう、エネルギーを国民へ安定供給しようという、エネルギーの安全保障を考えた。そのために田中は、日本興業銀行の中山素平、アラスカ石油開発の松根宗一、日本精工の今里広記という資源派財界人と組んで、いわば和製オイル・メジャーをつくろうとした。ところが、日本が生きるためのエネルギー外交を始めた田中角栄に立ちふさがるものがあった。誰かというと、アメリカだった。たとえば、インドネシアでサウジアラビアと石油取引を交渉するために現地に飛んだ田中角栄は、到着後、ホテルから一歩も外へ出られなくなった。自動車をはじめとする日本製品がインドネシアに大量に輸出されている、これは日本の新たな侵略である。太平洋戦争の繰り返し、日本帝国主義の武力を使わない侵略だと、反日暴動が起こったためだ。実は、裏からこの反日暴動の糸を操っていたのがアメリカだったのだ。

 私は、ロッキード事件の背後には、こうしたエネルギー問題があるのではないかと思い、それを調べて書いたのが「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というレポートだった(「中央公論」76年7月号)。田中は日本のアメリカからの自立をしようとしたために、アメリカの逆鱗に触れた。田中角栄はアメリカの犠牲になったのだと。当時、いわば田中角栄を評価するような記事は、私のこの一本だけだった。あとはすべて角栄批判ばかりだった。さらに、ロッキード事件はアメリカが仕掛けてきたというだけではなく、日本の検察にも不可解な点がある。何がおかしいのか、どうおかしいのか、それを書いたのが『大宰相 田中角栄』の第1部だが、当時はまだわからないことだらけだった。そこで、私はやはり田中角栄に会わなければならないと思った。80年の12月初旬のことだった。私は、田中の秘書の早坂茂三に電話をかけた。「文藝春秋」の立花論文が失脚の発端になったのだから、その「文藝春秋」で私のインタビューに応じてくれないかと。そうすると、早坂は、「なに? 文春か」と一瞬、絶句した。しかし、電話の向こうで早坂がにやりと笑っている姿が、私には容易に想像できていた。というのは、「虎の尾を踏んだ」のときにも取材を依頼していた。そのときは、お願いにあがって開けてもらったドアを、鼻先で激しく閉じられたような、取りつくしまもないような断られ方をした。ところが記事を発表したあと、早坂から詫びの電話がかかってきた。「オヤジ(田中角栄)がえらく褒めていた」と。「田原さんに失礼をはたらいたらしいな、きちんと謝ってこいと言ったんだ」、早坂は例の威圧するような声ではなく、私に親しげに話しかけるようにそう言った。それから早坂と私はときどき会って話をするようになり、早坂茂三という剛腕でしたたかな秘書、田中角栄の懐刀を知るようになった。
 田原総一朗

 1934年滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業。岩波映画製作所、東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て1977年フリーに。現在は政治・経済・メディア・コンピューター等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。著書に『日本の戦争』(小学館)、『日本人と天皇』(中央公論新社)、『塀の上を走れ』(講談社)ほか多数。最新刊『大宰相 田中角栄──ロッキード事件は無罪だった』(講談社プラスアルファ文庫)発売中。





(私論.私見)