〔田中派の友人たちとわたし〕
今の日本で、このわたしほどマスコミの標的となっている者は、ほかにいない。それで、マスコミの連中に「きみら、なんでぼくを目の敵にするんだ」って聞いたら、「あなたを本質的に目の敵にしている層がある」「田中を倒さずんば日本の保守党は倒せない、と思っているグループがある。それに狙われているんだからしようがない」なんていったのがいる。これはいったい、どういう意味なんだ。
なるほど、わたしは総理大臣もつとめた。しかし、一方で自民党の名誉を傷つけたことは事実だし、国民にも迷惑をかけている。そういう意味ではね、わたしだって、これぐらいマスコミにアジられたり、攻撃の目標にされても止むを得ないと思ってはいるさ。しかし“闇将軍”なんていう悪辣なことは、わたしはいささかもやっていない。
わたしだって切れば血の出る日本人だからね、八年も九年もぶっ通しでいじめられていれば、普通なら参ってしまうところだ。「これだけカンナで削られ、ヤスリにかけられていて、あなたはなんで参らんのですか」と、よその人から真顔でよく聞かれることがある。わたしが参らずに元気でやっているのは、「マスコミに指弾されるようなことは何もない」という自信を心底深く持っているからだ。もし、わたしに多少ともやましいところがあって、内心忸怩たるものがあれば血糖値が三百か四百にバネ上がって、とっくの昔に一巻の終わりになってるはずだよ。
わたしの心の奥底に救いがなければ、これだけ朝から晩までぶったたかれておって、生きてはいられないよ。だから、自然体で元気にやっていられるんだ。目も口もあけていられないほど攻めてくる連中がいる一方で、わたしを理解し信頼し、応援してくれる人たちもまた、たくさんいる。この世の中、案外、捨てたものではないと感じるのは、わたしを内側から支えてくれるものがあるからなんだ。田中派の友人たちというのは、わたしにとって、そのような人たちだ。お互い非常に強い友情で結ばれ、みんながわたしを信用してくれている。今度の事件に対してだって、わたしへの絶対の信頼を変えずにいてくれるんだ。こんなにうれしいことがあるかい。田中派が大勢でまとまって、行動している大前提には、友情と信頼というものがある。マスコミはそのへんを見落としているんだ。打ち首場へいく人の妻や子ならば、一蓮托生ということで、行を共にするのもしようがないこともある。しかし、選挙の洗礼を経て、有権者から国政の付託を受けている者が何の自信もなく、わたしとグループを組んではいかない。
金でつなぎ止めたという見方もあるのだろうが、わたしにそんな金なんかあるわけがない。これほどライトが当たっていて、金など集まるわけがないじゃないか。財界で田中に金を出したっていう話があれば聞きたいくらいだ。それなのに、わたしを“錬金術師”とか“私設日銀総裁”みたいにいうのはおかしな話だよ。そこへちょうど五億円という問題をぶっつけて、「これだ、これだ」と騒いでいるわけなんだ。わたしがそんなことをいってもしょうがないけど、金というものはあってもないようにいうもんだし、なくてもあるようにいうのが世間なんでね。それをいかにも金があるようにいってくれるんだから、わたしも信用がついていいけれども、正直なところ、ほどほどにしてもらいたいと思っている。
人間だれしも、若いときはみんな偉くなりたいと思うものだ。しかし、そう簡単になれるもんじゃない。ひとかどの作家になるためには、ある意味で錯乱、狂気の人でなければなら ない。地獄の底までのぞいて、人の世の裏、表、人間のすばらしさとおぞましさを見、体験し、知っていなければ、多くの人を感動させ、後世に残るようなものを書くことはできないよ。
経験も、知識も、素養もなくて、しゃべってばかりいるのは、バカ騒ぎを繰り広げているだけのことだ。しまいには誰も相手にしなくなる。わたしには何が何でも代議士の地位に固執しようという気持ちはない。お天気ならゴルフ日和だ。さあ、いこう、二、三ラウンドやろう。雨なら本を読もう、映画を観にいこう。ちょっと曇りだから、インドアでゴルフの練習をやろう。そんな具合でね、今は自由聞達に生きている。わたしも齢六十を過ぎて、あくせくする気持ちはなくなった。毀誉褒貶もぜんぜん気にならなくなった。これでも小さな寺の住職ぐらいにはなれると思ってるんだ。今はね。
わたしは宗教書を読む。このあいだも三日ぐらいかけて、出雲大社の大黒様を読んだよ。日蓮でも親鸞でも空海でも最澄でも、何でも読む。その一方では、馬に関する本は世界的な種馬の本まで読んでいるんだ。馬が大好きだからね。昔は『広辞苑』を初めから終わりまで繰り返し、繰り返し読んで、とても楽しかったものだ。わたしは大学を出てないけども、旧制中学の四年修了程度までのことは全部、覚えているよ。漢詩も好きだ。「江蘇城外寒山寺」は深夜の景色か、明け方の景色か、それぐらいの判断はつく。
大学生を対象にしたアンケート調査でね、わたしは「尊敬する人物」のトップだそうだ。しかし「好きな人」のトップではなかったらしい。だからマスコミにいじめられるのかもしれない。東京・駒場の東京大学教養学部、あそこでやっぱりアンケート調査をやったら、二十対六ぐらいでわたしのことを認めているんだ。だからといって、わたしは東大の学生を買収したことはないぞ。連中の顔も知らない。これが女の子であれば、絶対に六〇パーセント以上の支持があるとうぬぼれているんだがね。
わたしはどこへでも出かけて、歩き回りたいんだけれども、世間がうるさくて、目こぼしをしてくれない。このあいだも郷里の新潟県から上京して、新橋で小料埋屋をやっている人がきた。「いっぺんきてくださいよ」「うん、うん、いくよ」「いく、いくといって、十年もきたためしがないじゃないのしというやりとりをして、お互いに笑ったんだけども……。
以前、桜内義雄君と原田憲君とわたしの三人で、桜内君のいきつけのバーで飲んだことがある。とても楽しかった。三人で飲んで騒いでおったら、みんなが握手してくれと寄ってくる。帳面を出して「サインしてください」「伝票の裏に何か書いてください」といってくる。宝塚出身の女の子がやってるバーだけど、客のなかには総理官邸記者クラブの新聞記者も三人か四人いた。それで翌日、「田中が桜内、原田と一緒にへべれけになって六本木を飲み歩いていた」と、埋め草記事に使われてしまった。親友と酒を飲んで、盛り場を歩くくらい邪魔するな、といいたいが、そうはさせてくれない。こんなバカな暮らしを死ぬまで続けたくはないと、つくづく思うよ。せめて二、三年でもいいから、どこかでのんびりさせてほしいと願ってるんだがね。
わが国の政治に対して、わたしは責任の一端を負わなければならない立場にある。自民党を支えて日本政治の安定を図らなければならない。わたしはいま党を離れてはいるけれども、自民党所属のすべての国会議員と同じ決意を持ち、責任を感じている。これまでは大平内閣、鈴木内閣の別なく、全力をあげて支えてきた。これからも中曽根内閣を支えていく。この決意に変わりはない。わたしは自民党内閣であれば誰が総理大臣になっても全力をあげて応援していくよ。自民党が一致結束して政府をバックアップする。政局を安定させる。そして、国民の生命、財産を守り、生活を向上させなければならない。これはわたしがどんな立場や境遇にあっても、自ら果たすべき責任なんだ。P-274
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