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読者により翻訳いただきました。
「ユダヤ年鑑1980年度版3P」は次のように記している。
“そのことに関して厳密に言うならば、古代イスラエル人をユダヤ人と呼ぶこと、もしくは現代のユダヤ人をイスラエル人または、ヘブル人と呼ぶのは、正しくない” |
Encyclopedia Americana
(1985):
“カザール人・・・7世紀から11世紀半ばにかけて、コーカサス山脈の北方のステップ地帯に、巨大かつ強大な国家を統治したいわゆる古代トルコ語を話す人々なのだが・・・8世紀に、その政治的、宗教的指導者は、カザールの貴族社会の大多数を率いて、異教を捨て、ユダヤ教に改宗した・・・(カザール人は、ロシアや東欧のほとんどのユダヤ人の先祖であると信じられている)”
Encyclopedia
Britannica(15th edition):
“カザール人・・・6世紀後半、現代のヨーロッパ=ロシアの南東部一帯に、巨大な商業帝国を築き上げたトルコとイラン系部族の連合で、8世紀半ば、その支配階級は、彼らの宗教としてユダヤ教を受け入れた。”
Academic American Encyclopedia
(1985)
“アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、ユダヤ人を大きく分けると二つになるのだが、そのうちの一つ。もう片方をスファラディーという。”
Encyclopedia Americana
(1985)
“アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、先祖がドイツに住んでいたユダヤ人である。政治的シオニズムの考えを取り入れ、結局のところ、現在のイスラエルに国を樹立したアシュケナジー=ユダヤと呼ばれる人たちである。1960年代の終わりごろ、アシュケナジー=ユダヤは1,100万人に達し、世界のユダヤ人口の約84パーセントを占める。”
The Jewish
Encyclopedia:
“カザール、セム系ではない、アジア系でもない、約1世紀に東欧に移住したモンゴル系部族国家で、拡大しつつあったロシアが、カザールの人口を吸収しようかというとき、7世紀に国家をあげてユダヤ教に改宗し、よってそのことが、現在ロシア、ポーランド、リトアニア、ガラティア、ベッサラビア、ルーマニアなど東欧において、イディッシュを話すユダヤ人が多く存在する理由である。”
The Encyclopedia Judaica
(1972)
“カザール・・・7世紀から10世紀にかけて、東欧において独立し、主権を有したトルコ系に属する国家的集団で、この間、おもだったカザール人は、ユダヤ教に改宗した。考古学的には取るに足りないものにもかかわらず、東欧におけるユダヤ人集団の存在と、ユダヤ的思考のインパクトは、中世において無視する事はできない。東から中央ヨーロッパに移住したと言われている集団は、しばしばカザールとして捉えられ、よって彼らが元カザール帝国出身である可能性を無視する事はできない。”
The Universal Jewish
Encyclopedia:
ヘブル人の中でアシュケナジーの最も重要なポイントは、ドイツとドイツ人である。この事は、ドイツ人のもともとの先祖の出身は古代メディア王国にあるという事実であって、メディアは聖書のアシュケナジーであり、クラウスは中世初期において、カザールは時々アシュケナジーとして語られており、すべてのユダヤ人の約92パーセントもしくは、おおよそ1千450万人はアシュケナジーであるという学説がある。
New Grolier
Encyclopedia
トルコ系民族であるカザール人は、7世紀から10世紀にかけてロシア南部の相当部分を支配し、一大商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王はユダヤ教に改宗した。カザールは、ボルガ川デルタ地帯のItilに首都を置き、その後4世紀ほど、このユダヤ帝国はキリスト教国である東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とイスラム帝国との間において、勢力のバランスを保ったのである。ドン川下流域のSarkilの防備したカザールの都市は、ビザンチン帝国の援助のもと造られており、中央アジアへの交差点として役割を果たした。カザール帝国はオリエントへ通じる多くの貿易行路を支配した_例えば、何人かのRadhanites(Gaulからのユダヤ商人)は中国やインドへの道中カザール帝国を通過するのに慣れていたのだ。10世紀後半から11世紀はじめにかけて、ビザンチン帝国と帝政ロシアの連合はクリミア半島におけるカザールの勢力を駆逐した。965年キエフ候SVYATOSLAV一世は、カザールの軍隊に対し、圧倒的勝利を得た。更なる東には、トルコ系の侵略者ともいうべき新規の勢力がカザールの存続を脅かすかのように、台頭していたのだ。
聖書:
カザール(アシュケナジー)ユダヤはヤペテの子孫でありセムではないとしている。
“ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次の通りである。洪水の後、彼らに子が生まれた。ヤペテの子孫はゴメル・・・ゴメルの子孫はアシュケナズ・・・”創世記10:1_3
それゆえ、聖書はアシュケナジー=ユダヤ(カザール)はセムの子孫ではないし、セム族でありえないという事を証明している。
Kimyarite King Adopts Judaism and
Converts His Army and People
“Kimyarite
(Himyarite) see Sabeans (Jewish Encyclopedia,p.403) :
Sabeans;聖書、古典作家、土着の碑文によると、アラビア南東部に位置した古代シェバ王国の住人。創世記の系統学者は、Sabeanの起源となった先祖であるシェバに対し、3つの系図を示している。彼らはさまざまな呼称を持つ。
1)クシ、ラアマの子孫(創世記10:7、歴代誌上1:9、エゼキエル書27:22;38:13)
2)セム、ヨクタンの子孫(創世記10:28、歴代誌上1:22)
3)ケトラに生ませたアブラハム、その子ヨクシャンの子孫(創世記25:3、歴代誌上1:32)、それゆえSabeanには、3つの血統があるように思える。・・・一つはアフリカ(comp. the Ethiopian city of Saga mentioned by
Starabo,’Geography,p.77)そして残りの二つはアラビアである。
The Outline of History:
H.G.Wells
“ユダヤ人の先祖の大部分はパレスチナに住んでいなかったという歴史的主張は、事実として、かなりの確率で可能性が高い。”
次に挙げるのは、ロシアに住んでいたある民族が、ユダヤ教に改宗し、東欧に住むユダヤ人の95%以上の起源となりうるというストーリーである。
Facts Are Facts, By Benjamin
Freedman
東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関して、完全で正しい知識なしに、(クリスチャンが)10世紀にも及んで、ユダヤ人が振り撒いてきた有害なる影響を、理知的に理解するのは全くもって不可能であるといわざるを得ない。私の東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関する多くの歳月をかけた調査研究によって、暴かれた事実を初めて発表し、国家規模の衝撃を与えたとき、多くのクリスチャンがそうであったように、おそらくあなた方も驚くであろう。私の何年にも及ぶ調査研究は、あらゆる疑い、クリスチャンが一般的に受け入れている信仰に反する質問に対し答えている。歴史上、東欧においては、いつの時代も、東欧在住のユダヤ人は、聖書の伝説的“失われた10部族”では決してありえない。その歴史的事実は明白である。
間断なき調査によって、東欧のユダヤ人は歴史上一度たりとも、聖書の伝説的“失われた10部族”の直系の子孫として正しく認識される事はないという真実を証明した。現代史における東欧のユダヤ人が、血統的に見て、聖書時代に、パレスチナの地に足を踏み入れた唯一なる古の先祖に正統性を持って行き着くとは考えにくい。
その調査によると、東欧のユダヤ人はセム族ではなくて、今でもセム族ではなく、これからもどんなに想像を広げたところで、未来永劫セム族とみなされる事はないであろうと暴露されている。徹底的な調査により、クリスチャンが一般的に受け入れている“東欧のユダヤ人は、伝説の“選びの民”であると説教壇からクリスチャンの牧師に声高に宣伝された信仰は、最終的に幻想的な作り話として排斥されるのだ。
The American People’s
Encyclopedia for1954 at 15 /292 records the following in reference to
the Khazars:
紀元740年、カザール人は、公式にユダヤ教に改宗した。一世紀経って、カザールは、スラブ系の言語を話す人々の侵入により崩壊し、ヨーロッパ中部に移動し、ユダヤ人(Jew)として知られるようになったのだ。
上記の事から、我々には明らかにユダヤ人は、Jewish Encyclopedia for 1925 recordsの第三版としてのカザールの遺産を十分理解していることがわかる。
:“カザール[Khazars]とは_その生活と歴史がロシアにおけるユダヤ人のまさにその歴史の始まりから織り込み済みのトルコ系に起源をもつ人々。カザール王国は、Varangians(855)によるロシア君主国の土台ができるはるか以前より、南部ロシア一帯に、堅固に立てられていた。ユダヤ人は紀元1世紀初頭より黒海、カスピ海沿岸に住み着いていた。歴史はカザールのふるさととしてウラル地方を証拠として示している。中世における古典的著者の中には、彼らは”Chozars”,”Khazirs”,”Akatzirs”,”Akatirs”として知られ、ロシア年代記の中には、”Khwalisses”や”Ugry Byelyye”として知られ・・・・”
The Encyclopedia
Judaica:,Vol.10,(1971)によると、カザールについては、次のごとく説明している。
;“カザール_一般的にはトルコ系の民族集団で、7世紀から10世紀にかけて東欧において、独立し、主権を有していた。この期間に、カザールの指導層はユダヤ教に改宗した。(Encyclopedia Judicia,Vol 10(1971))
The Universal Jewish
Encyclopedia
“カザール、多分Volga Bulgarsに関係している中世の人々で、その支配層は、8世紀にユダヤ教を受け入れた。カザール人は6世紀に、東欧のステップ地域とボルガ川流域から中国国境へと拡大していった、巨大な遊牧民であるフン族の帝国から現れたようだ。カザール人の起源は、紀元200年ごろではないかとの主張も、しばしば見受けられるが、実際には、彼らに関して627年にならないと記録がない。多くのユダヤ人の歴史家は、カザールの王がユダヤ教に改宗した日時を、7世紀前半としている。
Academic American
Encyclopedia; Deluxe Library Edition, Volume 12.page 66
states
トルコ系の人種であるカザール人は、7世紀から10世紀の大部分において、ロシア南部を広範囲にわたり支配し、商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王は、ユダヤ教に改宗したのだ。
The New Encyclopedia
Britannica, Volume6, page 836 relates:
“カザール・・・6世紀後半に、現代のヨーロッパ=ロシア南東地域を席巻し巨大な商業帝国を築き上げたトルコ系の言語を話す部族の連合体である・・・しかしもっとも際立ったカザールの特徴は、740年ごろ、その王と支配階級の上層部がユダヤ教を明白な形で取り入れたことである。しかしながら、事実そのものは、ユーラシア中部の歴史において、疑うすべもなく、並ぶものもない。何人かの学者はユダヤ化されたカザール人が、東欧やロシアの多くのユダヤ人の、遠い先祖であると主張する。”
Collier’s
Encyclopedia: Volume 14, page 65 states:
“カザール・・・トルコもしくはタタールに起源をもつ半遊牧民で、3世紀の前半にコーカサス地方北部にまず現れた・・・8世紀にブラン王は、ユダヤ人の支持を得るため、自分自身ユダヤ教を受け入れ、彼の民にも・・・”
New Catholic Encyclopedia
, Volume _ , page173 relates :
“カザール人はトルコ系に属する民族集団であり、紀元2世紀の終わりごろ、コーカサス地方とボルガ川やドン川下流域にかけて定住していた・・・8世紀の始め、王朝同士のつながりを求め、カザール帝国はコンスタンチノープルに更に近づき、そのことによって、ある程度キリスト教が広まった。彼らはまた、クリミア半島、ボスフォラス海峡近辺に住んでいた、多くのユダヤ人からユダヤ教を知らされるようにもなった。ビザンチン帝国の皇帝、レオ3世が723年に、ユダヤ人を迫害したとき、多くのユダヤ人はカザール王国に避難し、その影響力は甚大であったため、8世紀の中ごろ、カザールの王と多くのカザール貴族はユダヤ教信仰を受け入れた。”
The Cadillac Modern
Encyclopedia, 822page
“カザール、トルコ系に起源をもつ南部ロシアの人々は、その最盛期(8世紀_10世紀)にクリミア地方や、ボルガ川下流域、遠くはカスピ海に広がる帝国を築いた。カザールの王族や貴族階級は、ブラン王の治世(768_809年)の時、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ教はその後、国教となった。”
同じくユダヤ人の作家、アルフレッド=リリエンタルは、ユダヤ人の歴史に関して次のように述べている。
“イスラエル国家の存在は、理にかなったものではない。そこに通常の正当性なるものは見出せない。国家の樹立、その領土どちらをとっても、明白なる正義は無いのである。まあ必要性とか驚くべき実現はあるかもしれないが・・・”
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